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討入りの武器(江戸検お題「本当の忠臣蔵」60)
  今日は、討入りに、赤穂浪士は、どのような武器を使用したのかについて書いてみます。

山本博文先生の「敗者の日本史 赤穂事件と四十六士」によれば
 赤穂浪士が事前に購入したものは、次のようなものであると書かれています。
 1、鑓 12本
 2、長刀 2振
 3、まさかり 2挺
 4、弓 4張
 5、竹ばしご 大小4挺
 6、げんのう 2丁
 7、鉄手木(てつてご 鉄製のてこ)  2丁
 8、木手こ(きてご 木製のてこ)  2丁
 9、鉄槌 2本
10、大のこぎり 2丁
11、かすがい  60本
12、かなすき  2丁
13、取かぎに長細を引きつけたもの  16.7本
14、玉火松明 人数分
15、ちゃるめらの小笛 人数分
16、がんどう提灯 1つ
17、水溜の大張  2つ

c0187004_11192755.jpg 人と戦うための武器と思えるのは、1の鑓、2の長刀、4の弓です。
 それ以外は、屋敷侵入用の道具や長屋の戸を閉めるための道具が大半です。
 3のまさかり、5の竹ばしご、10の大のこぎり、13の取かぎに長細をひきつけたものなどの屋敷に侵入するため道具です。
 6のげんのう、9の鉄槌、11のかすがいは戸を閉めるための道具です。
 14の松明は照明用で、16のがんどう提灯は吉良上野介確認用と思われます。
 15のちゃるめらは、吉良上野介発見の際の合図用です。
  
 屋敷に侵入する道具などは、日ごろは持っていなかったため、購入したのではないでしょうか。

 それでは、各人がどんな武器を準備していたかを書いたのが次です。
 山本博文先生の「本当の忠臣蔵」に掲載されています。
 元の資料は「赤城士話」のようです。

表門組 
表門固め ⇒ 全員の武器が鑓、「十文字」は「十文字鎗」のこと
 大石内蔵助(44)十文字、 原惣右衛門(55)十文字、 堀部弥兵衛(76)直鎗、
 間瀬久太夫(62)鍵鎗、 村松喜兵衛(61)鍵鎗

玄関固め  ⇒  槍や半弓が中心 「野太刀」は「長太刀」ともいい、長い刀。
 近松勘六(33)刀、 大高源五(31)野太刀、  間十次郎(25)十文字、
 早水藤左衛門(39)半弓、 矢頭右衛門七(17)鍵鎗、神崎与五郎(37)半弓

新門固め ⇒ 鎗が中心
 岡野金石衛門(23)十文字、貝賀弥左衛門(53)手鎗、 横川勘平(36)刀

屋敷内斬り込み  ⇒ 三分の二が刀、三分の一が鎗. 「長刀」は「なぎなた」のことだそうです。
 片岡源五右衛門(36) 十文字、 富森助右衛門(33)十文字、武林唯七(31)大身鎗
 勝田新左衛門(23)鎗、矢田五郎右衛門(28)長刀、 奥田孫太夫(56)長刀、
 吉田澤右衛門(28) 刀、 小野寺幸右衛門(27)刀、 岡島八十右衛門(37)刀

裏門組 
裏門内固め ⇒  全員が鎗
 大石主税(15)十文字 吉田忠左衛門(63)鍵鎗、間喜兵衛(68)十文字
 小野寺十内(60) 鍵鎗、 潮田又之丞(34)鍵鎗  
 
長屋防ぎ  ⇒  槍や半弓が中心
 木村岡右衛門(45) 鍵鎗、 不破数右衛門(33)鍵鎗、前原伊助(39)刀
 茅野和助(36) 半弓 、干馬三郎兵衛(50) 半弓 、間新六(23)半弓
 間瀬孫九郎(22)十文字、 中村勘助(46)十文字、奥田貞右衛門(25)野太刀

屋敷内斬り込み   ⇒ 三分の二が刀、三分の一が鎗
 磯貝十郎左衛門(24)直鎗、堀部安兵衛(33)野太刀、 倉橋伝助(33)刀
 赤埴源蔵(34)刀、大石瀬左衛門(26)十文字、村松三太夫(25)直鎗
 菅谷半之丞(43) 刀、 杉野十平次(27) 刀 、三村次郎左衛門(38)刀、
 寺坂吉右衛門(39)刀       


 これを見ると、次のような特徴がわかります。
 1、屋外待機組は、鑓を所持しているものが多い
 2、屋内突入組は、大分が刀を所持している。
 3、年齢の高いものや年少の者は、鑓を所持していることが多い。
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by wheatbaku | 2013-08-30 11:57 | 忠臣蔵 | Trackback
忠臣蔵 第4回模擬試験問題(江戸検お題「本当の忠臣蔵」59)

 今日は忠臣蔵についての第4回の模擬試験問題を出題します。
 江戸検の本番が、2か月後に迫ってきましたので、間隔を短くして最低2週間に一度は出題するようにしたいと思います。

c0187004_9252862.jpg 第4回の正解は、来週月曜日にアップしますので、その間にチャレンジしてみてください。
 解答がわからない問題については、本やインターネット検索でお調べいただきたいと思います。

 右写真は、泉岳寺にある浅野内匠頭長矩のお墓です。
 浅野内匠頭長矩の戒名は
 冷光院殿前少府朝散大夫吹毛玄利大居士    となっています。


1、吉良上野介は、鍛冶橋門内にあった吉良邸で生まれましたが、その屋敷が元禄11年の大火により焼失したため、呉服橋門内に屋敷を拝領し移転しました。
 この火事は、江戸十大大火の一つに数えられるほどの大火でした。
 それでは、吉良家の鍛冶橋門内の屋敷が燃えた大火の別名は何というでしょうか。

 ①お七火事  ②行人坂の火事  ③勅額火事   ④水戸様火事

2、浅野内匠頭長矩は、松之大廊下の刃傷後、目付たちから尋問を受けました。
  浅野内匠頭が尋問を受けた部屋は、次のうちのどれでしょうか

 
 ①柳の間  ②桜の間  ③檜の間  ④蘇鉄の間

3、浅野内匠頭は、一関藩田村右京太夫邸に御預けとなり切腹しました。
 それでは、御預け先として一関藩田村家が選ばれた理由は次のうちどれでしょうか

 ①奏者番として江戸城に控えていたから。
 ②上屋敷が大目付仙石伯耆守の屋敷の近くにあったから。 
 ③赤穂藩の本家は広島藩浅野家で西国雄藩であるので、東国雄藩の仙台藩伊達家が
   本家である田村家が選ばれた。
 ④領地が陸奥一関で、江戸より遠く、罪人の御預先として適地であったから。

4、 浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかった際に、いち早く浅野内匠頭を組み伏せた梶川与惣兵衛は、事件の後、その行為を賞されて加増されています。
 それでは、梶川与惣兵衛の加増後の知行はいくらになったでしょうか

 ①500石  ②700石  ③1000石  ④1200石

5、私は、赤穂藩浅野家の改易に際して受城目付として赤穂城に派遣されました。
 この時、大石内蔵助殿は三度にわたり浅野大学殿について嘆願され、その熱意に心打たれた私は、その旨老中に伝えると回答しました。
 討入り後、大石内蔵助殿は、細川家に御預けとなり、2月4日に切腹されましたが、その際に、私は検使目付として細川家に派遣され、再び大石内蔵助殿にお会いすることになりました。
 さて、私はだれでしょうか?

 ①多門伝八郎  ②荒木十左衛門  ③近藤平八郎  ④榊原采女


6、仇討の決定をした「円山会議」は京都円山にある有名な寺院の塔頭で開かれました。
 それでは、その寺院の名前はなんというでしょうか

 ①高台寺  ②知恩院 ③安養寺  ④長楽寺 
 

7、次の文章は、赤穂浪士が吉良邸に討入した際に示した「浅野内匠家来口上」の冒頭部分です。

 去年三月、内匠儀、○○御馳走の儀に付き、吉良上野介殿へ意趣を含み罷(まか)りあり候ところ、
 御殿中において、当座遁(のが)れ難き儀御座候か、刃傷に及び候。

 ○○の部分には漢字で二文字の言葉が入ります。
 その二文字は、次のうちのどれでしょうか?

 ①勅使  ②伝奏  ③御門  ④殿中 

8、大石内蔵助は、討入り成功後、大石一族の中で討入りに参加したのは3人だけだったことを嘆いています。
 次の大石内蔵助の一族の中で、一人だけ討入りに参加していますが、それは誰でしょうか?

 ①奥野将監  ②小山源五左衛門  ③進藤源四郎  ④大石瀬左衛門

9、忠臣蔵では、「本所松坂町の吉良邸」というセリフがよく出てきますが、「松坂町」という町名は、赤穂浪士が討入りした当時はなく、吉良家改易後につけられた町名です。
 それでは、「松坂町」という町名は何に由来するものでしょうか?

 ①めでたい謡曲の曲名「松坂」からつけられた。  
 ②初代名主の名前「松坂宗右衛門」からつけられた。  
 ③初代名主の出身地「伊勢松坂」の地名からつけられた。 
 ④近くにあった坂「松坂」の名前から付けられた。

10、忠臣蔵は日本人だけでなく、時には外国人の心も揺さぶることがあります。
 その忠臣蔵に感動した人の中には、アメリカ大統領にもいます。
 それでは、忠臣蔵に感動した大統領は次に中の誰でしょうか?

 ①リンカーン大統領 ②ケネディ大統領 ③ルーズベルト大統領 ④ウィルソン大統領 


☆  正解はこちら  ⇒  忠臣蔵 第4回模擬試験問題の正解
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by wheatbaku | 2013-08-30 08:24 | 忠臣蔵 | Trackback
討入り装束(江戸検お題「本当の忠臣蔵」58)
 赤穂浪士がいよいよ吉良邸へ討入りということになります。
 そこで、討入りの関係することについて書いていきたいと思います。
 まず、討入りの装束がどんなものだったか書いておきます。

c0187004_8395336.jpg 赤穂浪士の討入り装束といえば、 右写真のように黒地の羽織の袖が入山形(いわゆるダンダラ模様)に染められ、左の白襟には播州赤穂浪士と書かれ、右の白襟には各自の姓名が書かれている装束と決まっています。
 しかし、これは、歌舞伎の世界であることは皆さんよくご存じのことだと思います。

 それでは、赤穂浪士の実際の討入り装束はどうだったのかについて書いてみたいと思います。
 
 討入りの装束については、大石内蔵助は、川崎の平間村から11月初めに、次のように指示しています。

 打込之節衣類は黒き小袖を用可申候、帯之結ひ目ハ右之脇可然候、下帯は前さがりはづれざる様ニ御心得可有之候、もも引き・脚絆・わらし用可申事

 これを読むと、討入りの際の衣類は、黒い小袖を着用し、股引・脚絆・わらじといういでたちとすることとなっています。
 あとは、各自が思い思いのものを身に着けてよいことになっていました。
 そのため、装束は赤穂浪士それぞれによって異なっていました。
 大石内蔵助の場合には、着込みは瑠璃紺の緞子(どんす)、小手・股引も同じ色で同じ生地でした、股引には鎖をいれていたようです。
 吉田忠左衛門は、黒小袖、家紋付、帯は常の帯で上で鎖手拭を結び、股引は茶羽二重、裏付き、股の間に鎖をいれてありました。

 このよううに細かい部分は異なりますが、赤穂浪士の討入り装束は、全体的には薄黒くなっており、いわゆる火事装束に似たものだったようです。

 討入り後の幕府の取り調べに対して、隣家の旗本の土屋主税が答えている中に
 「夜明け前、裏門前へ数五六十人程も罷り出候様に相見申候、何れも火事装束の体に相見申候」
 とあります。

 また、吉良左兵衛の口上でも
 「昨14日之夜八時半過上野介幷拙者罷在り候方へ浅野内匠頭家来と名乗り大勢火事装束体に見へ押込申候。」
 とあります。
 二つとも、火事装束のような姿をしていたと証言しています。
 それでは、なぜ火事装束だったのでしょうか。

 当時、江戸では、火事が頻繁に起きていました。
 ですから、夜夜中あるいは未明に、火事装束の男たちが大勢町を徘徊していても見とがめられることはなかったからだと言われています。
 また、火事場は戦場のようなものですが、そこで動くための火事装束は、戦闘向きでした。
 こうしたことから、火事装束をとったと考えられています。

 なお、火事装束が基本であることについては、異論がないようですが、赤穂浪士全員が火事装束で統一されていたという説と「いやバラバラで統一されていなかった」という説あるようです。

 宮澤誠一氏は「赤穂浪士」の中で、
 「全員が一様であったものは、定紋付の黒小袖と両袖をおおった合印の白晒くらいであった。ただ全体的に火消しのスタイルに近い服装だったところから、揃いの火事装束という風聞が生まれたのであろう」
 と書いています。
 山本博文先生は「敗者の日本史」の中で、
 「大石父子は、国元から火事装束を持参していたかもしれないが、全員が火事装束を着したというのは疑問である。47人もの浪人がこの時点まで火事装束を持っていたとは思えないからである。」
 と書いています
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by wheatbaku | 2013-08-29 08:21 | 忠臣蔵 | Trackback
赤坂離宮に行ってきました(大江戸散歩)
 一昨日、迎賓館赤坂離宮に行ってきました。
 迎賓館赤坂離宮は、年に一度、公開されています。
 迎賓館赤坂離宮は、江戸時代には、紀州徳川家の屋敷であった場所にあります。一度は観に行きたいとおもっていた場所です。
c0187004_173174.jpg 参観は、事前申し込み制となっていますが、6月ごろ、一級2期会の極骨さんから案内をもらっていたので、申し込んでおきました。
 今回も大勢の申込者がいるため、抽選になりましたが、幸運にも拝観日26日分に当選しましたので、月曜日にいってきました。

 東京の元赤坂にある現在の迎賓館の建物は、東宮御所として明治42年に建設されました。
 片山東熊設計の、日本で唯一のネオ・バロック様式の洋風宮殿建築です。
 皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)がこの御所を使用することはほとんどなかったようですが、嘉仁親王が天皇に即位した後は離宮として扱われることとなり、その名称も赤坂離宮と改められた。
 その後、昭和天皇が皇太子の時代に、赤坂離宮は再び東宮御所として利用されました。

c0187004_173383.jpg 戦後は、国立国会図書館や東京オリンピック組織委員会などに使用されました。

 その後、旧赤坂離宮を改修してこれを迎賓施設とすることになり、昭和42年に決定され、村野藤吾が改修の指揮をとり、昭和49年3月に現在の迎賓館赤坂離宮が完成しました。

 迎賓館赤坂離宮は、現在は、国賓・公賓が宿泊するとともに歓迎行事や会談など様々な催しの舞台や東京サミットなどの重要な国際会議の舞台として使用されています。
c0187004_1742535.jpg 平成21年に、旧東宮御所(迎賓館赤坂離宮)本館、正門、主庭噴水等が国宝に指定されました。

 本館は、東西125メートル、南北89メートル、高さ23.2メートルあり、地上2階・地下1階の鉄骨補強煉瓦造りです。
 外壁は、すべて茨城県産の花崗岩が使用されています。

 正面玄関の屋根に兜・鎧で武装した鎧武者が一対置かれていますのが目立ちましたが、これはあたかも阿吽の仁王像のように一体は口を開け、もう一体は口を閉じているんだそうです。


c0187004_175241.jpg 入り口近くには参観順路を示した掲示板があります。
 赤坂離宮内は、外観を観た後、離宮内の各部屋を巡ります。 
 離宮内は、彩鸞の間(さいらん の ま)、花鳥の間、中央ホール、朝日の間、羽衣の間の順に拝観しました。
 その後、主庭を拝観しました。

 それでは各部屋の紹介を下に書きますが、室内は撮影禁止ですので、部屋の写真は、販売されていた絵葉書を利用してあります。

彩鸞の間(さいらん の ま)
 最初に拝観できる部屋は「彩鸞の間」と呼ばれています。
c0187004_1753690.jpg この部屋の名前は、東西の大きな鏡の上と、ねずみ色の大理石の暖炉の両脇に、「鸞」と呼ばれる架空の鳥をデザインした金色の浮き彫りがあることに由来しているそうです。
 室内は、アンピール様式であり、金箔と石膏のレリーフで装飾されています。
 そして、10枚の鏡が部屋を広く見せています。
 天井は、楕円形上のアーチ状となっていて、天幕が張られてように見えます。
 この部屋は、晩餐会の招待客が国・公賓に謁見したり、条約・協定の調印式や国・公賓とのインタビュー等に使用されています。広さは約140平方メートルあるそうです。

花鳥の間(かちょう の ま)
 天井に描かれた36枚の油絵や欄間に張られたゴブラン織り風綴織、そして壁面の七宝に花と鳥の絵が描かれていることから「花鳥の間」と呼ばれています。、
c0187004_1755148.jpg 室内はアンリー2世様式であり、腰壁は茶褐色のジオン材を板張りしており、重厚な雰囲気となっています。
 広さは約300平方メートルあります。
 この部屋は、主に国・公賓主催の公式晩餐会が催される大食堂であり、最大約130名の席が設けることができるそうです。

c0187004_1034965.jpg 壁面には木曾産のシオジ材が利用されて、30面の七宝焼きが飾れています。
 七宝焼きは、下絵は渡辺省亭が書き、濤川惣助が「無線七宝」という技術で作りあげられました。
 従来の七宝は、釉薬を挿す際の色の仕切り兼図柄の輪郭線として金線や銀線を利用していました。
 無線七宝というのは、釉薬を焼き付ける前の段階で、その輪郭線を取り外してしまうそうです。
 そこから「無線」という名前が生まれました。
 図柄の輪郭線がなくなることによって、微妙な色彩のグラデーションが生まれ、立体感のある表現や軟らかな表現を生み出すことが可能になったそうです。
 現在では、この「無線七宝」の技術を継承している人は数少なっているようです。
 右写真は、「尉鶲(じょうびたき)に牡丹」です。

朝日の間(あさひ の ま)
 天井に「朝日を背にうけた暁の女神オーロラが左手に月桂冠を持ち馬車を走らせている姿」の絵が描かれていることから「朝日の間」と呼ばれています。
c0187004_1761172.jpg 天井画は長径8.26メートル、短径5.15メートルの大きな楕円形の絵です。
 室内は古典主義様式であり、壁には京都西陣の金華山織の美術織物が張られています。
 広さは約180平方メートルあります。
 ここで国賓・公賓の表敬訪問や首脳会談などの行事が行われます。

羽衣の間(はごろも の ま)
 天井には、謡曲の「羽衣」の景趣を描いた200平方メートルの曲面画法による大壁画があります。
c0187004_1762384.jpg そのため、「羽衣の間」と呼ばれます。
 ただし、日本的な「羽衣」ではなく、西洋的な「羽衣」となっています。
 室内の内装は、古典主義様式で装飾されています。
 部屋の中央には迎賓館の中で最も大きいシャンデリアが3つあります。
 シャンデリアの重さは800キロもあります。部屋の広さは約300平方メートルあります。
 この部屋は、雨天の際に歓迎式典を行ったり、在日外交団が国賓に謁見したり、晩餐会の招待客に食前酒や食後酒が供される場所として使用されます。


c0187004_843078.jpg 本館の南側には主庭と呼ばれる西洋風庭園があります。
 庭園は、全面に化粧砂利が敷き詰められています。
 庭園に中央には、大噴水池があり、7.8メートルの噴水施設があり、噴水した時の高さは8.5メートルになるんだそうです。

 赤坂離宮に入ったら、偶然にもこの特別公開を教えてくれた極骨さんに会いました。 
 そこで、拝観が終わった後は、極骨さんと四谷で一杯ということになりました。
 極骨さん、お蔭で滅多にみられない「赤坂離宮」をみることができました。ありがとうございました。
 お酒と会話もおいしかったですよ。
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by wheatbaku | 2013-08-27 17:01 | 大江戸散歩 | Trackback
討入り日の決定(江戸検お題「本当の忠臣蔵」57)
 深川会議を開催し、12月6日の討入りに備えた赤穂浪士ですが、12月6日の討入りは中止されます。

 これは、12月5日に、将軍綱吉が側用人の柳沢吉保の屋敷に御成りになるということになり、それに伴い吉良邸での茶会が中止されたため、12月5日の晩に吉良上野介が屋敷に在宅しない可能性が高くなったためです。

 一度決めた計画が中止されたため、多くの赤穂浪士ががっかりするとともに中止に対して異議を申し立てたという話も残されています。

 その後、しばらくは新しい情報がはいりませんでしたが、そうしているうちに、12月14日茶会が開かれるという重要な情報が入ってきました。

 情報源は、大高源五と言われています。
 大高源五は、江戸では町人脇屋新兵衛(わきやしんべえ)を名乗り、俳人としての縁から吉良家出入りの茶人山田宗徧に入門していました。
 そして、12月6日以降、山田宗徧を訪ねて、「近日中に上方に帰るので、茶の湯の仕上げをお願いしたい」お願いしたところ、山田宗徧は「14日には吉良家で茶会があるので都合が悪い」といって別の日を指定したので、12月14日に吉良邸で茶会があることを突きとめたと言われています。
 しかし、これは事実ではなく、後世の創作だという説もあるようで、事実がどうかについては意見が分かれています。

 ところで、山田宗徧ですが、あまり知られていませんが、茶道では大変有名な人物です。
 千利休の孫に千宗旦がいます。
c0187004_812504.jpg  この千宗旦の子供たちから現在の表千家・裏千家・武者小路千家のいわゆる三千家が起こっていますが、山田宗徧は、この千宗旦の弟子で四天王の一人に数えられている実力者です。
 また吉良上野介も千宗旦の弟子でしたので二人は兄弟弟子ということになります。
 山田宗徧は、明暦元年(1655)、千宗旦の推挙で三河国吉田藩主小笠原忠知に茶道頭として仕えるようになり、以後40年以上にわたり小笠原家に仕えました。
 その後、元禄10年(1697)、吉田藩小笠原家を去り、江戸に下り、宗徧流を興しました。
 山田宗徧は、江戸では、本所二つ目に住まいを構えていました。
 本所二つ目という場所は、吉良邸のすぐ近くですので、兄弟弟子の吉良上野介との行き来も頻繁に行われ吉良邸の茶会にもしばしば呼ばれていたと言われます。
 右写真は、浅草の願龍寺にある山田宗徧のお墓です。

 大高源五による上記の情報入手が事実であるかどうか議論のあるところですが、討入りの後、大高源五は、山田宗徧に「欺きて師とし弟子と成りたる事恐れ入り候。併しながら義士忠心の成す所なれば、御免蒙るべし」というお詫びの手紙を書いていますので、上記の話に近いことはあったものと思われます。

 茶会が開催されるという情報は、大高ルートの他に、もう別ルートからの情報がありました。
 それは羽倉斎からの情報で、大石三平が知らせてきました。
 12月13日に、羽倉斎が大石三平に急使を送り、「尚々、彼方の儀(茶会のこと)は14日の様にちらと承り候」と知らせてきました。
 そして、14日は、さらに、「吉良上野介が今日帰宅した」という情報を羽倉斎さんから聞いたと知らせてきました。
 寺坂吉右衛門が書いた「寺坂信行自記」には、「極月十四日之昼時、兼而申合い候大石三平より、上野介殿御事今日帰宅成られ候由聞付、早速告来候」と書かれています。

 さらに、堀部安兵衛と同居していた横川勘平が親しくしていた僧侶が茶人で招待状を吉良家から依頼され、その招待状を横川勘平が代筆して、茶会が14日に開かれということがわかったという話もあったようです。

 こうした情報を総合して、12月14日は吉良上野介が在宅していると判断して、12月14日が討入りの日と決められました。
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by wheatbaku | 2013-08-27 08:14 | 忠臣蔵 | Trackback
「浅野内匠家来口上」(江戸検お題「本当の忠臣蔵」56)
 「忠臣蔵」について先週は、「深川会議」まで書きましたが、今日も討入りの準備についてです。
 赤穂浪士が討入りした際に、吉良邸に掲げ、仙石伯耆守に自首する際にも持参したものに「浅野内匠家来口上」があります。
c0187004_8373564.jpg これは、討入りの趣意書です。
 この「浅野内匠家来口上」を起草したのは堀部弥兵衛ですが、この口上書が起草されたのが「深川会議」が開かれた頃と言われています。
 右は本所松坂町公園に掲示されている「浅野内匠家来口上」です。

 この口上書の元となったのは、赤穂市編纂の「忠臣蔵第1巻」によれば、堀部弥兵衛の残書(遺書)であるということです。
 その草案を元に、細井広沢の意見を聞いた完成させたそうです。
 細井広沢は、儒学者で、当時柳沢吉保に200石で召し抱えられていました。
 細井広沢は、堀部安兵衛とは剣術を堀内  のもとで学んでいる仲間で、大変親しくしていました、
 堀部安兵衛は、彼の筆記「堀部武庸筆記」を細井広沢に託しています。
 「堀部武庸筆記」には、仇討についての大石内蔵助とのやりとりなどが記録されていますが、「堀部武庸筆記」を預けるほど、堀辺安兵衛は細井広沢を大変信頼していました。
 この細井広沢は細井広沢で赤穂浪士を大変支援していました。
 討入りの際には、自分の屋敷の屋根にのぼり、本所方面を眺めていたという話も残されています。
 そうした関係から、口上書の表現でアドバイスをもらっています。

 「口上書」の中に、「君父之讐共不可戴天」という言葉があります。
 下記の「口上書」全文のうち、赤字で表示した部分です。
 「礼記」の中には、「父の讐(あだ)は与共(とも)に天を戴ず」とあるのみで、「君父」とは出ていませんでした。
 そこで、堀部親子は、細井広沢に意見を求めたところ、細井広沢は「問題ない」と答えたと言われています。

 口上書の全文は後記の通りですが、読み下し文を先に書いておきます。
 江戸検を受験される方はしっかり読んでおいた方がよいと思います。

「去年三月、内匠儀、伝奏御馳走の儀に付き、吉良上野介殿へ意趣を含み罷りあり候ところ、御殿中において、当座遁(のが)れ難き儀御座候か、刃傷に及び候。
時節場所を弁えざる働き、不調法至極に付き、切腹仰せ付けられ、領地赤穂城召し上げられ候儀、家来どもまで畏れ入り存じ奉り、上使御下知を請け、城地指し上げ、家中さっそく離散仕り候、
右喧嘩の節、御同席御抑留の御方これ在り、上野介殿討ち留め申さず、内匠末期残念の心底、家来ども忍び難き仕合いに御座候。
高家御歴々に対し、家来ども鬱憤をさしはさみ候段、憚(はばか)りに存じ奉り候えども、君父の讐(あだ)ともに天を載くべからざるの儀、黙止しがたく、今日上野介殿御宅へ推参仕り候。
ひとえに亡主の意趣を継ぎそうろう志までに御座候。私ども死後、もし御見分の御方御座候わば、御披見願い奉りたく、かくの如くに御座候  以上
元禄15年12月日


浅野内匠家来口上
 去年三月内匠儀伝奏御馳走之儀付
 吉良上野介殿へ含意趣罷在候処、
 於 御殿中当座難遁儀御座候歟及刃場(傷)候、
 不弁時節場所働無調法至極付
 切腹被 仰付領地赤穂城被 召上候儀
 家来共迄畏入奉存、  請 上使御下知
 城地指上家中早速離散仕候、
 右喧嘩之節御同席御抑留之御方在之
 上野介殿討留不申内匠末期残念之心底
 家来共難忍仕合御座候、
 対高家御歴々家来共件鬱憤候段憚奉存
 候得共、君父之讐共不可戴天之儀難黙止
 今日上野介殿御宅江推参仕候、
 偏継亡主之意趣候志迄御座候、
 私共死後
 若御見分之御方御座候は
 奉願御披見如斯御座候、以上
               元禄十五年極月日      
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by wheatbaku | 2013-08-26 08:36 | 忠臣蔵 | Trackback
「忠臣蔵散歩」のご案内(江戸検お題「本当の忠臣蔵」55)
 今年の江戸検に向けて、「忠臣蔵」の連載をしていますが、この秋に「忠臣蔵散歩」を行うことになりましたので、今日はそのご案内です。

c0187004_13404026.jpg 文京学院大学生涯学習センターさん主催の「江戸散歩」の中で、「これが本当の忠臣蔵 四十七士が歩んだ道」と題して、両国と高輪の忠臣蔵ゆかりの地の史跡巡りを行います。

 
 「忠臣蔵」は、人気があるゆえに、多くの人が内容を知っています。
 この「忠臣蔵」が、江戸文化歴史検定の「今年のお題」に取り上げられました。
 そこで、このブログでも、受験のお手伝いをするために、「忠臣蔵」関連の記事を書いています。

 今回の文京学院大学さんの江戸散歩では、両国と高輪をご案内しますが、「忠臣蔵」にゆかりの地に限って、じっくり時間をかけてご案内します。

詳細は  文京学院大学生涯学習センターの講座案内 をご覧ください


 討入りの現場である「吉良上野介屋敷跡」と赤穂浪士がねむる「泉岳寺」を中心にご案内します。

c0187004_1355364.jpg 江戸検本番前の直前対策としても利用価値がある案内をしたいと考えています。

 もちろん、江戸検を受験しない方も十分楽しめるご案内にしたいと思います。

 ふるってご参加ください。

 申し込みは、 文京学院大学生涯学習センター にお願いします。


 さて、ご案内する場所を一言づつご紹介をしておきます。

 第1回(10月5日)両国における「忠臣蔵ゆかりの地」

 ご案内を予定しているのは、

 回向院(赤穂浪士が休憩しようとして入山を断られたお寺)
 両国橋(赤穂浪士が休憩をした場所)
 吉良邸裏門跡(赤穂浪士24人が討ち入った門)
 前原伊助住居跡(前原伊助が米屋に身をやつして情報収集した跡)
 土屋主税邸跡(吉良邸北隣りの旗本屋敷)
 本所松坂町公園(吉良邸跡 右写真)
 吉良邸表門跡(大石内蔵助ら23人が討ち入った跡)
 大川屋【明治2年創業の和菓子屋 吉良饅頭が名物】

 これらを案内して、3時30分頃に一旦講座を修了します。

 その後は、希望される方に対して次のコースをご案内しようと思っています。
 梶川与惣兵衛ゆかりの地跡 堀部安兵衛旧居跡、
 杉野十平次旧居跡、本所横川時の鐘跡、浅野家本所屋敷跡 

 散歩の後は、希望者でオフ会(飲み会)を行う予定です。


 第2回(10月26日)高輪の「忠臣蔵ゆかりの地」

c0187004_13511982.jpg 長松寺(荻生徂徠のお墓があります)

 清久寺(赤穂浪士磯貝十郎左衛門ゆかりの寺)

 正山寺(赤穂藩江戸家老大石頼母ゆかりの寺)

 細川家下屋敷跡(大石内蔵助はじめ十七士切腹の場所)

 広岳院(赤穂浪士の接待をした承天則地和尚が住職をしていたお寺)

 泉岳寺(赤穂浪士のねむる寺)

 3時30分頃、一旦終了し、その後は、希望者のみで、三田地区の忠臣蔵ゆかりの地を引き続きめぐります。
 主な先は、箕田八幡宮、水野監物屋敷跡、伊予松山藩松平家屋敷跡です。

 その後、希望者でオフ会(飲み会)の予定です。
 
 多くの方と楽しく「忠臣蔵散歩」をしたいと思います。ぜひご参加ください。
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by wheatbaku | 2013-08-24 10:17 | 忠臣蔵 | Trackback
深川会議(江戸検お題「本当の忠臣蔵」54)
 「忠臣蔵」もいよいよ討入りが近づいてきました。
 今日の「忠臣蔵」は、深川会議を中心に書きます。 

金銀請払帳を届ける
 吉良邸討入りが近づき、大石内蔵助は、吉良邸討入りに向けた最後の詰めをおこなっています。
 まず、11月29日に大石内蔵助は「預置候金銀請払帳」を瑤泉院の用人落合与左衛門に送り届けています。
 この時の落合宛ての手紙の中で、大石内蔵助は、討入りが近いことを暗に知らせています。
 これを届けたのは大石内蔵助本人ではなく人づてに届けたようです。近松勘六の下僕甚三郎が届けたとも言われているようです。


深川会議
 12月2日には、大石内蔵助は、頼母子講の集まりと称して、門前の茶屋にて会合しています。
 これが「深川会議」と呼ばれるものです。
c0187004_93996.jpg 頼母子講というのは、グループのメンバーが定期的に一定額のお金を積み立てて、貯まったお金をメンバーに融通するという互助的な組織です。
  12月5日には、吉良上野介が在宅しているという情報があったため、6日に討入りを予定していたため、その最後の打ち合わせのため集合させたと思われます。
 右写真は、深川八幡(現在の名称は富岡八幡宮)です。赤穂浪士一同が深川八幡にお参りしたという記録はないようですが、きっと深川八幡にお参りして、討ち入り成功を祈ったことでしょう。

討入り注意事項「人々心覚」
 ここで、同志に示されたのが「人々心覚」という討ち入りの集合場所、吉良上野介の首の処理、引き揚げの方法など16カ条にわたる討入りについての詳細な決め事でした。

 その内容は次のようです。
1、日が決まったら予て定めた3カ所に集合する。
2、最後の集合は林2丁目の堀部安兵衛宅に集合する。
3、予て定めた時刻に出発する
4、吉良上野介の首を挙げた時は、吉良上野介の上着を剥ぎそれに包んで持参する
5、幕府からの検分があった場合には、「上野介の首は泉岳寺の墓に供えたい」という。それが認められなければ仕方がないが、「お歴々の首は討ち捨てがたい。お指図次第で吉良家に返してもよいが、泉岳寺の墓所にお供えしたい。」と言う。
6、吉良左兵衛義周の首を取った場合には持参する必要はなく屋敷に置いておく。
7、負傷者は、肩にかけて引き取れるものは引取り、引取りが難しいほどの重傷者は首を切る。
8、上野介父子の首をとったら合図の笛を吹く
9、鉦の合図は全員が引き上げる時に使用する
10、引き上げる場所は回向院とする。ここが駄目なときは両国橋東詰め広場とする。
11、引き上げの途中、押しとどめる者がいたら事情を告げる。「無縁時に引き上げ、公儀に趣旨を申上げるつもりであるので、寺までついてきて見てもらってもよい、一人も逃げるものはない」という。
12、吉良邸からの追っ手には踏みとどまって勝負する
13、吉良上野介の首を取る前に検使が来たら、くぐり戸から1人だけ外へ出て挨拶をする
その時、「ただ今 敵を討ちとめている。生き残った者を呼び集め、命令に従うので、しばらく待って頂きたい」と言って、門は開けない
14、.門内にぜひ入りたいと言われても、「討ち入ったものたちは方々で戦っているので、今門内に入られても万一のことがあるかもしれないので、どうでしょうか、追っ付け、門を開いてお目にかかる」と言って門を開けてはいけない。
15、引き上げ出口は裏門とする
16、討入りは必死の覚悟で行うものである。
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by wheatbaku | 2013-08-23 09:40 | 忠臣蔵 | Trackback
吉良邸情報の収集(江戸検お題「本当の忠臣蔵」53)
 今日も「忠臣蔵」の続きです。
 江戸の各地に潜伏した赤穂浪士は、討入に向けて、情報収集に努めます。
 今日は、赤穂浪士がどのようにして情報を収集したかについて書いてみたいと思います。

 情報収集のポイントは、①討ち入る吉良邸がどうなっているか、②吉良邸に吉良上野介が在宅しているかどうかが、になります。

吉良邸の情報収集
 赤穂浪士たちは、江戸にいる浪士たちだけで元禄15年8月から夜回りを始めました。
 8月5日に、本所にいる堀部安兵衛、倉橋伝助、杉野十平次、勝田新左衛門、横川勘平に吉田忠左衛門が加わって相談し、夜回りを開始することにし、麹町にいる同志も加わって夜回りを開始しました。
c0187004_928680.jpg この夜回りでは、吉良邸近くの夜回りは逆に疑念を持たれるので、やめた方がよいということになったようです。
 そこで、裏門近くに店を出している前原伊助と神崎与五郎が主に吉良邸の情報収集にあたりました。
 そして同志が集結した11月からは、さらに①本所の吉良邸と桜田の上杉家上屋敷との道筋、②上杉家の 桜田上屋敷と白金下屋敷を調査しています。
 これにより、吉良邸に討ち入った場合に、上杉家から応援が来ることを想定して調査したようですし、上杉家上屋敷や下屋敷の人の出入りもチェックしていたようです。
 右上写真は、桜田門近くにある法務省旧本館です。ここに上杉家の桜田上屋敷がありました。

 吉良邸の内部の様子は、邸内に入らないとわかりません。何人かが中間などに雇われるように試みましたがうまくいきませんでした。
 その中で、唯一毛利小平太が成功したと「江赤見聞記」に記録されています。
 毛利小平太の情報では、吉良邸には厳重な竹垣などなく、赤穂浪士たちが考えているほど警戒は厳重ではなかったことがわかりました。
 なお、この毛利小平太は、最後の脱盟者となり、討入りには参加していません。

吉良邸の絵図面
 吉良邸の内部がどうなっているかを知るので重要なのが絵図面の入手です。
 映画やテレビでは、岡野金右衛門が、吉良邸の女中と恋中になり、その女中の親が大工の棟梁であったため、そのルートで入手するといったストーリーの「恋の絵図面取り」という話が有名ですが、これも創作です。
 吉良邸の絵図面は、新旧2枚を10月までに入手したそうです。
 しかし、どのようにして入手したからはハッキリとした記録は残されていないようです。
 また、吉良邸から回向院まで距離、回向院の中の距離、両国橋広小路までの町割・道幅などは、赤穂浪士は何度も歩いて調べました。
 これも、上杉家からの応援がくることを想定して事前準備をしていました。

 

 吉良上野介の在宅情報
 一番肝心なのは吉良上野介が在宅しているかの情報です。
 吉良上野介の動向を知るうえで非常に有効だったのが、中島五郎作と羽倉斎のルートでした。
c0187004_931246.jpg 中島五郎作は京橋三十間堀(現在の東銀座 右写真は「三十間堀」の説明板)に店をもつ呉服商でした。
この中島五郎作の借家に住んでいたのが後に荷田春満(かだのあずままろ)と名を変えて国学の四大人の一人に数えられた羽倉斎(いつき)です。
 羽倉斎は、京都伏見稲荷神社の神官の子として生まれ、大井御門大納言経光卿について江戸に下りましたが、国学を勉強しようとしてそのまま江戸に残っていました。

 中島五郎作と同門であったのが大石内蔵助の一族であった大石無人の次男三平でした。
 大石無人はもともと赤穂藩に仕えたことがあり堀部弥兵衛と親しくしていました。
 そのため、一緒に討入をしたいとまで申し出るほど赤穂浪士を支援しており、三平も同じ願いを持っていたといいます。
 そこで、情報収集で協力しました。

 堀部弥兵衛が書き記した『堀部金丸覚書』に、大石三平と中島五郎作・羽倉斎との関係や付き合いが、大石三平が語ったこととして次のよう書かれているようです。

「中島五郎作は吉良邸に出入りする山田宗徧(吉良上野介とは茶道の兄弟弟子)の弟子です。
 大石三平は、中島五郎作のところで四、五回料理を食べたことがあり、羽倉斎のところで五郎作と会ったこともありました。
 中島五郎作・羽倉斎は大石三平の一族が多く赤穂浅野家に仕えていたことを知っていたので、しばしば吉良のことを話題にしていたが、真意がわからないので大石三平はとぼけていました
 元禄15年11月2・3日頃、大石三平が「時節柄方々に茶湯に参られるのでしょう」と話しかけると、中島五郎作は「その通りです。それにつき、近頃吉良様からお招きを受けました。日程は未定ですが近々行くはずです」という話でした。
 同月6日に羽倉宅で中島五郎作に会ったときには、「今夕吉良様へ参ります」と言っていました。
8日に大石三平は羽倉斎を訪ね「中島五郎作は、吉良様にあったのでしょうか」と尋ねました。
羽倉斎は、「中島五郎作が伺うと、吉良様が茶をたててくれたようです」と言い、茶の湯が済んだ後、中島五郎作が吉良上野介といろいろ話をした内容や、吉良邸の様子も話してくれました。
 さらに吉良上野介が屋敷のどこに住んでいるかという情報がつかめないこともないだろうと思いますが、余り急いではかえって良くないだろうと思っています」

 このように大石三平は堀部弥兵衛に語ったといいます。

 この中島五郎作と羽倉斎のルートが、後に茶会の開催日を探る重要な情報源となります。
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by wheatbaku | 2013-08-22 09:31 | 忠臣蔵 | Trackback
赤穂浪士の潜伏場所(江戸検お題「本当の忠臣蔵」52)
 今日も、「忠臣蔵」の話題です。

 赤穂浪士が江戸に集結してきましたが、どこに住んでいたのかをまとめてみました。
赤穂浪士は、日本橋、麹町、本所、芝、深川、築地などに分散して住んでいました。


 11月5日に江戸に入った大石内蔵助は、日本橋の小山屋(おやまや)の裏店に住みました。
 ここには、大石内蔵助・主税をはじめ9人の浪士が同宿していました。
c0187004_924643.jpg 小山屋は、全国各地から訴訟のために江戸に出てきた人が泊まる公事宿(くじやど)」であったと言われています。
 その小山屋の裏店(うらだな)を、大石主税が垣見左内と名乗って、訴訟のため江戸に来た者として借りました。
 そして、大石内蔵助はその後見のため江戸に出てきた叔父ということにして「垣見五郎兵衛」と名乗っていました。
 この「垣見五郎兵衛」という名前を聞くと、映画やテレビドラマで、道中で本物の垣見五郎兵衛にあい、本物の垣見五郎兵衛の配慮により、大石内蔵助が難を逃れるという場面を思い出す方もいると思いますが、これは、もちろん創作です。従って、「垣見五郎兵衛」という人物は実在していません。

 その他の浪士の潜伏先で目立つのが麹町です。
 赤穂浪士は本所辺りに住んでいたと思っている人が多いとも思いますが、麹町に潜んでいた浪士が結構多いのです。
 ここは、旗本の御屋敷が多い町ですので、幕府のお膝元といってもいい場所ですが、ここに多くの赤穂浪士たちが潜んでいました。
c0187004_931373.jpg 下の資料によれば55人中18人が住んでいます。その中には、吉田忠左衛門もいます。
 吉田忠左衛門は、兵学の心得もあり討入りの副将役を務めました。
 討入り準備の打合せは、大石内蔵助のいる小山屋や吉田忠左衛門の住まいで行われたと言われています。
 右上段写真は、現在の麹町大通りです。この道路脇には、赤穂浪士が麹町に住んでいた旨が書かれた説明板が建てられています(右中段写真)
 

 吉良邸の地元である本所では、3か所に分かれて11人が潜伏していました。
c0187004_934638.jpg これが討入の際の集合場所となっています。
 堀部安兵衛と杉野十平次はともに剣術道場を開き、前原伊助は商人に身を替えて潜伏していました。
 10月の文京学院大学の「忠臣蔵散歩」では、前原伊助宅跡(右下段写真)や堀部・杉野たちの住まい跡もご案内しようと思っています。

 赤穂浪士が潜伏していた場所については、本によって微妙に違っています。
 これは、時期が違っていたり、赤穂浪士の記憶違いといったことによるものと思います。
 赤穂市編纂の「忠臣蔵第1巻」によれば下記の通り15か所に住んでいました。
 なお、住まいの最後に「店」とありますが、これは「たな」と読み「借家」を意味しています。

 それでは、こうした借家の借り賃はどうしたかということですが、赤穂浪士が個人で負担したものも当然あると思います。
 しかし、長引く浪人生活で、お金が乏しくなった赤穂浪士の多くは、その費用がありません。
 そこで、大石内蔵助が瑤泉院から預かっていた資金から援助しています。
山本博文先生の「これが本当の『忠臣蔵』」によると、江戸借宅の家賃は、金133両余りで。さらに銀でも支出しており、預り金の支出総額697両余りのうちで、江戸と上方を往復する旅費に次いで多くなっているとのことです。


 
☆日本橋石町3丁目 小山屋弥兵衛裏店  9人
  大石内蔵助、小野寺十内、大石主税、近松勘六、潮田又之丞、
  大石瀬左衛門、早水藤左衛門、菅谷半之丞、三村次郎左衛門

☆新麹町六丁目 喜左衛門裏店 5人
  吉田忠左衛門、原惣右衛門、不破数右衛門、吉田沢右衛門、寺坂吉右衛門

☆新麹町四丁目 和泉屋五郎兵衛店 7人
  中村勘助、間瀬久太夫、岡野金右衛門、岡島八十右衛門、間瀬孫九郎、
   小野寺幸右衛門、岡野野小三郎

☆新麹町四丁目 七郎右衛門店  5人
  千馬三郎兵衛、間喜兵衛、間重次郎、間新六、中田理兵次

☆新麹町五丁目 秋田屋権右衛門店 1人
   富森助右衛門と妻子、

☆芝通町3丁目浜松町 塩物屋宇兵衛店  2人
   赤埴源蔵、矢田五郎右衛門

☆芝源助町  3人
   磯貝十郎左衛門、村松三太夫、茅野和助  

☆築地小田原町2丁目 四郎兵衛店  1人
   村松喜兵衛

☆深川黒江町  搗米屋淸右衛門店  3人
   奥田貞右衛門、奥田孫太夫、西村清右衛門

☆南八丁堀湊町 平野屋重左衛門裏店  5人
   片岡源五右衛門、貝賀弥左衛門、大高源五、矢頭右衛門七、田中貞四郎

☆両国矢之倉米沢町  1人
   堀部弥兵衛

☆本所林町5丁目 紀伊国屋店 6人
   堀部安兵衛、木村岡右衛門、倉橋伝助、横川勘平、毛利小平太、小山田庄左衛門

☆本所徳右衛門町1丁目 紀伊国屋店  3人
   杉野十平次、武林唯七、勝田新左衛門、

☆本所二ツ目相生町3丁目 山田屋清右衛門店 2人
   前原伊助、神埼与五郎、

☆平間村  2人
   矢野伊助、瀬尾孫左衛門
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by wheatbaku | 2013-08-21 09:11 | 忠臣蔵 | Trackback
  

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