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強敵西郷隆盛が登場(八重の桜 第13回「鉄砲と花嫁」)
 先週の「八重の桜」では、西郷隆盛が蛤御門に薩摩兵を率いて現れました。
 そして、今週は、征長軍の参謀として、勝海舟と面談する場面があるようです。
 そこで、今日は、この時期の西郷隆盛について書いてみます。

 西郷隆盛は、明治維新の立役者であり、国民的人気が高いこともあるので、倒幕から明治維新にかけて一貫して活躍してきた印象があります。
 しかし、西郷隆盛は、島流しされていたり、薩摩で暮らしたりしていて政治の中枢で一貫して活躍していたわけではないのです。
c0187004_8131179.jpg 
 西郷隆盛が生まれたのは、文政10年(1827)です。
 そして、弘化元年(1844)18歳で、郡方書役助となり、その後、書役となり27歳まで勤務します。
 島津斉彬に見いだされた西郷隆盛は、安政元年(1854)に、斉彬に従って江戸に上ります。28歳の時です。
 そして、一橋慶喜を将軍に擁立するために奔走する斉彬を助けて活躍します。
 しかし、安政5年(1858)、斉彬が亡くなります、一度は殉死を考えますが、僧月照に説得され思いとどまりました。
 しかし、安政の大獄が始まり、月照が追及されたため薩摩まで一緒に戻りますが、薩摩藩は月照を殺そうとしたため、西郷隆盛は、僧月照とともに薩摩の海に身を投じます。
 月照は死亡しましたが、隆盛は助かり奄美大島に流刑となります。32歳の時です。従って、約5年間、斉彬のもとで活躍したことになります。
 その後、文久2年(1862)2月、36歳の時に赦され,帰藩しました。約4年間、島流しになっていました。
 そして、久光の上京に合わせて下関までの先発を命じられます。
 しかし、西郷隆盛は、その命令に反して、京都まで進み、浪士と交わったため、久光の怒りをかい、4月帰国を命じられ、6月、徳之島に流され、8月改めて沖永良部島に遠島を命じられます。

 そして元治元年(1864)正月、大久保利通の計らいにより赦免され、2月に帰藩します。約2年間島流しになっていました。 
 8月18日の政変が起きたのは、文久3年(1863)のことですので、この時には、西郷隆盛は沖永良部島に流されていたのです。
 
 元治元年2月22日、吉井幸輔、弟の西郷従道らが沖永良部島に迎えにいきました。
 2月28日に鹿児島に帰着しました。3月4日京都に向かい。京都には14日到着し18日に軍賦役兼諸藩応接係を命じられます。軍賦役は、京都における薩摩藩の軍事面での最高責任者であり、今でいえば軍司令官です。
 4月には、さらに小納戸頭取に任命され、薩摩藩を代表する人物となります。37歳の時です。
 これから、西郷隆盛が政治の表舞台で活躍するのです。
 そして、蛤御門の変を迎えます。
 薩摩藩は、乾御門を守備していましたが、蛤御門を守備していた会津藩が苦境に陥った際に、薩摩藩兵を率いて、長州藩を撃退しました。
 西郷は、この戦いで、足に鉄砲傷を負いましたが、久光から刀と陣羽織と感状をもらいました。
 朝廷は、長州征伐を決定し、尾張藩の徳川慶勝が征長総督となりました。そして、西郷隆盛は総参謀となりました。
 当初、西郷隆盛は、長州藩を叩き潰す考えでした。
 しかし、その考えが一変して寛大論に変わります。
 そのきっかけとなったのが、9月に神戸海軍操練所頭取となっていた勝海舟と大阪で会見したことでした。
 幕臣であった勝海舟が「今は国内で争う時ではない。幕府はもはや天下を統一する力がないから、むしろ雄藩の尽力で国政を動かし、国内の統一をはかるのがよい」と言ったのでした。
 西郷隆盛は、この時の勝海舟の評価を次のように書いています。
 実に驚き入り候人物にて、最初は打叩く賦(つもり)にて差越し候処、頓と頭を下げ申候。どれ丈けか知略の有やら知れぬ塩梅(あんばい)に見受け申し候、先ず英雄肌合の人にて、佐久間より事の出来候儀は一層も越え候はん。

 勝海舟の意見を聞いて、西郷隆盛は、長州征伐を厳格に行うことによって衰退した幕府を助けることになってはならない考え、総督の徳川慶勝から長州藩処分について一任を取り付けました。
 そして、西郷隆盛自ら広島に向かい長州藩に、禁門の変の指揮を執った福原越後、国司信濃、益田喜右衛門の三家老を処分し、五卿を筑前に移すことなどを要求します。
 長州藩政府は、要求を飲みますが、高杉晋作たちが、五卿の筑前藩に移すことに抵抗しました。
 そこで、西郷隆盛は直談判を行い事態を収拾しました。
 こうして、長州藩と一戦も交えず、長州征伐を収束させるのでした。

 この後、西郷隆盛は、会津藩の強敵となってきます。
 今日の「八重の桜」では、勝海舟と西郷隆盛の会見の場面が設定されているようです。
 どんな会話がかわされるのでしょうか楽しみです。 
 ただし、私は、日曜日は、江戸検一級2期会の定例会がありますので、後で録画を見ることになりそうです。
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by wheatbaku | 2013-03-31 08:15 | 大河ドラマ | Trackback
高家職(江戸検お題「本当の忠臣蔵」9)
 吉良氏は、吉良義弥の代に高家に任命され、以後義冬、義央と高家職でした。
 そこで、高家とはどういう家柄、職種であるのか改めて書いてみたいと思います。
 
 高家というと「吉良上野介」が思い出され、江戸幕府の役職と思いがちですが、高家は江戸時代特有の役職ではありません。
 高家という語は、既に9世紀の太政官符に見られ、中世を通じて使用されていたようです。
 高家というのは「名門」という意味だそうです。
 室町時代には、足利氏を公方と言い、記録ではその一族を「公家」「高家」と書いていましたが「公家」は「公卿」と間違いやすいので「高家」と書くようになったと言います。
 確かに「高家」に任命された家は、足利氏支流の吉良家、今川家、畠山家、新田氏支流の由良家、織田信長ゆかりの織田家など、かつて権勢をほこった家が多くなっています。

【高家の始まり】 
 江戸幕府の高家の起源は、徳川家康が由緒と功績のある家柄の子孫を尊重し、彼らを職につけたことに始まると言われています。
c0187004_8374660.jpg その始まりがいつかということについては諸説あるようです。
 「柳営補任」では、天正16年の大沢基宿の任命、「吏徴別録」では始まりは慶長13年だと言っているようです。
 その中で、慶長8年の徳川家康が征夷大将軍に就任した際、大沢基宿(もといえ)が任命されたのが最初という説が有力説なように思います。
 以後、大沢基宿は、儀式典礼を司り、寛永14年には、吉良義弥が高家となり、大沢と吉良家が世襲しました。
 「高家」の職名が正式に定まったのは、寛永年間とされています。

【高家の職務】 
 江戸幕府の高家は、老中支配下に属して、朝廷関係や幕府内部の儀式典礼を担当しました。
 朝廷関係の主な仕事は、勅使や院使などの接待、そして、朝廷への使者などでした。
 幕府内部では、伊勢神宮や日光東照宮への代参、年頭諸社への代参を行っていました。
 また、種々の幕府儀式にも関わり、年賀賜杯の時には、御三家や国持大名以下四位以上の大名に給仕をつとめています。
 寛文年間以降は、一人ずつ交代で城中に出仕し、幕府の典礼儀式を司る奏者番とともに老中の登城退出を送迎しました。

 役高は1500石、役料は千俵でした。
 官位は、万石以下でありながら大名に準じて高く、従五位または従四位の侍従となりました。

【高家の種類】  
 高家には、高家(奥高家)と表高家がありました。
c0187004_8381764.jpg  官位があるものが高家と呼ばれ、表高家は官位はありませんでした。しかし、表高家は、従五位に準じて、白無垢を着て輿に乗ることを許されました。
 高家に任ぜられる家は次第に増え、延宝年間には高家6人、表高家10人、寛政年間には高家15人、表高家16人、安政年間には高家17人、表高家12人だったようです。
 高家は、すべて名門の子孫でした。
 高家肝煎は、高家の取りまとめ役です。「柳営補任」では、元禄期の吉良上野介義央をはじめとしています。
 高家肝煎りの役高は二千石で、禄高3千石以下の者は役料として800石を受けました。
 官位は、最初従四位下侍従以上に任ぜられ、正四位上少将まで昇進しました。

 右上段写真は、愛知県西尾市の華蔵寺にある吉良義弥のお墓で、右下段は吉良義冬のお墓です。
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by wheatbaku | 2013-03-29 08:42 | 忠臣蔵 | Trackback
吉良氏4代の系譜(江戸検お題「本当の忠臣蔵」8)
 今日は、江戸検今年のお題「本当の忠臣蔵」関連の記事を書きます。
 吉良氏の歴史の2回目ですが、元々足利氏の支流であった吉良氏が徳川家と深い関係をもつようになるのは、吉良上野介義央の4代前の吉良義安からです。
 そこで、今日は、吉良義安(上野介の高祖父)、義定(曽祖父)、義弥(よしみつ 祖父)、義冬(父)の4代の歴史について書きます。

【吉良義安】
 徳川家(松平家)と吉良家との関係は、家康の祖父松平清康の時代に始まりました。
c0187004_10152699.jpg 清康の妹が、東条吉良家の吉良持広の妻となりました。この二人の間に子ができなかったため、再び清康の娘を養女にもらいました。これで、松平家と吉良家は重縁の関係となりました。
 そして、養女の婿としたのが、吉良義安でした。
 吉良義安は、西条吉良家の吉良義堯(よしたか)の次男でした。
 その後、義安の兄で西条吉良家を継いでいた義郷がなくなったため、義安が西条吉良家も継ぐこととなりました。長いこと西条吉良と東条吉良に分かれていた吉良家がここに統一されました。
 その後、今川義元から織田方への内応の疑いがかけられた吉良義安は、駿府で人質として暮らすこことなりました。
 当時、家康も今川氏の人質として駿府で暮らしていたため、親しくなったといわれています。
 義安の後、東条城には、義安の弟の義昭が入りました。
 永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで今川義元が戦死したため、家康は三河に戻りましたが、吉良義昭は今川方であったため、義昭を攻めました。
 降伏した義昭は、一時期蟄居した後、永禄6年に起きた三河一向一揆の大将に担ぎ出され、家康に背きましたが敗北し、近江に逃れました。
 なお、吉良義安は、駿河でなくなったようです。
 右写真は、愛知県西尾市(旧吉良町)にある吉良家の菩提寺華蔵寺の御影堂にある義安の木像です。
 昨年、華蔵寺にお邪魔した際に特にお許しをえて撮影させていただきました。

【吉良義定】
 義定は、義安の子供として、永禄7年(1564)に生まれました。
c0187004_10153426.jpg 母は松平清康の娘です。 つまり、家康の叔母にあたります。ですから、義定は家康の従兄弟になります。
 天正7年(1579)に家康が鷹狩で吉良にきて、叔母俊継尼とその子吉良義定に面会しました。
 そして、叔母俊継尼の依頼を受けて、家康は義定の仕官を承諾し、義定に吉良の名跡を継がせ、家康に仕えることになりました。
 義定は、妻として今川氏真の娘を貰いましたが、婚礼の時期ははっきりしていません。
 義定は、関ヶ原の戦いに嫡男の吉良義弥とともに従軍し、戦いの後、三河国吉良に3000石の加増を受け、3200石の所領を与えられました。
 これにより、義定が吉良家中興の祖となりました。
 義定は、これを機に、父義安の供養のため、吉良に華蔵寺を建立しています。
 そして、寛永4年(1627)死去しました。享年64歳でした。
 右写真は、華蔵寺の御影堂にある義定の木像です。
 
【吉良義弥(きら よしみつ)】
 吉良義弥は、天正18年に吉良の岡山の陣屋で生まれました。
c0187004_101645.jpg 慶長2年(1597)、徳川秀忠に御目見しました。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの際には、父義定とともに従軍しました。
 この時、秀忠が少年時に身に着けた具足を下賜され、これを着用して供奉したと言われています。
 戦いの後に三河国吉良など3200石を与えられました。

 慶長13年(1608)に従五位下侍従・左兵衛督に叙任、元和9年(1623)に従四位下左少将に昇進しました。
 この年に、義弥は大沢基宿とともに「高家」に就任したといいます。
 寛永20年(1643)京都においてなくなりました。享年58歳でした。
 右写真は、中野区上高田にある吉良家の菩提寺万昌院功雲寺の義定・義弥・義冬・義央4代のお墓です。

【吉良義冬】
 吉良義冬は、慶長12年(1607)に江戸呉服橋邸で生まれました。
c0187004_1016153.jpg 元和3年(1617)、11歳で将軍徳川秀忠に拝謁しました。
 寛永3年(1626)従五位下侍従に叙任し、若狭守となりました。歴代の中で、若狭守を名のったのは義冬だけです。
 寛永20年(1634)37歳で家督を継ぎました。
 正保2年(1645)、徳川家綱元服の謝使として京都へ赴むきました。その際に従四位下に昇進しました。
 明暦2年(1656)の後西天皇の即位に際して、その賀使として松平右京太夫頼重が任命され、義冬が副使として随行しました。
 寛文8年(1668)になくなりました。享年62歳でした
 右写真は、愛知県西尾市(旧吉良町)にある吉良家の菩提寺華蔵寺の義安・義定・義弥・義冬・義央・義周の6代のお墓です。
 
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by wheatbaku | 2013-03-28 10:21 | 忠臣蔵 | Trackback
勝安芳邸跡【旧氷川小学校】(赤坂六本木散歩)
 今日も「六本木散歩」の続きです。今日は六本木といっても赤坂地区でのご案内です。
 南部坂を登りきって北に向かうと旧氷川小学校が見えてきます。
 氷川小学校は、平成5年に廃校となり、現在は特別養護老人ホーム「サン・サン赤坂」となっています。

 この旧氷川小学校の敷地は、中央義士会によると、浅野家の下屋敷とされていました。
c0187004_8172793.jpg  そこで、 元禄6年の地図をみましたら、「アサノ内匠」と書かれていますので、確かに浅野内匠頭長矩の屋敷だったようです。
 ここに江戸時代初めは、南部家の屋敷があり、明暦2年の相対替えにより、浅野家の屋敷となったという経緯があるようです。
 ここに江戸時代の初めは南部家の屋敷があったため、昨日ご案内した「南部坂」の名前の由来となっています。
 そして、元禄時代には、赤穂藩浅野家は長矩の代になっているわけです。

 この屋敷の主人が何代変わったかわかりませんが、明治になってからは、ここが勝海舟の屋敷となりました。
 旧氷川小学校の敷地の南東には、「勝安芳邸跡」の石碑および説明板が建っています。
 それが 右の写真です。

 明治元年に、静岡に移住していた勝海舟は、明治5年に東京に戻ってきました。
 その当時、ここには大身旗本の柴田七九郎の御屋敷がありました。
 そのお屋敷は約2500坪ありましたが、それを5百両で勝海舟が購入しました。
 そして、明治32年になくなるまで、ここに住んでいました。

 勝海舟は赤坂の地が気に入っていたらしく、24才の新婚の時から76歳で死ぬまで、基本的に赤坂に住んでいました。
c0187004_8182353.jpg   海舟は、若い頃蘭学を習うために、当時、福岡藩中屋敷に住んでいた永井青崖の所に通っていました。
 そのため、勝海舟は、赤坂について土地勘があったのだと思います。
 そのため、23才で結婚した翌年に、赤坂に引越しました。
 最初は、赤坂田町中通(現在のみすじ通りあたり)に住んでいました。
 その後、安政6年(1859)36歳のから明治元年(1868)の45歳まで約10年間は、赤坂氷川神社の下に住んでいました。
そして、徳川慶喜とともに静岡に移住した後、明治5年に再び東京に戻った際に、ここに住みました。
 海舟は明治5年に50歳で上京し、明治32年に満76歳で亡くなるまでここに住み、海軍卿、伯爵、枢密顧問官として華やかな生活を送る傍ら氷川清話などを書いてくらしました。

 勝海舟が亡くなったが後に屋敷跡は、昭和2年に東京市により氷川小学校用地として購入され、平成5年春まで氷川小学校として使われていました。
 石碑の脇に大きな銀杏(左上写真)がありますが、この銀杏は、勝海舟邸の中心部にあったものを移植したものだそうです。
 また、建物の中には、勝海舟邸を発掘調査した際に出土した陶器類が展示されています。
 また、勝海舟の略歴も掲示されています。

 赤印が、「勝安房守邸跡(旧氷川小学校)」です。
 青印は、昨日紹介した「南部坂」です。

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by wheatbaku | 2013-03-27 08:20 | 大江戸散歩 | Trackback
南部坂(六本木散歩)
 今日から六本木散歩の案内をしていきたいと思います。

 今回は、忠臣蔵にゆかりの地を訪ねましたので、六本木一丁目駅から南部坂を案内しました。

 南部坂は、六本木通りの一本裏側にあるため六本木通りから入るには見落としがちです。
 そんな時に目印になるのが久國神社です。

【久國神社】
c0187004_20341714.jpg 久國神社は、港七福神の一つで布袋様をお祀りしています。
 元は千代田村紅葉(現・皇居内)に鎮座していたといいます。
 長禄3年(1457)太田道潅の江戸築城に際し、寛正6年(1465)に溜池に遷座しました。
 道灌が鎌倉時代の刀工粟田口久国(あわたぐち ひさくに)作の刀を寄進したところから久国稲荷と称するようになったといいます。
 寛保元年(1741)に現在地に遷座しました。そして、昭和2年社号を久国神社と改めました。

【南部坂】
 久国神社の前の道を東に向かうと左手に坂が見えてきます。
 南部坂は、南に下る坂です。
c0187004_20344217.jpg これが南部坂です。
 坂下には、道標があります。 
 右写真の右下に道標が見えます。
 南部家の屋敷のそばにあったことから、この坂が南部坂と呼ばれるようになったと言われています。
 東京には江戸時代からの南部坂がふたつあります。一つは、赤坂の南部坂で、もうひとつは有栖川宮記念公園の脇にある南部坂です。
 どちらの南部坂も坂のそばに南部家の屋敷があったため、その名前が付けられました。
 ただし、赤坂の南部坂のほうが麻布の南部坂よりも古い歴史があります。
 というのは、江戸時代の初めに、南部藩の屋敷は赤坂にありました。
 そして、現在の有栖川宮記念公園には、浅野家の下屋敷がありました。
 それが、明暦2年(1656)に南部家の中屋敷と浅野家の下屋敷の交換が行われました。
 
 そして、南部家の中屋敷が現在の有栖川宮記念公園に移転した後は、その脇の坂も南部坂とよばれるようになりました。

 南部坂と言えば、忠臣蔵の「南部坂雪の別れ」の場面で有名です。
c0187004_2035556.jpg 現在、赤坂氷川神社がある場所は、備後三次藩浅野家の屋敷がありました。
 三次藩浅野家は浅野内匠頭の夫人瑤泉院の実家です。
 赤穂事件で浅野家がとりつぶされた後、瑤泉院は、実家で暮らしていました。
 そこで、大石内蔵助が討ち入り前にここを訪れて別れを告げるという場面です。
 これは、講談や浪曲でも有名ですが、明治4年に河竹黙阿弥が「四十七刻忠箭計 しじゅうしちこくちゅうやどけい」」を書いて歌舞伎にも取り入れられています

 南部坂の東側が溜池まで、江戸時代には福岡藩黒田家の中屋敷でした。
 勝海舟の蘭学の先生であった永井青崖が、このお屋敷で蘭学を教えていました。
 左上写真は、南部坂の上から下を見たものですが、左手が黒田家の屋敷でした

 赤印が南部坂です。  青印が久國神社です。

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by wheatbaku | 2013-03-25 20:27 | 大江戸散歩 | Trackback
蛤御門の変((八重の桜 第12回「蛤御門の変」)
 昨日の「八重の桜」は「蛤御門の変」でした。
 この「蛤御門の変」について「京都守護職始末」にどう書かれているのか、今日は書いていきたいと思います。
 
 当時、京都に駐在していた会津藩の軍勢は、二陣すなわち8隊および容保直属の部隊で、総勢1500名程度でした。
c0187004_9234193.jpg 第一陣は、家老神保内蔵助が陣将で、第二陣は家老内藤信節(のぶこと)が陣将でした。
 第一陣は、新撰組とともに九条河原に陣取り伏見の長州勢に備えました。
 伏見の長州勢は福原越後が率いる500名ほどの軍勢でしたが、大垣藩兵と戦い、大敗を喫して敗走しました。
 第二陣は、陣将内藤信節は1隊を率いて唐門を守り、2隊が蛤御門を守り、1隊が黒谷の本陣の警備につきました。
 なお、陣将内藤信節は、梶原平馬の実兄です。梶原平馬は内藤家に生まれ、梶原家の養子となっていました。
 蛤御門の守備隊は、敵は正面からくるものと考え、大砲を門外に出して備えていました。
c0187004_924674.jpg 嵯峨天龍寺に構えていた長州勢は京に攻め入りました。
 国司信濃の率いる軍勢は中立売門(蛤御門の北の門)を守っていた筑前兵を破り門内に入り、蛤御門の会津勢に砲撃をくわえまてききました。
 一方、下立売門側からは来島又兵衛の隊が攻めてきました。
 そこで、会津勢は、大砲を門内に引き入れ、南側から攻めてくる長州勢に砲撃を加えました。
 長州も、砲撃してきたため。会津藩側にも多数の死傷者がでました。
 しかし、薩摩藩や桑名藩の応援があり、来島又兵衛も倒れたため、ついに長州勢は敗走し始めました。
 京都御苑内に「清水谷家の椋」(左上写真)という木が残されていますが、来島又兵衛はこの椋の木の近くで亡くなったといわれています。

 この時の戦いは「禁門の変」」とも呼ばれますが、蛤御門での戦いが最も激しかったため、「蛤御門の変」とも呼ばれます。
 蛤御門には、当時の銃弾の跡も残っています。(右下写真)

c0187004_9242345.jpg 一方、山崎に陣をしいていた益田右衛門介の隊は、鷹司邸に入り、堺町御門を守る越前兵を砲撃しました。越前兵は、敗走し、新手の彦根藩や桑名藩の軍勢が加わり長州勢を攻めましたが、長州側は鷹司邸に立てこもり戦い続けました。
 そこで、会津藩の十五ドエム砲により、鷹司邸の塀を砲撃し崩壊させて攻め入りました。
 そして、邸内にいた久坂玄瑞や寺島中三郎は自刃し、真木和泉は負傷しながらも鷹司邸を脱出しました。その後、男山八幡で自刃しました。


 以上が、「京都守護職始末」に書かれている「蛤御門の変」の情況です。
 「京都守護職始末」には、山本覚馬の名前は出てきません。
 しかし、この戦いでは大砲・鉄砲が重要な役割を果たしていますので、山本覚馬は大砲隊を指揮して奮戦したものと考えられます。

 なお、蛤御門の変での山本覚馬の奮戦ぶりは、「心眼の人」(恒文社刊、吉村康著)によく描かれてます。
 昨日の「八重の桜」では、山本覚馬が、蛤御門で大砲隊を指揮して活躍ていしますが、その山本覚馬の姿は、「心眼の人」に描かれている姿そのものです。
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by wheatbaku | 2013-03-25 09:18 | 大河ドラマ | Trackback
六本木広尾散歩(大江戸散歩)
 昨日は、毎日文化センターの講座「忠臣蔵ゆかりの地を行く」の受講生の皆さんと、六本木や広尾近辺の忠臣蔵ゆかりの地を散歩してきました。
 東京メトロの「六本木一丁目駅」をスタートして、「恵比寿駅」まで歩いてきました。
 コースは次のようです。
 久国神社 ⇒ 南部坂 ⇒ 勝安房守邸跡 ⇒赤坂氷川神社 ⇒ 勝海舟邸跡 ⇒ 
 檜町公園 ⇒  深広寺 ⇒ 六本木ヒルズ毛利庭園 ⇒ 桜田神社 ⇒ 専称寺 ⇒ 
 木下坂 ⇒  有栖川宮記念公園 ⇒ 南部坂 ⇒ 祥雲寺 ⇒ 東北寺

 昨日は、午後は薄曇りでしたが、行楽日和でした。
 桜はまさに満開で、早い桜は散り始めていました。
 そこで、今日は、桜の写真を中心に主な訪問地を紹介します。

 こちらは、檜町公園からみた東京ミッドタウンタワーです。
桜が満開でした。
c0187004_1123896.jpg 東京ミッドタウンは、歴史をさかのぼると、直前は防衛庁と陸上自衛隊があった場所で、終戦後は米軍に接収されていて将校の宿舎でした。さらに、終戦までは、第一師団歩兵第一連隊の駐屯地でした。
 このように軍隊要地であった東京ミッドタウンと、その隣の檜町公園とは、江戸時代は、長州藩毛利家の下屋敷でした。
 昨日は、家族づれを中心とした行楽客が、檜町公園の緑地で、弁当を開いていました。

c0187004_116840.jpg 六本木ヒルズの毛利庭園の桜も満開でした。
 六本木ヒルズは、江戸時代は、長府藩毛利家の上屋敷でした。
 長府藩は、長門府中藩とも呼ばれましたが、長州藩の支藩でした。
 東京ミッドタウンの場所にあったのは長州藩の本藩ですので、混乱しやすいですね。
 赤穂事件の時には、赤穂浪士の内10人が長府藩にお預けとなりました。
 そして、元禄16年2月4日にここで切腹しています。
 六本木ヒルズが建設されたため、現在の毛利庭園は、当時のものとは大幅に異なっているとは思いますが、 近代的なビルの合間の貴重な憩いの場を提供してくれています。
 昨日は、「春祭り」も開催されていて、お客さんで一杯でした。


 有栖川宮記念公園は、江戸時代は盛岡藩南部家の下屋敷でした。
c0187004_11101239.jpg そのため、南部家の屋敷に由来する南部坂があります。
 明治29年に有栖川宮の御用地となり、昭和になって東京市に下賜され、有栖川宮記念公園となりました。
 公園内には、有栖川宮熾仁親王の銅像があります。
 有栖川宮熾仁親王は、皇女和宮の婚約者でした。
 銅像前の、桜は若木でしたが、満開でした。
 また、公園内の広場周辺には桜が植えられていて、こちらも宴会客で一杯でした。

 この他、街路地に植えられている桜も満開で、桜を堪能しながらの史跡めぐりでした。
 受講生の皆さんとは楽しい史跡巡りができました。
 また、終わった後の飲み会も一段と盛り上がり楽しく過ごせました。
 受講生の皆さんありがとうございました。

 「六本木広尾散歩」についての詳細は、順次ブログにアップしていきます。

 
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by wheatbaku | 2013-03-24 10:47 | 大江戸散歩 | Trackback
吉良氏の系譜(江戸検お題「本当の忠臣蔵」7)
 今日は、江戸検の今年のお題「本当の忠臣蔵」の話題です。
 前回まで浅野家の系譜について書きました。
 今回からは吉良家の系譜について書いていきます。

 吉良上野介義央は名門吉良氏の出身です。
 吉良氏の始祖は、吉良長氏です。
c0187004_8552421.jpg 吉良長氏は、足利氏の出身です。父足利義氏が、鎌倉幕府の重臣として承久の変の鎮圧に功績があった後、三河国守護に任じられました。
 その際に、子供たちとともに三河に赴任し、守護が終わり、足利に帰る際に、長男長氏と四男義継が吉良に土着しました。
 この三河国吉良荘の吉良の語源は、荘園内の八ツ面山(やつおもてやま)に雲母(大和言葉で「きらら」)の鉱山を古くから有したためにつけられたものと言われています。

 長男長氏は、吉良庄西条(現西尾市)に四男義継は吉良庄東条(前吉良町)に城を構えました。
 足利宗家は、三男の泰氏が継ぎましたが、これは泰氏の母親が北条氏出身であったからと言われています。
c0187004_8565170.jpg 長男ながら宗家を継げなかった長氏ですが、以降は、御一家といわれ宗家に次ぐ格式を誇る家柄となりました。
 室町幕府を開いた後は、「御所(足利将軍家)が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」とまで庶民に言われ、足利将軍家の血脈が絶えた際には足利宗家の家督を継承することが許されていたといわれています。
 なお、今川氏は、吉良氏からでた分家です。

 なお、義氏の四男義継は、三河の吉良に土着したものの、矢作川の東側を拠点とました。
 そのため、長氏の系統を西条吉良氏といい、義継の系統を東条吉良氏といいますが、東条吉良氏は、後に奥州探題となり、奥州を拠点としたため、奥州吉良氏を呼ばれます。
 その後、時代が下がり、室町時代になってから、武蔵国世田谷を拠点としました。世田谷城は吉良氏の拠点でした。

 西条吉良氏は、三河に永住しましたが、 室町時代、戦国時代を通じて、吉良氏は家柄は高いもの、守護にも任ぜられず、武力も強大でなかったため、勢力は振るいませんでした。
 吉良氏から分かれた今川氏のほうが駿河で守護大名として勢力をのばしました。

 江戸時代になって、吉良上野介の曽祖父吉良義定が徳川家康に取り立てられ、祖父義弥(よしみつ)が高家となり、高家吉良氏が始まります。その話は次回にします。
 
 写真は、元吉良町(現西尾市)にある、東条城です。上段は城跡に復元された大手門、下段は東条城の説明板です。
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by wheatbaku | 2013-03-22 09:01 | 忠臣蔵 | Trackback
「ほーりー」の「TOKUGAWA15」を観てきました(江戸の仲間)
  昨日は、江戸検一級会のアイドル「ほーりー」の劇を観に行ってきました。
 タイトルは「TOKUGAWA15」で、「ほーりー」が書いて発行部数2万部を突破した「TOKUGAWA15」が原作となっています。
c0187004_949143.jpg

 あらすじは、
 初の女性首相となった徳田康子【名前をみればすぐわかるように徳川家康の生まれ替り】と秘書天海【あまみ、これも名前からわかるように天海大僧正の生まれ替り】によって選ばれた14人が日光東照宮近くの会議室で「この国をどうしたら良くすることができるか」という会議を行います。
 集められた人物は、様々な職業の人々ですが、実は、徳川将軍15人の生まれ変わりの人たちでした。(これは最後に、それとわかります)
 しかし、本人たちはそれを知りませんし、お互いは見ず知らずです。
 そのため、この人たちが、自分の過去の経験から、様々提案をしますが、すんなり話はまとまりません。言い合いや対立そしてトラブルがおこってきます。
 しかし、会議をしているなかで、徳田総理の人柄もあり、知らぬ間に参加者に連帯感がでてきて、徳田総理を深く信頼するようになるというストーリーでした。

c0187004_9484646.jpg 劇場は、中野のザポケット」です。 
 JR中央・総武線/東京メトロ東西線 中野南口より徒歩5分ですが、駅の南にある丸井の手前の路地を西側に行くようしてください。

 この劇に出てくる人たちは、徳川15代将軍の生まれ変わりですので、何かしら、15人とわかるようになっています。
 劇中で、私がわかったのは次の人たちでした。
  総理          徳田康子 (初代徳川家康の生まれ替り)
  おかまバー店長   熊川綱史 (5代徳川綱吉の生まれ替り)
  女子高生       羽田継美 (7代徳川家継の生まれ替り)
  下着メーカー社長  石川吉子 (8代徳川吉宗の生まれ替り)
  図書館勤務      山田重子 (9代徳川家重の生まれ替り)
  漫画家         中島治子 (10代徳川家治の生まれ替り)
  メーカー営業     横山家成 (11代徳川家斉の生まれ替り)
  主婦          佐藤定子 (13代徳川家定の生まれ替り)
  教師          橋本茂   (14代徳川家茂の生まれ替り)
  内科医         余しのぶ (15代徳川慶喜の生まれ替り)
         *この姓が「余」で名が「しのぶ」という内科医を「ほーり」が演じていました。

 しかしながら、劇中ではわからなかった将軍様もいました。それは次の人たちでした。
  主婦          吉岡忠見 (2代徳川秀忠の生まれ替り)
  ニート         岩城光江 (3代徳川家光の生まれ替り)
  キャバ嬢       家田綱美 (4代徳川家綱の生まれ替り)
  劇団主宰       袴田宣美 (6代徳川家宣の生まれ替り)
  影薄いOL       鈴木慶子 (11代徳川家慶の生まれ替り)

この人たちも、劇の中では、存在感があるのですが、残念ながら誰の生まれ替りであるかわかりませんでした。

 それでは、感想を書きます。
  全体を通して、大変おもしろかったです。
  劇中で、出演者が語るストーリーがすべて完結している訳ではないので、どうなっちゃったんだろうと思う部分がないわけではありませんが、最後になれば、しっかりまとまっているというストーリーでした。
 特に最後の徳田総理のセリフがよかったですね。
 また、途中、この人物は、誰の生まれ替りなんだろうという謎ときを楽しみつつ見られました。
しかし、結局わかったのは10人でしたが・・
c0187004_9492524.jpg これから観られる方は、会場で販売しているパンフレット(有料2000円)や無料で配布される案内を事前に読んでおくと、誰が誰の生まれ替りかがよくわかるがのではないでしょうか。

 今回、とりわけ感心したのは、よく徳川将軍15人を現代に生まれ替えさせられたと、脚本に感心しました。
 脚本を書いた石山英憲さんは、歴史は不得意だそうです。その不得意な人が取り組んだからかえって良かったのかもしれません。
 そして、脚本を書いた石山さん以外にも出演された人も歴史には縁の薄い人たちが多いようです。
 このような歴史と縁の薄い人たちに徳川将軍を身近に感じさせた「ほーりー」の原作の素晴らしさに改めて感心しました。
 「ほーりー」自身も「内科医余しのぶ」役で出ていました。ほーりーも目立つ役だし演技も良かったでした。
 ただ、いつもの「ほーり」より緊張していたかな。
 でも終わってからは写真のようにリラックスしていて、いつもの「ほーりー」でした。

 この劇場は、200人収容の劇場ですので、出演者が身近に見られてよかったですね。
 しかし、出演者のせりふを聞いていて、力がはいりすぎていて圧迫感を感じる面もありました。
 これは、初演ということもあったのでしょう。回をかさねてくれば力がぬけてくることでしょう。

 いずれにしても、大変おもしろい劇でした。
 公演は24日までだそうです。まだ平日には席があるようですので、時間がありましたら、観に行かれたらいかがでしょうか。
 お申し込みは こちら からどうぞ。
 
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by wheatbaku | 2013-03-21 09:42 | 江戸の仲間 | Trackback
護国寺
 
 現在、江戸東京歴史検定協会の公式ブログに「江戸三十三観音めぐり」を連載しています。
 お寺を訪問して、ご住職さんに面会して、由緒等をうかがい、ご本尊様の写真の撮影をお願いして、その後、書いた原稿を読んでいただいて、それからアップしています。
 そのため、一か寺書き上げるの時間がかかります。
 そうした事情があるため、なかなか毎月アップできません。
 今回は、13番の護国寺を取り上げています。
 今日は、お彼岸の中日でもありますので、ぜひお読みください。

 江戸検公式ブログ「お江戸見聞録」 『江戸三十三観音めぐり 13番護国寺』

c0187004_9505243.jpg

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by wheatbaku | 2013-03-20 08:52 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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