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年越しそば(行事の料理2)
 今日は大みそかです。本年もブログをご愛読いただきありがとうございました。

     新しい出会いに感謝!! 

 今年は、「江戸」を通して新しい出会いが一杯ありました。

 江戸文化歴史検定協会の公式ブログ「大江戸見聞録」に掲載している「江戸三十三観音めぐり」の取材を通じて、 真言宗豊山派前管長小野塚幾澄様 や護国寺教科部長様など通常な寺院参拝ではお会いでできない方々にお会いできたり、 北町奉行の御子孫で人形町風月堂当主の佐々木循一様 などにお会いですることができました。
c0187004_22314782.jpg また、5月のホテルニューオータニさんの「日本橋川めぐり」、
10月の文教学院大学さんの「忠臣蔵散歩」(右写真)
そして年8回の毎日文化センターさんの「気ままに江戸探訪」を通じて新たな出会いもありました。
 こうした皆さんは、多くの方々がこのブログをお読みいただいていて、ブログを介して親近感をいただいているように感じました。 こうした方々の中には、毎日文化センターの受講生の方を中心にその後も親しくお付き合いさせていただいている方もいらしゃいます。
 また、このブログをお読みいただく方は着実に増えておりますので、お顔はわかりませんが多くの方との新しい出会いがあったことになります。
 こうした出会いができたのもこのブログを書いているからだと感じている次第です。

 多くの新しい出会いに感謝して本年をしめくくりたいと思っていますが、今日は大晦日ですので、今年の最後の記事として「年越しそば」について書きたいと思います。

  「年越しそば」は、おおつごもりそば、晦日そば、つごもりそば、除夜そば、歳取りそば、大年そば、しまいそばなどと呼ばれます。c0187004_2025506.jpg 
 「年越しそば」の起源は、寛延3年(1750)の服部嵐雪の句に「蕎麦うちて鬢髭(びんし)白し年の暮」という句があることから江戸中期からの風習だろうとされています。

「年越しそば」の由来は諸説あるようです。
松下幸子先生によれば次のような諸説があるようです。
1、鎌倉時代に中国から博多に来ていた貿易商謝国明が700年ほど前に、年の瀬も越せない貧しい人たちにそばがき餅をふるまったところ翌年からみな運が向いてきたので大晦日に運そばを食べる習わしが生まれた
2、そばの実は三稜で三角形であり、古来三角形は邪気を払う縁起がよいものとされたので、大晦日に無事息災を祝ってそばがきを食べた。
3、そば切りは細く長いので、長寿や身代が長くのびるようにと食べた。
4、細工師が金箔を延ばす時に、台面をそば粉でぬぐうとよく伸、また
金粉を集めるのにそば粉がよいなど、金を延ばすとか金を集める意味で始まった。
5、そばは新陳代謝をよくし体内を清浄にするので大晦日に食べて新年を迎える。
6、畑のそばが少々の風雨に当たっても翌日は起き直る力にあやかるように食べる。

 どの説をとるにしても、「来る年が良い年であるように」という願いを込めて食べるということでは一致しているようです。

 江戸時代から、大晦日のそば屋は大忙しだったようで、桑名藩松平家藩士渡部平太夫の「桑名日記」の天保11年の大みそかには、「長島屋は売り切れ、みき屋までいって食べる」と書いてあるそうです。

 我が家では、蕎麦屋に食べに行かず、自宅で年越しそばを食べ、「来年も良い年であるよう」祈りたいと思います
 最後に、ブログをお読みいただいた皆様に深く感謝申し上げて、平成25年のブログの書き納めとします。

 この一年間、熱心にブログお読みいただきありがとうございました。
 良いお年をお迎えください。
 
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by wheatbaku | 2013-12-31 00:05 | 江戸の食文化 | Trackback
おせち料理(行事の料理1)
  「江戸の食文化」では、行事に伴うお料理も重要な分野ですので、これらの知識も江戸検受験には必須だと思います。
 そこで、季節ごとの行事に伴う食について「行事の料理」として、適宜書いていきたいと思います。
 お正月は、一年のスタートですので、お正月に関する料理は、おせち、お屠蘇、鏡餅、雑煮、七草がゆなど目白押しです。
 これから七草までは、正月の料理を中心にブログを書いていきますが、今日は、「おせち料理」について書いてみます。

 これらの行事に関する料理については、千葉大学名誉教授の松下幸子先生著の「祝いの食文化」に詳しく書かれていますので、「おせていえ料理」についても、「祝いの食文化」に基づいていきましょう。

 おせち料理とは、正月に食べるお祝いの料理です。
c0187004_17121159.jpg 「おせち」は「御節」と書いて、正月や五節句などの節日(せちび)に神に供える「御節供(おせちく)」の略です。
 節句に神に供えた神饌を下げて、家族が食べる直会(なおらい)の食べ物が本来の「おせち」でした。
 それが、いつの間にか節句の一番目にあたる正月の料理が「おせち」と呼ばれるようになりました。

 おせち料理は重箱に詰めますが、これはめでたいことを重ねるという願いが込められています。
 おせち料理の基本は四段重ねで、上から順に、一の重、二の重、三の重、与の重、と呼びます。四段目のお重を「四の重」と言わないのは「四」が「死」を連想させ縁起が悪いとされているからです。
 現在では、おせち料理は重詰が普通ですが、江戸時代から、おせち料理が重詰であったわけではありません。
 おせち料理が重詰になった歴史について松下幸子先生は次のように書いています。

 江戸時代も天明(1781-89)ごろまでは、喰積はその名のように、つまんで食べられるものでしたが、その後は食べる形だけで実際には食べないものになりました。
 その後寛政(1789-1800)ごろから、食べられる祝い肴(数の子・ごまめ・黒豆など)を詰めた重詰が作られるようになり、飾るだけの喰積は重詰と並存し、明治になると喰積はすたれて重詰が一般化したものと考えられます。

 この中に書かれている喰積(くいつみ)というのは、あまり馴染がないものですので、これについて少し説明しておきます。
c0187004_2150557.jpg 喰積については、「江戸の食文化」の参考書籍とされている「『近世風俗史』つまり『守貞謾稿』の(4)」の「蓬莱」の項に記載されています。
 京坂(京都・大坂)では蓬莱と呼ばれたものが、江戸では喰積とよばれました。
 「守貞謾稿」によるとその作り方は、三方の中央に真物の松竹梅を置きます。そして三方に白米を敷くこともあります。その上に燈一つ、密柑、橘、榧(かや)、搗栗(かちぐり)、草薢(ところ)、ほんだわら、串柿、昆布、 伊勢海老などを積み、裏白、ゆずり葉などを置くとあります。
c0187004_20532769.jpg この中の「草薢(ところ)」は聞きなれない植物ですので、調べましたら、ヤマノイモ科の蔓性多年草だそうです。根茎から多数の髭根を出す様が老人の白い髭にみたてられて、長寿の縁起物として蓬莱に飾るそうです。(右写真参照)

 また「守貞謾稿」には、江戸の喰積は、正月初めて來る客には、必ずまづこれを出して、客も少しとって一礼すると元の場所に戻すとも書いてあります。
 形式的な物だったようですね。

 さて、おせち料理に詰められる料理にはそれぞれちゃんと意味が込められています。
c0187004_21502719.jpg 松下先生は「祝いの食文化」では、「数の子」「黒豆」「田作り」「きんとん」「たたき牛蒡(ごぼう)」について、それぞれについて次のように書いています。

数の子
 ニシンは一名「かど」というそうです。「かどのこ」がなまって数の子になったそうです。
たくさんの卵があるというところから、子孫繁栄の願いが込められています。

黒豆
 一年中「まめ(まじめ)」に働き「まめ(健康的)」に暮らせるようにとの願いが込められています。
 黒豆と呼ぶのはそれほど古くはなく、以前は「座禅豆」と呼んでいました。
 座禅豆という名前は、僧が座禅をするときにこの豆を食べる小便が止まるところからの名前だそうです。
 「嬉遊笑覧」には「正月殊さらにこれを設て正式のようなれど、昔酒の肴に絶ず用いたる遺風なり」とあります。

田作り
 田作りは、「ごまめ」とも呼び、片口鰯の稚魚を素干しにしたものです。
 田作りの語源は、昔田を作る肥料として用いたからとも、また農夫が田植えの時の祝い肴にしたからとも言います。
 田作りは、小殿腹ともよぶので子孫繁栄を祝うものという説や京都御所で衰微していた時世に、頭つき一尾の魚として一番安いごまめを元日に供されたのが始まりという説もあります。

きんとん
 きんとんという名前の食べ物はかなり古くからあります。
 しかし、今のきんとんとは異なるものでした。
 現在のきんとんは、甘く煮た栗や隠元豆をさつまいものあんとまぜたものです。
c0187004_23162166.jpg  しかし、江戸時代の料理書では、きんとんは金色の団子であったり、和菓子のきんとんであったようです。
和菓子のきんとんは,あんや求肥を芯にして,色とりどりのそぼろあんをまぶしつけた上生菓子です。
 (右写真はきんとんの一例)
 現在のおせち料理のきんとんは明治時代からのもののようです。

たたき牛蒡
 たたき牛蒡は、あまり太くない牛蒡をやわらかくなるまでゆでて、すりこぎなどでたたき適当な長さに切り、胡麻酢に漬けたり調味液で煮たりしたものです。たたくのは、ごぼうの繊維をたたいてほぐし、調味料がしみ込みやすくし、また食べやすくするためです。
 正月に牛蒡を用いるのは、根が地中深く入るところから、家の基礎が地の底まで堅固であることを祈る意味があるともいわれ、また身体によい食品であるからとも言います。

 これ以外にも、「鯛」には定番の縁起物で「メデタイ」に通じ、「海老に」は腰が曲がるまで丈夫という長寿の願いが込められいて、「昆布巻き」には「よろこぶ」 の意味が込められているなど縁起のよい理由が挙げられえています。
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by wheatbaku | 2013-12-29 21:30 | 江戸の食文化 | Trackback
東京家政学院大学特別展「江戸の料理」③(江戸の食文化4)
 昨日が仕事納めで、今日から年末年始休暇です。
 年末年始には、行事に伴う料理が数多くありますが、今日も東京家政学院大学の特別展「江戸の料理」で展示されていた再現「江戸の料理」の代表的なものをご紹介します。

「揚げ出し大根」
c0187004_1241650.jpg 「揚げ出し大根」は「大根一式料理秘密箱」に載っている料理です。
 大根を素揚げして、大根おろしで食べるという簡単な料理です。
 大根の味付けに「大根おろし」を使用するという非常に変わった料理です。
 どんな味がするのか聞いてました。
 すると意外なことに大変甘いそうです。
 素揚げした大根が甘いので、大根おろしがマッチするんだそうです。


「大根飯」
c0187004_1243444.jpg 「大根飯」は、「料理伊呂波包丁」に載っている料理です。
 大根を賽の目に切り、梔(くちなし)で色を付けて、すりおろした大根の汁を米に入れて炊いたご飯です。
 大根をいれた糅飯(かてめし)の一種だと思われます。なお、「糅(かて)」とは、米を炊くときに量を増やすために混ぜるものを言います。
味はおいしいのかどうが疑問が残りますが、梔により黄色につけられた色が鮮やかで大変目立ちました。



「鯛の香物鮓」
c0187004_1245481.jpg 「鯛の香物鮓」は、「鯛百珍料理秘密箱」の中に載っている料理です。
 三枚におろした鯛と香の物をまぜ合わせるとなっていますが、展示されていたものは、鯛と香の物を重ね合せて押し寿司として再現されていました。
 下部に香の物、最上部に鯛が置かれていました。

「さくらすし」
c0187004_1252144.jpg 「さくらすし」は「名飯部類付録」に載っている料理です。
 「さくらずし」はタコの足を薄切りにして桜の花に見立てた飯。
 ご飯は、タコの足の色が移って、ほんのりとピンク色をしていました。 
 まさに桜の花が想像される出来上がりで、その命名の妙に日本人の感性を見ることができます。


「柿衣」
c0187004_126198.jpg 「柿衣」は、「素人包丁」に載っています。
 「柿衣」は干し柿の種を取り除き、そこに栗をいれて揚げた物です。
 揚げることにより、干し柿の香りや食感がもとのものとは変わり、大変品の良いお菓子だそうです。
 干し柿の中に栗が入っているなんて贅沢な菓子だと思います。
 また「柿衣」というネーミングもしゃれていますね。


「鋤焼」
c0187004_1291932.jpg 「会席料理」のコーナーに「鋤焼」が展示されていました。
 「会席料理」はいわば料理屋での料理であり、「鋤焼」の標本は焼きながら食べる料理として製作したそうです。
 鋤を利用した料理は明治以降の料理かなと思っていましたが、現実に江戸時代の料理書に、鋤を利用した料理があることが確認できて、驚きました。
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by wheatbaku | 2013-12-28 12:11 | 江戸の食文化 | Trackback
東京家政学院大学特別展「江戸の料理」②(江戸の食文化3)
 昨日は東京家政学院大学生活文化博物館で開催されている特別展「江戸の料理」についてご案内しましたが、今日は、昨日の続きで、再現された料理のいくつかをご紹介します。

「豆腐かゆ」
c0187004_9172964.jpg 豆腐料理の「豆腐かゆ」は、「豆腐百珍続編」に載っている料理です。
 「豆腐かゆ」といっても、豆腐が入った「かゆ」ではありません。
 米粒のかわりに豆腐を細かく切って米粒のように見立てて葛湯で煮ています。
 細かく切った豆腐が、本当の米粒のように見えるのに驚きましたが、これを持際に見ていた人は、豆腐を細かく切る手業のすごさに驚いたそうです。


「すり流し豆腐」
c0187004_8403086.jpg 「すり流し豆腐」は「豆腐百珍」に載っている料理です。
 すりつぶした豆腐にくず粉を混ぜて、味噌汁仕立てにしたものです。
 これは、手軽な料理ですので、私にもできそうだなと思いました。


「こおり豆腐」
c0187004_8404964.jpg 「こおり豆腐」は「豆腐百珍」の中に載っている料理です。
 漢字では「玲瓏豆腐」と書きます。「玲瓏(れいろう)」とは玉などが透き通るように美しい様子を意味する言葉です。
 料理もきれいですが、名前もきれいです。
 寒天の中に豆腐を閉じ込めたものだそうですが、酢みそを加えて菜とするほか、黒蜜をかけて菓子として食することもできるそうです。
 黒蜜をかけるとどんな食感になるのが興味がわく料理でした。


「源氏卵」
c0187004_841335.jpg 「源氏卵」は、「萬宝料理秘密箱」に載っている卵料理です。
 れんこんを車輪に見立てた料理で、車の間は卵の白身、車の周囲は黄身を焼いたものを巻いてあります。
 「源氏卵」の「源氏」は源氏車のことで御所車をあらわしています。
 「源氏」といえば御所車だとわかる知識階層を意識した料理だそうです。


「雪花菜飯(きらずめし)」
c0187004_8412248.jpg 「雪花菜飯(きらずめし)」は「名飯部類」に載っている料理です。
 おからをご飯に加え、昆布と梅干を入れた出汁をかけた汁かけめしのようです。
 「きらず」というのは、「切らない」という意味と考えられているようですが、「雪花菜」という美しい漢字が当てられていて、名前に対するこだわりが感じられますとコメントされていました。


 生活文化博物館では標本の接写は禁止されています。今回は生活文化博物館の許可を得て撮影させていただきました。
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by wheatbaku | 2013-12-27 09:01 | 江戸の食文化 | Trackback
東京家政学院大学特別展「江戸の料理」①(江戸の食文化2)
 「江戸の食文化」関連記事第一号は、東京家政学院大学の特別展「本気で見せます!江戸の料理」についてです。
c0187004_957593.jpg この特別展に、昨日、行ってきました。
 特別展は、東京家政学院の生活文化博物館で2月14日まで平日に開催されています。
 東京家政学院の生活文化博物館は、町田市にあります。最寄駅は京王線めじろ台駅と横浜線相原駅です。
 昨日は、私は、めじろ台駅を利用しました。めじろ台駅まで、新宿から約50分かかりました。
 めじろ台駅からは、京王バスで「東京家政学院行」バスで約10分です。
 このバスはそれほど本数が多くありませんので、事前に時刻表をチェックしておくとよいと思います。
 アクセスについては生活文化博物館の ご利用案内 をご覧ください。

c0187004_9524230.jpg 生活文化博物館では、学芸員の川本さんにご案内いただきました。
 川本さんのお話では、元々、東京家政学院大学附属図書館の特別コレクション「大江文庫」が所蔵する江戸時代の料理書を13年前に展示したことがあるそうです。
 しかし、その際は、料理書だけであったためにもう一つ興味関心を引くことができなかったという反省があったそうです。
 その反省にたって、江戸料理を再現した標本を作ることにしたそうです。それが2009年のことだそうです。
 それ以後3年の年月をかけて標本が完成しました。そこで特別展を開催することにしたとのことでした。
 
c0187004_953342.jpg 生活文化博物館は、一号館の一階にあり、大学受付で入門証をいただいてから入館します。
 右最上段の写真は、正門から見た大学建物ですが、左手が管理棟で、ここに受付があります。
 博物館内は、右写真のように相当の展示できるスペースがあり、第1から.第16展示ケースまで展示されていました。

 第1および.第2展示ケースには料理書が展示されています。
 第3展示ケースから第11展示ケースまでに再現料理が次のように展示されていました。
c0187004_954198.jpg  第3、第4展示ケース 豆腐料理
  第5展示ケース  鳥と卵料理
  第6展示ケース  大根料理
  第7展示ケース  鯛料理
  第8展示ケース  本膳料理
  第9展示ケース  会席料理
  第10展示ケース 甘藷料理・飯・揚物
  第11展示ケース 菓子
  (右写真は、第3展示ケースの豆腐料理の展示です。)

 詳細は、生活文化博物館の公式ブログ をご覧ください。

c0187004_9543562.jpg 再現料理は、全部で45点展示されていました。
 この標本は次のようにして作られたそうです。
 再現料理を実際に4点つくり、それにシリコンを流しこんで固めます。
 シリコンが固まったら中の料理を抜き取り型をつくります。右写真の2段目が型です。
 その型に、ビニール樹脂を流し込み、固まったものに彩色をしました。
右写真3段目が、彩色前の標本、4段目が彩色後の標本です。
 この彩色は、実物に近くなるように何回もやり直しが行われたそうです。
 そして、料理にあった食器も、浮世絵等を参考に揃えたそうです。

 こうした話を川本さんからお伺いすると、この標本の製作には、相当の時間とお金と手間がかかっていることがよくわかります。
 東京家政学院大学名誉教授の江原絢子先生をはじめとした製作にかかわった人たちの努力に頭が下がる思いでした。

 こうして、出来上がった再現料理の標本ですが、明日以降、その中で代表的なものをいくつかご案内しますが、今日は、「豆腐百珍(とうふひゃくちん)」のなかから、「鶏卵様(たまごどうふ)」をご紹介します。

c0187004_9545250.jpg 「豆腐百珍」は、天明2年(1782)に刊行された100首類の豆腐料理の調理方法を解説した料理本です。
 「鶏卵様(たまごとうふ)」は 豆腐を使ってゆでたまごに見立てています。黄身は人参、白身部分が豆腐です。
 豆腐は、くず粉を入れてよくすった豆腐の真ん中に、よく煮た人参をおいて、豆腐で包み込んで作られています。
 真ん中の黄身の部分をよく見ると人参であることがわかります。


 こうした標本をみていくと江戸っ子の料理に対する情熱と工夫がよくわかります。
 料理の内容だけでなく、料理名のおもしろさも素晴らしいものと感心させられます。
 こうした標本を一つ一つ丁寧にみていくには、1時間程度はかかると思います。
 昨日は、川本さんに丁寧に説明いただいたので、1時間を超えてしまいました。
 川本さん、長時間にわたりご丁寧な説明をいただきありがとうございました。

 今後、標本を一堂に展示する計画はないとのことですので、江戸文化歴史検定を受験されようと考えている方は、可能であれば開催期間中にご覧になるとよいかと思います。
 ただし、生活文化博物館が開館しているのは、残念ながら平日のみですのでご注意ください。
 それと、本日(12月26日)から1月5日まで大学が冬休みとなるので休館だそうです。
 
 なお、標本の撮影は、生活文化博物館から特別許可をいただいて撮影したものです。
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by wheatbaku | 2013-12-26 09:53 | Trackback
「江戸の食文化」勉強方法(江戸の食文化1)
 江戸検の来年の「お題」が決まりました。「江戸の食文化 ~舌と胃袋で見直す現代人のルーツ~」だそうです。
c0187004_1145338.jpg

 「徳川将軍15代」「忠臣蔵」と政治分野が2回続きましたので、久しぶりの文化分野のお題と言っていいと思います。
 このお題について、「幅が広過ぎて勉強をどうしたら良いかわからないのですが・・・・」というお問い合わせをいただきました。

 このご質問は回答しにくい難問だと思います。
 それは次のような事情からです。
c0187004_11183723.jpg 過去にだされた「幕末」「徳川15代将軍」そして昨年の「忠臣蔵」といった政治史や事件史についての勉強方法は、だいだい時間の推移とともに勉強していけば大きなモレはありません。勉強の深度が浅いか深いかという差だと思います。
 しかし、過去に出された「旅」や「江戸の名所」同様に、「江戸の食文化」といった文化分野は、入り口が多様です。
 多様であるがためにどう勉強したらよいだろうと迷われるのかもしれません。
 しかし、多様なアプローチがある場合には、これが正解と言う勉強方法はなく、受験される方がご自分にあったアプローチをすればよく、それこそ、全てが正解ということになると思います。
 こうしたことから、受験される皆さんに一様にあてはまるアドバイスするというのが大変しくにくテーマであると考えています。

 しかし、「私であれば、こう勉強する」という私自身の勉強方法は、書くことができます。
 ですから、お問い合わせの回答になるかどうかはわかりませんが、私が考える「江戸の食文化」受験のための勉強方法を書いてみます。

c0187004_1119065.jpg 文化部門については、アプローチ方法が多様であるため、勉強をし忘れる分野(いわゆるモレ)ができる可能性があります。
 そこで、モレが生じないように、最初に全体像を把握したうえで勉強を始める必要があると私は考えます。
 そこで、私は、「江戸の食文化」について、勉強すべき項目はどのような項目があるかをまず最初に考えてから、勉強しようと思います。
 私が現時点で考える「江戸の食文化」で勉強すべき項目は次の通りです。

1、江戸の料理・食べ物
 江戸時代には、主食や副食としてどんなものが食べられていたのだろうという項目になります。 
 江戸を代表する「寿司、鰻蒲焼、天麩羅・蕎麦」は、その歴史を含めて必須だと思っています。
 その他、個人的には私は和菓子が大好きなので菓子類も勉強しようと思っています。

2、階層ごとの食事
c0187004_925112.jpg 江戸時代、将軍の食事と庶民の食事は当然違っていました。
 そこで、将軍や御台所の食事はどうだったのか、それに対して庶民の食事はどうだったかを勉強します。
 さらに、天皇・公卿・大名・武士の食事、そして朝鮮通信使、勅使の饗応の食事や幕末のペリー来航時の饗応内容などもチェックする必要があると思っています。

3、食材
c0187004_9262145.jpg 江戸時代、食材は非常に豊富になりました。
 そこで、食材についても勉強が必要です。
 野菜、魚、肉、加工品、さらに調味料まで必要だと考えます。
 野菜は江戸野菜、魚は江戸前の魚は必須でしょう。
 調味料は、酒、砂糖、塩、酢、醤油、味噌、味醂ですね。

4、流通・販売ルート
c0187004_927103.jpg 食材の流通ルートとして、魚市場や青物市場が発達しましたので、その勉強、そして上方から酒などを運んだ「樽前廻船」から棒手振りまでの流通ルートの仕組みも勉強する必要があるでしょう。
 また、江戸時代には様々な料理店も出現しました。
 八百善を代表とする高級料理店や庶民が利用していた屋台などの勉強は必須だと思います。
 さらに、「江戸買物独案内」に載っている名店、特に豊島屋や高崎屋などいまでも存続している老舗まで勉強したいと思っています。個人的に老舗めぐりは大好きですので・・・

5、季節の料理
 お正月の鏡餅から始まって年越しそばまで、季節ごとの行事に伴う料理がたくさんありますので、これは絶対勉強する必要があると思います。
 これは過去にブログに書いたことがありますが結構楽しいです。

 とりあえず以上の項目ですが、勉強の進展に応じて、項目はさらに増えていくことになると思います。
 これから、このブログで「江戸の食文化」についても書いていきますが、こうした項目について勉強しながら順次書いていこうと考えています。

 それでは、次に何の本で勉強するかです。
 詳細については後日改めて書こうと思いますが、最初に読む本は、食文化全体について書いた本を読んでアウトラインを掴んで、各分野の勉強をするのがよいと思っています。
 この記事を書くにあたっていくらかの本を読みましたが、全体的に書いたものとしては「江戸の料理と食生活」や「江戸グルメ誕生」がよいと思いました。 
 一読しましたが、わかりやく読んで楽しい内容にもなっています。
 「江戸の料理と食生活」は、原田信男編小学館発行2800円で、「江戸グルメ誕生」山田順子著講談社発行1400円でした。

 こんな雑駁な内容でご参考になるかどうかわかりません。しかし、こんな雑駁なお話でも受験対策の勉強を考えるうえでいくらかでもお役に立てばうれしいです。
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by wheatbaku | 2013-12-25 07:57 | 江戸の食文化 | Trackback
北町奉行所跡(八丁堀八重洲散歩6)
 八丁堀八重洲散歩の最後のご案内場所は北町奉行所跡です。
 北町奉行所跡の石碑は、現在2ヶ所にあります。
c0187004_821573.jpg 一つは丸の内トラストシティN館東側、もう一つが東京駅八重洲北口の先にある大丸デパートのハズレにあります。
 丸の内トラストシティは、もとは東京駅の側線や東京鉄道管理局等のあった東京駅八重洲口に隣接したJRの鉄道用地でしたが、その土地を森トラストが購入して建設した高層ビルです。
 北側の丸の内トラストタワーN館と南側の丸の内トラストタワー本館の2棟が建っています。
  北町奉行所は本館の部分にあったようですが、「北町奉行所跡」の石碑は、N館の東側にあります。

 
 北町奉行所というのは、南に対する北ということで、常盤橋門内にあった時代とここ呉服橋門内にあった時代がありますが、文化3年(1806)にここに移転してきた後、幕末まで、北町奉行所はここにありました。
c0187004_1002513.jpg 遠山金四郎つまり遠山左衛門尉景元は、天保11年から天保14年まで、3年間、北町奉行を勤めていました。
 北町奉行所は、約2560 坪あり、表門は、南町奉行所と同じように東向きにありました。

 話は変わりますが、忠臣蔵の吉良上野介の屋敷があったのは本所であったというのは有名な話です。
 吉良上野介の屋敷は本所に移転する前は、呉服橋門内にありました。しかも、北町奉行所と同じ場所が元禄時代は吉良上野介のお屋敷でした。

 さて、東京都教育委員会が立てた碑は、以前は、東京駅八重洲北口を出た国際観光会館前に設置されていました。c0187004_82277.jpg 
 この碑は、結構目立ちましたので、江戸に関心をもっていなかった頃の私も、この碑は知っていました。
 東京駅の改修工事後は東京駅の八重洲北口近くに移りました。
 これが非常にわかりにくい場所に設置されています。ここを案内すると多くの人が「こんな所にあるのかぁ」と驚きます。

 そこで、その碑の設置されている場所を説明します。
 八重洲北口改札を出て、直進すると大丸になります。
 この大丸に入店せずに、大丸と通路の境にある壁に沿って北にまっすぐ進みます。
 するとその先は、出入り口になっています。出入り口の先には丸の内トラストシティがあります。
 その出入り口の足元に碑があります。

 下図は東京駅の構内図ですが、青でマークした部分が八重洲北口改札です。
 赤で囲った部分が北町奉行所跡の碑の説明部分です。この部分の最も左の部分に碑があります。
 この説明でわかりますでしょうか?
c0187004_81802.jpg



 北町奉行所跡の碑は、現在、八重洲北口を出た先にあるグラントウキョウノースタワー前の歩道脇に移転しています。
 新しい設置場所は、下記地図を参照してください。
 また、新しい記事もご覧ください。
 
    ⇒ 
北町奉行所の碑の設置場所が変わっていました。』
  2016年5月13日追記





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by wheatbaku | 2013-12-23 18:31 | 大江戸散歩 | Trackback
ヤン・ヨーステン記念碑(八丁堀八重洲散歩5)
 八重洲通りと中央通りが交差する交差点が「日本橋三丁目交差点」です。
c0187004_15321248.jpg この日本橋交差点の東京駅側の八重洲通りの中央分離帯に「ヤンヨーステン記念碑」があります。
 正しくは、「日蘭修好380周年記念碑」と言います。
 しかし、これに気が付く人がほとんどいないのが大変さびしいです。
オランダ人ヤン・ヨーステンは、「八重洲」という地名の語源となった人物です。

 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの直前に豊後国にオランダ船が漂着しました。
そのオランダ船リーフデ号に載っていたのがオランダ人ヤン・ヨーステンとイギリス人ウイリアムアダムスた ちでした。
 リーフデ号にのっていた船長ヤコブ・クワッケルナックをはじめ他の船員たちは、オランダに帰りましたが、ヤンヨーステンとウイリアムアダムスの二人は日本に止まり、家康の外交顧問となりました。
ウイリアムアダムスは三浦半島に土地を拝領し、日本橋に屋敷を与えられました。そこで三浦按針という日本名を名のりました。

 一方、ヤンヨーステンは屋敷を現在の和田倉門~日比谷公園間の内濠沿いに与えられました。
 そこの地が彼の名にちなんで八代洲河岸(やよすがし)と呼ばれました。
c0187004_1534946.jpg その後、明治5年(1872)に馬場先門から鍛冶橋にかけての一帯が八重洲町一丁目、同二丁目と呼ばれました。しかしこの町名「八重洲町」は、昭和4年(1929)にが麹町区丸ノ内二丁目と改称され、八重洲の町名がなくなりました。
 そして、それから25年後、戦後の昭和29年(1954)になって、こんどは中央区に町名の「八重洲」が一丁目から六丁目まで復活しました。
 こうして、東京駅の東側が「八重洲」という町名になりました。
 町名の元となったヤン・ヨーステン自身は、俺の屋敷はここにあったんじゃないぞと思っているかもしれません。

 日本橋三丁目交差点は、江戸時代の初期は、紅葉川と東海道が交差する場所でした。
 ここに橋がかかっていて「中橋」とよばれていました。
 日本橋と京橋の中という意味っだと思います。
 ここが中橋ですので、中橋南地というの、このあたりを指します。
 中村勘三郎が始めた芝居小屋を建てたのはこの辺りだと言われています。

 ヤン・ヨーステン記念碑には、二つの羅針盤の輪が天球儀の形に組み合わされています。
c0187004_15325698.jpg  羅針盤は、当時世界をリードしていたオランダの航海技術の象徴であり、また天球儀は”時”の象徴でもあります。
 左側の頭部がヤン・ヨーステン像、右側の帆船が日本漂着の際、彼が乗り組んでいたとされるオランダ船リーフデ号です。
 中央上部には当時のオランダの国策会社東インド会社のマークが置かれています。
 中央下部の図柄は、古地図で方角を示すのに使われたもので太陽をモチーフにしています。四隅は波=海を図案化したもので、これも古地図にヒントを得ています。

 赤印が「ヤン・ヨーステン記念碑」です。

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by wheatbaku | 2013-12-23 08:21 | 大江戸散歩 | Trackback
歌川広重住居跡(八丁堀八重洲散歩4)
 今日は「歌川広重住居跡」のご案内です。

 「歌川広重住居跡」は、ブリヂストン美術館の南側にあります。
c0187004_1454854.jpg 東京駅からですと、八重洲通りを直進しブリヂストン美術館を過ぎた角を南進するとすぐあります。
 「歌川広重」より「安藤広重」の方が名前が通っているように思いますが、浮世絵師としての正式な名前は「歌川広重」です。
 ここは、浮世絵師歌川広重が、嘉永2年(1849)から 安政5年(1858)に 61歳で死ぬまでのおよそ十年間を過ごした住居跡です。

 歌川広重は、幕府の定火消組同心安藤源左衛門の長男として、八重洲河岸の定火消屋敷で生まれ、幼名は徳太郎、俗称は重右衛門、のち徳兵衛、さらに後年鉄蔵と言いました。
c0187004_1513357.jpg 広重が生まれた定火消屋敷は、現在、重要文化財である明治生命館となっています。
 ここは元々明治生命の本社として昭和9年に建築された建物で平成9年に重要文化財に指定されました。
 歌川広重が13歳のとき父母がなくなり、広重は家督を継いで定火消同心になりましたが、文化8年(1811)15歳のとき歌川豊広の門人となり、翌年には広重の号を与えられ、歌川を称することを許されました。
 26歳の時には、火消同心の家督を譲って浮世絵師に専念しました。
 天保3年(1832)保永堂から出した「東海道五十三次」は大ヒットし、それ以来、風景画家として有名になりました。
c0187004_1543381.jpg 特に、晩年に描いた「名所江戸百景」は、私がお江戸散歩で江戸を案内する際に、大変お世話になっている作品ですが、この「名所江戸百景」は安政3年(1856)2月から同5年(1858)10月にかけて制作されたもので、この住居で描いた代表作です。

 歌川広重の隣は、幕府の奥絵師(御用絵師)狩野四家のうち、中橋狩野家のお屋敷でした。
 狩野四家とは、木挽町狩野家、鍛冶橋狩野家、中橋狩野家、浜町狩野家です。
 中橋狩野家は、狩野家の宗家にあたりますが、御用絵師として活躍したのは鍛冶橋狩野家でした。


赤印が「歌川広重住居跡」の説明板の設置場所です。

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by wheatbaku | 2013-12-22 08:31 | 大江戸散歩 | Trackback
久安橋と松平越中守屋敷跡(八丁堀八重洲散歩3)
 京華スクエアの「八丁堀与力同心組屋敷跡」の説明から、与力同心の仕事についての説明を挟みましたので「八丁堀八重洲散歩」から別路にいってしまいましたが、今日から「八丁堀八重洲散歩」に戻ります。

 今日は、「久安橋と松平越中守屋敷跡」についてご案内します。
 八丁堀から東京駅八重洲中央口に向かう大きな通りが「八重洲通り」です。
c0187004_14543150.jpg この「八重洲通り」が首都高速都心環状線を跨ぐところに架かっているのが「久安橋」です。
久安橋のたもとは「久安橋公園」となっていて。そこに「久安橋」について書いて石碑があります。(右下段写真)
 それによると、 「久安橋」は、江戸時代に松平越中守の屋敷前に架けられ「越中橋」と呼ばれていましたが、明治元年(1868)に江戸幕府の名残りである「越中」の名が取られ「久安橋」と改称されました。
 「久安橋」の名は、昔この付近に御坊主久安の拝領地があったことに因むといいます。
 現在の橋は関東大震災の復興事業で建設は昭和5年3月に八重洲通りの造成とともに、架け替えられました。

 最初に「越中橋」の名前の基になった「松平越中守上屋敷」について説明します。
 松平越中守というのは、幕末の桑名藩松平家のことです。
c0187004_14545969.jpg この松平家は久松松平家ともいい、徳川家康の母於大の方が再婚した久松俊勝の三男定勝の家柄で、家康の異父弟にあたります。
 この久松松平家の本家は、伊予松山藩松平家ですが、桑名藩松平家は、その分家筋になります。
桑名藩松平家は、桑名藩の前は白河藩藩主でした。この白河藩時代の有名な藩主が、寛政の改革を実施した松平定信です。
 松平定信が藩主の頃は白河藩でしたが、その子供定永の代に桑名に転封となりました。
 この松平家の白河から桑名への転封は、桑名藩の奥平家が武蔵の忍藩へ移り、忍藩の阿部家が白河に移るという三大名家が同時に移る転封でした。このように三大名家が同じ時期に転封するのを三方領知替えといいます。
 また、桑名藩の最後の藩主は、松平定敬(さだあき)で、京都守護職会津藩主松平容保の実弟です。
 松平定敬は、京都所司代となって、京都守護職を勤めていた兄を助けました。
 戊辰戦争では、会津若松、函館と最期まで戦いました。
 桑名藩松平家の上屋敷は、約9000坪あったようです。
 八重洲通りは、桑名藩松平家の上屋敷跡の真ん中を横断して造られています。
 そして、松平家の表門があった場所あたりに、「久安橋」が架けられています。

c0187004_1456252.jpg  この橋が現在またいでいるのは、首都高速都心環状線という高速道路ですが、これは、ここにあった楓川が 昭和39年に埋め立てられ、高速道路となったものです。
 右写真の道路が都心環状線で、中央奥に架かっている橋が「久安橋」です。
 楓川(もみじがわ)は、八丁堀と合流し、南北に弾正橋から海運橋・兜橋を経て日本橋川に注いでいた人工河川です。この河川が作られたのは、江戸時代の初めです。
 江戸は、家康が入府したころは、江戸城の下まで海が入り込んでいました。現在の日比谷公園や皇居外苑は海の中でした。
 そして、現在の日本橋や丸の内・八重洲は、江戸湾に突きだしていた半島でした。
 八丁堀は当然海でした。そこを埋め立てて陸地をしたのです。
 その工事をした頃、海辺を埋め残して運河としたのが楓川です。
 つまり、現在高速道路となっている近辺は江戸時代初めは海辺だったということになります。

 赤印が久安橋です。

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by wheatbaku | 2013-12-21 09:39 | 大江戸散歩 | Trackback
  

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