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数寄屋橋公園の二つの碑(有楽町京橋散歩4)
今日は、数寄屋橋公園にある二つの碑についてご案内します。

c0187004_22461590.jpg 数寄屋橋公園というのは、実は、晴海通り南側のほかに、通りの北側にある数寄屋橋交番の裏側の高速道路脇にもあります。
 この数寄屋橋公園に、「銀座の象徴 柳並木」の碑と「銀恋の碑」が並んで道路脇にあります。
 (右写真参照)
 先日の「南北奉行所跡散歩」の際には、宝くじを購入する人が列をつくっていたため、案内できませんでしたが、今日は、この二つの碑について案内します。

 「銀座の象徴 柳並木」の碑には次のように書かれています。
 『銀座の象徴 柳並木』
c0187004_22465968.jpg 銀座の柳は明治10年頃銀座に植えられ銀座の象徴とされたが三度の変遷を経て昭和43年銀座通りの改修と共に姿を消した。
 このたび西銀座通りが東京都のシンボルロードとして歩道拡張と共に御影石舗装を施し面目一新されたことを機に並木を柳に代え銀座の象徴復活を果たした。
 西銀座連合会はこの柳が末長く人々に愛され親しまれ続けることを願いここ数寄屋橋公園に碑を建立する。
 平成11年11月 西銀座通会会長 柳澤政一

 銀座の柳は、大変有名でした。
 しかし、昭和43年に銀座通りからなくなりました。
 石碑に「銀座の柳は三度植えられた」と書かれているので歴史を調べてみました。
c0187004_2322542.jpg  銀座の柳が最初に植えられたのは、明治初年です。
 明治7年、銀座煉瓦街ができた頃、風趣を添える街路樹として松、桜、まきの類も植えましたが、うまく育たず、明治10年ごろには柳だけになってしまいました。
 その後、銀座の柳は、大正10年には、イチョウに植えかえられてしまいました。
 しかし、柳の風情を惜しむ声は強く、昭和4年には西条八十が作詞し、中山晋平が作曲し、佐藤千夜子が「昔恋しい銀座の柳」と歌う「東京行進曲」が一世を風靡したため、昭和6年、銀座に柳並木が復活しました。
 しかし、その柳も東京大空襲によりほとんどが焼失しました。
 戦後、銀座の柳は復活しましたが、昭和43年銀座通りの大改修等により、銀座通りから柳並木がなくなりました。
 このように、銀座に柳は三度植えられ、三度なくなっています。
 そして現在、銀座通りから消えた柳は西銀座通りに復活しています。
 右写真は、西銀座通りの銀座並木です。通りの反対側に見える建物は「プランタン銀座」です。


 銀座の柳の隣に「銀恋の碑」があります。「銀恋」とは言うまでもなく「銀座の恋の物語」のことです。
 c0187004_22473624.jpg 「銀座の恋の物語」は大高ひさを作詞、鏑木創(かぶらぎ はじめ)作曲で、昭和36年、石原裕次郎と牧村旬子(まきむら じゅんこ)のデュエットで発表されました。
 「銀座の恋の物語」は爆発的にヒットし、デュエット曲のスタンダードナンバーとなりました。
 この歌碑は、平成2年7月銀座通連合会・西銀座通会・テイチク(株)によって建立されました。
 歌碑の左右には座席を設け、歌碑を挟んで記念写真が撮れるようになっています。
 このことがこの歌碑のミソですが、実際に並んで写真を撮る人は少ないようです。

 赤印が、「銀座の象徴 柳並木」の碑と「銀恋の碑」です。外堀通りに面して歩道脇に設置されています。

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by wheatbaku | 2013-11-29 08:56 | 大江戸散歩 | Trackback
数寄屋橋(有楽町京橋散歩3)
 有楽町京橋散歩の3回目は「数寄屋橋」です。
 数寄屋橋は、寛永6年(1629)に仙台藩主伊達政宗により築かれ、外濠に架かっていましたが、昭和33年に外濠が埋められたためになくなった橋です。
 
 数寄屋橋と言えば、中高年世代で言うと「君の名は」を思いだすんだろうと思います。
c0187004_16404338.jpg 「君の名は」は、昭和27年4月10日から29年4月10日に放送されたラジオドラマです。
 「君の名は」の放送が始まると銭湯の女湯がガラガラになるという伝説が生まれた有名番組です。
 その後、映画化されていますし、平成3年にはNHKの朝どらでも放映されています。
 冒頭の「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」というナレーションを覚えている人もいると思います。
 この「君の名は」の原作者は、脚本家の菊田一夫です。
 菊田一夫書の記念碑が数寄屋橋公園に残されています。
 右上写真がそれで、「数寄屋橋此処にありき」と刻まれています。
 なお、奥に見えるのは岡本太郎作の「若い時計台」というオブジェです。

 さて、昭和33年に埋め立てられてなくなってしまった外濠ですが、どこにあったか、だいたいはわかります。
c0187004_16434034.jpg 数寄屋橋公園のうえを高速道路が通っていますが、この高速道路は、外濠を埋め立てて、その上に造られたものです。
 つまり、高速道路が外濠の流れです。
 それでは、数寄屋橋がどう架かっていたかです。
 現在は晴海通りが東西に通行していますので、その印象から、東西に架かっていたと思われがちですが、江戸時代は、数寄屋橋は、晴海通りを横切る形で、菊田一夫の碑からマリオンに向かって架かっていました。
 右上写真は、菊田一夫の石碑脇からマリオンを撮ったものですが、写真の方向に江戸時代の数寄屋橋は架かっていました。
 ちょっと意外な感じがすると思いますがどうでしょうか。
 ただし、明治になると、現在の晴海通りと同じ方向に架けられるようなったようです。
 なお、高速道路が晴海通りを渡る橋は、「新数寄屋橋」と名付けられています。

 次に、数寄屋橋の名前の由来について書きますが、その前に「有楽町」の名前の由来を書きます。
 有楽町の地名は、織田信長の実弟、「織田有楽斎長益(おだ うらくさい ながます)」)の屋敷があった、あるいは屋敷跡を有楽ヶ原(うらくがはら)と呼んだことに由来しているといわれています。
c0187004_1642424.jpg  しかしながら、江戸時代の古書や江戸図からは織田有楽斎の屋敷があったという確証はないようで、 はっきりしているのは江戸時代中期の頃から有楽ヶ原と江戸の絵図に地名がでていることだけのようです。
 数寄屋橋という町名は、明治5年から正式な町名となっています。
 織田有楽斎は、千利休にも学び、千利休の門下の七哲に数えられている大名茶人です。
 そうしたことから、数寄屋をいくつも建てたので、そこから 数寄屋橋の由来になったという古書もあるようです。
 数寄屋というのは簡単にいうと茶室です。
 現在「数寄屋橋」という名称は、「数寄屋橋」自体がなくなってしまったため、「数寄屋橋交差点」「数寄屋橋交番」「数寄屋橋公園」「新数寄屋橋」などに残されているだけです。
 右上写真の左手の交番が「築地警察署数寄屋橋交番」で、右手の信号に「数寄屋橋」の交差点名称が残されています。


 赤印が菊田一夫の碑です。青印が数寄屋橋交番、緑印が高速道路の新数寄屋橋です。

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by wheatbaku | 2013-11-28 08:41 | 大江戸散歩 | Trackback
南町奉行所跡②(有楽町京橋散歩2)
 今日は南町奉行所の2回目です。
 奉行所というのは、役所の部分と町奉行の私邸の部分とからなっていました。
 現在、首相官邸と首相公邸が同じ敷地内で隣接しているのと同じような状態でした。
c0187004_16251713.jpg なぜ、こうなっていたかいうと、町奉行の仕事は大変激務でした。
 朝から夜遅くまで仕事をせざるをえないほどでした。 
 そのため、町奉行が自分の屋敷から奉行所に通勤していたのでは大変なので、今で言えば職住接近させた訳です。
 そのため、町奉行に就任すると、自分の屋敷から奉行所に引っ越ししました。

 数寄屋橋門内の南町奉行所は、広さが約2620坪ありました。
 表門は東側にありました。
 表門があった場所は、現在は有楽町イトシアとなっています。
 その敷地の概略を描くと、西側は、有楽町駅脇のガードまで、南はマリオンとの間の道路脇まで、北はほぼ有楽町駅の中央口あたりだったと思われます。
 下記地図のオレンジの範囲内が南町奉行所だったと思います。ただし、これはあくまでも個人的な見解です。

c0187004_1751547.jpg


 南町奉行所は、役所部分と奉行の自宅部分とからなっていました。
 表門が東側にありましたので、東半分が役所部分となっていました。
 そして、町奉行やその家族が私的に出入する裏門は西側にあり、西半分が自宅部分でした。
 表門を入ると正面は奉行所玄関となっていました。
 その玄関までは、まっすぐに五六尺の幅の青板の敷石、それを残して一面に那智黒の砂利石が敷き詰めてあったようです。
 玄関脇には若い与力が勤務し市民の訴願を受理する「当番所」がありました。

 表門を入った左手つまり南側に時代劇によくでてくる「お白州」がありました。
c0187004_16363640.jpg 「お白洲」とは、白い砂利が敷かれたいたことに由来しているそうです。
 南町奉行所の絵図面を見ると「砂利敷」と書かれています。
 その先が「公事場」となっていますが、そこに町奉行が座って尋問や判決言い渡しを行っていました。
 現在のイトシアの中では、南西端にある「メガネスーパー」の店舗の奥の部分辺りが「公事場」、「砂利敷」であったと思われます。
 右写真は、南西方向から有楽町イトシアを撮った写真ですが、右手の建物が有楽町マリオンです。
 間の道路の左端辺りまでが南町奉行所であったと思われます。
 そして、左手に看板が見えるのがメガネスーパーですが、そのメガネスーパーの店舗の奥が「お白州」であったと思われます。

c0187004_9395255.jpg 南町奉行所跡は、都指定旧跡「南町奉行所跡」になっていて、有楽町駅前地区再開発事業が実施されるのに際して、発掘調査が1次平成17年4月25日~6月30日、2次11月17日~12月19日の間実施されました。
 この発掘により、大名屋敷期の遺構は131基、南町奉行所期の遺構は23基検出され、両時期に伴う多くの遺物が出土したそうです。
 遺構としては、奉行所表側地境の石組下水溝、穴蔵、井戸、上水遺構などが発見され、遺物としては、陶磁器のほか、「大岡越前守御屋敷ニ而~ 」と墨書された木札などが出土したそうです。

c0187004_1639916.jpg  有楽町イトシアの地下1階広場には、この発掘調査で出土した穴蔵を復元したものが展示されています。(右最上段写真参照)
 穴蔵というのは、火災が起きた際に重要品を焼失しないように保護するため地下に設置された木製の蔵です。
 穴蔵のなかに重要品を放り込み蓋をしたうえで、土をかぶせ、そのうえに濡れたふとんや畳をかぶせて焼失するのを防ぎました。

 c0187004_16393010.jpg そのほか、遺蹟からは上水道管も出土しました。その江戸時代の水道管である木樋が穴蔵脇の木製のペンチとなっています。(右上写真)
 さらに、出土した石を利用してベンチが、地下1階に作られています。(右写真)
 この木製ベンチや石製ベンチで結構サラリーマンたちが休息しています。
 しかし、木製ベンチや石製ベンチが南町奉行所跡から出土した品であることを何人の人が知っていることでしょうか。


 赤印が、穴蔵が展示されている場所です。有楽町駅の中央口を出て、イトシアの地下1階広場の壁に展示されています。

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by wheatbaku | 2013-11-27 09:23 | 大江戸散歩 | Trackback
南町奉行所跡①(有楽町京橋散歩1)
 今日から、11月26日に開催した毎日文化センターの「江戸の名奉行ゆかりの地を行く(有楽町・京橋・八丁堀・八重洲散歩)」で訪ねた先について 有楽町・京橋地区と八丁堀・八重洲地区に分けて、書いていきたいと思います。


 今日は、まず最初の「南町奉行所跡」について書いていきます。
c0187004_10255848.jpg  「南町奉行所跡」は、有楽町の駅前なのですが、意外と知られていません。
 それは、史跡の説明板が目立たないせいもあると思います。
 史跡説明板は、イトシア前の広場の地下1階に降りる階段・エスカレーターの東側にあります。
有楽町駅から言うと、正反対側です。ましてイベントが開催されている際には、テントの裏になって、隠されてしまうことが多々あります。
右写真が、説明板を遠くから撮ったものですが、円形の屋根が地下1階への階段の屋根です。
 遠景で見ると円い屋根が目立ちますが、駅を下りた時には、円い屋根だとはわかりません。
写真左奥が、有楽町の中央口になります。
 ズームしたのが、右中写真です。
 手前の石組は下水溝の石組を復元したものです。

 
 説明板も読みにくいので、全文を書いておきます。説明板には次のように書かれています。
c0187004_2231318.jpg東京都指定旧跡
南町奉行所跡
 江戸町奉行は、寺社奉行、勘定奉行とともに徳川幕府の三奉行のひとつでした。その職掌は、江戸府内の行政・司法・警察など多方面に及び、定員2名で南北両奉行に分かれ月番で交代に執務していました。名奉行大岡越前守忠相は、享保2年(1717)から元文元年(1736)にかけて南町奉行としてここで執務していました。


 c0187004_9343113.jpg南町奉行所は、宝永4年(1707)に常盤橋門内から数寄屋橋門内に移転し、幕末までこの地にありました。その範囲は、有楽町駅および東側街区一帯にあたり、平成17年(2005)の発掘調査では、奉行所表門に面した下水溝や役所内に設けられた井戸、土蔵などが発見されました。また、「大岡越前守御屋敷」と墨書きされた荷札も出土しました。
 再開発事業では、石組下水溝の一部をここに再現するとともに、石材を事業地内でベンチなどに活用しています。


 町奉行と言うのは、南町奉行と北町奉行と二人いて、町奉行所は2か所にありました。
 (正確には、短期間ですが、中町奉行がいて、町奉行が三人いる時代もありました。)
 南町、北町奉行と言うと、江戸の町を南北に管轄を分けて取り仕切っているような印象があります。
 しかし、江戸を南北に分割して管轄していた訳ではありません。
 それでは、どのように分担していたからと言いますと、一月交代で、仕事を分担していました。これを月番制といいます。
 南町奉行が月番の場合には、南町奉行所が門を開けていました。
 そして、北町奉行所の方は、門を閉めていて、南町奉行所だけが訴訟や請願・申請そして事件を受け付けました。
 それでは、月番でない奉行所は休んでいたかというとそうではありません。
 それまでに受け付けていた訴訟や申請や事件の処理を行っていました。
 このように月番制で江戸の町政を担当していました。

 それでは、南町奉行所、北町奉行所の区別は何によるかということになりますが、これは奉行所の所在地によります。
 二つある奉行所のうちどちらが南にあって、どちらが北にあるかのによります。
 有楽町駅前にあった南町奉行所は、宝永4年に、移転してきました。
 それ以降、江戸幕府がなくなるまで、ここにありました。
 そして、これより南に他の奉行所があったことがありませんでした。
 そのため、宝永4年以降江戸時代を通して、数寄屋橋門内にあった奉行所は、南町奉行所と呼ばれ続けました。

 南奉行所については次回も書こうと思いますので、今日はここまでとします。

 赤印が、「南町奉行所跡」の説明板が設置されている場所です。有楽町駅の中央改札を出ると正面に地下への入り口がありますが、その入り口の裏側に設置されています。

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by wheatbaku | 2013-11-26 09:27 | 大江戸散歩 | Trackback
重大事件発生時の町奉行出馬(町奉行12)
 前回は、町奉行の大火出役に書きましたが、
 「江戸町奉行事蹟問答」には次のように書かれています。
 「(前略)火災水災あれば町火消或は水防夫を集め奉行自ら出馬して指揮をとり、狼藉乱妨(暴)人あれば与力同心を派出してこれを鎮め、重大の事件は自ら出馬して其の責任に充るなり」

c0187004_9252152.jpg このうち、大火出役については書きましたが、重大事件での出馬の例が書かれています。
 それは、天保の改革を行った老中水野忠邦が老中を罷免された際に、水野邸に江戸市民が集まり投石を繰り返した事件に、時の南町奉行鳥井甲斐守が出馬しています。

 「江戸町奉行事蹟問答」には次のように書かれています。
 天保13年9月13日、御老中水野越前守御役御免に相成り。西ノ丸下屋敷引払いの節、誰発意なるや、夕刻より追々門前へ見物集り来り、門番これを制したるより事起り、石を投げ始め、追々乱妨(暴)はなはだしく、御目付より月番町奉行鳥井甲斐守へ達しありにより、奉行は談合与力同心を引具して速やかに出張せり。
 其の時、余(佐久間長敬)が父なども出役せしと聞く。多くは近辺の仲間・小者など姿をかへて来りしもあり。或は先に免職になりし役々の仲間など所々に離散しありしが、此の時に至りて兼て遺恨を晴らさんと、誰申し合せたるになく集り来り、仲間同士の口論を仕かけんと巧しなり。四、五人召し捕りのありしが、其の実を得ずして事済みたり。

 水野忠邦が免職なった際に、自然発生的に市民が、水野邸に集まっていましたが、門番がこれを制したところ、投石を開始し、狼藉が激しくなったため、目付の指示により月番の南町奉行鳥井甲斐守が出馬したと書かれています。
 結果として四,五人を逮捕して、事件は解決したようです。

 なお、水野忠邦が、罷免された際に、江戸市民が屋敷投石したということは知っていましたが、その記録は、こんなところに残っていたんだと驚きました。


 「江戸町奉行事蹟問答」には、町奉行の市中巡察の様子も書かれています。
 これによると、町奉行の市中巡察は、就任時の一度行ううようです。
 これは、事前に道筋が通知され、町役人も出迎えるようですので、新任町奉行のお披露目という性格が強いように思います。
 
 「市中巡察は御役拝命後一度、其の他臨時巡行なり。前もって道筋を定め触れ渡し、名主始め町役人出迎え、鳶人足鉄棒を置き、先立(さきだち)にて通行の町人を制し、下座触をなさしめ通行するなり。其の日は紋付、表白裏金陣笠、羽織、馬乗袴にて乗馬にて巡るなり。与力同心は羽織白衣にて多人数付添い前後を固めて通行し、昼飯は弁当にて金銀座、其の外支配内役所にて弁じ、町人宅などへは立寄ること一切なし。若し模様により弁当都所が差支(さしつ)える時は寺院を借り受け立寄るなり。」
 
 昼食を食べるところも、金銀座など町奉行管轄下の役所を利用し、町人宅は利用することはないようです。


 右写真は、東京都教育委員会の「北町奉行所跡」の碑です。先日の「南北奉行所跡」散歩の際に、「えぇー、こんな所にあるのっ」とびっくりされたものです。
 詳しくは、後日、ブログアップします。
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by wheatbaku | 2013-11-25 09:22 | 町奉行 | Trackback
南北町奉行所跡八丁堀散歩(大江戸ガイド)
 昨日は、毎日文化センターの「江戸の名奉行(大岡越前・遠山金四郎)ゆかりの地を行く」の講座があり、受講生の皆さんと京橋、八丁堀、八重洲を散歩してきました。

 昨日のコースは、南町奉行所跡からスタートし、八丁堀組屋敷を経由し、北町奉行所跡に至る次のコースでした。

 有楽町イトシア(南町奉行所跡) ⇒ 数寄屋橋公園 ⇒ 旧比丘尼橋 ⇒ 京橋(「大根河岸青物市場蹟」碑、「江戸歌舞伎発祥之地」碑、京橋親柱、煉瓦銀座之碑) ⇒ 京橋公園(蜊河岸跡) ⇒ 桜川公園(八丁堀跡) ⇒ 京華スクエア(八丁堀の与力同心組屋敷跡) ⇒ 松平越中守屋敷跡 ⇒ 久安橋(楓川跡) ⇒ 
歌川広重住居跡 ⇒ ヤンヨーステン記念碑 ⇒ 丸の内トラストタワー(北町奉行所跡)

c0187004_20505197.jpg 天候は、絶好の行楽日和でした。
 そのせいもあってか、有楽町駅前はイベントのお客様であふれかえり、また、数寄屋橋公園周辺は、年末ジャンボ宝くじを購入する人たちが大勢いて(右写真)、これまたびっくりしました
 こんな中でのスタートで、最初はとまどいましたが、20人超の大勢の割には動きが素早く大した心配をすることもありませんでしたし、説明も熱心に聞いていただき楽しくガイドができました。
 参加者の皆さん、ありがとうございました。ご協力に感謝いたします。

 昨日の集合は、有楽町駅でした。
c0187004_23382589.jpg 有楽町駅に降りてびっくりしました。
 有楽町イトシア前のイベント広場でイベントが行われていて、千代田区設置の「南町奉行所跡」の説明板は、テントの後ろとなっていました。
 とても20人超の人が一度に見える状態ではありませんでした。
 そこで、当初の予定を変更して地下1階の南町奉行所跡から発掘された穴蔵が展示されている広場で説明を始めました。
 「何回も降りている有楽町ですが、はじめて知りました」という人がいたので、皆さんにきいてみましたら、穴蔵の展示を知っていた人は2人でした。
 その後、イベントの主催者にお願いしてテントの後ろの開けていただいたスペースで説明板(右写真)を見させてもらいました。

c0187004_23385067.jpg 次いで、「数寄屋橋」「比丘尼橋」「京橋」「蜊河岸」「八丁堀」の説明をしながら、江戸が「水の都」と呼ばれたほど川・水路が発達していたことを紹介しました。
 多くの参加者の皆さんが驚いてくれました。
 「八丁堀」は「八町堀」とも書き、堀の長さが八町あったため、その名前がついたともいわれています。
 右写真は、桜川公園にある八丁堀の説明板をみる参加者のみなさんたちです。

c0187004_23391029.jpg 八丁堀は、町奉行の与力同心の組屋敷があったことで有名です。
 地域名としての八丁堀は、現在の「八丁堀」「日本橋兜町」「日本橋茅場町」を含んだ広範囲の地域でした。
 ここに与力50騎、同心200人が住んでいました。
 その組屋敷の南端にあたる京華スクウエアに、「八丁堀の与力同心組屋敷跡」の説明板があります。
 右写真は、その説明板を見る参加者の皆さんです。

c0187004_23393448.jpg その後、「旧楓川」「歌川広重住居跡」「ヤンヨーステン記念碑」を見ていただき、いよいよ最後は、「北町奉行所跡」の説明でした。
 「北町奉行所跡」の説明板は、丸の内トラストタワーと東京駅の八重洲北口改札の近くにあります。
 参加者の皆さんが驚いたのは、八重洲北口改札近くにある千代田区の説明板でした。
 あまりにも目立たない場所にあったためです。
 右写真は、丸の内トラストタワーN館の脇にある、「北町奉行所跡」の説明板を見る参加者のみなさんです。

 散歩の後は、皆さんとの「懇親会」つまり「飲み会」です。
 私にとっては久しぶりの東京駅前での「飲み会」でしたが、15名の方の参加で大変盛り上がりました。
 第一回目の講座ですので、自己紹介もしてもらいましたが、遠方から参加していただいた方もいましたし、またお酒が飲めなくても参加していただいた方もいて、大変ありがたいことだと思いました。
 飲み会にご参加の皆さん、最後までお付き合いいただきありがとうございます。
 最後に恒例の記念撮影です。 15人もなると壮観ですね。
 飲み会幹事のSさん・Oさん今回もありがとうございました。
c0187004_23423989.jpg

 参加者の皆さん、楽しい散歩と飲み会ありがとうございました。次回もどうぞよろしくお願いします。
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by wheatbaku | 2013-11-24 01:22 | 大江戸ガイド | Trackback
大火の際の町奉行の任務(町奉行11)
 明日は、毎日文化センターの「名奉行ゆかりの地を行く」のガイドがあるので、その準備をしながら、町奉行の記事を書いています。

 町奉行について調べると調べるほど、激務だということがわかってきます。
 町奉行は、大火の際には自ら出動しますが、その責任も大変です。
 火事場出動の時の様子が、「江戸町奉行事蹟問答」には次のように書かれています。

c0187004_1036228.jpg 奉行出馬の節、月番は火先へ駆け付け候、非番は後口(風上の方面)へ賭け。火事場掛の与力同心をして火元を糺(ただ)し、消防方指揮し御場所柄大切の場所危うし駈け見るか何か異状ある出火と認める時は即刻騎馬供公用人(内与力)を以て大城(江戸城)当直の御目付老中(在宅の刻限であれば役宅)注意し、臨機の職掌を施すこと兼ての心掛なり。
 通常なる時は供方同心を駈けて注意し、消防の手配、火勢の模様等時々供方公用人、火事場掛与力と協議し、右筆に命じ注進状を筆記せしめ前の如す。


 町奉行が出馬する時、月番は風下に出動し、非番は風上に出動します。
 そして、重大な大火の際には、老中に内与力を注進に派遣し、通常の火災の場合には同心を派遣します。なお、公用人(内与力)というのは、町奉行個人の家臣で奉行の腹心となって勤めました。

 火事見廻(旗本)、御使番(旗本)、御目付(旗本)いづれも火事場へ出馬し来るなり。幕府の定火消役人数其他藩より出る消防人数等駈け集まり(侍火消という)江戸町中より町火消駈け付け候故、消防混雑を生ぜざる様に主務の持ち場を分かち町火消には与力同心を以て指揮し、或は公用人(内与力)馬上にて奉行の意を与力同心へ通し候。伝令使に遣い駆け引きいたし侍火消の進退駈引は前の役々と協議して取扱い、火事場先重立役人は町奉行に付、消防の指揮号令駈引は其責任重く、前の役々も町奉行の指揮に随い、これを助けて取扱候は勿論なれども、非常混雑の場合なれば様々の紛擾を生ずることあり、然るときは出馬の御目付へ奉行の意を陳べて侍火消の者役々へ指揮せしむるなり。御目付は監察の職権を以て、能くこれを料理するなり。

 火事場には、定火消や大名火消、町火消が出動します。
 これらの全体を指揮するのは、町奉行の任務です。
 赤字部分にそれが書いてありますのでお読みください。この中に「火事場先重立役人」という言葉でてきますが、これは「かじばさきおもだちやくにん」と読み火事場での重要な役人という意味だろうと思います。
 また、火事場が混乱する場合には、目付と協議の上指揮を執ると書かれています。

 幕府時代の火事場は泰平の戦争所と同じく、侍火消も町火消も共に必死の覚悟にて死を恐れずして働き、己の職掌と消し口聊(いささか)の争いより怪我人、死人を生じ、忽ち大紛擾と相成り、敲き合い、抜剣の大争動を起こして、町火消仲間にても夫々組に分かれ励み合い候故、 指揮の行違いより忽ち命掛けの紛擾を起し見る見る怪我人死人を生じ、死を以て争い候。死事出来候。
 町奉行と雖も、自分勝手の駈引きはでき難く火事場掛の与力同心練熟の者と謀り、規矩を正し、指揮よろしきを得て、鎮火後、町火消の働き、組下与力同心の働きも公平に取調べ賞誉を与え、巳後を奨励するものなり。


 火事場は、戦場と同じで、争いごとが絶えません。
 町奉行は、練達して火事場掛の与力同心とよく協議し指揮をしていきます。
 火事場掛の与力同心とは、正式には「町火消人足改」と呼ばれる掛で、町火消の取締・指揮を担当しました。

 火事場での総指揮者が町奉行とは知りませんでした。
気の荒い定火消や町火消を指揮して鎮火させていくわけですから、相当の統率力が必要になりますから大変の仕事ですね。

 
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by wheatbaku | 2013-11-22 10:29 | 町奉行 | Trackback
白洲における町奉行は激務(町奉行10)
 今日は、お白州の様子について書いてみます・

 幕末から維新にかけて、町奉行与力として勤務した佐久間長敬が著した「江戸町奉行事蹟問答」は、町奉行や奉行所の様子を書いた貴重なものです。

 その中で、白州における町奉行の様子が書かれています。

c0187004_107743.jpg 「平常、刑事事件席は民事裁判席と同所にて白州なり。民事裁判も同じことなり。下調吟味方主任の与力出る時は、呼出の公用人と代わり畳縁へ出て、その他は白州中仕切り際に待座す。呼出本人は、身柄により、畳縁、板縁、砂利と区別して出席し、同心警衛、別に挟み警護の役人なし。万一本人乱心(の)体とか殺害の含みありと見認(めた)者は、特別に命じて、同心をして挟み警衛を付けることあり。臨時の取計いなり。」

 ここで、注目されるのは、
 1、身分によって、畳の縁、板敷きの縁、砂利と座る場所が異なっていることです。
  詳しく書くと次のようです。
  ①御目見以上は座敷
  ②熨斗目着用の格式以上 白州畳縁側
  ③熨斗目以下 白州板縁
  ④足軽以下 平民地所持  白州砂利 服装は羽織袴
  ⑤中間・小者・平民 白州砂利 ただし服装着流し

c0187004_1051272.jpg2、被告に対して、すべて被告を挟むように同心が警護することはなく、乱暴したり殺害する怖れのある場合のみの特別な対応であるということ
です。

 次いで、白州における町奉行は威儀をただしたもので、時代劇の遠山金四郎のようにお白州で、啖呵をきったりすることはなかったようです。

 「江戸町奉行事蹟問答」には次のように書かれています。
 裁判席にて奉行の行儀は威儀を重んじ、職掌柄謹慎を専らとし行儀正しく座席敷物は勿論寒中と雖も、火鉢多葉粉(たばこ)盆なし。湯茶も喫せず暑中扇遣いもせず、初めより仕舞いまで座を立るなし」

 つまり、
 ①敷物はなく、②湯茶ものまず、③タバコも喫わず、④寒中でも火鉢がなく、⑤暑中でも扇も使わない。
 そして、最初から最後まで席をたつこともない。
という「ないないづくし」で裁判に臨んだようです。

 もうこれだけでもすごいと感心します。
 現代のわれわれにとっては激務なのではないでしょうか。
 私なんか大変でとても耐えられないように感じます。


 右上写真は、南町奉行所の跡から発掘された穴倉の説明板(右上写真)と復元された穴倉(右下写真)です。
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by wheatbaku | 2013-11-21 09:59 | 町奉行 | Trackback
町奉行の裁判②出入筋(町奉行9)
 今日は、町奉行の裁判のうち出入筋について書いてみます。
 

 南和男氏著「江戸の町奉行」に非常に具体的書いてありますので、それに沿って、書いていきます。
 「江戸の町奉行」では貸金返済請求を例に説明してあります。
 
c0187004_9222197.jpg 借家人は、まず家主と五人組にその理由を述べて、彼らの承諾を受けて、相手側の家主に訴えの理由を告げて、預りを依頼します。
 預りとは、訴訟中、被告が現在地を離れないことを保証するものです。
 依頼された家主は、本人と五人組を呼び出して、なるべく示談ですますよう説得します。
 しかし、示談を承知しない場合には、原告の家主に預かりを出します。
 原告の家主は原告の訴状に預かり証を添えて名主に提出します。
 名主は本人と家主を呼びだし、示談をすすめます。
 しかし、やはり承服しない場合には、相手側の名主に通知します。
 被告支配の名主は被告とその家主をよびだし、やはり示談をすすめます。
 しかし、ここでも聞き入れない場合には、その始末を原告側の名主に通知します。
 原告側の名主はここではじめて原告の訴状に奥印して家主にわたします。
 家主は、本人同道で月番の奉行所に行き訴状を提出します。掛役人は訴状の形式・内容などの違法の有無を審査します。
 これがすむと正式の訴状をします。町奉行所では、これに相手方が何日に奉行所へ出頭すべき旨などの裏書をして、加印して訴訟人に渡します。
 裏書を加えられた訴状は、訴訟人が相手方に送ります。相手方は出頭するようにと指定された日(差日)以前に訴状と返答書を奉行所に提出します。

 差日には、原告、被告、双方の家主などが腰掛で呼び込みを待ちます。
 やがて表門続きの長屋の窓から中番が原告・被告を呼びます。
原告・被告が揃って白州の潜りに進むと、番人は大きな鍵をもって五尺余りの大きな潜り戸をあけ、白州の内に通して直ちに錠をおろします。
 ここで初めて双方の吟味が始まります。
 この最初の吟味は「初めて対決(初対決、初而公事合、一通吟味)」といい、おおよその吟味にとどまり、通常本格的な吟味は、この後、吟味方与力によって行われます。
 初対決には通常奉行が立ち会います。奉行の出る白州は広く、与力が取り調べる白州は狭い白州です。

 吟味方与力の審理が一応終わると裁判調書に相応する口書が作られ、例繰方は罪状判決の類例を探して提出します。これに基づいて町奉行より双方に判決が言い渡されます。

 こうした手順で出入筋の裁判は進行しますが、幕府はできる限り内済(ないさい)つまり和解を奨励しました。
 訴訟を起こすにあたって、家主や五人組さらに名主の承諾を得なければ訴訟できない仕組みとなっていますので、訴訟を起こすまえにトラブルは相当数解決したものと思われます。もちろん泣き寝入りもあったかもしれませんが。
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by wheatbaku | 2013-11-20 09:18 | 町奉行 | Trackback
町奉行の裁判①吟味筋(町奉行8)
 町奉行の職務は、江戸の町政全般にわたり、幅広いものなので、すべてを詳しく述べるわけにはいきませんが、代表的な仕事について、書いていきます。

 まず、町奉行の裁判についてかいてみたいと思います。

 江戸幕府の裁判所の吟味は、出入筋と吟味筋に分けられます。
c0187004_1035140.jpg 出入り筋とは、訴えを起こす人(原告)と訴えられる人(被告)とが争うもので、出入物または公事といいました。
 吟味筋とは町奉行や与力などが職権をもって被疑者を呼び出し、あるいは逮捕して吟味するもので吟味ものとも言いました。
 まず吟味筋について書きます。 
 当時の裁判では、自白を重要視しました。いろいろな証拠によって犯罪事実が明らかになっていても、本人が自白しないと自白を強要しました。
 この強要の手段として牢問や拷問が行われました。
 江戸時代に拷問と呼ばれたのは釣責めだけです。
 それ以外は牢問と呼ばれました。牢問には、笞打(むちうち)、石抱、海老責の三種類がありました。
 これらは、現代では拷問の一種ですが、江戸時代には拷問とは言いませんでした。
 相当に確実な証拠があっても、自白に基づく口書(くちがき 供述書)と爪印がなければ有罪にできないのが原則でした。
 そのため、笞打、石抱、海老責などによって責めつけることは少なくはなかったようです。
 しかし、拷問は町奉行が勝手に行うことができませんでした。
 「公事方御定書」によれば、拷問が行われる犯罪は、人殺、火付、盗賊、関所破り、謀書・謀判、そして審理中他の犯罪が発覚しその罪が死罪に該当する場合だけで、それ以外は評定所一座の評議が必要とされていました。
  
 町奉行所の取調べは、吟味方与力中心に行われました。
 町奉行は、多忙を極めている上に訴訟も膨大の数がありました。そのため、とても山積みしている訴訟を一つ一つ奉行自身が克明に調べる暇などありません。
 そこで、吟味方与力が、あらかじめ調べておき、例繰方が、擬律(犯罪事実に法律を適用すること)まで行ってから町奉行が調べました。
 被疑者の口書に爪印が押されると、例繰方が過去の犯罪の類例をさがして提出します。
 これらに基づいて判決が決定されます。
 しかし、時代劇のように、町奉行が独断で重罪を申し付けることはできませんでした。
 中追放以下は町奉行の専決(これを「手限り吟味」と言います)となり、町奉行の吟味で判断した処理をおこなえましたが、重追放以上の刑については、お伺書を持って老中または将軍の決済を受けなければなりませんでした。

 従って、犯罪者の取り調べをして、即座にお白州で「首切り獄門」などということはできない仕組みになっていました。


 右上の写真は、丸の内トラストシティタワーの敷地内にある北町奉行所の説明板です。
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by wheatbaku | 2013-11-19 09:51 | 町奉行 | Trackback
  

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