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飯盛山①(会津若松散歩)
 先週の土曜日から日曜日にかけて毎日文化センターの講座「「八重の桜」ゆかりの地を行く」の受講生の皆さんと会津若松に行ってきました。
c0187004_15494651.jpg これまで、東京での史跡案内は数多くやってきましたが、東京以外ははじめてなので、いつもとは違う史跡案内になりましたが、無事に終わりました。
 受講生の皆さんも、いつの講座とは違い、観光旅行の側面もあるので、大いに楽しまれたようでしたし、お互いに仲良くなれて満足されているようでした。
 受講生の皆さんお世話になりました。

 今回、ご案内したのは、初日は飯盛山」と「鶴ヶ城」で、二日目は、「松平家墓所」、「御薬園」、「武家屋敷」、「日新館」でした。
 
 今日から、会津若松の様子を書いていきます。
 今日は、「飯盛山」の第1回です。

 飯盛山は、会津若松駅の真東にあります。
c0187004_1553146.jpg  「飯盛山」という名前の由来は、この山が飯を盛ったような形なので、この名前が付けられたといいます。
 飯盛山は、標高314mあります。
 ここはいうまでもありません、「白虎隊自刃の地」として知られています。
 「白虎隊十九士の墓」には、年間200万人ともいわれる観光客が訪れるそうです。
 今年は、「八重の桜」放映もあり、それを大幅に上回るものと思います。
 先日も、大勢の観光客が次々と訪れていました。

 飯盛山に登るのには、長い石段があります。脇にはエスカレーターもあります。
 右写真は、上からみた石段ですが、急な石段だということがわかると思います。左手にエスカレーターが写っています。
 受講生のほとんどの人が石段を登っていきましたが、息が上がる人が多かったので、自信のない方は、エスカレーターがお勧めです。

 
 石段を登りきると、広場になっていて、そこに白虎隊のお墓があります。(最上段写真参照)
c0187004_1550374.jpg 白虎隊が自刃した地は、広場から少し離れた場所にあります。
 自刃の地は狭い場所ですので、右写真のように、観光客で混雑していました。
 写真中央手前の二人が指差している方向が鶴ヶ城のある方向です。

 白虎隊士が自刃したのは、新政府軍が会津城下に侵入した慶応4年8月23日です。
 前日の22日に、攻防戦の要衝である十六橋が新政府軍に奪われ、会津藩側は、戸ノ口原で迎え撃つこととなり、白虎隊士中2番隊37名にも出撃の命令が下ります。
 23日早朝より、新政府軍との戦いが始まりましたが、会津側は多勢に無勢で敗れてしまい、白虎隊も敗走します。
c0187004_15555754.jpg そして、白虎隊士中2番隊の37名のうち20名が、飯盛山までたどりつきました。
 そして、鶴ヶ城を眺めると、 城下は早や紅蓮の炎を上げ、鶴ヶ城は全く黒煙に包まれ、天守閣などは今にも焼け落ちるかと思われるという状況でした。

 これを見て、白虎隊は、山腹に整列しはるかに鶴ヶ城に向かって決別の礼をなし、銃を捨て刀を抜き、あるいは腹を切り、あるいは喉を突いて、自刃したといわれています。

 白虎隊士が自刃した地には、石碑や供養塔、白虎隊士像が建てられています。(右上写真)

 飯盛山と鶴ヶ城との距離は、2千8百メートルほどだそうです。
c0187004_1551122.jpg 自刃の地から鶴ヶ城を見てみると、天守閣は見えるものの、詳細がはっきりわかるわけではありません。(右写真参照)
 ですから、鶴ヶ城が燃えていたのではありませんが、白虎隊士が城下が燃える炎を見て、鶴ヶ城が燃えているものと考えても仕方ないと思われます。

 飯盛山で自刃した白虎隊士は次の20名です。自刃した時刻は、午後2時から4時頃だったようです。
 
  安達藤三郎、有賀織之助、飯沼貞吉、 池上新太郎、石田和助、
  石山虎之助、伊東悌次郎、伊藤俊彦、 井深茂太郎、篠田儀三郎 
  鈴木源吉、 津川喜代美、津田捨蔵、 永瀬雄次、 西川勝太郎
  野村駒四郎、林八十治、 間瀬源七郎、簗瀬勝三郎、簗瀬武治

c0187004_15512725.jpg このうち、飯沼貞吉は、奇跡的に生き残り、飯盛山で自刃した白虎隊士は19名とされています。
 その亡くなった隊士の墓が、広場中央にあります。
 実は、白虎隊士の遺骸は、新政府軍により手をつけることを禁じられていました。
 約三ヶ月後村人により、密かにこの近くの妙国寺に運ばれ仮埋葬され、後に飯盛山に改葬されたのだそうです。
 明治16年に初めて塚が作られ1本の石碑が建てられ、明治23年に十九士の墓が建てられました。
 現在のように整備されたのは、大正14年~大正15年にかけてだそうです。
 墓碑はイロハ順に並んでいました。

 墓碑の前で説明をしていましたら、突然音楽が流れ始め剣舞が始まりました。
 そこで、ガイドは中断して、剣舞に注目しました。 女性の剣舞でした。
 バックに流れていた歌は、かつて聞いたことのある次の歌でした。

c0187004_175393.jpg 戦雲暗く 陽は落ちて
  弧城に月の影悲し
  誰が吹く笛か 識らねどんも
  今宵名残の 白虎隊

 紅顔可憐の 少年が
  死をもて守る この保塞
  滝沢村の 血の雨に
  濡らす白刃も 白虎隊

 詩吟
  南鶴ヶ城を望めば砲煙あがる
  痛哭涙を飲んで且彷徨す
  宗社亡びぬ 我が事おわる
  十有九士腹を屠って斃る

 飯盛山の 山頂に
  秋吹く風は 寒けれど
  忠烈今も 香に残す
  花も会津の 白虎隊
  花も会津の 白虎隊
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by wheatbaku | 2013-07-31 08:57 | 大江戸散歩 | Trackback
萱野権兵衛の最期(八重の桜第30回「再起への道」 )
 今日も、萱野権兵衛の話を続けたいと思います。
  萱野権兵衛が切腹した際の逸話がかなり残されていますので、最期の様子を書いてみます。

 c0187004_16575299.jpg 萱野権兵衛が謹慎していた久留米藩有馬家には、松平喜徳がお預けとなっていて、権兵衛のほか、井深宅右衛門、浦川藤吾らが謹慎していました。
 松平容保は、鳥取藩池田家にお預けとなり、梶原平馬、山川大蔵らが同じ池田家で謹慎していました。

 萱野権兵衛が切腹したのは、明治2年5月18日でした。
その日の朝、権兵衛は早めに起きて髪を整えました。この役は、いつも浦川藤吾が整えていました。権兵衛は浦川に「長々と世話になった。今日は襟元の毛を見苦しくないように特にお願いしたい」と言葉をかけたので、浦川は胸が詰まったそうです。
 そして、有馬家から丁重な酒肴を賜りましたが、権兵衛はそれを辞退、茶を戴きた いといって茶を所望し、井深宅右衛門が茶をたて、いつものように静かに喫したといいます。

 萱野権兵衛は、一刀流溝口派の免許皆伝でした。一刀流溝口派は、日新館で教えられる会津五流の一つで、萱野権兵衛は、数少ない免許皆伝者でした。
c0187004_1658396.jpg そのため、萱野権兵衛が自刃すれば、一刀流溝口派が絶えてしまうことになります。
 それを惜しんで、権兵衛は、竹の火箸を使って、井深宅右衛門に一刀流溝口派の奥義を伝えたいいます。

 そして、権兵衛の切腹の場に当てられた飯野藩保科家から迎えが来ました。
 保科邸には梶原平馬と山川大蔵が参上していました。
 梶原と山川は権兵衛に、松平容保と照姫からの親書を渡しました。
 権兵衛がおし戴いて封を開いてみると、容保からの親書には次のように書かれていました。

 今般、御沙汰の趣、ひそかに承知し、恐れ入り奉り候、右は全く我が不行き届きよりここに相至り候処、立場から父子始め、一藩に代りくれ候段に立ち至り、通哭に堪えず候。さてさて不便の至りに候。その方、忠実の段は深く心得居り候間、後々の儀などは毛頭心に置かず、その上は国家のため潔く最期を遂げくれ候よう頼み入り候也

 また照姫からの親書には次のように書かれ一首が添えられていました。

 さて、この度の、誠に恐れ入り候次第、全く御二方様身代りを存じ、自分に於いても何とも申し様もなく、気の毒、言葉に絶し惜しみ候ことに存じ候。

 右御見舞のため申し進め候
 夢うつつ思ひも分ず 惜しむぞよ  まことある名は 世に残れとも

 権兵衛は、涙を流して、二人の厚情に感謝したと言います。
c0187004_16585753.jpg やがて自刃の時刻がきて、権兵衛は保科家、松平家の家臣たちに別れをつげ、介錯人である保科家藩士の剣客沢田武司とともに静かに別室に入りました。

 萱野権兵衛は、飯野藩藩主保科正益(まさあり)から白無紋の礼服一かさねを賜りました。
 また、権兵衛の介錯のため、貞宗の名刀が沢田に下されていました。
 沢田は権兵衛に貞宗の名刀をさししめしました。
 権兵衛はおし戴いて「最期に臨んでよい目の保養をした。見事にお願いする」といって従容自若として、一糸も乱れなかったといいます。
松平容保は、のちに沢田に対して、次の和歌を贈り、その厚意をねぎらったそうです。
  なにくれと 沢田の水の浅からず 心をつくす ほどぞうれしき
 

 なお、 萱野家は会津藩の名家であり、初代は長則(ながのり)と言いました。
c0187004_16591814.jpg 右写真は、会津若松市の天寧寺にある萱野長則の墓です。
 長則は、元々は、会津藩松平家の前の領主であった加藤家の家来でした。
 初代藩主の保科正之が、その人物を見込んで自分の家来に召し抱えたという家柄でした。
 一身に責任を負った際の権兵衛は、今日の萱野家があるのは、初代長則が保科正之によって召し出されたからであり、その恩義に報いようとする心があったといわれています。

 会津若松城には、萱野国老殉節碑が本丸内に建てられています。
 昭和9年に建立されたものです。(右最上段写真)
 また、萱野権兵衛の屋敷は、会津若松城の大手門近くにありました。
 西隣が、西郷頼母、東隣が田中土佐という重臣の屋敷の一画を占めていました。
 邸宅跡には、説明板がたてられていました。(右2段目写真)
 不思議なことに、屋敷跡と思われる所に「かやの」と書かれたお蕎麦屋と思われるお店の大きな看板がありました。(右3段目写真)
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by wheatbaku | 2013-07-30 08:08 | 大河ドラマ | Trackback
萱野権兵衛切腹す(八重の桜第30回「再起への道」 )
 昨日・一昨日と。毎日文化センターの受講生の皆さんと会津若松に行ってきました。
 大変楽しい旅行となりました。その話は後日書きますが、昨日の「八重の桜」関連の記事を書きます。

 ついに、「八重の桜」も会津戦争が終結しました。
 いよいよ、舞台は、ふたたび京都になっていくようです。

 今日は、萱野権兵衛についてお話したいと思います。
 八重の桜では、柳沢慎吾が演じています。
 一貫して、まじめに演技しているのが印象的でした。
 萱野権兵衛は本名は萱野 長修(かやの ながはる)で、会津戦争当時、会津藩家老です。
c0187004_8492955.jpg 萱野権兵衛は、天保元年1830)に生まれ、元治元年(1864)若年寄になり、翌慶応元年(1865)に家老に任じられました。
 権兵衛は、温厚篤実で、地味なタイプだったようです。
 藩政面では、主に会津国元にあって留守をしっかり守り、京都の会津藩の動きをバックアップしていました。
 戊辰会津戦争が始まった頃の家老の席次は、筆頭家老が田中土佐、2番目が西郷頼母、3番目が神保内蔵助、そして、4番目が萱野権兵衛でした。
 8月21日、新政府軍によって会津藩の東部国境が突破された時には城外に出ていました。
 この時、田中土佐・神保内蔵助も城外で戦いましたが、この二人の家老は、城下に新政府軍が侵入するのを防げなかった責任をとって自刃しました。
 その後まもなく、西郷頼母も城外に追放されました。
 残った萱野権兵衛は、1か月の籠城戦の際は、主として城外で指揮し食料の補し続けました。
しかし、籠城1か月にして若松城はついに開城となり、9月22日の午前十時、鶴ヶ城に白旗があげられました。
 降伏式には、会津藩からは松平容保・喜徳父子と一緒に萱野権兵衛も出席しました。この際に「戦争責任は家臣にあるので、容保父子には寛大な処置を」という内容の嘆願書を提出して式は終了しました。
 萱野権兵衛はまもなく、江戸に送られる容保の一行と共に会津を離れ、江戸の久留米藩有馬家に喜徳とともに謹慎しました。

 新政府軍では直ちに会津藩の戦争責任が追求されました。
 その結果、「松平容保の罪を一等さげ死罪を許すが、会津藩により首謀の者を出頭させるべし」との命が下されました。
c0187004_850138.jpg このとき名乗り出たのが萱野権兵衛でした。
 「会津藩では家老田中土佐・同神保内蔵助・同萱野権兵衛の三人が戦争を指導した。しかし土佐と内蔵助はすでに切腹しており、権兵衛が謹んで裁きをうける考えである」と申し出て、会津藩における一切の戦争責任を一身に引き受けたのでした。
 
 そして明治2年5月18日、権兵衛に対し切腹が命じられました。
 実は、新政府の命令は「斬首」だったそうですが、萱野権兵衛の名誉を重んじ「切腹」が許されたと言われます。
 切腹の場所は飯野藩保科家とされました。
 飯野藩保科家は、会津藩松平家の親類大名で、照姫は上総飯野藩前藩主保科正丕(ほしな まさもと)の娘で、飯野藩保科家から会津藩に養女として入った関係があります。
 やがて、有馬家に権兵衛の切腹の場に当てられた飯野藩保科家から迎えが来ました。
 萱野権兵衛は、保科家で、松平家の家臣たちに別れをつげ静かに別室に入り、見事な最期を遂げました。
 時に権兵衛享年41歳でした。
 萱野権兵衛の遺体は、保科家により、白金の興禅寺に運ばれて埋葬されました。
 権兵衛の墓は、興禅寺の墓所入り口に、神保修理の墓と並んであります。(上段写真)
 興禅寺のお墓には、萱野権兵衛の諱(いみな)が刻まれています。 
 また、墓は会津若松市の天寧寺の萱野家の墓所にもあります。(下段写真)
 こちらには、「報国院殿公道了忠居士」という戒名が刻まれています。
 天寧寺の墓は、明治29年に妻のタニが亡くなった後、二人の戒名を並べて刻んで建てたのだそうです。

 現在も5月18日には墓前祭が行われているそうです。
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by wheatbaku | 2013-07-29 08:40 | 大河ドラマ | Trackback
会津若松城①(大江戸散歩)
 今日は、毎日文化センター「『八重の桜』ゆかりの地を行く」の受講生の皆さんと会津若松に来ています。

 今日のメインは、会津若松城ですので、会津若松城の本丸の西側の主な見どころを紹介をしておきます。
 

c0187004_17122138.jpg 太鼓門
 北出丸から本丸に通じる大手門のことを太鼓門といいます。
 多聞櫓と呼ばれた櫓が建てられ、藩主の登城や非常事態やその他の合図に使用する胴の直径1.8メートルの大太鼓を備えていたことから、太鼓門と呼ばれました。


c0187004_17123434.jpg 遊女石
 太鼓門にある大きな石は「遊女石」と呼ばれているもので、遊女を石の上に乗せて運んだため「遊女石」と呼ばれました。
 なぜ、遊女を乗せるかと言えば、大きな石を運ばせるときその石の上に遊女達を乗せ、躍らせて、元気を付けさせて運搬したのでした。
 鶴ヶ城の石はお城から東に1キロほどの東山温泉の入り口にある天寧町石山から運ばれてきたものです。


c0187004_17124835.jpg 謙信公仮廟所
 上杉景勝が会津へ入封した際、上杉謙信の遺骨も鶴ヶ城内に運ばれ、鉄門そばの一角が仮の廟所としてあてられたと伝えられます。


c0187004_1713489.jpg 鉄門(くろがねもん)
 鉄門は、本丸へ通じる表門です。
 扉や柱が鉄で包まれていたことから鉄門(くろがねもん)の名がつけられました。
 会津戦争当時は、ここが、松平容保父子の御座所となりました。
 会津戦争の時、新政府軍は主に大砲で鶴ヶ城を攻めました。そこで、本丸御殿にいたのでは危険なためここを御座所としました。
 東西の砲撃に対しては石垣が防いでくれますし、北は天守閣が防いでくれるので、ここが最も安全だったからです。
 八重が、砲弾の説明を容保にしたのも、ここでした。

c0187004_17132485.jpg南走長屋(みなみはしりながや)、干飯櫓(ほしいやぐら)
 南走長屋は表門(鉄門)から続いており、帯郭と本丸を隔てる重要な位置にあります。表門を守り、帯郭から 本丸への敵の侵入を防ぐ要となっていたと思われます。
 干飯櫓は城内にあった11の櫓のうち、一番規模の大きかった櫓で、文字通り食糧庫であったと考えられています。
 「干飯」は当時の保存食の一つで、水やお湯で戻してすぐに食べることができたので、特に戦が起きた時などは兵士たちの食料として重要なものでした。
 また、干飯櫓は南側の濠に面しており、石落しが備えられています。
 南走長屋と干飯櫓は、平成13年に復元されました。
 写真は、天守閣から見たもので、手前から走長屋、鉄門、南走長屋、干飯櫓です。
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by wheatbaku | 2013-07-27 12:30 | 大江戸散歩 | Trackback
日新館②(八重の桜第29回「鶴ヶ城開城」 )
 昨日の続きで、今日は、復元された「日新館」について書いていきます。
  
c0187004_16112186.jpg 日新館は、会津戦争で焼失しましたが、図面などが残っていたため、昭和62年3月に会津若松市河東町に完全復元されました。
 総面積3万8千坪あり、総工費は34億円を費やしたそうです。
 会津市内と言って市街地からは離れているため、会津若松駅からはバスでいくかJRで「広田」駅まで行ってタクシーでいくことになるようです。
 現在の日新館は、弓道場・武道場もり、研修施設や宿泊施設も兼ねているため、各種の武道団体も練習や合宿に利用されているそうです。

c0187004_16105995.jpg南門
 南門は、日新館の正門です。
 江戸時代は上級武士や藩士のみが使用を許されました。
 一般の生徒は東門か西門を利用していました。
 現在の門に掲げられている「日新館」の文字は、会津松平家13代当主松平保定氏が書いたものだそうです。


c0187004_16123055.jpg戟門(げきもん)
 南門をくぐると見えてくる門です。
 戟門は、もともと重要な建物を守る衛兵が「戟」という武器を持って監視をしていたことに名前の由来があります。
 門の左側には大きな太鼓がありこれを打って授業の時刻を知らせていました。


c0187004_16121959.jpg東塾
 戟門の両翼には、東塾と西塾がありました。 東塾と西塾があわせて「素読所」と呼ばれていた初等教育の校舎でした。
 藩士の子弟は10歳で入学すると、まずは論語を中心に漢文の読み方を学習しました。
 また、12歳になると書道を学びました。書道は特に重要視された教科の一つでした。


c0187004_1626142.jpg大学(講釈所)
 大学には素読所を卒業した五百石以上の長男と、成績・人物ともに優秀な者だけが入学を許されました。
 等級は、下等級、中等級、上等級と三等級あり、年一回試験があり、中等級に進んで将来有望なものは江戸の昌平黌や他藩の藩校への留学制度がありました。


c0187004_1613250.jpg大成殿(たいせいでん)
 大成殿は、孔子を祀った建物です。
 銅板瓦葺で、屋根までの高さ10.7メートル、軒まで6.2メートルあります。
 中には、大理石でできた孔子像が中央に置かれています。
 孔子像は、高さ160センチで重さ2トンあります。


c0187004_16132160.jpg水練水馬池(すいれんすいばいけ)
 日本初のプールといわれ、周囲85間(約153m)ありました。 会津藩では向井流の泳法を学習しました。
 水馬や甲冑を着たままの水練もあったそうです。
 藩校で水練場を備えていたのは、ほかには萩の明倫館(山口県萩市)だけでした。


c0187004_16142100.jpg武講(ぶこう)
 武講は、兵学を研究する所です。
 現在でいえば、防衛大学校のような学校だそうです。
 武講は、日新館のなかで、唯一軍事奉行の配下にありました。
 藩士の長男は18歳になれば武講で講義を受けなくてはなりませんでした


c0187004_923138.jpg武道場
 武道場は、剣術と槍術の道場です。
 素読所に入った子弟は15歳になると、これらの武道も必修科目に加えられました。
 午前中の学問の講義が終ると、午後は武学寮にある各道場へ行って、武道の稽古に汗を流しました。


c0187004_16145749.jpg木馬場
 会津藩の馬術は、大坪流でした。
 乗馬の型の稽古は、日新館内にある「木馬場」で行なわれました。
 文字通り、木馬にまたがって「型」の稽古をするのでした。
 

c0187004_1625538.jpg天文台
 冬至には、ここで天体を観測し暦を作ったと言われています。
 他藩の藩校で天文台を持っていたのは薩摩の造士館、水戸の弘道館だけでした。

c0187004_16151369.jpg砲術場
 砲術には、稲留・種子島・夢想・自由斎・荻野・一味・永田・新格・諸葛・高島の諸流がありました。
 角場(射撃場)は、日新館内のものは5区画しかなかったため、各流派がそれぞれに日程を調整しつつ使用して教授したようです。


c0187004_163183.jpgJR広田駅
 日新館は、会津若松市河東町にあります。
 最寄駅は、JR磐越西線「広田駅」です。
 その広田駅で、電車を待っている間、磐梯山がきれいに見えましたので写真に撮りました。
 「綺麗な磐梯山」、そして「のどかな駅の風景」に魅了された広田駅でした。
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by wheatbaku | 2013-07-25 09:12 | 大河ドラマ | Trackback
会津藩校日新館(八重の桜第29回「鶴ヶ城開城」 )

 会津戦争で、1か月間もの籠城戦を戦えたのは、それを耐え抜くだけの会津魂があったからだと思います。
 そうした会津魂を築きあげるうえで、藩校「日新館」の役割は大きかったと思います。
 そこで、今日からは、会津藩の藩校「日新館」について書いてみます。

  「日新館」は、寛政10年(1798)、5代藩主松平容頌(かたのぶ)に仕えた家老田中玄宰(はるなか)の進言により設置されました。
  会津藩の御用商人であった須田新九郎が新築経費を寄付し、5年間かけて享和3年(1803)に完成しました。
c0187004_894526.jpg 場所は、若松城の西出丸の西隣に堀を挟んで建築されました。
 東西約120間、南北およそ60間、広さ7200坪という広大な敷地がありました。
 しかし、会津戦争が始まると、傷病者の収容所として利用されていましたが、若松城下に新政府軍が侵攻した際に、敵に占領されるのを防ぐため、会津藩の手により焼失しました。
 現在は、会津若松城趾西側に天文台跡だけが残っています。(右写真)

 「日新館」という名前は、「書経」から「日々新而又日新」から名付けられました。
 通常藩校というと学問を学ぶ「文」の学校というイメージがありますが、日新館の場合には、「武」つまり剣道、弓道なども学ぶ文武両道の学校でした。
 そのため、剣道場、弓道場、さらには水練場までも備えた藩校でした。

 当時の会津藩の上級藩士の子弟は10歳になると全員日新館に入学しました。
 最初に入学するのが「素読所」です。名前の通り、素読中心の授業でした。
 教科書は、「論語」、「孟子」「中庸」「大学」などでした。
c0187004_8125868.jpg 素読所は、四等級から一等級まであり、四等級から三等級へは、11の教科書の素読が済むと試験なしに進級できましたが、三等級からは試験があり、これに受からないと進級できませんでした。
 従って、個人ごとに進級度合いが異なります。
 平均的には18歳で一等級卒業となっていました。
 また到達しなければならない等級も決められていて、500石以上の長男は一等級まで進むことが義務付けられていました。
 年をとっても進級できないと藩の役職につかせず勉学を続けさせました。また罰金もとられました。
 成績の悪い生徒は長男の場合35歳まで、次男以下は21歳まで勉強しなければなりませんでした。
 12歳になると素読所の二階にある書学寮で書道の勉強がはじまりました。
 書道も四等級までありました。

 素読所を修了した者で成績優秀者は講釈所(大学)への入学が認められました。
 大学は、下等、中等、上等の三等級ありました。
 中等で優秀な者には江戸の昌平黌や他藩の藩校への遊学が許されました。

 日新館には、選択科目もあり、礼法、神道、雅楽、和歌、数学、天文、医学などを学びました。

 日新館の西北角には、「観台」と呼ばれる天文台もありました。
 日新館は、戊辰戦争の際に、焼失しましたが、天文台の一部だけが残っています。

 日新館では、「文=学問」のほか、「武=武道」も学びました。
 武道は、刀、槍、弓、馬の4科目が必須でした。
 これは、それぞれ流派がいくつかあり、生徒は、その中から自分の好むものを選択することができました。
 その他、選択科目として、「砲術」「柔術」「居合術」「水練」などがありました。
 日新館、それぞれの練習場があり、鉄砲を練習する  も設置されていました。特に水練で使った水練水馬池は、日本初のプールと言われています。
 
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by wheatbaku | 2013-07-24 08:13 | 大河ドラマ | Trackback
金乗院(目白不動)参拝記
 江戸文化歴史検定協会の公式ブログに連載中の「江戸三十三観音巡り」ですが、第14番の「金乗院」をアップしましたので、ご覧ください。 ⇒ 「江戸三十三観音巡り 第14回 金乗院」

 金乗院は、目白不動明王でも有名なお寺です。
 右下写真は、金乗院の全景です。写真左が本堂で、右手が目白不動明王を祀る不動堂です。

 この「江戸三十三観音めぐり」は、手軽な巡礼として江戸時代から人気のあった「江戸三十三観音巡り」を順にご紹介しようという趣旨で書き始めたものです。
c0187004_1773476.jpg
 江戸三十三観音の札所は、多くの寺が山の手線沿いにあるので、三十三札所をすべて廻っても4日程度あれば回れます。

 そのため、連載も一年程度、長くても二年程度だろうと考えていました。
 しかし、はじめて見ると意外に時間がかかります。
 それは、この「江戸三十三観音巡り」は、単に「札所をお参りしてきました」といった参拝記録にせずに、できるだけ御住職にお会いし、お寺のご由緒などを聞かせていただき、ご本尊にお参りし、お写真を撮らせていただこうとしているからです。

 そのため、事前訪問しご住職面会の依頼をさせていただき、そしてご住職に御面会、そして原稿を書いて、原稿をチェックしていただき、さらに修正するというプロセスを踏むことになります。
 そのため、一か月間では、原稿が仕上がることがほとんどなく、結構時間がかかりますので、なかなかアップできません。
 
 しかし、このようにして、江戸三十三観音巡りをしていると、観音様の功徳か、思いがけない方にお会いできることが多々あります。
 今回の金乗院でも思いがけず、大変身分の高い御方にお会いすることができました。

 その御方は、真言宗豊山派前管長小野塚幾澄様 です。
c0187004_1648496.jpg

 いつもの通り、金乗院に御住職に面会をお願いして、ご指定の日にお邪魔すると御住職がお待ちいただいていました。
 そして、客殿で御住職にお会いできました。
 そして、名刺をいただき、御経歴を伺って、びっくりしました。

 御住職小野塚幾澄様は、平成20年から平成24年まで、真言宗豊山派管長ならびに総本山第85世化主(けしゅ 住職)であったとのことでした。

c0187004_16581010.jpg 管長と言えば、真言宗豊山派のトップということです。
 通常であれば、とても私なんぞがお会いできる御方ではありません。
 その方が目の前にいらっしゃるのでびっくりするやら感激するやらで、とても落ち着いてインタビューできるような状態ではありませんでした。

 でも、小野塚幾澄様、そんな聞き手の緊張を解くかの如く、ゆったりとした態度で静かにお話くださいました。
 さすが、一派の官長になられる方はちがうと感心しました。
 いつやら緊張も解け金乗院や目白不動明王のご由緒のお話に引き込まれていきました。

 そして、その後に、平成22年10月10日に、総本山長谷寺に天皇皇后両陛下の行幸啓をいただいて、管長としてお迎えされたことについてもお話がありました。(右上写真) 
 天皇皇后両陛下が長谷寺に行幸啓なされるのは、奈良時代の称徳天皇以来のことで大変名誉なことだったそうです。
 客殿内には、その時のお写真が何枚も掲出されていて、御住職からその時の様子などもお話がありました。
 もう、私は、恐れ多くてただただ聞いていました。

c0187004_16492420.jpg そんなご御住職、私が豊山派のお寺の檀家であると申し上げると、「ぜひ総本山長谷寺にお参りください。すばらしいお寺です」とおしゃってくださいました。
 
 金乗院は、江戸三十三観音巡りの札所だけでなく、「関東三十六不動尊」や「御府内八十八ヶ所めぐり」の札所でもあります。
 私は、、「関東三十六不動尊」や「御府内八十八ヶ所めぐり」でも金乗院を参拝しています。
 今回、小野塚幾澄様にお会いできたのは、観音様やお不動様、弘法大師様の御利益ではないかと思える出会いでした。

 その後も、御住職には原稿のチェックや資料のご提供もいただき、すっかりお世話になりました。
 紙上を借りて小野塚幾澄様に御礼申し上げます。本当にありがとうございました。
 右写真は、御住職よりいただいた「長谷寺 天皇皇后両陛下の御行幸啓特別号」の表紙です。 

 素晴らしい御住職のお話をまとめて出来上がった  「江戸三十三観音巡り 第14回 金乗院」
をぜひお読みください。
 金乗院や目白不動明王の由緒、丸橋忠弥のお墓の由来などがよくわかります。



 

 
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by wheatbaku | 2013-07-23 08:19 | Trackback
若松城が1ヶ月間籠城できた理由(八重の桜第29回「鶴ヶ城開城」 )
明治元(1868)年9月22日、会津藩は、ついに降伏しました。
1カ月にわたる会津若松城における籠城戦が終了しました。 

 降伏した時に、若松城に籠城していた人たちは、ある史料では4956人であり、別の史料では5235人と数には違いがありますが、おおよそ5千人の人が籠城していたという点では喰い違いはないようです。
c0187004_9295612.jpg 5千人もの人が籠城していたことがすごいですね。
 また、大砲50門、小銃2845丁、銃砲弾は23万発ありました。
 多くの武器が残っていたようですが、特に銃砲弾23万発というのがすごいと思いますが、銃砲弾の多くは、新政府軍が撃ち込んだ砲弾を溶かして、再製したもののようです。 敵の武器を自分の武器にしてしまう「強かさ」がすごいと思います。

 会津若松城を包囲した新政府軍は、最終的には3万人余りと言われています。
 これだけの人数に包囲されながら、一か月間もの間籠城できたことには驚かざるをえません。
 それは、戊辰戦争で、攻略された城と比較すればよくわかります。
 新政府軍に攻撃された多くの城が短期間で落城しています。
 例えば、白河城は5月1日や二本松城は7月9日にわずか一日で落城していますし、  越後の長岡城も5月19日に一日で落城しています
 これらに比べと、会津藩がいかに長期間にわたって新政府軍の攻撃を凌いだいたかがよくわかります。

c0187004_9303348.jpg  新政府軍は、他の城攻め同様に、若松城下に侵攻したその日のうちに落城さえようと、甲賀町口郭門と六日町口郭門を破って、郭内に侵入し、一気に北出丸まで接近しました。
 しかし、北出丸まで、一気に侵攻しながら、その日のうちに若松城を攻略できませんでした。

 その理由を考えてみました。

 理由の第一は、若松城の堅固さです。
 若松城は、本丸、二の丸、三の丸、北出丸、西出丸、はそれぞれ死角のないように築かれていました。
 その代表的な部分が、北出丸にある大手門(右中段写真)です。
c0187004_9304665.jpg この大手門は、右図のように、大手門に侵入した敵方は、北出丸、本丸、二の丸の三方から攻撃されるよう構造となっています。
 このような構造のため、北出丸まで進出した新政府軍に対して、要所々々から銃弾がひっきりなしに飛んでくるため、一気の攻略は無理と考えて、郭外に後退しました。
 この戦いには、山本八重の働きが大きかったことを付け加えておきます。

 また、会津若松城の天守閣が多くの砲撃を受けて傷つきながらも、破壊されませんでした。
このことでも明らかなように、当時の大砲では、会津若松城ほどの大城郭は完全に破壊できる力はなかったといえます。
そのため、火災が起きない限り、城内の建物は砲撃による破壊に耐えたと思われます。

理由の第二は、補給が途切れなかったことです。
新政府軍は、最終的には3万人を超える軍勢だったと言われていますが、これだけの軍勢でもっても、補給路を完全に遮断できませんでした。
 城の東・北・西側は包囲できましたが、南側の補給路は、会津藩の降伏直前まで、会津藩がほぼ確保していました。
 ここを通じて、城外にいた兵士たちも続々帰城してきましたし、食料もここから補給されました。
 降伏直前こそ食料が少なくなってきたものの、5千人もの食料を約1か月間確保できたことが大きかったと思われます。

 このように、会津若松城での籠城戦は、最後には降参したとはいえ武勇を誇る会津藩の底力を示すものとなりました。 
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by wheatbaku | 2013-07-22 09:22 | 大河ドラマ | Trackback
会津藩の降伏式(八重の桜第29回「鶴ヶ城開城」 )
 明治元(1868)年9月22日午前10時、鶴ヶ城に白旗があげられ、1カ月にわたる籠城戦が終了しました。

 降伏式は大手門前、西郷頼母の屋敷と内藤助右衛門の間の甲賀町通り路上で行われました。
c0187004_8553096.jpg 式場には15尺(約4.5メートル)四方の緋毛氈(ひもうせん)が敷かれ、降伏式が行われました。

 会津藩側からは松平容保・喜徳父子他、新政府軍からは軍監の薩摩藩士中村半次郎らが式に臨みました。
 中村半次郎は、「人斬り半次郎」と呼ばれた人物で、明治になってからは、「桐野利秋」と名前をかえ、征韓論層で西郷隆盛とともに下野し西南戦争でなくなります。
 会津若松城攻めの中心は、伊地知正治と板垣退助でしたが、降伏式の大役は、中村半次郎が勤めました。
 これには、西郷隆盛の強い意向が反映されていると言われています。
 新政府軍側は、中村半次郎のほか、軍曹山県小太郎、使番唯九十九が出席しました。
 松平容保と喜徳は麻の上下を着て、小刀を帯び、大刀は袋に入れて侍臣に持たせ現れました。
c0187004_8555446.jpg そこで容保は「謝罪書」を中村半次郎に提出します。
 続いて容保父子と共に式に臨んだ家老萱野権兵衛は、萱野権兵衛・梶原平馬・内藤助右衛門・山川大蔵らが署名した「戦争責任は家臣にあるので、容保父子には寛大な処置を」という内容の嘆願書を提出して降伏式は終了しました。

 その後、容保父子は、一旦城に戻りって家臣に別れを告げました。
 そして、戦死者が眠る城内の空井戸と二ノ丸の墓地に花束を捧げ頭を垂れました。
 空井戸には戦死者がいるたびに絹の衣服に包んで投げ込んで埋葬し、空井戸が満ちると二の丸の空き地に埋葬しました。
 容保父子は戦死者にも頭を垂れたのでした。
 その後、二人は本丸を出て、太鼓門から駕籠に乗り、北大手門から城を出て、新政府軍の兵士に警護誘導され、滝沢村の妙国寺に入り謹慎となりました。

c0187004_8562597.jpg 降伏式の場には緋毛氈が敷かれていました。これは、長崎の商人、安達仁十郎が献じたもので、15尺四方のものでした。
 降伏式終了後、会津藩士たちは降伏式で使われた緋毛氈を持ち帰ります。
 それは後に秋月悌次郎により「泣血氈(きゅうけつせん)」と名付けられ、会津藩士の心に深く刻まれることとなりました。


 一方、新政府軍を代表して、会津若松城受け取った中村半次郎の所作は作法通りで、かつ温情にあふれていたため、人々は皆感心したそうです。
 後に「あのような作法をどこで学んだのか」と尋ねられ、「なぁに 愛宕下の小屋で忠臣蔵の芝居を見て、赤穂城明け渡しの部分をそっくり真似ただけだ」と答えたといいます。
 実は、中村半次郎は、「おいも、涙を止めることができんかった」と回想しています。
 そうした中村半次郎は、寛大の心で、容保父子の処遇にも気をくばりました。
 そうした中村半次郎の温情に対して、後に松平容保は人を介して名刀を贈り、これに報いたといいます。

 右上段写真は、甲賀町通り東にあった西郷頼母邸跡に立つ「西郷頼母邸址」の石碑です。
 右中段写真は、その向かい側にあった内藤介右衛門邸跡にある「内藤邸跡」の石碑です。
 右下段写真は、降伏式が行われたと言われる場所辺りからみた鶴ヶ城天守閣です。
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by wheatbaku | 2013-07-21 08:52 | 大河ドラマ | Trackback
鶴ヶ城に白旗揚がる(八重の桜第29回「鶴ヶ城開城」 )
 今週の「八重の桜」では、若松城が開城となるようです。

 8月23日に始まった籠城戦も、9月に入ると、新政府軍の攻勢が強くなります。
 籠城戦開始の頃は、主力軍が藩境に出動していて、城内には婦女子・老兵が中心であった城内も、主力軍が、順に帰城することによって、城内の軍勢は充実してきました。 その数は3000名ほど。
c0187004_1036370.jpg  一方、新政府軍のも戦力を増援してきて、その数は、正確には不明なものの、3万人程度と書いた本もありますので、相当の数が会津若松城を包囲していました。
 そして、新政府軍は、9月14日からは砲撃中心の攻撃を繰り返し,9月17日一日に撃ち込まれて砲弾の数は2700発も撃ち込まれたとも言われています。

 こうしたなかで、それまで会津若松城の補給路として確保されていた若松城の南側も、新政府軍の攻勢により、補給路が危うくなってきました。
 そこで、補給路の維持のため、会津藩は、軍勢を城南に繰り出しました。
 9月14日、会津藩の一瀬要人と萱野権兵衛が率いた部隊は、若松城への兵糧補給路を絶とうとする新政府軍を一ノ堰(いちのせき)と呼ばれる城から数キロメートルの場所で攻撃します。これが「一ノ堰の戦い」と呼ばれる戦いです。
 最初は、会津藩の優勢で推移しましたが、軍勢を増援した新政府軍は新たに会津側を攻撃し、最終的に会津側は撤退を余儀なくされました。
 これにより、若松城の城下周辺の会津側は一掃され、城への補給路は遮断されてしまいました。
 この「一ノ堰の戦い」に八重の父山本権八は玄武隊の一員として出陣していましたが、八重の願いもむなしく戦死してしまいました。享年60歳でした。
 山本権八の墓は、山本家の菩提寺の会津若松市内の大龍寺でなく、一ノ堰の光明寺にあるようです。

 9月に入って奥羽越列藩同盟の各藩も劣勢になっており、食糧の補給路も断たれ、籠城戦は限界に達しつつありました。
籠城戦が始まってまもなくの9月5日、秋月梯次郎、手代木直右衛門らが米沢城に援軍を求めていました。
c0187004_9592049.jpg  これに対して、米沢藩は逆に降伏を勧めたといいます。 
 秋月梯次郎と手代木直右衛門は、若松城に戻り、藩主容保に報告し、城内で議論しましたが、恭順派と主戦派で議論が沸騰し結論がでませんでした。
 新政府軍が攻勢を強める一方、会津藩が頼りにした米沢藩は9月10日に最終的に新政府軍に降伏しました。
 そして、新政府軍の命令により、会津藩攻撃の軍を派兵する事態となっていました。
 そして、「一ノ堰の戦い」以後若松城への補給も厳しくなっていました。
 こうした、情況をうけ、若松城内でも次第に降伏論に固まってきました。
 ついに容保は、9月19日、秋月と手代木を派遣し、米沢藩を通じて降伏願いを土佐藩に提出しました。

 これに対して、新政府軍の板垣退助は降伏の条件を提示しました。
その条件は次の内容でした。

一、大手門に降伏と書いた白旗を掲げること
 大旗に降伏の二文字を大書きし、大手門外に立てる。諸隊はこれを合図に発砲をやめる。
 それから一時間後に重役は礼服を着し、兵器を一切持たずに罷り出る。
二、肥後父子(容保・喜徳)、刀を小姓に持たせ、嘆願書を持参する。
三、肥後父子は、出城の節は、20人ずつ随従、臣下は脱刀のこと
四、城中の兵士は追々出城苦しからず。
五、城中男幾人、女幾人、他邦脱走者幾人を帳面に差し出すこと
六、14歳以下と60歳以上ならびに婦女子は城外に退いてよい。
七、男子は追々出城の上、猪苗代に移る。
八、城中滞在の患者は青木村(小田山西麓)に退く。

 容保は、こうした条件を飲むことを決断しました。
 そして、降伏の印である白旗の製作の指揮をとったのは照姫でした。
 旗の大きさは、長さ三尺、幅二尺でしたが、この大きさの白旗は城内にありませんでした。白木綿は、包帯として負傷者の看護に使い果たしていました。
 そこで、照姫は小切れを多数集めさせ、それを縫い合わせ、ようやく一枚の大旗に仕立てたました。

 明治元年(1868)9月22日、ついに若松城の大手門に白旗が揚がりました。
 1ヶ月間の籠城戦が終わったのでした。
 右下段写真は、大手門前近くみた若松城天守閣です。
 
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by wheatbaku | 2013-07-20 09:54 | 大河ドラマ | Trackback
  

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