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西郷頼母一族自刃(八重の桜 第26回「八重、決戦のとき」)
 新政府軍が会津若松に侵入した8月23日には、白虎隊の自刃に次いで第2の悲劇と呼ばれる西郷頼母一族の自刃も起きました。
 今日は、その西郷頼母一族の自刃について書きます。

 西郷頼母は、会津藩の家老でした。
 松平容保が京都守護職を受諾した時には、急ぎ江戸に上り、強く反対しました。
c0187004_0153798.jpg その後、容保が京都に駐在している際にも、京都守護職を辞任することを進言し、国許で蟄居を命じられていました。
 そして、会津戦争が始まるに際して、家老に復帰し、白河口総督を命じられましたが、敗戦の責任をとって、謹慎を命じられていました。
 しかし、母成峠が破られたため、西郷頼母も呼び出され、背あぶり山の防衛を命じられていました。

 若松城下の武士は妻子を含め新政府軍が侵攻してきた場合には、鶴ヶ城に籠城するよう指示を受けていました。
 当然、西郷頼母の一族も、籠城が予定されていました。
西郷邸は、鶴ヶ城の大手門前の一等地にありました。(西郷邸跡には石碑が建っています。右上写真)
 
 しかし、西郷頼母および妻千恵子の決意は違うものでした。
 城に入ることにより、一人前の働きのできない婦女子が貴重な食糧を浪費しないようにして、かつ新政府軍に捕まり恥辱をうけることを避けるために、選んだ道は、自ら命を断つことでした。
 この決断の背景には、西郷頼母が、京都守護職就任に反対してきていること、また会津戦争が始まってからは、和平恭順論を唱え、藩内で一人浮き上がっていたという事情が大きく影響していたように私には思えます。

 新政府軍が、城下に侵攻してくると、千恵子は、長男吉十郎を鶴ヶ城に送り出した後、西郷千恵子は、一同を一部屋に集め、覚悟を述べました。
 そうして、次の21人が、西郷頼母邸で自刃をしました。
 頼母の妻・千恵子(34歳)
 頼母の母・律子(58歳)、
 頼母の妹・眉寿子(みすこ 26歳)、妹・由布子(ゆうこ 23歳)、
 長女・細布子(たいこ 16歳)、次女・瀑布子(たきこ 13歳)。
 三女・田鶴子(たづこ 8歳)、 四女・常盤子(とわこ 4歳)そして五女の李子(すえこ 2歳)

 その他に一族の西郷鉄之助夫妻
 小森一貫斎の家族5人、
 軍事奉行町田伝八とその家族の2人。
 浅井次郎の妻子2人。
 このなかには、4歳の常盤や2歳の季子たち幼い子供たちも含まれています。
 この幼な子の命を絶つ時の母千恵子の思いはどんな思いだったのでしょうか。

 西郷頼母一族は、自刃にあたり、辞世を残しています。
  なよ竹の 風にまかする 身ながらも たわまぬ節の ありとこそきけ (妻:千重子)
  秋霜飛兮風冷 白雲去兮月輪高 (母:律子)
  死にかへり 幾度世には 生るとも ますらお武夫となり なんものを(妹:眉寿子)
  武士の 道と聞きしをたよりにて 思ひ立ちぬる よみの旅かな (妹:由布子)
  手をとりて ともに行きなば迷はじよ (次女:瀑布子)
    いざたどらまし 死出の山道    (長女:細布子)
   これは上の句を瀑布子が詠み、下の句を細布子が詠んで完成させたものでした。

 この一族の自刃の場に居合わせた人物がいます。後に初代衆議院議長となる土佐藩士中島信行です。
c0187004_0155843.jpg この日、新政府軍の先陣を切っていたのは土佐藩でした。土佐藩士中島信行は、一隊を率いて郭内に入りました。
 そして、大手門の前に大きな邸宅があり、鉄砲を打ち込みましたが、それに応ずる気配がありませんでした。そこで家の中に入り、長い廊下を進み奥の間に達しました。
 そこには、凄惨な光景が広がっていました。驚くことに多くの婦女子が自刃していたのです。
 その中にあでやかな女子がいました。年のころ17、8歳でした。
 まだ息はたえていませんでしたが、もう眼はみえていませんでした。しかし、耳はまだ聞こえるらしく、物音に気付いて少し身を起し、かすかな声で「敵か味方か」と言いました。
 中島信行は、この場を見て敵であるということはあまりにも残酷な気がしたため「味方だぞ」と答えました。
 するとこの女は、身の周りを探って短刀を探しました。そして手にした短刀を差し出しました。
 中島信行は、短刀で命を絶ってもらいたいのだろうと察したので、涙を振って介錯し邸外に出たというのです。
 中島信行が、介錯した女子は、長女の細布子だったと言われています。

 西郷頼母の屋敷を復元したのが「武家屋敷」です。
c0187004_0162319.jpg 広大な西郷頼母邸が復元されています。
 その中には、家族が自刃した部屋も復元されています。
 その部屋には「自刃の間」という説明板が置かれています。右写真の左にその説明板が写っています。
 さらに、別の部屋には、自刃の様子が人形で復元されています。
 ここでは、西郷頼母邸の悲劇に悲しむ人が多くいるようで、人形たちにお賽銭が挙げられていました。
 私も自然と合掌していました。
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by wheatbaku | 2013-06-30 00:18 | 大河ドラマ | Trackback
白虎隊自刃(八重の桜 第26回「八重、決戦のとき」)
 今回の「八重の桜」」のタイトルは「八重、決戦のとき」ですが、慶応4年8月23日の若松城下への新政府軍の侵入が描かれるようです。
 この日には、白虎隊の自刃、西郷頼母一族21人の自刃、田中土佐・神保内蔵助の切腹と悲劇が連続しておこります。
 これらについて順に書いていきます。
 その中で、今日は、「白虎隊の自刃」について書きます。

 戸ノ口原で敗退した白虎隊は、数グループに分かれて退却を始めました。
c0187004_7353482.jpg その中に、教導の篠田儀三郎に指揮されたグループもありました。
 新政府軍の侵攻は素早く、戸ノ口原から若松城下に向かう途中にある滝沢峠には、新政府軍が充満していました。
それに気が付かず、不用意に姿を見せたため、隊士の永瀬雄次が銃撃され負傷しました。
 そこで、篠田儀三郎のグループは、街道をさけ、湿地や山道に分け入って若松城下を目指し、飯盛山の東側からは、戸ノ口堰の洞門をくぐり抜け、西側に出ることとしました。
この時の人数は、飯沼定吉の回想録に寄れば17人だったようです。
洞門を抜け厳島神社の裏に出て、そこから山腹を辿って飯盛山の南面に迂回して、鶴ヶ城をみる と
 城下は早や紅蓮の炎を上げ、君侯のいます鶴ヶ城は全く黒煙に包まれ、天守閣などは今にも焼け落ちるかと思われた。(「平石会戊」)
という状況でした。

 飯盛山と鶴ヶ城との間は、2千8百メートルほどだそうです。
 実際に飯盛山に登って、鶴ヶ城を見てみると、天守閣は見えるものの、詳細がはっきりわかるわけではありませんでした。
 ですから、鶴ヶ城が燃えていたのではありませんが、城下が燃える炎を見て、鶴ヶ城が燃えているものと考えても仕方ないと思われます。

c0187004_7392139.jpg これを見て、飯沼貞吉の回想録では、
  山腹に整列しはるかに鶴ヶ城に向かって決別の礼をなし、銃を捨て刀を抜き、あるいは腹を切り、あるいは喉を突いた
 白虎隊の自身の様子を書いています。 

 しかし、実際には、炎をみて、即座に自刃が決まり、さらに隊士が一斉に自刃したわけではないようです。
 敵の重囲を衝いて城に戻るべきだと主張する隊士もいて、議論となりましたが、疲労困憊し空腹の状態では生きて敵に捕まり恥辱を受けるもの遺憾ということになり、自刃と決まったようです。

 飯盛山で自刃した白虎隊士は次の20名です。自刃した時刻は、午後2時から4時頃だったようです。

  安達藤三郎、有賀織之助、飯沼貞吉、 池上新太郎、石田和助、
  石山虎之助、伊東悌次郎、伊藤俊彦、 井深茂太郎、篠田儀三郎 
  鈴木源吉、 津川喜代美、津田捨蔵、 永瀬雄次、 西川勝太郎
  野村駒四郎、林八十治、 間瀬源七郎、簗瀬勝三郎、簗瀬武治

 このうち、飯沼貞吉は、奇跡的に生き残り、飯盛山で自刃した白虎隊士は19名とされています。
 その白虎隊士の墓が飯盛山にあります。(右上写真)
 実は、白虎隊士の遺骸は、新政府軍により手をつけることを禁じられていました。
 約三ヶ月後村人により、密かにこの近くの妙国寺に運ばれ仮埋葬され、後に飯盛山に改葬されたのだそうです。
c0187004_7355645.jpg 白虎隊士が自刃した場所は、墓とは少し離れた場所にあります。
 そこには、供養塔や白虎隊士の像などが建てられています。(右下段写真)

 さて、白虎隊士たちがどのように自刃していったか、中村彰彦氏が文春文庫「白虎隊」に書いています。

 飯沼貞吉は母から出陣の際にもらった短冊を襟から取り出して二度、朗々と高らかに読み上げました。 
 次いで、篠田儀三郎が文天祥の詩「零戦丁洋を過ぐるの詩」を吟じました。
負傷していた石田和助は、「人生古より誰か死無からん。丹心を留取して汗青を照らさん」と誦し、「手傷苦しければお先に御免……」と両肌を脱ぎ、刀を腹に突き立てて見事な最期を遂げました。
 これを見た教導の儀三郎は、その太刀を抜いて逆手に持って、一気に喉を突いて倒れたました。

 敵弾を腰部に受けてた永瀬雄次と林八十治は、対座して互いに刺し違えようとしましたが、永瀬は林の息の根を止めることができずに絶命しました。
 そこで林は野村駒四郎に介錯を頼み、野村は、一刀のもとに介錯し、返す刀で 自らも切腹して果てました。
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by wheatbaku | 2013-06-28 08:38 | 大河ドラマ | Trackback
大石内蔵助と堀部安兵衛の論戦」(江戸検お題「本当の忠臣蔵」35)
今日も「忠臣蔵」関連の話題です。

 大石内蔵助の御家再興を第一に考えるという考え方については、先日、紹介しました。
 これに異を唱えていたのが、江戸急進派の人たちで、その中心人物は堀部安兵衛です。
 大石内蔵助と堀部安兵衛は、論戦を展開します。
c0187004_2243325.jpg この二人のやりとりは、堀部安兵衛の残した「堀部武庸(たけつね)筆記」(赤穂市編纂「忠臣蔵第3巻」)に書かれています。

 堀部安兵衛は、主君の鬱憤をはらすことが家臣の努めであると考えて、仇討を第一に考えています。

 そこで、堀部安兵衛は、大石内蔵助の江戸下向(つまり仇討の実行)を催促します。
 それに対して大石内蔵助は6月12日付で、返事を書いています。
 その内容は、
 この時節大勢で下向するのはよくない。早々に下向したいが、左の腕に腫れ物ができているので、江戸にいけない。 また、堀部安兵衛が上洛する必要もない
  という返事でした。

 7月13日に、大石内蔵助は再び手紙を書いています。

 そして、大石内蔵助は、大学の安否がはっきりしないうちは、どんな「存念」があっても大学のためにならない、「我意」を立てる考えはなく、このことは赤穂の面々も承知している
 と次のように書いています。

 此上は大学様御安否ノ様子次第、存念可申談覚悟ニ御坐候、御安否承リ不届内ニハ何様ノ存念有之候共御為宜様ニト幾重ニモ心底ヲ尽シ可申候、我意ヲ立て可申儀トハ毛頭不存、其段赤穂ノ面々モ右同前ノ了簡申合置候

 これに続いて、7月22日付の手紙で、大石内蔵助は、再び次のように述べて、浅野大学の安否がわかるまでは、仇討などの考えはないと言っています。

 (堀部安兵衛の)御了簡違ニ候哉ト何モ不審申事ニ候、右申入候通大学様御安否迄ハ是非共外ノ了簡存念毛頭無之候、赤穂ノ面々モ此段委細申含置候テ合点ニテ候間、左様ニ御心得御尤ニ御座候 

 これに対して、堀部安兵衛は、8月19日の書状で 次のように言っています。
 つまり、浅野大学は、一度「分知」した「連枝」にすぎない。亡君を主君と仰ぐ家来の身としては、亡君に忠義を尽くすことが本意である。
 すなわち、何が何でも浅野内匠頭に忠義をつくしたいということのようです。

 大学様御事ハ一度御分知ニ被為成他ヘ御分別被成候上ハ御連枝ト申迄ニテ御座候、各様我々始メトシテ御亡君様ヲ主君ト奉仰候御家来ノ身トシテ、御亡君ヘ忠ヲ尽シ候事本意ニ奉存候

 これに対して10月5日付の書状でも、大石内蔵助は、浅野大学の人前が立つ形での「御家再興」をめざす旨を伝えています。
 注目すべきことに、大石内蔵助は、この書状のなかで、大石内蔵助が目指していることが実現も難しいことだと認めているます
 つまり、
 定テ能事ハ万万一ツモ有之間敷トハ覚悟申候ヘトモ只今迄相待申モ是故候、千ニ一ツモ面目二モ有之人前罷成候首尾二成行候ハバ亡君ニモ御快方ニハ参間敷候哉(後略)
 と書いているのです。

 こうした論戦をしている時に、吉良上野介義央の隠居の情報が入ってきます。
 それ以降の動きは、来週に書きます。


 右上写真は、泉岳寺にある大石内蔵助の銅像です。
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by wheatbaku | 2013-06-27 08:20 | 忠臣蔵 | Trackback
浅野内匠頭親類の「遠慮」(江戸検お題「本当の忠臣蔵」34)
  今日は、忠臣蔵のお話です。
  少し時間が遡りますが、6月5日付の「赤穂藩上屋敷はどうなったか((江戸検お題「本当の忠臣蔵」28))で、松之廊下の刃傷事件を起こした浅野内匠頭長矩に連座して、『忌懸りの一族は「遠慮」との指示が出た』と書きました。
c0187004_14421427.jpg
 その時点では、「忌懸りの一族」の中身がわかりませんでしたので、詳しくは書きませんでした。
 それが、谷口眞子氏著「赤穂浪士の実像」(吉川弘文館)に書かれていました。

 それによると次のようになります。
 浅野内匠頭長矩の 父方の親類、母方の親類、妻の親類で四親等(つまり従兄弟)までが「遠慮」を仰せつかりました。
 「遠慮」は、表門を閉じて蟄居するという罪です。

1、父方の親類
  浅野内匠頭長矩の父浅野長友の兄弟関係です。
 (1)浅野長恒(旗本3千石、山田奉行 若狭野浅野家)
 (2)浅野長武(旗本3千5百石、家原浅野家)
 (3)松平定由(さだよし 叔母の夫  旗本2千石)
 (4)松平定相(さだすけ 松平定由の子供  旗本)

2、母方の親類
浅野内匠頭長矩の母は、志摩国鳥羽藩の第2代藩主内藤忠政の娘でしたので、内藤家の縁者ということになります。
 (1)内藤忠知(叔父 旗本2千石)
 (2)戸田氏定(叔母の子供 大垣藩主)
 (3)戸田氏成(叔母の子供 三河畑村藩主)
 (4)安部信峰(叔母の子供 武蔵岡部藩主)
 (5)安部信方(叔母の子供 旗本)

 3、妻の親類
  浅野内匠頭長矩の妻阿久里は、備後三次藩初代藩主浅野長治の娘ですが、2代藩主長照の養女となって、浅野内匠頭長矩に嫁いでいます。
 (1)浅野長照(阿久里の養父 備後三次藩主)
 
 この人たちに対する処罰は、元禄14年5月6日まで続き、「御目見差し控え」が解除されたのは6月25日でした。
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by wheatbaku | 2013-06-26 07:36 | 忠臣蔵 | Trackback
白金・目黒散歩
  先週の土曜日、毎日文化センターさんの「『八重の桜』ゆかりの地を行く」の講座があり、受講生皆様と白金と目黒の史跡めぐりをしてきました。

 「『八重の桜』ゆかりの地を行く」の講座名ですので、会津藩関係の史跡が目玉ですが、今回は会津藩家老の萱野権兵衛と軍事奉行副役であった神保修理のお墓のある興禅寺(白金)、そして「お静地蔵」のある会津藩初代藩主保科正之ゆかりの成就院(目黒)を中心に、次のようなコースを歩いてきました。

立行寺(大久保彦左衛門のお墓) ⇒ 白金氷川神社 ⇒ 興禅寺 ⇒ 東大医科学研究所 ⇒ 瑞聖寺 ⇒ 八芳園 ⇒ 【 電車移動 (白金台 ⇒ 不動前)】 ⇒ 成就院 ⇒ 目黒不動(瀧泉寺) ⇒ 青木昆陽のお墓 ⇒ 太鼓橋  ⇒ 大円寺

 興禅寺は、地下鉄「白金台」駅が最寄駅で、徒歩10分ですが、今回は、「白金高輪」駅から歩いていきました。
c0187004_10244895.jpg 大久保彦左衛門と一心太助のお墓のある立行寺を見て、白金氷川神社をご案内した後、興禅寺に向かいました。
北里研究所前の信号を曲がり、蜀江坂を上り聖心女子学院の横にみながら行くと、住宅街の中に興禅寺があります。
「萱野権兵衛」と「神保修理」のお墓は、二つ並んであります。
写真左手が、萱野権兵衛のお墓ですが、墓碑銘は萱野権兵衛の諱「萱野長修(ながはる)」となっています。
その隣が神保修理のお墓ですが、神保修理の墓碑銘も諱「神保長輝」となっています。


 目黒の成就院は、東急目黒線「不動前」から徒歩約5分のところにあります。
 ご本尊の慈覚大師が刻んだ蛸薬師如来で有名なお寺です。
 この成就院に「お静地蔵」があります。
c0187004_1024543.jpg「お静地蔵」は、会津藩初代藩主の保科正之の母「お静」が寄進したものです。
 「お静地蔵」とは、3体の地蔵菩薩像、3体の観音菩薩像、1体の阿弥陀像、合計7体の石造の仏像の総称です。
 お静は、いうまでもありませんが、秀忠の側室です。そのお静が、懐妊を願って寄進したものが観音菩薩像で、地蔵菩薩像は生まれた男子「幸松」の恙ない成長を願って寄進したものです。
 そして、中央の阿弥陀如来像は、「幸松」が高遠城主保科正之となって大願が成就したお礼に奉納したものです。


 目黒では、有名な、目黒のお不動様もお参りしました。
c0187004_10252558.jpg 目黒不動は、有名ですが、今回の参加者の皆さんは、初めて御参拝と言う方が多くて、大変喜んでいただきました。
 目黒不動の寺号は、「瀧泉寺」と言いますが、その名前の由来となったのが、独鈷の瀧です。
 開山の慈覚大師が、独鈷を投げた(あるいは独鈷で地を掘った)ら泉がわき滝となったという言い伝えがあります。
 右写真は、その独鈷の滝にある水かけ不動に参拝する参加者の皆さんです。



 大円寺は、目黒不動から目黒駅に向かう行人坂の途中にあるお寺です。
 このお寺は、「目黒行人坂の大火」と「八百屋お七」に関係する御寺です。
c0187004_10442656.jpg このお寺を火元とする火事は、目黒から上野・浅草までを焼きつくし、江戸三大大火の一つ「目黒行人坂の大火」となりました。
 その大火の犠牲者を供養する五百羅漢があります。
 なお、この大火の放火犯を捕まえたのが「鬼平」こと長谷川平蔵宣以の父である火付盗賊改の長谷川宣雄です。
 また、八百屋お七の恋人の吉三(出家して西運)が、目黒不動と浅草観音への一万日の日参の願掛けをして造られた阿弥陀堂が再建されています。
 その阿弥陀堂の中にある「お七地蔵」と西運の像を大円寺さんのご配慮で拝観させていただきました。
 大円寺さんには、ご丁寧に説明もしていただきました。大変ありがとうございました。

 受講生の皆様、お疲れ様でした。
 今回は、史跡と史跡の間の距離が離れていて、歩行距離や歩行時間が多くて、お疲れだったかもしれません。 特に最後の行人坂の登りが大変だったのではないでしょうか。
 でも、受講生同士でお知り合いができてきた様子で、和やかな雰囲気になってきたのでうれしく思っています。
 次回は、いよいよ会津行きです。またよろしくお願いいたします。

 
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by wheatbaku | 2013-06-25 10:22 | 大江戸散歩 | Trackback
白虎隊出陣②戸ノ口原の戦い(八重の桜 第25回「白虎隊出陣」)
 昨日の「八重の桜」では、白虎隊が戸ノ口原まで出撃し、八重は三郎の形見の軍装で鶴ヶ城に入城するまででした。
 綾瀬はるかの軍装姿は、まさにポスター通りで恰好良かったですね。
 しかし、次回は、白虎隊の切腹、西郷頼母一族の自刃など悲劇が連続して起こる8月23日の若松城下の動きが描かれるようですね。
 
 それらの悲劇の話は、今週末に書くことにして、今日は、白虎隊の戸ノ口原までの出撃について触れます。

 その前に、松平容保が本営とし、白虎隊に出陣命令を授けた滝沢本陣について書きます。
c0187004_9481169.jpg 滝沢本陣は、若松城下から白河に通じる白河街道沿いにあり、滝沢峠の麓、飯盛山の近くにあります。
 現在も、延宝6年(1678)に建てられた屋敷が残されていて、重要文化財に指定されています。(右写真)
 滝沢本陣は、滝沢組郷頭を勤めた横山家の住居の一部に建てられています。
 もともとは、歴代の会津藩主が参勤交代する際や領内巡視などの際に利用されました。
 参勤交代の際には、ここで、藩主は、道中服に着替えたそうです。
 その滝沢本陣が、新政府軍の攻勢に対する会津藩の本営として使用されました。
「八重の桜」では、松平容保と田中土佐が率いた会津藩しか描かれませんでしたが、桑名藩主松平定敬が率いる桑名藩兵も少数ながら出陣していたようです。

 松平容保が、滝沢本陣に到着しても間もなく、十六橋での苦戦が伝えられ、援軍の要請があり、やむ得ず容保が苦渋の決断で、白虎隊を出陣させたことは、「八重の桜」で描かれていました。
 白虎隊は、前にも書きましたように、士中組は、一番隊と二番隊とがありました。
 容保に随伴して滝沢本陣にいたのは、士中二番隊でした。
c0187004_103754.jpg 二番隊が従ったのは、それ以前に一番隊が戦闘に出陣していたので、順番から二番隊になったというのが通説ですが、中村彰彦氏は「白虎隊」の中で、士中二番隊が馬上銃(騎銃)を装備していたからではないかと書いています。
 士中二番隊は、隊長日向内記(ひなたないき)に率いられ37人が出陣しました。
 この時、出立が急であったため、食料の準備もされていませんでした。
 そのため、敢死隊という別の部隊から握り飯一個を分けてもらい夕食とする状態でした。 さらに、戸ノ口原で、隊長の日向内記が、自ら食糧調達に出かけることとなりました。

 8月23日早朝、新政府軍は、戸ノ口原に進撃を開始しました。
 食糧調達に行った隊長も戻りませんでした。白虎隊は、隊長のいないまま戦闘することとなります。
 この時に、白虎隊の指揮をとったのが教導の篠田儀三郎です。
 教導とは、将校下士官とは別に、隊士から選ばれる役で、いわば学生長の役だと中村彰彦氏は書いています。ちなみに、中村氏は、隊長がいないので、自ら篠田が指揮をとったとしています。
 篠田のもとで、白虎隊は新政府軍と戦かいます。
 白虎隊の馬上銃は、会津藩の中では新式の方ですが、新政府軍の新式銃にはかないませんでした。
 会津藩側は、総勢約700名と言う少人数で約3000名の新政府軍と戦ったため、たちまちにして敗戦となり、白虎隊も後方に退却をすることになります。

 白虎隊は、鶴ヶ城に撤退する途中で、飯盛山で、燃えている(と思った)鶴ヶ城を見て20人が自刃することになります。

 それについては、今週末に書きたいと思います。
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by wheatbaku | 2013-06-24 09:45 | 大河ドラマ | Trackback
白虎隊出陣①十六橋の戦い(八重の桜 第25回「白虎隊出陣」)
 慶応4年8月21日、母成峠を突破した新政府軍は、翌22日には猪苗代に向けて進撃を開始しました。
 これに対して、母成峠の敗戦の報告が鶴ヶ城に届いたのは8月22日早朝でした。
 城内では急遽対応が協議され、佐川官兵衛が戸ノ口原方面で迎え討つことになりました。
 猪苗代には猪苗代城一名亀ヶ城がありました。
 しかし、猪苗代城代高橋権太輔は、新政府軍の侵攻を防げないと考え、何の抵抗もせず、猪苗代城と土津神社に自ら火を放ち退却してしまいました。
 猪苗代に真っ先に到着したのは薩摩の四番隊でした。

c0187004_13384017.jpg 隊長川村純義は疲れて休止しようとする部下を叱咤し、急ぎ、十六橋(じゅうろっきょう)に向けて進撃を開始しました。
 それは少しでも早く十六橋に到達し、会津側が橋を破壊する前にここを占領する必要があったからです。
 十六橋というのは猪苗代湖から流れだす日橋川に架けられた石橋で5代藩主松平容頌(まつだいら かたのぶ)が16のアーチからなるめがね橋をつくったので、その名がついたと言います。
 新政府軍は若松城下に入るにはこの橋を渡らなければならなかったし、会津藩側は、この橋を突破されると、若松城下への侵入を阻止できなくなります。
 勝敗を決する重要な橋です。
 そこで、会津藩では佐川官兵衛は、十六橋を破壊するため、出陣しました。
 しかし、出陣が正午過ぎとなり、十六橋について破壊に取り掛かるのが遅れました。
 一方、新政府軍は、十六橋を目指して疾風怒濤のごとく侵攻してきました。
 川村隊が十六橋に到着してみると、会津兵は既に十六橋の破壊に着手した段階でした。
 川村隊はこれに一斉に銃火を浴びせかけ、猛烈果敢、疾風の如くに突進しました。
 そして、午後三時ころには会津側は遂にここを棄てることになりました。

 会津側にとってこの事態は極めて重大でした
 頼みとする猪苗代城や十六橋が、簡単に敵の手に陥るということは予想しえないことだったからです。
 十六橋より会津若松寄りにある戸ノ口原で、新政府軍を迎え討つ態勢を敷きました。
 猪苗代城が破られたと報告を聞いた松平容保は、軍勢を督励するため出馬しました。
 この時、容保に従って、白虎隊のうち士中2番隊が出陣し、滝沢本陣に向かいました。
 そして、白虎隊の戸ノ口原での戦いおよび敗戦、飯盛山での白虎隊の自刃という展開になるのですが、これからの展開は、今日の「八重の桜」をみてから書きます。
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by wheatbaku | 2013-06-23 13:38 | 大河ドラマ | Trackback
白虎隊とは(八重の桜 第25回「白虎隊出陣」)
 今日は、白虎隊とは、どういう部隊かについて書いていきたいと思います。

 慶応4年(1868)正月の鳥羽・伏見の戦いに敗れた会津藩では、敗戦の教訓から、3月10日軍制改革を行いました。
c0187004_11503315.jpg そのポイントは、軍制の洋式化と年齢別部隊編成です。
 従来の長沼流軍制では、様々な年齢の人々が一軍団を構成していましたが、新しい軍制では、年齢別に部隊を編成しました。
 そして、部隊名には、「四神思想」で「方角の守護神」とされている空想上の動物、青龍(せいりゅう)、朱雀(すじゃく、しゅじゃく。すざく)、白虎(びゃっこ)、玄武(げんぶ)、を部隊名としました。

 朱雀隊は 18~35歳
 青龍隊は、36~49歳
 玄武隊は、50歳以上、
 白虎隊は、16~17歳   としました・
 白虎隊は、当初は15歳からとしましたが、あまりにも幼いので16歳からに修正したそうです。

 それぞれの人数は、
 朱雀隊は、約1200名、
 青龍隊は、約1100名
 玄武隊は、約400名でした。
 白虎隊は、約300名    総数で約2800名が戦闘要員となりました。
 この中で、戦闘の主力は朱雀隊で、準主力が青龍隊で、玄武隊、白虎隊はいわば予備軍でした。

 各部隊は、身分により、士中隊、寄合隊、足軽隊に分かれました。

 白虎隊の部隊構成をみると次の通りだったようです。
  白虎士中一番隊 37名
  白虎士中二番隊 37名
  白虎寄合一番隊 98名
  白虎寄合二番隊 62名
  白虎足軽隊   71名
    総数 305名

 飯盛山で自刃して果てたのは、この中の士中二番隊の19名です。

 この士中、寄合の区別について書いた物が、なかなか見つからなかったので、会津若松の白虎隊記念館(右下写真)に問い合わせると丁寧に教えていただきました。

c0187004_11502555.jpg 会津藩には、「班席」という11階級からなる身分制度がありました。
 その「班席」の上位5番目までの身分の人いわば「上士」により「士中隊」が構成され、
 その下の中位3階級の人たちいわば「中士」により「寄合隊」が構成され、
 下位3階級のひとたちにより「足軽隊」が構成されている とのことでした。

 そこで「班席」について、教えていただいた「会津藩教育考」で調べました。
 それによると次の11階級でした。
 上位5階級 「敷居内御目見納戸紐」「格役黒紐」「黒紐」「紺紐」「花色紐」
 中位3階級 「独礼御目見茶紐」「御通御目見(年割)萌黄紐」「月割浅黄紐」
 下位3階級 「黒半襟」「免許大和柿白鼠半襟」「高掛浅黄半襟」

 右上写真は、会津若松駅前の白虎隊士像です。
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by wheatbaku | 2013-06-21 11:44 | 大河ドラマ | Trackback
母成峠の戦い(八重の桜 第25回「白虎隊出陣」)
 次回の「八重の桜」のタイトルは「白虎隊出陣」ということで、いよいよ会津への新政府軍の侵攻が始まり、白虎隊の悲劇も描かれるものと思います。
 白虎隊については、後日書きますが、今日は、最初の会津藩領への侵入戦である「母成峠の戦い」について書いていきます。

 新政府軍では、二本松城が陥落した後、次の段階として、会津を攻めるかどうするか議論がありました。
大総督府の参謀大村益次郎は、「枝葉を刈って、根元を枯らす」と仙台・米沢など会津周辺の諸藩への進攻を考えていました。
c0187004_9425584.jpg 一方、二本松の参謀板垣退助と伊地知正治は、逆に、「根元」の会津を直接攻めるよう主張しました。
会津藩が国境へ兵を出して藩内を手薄になっていること、それに雪の降る時期になると新政府軍が不利になるというのが、その根拠でした。
 慶応4年は、閏月があったため、8月といっても、今でいえば10月にあたるため、会津藩領への侵攻が検討されている時期は、もうじき冬がくるという時期でした。
 議論の結果、新政府軍は、二本松から直接会津を攻めることになりました。

 会津へ入るにはいくつかの街道があります。
 越後からくる越後街道、米沢からくる米沢街道、日光と通じた会津西街道、白河から入る白河街道、そして、二本松から入る二本松街道です。
 さらに、二本松から入るには中山峠と母成峠から入る道などいくつかの道がありました。
 諸街道の中で、会津藩が特に守りを固めていたのは、越後口、日光口、白河口でした。
 これらの街道の中で、新政府軍が進攻口としたのは、二本松街道母成峠(石筵口)でした。
会津藩は、白河口には主力軍で備えていましたが、二本松街道は、それほど防御を固めていたわけではありませんでした。
 まして、母成峠は峻嶮な峠であったため、多くの兵力を配置していませんでした。

 慶応4年8月21日、 新政府軍約2千の軍勢が、母成峠の会津藩約800を攻めました。
 会津藩側には、元幕府陸軍奉行の大鳥圭介がいて、その配下の伝習隊は善戦しましたが、火器の違いと軍勢の違いにより、次第に会津藩は敗色が濃くなりました。
 そこに、間道を抜けた新政府軍が現れ、会津藩側は大混乱に陥ちいり、夕刻までに、母成峠は、新政府軍に制圧されてしまいました。

 会津藩では、藩境がわずか1日で突破されるとは思ってもいなかったことです。
 これにより、一気に若松城下に、新政府軍が侵攻する要因となり、白虎隊の悲劇や西郷頼母邸の悲劇を引き起こすことになります。
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by wheatbaku | 2013-06-20 09:42 | 大河ドラマ | Trackback
大石の「御家再興論」(江戸検お題「本当の忠臣蔵」33)
 今日は、大石内蔵助が考えていた「御家再興論」について書いておきます。 

 大石内蔵助は、赤穂城を開城した後も、御家再興のための働きかけをおこなっています。
 5月12日には、原惣右衛門と岡本次郎左衛門を京都の普門院に派遣し、赤穂遠林寺の住職を務めたこともある義山に江戸に下向し御家再興のため運動してもらうようお願いをしています。
c0187004_9274171.jpg また、5月17日には、参勤交代で大阪にきている広島藩主浅野綱長と三次藩主浅野長澄に御家再興への助力をお願いしています。
 20日には遠林の祐海を江戸に遣わして、護持院の隆光に御家再興に援助のお願いするよう依頼しています。

 このように、大石内蔵助は御家再興のための努力を最大限行っていますが、大石内蔵助が考えている御家再興は、単に浅野家再興を目指すものでなく、「人前」が立つものを目指していました。
 「人前」とは面目ということのようです。

 大石内蔵助が5月12日に京都の普門院にあてた書状に明確に書かれています。
 なお、この書状も赤穂市編纂「忠臣蔵第三巻」に収録されています。

 何とぞ於江戸御役人中様方え手を求、大学閉門蒙御免候上、人前も宜敷相勤候様に仕度候。

 これについて、山本博文先生が「赤穂事件と四十六士」の中で、詳しく説明してあります。
 それによると、7月22日付けの祐海宛にの書状に大石内蔵助がの考えが書かれているとして、その現代語訳を示した後で
次のように書いています。

 大石は、赤穂藩が再興されて家臣が元通り召し抱えられることを追究しているわけではない。あくまで大学が「人前」がなる。すなわち面目が立つ形で赦免されることをめざしているのである。(中略)
 大学の赦免すらなかなか見通しが立たないことであるのに、吉良の出仕停止まで求めたのでは、この嘆願が受け入れられる可能性はほとんどなかったと思われる。
 しかし、喧嘩両成敗のもとにありながら一方的な敗者となった亡君浅野内匠頭の鬱憤を散じ、旧赤穂藩士が勝者になるためには、この大学の「人前」はどうしても実現しなければならないことだったのである。


 なるほど、大石内蔵助は、単純に御家再興がなればよいと考えていた訳ではないのですね。すごくハードルの高い御家再興を考えていたようですね。

 これであると、最後は、討ち入りという結論にならざるを得ないのではないでしょうか。
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by wheatbaku | 2013-06-19 09:23 | 忠臣蔵 | Trackback
  

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