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忠臣蔵 第6回模擬試験問題の正解(江戸検お題「本当の忠臣蔵」82)
 忠臣蔵についての第6回の模擬試験問題の正解をアップします。

c0187004_9391832.jpg 今回の問題は、かなり難しいのではないかと思いますがいかがでしたか。
 今回の問題は、「赤穂浪士に関して、こんな話題もありますよ」的な面もあります。
 テキストには載っていない新しい情報としてもご利用ください。


 問題はこちらをご覧ください。 
    ⇒  忠臣蔵 第6回模擬試験問題 


1、 ①晴 

 
 討入りは、映画やテレビの「忠臣蔵」では雪と描かれることが多いのですが、さすが、最近は雪が降っていた思う人は少なくなったようです。
 雪でなければ、晴れていたのか曇りなのかと問われるとどうなのか答えれれない人が多いのではないかと思って、問題にしてみました。
 討入りの際の天候は「晴」だったようです。しかも満月間近(14日)の月ですので、吉良邸に向かう途中も結構明るかったのではないかと思います。
 小野寺十内の2月3日付の妻あての手紙に「火のあかり世間をはゝかりて挑灯も松明もともさねとも有明の月さえて道まかふへくもなくて」と書かれています。
 また吉田忠左衛門は、仙石伯耆守が、松明等を用意したかとの御尋ねに対して、「御城下は火災が心配ですので、火の道具は準備しませんでした。月夜だったので、赤穂浪士一同で吉良邸を取り巻きました」と答えています。
 これは、浅野浪人敵討聞書に「松明等持参仕候哉のよし御尋、忠左衛門申候は、御城下火災無心元奉存火之道具少も用意不仕候、月夜ニて候故右之者共家ヲ取巻(後略)」と書かれています。

 
2、③長門府中藩毛利家  

 歌に注釈をつけると次のようになります。
 「細川(熊本藩細川越中守)の水の(岡崎藩水野監物家)流れは清けれど、
 ただ大海(長府藩毛利甲斐守家)の沖(松山藩松平隠岐守家)ぞ濁れる」
 大海の「海」は「甲斐」とかけられていて、「沖」は「隠岐」とかけられています。

3、 ②手打蕎麦は元禄時代にはなかった。 

 三田村鳶魚は「赤穂義士 講談の根本資料」の中で、手打蕎麦は宝暦のころに考え出されたもので、元禄の頃には、手打蕎麦はなかったと言います。
「手打蕎麦という言葉などは、宝暦以後の言葉で、元禄時代には決していわない。」と書いてあります。


4、 ②保科正之  
   
 上杉綱勝の正室は、保科正之の長女媛姫でした。この媛姫を正之の継室おまんの方が誤って毒殺してしまいました。そうしたことがあったため、保科正之は、その罪滅ぼしの意味もあって、綱勝が嗣子なくして死去した際に、吉良上野介の長男三郎を養子として家名存続できるよう尽力しました。
  

5、 ③世嗣断絶 

 備中松山藩の藩主水谷勝美が元禄6年10月6日に死去しました。
 実子が無く、水谷勝晴を末期養子にしたが、この勝晴も11月27日家督相続前に死去したため、水谷家は無嗣断絶で改易となりました。
 この城受取の交渉は、受取側大石内蔵助、引渡側鶴見内蔵助の間で行われたため、「両内蔵助の対談」として話題になりました。

6、 ④吉田松陰 

 吉田松陰は、安政元年、アメリカへの密航が失敗に終わり、下田から江戸の小伝馬町牢屋敷に護送されました。
 その途中、高輪泉岳寺を過ぎるときに、赤穂浪士に思いを寄せて、問題文の中の和歌を詠みました。

7、 ③鹿児島県  

 薩摩藩では、郷中教育という特別な仕組みがありました。
 郷中では、郷中三大行事と呼ばれる行事があり、その一つが旧暦の12月14日に夜通し行われる「『赤穂義士伝』輪読会」でした。
 この行事は、現在も継続されています。
 

 
8、 ①茶釜 

  華蔵寺の本堂には、吉良上野介遺愛と言われる茶釜が残されています。(右上写真)
  その写真は、本所松坂町公園の中にも掲示されています。

9、 ①可笑 

 大石内蔵助は、絵画・書に「可笑」という号を使用していました。
 ②祥岳は、赤穂浪士9人を預かった岡崎藩主水野忠之の号です。 ③保山は柳沢吉保の号で、 ④卜一は、赤穂浪士が吉良上野介を呼ぶ際に使った符丁です。

10、 ④小野寺幸右衛門と岡野金右衛門

 小野寺幸右衛門と岡野金右衛門は従弟同士です。
 小野寺幸右衛門は、大高兵左衛門の次男で、大高源五の実弟です。叔父の小野寺十内の養子と成り、小野寺姓を名乗りました。
 岡野金右衛門は、岡野金右衛門の子です(父子の通称が同じ)。
 父親岡野金右衛門は、小野寺十内や大高兵左衛門の妻貞立尼の弟です。
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by wheatbaku | 2013-09-30 09:32 | 忠臣蔵 | Trackback
青山散歩
 昨日は、毎日文化センターさんの講座「『八重の桜』ゆかりの地を行く」で、受講生の皆さんと青山散歩してきました。

c0187004_0335357.jpg 「八重の桜」ゆかりの地ということですので、会津藩に関係する場所を中心に回ろうと計画しましたので、青山霊園に、山川浩(右写真)、秋月悌次郎、出羽重遠のお墓がありますので、それを巡りました。
 それと同時に、青山霊園には、有名人のお墓が数多くありますので、大久保利通や乃木希典などの有名人のお墓もまわりました。
 そして乃木将軍との関係から、旧乃木邸と乃木神社も訪れました。 
 蚊がいてそれに時々悩まされましたが天気は晴天で霊園を巡るには絶好の日和でした。

 
 青山霊園は、明治5年、郡上藩藩主だった青山家の下屋敷跡に開設されました。
 当初は、神葬祭墓地として開設されました。
 明治6年、明治政府は、都心部での寺院墓地での埋葬を禁止したため、民衆から猛反対が起りました。c0187004_0342116.jpg 
 そこで、明治7年、東京市は、全国初の宗教によらない墓地建設に着手し、青山、雑司が谷、染井、亀戸(後に整理廃止)、谷中の5箇所を公共墓地として売り出し始めました。
  昭和10年、青山墓地を青山霊園と改称し公園墓地となりました。
 敷地は約8万坪あり、墓地の部分はその48%だそうです。
 青山霊園には12万7千人も埋葬されています。
 その中には、多くの有名人のお墓があって、有名人のお墓をめぐる人も数多くいるようです。

 乃木将軍は旧乃木邸の土地を明治12年に手に入れていましたが、建物は明治35年に竣工しました。。 
c0187004_0345051.jpg 乃木将軍がドイツ留学中見たフランスの連帯本部兵舎を模して自分で設計したといいます。建坪50坪ほど、延べ面積は121坪ほどの簡素な建物です。
 ここで、乃木将軍および静子夫人は、大正元年9月13日、明治天皇の大葬の儀が行われた午後8時ころ、自刃して亡くなりました。

c0187004_0374292.jpg 乃木神社は、 大正8年(1919)には乃木神社創立の許可がくだり、大正12年(1923)11月1日鎮座祭が行われました。
 昭和20年(1945)5月25日未明の空襲により本殿以下社殿を悉く焼失しましたが、昭和37年9月13日御祭神50年祭に合わせて本殿・幣殿・拝殿が復興されました。


c0187004_0375820.jpg 乃木神社では、結婚式が行われていました。
 この講座では、どういうわけか結婚式にめぐりあうことが多く、4回の講座の中で3回、結婚式にめぐりあいました。
 乃木神社では、昨日は10組の結婚式が行われたそうです。
 受講生の皆さんも、お二人の幸せをねがいながら、「幸せを分けてもらえる」と大喜びでした。

 散歩が終わった後は、希望者で青山一丁目の『銀座ライオン』で打ち上げをしました。
c0187004_0382120.jpg お酒が飲める人はもちろんお酒が苦手な人も参加していただき、会津若松旅行の想い出話や史跡めぐりの話で大いに盛り上がり、あっという間の2時間半でした。
 最後に、参加者の皆さんで記念撮影です。

 受講生のみなさん、楽しい散歩と飲み会ありがとうございました。
 次回講座も楽しくやりたいと思います。またどうぞよろしくお願いいたします。
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by wheatbaku | 2013-09-29 00:14 | 大江戸ガイド | Trackback
忠臣蔵 第6回模擬試験問題(江戸検お題「本当の忠臣蔵」81)
 忠臣蔵についての第6回の模擬試験問題を出題します。

c0187004_162742.jpg 受験日が近づいていることから、難問だろうなと思われるものも考えてみました。
 今回の問題は、以前ブログに書いたことのないものが問題となっていますので、ご自分でインターネットで調べるなりして、解いてみてください。

 正解は、来週月曜日にアップします。

1、赤穂浪士が吉良邸に討入りした時の天候はどうだったでしょうか?

  ①晴  ②曇り  ③雨  ④雪

   
2、赤穂浪士の身柄を預かることになった大名家は、赤穂浪士の処遇に差がありました。
 そのため、江戸っ子は、次のような歌をつくり皮肉ったそうです。
  「細川の水の流れは清けれど、ただ大海の沖ぞ濁れる」
 この歌のなかで、大海と呼ばれたのは、四大名家のうちのどこでしょうか?

  ①肥後熊本藩細川家  ②伊予松山藩松平家 
  ③長門府中藩毛利家  ④三河岡崎藩水野家 

3、「泉岳寺書上」には、討入り前の赤穂浪士の様子について「大高源五をば両国橋向詰の楠屋十兵衛と申者方へ遣し、手打蕎麦50人前調させ、・・・・両国なる楠屋に集会致候」と書いてありますが、これについて、三田村鳶魚は「赤穂義士 講談の根本資料」の中で、「泉岳寺書上」が偽書である一例にあげて批判しています。
 それでは、三田村鳶魚はどう言って批判しているのでしょうか。

  ①慎重な大石内蔵助が、討入り前に大勢の同志を集めるはずがない。
  ②手打蕎麦は元禄時代にはなかった。
  ③大高源五は、討入り直前には別の役割があり、両国橋にはいけるはずがない。
  ④両国橋向詰は火除け地であり、50人も集まれる蕎麦屋は建てられなかった。

4、上杉家と吉良家とは、吉良上野介の妻富子が2代藩主上杉定勝の娘で、吉良上野介の長男綱憲が3代藩主上杉綱勝の養嗣子という二重の縁でつながっています。
 さて、綱憲が上杉家の養子となるには、当時の幕府有力者の尽力があったため実現したと言われています。それでは、その有力者とは誰でしょうか

  ①徳川光圀  ②保科正之  ③松平信綱  ④酒井忠清   

5、大石内蔵助は討入りの前にも他藩にかなり名前が知られていました。そのきっかけとなったのが、元禄6年11月に起きた備中松山藩水谷家の改易による松山城の城受取りでした。 
 この時は浅野内匠頭長矩が収城使となり、大石内蔵助良雄が城番となり無事役目を果たし、近隣他藩に名前が知られるようになりました。
 それでは、この備中松山城受取のきっかけとなった水谷家の改易理由はなんでしょうか。

  ①百姓一揆の発生  ②藩主乱心  ③世嗣断絶  ④御家騒動

6、ある幕末の志士は、自分の思いを赤穂浪士の故事に託して次の和歌を詠んでいます。
   「かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂」
  それでは、この和歌を詠んだ幕末の志士は次の内の誰でしょうか?

  ①高杉晋作  ②武市半平太  ③平野國臣  ④吉田松陰 

7、赤穂事件は、後世の武士教育にも取り入れ、忠孝の心を養うために活用されました。
  それは、ある県では現在も「赤穂義士伝輪読会」として継続されています。
  それでは、「赤穂義士伝輪読会」が「三大行事」の一つとして現在も続けられている県は次のうちどこでしょうか?

  ①佐賀県  ②兵庫県  ③鹿児島県  ④愛媛県

 
8、吉良家の菩提寺は、西尾市吉良町にある華蔵寺(右上写真)です。
  この華蔵寺には、吉良上野介義央の遺愛の品が残されています。
  それでは、華蔵寺に残された吉良上野介義央遺愛の品とは何でしょうか。

   ①茶釜  ②花入れ  ③硯  ④茶碗

9、大石内蔵助は、絵画や書をたしなんでいて、現在も大石内蔵助の絵画や書が残されています。
  それでは、大石内蔵助が使用した雅号は次のうちどれでしょうか

   ①可笑  ②祥岳  ③保山  ④卜一

10、次の組み合わせは、四十七士の中で、親族関係にある人の組み合わせです。
   このうち三組は兄弟で、兄弟でない組合せが一組あります。
   それでは兄弟でない組合せは何番でしょうか?

   ①近松勘六と奥田貞右衛門       ②岡島八十右衛門と原惣右衛門
   ③貝賀弥左衛門と吉田忠左衛門    ④小野寺幸右衛門と岡野金右衛門





☆  正解はこちら  ⇒  忠臣蔵 第6回模擬試験問題の正解
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by wheatbaku | 2013-09-27 10:37 | 忠臣蔵 | Trackback
四大名家の対応は微妙に違う(江戸検お題「本当の忠臣蔵」80)
 四大名家に赤穂浪士が御預けになりました。
 各大名家特に細川家以外の対応について、赤穂市発行の「忠臣蔵第1巻」に詳しく書かれていますので、それに基づき書いていきたいと思います。
 「忠臣蔵第1巻」を読むと、昨日書いた「各藩で情報交換を行ったことから、途中からはほぼ同様な扱いとなっていたようです。」というのとは異なるようです。この点は訂正します。

 四藩はそれぞれの判断で対応していますが、主な対応は次の通りです。
c0187004_9361236.jpg なお、赤穂浪士の取り扱いについて、各藩は老中に問い合わせをしながら対応していますが、細川藩からの問い合わせに対して老中は
 「大罪人ではないので詮議する間だけ預かるものであるから、そのつもりで諸事軽く扱うように」と答えています。

御預け人を収容の仕方
 細川家では、下屋敷の座敷の上の間に9人、下の間に8人でした。
 松山藩では、初め10人を一人ずつ別々に、1番から10番小屋に入れましたが、普請をして12月25日から20畳の小屋二つに分けて5人ずつ入れました。
 長府藩は、初め北小屋と南小屋にそれぞれ5人ずつ分けて入れました。
 両小屋とも屏風で中を仕切り、一人ずつ入れました。
 12月29日になって仕切りをとり、5人一緒に置くようにしました。
 岡崎藩は上屋敷の大書院を屏風をもって仕切り、一人ずつ置く予定でしたが、長屋でよいとのことで、明長屋に9人入れました。12月20日になって中屋敷に移しました。
 その後どのように置いたか記述がありませんが、「忠臣蔵第1巻」の著者は5人一緒においたのではないかと書いています。

 
藩主の接見ですが、
c0187004_9362077.jpg 細川家では、綱利が到着即座に接見しています。
 松山藩松平家では、定直は病気中であったため、到着時には挨拶できませんでした。
 21日なって、定直は、使者をだし病気のため対面できない旨を伝えました。そして、年が明け、正月5日に病気も治ったので、中屋敷で10人を接見しています。
 長府藩主毛利綱元は、12月29日に逢っています。小屋であったと記録されているだけです。
 岡崎藩主水野忠之は。12月21日に三田の中屋敷に行って9人に逢っています。
  
外部との交信は、
 細川家では、好意的に自由に行っていましたが、他の3藩では外部との交信の記録が残されていないので、外部との交信はなされなかったと思われます。

 
 「忠臣蔵第1巻」では、
 食事の皿が二汁五菜であるのは四藩一緒であるが、その他の点では各藩の考えによって御預け人を処遇した。熊本藩の処遇ぶりが特に印象深い
 と書いてあり、各藩の対応は異なっていたようです。

 右写真上段は、岡崎藩中屋敷跡の説明板、下段は長府藩上屋敷跡の説明板です。
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by wheatbaku | 2013-09-26 09:31 | 忠臣蔵 | Trackback
預り先での赤穂浪士(江戸検お題「本当の忠臣蔵」79)
 四大名家に御預けとなった赤穂浪士ですが、四大名家でどのような待遇であったか書いてみたいと思います。

 仙石伯耆守の事情聴取が終わった後、四大名家の請取軍勢のうち、請取支配人のみ仙石伯耆守と目付の前に通され、藩別の御預け人の名簿を手渡され、人数を揃え引き渡す旨が告げられました。
c0187004_8315176.jpg そして、藩単位で、御預け人をそろえ、熊本藩、松山藩、長府藩、岡崎藩の順に、一人一人、玄関際に駕籠を寄せて引き渡されました。
 御預け屋敷は、細川家は芝高輪の下屋敷、松山藩は愛宕下の上屋敷に入った後16日中に芝三田の中屋敷に移動、長府藩は麻布の中屋敷、岡崎藩は増上寺切通しの上屋敷に入り20日からは芝三田四国町の中屋敷に移りました。

 細川家が大石内蔵助以下17名の赤穂浪士を請取ったのは午後10時でした。
 それから細川家下屋敷までの道中を静かに移動したので、預り人一行が、細川家に到着したのは丑の刻過ぎ(午前2時頃)でした。
c0187004_8325273.jpg 到着が深夜であったにもかかわらず、藩主細川綱利は赤穂浪士一行が来るのを待っていました。
そして、すぐに面会し、本日の行い神妙であると褒め称え、すぐに料理の用意をさせるなど懇ろな対応をした。
 翌16日、17人は御使者の間に移され、上の間には大石内蔵助をはじめ次の9人が入りました。、
 大石内蔵助、吉田忠左衛門、原惣右衛門、片岡源五右衛門
 間瀬久太夫、小野寺十内、間喜兵衛、堀部弥兵衛、早水藤左衛門

 下の間には若手・壮年組みの8人に分けられました。
 磯貝十郎左衛門、近松勘六、冨森助右衛門、潮田又之丞、
 赤埴源蔵、奥田孫太夫、矢田五郎右衛門、大石瀬左衛門

 細川家での浪士の生活待遇は行き届いたものでした。
 衣服は、到着した夜には小袖が二つずつ与えられ、歳暮には一つ帯も与えられました。
 食事も二汁五菜のほか菓子や夜食が出されただけでなく、後には御酒まで出されました。
 このため、赤穂浪士側から結構なものを頂戴して、ことのほかつかえもうしました。この間まで食べていた黒米やいわしが恋しくなりました。なにとぞ料理を少し軽くしてもらいたいと申し入れました。
 また、風呂や手水場の取り扱いも丁寧でした。
 風呂の湯は一人ごとに変え、手水の際には、一人ずつ坊主が水をかけてやりました。
 これら、あまりにも丁寧すぎると赤穂浪士側から簡略にしてほしいと申入れを行うほどでした。

 こうした待遇の話や赤穂浪士のエピソードは、赤穂浪士を親身になって世話した接待役の一人堀内伝右衛門が書いた「赤穂義臣対話(堀内伝右衛門筆記)」に書かれています。
 この「堀内伝右衛門筆記」は、現在、永青文庫が所蔵しています。今年の12月14日から展示されるそうです。


 各藩の対応は、細川家以外の対応とは微妙に異なっていたようです。
 ちなみ、各大名の面会時期を書いておきます。
 水野監物忠之は12月21日と正月12日に、毛利甲斐守綱元は12月29日、松平隠岐守定直は正月5日に赤穂浪士と面会しました。

 しかし、各藩で情報交換を行ったことから、途中からはほぼ同様な扱いとなっていたようです。
(25.9.26修正  赤穂市発行「忠臣蔵第1巻」を読むと「対応に差異が認められる」と書かれていて、必ずしも同様な扱いとはなっていなかったようです。)

 右二つの写真は、大石内蔵助はじめ17人が自刃した地にある説明板および門です。




 
 
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by wheatbaku | 2013-09-25 08:20 | 忠臣蔵 | Trackback
佐川官兵衛の最期(八重の桜第38回「西南戦争」)
「八重の桜」では、「鬼官兵衛」こと「佐川官兵衛」が壮絶な最期を遂げました。
 そこで、今日は、「佐川官兵衛の最期」について書いておきます。

  佐川官兵衛は、旧会津藩が斗南藩として再興されると、青森県三戸郡五戸町へ移住しましたが、廃藩後は会津に帰りひっそりと暮らしていました。
 
c0187004_9135756.jpg 明治6年の政変で、西郷隆盛が下野すると、世情が不穏となります。
 そこで、政府は、警察の強化を図ります。
 警視庁の川路利良大警視は、戊辰戦争で「鬼官兵衛」と呼ばれ勇名をはせた佐川官兵衛に着目し、警視庁に奉職するよう、強く要請しました。
 最初固辞していた佐川官兵衛ですが、再三の要請と困窮する旧会津藩士の救済のために警視庁に奉職することにし、一等大警部に任命されました。
 会津藩の元家老で勇名をはせていた佐川官兵衛としては、不当な待遇で、旧藩士たちは憤りましたが、佐川官兵衛は文句も言わず黙々と職務に励んだと言われています。

 明治10年の西南戦争が始まると政府は警視隊を結成し九州に送りました。
c0187004_9141751.jpg 佐川官兵衛は、檜垣直枝を指揮長にした第2次警視隊の第一小隊長兼指揮長として、横浜から船で小倉に上陸し、大分~久住~竹田を経て、阿蘇へ入りました。
 3月13日、佐川官兵衛は阿蘇の現白水村の蛭子(えびす)屋という商家に陣を構えました。
ここで、阿蘇南郷谷の指導者長野一誠と会見し、南郷谷の有志を集め、南郷有志隊を組織させました。
そして、「西郷軍が北外輪山の一角二重峠と黒川で峠を構築中」と聞いた佐川官兵衛は、即座に攻撃をかけようとしましたが、上官の檜垣直枝は、西郷軍の勢いを怖れ、無謀な軽挙だとして、攻撃を許可しません。
やっと、攻撃の許可がおりた3月17日、戦機を逸していたものの、佐川官兵衛は決死の覚悟で出発しました。
 出発の朝、官兵衛は真新しい肌着に身を包み、明神ヶ池の水を飲み、辞世の句を詠んだといいます。

 君が為 都の空を 打ちいでて 阿蘇山麓に 身は露となる

 3月18日、西郷軍との戦いがはじまりました。
 戦闘の最中、西郷軍の隊長鎌田雄一郎が佐川官兵衛に対して、一騎討ちを挑んできました。会津藩随一の使い手であった佐川官兵衛の剣はするどく、鎌田雄一郎が危ないとみた西郷軍は、鉄砲で佐川官兵衛を狙い討ちし、佐川官兵衛は非業の最期を遂げました。
享年45才でした。

 政府は、翌11年に、阿蘇で戦って戦死した佐川官兵衛を始め警視隊員たちを大分護国神社の警視隊墓地に改葬し、大分護国神社の御祭神として合祀しました。

 地元の人々は、佐川隊が略奪を働くのではないかと恐れましたが、佐川官兵衛は、軍律を厳しくさせ、物資を買うための資金も充分にあったので、略奪暴行などの不祥事は一切起きませんでした。
村人達は、隊員たちが、佐川官兵衛のこと「鬼官兵衛」と呼ぶのをきいて、村人たちも親しみをこめて込めて「鬼さま」と呼んだといいます。

白水村では佐川官兵衛の遺徳が代々語り継がれ、明神ヶ池の周辺には佐川官兵衛の記念碑が四カ所も建てられ、阿蘇郡内にも官兵衛の慰霊碑が十数カ所も建っているそうです。
このように阿蘇の人々が佐川官兵衛の遺徳を偲んでいるのを知った会津若松の人々は、佐川官兵衛の偉大さを改めて認識しました。
 そして、平成13年、阿蘇から贈られた大石を利用した「佐川官兵衛顕彰碑」が会津若松城内に建てられました。
 それが、右二段の写真です。
  最上段の佐川官兵衛の写真はウィキペディアからの転載です。
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by wheatbaku | 2013-09-24 09:11 | 大河ドラマ | Trackback
西南戦争の山川浩(八重の桜第38回「西南戦争」)
 昨日の「八重の桜」では、「西南戦争」が描かれていました。
 「西南戦争」では、旧会津藩士の活躍がありました。
 その代表の山川浩と佐川官兵衛の活躍をみていきたいと思います。
 今日は、山川浩について書きます。
 

c0187004_1971826.jpg 山川浩は、廃藩置県により、斗南藩が廃藩となった後は青森県に出仕しましたが、まもなく青森県を退職して上京しました。
 上京後の山川家の生活は苦しかったようです。
 そして、戊辰戦争で日光口で敵味方として戦ったものの山川の力量を高く評価していた土佐の谷干城の推薦により、明治6年(1873年)に陸軍に出仕しました。
 同年陸軍少佐として熊本鎮台に移り、明治7年には佐賀の乱で左腕に貫通銃創を負いました。この傷は左腕の骨を砕くほどの重傷で、それ以後、山川浩は左腕はほとんど使えなくなりました。こうした重傷をを負うものの、中佐に昇進しました。

 明治10年、西南戦争が起こります。
 西郷軍の最初の目標となったのは熊本鎮台の置かれた熊本城でした。
 熊本鎮台司令長官は、山川を陸軍に推薦してくれた谷干城でした。
 山川浩は、3月19日に出征し、山田顕義が率いる別働第2旅団の参謀となりました。
 山川は、西南戦争を「会津藩名誉回復の戦争」と捉えており、
「さつま人 みよや東の大丈夫(ますらお)が 提(さ)げ佩(は)く太刀の 利(と)きか鈍きか」という歌を詠んでいる。
 この歌は、「八重の桜」にも出ていましたね。
 4月13日に、5個中隊1000名を率いた山川浩は、ついに熊本城の南方7キロほどのところを流れる緑川と加勢川の中州で西郷軍と対峙しました。
 14日未明、突撃を開始した山川隊は、抵抗する西郷軍を蹴散らし、午後4時に、ついに熊本城に到達し、一番乗りを果たしました。
 この時の、鎮台司令官谷干城はもちろんのこと、熊本城内の喜びは大変なものだったようです。
 戦闘日記には、次のように書かれているそうです。
 重傷者の未だ嘗て動くこと能はらざりしも者も覚えず病床に跪坐し、或は戸外に出て、喜極まりて泣く者あり。

 こうした軍功により、山川浩は、明治13年(1880年)には陸軍大佐に昇進し、さらに明治19年には、陸軍少将に昇進しました。
 少将昇進の時、陸軍の大建者であった長州出身の山県有朋は、「山川は会津ではないか」と叫び、少将昇進に不快感を示したと言われています。
 しかし、こうした不快感にも耐えうるほどの力量を山川浩が持っていたことを表す少将昇進といえます。


 右上写真は、ウィキペディアからの転載です。
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by wheatbaku | 2013-09-23 19:10 | 大河ドラマ | Trackback
四大名への御預け(江戸検お題「本当の忠臣蔵」78)
 仙石伯耆守からの事情聴取が終わった後、四大名家への御預けが申し渡されました。

 
 細川家御預け 17人  
 大石内蔵助良雄、吉田忠左衛門兼亮、原惣右衛門元辰、片岡源五右衛門高房
 間瀬久太夫 正明、小野寺十内秀和、間喜兵衛光延、磯貝十郎左衛門正久、
 堀部弥兵衛金丸、 近松勘六行重、冨森助右衛門正因、潮田又之丞 高教 、
 早水藤左衛門 満堯、赤埴源蔵 重賢、奥田孫太夫 重盛、矢田五郎右衛門助武
 大石瀬左衛門信清、

松平家御預け 10人
 大石主税良金 堀部安兵衛武傭、中村勘助正辰、菅谷半之丞 政利、
 不破数右衛門正種、木村岡右衛門貞行、千馬三郎兵衛光忠、
 岡野金右衛門包秀 、貝賀弥左衛門友信、大高源五忠雄 

 毛利家御預け 10人
 岡島八十右衛門常樹、吉田沢右衛門兼貞、武林唯七隆重、
 倉橋伝助武幸、 間新六光風 、村松喜兵衛 秀直
 杉野十平次次房、勝田新左衛門武堯、前原伊助宗房 、小野寺幸右衛門秀富  

 水野家御預け 9人
 神崎与五郎 則休  三村次郎左衛門包常 、横川勘平宗利 
 茅野和助 常成  間瀬孫九郎正辰 、村松三太夫高直
 矢頭右衛門七教兼、 奥田貞右衛門行高、 間十次郎光興  

c0187004_847414.jpg これらを受取るために動員された人数は、赤穂市発行「忠臣蔵第1巻」によれば

 細川家  875人
 松平家  286人
 毛利家  229人
 水野家  120人余り  総勢1500余人にもなりました。

 細川家では、江戸家老三宅藤兵衛以下4人が請取支配人に指名され、4人にはそれぞれ35人、21人、20人、20人の藩士が付きました。
 そしてさらに2人の請取人が指名され、この2人にはそれぞれ16人が付きました。
 さらに17人護送する警固人が31人、その一人一人に9人ないし8人が付くという体制でした。
 本道の医師、外科の医師がそれぞれ1人、この2人にそれぞれ5人がつき、物書、徒士御使番、徒士小姓計25人には各2人がつきました。
 足軽50人、中間・小人は218人、別に股引羽織の家中が61人、駕籠かき、長持ちかき等がいて
 総勢875人という大部隊になりました。

 松山藩は、番頭奥平平次郎太夫以下騎馬19人、徒士15人、持筒・先筒150人、下目付2人、中間100人、合計286人

c0187004_8481030.jpg 長府藩は、家老田代要人以下騎馬6人、徒士侍25人、足軽60人、中間96人、合わせて189人 駕籠10挺、一挺に4人ずつの駕籠かきがいて、これらを合わせて総計229人

 「忠臣蔵第1巻」には、水野家の人数は不明と書いてありますが、「忠臣蔵第3巻」に収録されている「水野氏丕揚録(岡崎藩水野氏記録)」によると
 留守居・物頭・目付・馬廻・騎馬ノ者13騎、中小姓27人、徒士18人、足軽82人、長柄ノ者40人で送迎したと記録されているので総計180人となります。

 いずれにしても、各藩では、大勢の人数を繰り出しています。

たかだか46人の引取に、総勢1500人もの軍勢が動員されていて、不思議な気がしませんでしょうか?
 こんなに大勢の人数が繰り出されたことについて、野口武彦氏は、「忠臣蔵」のなかで
 徒士目付のひとりがぽつんと漏らしたとされる「公儀にも上杉をお心もとなしとの儀に候条、その覚悟にて途中念入りに引取候様に」(毛利家赤穂浪人御預之記)という暗示がすべてを物語っている。
 と書いています。

 つまり、上杉家の襲撃を各藩がおそれていたので、このような大人数を動員したということのようです。

 右上写真は、イタリア大使館ですが、松山藩松平家屋敷の跡です。
 右下段写真は、岡崎藩水野家の屋敷跡に建つ説明板です。
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by wheatbaku | 2013-09-22 22:37 | 忠臣蔵 | Trackback
仙石伯耆守邸でのお尋ね(江戸検お題「本当の忠臣蔵」77)
 今日は、仙石伯耆守の屋敷に到着した赤穂浪士一行の様子を書きたいと思います。

 その前に、「白明話録」には、興味深いことが書かれていましたので、書いておきます。
 吉良上野介の首を船で運んだという説があることについて「白明話録」では、「上野介殿首舟にて廻せしこと、無こと也」と書かれていました。
c0187004_10251679.jpg また、「墓に首手向礼拝のうちに、泉岳寺の和尚大衆をひき諷経(ふきん:声をそろえて経を読みあげること)に出しという事、あとかたもなき事なり、夫(それ)までは何やらしれぬなり、寺に申さずすらすらと墓へいたなり」
 赤穂浪士一行は、勝手に浅野内匠頭の墓前に向かったということです。
 「寺中ことの外騒動したることもなきなり、五六〇人の飯などは常にすることなり、殊に大石以下いづれも心安く度々逢たる人なり、(中略)泉岳寺の衆徒鉢巻で棒を持討手防ぎの用意に出たということも無きことなり。」
 泉岳寺では、赤穂浪士一行が突然引き揚げてきても混乱することもなく、上杉家の討手がきたといううわさでその対応の準備をしたということもないと言っています。
 この「白明話録」は、白明が72才の宝暦5年(1755)の話を記録したものなので、事件が起きた当時の根拠のない江戸の噂話を当事者が否定しているので興味深い話だと思います。
 このほか、「白明話録」には、赤穂浪士の埋葬の様子や赤穂浪士が切腹した後の泉岳寺が預かった遺品の処理などについても書かれていますので、それらについては、後日、また書きたいと思います。

 さて、泉岳寺から仙石伯耆守の屋敷に向かい、夜5ツ時(午後8時)に仙石伯耆守の屋敷について赤穂浪士一行ですが、「富森助右衛門筆記」によれば、
 仙石伯耆守の屋敷では、提燈を出し張り番を少々立てて待っていた。一行は刃先を包んで持ってきた鑓・長刀を門前に置き、大小・懐中物は仙石の、目付に渡し玄関に上がった。姓名・年齢と「直参の親類はないか」とのお尋ねに答えた。
 と書かれています。
 「富森助右衛門筆記」では、その後は、細川家に御預けなった17人についての話になっていますが、赤穂市発行「忠臣蔵第1巻」によれば次のようになっています。
 この原史料は「赤穂浪人敵討聞書」(大石神社所蔵)とのことです。

 仙石は大石内蔵助に向かって、この度本意を遂げたこと、ならびに討入りにあたって落ち付いた仕形に対して称美する旨をのべ、ついで討入りの次第をあらまし尋ねた。
それについては、主に吉田忠左衛門が答えた。
 (伯耆守のお尋ねはカッコ書き、それに対する吉田忠左衛門の答えをその後に書くと次のようです。)
 「松明は持参したか」
 火の道具は一切用意しなかった。月夜なので行燈などすっかり消されていた。
 「隣の屋敷はどうだったか」
 土屋主税の屋敷が非常に騒がしく提灯など用意し人数をだしているようにみえるので
、塀越しに、「夜中にけがなどされては迷惑なので構わないように」と言ったところ、返答はなかったが静かになった。
 「上野介の首はどうしたか」
  布に包みそれを槍で貫いて間十次郎が担い10ばかりが廻りを固め泉岳寺に持参した。


 こうしたお尋ねの後、四大名家御預けのことが申し渡されました。

 仙石伯耆守の屋敷があった跡(現在の虎の門)には、日本消防会館が建っています。
 右上の写真は、その入り口にある、赤穂浪士のモニュメントです、
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by wheatbaku | 2013-09-21 09:18 | 忠臣蔵 | Trackback
吉良上野介の首(江戸検お題「本当の忠臣蔵」76)
今日は、泉岳寺における赤穂浪士たちの様子と吉良上野介の首について書きます。
 「白明話録」によると、朝食のあと、赤穂浪士たちに、和歌や詩や俳句を依頼した様子が書かれています。
 木村岡右衛門から和歌、茅野和助から和歌、岡野金右衛門から俳句、大高源五から俳句、武林只七から漢詩、神崎与五郎あkら俳句をそれぞれ書いてもらったと書かれています。
 大高源五の俳句は、 山を劈(さく) ちからも折れて 松の雪  でした。
 なお、これに関連して、大石内蔵助の辞世「あら楽し思ひははるる身は捨つる浮世の月に翳る雲なし」は泉岳寺で詠まれたとされているが、「白明話録」には書かれていないことから、偽作の歌ではないかと宮沢誠一先生が「赤穂浪士」の中で書いています。

 そうしているうちに、また、ご飯の用意が出来て、書を頼む状況ではなくなりました。
c0187004_881972.jpg 赤穂浪士は疲れたと見え、殊の外、眠りました。皆さん温和な人たちでした。
 武林唯七は至って勇ましい様子でした。
 食事が済んだのは、申の上刻(午後4時)頃でした。
 そこへ御奉行所より召し出されたということで、赤穂浪士の皆さんも出立する用意を始めました。
 先ず寺へ参られ、全員が列座して、大石内蔵助は、丁寧に礼を述べられました。
 赤穂浪士一同は頓首してお礼・感謝を述べて出立しました。
 最早や、暮六つ時(午後6時)でした。
 提灯6張を前中後の3カ所に2個づつ配置しました。駕籠に乗ったのが6人でした。
 大石父子は一番先頭を歩きました。行列を正し、勇ましい様子でした。
 泉岳寺の僧全員が見送りしました。

 さて、赤穂市発行の「忠臣蔵第1巻」」には、もっと詳しく書かれています。
 仙石伯耆守は、御徒目付を泉岳寺に派遣しても、赤穂浪士がすぐに命令に従うかどうか心配だったため、吉田忠左衛門と富森助右衛門に書状を書かせてそれを持たせて行かせました。
 御徒目付石川・市野・松永が泉岳寺に行くと、長恩和尚は、赤穂浪士44人を客殿に集めました。
 赤穂浪士に対して、御徒目付は、大目付仙石伯耆守から仰渡しがあるので、仙石伯耆守の屋敷にくるようにと伝えました。
 この際に、「吉良上野介の首をどうすればよいか」との問いに対して、「幕府から指示を受けていないので指図できない。持参に及ばないのではないか」と回答がありました。
そのため、吉良上野介の首は吉良上野介のお守り袋・鼻紙袋を添えて長恩和尚に預けることにしました。
 申渡しが終わって、御徒目付は「拙者たちは一足先に帰る、各々方は御勝手次第に仙石伯耆守の屋敷に来るように」と挨拶して帰りました。
 その後、長恩和尚から食事をふるまわれました。大石内蔵助ら主な人は客殿で、他の人は衆寮で食事をとりました。
 酒もだされたそうです。

 夜5ツ時(午後8時) 駕籠11挺と徒歩にて、朝の装束の儘泉岳寺を出発し、高輪・三田・新堀・西久保を経て愛宕下の仙石伯耆守の屋敷に入りました。

 なお、泉岳寺における赤穂浪士について書いたものとして「泉岳寺書上(承天覚書)」がありますが、これはあまり信用されていないようです。
 赤穂義人纂に収録されていますが、そのコメントでも
 「与太が多く、重野博士だけでなく三田村鳶魚も真っ向から否定している」と書いてあります。
 事実、三田村鳶魚は「忠臣蔵の真相」の中の「講談の根本資料」の中で
「泉岳寺書上」はあまりにもばかばかしいので誰彼も相手にしないのでしょうか。一向弁正したものがございません」と書いていて、その内容のいい加減さを詳しく批判しています。

 最後に吉良上野介の首の処置についても触れておきます。
 「白明話録」の中には、吉良上野介の首の処理についても次のように書かれています。
c0187004_883613.jpg  吉良上野介の首は、浅野内匠頭の墓前で手向けた後、庫裏から重箱の外箱を取り寄せ、首を納め、終日衆寮に置いてありました。
 赤穂市発行の「忠臣蔵第1巻」によれば、赤穂浪士が食事の時に、泉岳寺ではお酒も出しましたが、その際に「酒の肴がない」と言ったところ、吉良上野介の首の入った箱をさして「これほどの肴はない」と言いながら酒を飲んだそうです。
 寺社奉行阿部政喬は泉岳寺の和尚を呼んで、吉良上野介の首を吉良家に返すよう伝えました。
 泉岳寺では、翌日の晩、二人の僧すなわち一希と石獅を使いとして吉良兵衛の屋敷に送り届けました。
 使僧は、吉良家の受取書をもらってかえりました。
25.9.21追記
 吉良上野介首請取状は、次のように書かれていました。
   覚え
   一  首    一ケ
   一  紙包  一ケ
     右之通慥ニ請取申候、為念如是御座候、以上
       十二月十六日
               吉良左兵衛内 左右田孫兵衛
                         齋藤宮内
        泉岳寺御使僧  石獅 僧
                   一呑 僧
 
 送られた首は、栗崎道有によって胴体と縫合され、牛込の萬昌院に葬られました。
 吉良上野介の戒名は霊性寺殿実山相公大居士です。
 25.9.21追記
 右上写真の右端の墓碑が、吉良上野介義央のお墓です。

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by wheatbaku | 2013-09-20 08:26 | 忠臣蔵 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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