<   2013年 05月 ( 28 )   > この月の画像一覧
東京駅(丸の内。日比谷散歩1)
 先日の毎日文化センターさんの「丸の内・日比谷散歩」についても、少しずつ書いていこうと思います。

 先日の集合場所は、東京駅の丸の内北口改札でした。
 そこで、まず東京駅のご案内から始めたいと思います。
c0187004_9223692.jpg 東京駅は、昨年の秋に修復工事が完了し開業当時の姿がよみがえりました。
 東京駅の開業は大正3年12月です。大正3年は西暦では1914年になります。
 今年が2013年ですので、開業以来99年目ということになり、来年ちょうど100周年ということになります。
 新橋駅ができた横浜新橋間に鉄道が開通したのが明治5年です。
東京駅は、明治にできていたと思っていましたので、意外と歴史が浅いのだというのが私自身の感想です。

開業当時は、新橋・上野間はつながってなくて、それをつなぎ、その中間に中央停車場を造るという構想のもとに東京駅が作られました。
当時の新橋駅(後の汐留駅 現在は廃止されています)から銀座を横切って現在の東京駅に結ぶと直線で結ぶことができますが、構想が建てられた頃は、銀座は既に繁華街として繁栄していたため、銀座を横切る案は断念され、現在の新橋駅(当初は烏森駅と言いました)を通り、有楽町駅から東京駅に向かう路線となりました。

東京駅の設計は、辰野金吾です。辰野金吾は、「中央駅、日本銀行、国会議事堂」の設計はぜひやりたいといっていたそうです。
c0187004_9222376.jpg   辰野金吾は日本銀行の設計も手掛けているので、2つは実現したことになります。国会議事堂の設計を行う前に辰野金吾は亡くなっています。
辰野金吾の設計した東京駅は洋風のものですが、当初の東京駅のデザインは和風の駅舎であったようです。
これはドイツ人の鉄道技師フランツ・バルツァーが設計したものですが、当時の鉄道院の幹部には不評だったようです。
そこで、辰野金吾に設計依頼があったようです。
 辰野金吾は、オランダのアムステルダム中央駅をモデルにしたと言われています。


 東京駅は、鉄骨煉瓦造りで造られています。煉瓦は渋沢栄一が経営していた深谷の日本煉瓦製造で焼かれたもので構造用に833万個、化粧用に94万個、約1000万個の煉瓦が使われています。
c0187004_23581981.jpg この縁で、JR深谷駅の駅舎は、東京駅を模したデザインとなっています。

 開業当時の東京駅では、乗車口と降車口が別々に設けられていて、丸の内南口が乗車口、丸の内北口が降車口とされていました。中央口は、皇室専用に造られたものです。
 なお、まだ八重洲口はなく、八重洲口ができたのは昭和4年でした。
 関東大震災にも耐えた駅舎は昭和20年5月25日の空襲によって屋根のドームが崩れ落ちレンガの外装はともかく屋根の形は元の外観をとどめる事は出来ませんでした。
 そのため、昭和22年に改修された東京駅は、2階建てで、屋根がドームでなく八角形の屋根でした。
 これが長いこと私達がなじんできた東京駅です。
 しかし、今回の修復工事で当初の形に復元されました。
 復元後の駅舎は南北の長さが335mもありドームの高さは約35mあります。

下写真は復元されたドームを見上げた写真です。
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 下の写真は上の写真を拡大したものです。
 鳥が飛んでいますが、下から見ると鳩のように思われがちですが、実際は鷲です。
 それと写真の両サイドに青緑色の円形のレリーフがありますが、これは干支のレリーフで、写真のものは右側が丑で左側が亥です。
 ドームが八角形をしているので、干支も8個しかありません。
 子、卯、午、酉がありません。ですから、下の写真でも、亥と牛の間にあるべき子がありません。
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by wheatbaku | 2013-05-31 09:13 | 大江戸散歩 | Trackback
悲報、赤穂へ走る(江戸検お題「本当の忠臣蔵」25)
 浅野内匠頭が刃傷事件を起こしたことは、鉄砲洲の赤穂藩上屋敷にも伝えられました。
右下写真は聖路加看護大学脇にある「浅野内匠頭邸跡」の石碑です。

 上屋敷に刃傷を伝えたのは、戸田采女正氏定、浅野美濃守長恒と言われています。
c0187004_1125326.jpg 「浅野内内匠頭が吉良上野介に斬りつけたため切腹を仰せつけられた。しかし、家中一同騒動をおかさないよう」と伝えました。
 この浅野内匠頭が刃傷事件を起こしたことは、すぐに赤穂に知らせなくてはなりません。
 そこで、「松之廊下の廊下での刃傷の発生」だけを報じた浅野大学の書状を持って早水藤左衛門と萱野三平2名が出発しました。早水藤左衛門は馬回り役、萱野三平は中小姓でした。
 出発時間は、14日の午後2時ころでした。
 二人は頭には鉢巻をして、胴にも固く晒しを巻き、駕籠の中央に吊り下げられた白布に取りすがって駕籠に乗りました。
 二人は不眠不休で、赤穂に急行しました。
 赤穂へ急ぐ早駕篭が、萱野三平の生家の前を通過する時、思いがけず、三平の母の葬式に出会いますが、三平は 泣いて手を合わせながら、そのまま駕篭を急がせたと云う逸話も残されています。

 その後、14日の夜8時頃、「内匠頭切腹」と「赤穂藩改易」との情報を伝えるため、第二陣が出発しました。
c0187004_1131764.jpg 第二陣の使者は原惣右衛門と大石瀬左衛門の2名でした。
 原惣右衛門は足軽頭、大石瀬左衛門は馬回り役でした。
 このうち原惣右衛門は、刃傷事件の起きた日は、伝奏屋敷に詰めていました。
 勅使饗応役は、藩士が饗応の道具類を持って伝奏屋敷に詰めていたのです。
 浅野内匠頭が刃傷事件を起こしたことは、目付鈴木源五右衛門により、すぐに伝奏屋敷にも伝えられました。
 浅野内匠頭が刃傷事件を起こしたため勅使饗応役は直ちに佐倉藩主戸田忠真に変わりました。そこで、伝奏屋敷の持ち込んでいた道具類はすぐに片づけなければなりません。
 この指揮をとったのが、原原惣右衛門です。
 原原惣右衛門は、瞬く間に処理を終了し、幕府の立会人を感心させたそうです。
 そして、赤穂への急使役も勤めたのでした。

 第一陣は、3月19日早朝寅の後刻(午前4時ごろ)に赤穂に到着しました
 第二陣の到着は19日夜戌の後刻(午後8時ごろ)ということです。

 江戸から赤穂まで155里(約620キロ)を、早駕籠を使って移動しました。
 通常なら17日かかる行程でした。
 それを4日半で走破しました。
  ものすごいスピードで走りすぎて行ったことになります。

 伝奏屋敷の跡は、現在の三菱UFJ信託銀行本店および日本工業倶楽部会館となっています。(右下段写真)





 
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by wheatbaku | 2013-05-30 10:56 | 忠臣蔵 | Trackback
多門伝八郎覚書⑦中身は疑問(江戸検お題「本当の忠臣蔵」24)
多門伝八郎覚書は、浅野内匠頭の刃傷松之廊下の場や切腹の場に立ち会った当事者の記録としての価値が確かにあるのですが、一方で大変疑わしい部分もかなりあるといわれています。

 野口武彦氏は、ちくま新書「忠臣蔵」の中で、
c0187004_10131251.jpg
 庄田下総守が浅野内匠頭の切腹場所を座敷内でなく庭先とした措置について、多門伝八郎が異議を唱えた点は、事実であろうが、
「『多門伝八郎筆記』の根本史料としての信憑性はその辺までである。(中略)『多門伝八郎筆記』の記述それ自体が、史料として扱うには疑惑の度合が多すぎるという方向に進んでゆくのだ。ありていにいって、同書は、せっかくの客観的真実を伝えていながらそれをご破算にしてします壮大なホラバナシである。」
と「多門伝八郎覚書」は信頼できないと決めつけています。

そして疑わしい点を5点あげています。
 第一点は、切腹の直前に、田村邸に片岡源五右衛門が今生の別れをするために訪ねてくる話です。
片岡が訪ねてきた時刻は、伝奏屋敷の片づけと鉄砲洲の藩邸からの立ち退きで忙殺されているはずであり、(そんな余裕がないし)、さらに、赤穂側の史料にまったく書かれていない(から疑わしい)としています。
 第二点は、浅野内匠頭の辞世の一首です。
 浅野内匠頭がゆっくり墨を摺り、辞世を詠んでいるが、現場の空気はピリピリしていて、そんな悠長な場面ではなかったし、田村家・浅野家の記録にそんな記事がない(から疑わしい)と書いています。
第三点は、翌3月15日に広島藩浅野家から仙台藩伊達家と一関藩田村家に切腹の場所が不当だと厳重な抗議があったという話が書かれているが、事実そんなことはなかった(点が疑わしい)としています。
第四点は、3月15日に、多門伝八郎の登城前に番町の自宅に片岡源五右衛門が麻上下を着用して訪れ昨夜の礼を述べたと書かれているが、実際には、この日、内匠頭の葬儀があわただしく行われ、片岡は泉岳寺で落髪している(ので事実としては疑わしい)
第五点は、11月23日に、片岡源五右衛門が、江戸城内の「中之口」に参上して面会を申し入れたので、多門伝八郎は片岡源五に面会した際に、片岡が手土産に赤穂の塩を持ってきたとされているが、これではいくら何でも話が出来すぎているとしています。


c0187004_1013241.jpg  宮沢誠一氏も、三省堂「忠臣蔵」で、同様に書いています。
 浅野内匠頭に片岡源五右衛門が暇乞いに来た時、小書院の次の間」で、無刀のまま田村家の家臣に警固され浅野内匠頭が切腹するのを垣間見ることができたという。(中略) これはおそらく事実ではなく、多門が捏造した虚構の話であろう。
 さらに、浅野が切腹のときに自分の差料で介錯してほしいと願ったとか、有名な辞世の歌を詠んだとか、翌日に片岡が裃をお礼の挨拶にきたとか浅野本家の松平綱長が「庭前切腹」について伊達綱村に厳重に抗議したと疑わしい話が続出するのである。
 ここまでくる、当事者の主観的な思い入れからくる記憶違いというよりもむしろ意図的な伝説の創出といったほうがいい。気骨のある悲憤慷慨型の目付であった多門伝八郎は、浅野に同情するあまり自らが紡ぎだす「忠臣蔵」伝説に酔ってしまっているのである。


 このようにかなり批判が強い「多門伝八郎覚書」ですので、内容は注意して読む必要がありそうです。
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by wheatbaku | 2013-05-29 10:08 | 忠臣蔵 | Trackback
多門伝八郎覚書⑥内匠頭切腹(江戸検お題「本当の忠臣蔵」 23)
 ひさしぶりに「忠臣蔵」の話題です。

 浅野内匠頭の切腹についての田村家の記録まで書きましたが、浅野内匠頭の切腹の場面を記録したものに「多門伝八郎覚書」があります。
 多門伝八郎は、大目付庄田下総守、目付大久保権左衛門と田村邸に行き、浅野内匠頭の切腹を検分しました。
c0187004_895731.jpg 「多門伝八郎覚書」は、浅野内匠頭の切腹の様子を記録したものとされていて、「忠臣蔵」にもそれをもとに演出された場面が多くあります。
 「多門伝八郎覚書」は結構長いので全てを書くと大変ですので、よく話題になる四つの部分だけを抜書きします。
 一つ目は、浅野内匠頭の切腹場所についての大目付への異議申し立てです。
 二つ目が、片岡源五右衛門の暇乞いを許した点です。
 三つ目が、浅野内匠頭が自分の刀で介錯してもらう場面です。
 最後が、有名な浅野内匠頭の辞世です。 

 右写真は、泉岳寺にある「浅野内匠頭長矩のお墓」です。


1、切腹場所に対する異議申し立て
 多門伝八郎は、浅野内匠頭の切腹が、庭先で行われることに異議を唱えます。
 
 夫より下総守方ニ向逐一見分致候処以之外相違ニ御坐候、夫故先刻御問合申候処、諸事御手抜無之様ニ御談じ申候処、逐一言上之外、御用意之処如何と御尋申候節、御手落も無之段御答 に付、御任申候、何か拙者共差出ケ間敷様被仰聞候間、其儘差置候処、此仕合に御坐候、後刻言上は銘々可申上旨厳重ニ申上候故、下総守義殊之外立腹にて「可然可被致候、大検使之事に候、拙者ニ御任せ御銘々より趣意可被申立候」と既に大取り合共相成候(略)

2、片岡源五の暇乞い

 田村右京太夫から、浅野家の家来の片岡が暇乞いを願い出たことが伝えれえます。
 庄田下総は無言、そこで多門伝八郎は、よろしいだろう、一目ぐらい合わせるのは慈悲であるから許すと許可します。
 庄田下総も「よいようにしろ」と答えて実質的に許可しました。
 これにより、片岡源五は、浅野内匠頭に会うことができました。

 右京大夫被罷出、只今浅野内匠頭家来片岡源五右衛門と申もの罷出、主人義於手前切腹被仰付候段承り、主従之暇乞に候間、一眼主人を見申度段相願候。再応押返し候得共、一度御手前様方え申達呉候様、気色を替へ相願候に付、又候差留候ても、何ぞ珍事出来候ては如何と存候故、先御達申候由被申聞候」由被申聞候處、総守一向無言にて「夫敷之事、大検使え被申達候 程之義にも有之間敷」と被申候て、不相成共何共一言不被申。伝八郎左右京太夫江申聞候には「不苦候(略)、一眼位ハ生上慈悲故拙者承届候、如何に」と下総守江申聞候処「思召次第」と被申候(後略)
 其内右京太夫被罷越、「先刻多門伝八郎殿御一存に被仰渡候趣、内匠頭家来片岡源五右衛門え申渡候処、殊之外難有仕合に奉存候と、拙者え申述呉様申聞候間、小書院之次之間に無刀に為致(いたさせ)、家来大勢警固為致扣置候」と申聞候間、「随分無油断警固致され、心付可申」段申渡候。(後略)


3、自分の差料での切腹
 そして、いよいよ浅野内匠頭長の切腹の場になります。
 庄田下総守はじめ面々が、大書院に揃い、浅野内匠頭に申渡しを行うと、浅野内匠頭はいつもの様子でそれを請けました。
 この時、浅野内匠頭は、吉良上野介の容体がどうか聞いたので、目付二人が「浅疵であるが、老人でもあり、急所でもあり、危ないのでは」と答えると浅野内匠頭はにこっと笑ったと書かれていています。
 その後、切腹場所に移動します。
 その際に、浅野内匠頭は、自分の差料で介錯してくれるように依頼するとともに、その差料を介錯人に遣りたいとお願いし、庄田下総、目付衆ともに許しました。

 銘々座に付、内匠頭も座に付候て被申候には、「御検使衆へ一ッ願有之。拙者差料之刀、定て是迠御預り被置可被下候 右刀にて介錯致貰度候。右刀は跡にて介錯人え差遣度」と被申候(後略)

4、浅野内匠頭の辞世
 浅野内匠頭が辞世を残したいというので、硯と紙を渡すと次の辞世を詠みました。
 風さそふ 花よりも猶 我ハまた 春の名残りを いかにとかせん

 硯筥・紙を乞候故、差出候処、刀参り申候うちに内匠頭硯箱引寄、ゆるゆると墨を摺り、筆を取り
  風さそふ 花よりも猶 我ハまた 春の名残を いかにとかせん
と書て、刀を介錯人御徒目付磯田武太夫え相渡候内、相待被居候。右之歌は御徒目付 水野杢左衛門請取、田村右京太夫え差出候に付、受取申候内、介錯人磯田武太夫 古法之通介錯致し、切腹相済見届之返答有之、死骸等は田村右京太夫方にて取計候故、跡之義は右京太夫え申渡、各退散也。


 忠臣蔵でなじみの場面が続いていて、我々にはわかりやすい話です。
 しかし、これらが書いてある「多門伝八郎覚書」の信憑性については、疑問が呈されています。
 その話は次回に書きます。

 
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by wheatbaku | 2013-05-28 07:59 | 忠臣蔵 | Trackback
鳥羽伏見の戦い⑥幕府軍が負けた理由 (八重の桜 第21回「敗戦の責任」)
 昨日の「八重の桜」のタイトルは「敗戦の責任」でしたのね。
 このタイトルを見たときは、鳥羽伏見の戦いの敗戦について慶喜の行動を取り上げるのかと思っていましたが、それは違っていましたね。
「敗戦の責任」とは「敗戦の責任を取った神保修理」という意味のようです。

 鳥羽伏見の戦いで、正月4日に敗勢となった幕府軍は、淀城で敗勢を立て直そうとしましたが、淀藩は、城門は閉ざして、幕府軍の入城を拒否したのです。
c0187004_848293.jpg そのため、幕府軍は、さらに南の八幡橋本で陣を敷きました。
 しかし、八幡橋本で陣を敷き、新政府軍の攻撃を防ごうとした幕府軍に思いがけない事態が起きます。
 対岸の山崎に布陣していた津藩が、いきなり幕府軍に狙いをさだめて砲撃してきたのです。
 津藩は、家康以来、藤堂鷹虎を藩祖として、いざ事あるときは幕府軍の先鋒となる家柄で、慶応元年(1865)から山崎の警固を任せれていたのです。
 しかし、前日の夜に勅使の四条隆平(たかとし)が、津藩の代表に会い、新政府軍への寝返りを進めたのです。

 このように、現職老中を出していた淀藩や先鋒の家柄の津藩まで寝返る事態で、鳥羽伏見の戦いでは、幕府軍は、大敗をきっします。

 幕府軍は1万5千、新政府軍は5千でした、数では、圧倒的に幕府軍が優位にたっていました。
 それにも拘わらず敗北した理由にはいろいろな説がありますがまとめみると次のようです。
(1)幕府軍は、上京するに際して、薩長軍は戦わず道をゆずるだろうと、最初から薩長の出方を甘くみたこと。
(2)其考えに基づき、前回の「八重の桜」で会津藩の田中土佐たちが言っていたり、ハカマオーも指摘しているように、京都を攻める際には複数口から攻撃するのが常道であるにもかかわらず、鳥羽・伏見の2街道から攻めていること。
(3)また、戦闘に際して、縦列で戦ったため、数の優位が生かせず、薩長の鉄砲の餌食となったこと
(4)そして、新政府軍が新式銃を準備して戦ったこと 
(5)さらに決定的なことは、指導部の戦う意識と能力の欠如です。
 将軍慶喜は、決戦の気概が薄く、現場指揮官の竹中重固(しげかた)、瀧川具知は軍隊指揮能力が高くなかったようです。

 こうしてみると、幕府軍は、戦略、戦術、装備、指揮官など多くの点で不十分だったようです。
 結果としては、負けるべくして負けたということではにでしょうか。
 
 

c0187004_1333817.jpg こうした敗戦の報は、慶喜にとって予想外の展開でしたが、慶喜は、6日の日、慶喜は、大坂城に詰める将兵に対して、「たとえ、城が焦土と化しても君側の奸を除くまで戦おう」と宣言しました。
 しかし、これは上辺で、実際は徹底抗戦する考えはなかったようです。
 その夜、慶喜は、午後10時ごろ、大坂城を抜け出し、天保山沖にいたアメリカ軍艦に乗船し、7日朝、開陽丸に乗り移り、8日正午に江戸に向けて出発します。
 慶喜に従ったのは、松平容保、桑名藩主松平定敬(さだあき)、老中の板倉勝静(かつきよ)酒井忠惇(ただとし)らごく一部の側近だけでした。

 総指揮官が、戦場を離脱したわけですから、幕府軍が態勢を維持できるはずがありません。
 幕府軍は崩壊してしまいました。

 「八重の桜」では、敗戦の責任が、江戸に帰ることを進言した神保修理にあるというふうに組み立ています。
 容保が慶喜と一緒に帰ったことについての責任の一部は、神保修理にあるかもしませんが、慶喜が江戸に逃げた責任しいては鳥羽伏見の敗戦の責任まで神保修理にあるかどうかについては異論を持つ人もいるのではないでしょうか。
 中公文庫「日本の歴史20  明治維新」の中で、井上清氏は 「ひそかに板倉老中、永井若年寄とはかり大坂城脱出の準備を整えた」と書いています。

 12日に慶喜が開陽丸に乗って、浜御殿に上陸したのを出迎えた勝海舟は、慶喜に対して「敗戦の責任はあなたにある」といったそうです。
 最上段の写真は、浜離宮に残されている「将軍お上がり場」です。ここで慶喜や容保が下船しました。 
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by wheatbaku | 2013-05-27 08:48 | 大河ドラマ | Trackback
丸の内・日比谷散歩
 昨日は、毎日文化センターさんの「『八重の桜』ゆかりの地を行く」の第1回が開催されました。
 今回は、丸の内・日比谷地区の史跡をめぐりました。
  
 丸の内や日比谷地区は史跡が目白押しですね。
 詳しくは、随時、ブログで紹介していきますが、昨日のトピックを書いていきます。
c0187004_1554741.jpg 昨日は、曇り空で、暑くもなく涼しくもなく、散歩には最適な天候でした。
 東京駅からのスタートでした。
 東京駅は、昨秋の復元工事完了後観光客が増えていましたが、昨日も大勢の観光客がいました。
 右写真は、行幸通りからみた、東京駅ですが、駅が真正面に見えるため、観光の人が写真を撮っていました。


c0187004_1561421.jpg 今日のポイントは、会津藩の上屋敷跡です。
 会津藩の上屋敷は、和田倉門内にあり、現在の和田倉噴水公園周辺にありました。
 和田倉噴水公園は、今上天皇が、皇太子時代の御成婚された記念に造られれた公園です。
 噴水公園と称するだけに、見事な噴水が吹き上げていました。


c0187004_1564183.jpg この講座で、史跡めぐりをしていると、不思議と結婚式にめぐりあいます。
 昨日も、三菱一号館美術館で、一組のカップルの結婚式に巡り合いました。
 そして、写真を撮らさせていただきました。
 お二人の末永いお幸せをお祈りします。


c0187004_157346.jpg 明治生命館は、元々昭和9年に建てられた明治生命の本社です。
 平成9年に重要文化財に指定されていますが、平日は、明治安田生命の相談センターとして業務が行われているため公開されていませんが、土曜日・日曜日は無料公開されます。
 昨日は、土曜日でしたので、館内を観ることができました。
 一階の大理石の柱が林立している光景は本当に見事なものでした。…

 ご参加いただい皆様ありがとうございました。
 初めてお会いした皆様とも楽しく散歩することができ感謝申し上げます

c0187004_1572315.jpg さて、散歩の後は、いつも通り、希望者で「飲み会」です。
 昨日は、5人での飲み会でしたが、史跡めぐりの話、家族の話を初め様々の話題で盛り上がりました。
 最後は、記念の写真をパシャです。もちろん、ブログに載せることは了解いただきました。
ちょっと硬い表情かな!
 皆さん、楽しい時間ありがとうございました!


 
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by wheatbaku | 2013-05-26 01:58 | 大江戸散歩 | Trackback
ありがとうございます! 20万突破!!
  おかげさまで、昨日訪問者数が20万人を突破しました。  

 私が利用しているエキサイトでは、アクセス数でなく訪問者数を累積しています。
 その訪問者数が、昨日 20万人を突破しました。

 いつもご覧いただいている皆様に感謝申し上げます。

 15万人の区切りがいつか調べてみたら、昨年の10月に突破していましたので、7か月で5万人の方に訪問していただいたことになります。


c0187004_932109.jpg 最近、このブログをご覧になっている方が増えているということを実感するエピソードが何件もありました。
 そのうちいくつかをご紹介してみます。

(1) 5月3日に、ホテルニューオータニさんの大江戸散歩で日本橋のガイドをさせてもらいました。
 その際に、食事をご一緒させていただいたご婦人から、「『気ままに江戸♪』のニューオータニさんの案内を見て申し込んだんですよ」というお言葉をいただきました。
 思いがけないお話で驚いたり喜んだりでした。

(2) 日比谷公園にある「みどりのi(アイ)プラザ」に「つくられた江戸城と日比谷公園の地形」展を見に行った際ですが、展示会場のご担当の方に質問をする際に、名刺をわたしたところ、「あっ『気ままに江戸♪』ですか、いつも見させてもらってます」とおっしゃられてビックリしました。

(3) 一級2期会の秋山太兵衛さんから聞いた話
  秋山さんが一緒にやっているグループで、今年の江戸検のお題が「忠臣蔵」であるということが話題になった際、ある人が「忠臣蔵に関する良いブログを見つけましたよ」といったそうです。そこで、秋山さんが「なんてブログ?」と尋ねると「『気ままに江戸♪』っていうんですよ」と言われたそうです。
 秋山さんは「獏さん!こんな話があるよ」とうれしそうな顔をして、このエピソードを教えてくれました。

 その他、身近な人からは、「毎日チェックしているよ」とか「毎日、更新していてすごいねぇ」などのお言葉をいただています。

 こんなに
大勢の人に読んでいただいて、大変感謝しております。


 ブログを毎日更新するのは、結構パワーが必要なことも事実です。
 本来の会社の仕事をこなし、ガイドの準備をして、そして、ブログの更新ということになると、時には、今日はパスしようかなと思うこともあります。
 しかし、訪問される方がいらっしゃることを思うと、つい、新しく更新しようということになります。
 つまり、多くの皆さんのこのブログへのご訪問が原動力となっています 
 また、このブログを書いているがゆえに、江戸に関する情報・知識が増えているのも事実です。

 そうしたことから、これからも、できるだけ毎日更新をしていきたいと思いますので、これからも、末永く、ご覧いただければ幸いです。

 といっておきながら、明日は、毎日文化センターさんの「『八重の桜』ゆかりの地を行く」で丸の内や日比谷をご案内する予定です。そのため、明日の更新は難しいと思いますのでご勘弁ください。
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by wheatbaku | 2013-05-24 09:26 | Trackback
鳥羽伏見の戦い⑤妙教寺(八重の桜 第20回「開戦!鳥羽伏見」
 昨日に続いて、淀城に関連する記事を書きます。

c0187004_9241011.jpg 昨日紹介した淀城は、江戸時代になって築造された淀城です。
 有名な淀君が暮らした淀城は、現存の淀城跡より600メートルほど北に行った場所にありました。

 現在は、妙教寺という寺院になっている場所が淀城の本丸だと言われています。
 妙教寺の境内には「史跡 淀古城跡、戊辰役砲弾貫通跡」の石柱が立てられています。
 それには、
 「此処は戦国時代の始、細川管領家が築城し薬師寺与一 岩成左通 淀君の居城となった淀古城の址である。」
 と書かれています。

 
c0187004_9261611.jpg この妙教寺には、鳥羽伏見の戦いの際に打ち込まれた砲弾の跡が残されています。
 石柱には、「慶應四年正月四日戊辰役の際 東軍砲弾が飛来し本堂を貫通したその弾痕がある」と書かれています
 砲弾の跡は、本堂内に残されているというので、ご住職にお尋ねしました。
 すると、夕方でしたが、快く本堂の扉を開き、中を観させていただけました。


c0187004_9252696.jpg 砲弾は、本堂の壁を貫き、また本堂中心にある柱を貫通して、反対側で止まったそうです。
本堂の壁板は、位牌の並ぶ中に、当時のまま残されています。

 また、堂内には「砲弾貫通の柱」があります。
 砲弾はその柱の中心部を貫通している痕跡がはっきりと残されていました。
 砲弾が貫通した周りは鉄で補強されていますが、現在も本堂内で柱として使用されています。


c0187004_9261031.jpg また、境内には「戊辰戦役東軍戦死者之碑」があります。
 明治40年に建立されたもので榎本武揚の揮毫です。

 赤印が妙教寺です。青印が淀城跡です。

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by wheatbaku | 2013-05-23 09:21 | 大河ドラマ | Trackback
鳥羽伏見の戦い④淀城(八重の桜 第20回「開戦!鳥羽伏見」
今日は、鳥羽伏見の戦いで重要な役割を果たした「淀城」について書きます。

 昨年9月に訪ねていましたが、まだブログには書いていませんでしたので、今「鳥羽伏見の戦い」を書いていますので、ちょうど良い機会ですので、アップします。

c0187004_941359.jpg 淀城は、京阪本線「淀」」駅から徒歩7分程度の距離にあり、現在は「淀城跡公園」となっています。
 
 淀は昔から、京都に運ばれ物資の集積地であり、大坂方面や大和方面から京都に入る要衝でした。

 淀城は、宇治川、桂川が合流する付近に築かれています。
 元々は、室町時代に細川政元が築きましたが、その城を修復し天正17年に豊臣秀吉が側室茶々に与えたことは有名です。そのため、以後茶々は「淀殿」とよばれることとなりました。
 この淀君の淀城は現在の位置より北へ約500メートルの位置にありましたが、その後は廃城となりました。
 現在の淀城は、江戸時代の元和9年(1623)松平定綱により築かれました。
 その後、城主が、永井家、石川家、戸田家、松平家と変わった後、享保8年に稲葉正知が10万石で城主となりました。
 その後、幕末まで稲葉家が城主をつとめました。
c0187004_9421090.jpg 稲葉家は、春日局の子孫であり、譜代の名門でした。老中も5人だし、鳥羽伏見の戦いの際も、藩主の稲葉正邦は老中で、江戸に詰めていました。
 鳥羽伏見の戦いでは、旧幕府軍は鳥羽・伏見の戦いに敗北して淀城に籠もろうとしますが、淀藩に拒絶され、淀城に入城できませんでした。
 このことは、幕府軍にとって軍事的に打撃であるともに、現職の老中を出している藩が寝返るということは政治的に大打撃となり、幕府軍の敗北を決定づけました。

 淀城は、明治になって、建物は取り壊せされ、現在は、石垣と堀だけが残されています。
 本丸跡には、「淀城址」の石碑が立っています。
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by wheatbaku | 2013-05-22 09:36 | 大河ドラマ | Trackback
鳥羽伏見の戦い③錦の御旗(八重の桜 第20回「開戦!鳥羽伏見」)
 昨日の「八重の桜」で、後半で、西郷隆盛と大久保利通が、錦の御旗を立てるという話をしていました。
 そこで、今日は、その「錦の御旗」について書いてみます。

 「錦の御旗」は、天皇の軍隊すなわち官軍であることを表す旗です。
 この「錦の御旗」は、後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒そうとした承久の乱の時に初めて授与されたといわれています。
c0187004_8435473.jpg また、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒そうとした時にも掲げられたといいます。
 こうした記録をもとに、岩倉具視は、3か月も前から準備していました。
 「岩倉公実記」によると、慶応3年10月6日に、大久保利通と品川弥二郎に錦の御旗の製作を依頼しているそうです。
 岩倉は、新政府軍が幕府軍と戦闘になった場合に、新政府軍が天皇の配下の軍である事を明白にするために、岩倉具視が友人の国学者・玉松操(たままつみさお)にデザインを依頼して、密かに準備していたものです。

 大久保が京都市中で錦を調達し、数日後に品川が材料を長州に持ち帰って錦旗に仕立てたといいます。。
 『日月』章の御旗が二旒、「菊花」章の紅白旗がそれぞれ十旒完成し、半分は長州に残し、残りは京都の薩摩藩邸に運ばれ秘蔵されていました。

 正月4日に、朝廷は、仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍に任命し、天皇から節刀とともに「錦の御旗」が親王に授与されました。
 仁和寺宮は、「錦の御旗」を掲げる薩摩藩兵に先導され、新政府軍の本営である東寺に入りました。
 親王が軍装で出陣するのは、護良親王以来のことでした。

 「錦の御旗」が翻ることにより、新政府軍が官軍となり、幕府軍は賊軍となることになります。
 この錦の御旗が、鳥羽伏見の戦場に翻ったのは、正月5日の午後2時ごろです。
 これにより、勝敗は完全に決しました。
 新政府軍は士気が挙がる一方で、幕府軍は戦意を喪失し淀城方面へ配送し始めます。
 日和見を決め込んでいた諸藩は、雪崩を打って新政府軍側に味方するようになりました。



c0187004_8534351.jpg この時に、征討大将軍に任命された仁和寺宮嘉彰親王は、名前の通り仁和寺の門跡でしたが、直前の慶応3年12月に、復飾を命ぜられ仁和寺宮嘉彰親王と名乗りました。
 戊辰戦争では、会津征討越後口総督 として官軍の指揮を執りました。
 明治15年に、宮号を小松宮に改称し、小松宮彰仁親王と名乗るようになりました。
 この小松宮彰仁親王の銅像が、上野公園内の上野駅から上野動物園に向かう途中に左手にあります。
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by wheatbaku | 2013-05-20 22:07 | 大河ドラマ | Trackback
  

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