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「忠臣蔵散歩 高輪編」 (大江戸ガイド)
今日も「忠臣蔵」関連の記事で、
 「仮名手本忠臣蔵」のあらすじ①(江戸検お題「本当の忠臣蔵」106) を書いてあります。

 少し余裕ができましたので、先週土曜日に行われた文京学院大学さんの「忠臣蔵散歩 高輪編」の様子を書きます。
 
 先週土曜日は、ちょうど台風27号が接近するという中で、開催をどうするか危ぶまれましたが、文京学院大学さんの判断で決行ということになりました。

 「忠臣蔵散歩 高輪編」は 白金高輪駅に集合した後 次のコースで行いました。
 白金高輪駅 ⇒ 長松寺 ⇒ 清久寺 ⇒ (化粧延命地蔵・正覚院・実相寺)⇒
 正山寺 ⇒ 高松宮邸 ⇒ 細川家下屋敷跡 ⇒ 泉岳寺
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 天気予報では、3時過ぎまで小雨という予報でしたので、泉岳寺まで雨かしらと覚悟してスタートしましたが、スタート後30分程度で雨があがりました。
 
c0187004_15265552.jpg 受講生の皆さん、今回も大変お世話になりました。
 雨もあがりましたし、2回目ですので、気分的にも楽にやらさせていただきました。
 ありがとうございました。

 さて、最初に訪ねたのは「長松寺」です。長松寺は、浄土宗のお寺です。はじめは八丁堀にありましたが、寛永12年(1635年)にここに移りました。
  江戸中期の儒学者荻生徂徠の墓があります。
  荻生徂徠は、赤穂浪士の処置について、切腹を進言したことで有名です。
  荻生徂徠の墓は、御子孫がよく管理されていて、説明板も御子孫が設置されています。
  徂徠の墓は、「徂徠物先生之墓」と刻まれていますが、荻生家は物部氏の出自と徂徠が考えていたため、「物(ぶつ)氏」と名乗っていたことによるよるようです。
 本堂の屋根の下で説明したら、「記念写真を撮りましょう」ということになりました。
 そこで、「ハイ、チーズ」です。これが最上段の写真です。


c0187004_15273695.jpg 次いで、「清久寺」を訪ねました。
 清久寺は曹洞宗のお寺です。
 ここには、磯貝十郎左衛門の位牌があり(右写真)、本堂に上がらせていただき、お参りしました。
 磯貝十郎左衛門は、引き揚げ後は、細川邸にお預けとなり、切腹した時、25歳でした。
 清久寺は磯貝十郎左衛門の母の菩提寺で、江戸時代には、磯貝家の墓があったそうですが、現在はないそうです。
 位牌の右に「鉄肝元心居士」(元禄十六年二月四日磯貝重良左衛門)、その左に「菊園禅童子」(正徳三年九月廿三日)とあります。
  この菊園禅童子は切腹後、鼻紙袋から出た琴の爪の贈り主の娘との間に産まれた子ともいわれています。
 ここを出た段階で雨はあがっていました。


c0187004_15281362.jpg 続いて、「正山寺」ですが、正山寺は曹洞宗のお寺です。
 ここには大石内蔵助のお祖父さんの弟である大石頼母助良重(たのものすけよししげ 大叔父-祖父の弟)のお墓と御位牌があります。
 ここでも、御住職が、御位牌を本堂中央に安置しておいていただきました。
 大石良重は、大石内蔵助のお祖父さんの弟で、浅野家の家老でした。
 大石内蔵助が19歳という若さで家老職を相続した時、大石良重は大石内蔵助の後見人となりました。

 その後、松島屋で、「豆大福」を買って試食しました。大変好評でした。

 旧高松宮邸の説明のあと、いよいよ、大石内蔵助たちが切腹した細川家下屋敷跡です。
 ここは、都営高輪一丁目アパートの奥にあり、道路脇ではないので探すのに注意が必要です。
 ここは、細川家への御預けの時の様子、細川家での生活、切腹の時の話など、説明することがたくさんありました。
 受講生の皆さんは、長時間の説明にもかかわらず熱心に聞いてくださいました。
 熱心に聞いてくださるので、こちらもつい熱が入り、気持ちよく説明させていただきました。

c0187004_15284474.jpg  最後に回ったのが、本日のメイン、泉岳寺です。
 泉岳寺は、赤穂浪士の墓所としてあまりにも有名です。
 そのため、泉岳寺と言うのはどういうお寺かというのがあまり説明がされません。
 そこで、最初に泉岳寺の説明をしました。泉岳寺は慶長17年(1612)に今川義元の孫といわれる門庵宗関(もんなんそうかん)和尚を招いて徳川家康が外桜田に創立した曹洞宗の寺院という話、泉岳寺の山号・寺号の由来などです。
 その後、赤穂義士墓所に移り、浅野内匠頭、浅野長友、浅野大学、瑤泉院のそれぞれのお墓について説明しました。
 最期が赤穂浪士のお墓の説明でした。
 赤穂浪士のお墓の配列、なぜ一緒に埋葬されるようになったか、葬儀の様子、埋葬の様子などについて説明しました。
 ここでも、受講生の皆さんが熱心に聞いてくださいました。
 また、一般の方たちも一緒に聞いてくださっているのが印象的でした。
 最後に、参加者皆さんで、記念撮影です。
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 その後、オプションということで、全員19名で次のコースを回りました。
 高輪大木戸跡 ⇒ 御田八幡神社 ⇒ 札の辻 ⇒ 大坂家 ⇒ 
 イタリア大使館【松山藩中屋敷跡】 ⇒ 薩摩藩上屋敷跡 ⇒ 岡崎藩中屋敷跡


 スタートが4時を回っていたため、後半は、陽が落ちてしまい暗くなってしまいましたが、どたなも、途中で帰らず、その熱心さに驚きました。

 最後は、いつの通り、飲み会でした。
 楽しい会話が弾みました。今回は、江戸検を受験される方がほとんどでしたので、江戸検の話題が中心でした。江戸検を受験される皆さん、合格を祈念しています。頑張ってください。
 その後、田町で立ち飲み屋をされている受講生の方がいて、そこで二次会でした。そして9時を過ぎてお開きとなりました。
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by wheatbaku | 2013-10-31 15:39 | 大江戸ガイド | Trackback
「仮名手本忠臣蔵」のあらすじ①(江戸検お題「本当の忠臣蔵」106)
 今日は、仮名手本忠臣蔵のあらすじについて書きたいと思います。

 仮名手本忠臣蔵」は、十一段目までありますが、全て書くと長くなるので、今日は四段目まで書きます。

 「仮名手本忠臣蔵」は、いうまでもありませんが、赤穂事件を南北朝時代の暦応(りゃくおう)年間のこととし、登場人物を「太平記」の登場人物に置き換えています。
 そこで、「仮名手本忠臣蔵」の主な登場人物名が赤穂事件の誰をさすかについて触れておきましょう。
 
 足利直義     勅使
 高師直      吉良上野介義央
 桃井若狭之助  伊達左京亮
 塩谷判官    浅野内匠頭長矩
 顔世御前    浅野内匠頭の妻阿久里
 大星由良之助  大石内蔵助
 大星力弥    大石主税
 加古川本蔵   梶川与惣兵衛
 早野勘平    萱野三平
 早坂平右衛門  寺坂吉右衛門

 それでは、あらすじです。

大序(だいじょ)   鶴ヶ岡社頭兜改めの場
c0187004_1031327.jpg 造営された鶴岡八幡宮で足利直義を執事高師直、御馳走役の桃井若狭之助と塩谷判官などが迎えます。合戦で討ち死にした新田義貞の兜を奉納するために、かつて宮中の女官であった判官の妻顔世が、兜の鑑定にあたります。
 顔世に横恋慕していた師直は、好機とみて文を渡し、塩谷判官の大役が首尾よくいくかどうかは顔世の返事次第としつこく口説きます。この顔世の窮地を救った若狭之助を、邪魔された師直は腹いせに罵倒します。

二段目   桃井舘の場 松切りの場
 侮辱を受けた若狭之助は、師直を討つべく決意を家老の加古川本蔵に話します。
 刃傷は御家断絶になることを承知しながら若狭之助は一途になります。これに対して本蔵は庭の松の枝を切り落とし実行を促します。しかし、実は蔭では、御家の危機を未然に防ぐために動きます。

三段目  足利館門前進物の場、 同 松の間刃傷の場
 加古川本蔵は登城すると高師直を待ち受けて数々の進物を贈ります。それが功を奏して、師直は態度を軟化させ若狭之助に非礼を詫びます。
 そこへ顔世からの文が届き、激しく拒絶された師直は逆恨みし、判官に罵詈雑言を浴びせます。堪えかねた判官はとうとう師直に斬りつけます。
 ここが史実の松之廊下の刃傷事件にあたる部分です。

 三段目には、早野勘平とお軽が登場する「裏門の場」がありますが、現在の歌舞伎ではほとんど上演されることがなく、「道行旅路の花聟」(歌舞伎舞踊)が、四段目の後に上演されます。

四段目    扇ヶ谷塩冶判官切腹の場  同 表門城明渡しの場
 塩谷判官は切腹を命じられます。駆けつけた大星由良之助は、形見の短刀を押し頂いて復讐を決意します。
 家中即刻退去の厳命に、討死か館明け渡しか、議論が尽きず紛糾するが、由良之助は判官の真意を語り、仇討ちの盟約をして館を明け渡します。

 五段目から十一段目までのあらすじは明日書きます。
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by wheatbaku | 2013-10-31 09:53 | 忠臣蔵 | Trackback
「仮名手本忠臣蔵」の作者(江戸検お題「本当の忠臣蔵」105)
 今日からは、「仮名手本忠臣蔵」について書いていきます。
 「仮名手本忠臣蔵」は、「歌舞伎の独参湯」と呼ばれ、日本演劇史上で最も上演回数の多い作品と言われています。
 歌舞伎の代表的な演目とされる「仮名手本忠臣蔵」も、もともとは人形銃瑠璃のために作られた作品です。
 初演は、寛延元年(1748)8月14日、大坂竹本座です。
 松之廊下の刃傷事件が、元禄14年(1701)ですので、刃傷事件からちょうど47年目に上演されたことになります。
 初演が14日で浅野内匠頭長矩の月命日というのも偶然ではないでしょう。
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 歌舞伎の三大名作は「菅原伝授手習鑑」「義経千本桜」「仮名手本忠臣蔵」と呼ばれていますが、これは、もともと人形浄瑠璃の作品です。
 しかも、「菅原伝授手習鑑」は延享3年(1746)に、「義経千本桜」は延享4年(1747)、「仮名手本忠臣蔵」は寛延元年(1748)に、それぞれ大坂竹本座で上演されたものです。
 三大作品が、一年ごとに上演されていて、人形浄瑠璃の黄金時代を飾りました。

 当時の歌舞伎は、世間で評判となったものをすぐ取り込んでしまう力がありました。
 この人形浄瑠璃として評判になった「仮名手本忠臣蔵」は、4か月後の寛延元年12月には、もう大坂角の芝居で取り上げられ、翌年には江戸三座(中村座中村座・市村座・森田座)で競演されました。

 「仮名手本忠臣蔵」の作者は、竹田出雲(2代目)・三好松洛・並木千柳(せんりゅう)の三人です。  
 人形浄瑠璃は、享保年間以降、作者一人の単独執筆から、複数の作者による合作という体制が採られるようになりました。
 単独執筆の作品がないわけではありませんが、複数の作者で合作する体制が、大坂の竹本座・豊竹座で定着しました。
 この複数の作者で執筆する体制を合作者制度といいますが、「仮名手本忠臣蔵」も合作者制度で書かれています。
 合作者制度では、複数の作者の中にリーダーとしての立作者がいて、その立作者が全体の構想・構成について責任を持ち、その作品の重要な部分は立作者が執筆し、場合によっては立作者以外が担当する部分について加筆しました。
 「仮名手本忠臣蔵」は、誰が立作者であったかについては、「竹田出雲説」と「並木千柳(宗輔)説」があるようです。

 それでは、仮名手本忠臣蔵」の作者について、少し書いてみましょう。
 まず竹田出雲(2代目)です。2代目竹田出雲は、初代竹田出雲の実子です。
 延享4年、父出雲の死去により初代竹田小出雲から2代目竹田出雲を襲名し竹本座の座元となります。

 三好松洛は、生没年未詳です。
 もと僧侶だったとも言われています。初代竹田出雲に弟子入りし、30余年に亘り、竹本座の作者として活動しました。


 並木千柳は、もと備後国三原(現在の広島県三原市)にある臨済宗成就寺の僧侶でした。
 30歳のころ還俗して大坂豊竹座に入り浄瑠璃作者となりました。
 豊竹座では、並木 宗輔と称しました。
 延享2年に、竹本座に入り、並木千柳と言いました。
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by wheatbaku | 2013-10-30 09:00 | 忠臣蔵 | Trackback
「仮名手本忠臣蔵」の前史2(江戸検お題「本当の忠臣蔵」104)
今日は、「仮名手本忠臣蔵」の前史の2回目です。

 
 宝永6年(1709)正月、5代将軍綱吉がなくなり、7月に浅野大学の罪が許されました。
 翌年9月、浅野大学は安房国に500石を拝領し旗本寄合衆となりました。
 浅野家が再興され赤穂事件が事実上終結したことになります。

 こうした情況変化の中で、赤穂事件を劇化する態度が変わり、事件の経緯の大筋を、世間に伝えられるようになりました。

c0187004_1050533.jpg 宝永7年、大坂篠塚座で、事件を小栗の世界に仕組んだ吾妻三八作の歌舞伎「鬼鹿毛無佐志鐙(おにかげむさしあぶみ)」 が上演されて、120日間の長期興行を記録しました。
また、宝永7年7月、京都の夷屋座が、世界を『太平記』に求めた『太平記さざれ石』および後日狂言『硝後太平記』(さざれいしごたいへいき) を上演しました。

 正徳3年12月に大坂豊竹座で紀海音の作の人形浄瑠璃「鬼鹿毛無佐志鐙』が上演されました。
 これは、吾妻三八の「鬼鹿毛無佐志鐙」、そして、「太平記さざれ」を下敷にしたと考えられています。
 この作品の4段目の茶屋場が、「仮名手本忠臣蔵」の「一力の段」の原典となったと言われています。

 享保17年10月、豊竹座で上演された人形浄瑠璃「忠臣金短冊(こがねのたんざく)」は「無佐志鐙」や「碁盤太平記」などに影響をうけたものです。
 「仮名手本忠臣蔵」の六段、七段、九段の趣向の基礎は、この作品に登場しているそうです。

 歌舞伎では、延享4年に 京都の中村粂太郎座で上演された歌舞伎『大矢数四十七本』は、初世沢村宗十郎の大岸宮内が内心を隠して祇園で遊ぶ場面は大当りをとりました。
 「仮名手本忠臣蔵」の七段目は、この舞台を写して仕組んだと言われています。

 こうした流れの延長上で、寛延元年8月に竹本座で初演されたのが名作『仮名手本忠臣蔵』です。
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by wheatbaku | 2013-10-29 10:46 | 忠臣蔵 | Trackback
捨松と大山巌の結婚
 昨日の「八重の桜」では、大山巌と山川捨松の結婚の話が中心話題でした。
 これに関して、以前に書いた 「大山捨松」 についての記事へのアクセスが非常に多くあります。
 昨日は、「捨松」と「忠臣蔵」の記事を中心にアクセス数が1200を超えました。
 そこで、山川捨松と大山巌の結婚について書きます。
 なお、今日は「忠臣蔵」の記事も書いてありますので、 「『忠臣蔵』前史(江戸検お題「本当の忠臣蔵」103)」  もお読みください。

 山川捨松については、以前は留学までの略歴を書きましたので、今日は、その後について書きます。
 山川捨松は、明治15年10月、アメリカから津田梅子とともに帰国します。

c0187004_11364146.jpg 新知識を身につけて、日本や女子教育の発展に力を尽くそうと帰国した捨松でしたが、捨松たちを送り出した「開拓使」は廃止され、女子教育を向上させようという意気込みは文部省にはなくなっていました。
 こうしたことから「八重の桜」でも捨松が言っていましたが、「何のため国費を使ってアメリカに送ったのか」というつぶやきとなります。
 捨松がアメリカで得た知識を生かす職業は当時日本にはありませんでした。

 ちょうどその頃、捨松に持ち込まれた結婚話が、大山巌との結婚話です。
 大山巌は、同じ薩摩藩出身の吉井友実の長女・沢子と結婚して3人の娘がいました。
 しかし、沢子は三女出産後の肥立ちが悪く死去していました。
 吉井友実は、大山巌と可愛い孫のため、後添いとなる女性を探し求めはじめました。
 大山巌は、ヨーロッパで4年間勉強した洋行帰りのハイカラ好みであり、外国人との付き合いも多い人物でした。とても並の女性では大山夫人は務まらないと考えていた吉井が、白羽の矢を立てたのが捨松でした。

 大山巌は、早速、吉井友実を通じて、結婚の申し込みをしました。
 しかし、山川家では、大反対です。
 そうです。大山巌は、会津戦争当時、新政府軍の砲兵隊長として会津若松城砲撃の指揮をとっていたのですから。(とはいっても、八重に銃撃され、一日で、戦場を離れることになりますが・・)
 その後の会津藩士の苦労は甚だしく、薩長に対する恨みは、10年や20年ではきえません。
 困窮している会津藩士の中では、山川家は、浩は陸軍人事局長、健次郎は東京帝国大学理学部教授となって恵まれていました。そうしたなかで、さらに薩摩出身の政府高官に妹を嫁してまで出世するのかと旧会津藩士たちから言われるを恐れもありました。

 そのため、山川家の反対は強いものがありました。

 しかし、大山巌は何度断られても諦めませんでした。大山巌本人が熱心に申し込みを続けました。これは「八重の桜」に描かれていました。さらに、西郷従道も山川浩を熱心に説得しました。
 そして、最後は、山川浩も態度を軟化させ、本人の意見を聞くということになりました。

 捨松も大変悩んだようです。
c0187004_11392111.jpg しかし、捨松は、家族ほど薩長に対する反感はありませんでした。また、帰国ても活躍する場がない自分の立場のつらさもありました。
 そうしたことを考え、さらに、大山巌の人柄も考慮し、捨松は大山巌との結婚を決意しました。
 明治16年 大山巌と捨松と結婚しました。そして、婚儀の1ヵ月後、完成したばかりの鹿鳴館で、二人は盛大な結婚披露宴を催しました。
 このとき捨松24歳、大山は42歳でした。親子ほどの年齢の差がありました。

 そして、捨松は、鹿鳴館で毎夜のように開かれる舞踏会で、スタイルのよさと美貌と堪能な語学力と洗練されたステップから、ひときわ輝いていて、「鹿鳴館の華」と呼ばれました
 その後、捨松は、女子教育や看護活動の面でも大いに活躍することになります。


 右上段写真は、九段にある大山巌の銅像です。
 右下段写真は、鹿鳴館跡にある鹿鳴館の碑です。
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by wheatbaku | 2013-10-28 11:29 | 大河ドラマ | Trackback
「仮名手本忠臣蔵」前史①(江戸検お題「本当の忠臣蔵」103)
 さて、今日からは「忠臣蔵」について書いていきます。
 週末が、江戸検の本番ですので、一週間しかありませんが、可能な限り書いていきます。

 元録16年2月4日に、赤穂浪士四十六士が切腹をすると、早速、赤穂浪士の討入りを取り扱った歌舞伎が上演されるようになります。
c0187004_992936.jpg 切腹の約2週間後の2月16日、早くも、江戸の中村座で討ち入りを扱った『曙曽我夜討』が上演されました。
 これは、中村七三郎一座が上演しました。
曽我兄弟の仇討に仮託して、吉良邸討入りを取り上げたものです。
 しかし、これはたった3日間で上演中止となりました。

 これは芭蕉の弟子の宝井其角の次の手紙によるとされています。
 「……此程の一件も二月四日に片付候て甚噂とりどり花やかなる説も多く候て無上忠臣と取沙汰此節其事計に候境町勘三座にて十六日より曽我夜討に致候て十郎に少長五郎に傳吉いたし候へども當時の事遠慮も有べきよしとて三日して相止候」
 しかし、松島栄一氏の岩波新書「忠臣蔵」によれば、「この書簡には史料的に疑問があるとされている。」そうです。

 また、1月、京都の早雲長太夫座で上演された近松門左衛門作の『傾城三の車』の中の巻に討ち入りの場が仕組まれていたそうです。

 こうしたことから、幕府は元禄16年2月の御触れで次のように触れました。
 「当世異事ある時、謡曲、小歌につくりはた梓にのぼせ売ひさぐこと、弥(いよいよ)停禁すべし。堺町、木挽町戯場にても、近き異事を擬する事なすべからず」
 これにより、赤穂浪士に関係することを上演するのは厳しかったものと思われ、以後、しばらくは、上演の記録がないそうです。

 事件落着して4年後の 宝永3(1706)年6月、大坂の竹本座では、近松門左衛門作の人形浄瑠璃『碁盤太平記』が上演されました。
 ☆なお、上演を宝永7年と書いてある本もあります。
 これが赤穂事件を脚色したことが明らかな最初の作品と言われています。
 時代を足利時代の「太平記」の時代に設定し、場所を「鎌倉に移して展開されています。
 登場人物は赤穂事件の人物を『太平記』の人物に比定して、後世の忠臣蔵ものに大きな影響を与えました。
 具体的な名前を挙げると高師直(吉良義央)、塩冶判官(浅野内匠頭)、大星由良之助(大石内蔵助)、寺岡平右衛門(寺坂吉右衛門)などの名前が出てきています。
 この名前によって、「太平記」より、赤穂事件の方を思い浮かべるようになるわけです。
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by wheatbaku | 2013-10-28 09:01 | 忠臣蔵 | Trackback
忠臣蔵 第10回模擬試験問題正解(江戸検お題「本当の忠臣蔵」102)
昨日は、文京学院大学さんの「忠臣蔵散歩」でした。
c0187004_1133195.jpg 台風27号の影響が心配されましたが、スタート部分だけ雨に降られましたが、幸いにも天気予報より早く雨があがり、少し寒かったものの楽しい「忠臣蔵散歩」ができました。
 右写真は、大石内蔵助はじめ17士が切腹した跡を見学する受講生の皆様です。
受講生の皆様お疲れ様でした。

 私は、昨日も、本講座、オプション、飲み会、飲み会の二次会と続き、田町を出たのは9時を回っていました。
 今週は、江戸検追い込み最後の週です。そこで、「忠臣蔵」中心に記事を書きますので、「忠臣蔵散歩」の報告は、合間をみてさせていただきます。

 今日は、先日の第10回模擬試験問題の正解をアップします。
 受験まで1週間ですので、第10回も、「これが本当の『忠臣蔵」』からの出題割合を増やしました。

 昨日も、江戸検を受験される皆さんといろいろお話をさせていただきましたが、皆さん頑張っているようで敬服しました。
 あと1週間、全力をつくされるよう応援しています。受験される皆様ぜひ頑張ってください。



1、 ②吉良邸引揚げの時  

 寺坂吉右衛門がいついなくなったかについては、諸説があるようで、泉岳寺で寺社奉行に報告するために人数を確認したところ一人足らず、個別に点呼したら、寺坂吉右衛門がいないことがわかったと「白明話録」には記録されています。
 しかし、「これが本当の『忠臣蔵』」の188ページには、吉良上野介の首を上げた後、人数改めをした際に姿がみえなかったと書かれていますので②吉良邸引揚げの時を正解にしました。

c0187004_10183744.jpg2、①木下 公定   

 これは、基礎的な問題ですので、おわかりになった方が多いと思います。
 ②は、副使木下公定の先代藩主です。③木下俊程と④木下俊方は同族の木下家ですが、③木下俊程は、豊後国日出藩の15代藩主、④木下俊方は、日出藩14代藩主で、泉岳寺にお墓があります。(右写真です)



3、 ②110間 

 これは忠臣蔵の問題というより、江戸に関する問題といってもよいと思います。  
①新大橋108間  ②永代橋110間 ③吾妻橋84間 ④両国橋94間です。
 永代橋は、江戸時代に隅田川に架けられていた5つの橋で最下流に架けられた橋だということがわかれば、正確な長さがわからなくても、もっとも長い②110間ということがわかると思います。
  

4、 ④瑞光院

  「これが本当の『忠臣蔵』」の117ページをご覧ください。
 ①大光院は豊臣秀長の菩提寺、②龍光院は黒田長政の建立、③聚光院は三好長慶の菩提のために嫡子・三好義継が建立したもので、それぞれ大徳寺の塔頭です。。

5、 ①江赤見聞記   波賀朝栄    

 「これが本当の『忠臣蔵』」の基本史料となっている「江赤見聞記」の著者名を確認するための問題です。
 「これが本当の『忠臣蔵』」の48ページをご覧ください。

c0187004_10193019.gif 6、 

 ④は「右二つ巴」と呼ばれる家紋です。
 しかし、大石内蔵助の家紋は、同じ右二つ巴でも、「やせ右二つ巴」(右写真)であることが、出題後確認できましたので、訂正しておきます。


7、 ④又一(市)郎

 赤穂藩浅野家の嫡男は、代々 又一(市)郎を名乗っていました。
 ①松之丞は大石内蔵助の幼名、②戌千代(いぬちよ)は浅野大学の幼名、③三郎は吉良上野介の幼名です。


8、 ④楽只堂年録 
 
 ①宇下人言は松平定信の随筆  ②宴遊日記は、柳沢吉保の孫柳沢信鴻の日記  ③冷光君御伝記は浅野内匠頭の伝記です。 


9、 ②采女正  
 
 浅野内匠頭関連の記憶問題です。
25.10.28追記 
 浅野内匠頭長矩と祖父の浅野長直は内匠頭ですが、父の長友は采女正です。また曾祖父の長重も采女正です。


10、 ③吉田忠左衛門 

 「これが本当の『忠臣蔵』」の195ページをご覧ください。
 赤穂浪士の辞世も覚える余裕のある方は覚えたほうがよいと思い出題しました。
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by wheatbaku | 2013-10-27 10:15 | 忠臣蔵 | Trackback
明日雨が上がりますように(大江戸ガイド)
c0187004_11522557.jpg 明日は文京学院大学さんの「忠臣蔵散歩」(正式名称は「四十七士が歩んだ道~これが本当の『忠臣蔵』~」)開催される予定です。
 しかし、台風27号が接近しているため、開催がどうなるのか、微妙な状況です。

 こうした情況を踏まえて、文京学院大学生涯学習センターさんから講座開催の可否についてペーパーが届きました。
 受講生の皆様にも送付してあるとのことですが、念のため転載しておきます。

     *     *     *     *     *

10月26日(土)講座 受講生各位 

 台風27号が関東地方に接近していることから、10月26日(土)開催予定の講座の開催可否の判断については、下記の通りとさせていただきます。  (中略)

                         記

1、台風にともなう休講措置について

 ①午前7時の時点で、東京都に「暴風雨警報(980hPa以下)」が発令されていることが報道されたときは、午前中開始の講座を休講といたします。

 ②午前9時の時点で、東京都に「暴風雨警報(980hPa以下)」が解除されない場合、全ての講座を休講といたします。

2、お問い合わせ : 文京学院大学 生涯学習センター

      TEL 03-5684-4816

                                                     以  上



 以上のような内容ですが、本日午前6時現在の天気予報を見る、台風27号は上陸せず、南方海上を通過するようですので、明日は開催される可能性が高いと考えて、明日の準備に力を入れたいと思います。
 明日、雨が上がりますように・・・【祈り】

 そんなことで、今日は「忠臣蔵」関係の記事はお休みします。ご容赦ください。
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by wheatbaku | 2013-10-25 09:02 | 大江戸ガイド | Trackback
忠臣蔵 第10回模擬試験問題(江戸検お題「本当の忠臣蔵」101)
 
 これまで模擬試験問題は金曜日に出題しましたが、来週は最後の週ですので、正解を日曜日にアップするため、今日は木曜日ですが、最後の模擬試験問題を出題します。

c0187004_9343548.jpg ついに出題数が総計で105題ということになりました。
 受験される皆様のお役に役にたったかどうは、11月3日の江戸検本番が終わってわかるわけですが、少なくとも、私は問題を考える過程で非常に勉強になったことは事実です。
 こうしたチャンスをいただけたことに感謝しております。

 正解は、日曜日にアップします。


1、寺坂吉右衛門については、逃亡説と密命説があり、いろいろ議論がされています。
 この寺坂吉右衛門が、いなくなったことを赤穂浪士一同が認識したのはいつの時点でしょうか?

 
 ①吉良邸討入りの時   
 ②吉良邸引揚げの時  
 ③両国橋で休息した後、泉岳寺に向け出発する時  
 ④泉岳寺で点呼した時

2、赤穂城の受け取りは二人の藩主に命じられました。正使は龍野藩主脇坂安照でした。
 それでは、副使は次のうち誰だったでしょうか?

 ①木下 公定   ②木下 利貞  ③木下 俊程   ④木下 俊方


3、赤穂浪士が渡った永代橋は元禄11年に将軍綱吉の50歳を祝して架けられたと言われています。
 それでは永代橋の長さはどのくらいあったでしょうか?

 ①108間  ②110間 ③84間  ④94間

4、大石内蔵助は、浅野内匠頭のために、京都のある寺院に100両支出したお墓を建てています。
 そのお寺の名前は次のうちどれでしょうか?

 ①大光院  ②龍光院  ③聚光院  ④瑞光院

5、次の資料は赤穂事件について書かれた資料です。
 資料名とその著者名が違っているものどれでしょうか?

 ①江赤見聞記   波賀朝栄      ②赤城盟伝  前原伊助
 ③赤城義臣対話  堀内伝右衛門   ④復讐論   林信篤
 

6、大石内蔵助の家紋は次のうちどれでしょうか?
 ①          ②           ③            ④
c0187004_9174618.jpg



7、浅野内匠頭長矩の幼名は次のうちどれでしょうか?

 ①松之丞   ②戌千代(いぬちよ)  ③三郎   ④又一(市)郎


8、浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に斬りつけたのは、松之廊下ではなく、柳之間の廊下であったという説があります。
 この根拠の一つにあげられるのが柳沢吉保の日記です。
 それでは、柳沢吉保の日記の名前はなんというでしょうか、次の中から選びなさい。

 ①宇下人言  ②宴遊日記  ③冷光君御伝記  ④楽只堂年録  


9+、浅野内匠頭長矩の父浅野長友と従弟の戸田氏定は、たまたま官職名が同じです。
 それでは、その官職名は次のうちどれでしょうか?

 ①弾正大輔  ②采女正  ③式部少輔  ④内記 

 ☆浅野内匠頭長矩の父浅野長友のお墓は泉岳寺にあります。  
  右上写真は、泉岳寺にある浅野長友のお墓です。

10、赤穂浪士たちは、討入りの際や切腹の際に、それぞれ辞世の歌を残しています。
それでは、次の辞世の歌を詠んだ赤穂浪士は誰でしょうか?

君が為 おもひぞつもる 白雪を ちらすは今朝の 峰の松風

 ①原惣右衛門  ②間喜兵衛  ③吉田忠左衛門  ④小野寺十内



 
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by wheatbaku | 2013-10-24 09:16 | 忠臣蔵 | Trackback
四十六士否定論(江戸検お題「本当の忠臣蔵」100)
 昨日は、赤穂浪士の行為を肯定する議論について書きましたので、今日は、赤穂四十六士論のうち、否定する議論について書きます。
 今日も宮澤誠一氏著「赤穂浪士」と赤穂市発行「忠臣蔵第3巻」を基に書いていきます。

 否定論の代表は、佐藤直方、荻生徂徠、太宰春台の三人ですので、この三人の考えを紹介したいと思います。

 佐藤直方は、「四十六士之筆記」で否定論を展開しています。
 佐藤直方は、山崎闇斎の高弟で、浅見絅斎・三宅尚斎とともに「崎門三傑」と呼ばれた儒学者です。
 宮澤誠一氏は、佐藤直方の考えを次のように書いています。
「佐藤直方は、「四十六士之筆記」で、吉良上野介は赤穂浪士の主君の讐ではないと断定し、その理由を「吉良上野介が浅野内匠頭を害したのであれば、讐といえるが、浅野内匠頭が死刑に処せられたのは大法に背き上を犯した罪によるからである」と説明している。
(中略) 
 浅野内匠頭は突然後ろから斬りかかり。吉良上野介は恐れをなして無抵抗で逃げたのだから、喧嘩の体をなしていない浅野内匠頭の一方的な暴力である。また吉良上野介は武士にあるまじき卑怯な態度をとり、死より恥ずかしい嘲笑を受けたので、幕府が吉良上野介をお構いなしとし、浅野内匠頭だけを処罰するのは当然だというのである。
 こうした直方の刃傷事件の認識からすれば「四十六人之者」が主君の犯した「大罪」を嘆き悲しまずに、戦場さながらの仕方で吉良上野介を討ったことは、浅野内匠頭の大罪に輪をかけたことになる。
 それでも、吉良上野介を討った後、自らの罪を認め泉岳寺で「自殺」したならば、「理」にあたらなくてもその「志」は憐れむべきである。ところ、浪士は切腹もせずに仙石邸へ自首し、「上ヲ重ンズル意」を述べた。これは人々の称賛によって死を免れ、禄を得るための謀ではないかと判断する。」

 
 


 荻生徂徠の「四十七士の事を論ず」で、荻生徂徠は肯定論を批判しています。
c0187004_9474796.jpg  荻生徂徠は、柳沢吉保に仕えた儒学者で、赤穂浪士の処置について重要な提言をしたことで有名です。
 文京学院大学主催の「忠臣蔵散歩」では、高輪長松寺にある荻生徂徠のお墓(右写真
を訪ねる予定です。
 荻生徂徠の考えの概略は、宮澤誠一氏「赤穂浪士」によると次のようです。
「浅野内匠頭は、吉良上野介に殺されたのではなく幕府によって処罰されたのだから、吉良上野介は「君の仇」ではない。浅野の行動は、一時の怒りに「祖先」のことを忘れ、「匹夫の勇」を振って吉良上野介を殺そうとして失敗したのだから「不義」というべきであり、また、四十七士の行動も、その「君の邪志を継ぐ」ものであるから、とうてい「義」とはいえない。
 (中略)
 徂徠は、直方と同じ理由で、浅野内匠頭の刃傷事件をみて吉良上野介は「君の仇」ではないと断定する。そして、浪士の行動に直方と違って心情的に共感を示しつつも、所詮「君の邪志」を継いだもので「義」とは認められないと主張する。」

 
 太宰春台の「赤穂四十六士論」による批判はより徹底しているようです。
 以下は、赤穂市発行の「忠臣蔵」から引用です。
 「太宰春台の論は甚だ割り切ったもので、四十六士の仇討ちの行動は全く評価しない。四十六士が怨むべきは処断を下した幕府である。不幸にして幕府が自分たちの主人に正当な礼をとらなかったのだから、幕府を怨み幕府を敵とすべきであった。ゆえに、四十六士にとっては、城を枕に幕府と戦って死ぬことだけが主人に対する義を示す道であったとみているのである。」



 今週土曜日は、文京学院大学さんの「忠臣蔵散歩」が予定されていますが、台風が接近中ですので、予定通り実施するかどうかについて文京学院大学さんで現在検討中です。
近日中に何らかの結論が出るとは思いますが、現時点では、順延という結論は出されていないようです。
ブログをお読みになっていてご参加を予定されている方もいらっしゃると思いますので念のためお知らせしておきます。

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by wheatbaku | 2013-10-23 09:43 | 忠臣蔵 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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