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鷹見泉石記念館(茨城県古河市)
 ゴールデンウィーク前半が終わりました。私は今日からお仕事ですが、皆さんはゴールデンウィークはいかがでしたでしょうか?
c0187004_917062.jpg 28日の日曜日は、茨城県の古河市に所用がありました。そして時間がちょっとありましたので、「古河歴史博物館」と「鷹見泉石記念館」に寄りました。
 そこで、今日は「鷹見泉石記念館」についてご案内します。

 鷹見泉石といっても、その名前を聞いてピンとくる人は少ないと思いますが、インターネットで「鷹見泉石」で検索して、出てくる肖像画を見てください。
その肖像画は見たことがあると思われる方が多いのではないでしょうか。(本当は、肖像画の画像を入れるのがいいのですが、著作権上問題がありそうなので掲載をやめました。ネットで検索してみてください)
 その肖像画は、渡辺崋山が書いた鷹見泉石の肖像画で、国立博物館が所蔵して国宝に指定されているものです。


 この鷹見泉石は、幕末の古河藩の家老でした。
c0187004_9172844.jpg 天明5年(1785)、土井氏代々の家臣、鷹見忠徳の長男として、現在の古河市で、当時、四軒町といった地に生まれました。泉石は引退後の名前で、実名は十郎左衛門忠常といいました。
 生誕地には碑が建てられていました。
 鷹見泉石は、11歳より藩主土井利厚・利位の二代に仕え、ついには江戸家老に進み敏腕をふるいました
 藩主土井利位(としつら)が大阪城代であった折りに「大塩平八郎の乱」で鎮圧にあたりました。
 また、優れた蘭学者でもあり、数多くの研究資料の収集にあたりました。そのため、渡辺崋山との交流も生まれました。

 「鷹見泉石記念館」は、隠居後の鷹見泉石が最晩年を送った屋敷を公開しているもので、平成2年、「鷹見泉石記念館」として開館されました。
c0187004_9174768.jpg 「古河歴史博物館」の近くにあり、歴史博物館の別館の位置づけのようです。
 建物は、寛永10年(1633)古河城主・土井利勝、古河城の三階櫓を作ったときの残り材を使って建てたと伝えられ、もとの建坪は100坪もあり(現在の2倍以上)、屋敷全体は東西に長い他に比べて一段と広大な(現在の4倍以上)ものだったそうです。
 長屋門は、再建されたものですが、母家は、修復されているものの当時のものだそうです。
 この屋敷は鷹見泉石の御子孫が現在も所有しているそうです。

c0187004_918892.jpg 鷹見泉石が使用していた書斎は泰西堂と名付けられています。
 それは、座敷の床の間に「泰西堂」という掛軸が架けられているからです。
 この軸は、長崎に来ていた清の文人江芸閣(こうげいかく)によって書かれたものだそうです。
 「泰西」とは西洋のことで、鷹見泉石が、西洋の学問を学んでいたことにちなむものだそうです。
 鷹見泉石は「泰西堂」という号も使用していました。
 写真左手の床の間に架けられているのが「泰西堂」の掛軸です。

c0187004_9182520.jpg 庭に珍木「楓樹」が植えられています。鷹見泉石は、この「楓樹」を植えたことから、「楓所」という号も持っています。、
 「楓樹」はマンサク科の落葉喬木で、日本には自生しない樹木です。
 葉が三つに分かれているのが特徴です。
 古代この中国では宮中に植えられ、それから天子のいるところを楓宸と呼ぶようになったと言われてています。
日本には、徳川吉宗が輸入し、享保12年(1727)閏正月17日に日光東照宮奥院や吹上御所に植えさせたという貴重な樹木です。
 現在でも、現存する古木の楓樹は、皇居(旧江戸城)・寛永寺など、わすかだそうです。 この楓樹は、古河市天然記念物に指定されています。


 赤印が鷹見泉石記念館です。

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by wheatbaku | 2013-04-30 09:15 | Trackback
ボードウィン(八重の桜 第17回「長崎からの贈り物」)
  昨日の「八重の桜」をご覧になりましたか?
 冒頭で、長崎でオランダ人から山本覚馬が目の治療を受けていましたね。
 その医者の名前がボードウィンとなっていました。
 そこで、今日は、このボードウィンについて書いてみます。

 ボードウィンは、本名アントニウス・フランシスカス・ボードウィンといいます。
 ボードウィンは、1820年にオランダで生まれました。
c0187004_840184.jpg 大学で医学を学び、卒業後はオランダ陸軍に入隊し、ユトレヒト陸軍軍医学校で教官を務めていました。
 1862年、先に日本の出島に滞在していた弟の働きかけにより、江戸幕府の招きを受けて来日し、ポンペの後任として長崎養生所の教頭となりました。
 医者として、特に眼科に優れていたので、山本覚馬の治療にもあったようです。

 このボードウィンの像が上野公園にあるのをご存知でしょうか?
 噴水の西側の木立の中に建てられています。
 ボードウィンの像がなぜ上野公園にあるかですが、
 明治維新後も、ボードウィンは、日本に留まりました。これは、明治維新後ドイツ医学導入を決めたものの、ドイツ人講師の来日が遅れたため、ボードウィンが大学東校の臨時講師となりました。
 当時、大学東校と附属病院は移転が決まっていました。
 上野は寛永寺の境内でしたが上野戦争で荒廃したため、ここに付属病院を建設する計画がありました。
 しかし、ボードウィンは上野の森の自然が失われることを危惧し、政府に公園づくりを進言しました。
 その結果、上野に日本で初めての公園が誕生することになりました。
 それが、上野公園です。
 こうした彼の功績をしのび、上野公園に彼の像が建てられています。

 なお、上野公園の銅像ではボードワンと刻まれています。
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by wheatbaku | 2013-04-29 08:41 | 大河ドラマ | Trackback
渋沢栄一記念館(埼玉県深谷市)
 昨日は、深谷にある渋沢栄一記念館と「旧渋沢邸」に行ってきました。

 渋沢栄一は、 天保11年(1840年)、現在の深谷市血洗島の農家に生まれました。
c0187004_952451.jpg 成長して、攘夷運動に参加しますが、後に一橋家に仕えます。
 そして、将軍慶喜の名代徳川昭武に随行し渡欧し、大きな影響をうけます。
 帰国後、明治新政府に仕えますが4年で辞職し、その後、実業界で第一国立銀行の設立など多くの企業の設立経営に関与し、「日本資本主義の父」と呼ばれました。

 渋沢栄一記念館は平成7年の11月11日(栄一の祥月命日)に 開館しました。
 地元の公民館と一緒になっていますが、渋沢栄一関係の史料が展示されています。
解説してくださるガイドもいて、大変勉強になりました。


 記念館を見学した後、「旧渋沢邸」に行きました。
c0187004_954331.jpg 渋沢栄一の生家は、「中の家(なかんち)」と呼ばれていました。 
 その渋沢栄一が生まれた家は、明治25年に火事で焼失してしまいました。
 そして、明治28年に、家をでて東京で活躍する栄一のかわりに生家を守っていた妹夫婦により再建されました。
 現在では、深谷市がその家を管理していて公開しています。
 主屋は典型的な養蚕農家の造りです。
 写真の左手前に渋沢栄一の銅像があります。

c0187004_96141.jpg 渋沢栄一は多忙の合間も時間を作り、年に数回はこの家に帰郷したそうです。
 家の奥座敷は、栄一が寝泊まりした部屋だったそうです。帰郷する栄一のため、妹の夫市郎が念入りに作らせたと伝わっているようです。
 東京飛鳥山の屋敷は、空襲によって焼失してしまったため、栄一が過ごした数少ない場所となっているとのことでした。


c0187004_962332.jpg 渋沢栄一の雅号は「青淵(せいえん)」と言います。
 この雅号は、生家の近くに「上の淵」と呼ばれる青々とした淵があったことによるそうです。
 屋敷の裏に回ると、その雅号の由来の元になった池が残されています。
 池のそばに、清浦圭吾の筆になる「青淵由来の碑」が立っています。
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by wheatbaku | 2013-04-28 09:04 | Trackback
刃傷は「柳ノ間廊下」か?(江戸検お題「本当の忠臣蔵」16)
 今日は、週末ですので、忠臣蔵について書きます。
 前回は「刃傷松之廊下」について書きました。
 「刃傷松之廊下」についてもわからないことが多くいろいろな説があります。
 まず、刃傷が起きたのは、松之廊下ではなく、柳ノ間廊下だという説があります。
 今日は、「刃傷は柳ノ間廊下で起きた」説について書いてみたいと思います。

 松之廊下というのは、大広間から白書院につながる大廊下です。
c0187004_8463180.jpg 大広間から西に長さ約19メートル(十間半)、幅3.6メートル(二間)あり、そこで直角に曲がり長さ約39メートル(17間半)、幅約4.5メートル(2間半)あります。全長で50メートルもある大きな廊下です。
 その廊下の障壁に松の絵が描かれているため「松之廊下」と名付けられました。
 映画やTVドラマの「忠臣蔵」では、雄大な巨松の障壁画が描かれますが、「松之廊下」の実際に松の障壁画は、浜辺に生える松と千鳥が飛び交う穏やか絵だったようです。
 また、廊下というと板張りをイメージしますが、松之廊下は畳敷きでした。

 なお、江戸城には、松之廊下のほか、竹之廊下がありました。しかし、梅之廊下はありません。
 大広間と白書院をつなぐ廊下が松之廊下で、白書院と黒書院をつなぐ廊下が竹之廊下でした。

 それでは、「柳ノ間廊下」というのはどこにあったのでしょうか

 「柳ノ廊下」は、大広間の北側にある中庭を挟んで松の廊下の反対側にあります。
 「柳ノ間」という部屋があり、その前の廊下が「柳ノ間廊下」と呼ばれていました。

 刃傷事件が起きたのは「柳ノ間廊下」だという説を主張しているのは学習院大学名誉教授大石慎三郎氏です。
 大石慎三郎著「将軍と側用人の政治」で、
 大石慎三郎氏は、松之大廊下は、将軍や御三家、勅使といった特別地位の高い人たちが通る廊下であって、高家の吉良は通るはずがないと言います。
 だからおそらく吉良上野介が白書院から来て、柳ノ間廊下辺りで二人が立ち話をしている時に事件が起きたのではないかと思われると書いています。

 また、
 赤穂事件に関する資料を集めた一番古い記録である「易水連袂録」によると、表にある「柳の間」から、通称「松之廊下」と呼ばれる「大廊下」を経て、「医師溜」に至るあたりで事件が起きたとされている
 とも書いています。 
 「易水連袂録」は、浪士切腹後2カ月余りに書かれた本です。
 これが「柳ノ間廊下」の史料的な根拠とされています。
 これによると、刃傷が起きた様子は次のようです。
 14日陰天(曇り)、今日将軍家勅答抑出さるるに付いて、右公家衆登城時に、浅野内匠頭長矩、伊達左京亮宗春と相共に登城。尤も高家の面々吉良上野介、大友近江守等、何れも柳の間に相詰められる。また公家衆は御白書院に伺候ありしが、追付け勅答とて潜搦(ひしめく)所に、内匠頭如何が意趣のありけるや、場所を弁えず彼の柳の間にて上野介殿と何やらん少々言葉あらあらしく聞こえしが、やがて上野介殿は柳の間を立って同二十四、五間ある廊下続きを小走りに逃げ行き、医者の間に取付き、所の大杉戸を押し開けすでに内に入らんとせられし所を、内匠頭殿続けて追詰め、彼杉戸の限(きわ)にて上野介殿を後ろより、上野介逃がさじと短刀(ちいさがたな)を抜き打ちに討掛け申されしが、上野介殿その日の装束にて烏帽子を着し申されしゆえ右の小鬢(こびん)を後に切付、振り向く所をまた一太刀切り申されし

 読んでいただくとわかりますが、柳ノ間で口論した後、廊下を小走りに逃げて行き、医者の間に入ろうとした時に、浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかったとしてあります。
c0187004_8465437.jpg
 また、柳沢吉保の「楽只堂年録」には、『今日勅使の御請あるべき前に、柳の間廊下にて浅野内匠頭長矩、内々意趣をはさむにより、短刀を抜きて吉良上野介義央をうしろより二刀きる』と書いてあるそうです。
 こちらも柳ノ間廊下で刃傷が起きたとしているわけです。

 刃傷が起きたのは「柳ノ間廊下」であるという説に対して、九州国際大学教授の宮澤誠二氏は「赤穂浪士」の中で次のように反論します。

 刃傷の場所は、先にみた「梶川氏日記」の「大廊下」の「角柱より6.7間もあるべき所という記述が正しいのである。というのは、田村家の記録「大廊下着座之図」には、刃傷事件が起こった場所と推定されるすぐ近くに、勅使饗応役と高家の控える定位置が記されているから、刃傷事件が起きたのは松之廊下である。と書いています。
 そして、 「柳ノ間廊下説」は、浅野内匠頭の不可解な刃傷事件を「喧嘩」と見なして浪士の仇討を正当な行為と理解しようとするところから生まれてきたのではないかと考えられる。と書いています。
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by wheatbaku | 2013-04-26 08:21 | 忠臣蔵 | Trackback
フルベッキ写真
 昨日の読売新聞に「『フルベッキ写真』伝説覆す原板 幕末の志士集合写真 実は佐賀藩藩校の生徒」という記事が載っていました。
 ご覧になった方もいらっしゃると思います。
 今日は、この「フルベッキ写真」について書いてみたいと思います。

c0187004_0195854.jpg  この記事の概要は次のようなものです。
 オランダ生まれの宣教師フルベッキと佐賀藩士ら計7人が移った古写真のガラス原板が見つかり、写真家上野彦馬が撮った可能性が高いと倉持元東大特任研究院が確認した。
 この原板と「フルベッキ写真」と比較した結果、7人中6人がほぼ同じ姿形で写っているため、二つ同時期の撮影と考えられ、古写真研究家の高橋信一元慶応大学准教授は「原板からも(フルベッキ写真の)志士の集合写真説は完全に否定された」とする。
 と書かれていました。

 ところで、「フルベッキ写真」というのは、オランダ生まれの幕末の宣教師フルベッキを囲んで撮影された44名の武士による集合写真の俗称です。
 
 下の写真が「フルベッキ写真」です。この写真はウィキメディア・コモンズより転載させていただいています。
 ここに写っている人たちが、坂本龍馬や西郷隆盛、高杉晋作をはじめ、明治維新の志士らであると言われています。
c0187004_045366.jpg

 この写真を知ったのは、昨年の伏見の寺田屋を訪ねた時、寺田屋に展示されていて初めてしりました。
 寺田屋には、「フルベッキ写真」と説明文とともに「写真に写っている人物名」も掲示されていました。
 右下の写真がそれです。
写真に書き込まれている人物名を見ると、勝海舟、大村益次郎、中岡慎太郎、江藤新平、大隈重信、桂小五郎、伊藤博文、村田新八、小松帯刀、大久保利通、西郷隆盛、西郷従道、別府晋介、高杉晋作、坂本龍馬、副島種臣、横井小楠、陸奥宗光、五代友厚、吉井友美らの名前が書かれています。

c0187004_0114725.jpg  この説明写真によると、中央の外国人がフルベッキで、左真後ろにいるのが西郷隆盛、フルベッキから一人おいて右に写っているのが高杉晋作となっています。 .

 錚々たるメンバーですね。

 この写真は、明治28年に、雑誌『太陽』(博文館)で佐賀藩の藩校「致遠館」の学生達の集合写真として紹介されました。

 しかし、昭和49年、肖像画家の島田隆資が雑誌『日本歴史』に、この写真には坂本龍馬や西郷隆盛、高杉晋作をはじめ、明治維新の志士らが写っているとする論文を発表され、その後、写真に写った人物の名前をつけたものまで販売されるようになり、「フルベッキ写真」として広まったようです。

 読売新聞の記事では、
 原板には致遠館の教官も確認されるといい、「フルベッキ写真」が同館の生徒を写したものであるのは間違いないようだ
 と書かれています。
 つまり新聞のタイトル通り「幕末の志士集合写真 実は佐賀藩藩校の生徒」ということのようです。
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by wheatbaku | 2013-04-25 07:58 | Trackback
有栖川宮記念公園(六本木散歩)
 今日は、有栖川宮記念公園の紹介です。
 有栖川宮記念公園の地は、江戸時代には陸奥盛岡藩南部家の下屋敷でした。そのため、周辺には、南部坂や盛岡町などの南部家にゆかりの地名が残されています。

c0187004_2210373.jpg  テレビ朝日通りを六本木ヒルズから広尾に向かうと有栖川宮記念公園の手前に盛岡町交番があります。
 東京に盛岡町があるのは、このあたり一帯から有栖川宮記念公園にかけて南部藩の下屋敷があったため、明治になって盛岡町という町名がつけられたからです。

 江戸時代に盛岡藩の上屋敷であった場所は、明治29年に有栖川宮威仁親王(ありすがわのみや たけひとしんのう)が霞ヶ関の御殿から移動する運びとなり代替地として御用地となりました。
しかし、大正2年に威仁親王(たけひとしんのう)が亡くなり有栖川家が断絶しまいました。
 由緒ある有栖川宮家が断絶したことを惜しんだ大正天皇は、高松宮家をおこし、有栖川宮家の祭祀を引き継がせました。
 広尾の御用地も、高松宮に継承され、高松宮御用地となりました。

c0187004_22104932.jpg 自然保護や児童育成に関心の高かった高松宮殿下は、故有栖川宮威仁親王の20年のご命日にあたる昭和9年1月5日、御用地約11,000坪を公園地として東京市に下賜されました。
 公園は有栖川宮記念公園と命名されて同年11月に開園されました。

 公園内には、有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう)の銅像があります。
 この銅像は、明治28年に熾仁親王が亡くなられた後、大山巌・山縣有朋・西郷従道などが親王の銅像を建立することを提唱して明治36年に建立されました。
 製作は、靖国神社の大村益次郎の銅像を造った大熊氏広です。
 当初、千代田区三宅坂の旧陸軍参謀本部前に建立されましたが、道路拡張のため昭和37年に有栖川宮記念公園に移設されました。



南部坂(麻布)
c0187004_22105464.jpg 有栖川宮記念公園の南側には、麻布から広尾に下る坂があります。
 これが南部坂です
 坂の名称は、江戸時代、現在の有栖川宮記念公園の場所に奥州・南部藩の屋敷があったことに由来しています。
 南部坂は、赤坂にもあることは以前書きましたが、赤坂と麻布に二つあることになります。
 また、坂上にはドイツ連邦共和国大使館があります。


木下坂
c0187004_22112431.jpg 有栖川宮記念公園の北側を麻布から広尾に下る坂があります。
 こちらの坂は木下坂といいます。坂下つまり有栖川記念公園の正門前で南部坂から下ってくる道と合流します。
 坂の名称は、この付近に足守藩木下家の屋敷があったことに因みます。
 赤穂事件の起きた時の藩主は第5代藩主木下公定(きんさだ)ですが、この木下公定は、赤穂藩が改易となった際に赤穂城の受け取り役を務めました。
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by wheatbaku | 2013-04-24 07:55 | 大江戸散歩 | Trackback
麻布高校【高鍋藩上屋敷跡】(六本木散歩)
今日は、六本木散歩に戻ります。

 テレビ朝日通りを六本木から広尾に向かってあるくと、右手に中華人民共和国大使館が見えてきます。

c0187004_1742685.jpg さらに進むと盛岡町交番があります。。その交差点を左に曲がり、南に向かうと間もなく麻布高校があります。

麻布高校は、開成高校と並ぶ私立名門校で、現在は中高一貫制の男子校です。
 麻布高校は現役国会議員出身高校ランキングでは3位(1位慶応義塾、2位開成高校)閣僚経験者出身高校ランキングでは2位(1位日比谷)だそうです。
 元総理や国会議員では、橋本龍太郎元総理、福田康夫元総理、谷垣禎一元総裁、与謝野馨、平沼赳夫、中川昭一など錚々たる人たちが卒業生です、
 その他、有名人では倉本聡、堤義明、小沢昭一、北杜夫などが卒業生です。

 ところで、江戸時代、ここは日向国高鍋藩(宮崎県高鍋町など)の上屋敷がありました。
 高鍋藩は、豊臣秀吉により筑前から秋月種実が移封されました。その後、初代藩主となる秋月種長が関ヶ原の戦いで東軍に寝返って本領を安堵されました。石高は3万石です。
c0187004_1745539.jpg この高鍋藩出身で非常に有名な人物が、米沢藩上杉家中興の祖上杉鷹山(治憲)です。
 杉鷹山は高鍋藩主の秋月種美(たねみ)の次男としてここで生まれました。
 幼名は松三郎といいました。
 母は筑前国秋月藩の黒田長貞の娘の春姫です。
 黒田長貞の正室は上杉綱憲の娘豊子です。
 つまり、母方の祖母が米沢藩第4代藩主上杉綱憲の娘でした。この
 ことが縁で、松三郎は1 0歳で米沢藩の第8代藩主・重定の養子となりました。
 重定は綱憲の長男吉憲の四男つまり綱憲の孫になります。春姫も綱憲の孫になるため、重定の従兄弟になります。

 ところで、上杉綱憲が、吉良上野介の実子であることは、既にこのブログでも書きましたので、ご存じの方が多いと思います。
 このことを思い出していただきたいと思います。
 もう一度、上杉綱憲と上杉鷹山の関係を復習すると、鷹山は、綱憲の孫の孫です。孫の孫は玄孫や「やしゃご」といいます。つまり鷹山は「やしゃご」になります。
 そして、綱憲は吉良上野介義央の子供であすから、鷹山は吉良上野介からみると「孫の孫の子」です。「孫の孫の子」は「来孫」というそうです。つまり、鷹山は、吉良上野介の「来孫(らいそん)」となります。

 有名な上杉鷹山には、吉良上野介の血が流れているんですね。驚きました。

 赤字が麻布高校です。

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by wheatbaku | 2013-04-23 07:57 | 大江戸散歩 | Trackback
孝明天皇の死(八重の桜 第16回「遠ざかる背中」)
 昨日の「八重の桜」では、孝明天皇が亡くなる場面がありました。
 そこで今日は孝明天皇の死について書いてみたいと思います。

 孝明天皇は、慶応2年(1866)12月11日に、宮中内侍所の臨時御神楽の儀式に出席し、翌日より発熱、まもなく疱瘡と診断されました。
c0187004_8364963.jpg そして、25日夜半、激しい嘔吐や下痢し、ついに亡くなりました。

 天皇の急死については、痘瘡・病気説がある一方であまりにも急になくなったため毒殺説が当時からささやかれました。
 アーネストサトーの「一外交官の見た明治維新」では、当時宮中から毒殺のうわさが流れていたことが書かれているそうです。

 戦後になって、昭和50年に孝明天皇の御典医の曾孫の伊良子光孝氏が曾祖父光順(みつおさ)の日記とメモをもとに毒殺説を主張したことから、学会において、毒殺説が有力となりました。
毒殺説の考えにたって書かれた主なものとしては、次の資料があるようです。
 石井孝(元東北大学教授)「孝明天皇病死説批判」(『近代史を視る眼』)
 明田鉄男(滋賀女子短期大学教授)「孝明天皇怪死事件」(『人物探訪日本の歴史 20 日本史の謎』)
 田中彰(元北海道大学名誉教授)「孝明天皇毒殺事件」「天皇毒殺」(『明治維新の敗者と勝者』)
 かなり多くの人が孝明天皇毒殺説をとっていることがわかります。

 しかし、名城大学名誉教授の原口清氏は、「孝明天皇は毒殺されたのか」(藤原彰ほか編「日本近代の虚像と実像」)で、毒殺説を批判し痘瘡説を主張しました。
 天皇の病状が好転したというのは明確な根拠がなく、死亡時の紫斑点や出血から判断した、孝明天皇は出血性疱瘡で亡くなったと主張しました。
 これに対して、石井孝氏は毒殺説をとる立場から「原口清氏の孝明天皇病死説に反駁する」で反論しています。しかし、現在では、論争は中断されているようです。
 
 毒殺説の背景には、孝明天皇は、佐幕主義者であったので、倒幕をめざす勢力にとっては、孝明天皇自体の存在そのものが大きな障害だったという政治情勢が考慮されていて、そのため、孝明天皇を除くという陰謀が、討幕派の中でめぐらされたという論理構成となっているようです。

 孝明天皇がなくなり、おさない明治天皇が即位したことにより、倒幕派の主張が通りやすくなり、徳川幕府は追い詰められていきます。
 そして、会津藩も同じ運命をたどることになります。
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by wheatbaku | 2013-04-22 08:32 | 大河ドラマ | Trackback
「総本家更科堀井」(江戸の老舗の味)
 先週、麻布十番のそばの老舗「総本家更科堀井」に行ってきました。
 麻布散歩の下見に行った時には、たまたま日曜日の御昼どきで、待っている人が大勢いて、入るのを諦めて、残念に思っていたので、再度チャレンジしました。
 今回は、平日の2時ごろでしたので、待たずに入れました。それでもほぼ満席でした。

c0187004_1185071.jpg 更級堀井の初代、そば打ち上手として知られた信州の反物商、布屋太兵衛は、領主保科兵部少輔の助言で、そば屋に転向し、寛政元年(1789)、麻布永坂高稲荷下に「信州更科蕎麦処」を開店しました。
 明治8年(1785)、「布屋」改め「堀井」を名のり、五代目より堀井太兵衛として名乗ったそうです

 堀井家の言い伝えでは、初代は、信州特産の信濃布を商っていたのがそば屋に転じ、藩主保科家の江戸屋敷から程近い麻布永坂町に店を構えたといいます。
c0187004_1191087.jpg 看板は「信州更科蕎麦処 布屋太兵衛」としましたが、「更科」の文字は、信州そばの集散地だった更級の「級」の音に保科家から許された「科」の字を当てたものと伝えられているそうです。
 当時から大名屋敷や有力寺院などに出入りして、明治時代半ばの最盛期には、皇后や宮家などにも出前を届けたと伝わるほど栄えたといいます。
 各地に「更科」の看板を掲げた蕎麦屋が増えたのは、この永坂更科の繁栄にあやかろうとしたものであるという説があるそうです。
 しかし、この老舗も昭和初期の恐慌のあたりから家業に陰りが見えて、昭和16年、ついに廃業してしまいました。
 戦後、店は再建されましたが、「永坂更科」や「布屋太兵衛」の登録商標は、さまざまのな事情から堀井家の手を離れました。
 現在の「更科堀井」は、昭和59年に開店したものだそうです。
 現在、麻布十番界隈には三店の「更科」があります。
 「総本家更科堀井」 「麻布永坂 更科本店」、「永坂更科 布屋太兵衛」の三店です。
 三店は、経営上のつながりはまったくなく、それぞれ別経営です。
 このなかで、江戸時代以来の創業者布屋太兵衛の血筋を引いているのは「総本家更科堀井」です。

c0187004_119272.jpg こんな歴史をもつ「更科堀井」の名物は「さらしな」という白い色をしたおそばです。
 しかし、私は、「鴨せいろ」を頼みました。 
 おそばは、手打ちで打つ色の濃いそばです。そば本来の味と香りを楽しめます。
 また、つゆの味がすばらしく、鴨肉も歯ごたえがあるけれど軟らかく大変おいしかったです。
 値段は1750円でしたが、満足のいくものでした。
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by wheatbaku | 2013-04-21 11:09 | 江戸の老舗 | Trackback
刃傷松之廊下②「梶川与惣兵衛日記」(江戸検お題「本当の忠臣蔵」15)
昨日は、刃傷松之廊下についての幕府の公式文書たる「徳川実紀」の記録を見ていただきました。
 
 刃傷松之廊下について書いた一次資料が二つあります。
 一つが留守居番の梶川与惣兵衛が書いた「梶川与惣兵衛日記」で、もう一つは「多門伝八郎覚書」です。
 この中で、刃傷の発生の様子を記録されているのは「梶川与惣兵衛日記」ですので、 今日は、「梶川与惣兵衛日記」に、刃傷松之廊下がどのように書かれているか見てみましょう。

c0187004_8373792.jpg 梶川与惣兵衛は、当時、留守居番でした。留守居番というのは、野口武彦氏の「忠臣蔵」によれば大奥の警護および事務取扱役だそうです。
 3月14日は、将軍綱吉の正室鷹司信子の指示を受け、表に来ていました。
 そして、偶然にも刃傷松之廊下に出会うハメとなりました。

梶川与惣兵衛の役目は、御台所からの土産品を勅使に渡す役目をでした。
 勅使の登城時間が早くなったことを知らされたため、そのことについて吉良上野介と協議しようとして、吉良上野介を探しますが、吉良上野介がいませんでした。
 そこで、浅野内匠頭を呼びにいかせると、浅野内匠頭がきたので、よろしくとお願いしました。その後。吉良上野介が白書院の方に見えました。 (4月20日追加)


 刃傷が起きた時の様子を書いた部分は次のようです。
 
 梶川与惣兵衛日記の原文は以下のとおりです。「梶川与惣兵衛日記」は柏書房「古文書で読み解く忠臣蔵」で読むことができます。
 
其後御白書院の方を見候ヘバ、吉良殿御白書院の方より来り申され候故、又坊主ニ呼ニ遣し、其段吉良殿へ申候へば、承知の由にて此方へ被參候間、拙者大広間の方へ出候て、角柱より六七間もへき所にて双方より出合、互いに立居候て、今日御使の刻限早く相成り候儀を一言二言申候処、誰やらん吉良殿の後より「此間の遺恨覺えたるか」と聲を懸け、切付け申候
(其太刀音ハ強く聞え候へども、後に承り候へば、存じの外、切れ不申、淺手にて有之候)。
我等も驚き見候へば、御馳走人の内匠頭殿なり。

上野介殿「是ハ」とて、後の方へ振り向き申され候処を又切付けられ候故、我等方前へ向きて逃げんとせられし処を、又二太刀ほど切られ申候。上野介其侭うつむきに倒れ申され候。(吉良殿倒れ候と大かたとたんにて、間合は二足か三足程のことにて組付候様に覺え申候)。

右の節、我等片手ハ内匠殿小さ刀の鍔にあたり候故、それ共に押付けすくめ申候。其内に近所に居合申されし高家衆、并に内匠殿同役左京殿などかけ付けられ、其外坊主共も見及候処に居合候者共、追々駈け来り取り押さへ申候。


梶川与惣兵衛日記は、読みやすいので、私なりに現代風に書いてみると次のようになります。
c0187004_83858.jpg その後、白書院の方を見ると、吉良上野介が白書院の方からやってくるので、坊主に問い合わせると 承知したとのことで、こちらにやってくる間、私は大広間の方の「御休息の間」の障子明かりの所でまっていました。
 それより大広間の方にでて、角の柱から6~7間の距離あるところで、双方出会って、そこで立って、今日のお使いの時刻が早くなったことを一言二言話したところ、吉良上野介の後ろから誰かわからないが「この間の遺恨覚えているか」と声をかけながら斬りつけました。驚いてみると浅野内匠頭でした。

  吉良上野介がこれはと後ろを振り向いていったところまた斬りつけられました。そこで向きを変えて逃げようとしたところをまた二太刀斬られました。
 その時に自分が浅野内匠頭に飛びかかったところ、小さ刀のつばがあったので浅野内匠頭を押し付けました。
 そのうちに、近くにいた高家衆や浅野内匠頭の同役の伊達左京など、さらに近くにいた者たちがやってきてとりおさえました。

 左上写真は、皇居東御苑の松の廊下の説明板の写真ですが、説明板の前から写真奥へ向かう道路辺りに「松之大廊下」がありました。
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by wheatbaku | 2013-04-19 08:42 | 忠臣蔵 | Trackback
  

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