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法務省旧本館(霞が関赤坂散歩4)
 桜田門から南方を見ると、赤いレンガ造りの明治の旧館が目に入ります。
 これが「法務省旧本館」です。ここも「霞が関赤坂散歩」でご案内しました。
 「法務省旧本館」は、姿の通り「赤レンガ棟」とも呼ばれているドイツネオバロック様式の庁舎で重要文化財に指定されています。
 明治のはじめ、明治政府は、官庁を集中させる計画をたて、ドイツ人建築家エンデとベックマンをドイツから招聘しました。
c0187004_1631725.jpg そして、 基本設計はエンデとベックマンが行い、実施設計と工事監理は河合浩蔵が行って、明治28年に竣工したのが司法省建物(現在の法務省旧本館)です。

 なお、中央官庁集中計画ですが、司法省を起工しましたが、敷地が非常に悪かったため、計画の全体を変更せざるをえませんでした。
 そのため、日比谷練兵場跡の海側半分を占める軟弱地は公園(現在の日比谷公園)とし、司法省の隣地に裁判所を設置することになりました。
c0187004_1713331.jpg 地盤が軟弱であったのは当然だと思います。家康が江戸に入った頃には、日比谷は海であったのですから。

 司法省建物は、施工中の明治24年に濃尾地震が発生したため、耐震性の強化にも力を注いで建設されました。
 そのため、関東大震災では、煉瓦外壁が鉄材で補強されていたことでほとんど被害がありませんでした。
 しかし、昭和20年の空襲では、壁面と床以外を全て焼失してしまいました。
 その後、戦災で大きな被害を受けた建物は昭和25年に修復され法務省本館として利用されていましたが、平成7年当初の姿に復原されました。

この敷地は江戸時代は、米沢藩上杉家の上屋敷でした。
c0187004_1631369.jpg  この斜め向かい側は、総務省ですが、そこには、広島藩浅野家の上屋敷がありました。
 上杉家と浅野本家といえば、まさに忠臣蔵の敵同士となります。
 その二藩の上屋敷がごく近くにあったことになります。
 もっとも、上杉家の表門は、江戸城を向いていましたので、表門同士が向き合うという位置関係ではありませんでした。 
 桜田門寄りの法務省の敷地の縁に米沢市が設置した「米沢藩上杉家江戸藩邸跡」の碑が設置されています。(右写真)

 赤印が「法務省旧本館」です。青印が「米沢藩上杉家江戸藩邸跡」の碑です。

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by wheatbaku | 2014-01-31 08:45 | 大江戸散歩 | Trackback
霞が関跡(霞が関赤坂散歩3)
 「霞が関赤坂散歩」では「霞が関跡」もご案内しました。

 現在は、「霞が関」と言えば中央官庁街の代名詞になっています。
c0187004_15563687.jpg しかし、この「霞が関」という名前が関所の名前だという事をどれだけ多くの方が知っているでしょうか。
 霞ヶ関という名前は、元々は、関所の名前で、古代までさかのぼり、日本武尊(やまとたけるのみこと)が蝦夷の襲撃に備えて、武蔵国に置いた関所が「霞ヶ関」と名付けられたといいます。
 霞が関という名前は「武蔵野地名考」に、「その名前は関所から雲や霞の向うに景色を眺めることができるということに由来している」と書かれているそうです。

 霞が関がどこに置かれたかということは正確にはわかりません。
 今のところ、霞が関のあったとされる場所として、千代田区、東京都多摩市、そして埼玉県狭山市が考えられています。
 いずれも、江戸時代までは「武蔵国」と言われた地域です。
 江戸名所図会では、「霞が関の旧蹟」として次のように書いてあり、千代田区の霞が関を「霞が関」としていいます。
 桜田御門の南、黒田家と浅野家との間の坂をいう。往古(むかし)の奥州街道にして関門のありし地なり。(中略)「武蔵風土記」に、「荏原郡、東は霞が関に限る」とあり。この地いまは豊島郡に属せり
 
 

 「霞が関跡」の説明柱は東京メトロ「霞ヶ関」駅A2番出口を出たところに設置されています。(右上写真)
 なお、住居表示名は「霞が関」で、東京メトロの駅名は「霞ヶ関」です。
 住居表示名は「が」で、駅名は「ヶ」となっています。昭和42年まで、住居表示名が「霞ヶ関」だったそうですので、駅名が元のままなのだと思われます。
c0187004_15575052.jpg この説明柱の前の建物は、合同庁舎で、主に総務省が入っていますが、江戸時代には、秋広島藩浅野家の屋敷がありました。
 総務省の南側には外務省があります。
 外務省の場所は、江戸切絵図を見ると、江戸時代には、松平美濃守となっています。
 この松平美濃守とは、福岡藩黒田家の事です。
 江戸時代には、一国を拝領している外様大名に対して、松平姓を与える松平賜姓が行われたため、外様大名で松平姓を名乗っていた大名がいます。
 福岡藩黒田家もその一つです。
 そのため、松平美濃守と切絵図には表示されています。c0187004_1557610.jpg  ちなみに、総務省の安芸広島藩の上屋敷は、松平安芸守となっています。
 これも松平賜姓の一つです。
 その、外務省と総務省の間にある坂が、「霞が関坂」です。
 これも、坂下に霞が関があったことにちなむ坂名です。
 右中段の写真は、坂下から眺めた「霞が関坂」です。左にある建物が外務省です。
 右最下段の写真は、坂の上から眺めた「霞が関坂」です。

 今年の大河ドラマは「軍師官兵衛」です。
 福岡藩黒田家は、官兵衛の息子黒田長政が初代藩主です。
 黒田官兵衛ゆかりの地は、姫路・福岡などで、東京にはゆかりの地はあまりありません。
 福岡藩黒田家屋敷跡は、数少ない東京の黒田官兵衛ゆかりの地です。


 赤印が「霞が関」の説明柱がある場所です。 青印が「霞が関坂」です。

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by wheatbaku | 2014-01-30 09:08 | 大江戸散歩 | Trackback
大岡越前守屋敷跡②(霞が関赤坂散歩2)
昨日は、大岡越前守忠相の経歴を中心に説明しましたが、今日は、大岡越前守忠相の主な業績について書いていきます。

 大岡越前守忠相というと芝居や映画・テレビドラマの影響で名奉行という評判が先行していますが、実は、裁判例はあまりありません。
 実は、裁判官よりも行政官の面の方に多くの業績を残しています。
 そこで、大岡越前守忠相の業績を上げておきます。

1、防火対策
c0187004_16122120.jpg 江戸は言うまでもありませんが、火事の非常に多い町でした。そこで、大岡越前守忠相は、江戸の防火対策に力をいれました。
 まず、燃えない家並にするために、防火に優れた藏造り、塗り屋、瓦屋根、牡蠣殻(かきから)屋根を奨励しました。
 そして、それまでは大名による所々火消や方面火消、旗本による定火消だけであった江戸の火消部隊に加えて、町人による町火消し(いろは四七組)を創設し、火消部隊を強化しました。

2、評定所の門前に目安箱を設置し、広く江戸市民からの提案を募集しました。

3、この目安箱に、小石川伝通院前に住む小川笙船が投書して提案した養生所を小石川に設立し、小川笙船などを担当医師とし、町奉行所が運営にも関与しました。

c0187004_16123971.jpgここまでは、多くの人がご存知だと思いますが、その他、次のような経済政策や農政面でも重要な施策も講じて大きな業績を上げていることは、あまり知られていないように思います。

 特に大岡越前守忠相が力を入れたのが経済政策でした。

4、米価引き上げや物価引き下げなどの物価政策実施
 享保期には、新田開発が進むなどして、市場に出回る米が増加しました。すると米価が下がってきました。  当時、武士は給料を米でもらっています。そのため、米価米価が安くなるということは、武士の給料が安くなるということになります。そこで、米価を上げようと努力したのです。
 一方、米以外の物価は上がり傾向にありました。そのため、物価を引き下げるために、木綿・茶・醤油・味噌・酢・塩・酒・紙などを取り扱う問屋などに組合を結成させ、物価統制をはかろうとしました。

5、通貨の安定のため、江戸で流通する金貨と上方で流通する銀貨の相場の安定を両替商に指導しました。 これは、大岡忠相と両替商との戦いの様相を呈するほどのやりとりだったようです。

 また、大岡越前守忠相は町政にかかわるだけでなく、農政にも関与して実績をあげています。
 すなわち、享保7年に関東地方御用掛の兼任を命じられて武蔵野新田の開発を推進し成功しています。
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by wheatbaku | 2014-01-29 10:10 | 大江戸散歩 | Trackback
大岡越前守屋敷跡(霞が関赤坂散歩1)
 今日からは、「霞が関赤坂散歩」で訪ねた史跡のご案内をしていきたいと思います。
 今回の「霞が関赤坂散歩」のコースは次の通りです。

 大岡越前守上屋敷跡(弁護士会館) ⇒ 霞が関旧跡 ⇒ 法務省旧本館 ⇒ 桜田門外の変跡(警視庁前) ⇒ 桜の井戸跡(井伊家上屋敷) ⇒ 日本水準原点標庫 ⇒ 憲政記念館 ⇒ 渡辺崋山誕生地 ⇒ 松江藩松平家上屋敷跡(衆議院議長公邸) ⇒ 赤坂見附跡 ⇒ 赤坂豊川稲荷 ⇒ 大岡越前守中屋敷跡 ⇒ 赤坂不動尊(威徳寺) 

 今日は、大岡越前守上屋敷跡についてご案内します。
c0187004_0132071.jpg 東京メトロ霞が関駅の B1番bまたはB3番a出口 を上がると目の前に弁護士会館が建っています。
 北隣が、東京簡易裁判所、西隣が東京地方裁判所となっていて、さらに法務省や検察庁の建物もたっている一画に弁護士会館はあります。
 右写真の中央が弁護士会館で、左奥が東京地方裁判所・高等裁判所で、右隣が東京簡易裁判所・家庭裁判所です。
 この弁護士会館がある所が江戸時代は、大岡越前守の上屋敷でした。
 名裁判官と言われた大岡越前忠相の上屋敷の跡に法曹関係の役所が建っているのも不思議な縁を感じます。

c0187004_0142510.jpg 江戸切絵図を見ると、大岡越前守上屋敷には、大名を表す家紋が付いています。
 つまり、大岡越前家は大名であるわけです。
 町奉行は、旗本が就任する役職です。
 ですから、大岡越前守忠相も旗本でした。
 その大岡越前守忠相は、寛延元年(1748)に三河国西大平(現岡崎市)1万石を領し大名となりました。
 町奉行就任した者の中で、大名になったのは、大岡越前忠相一人だけです。
 それだけ、優秀であったということだと思います。

それでは、大岡越前守忠相の経歴を書いておきます。
延宝5年(1677年)    旗本大岡忠高(1700石)の四男として生まれる。
  辻達也先生の「大岡越前守」によれば、3000石以上が上級旗本で 、2000石程度は中級旗本とのことであり、大岡忠相は中級旗本の家に生まれたことになります。
貞享3年(1686年) 10歳の時、 同族の1,920石の旗本大岡忠真(ただざね)の養子となる。
貞享4年(1687年) 11歳で、5代将軍徳川綱吉に初めて御目見する。
元禄13年(1700年) 24歳、 養父がなくなり、家督を継ぐ。
元禄15年(1702年) 26歳、 書院番
宝永元年(1704年)30歳 、徒頭
宝永4年(1707年)33歳、 使番
宝永5年(1708年)34歳、 目付
正徳2年(1712年)36歳、 山田奉行に就任、従五位下能登守に叙任。
 26歳で書院番士となり、その後、順調に昇進していき、36歳で遠国奉行の山田奉行となっていますので、大岡忠相は、相当優秀であったと推測できます。
 また、最初の名乗りが「能登守」であったことも注目されます。
享保元年(1716年)2月40歳 普請奉行
 吉宗が将軍となるのは8月ですので、普請奉行への就任は、7代将軍家継の時代になり、8代将軍吉宗が行った人事ではありません。
享保2年(1717年)41歳 南町奉行。
 当時は、町奉行は三人つまり、南町奉行・北町奉行そして中町奉行です。その内の中町奉行の坪内定鑑(さだかね )の名乗りが大岡忠相と同じ「能登守」であったため、このときに忠相は「越前守」と改めました。
 また、41歳での町奉行就任は、過去の町奉行と比較して若くして就任したことになりますので、これは明らかに吉宗の抜擢と言ってよいと思います。
 例えば、坪内定鑑は当時70歳で、就任時58歳でしたので、明らかに若いことがわかると思います。
享保5年(1720年)    町火消「いろは四十七組」創設。
享保7年(1722年)    地方御用を拝命、小石川薬園内に小石川養生所を設置、目安箱設置
元文元年(1736年)60歳、寺社奉行
寛延元年(1748年)72歳、 奏者番を兼任し、三河国西大平(現岡崎市)1万石を領し大名となる。
寛延4年(1751年)6月 75歳、  大御所・吉宗が死去
           11月 寺社奉行を辞職
           12月 死去、享年75歳
                墓所は神奈川県茅ヶ崎市堤の窓月山浄見寺。

 大岡越前忠相の町奉行在職年数19年になります。
 町奉行は大変激職で、任期中に亡くなる奉行が多い中で。19年も勤められることは異例のことです。
 ちなみに19年以上勤めた町奉行は大岡越前忠相を入れて4名のみです。
 神尾元勝 23年  筒井正憲20年   小田切直年19年


 赤印が弁護士会館です。

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by wheatbaku | 2014-01-28 08:17 | 大江戸散歩 | Trackback
「新しき門出」(大河ドラマ「軍師官兵衛」第4回) 
一昨日から今日まで用事が立て込んでいてなかなかパソコンに向えません。
 昨日の「霞が関赤坂散歩」はスマホからアップしたものです。
 スマホからのアップは大変ですね。

 今日は、少し時間がとれたのでパソコンに向っています。
 昨日の「軍師官兵衛」は、官兵衛が結婚し家督を継ぐことがメインでした。
 そこで、黒田官兵衛の正室光(てる)のお話です。

 光は、播磨国志方城主・櫛橋伊定(これさだ)の娘で、天文22年(1553)生まれです。
 櫛橋家は、御着城主小寺政職と親戚関係にあり、光は、小寺政職の姪と言われているようです。

 永禄10年(1567)に二人は結婚することになりました。
 官兵衛22歳、光15歳でした。
 二人を結びつけたのは、「軍師官兵衛」で描かれていたように、小寺政職の考えによるもののようです。
 小寺政職とすれば、重臣の黒田家と櫛橋家を結びつけ、小寺家の安泰を計ろうとしてと言われています。
 しかし、小寺政職の意向だけでなく、櫛橋伊定の思惑もありました。
 もう22歳となっていた黒田官兵衛の能力の高さは小寺家中の中でも評判だったようです。
 櫛橋伊定自身も官兵衛を高く買っていたともいいます。
 c0187004_1283427.jpgこうした評判を受けて、櫛橋伊定も官兵衛と姻戚関係を結んでおくことが得策と考えて、娘を嫁がせることを望んでいたようです。
 こうしたことは、櫛橋伊定が、官兵衛に「赤合子(ごうす)の兜と銅丸具足」を贈っていることをみてもわかります。
この櫛橋伊定からもらった「赤合子(ごうす)の兜と銅丸具足」は現存しています(右写真)が、「軍師官兵衛」のタイトルバックに出ている鎧兜が、これではないかと思っています。
なお、合子というのは蓋つきのお椀のことだそうですが、確かにお椀のかたちをしています。

 黒田官兵衛は、側室をもたなかったことでも有名です。
 ですから、光一人を生涯愛し続けたということになります。
 家系を維持する上から多くの男子を得るため側室を持つのが普通であった当時としては大変珍しいことです。
 幸いにもこの二人の間には二人の男子が授かりました。
 福岡藩初代藩主となる黒田長政と熊之助です。
 結婚の翌年には、松寿(しょうじょ:後の長政)が誕生します。
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by wheatbaku | 2014-01-27 12:28 | 大河ドラマ | Trackback
霞が関赤坂散歩
昨日は毎日文化センターの「江戸の名奉行ゆかりの地を行く」が開催されました。
真冬にもかかわらず、寒さを感じさせないあたたかさで楽しくご案内させていただきました,
ご参加いただいた方は、新たに受講いただいた方や体験参加の方もいて総勢20人でした。
素晴らしい皆様と楽しく散歩できました。
ご参加いただいた皆様ありがとうございました。

ご案内した主な場所は次の通りです。
弁護士会館(大岡越前守上屋敷跡)、法務省旧本館、彦根藩上屋敷跡、渡辺崋山生誕地、赤坂見附跡、豊川稲荷、赤坂不動尊などです。
詳しいご案内は火曜日からさせていただきますが、今日は散歩のスナップをアップさせてもらいます。

c0187004_0282097.jpg 法務省旧本館は、明治28年に建てられたレンガ造りの建物で、重要文化財に指定されています。
ここは江戸時代は、米沢藩上杉景家の上屋敷でした。
右写真は、その旨を書いた米沢市設置の記念碑を見る参加者のみなさんです。

c0187004_0283364.jpg 彦根藩井伊家の上屋敷の表門の脇に桜の井戸と呼ばれる大きな井戸がありました。
この井戸は、彦根潘の前に、ここを上屋敷として拝領していた加藤清正が掘ったものと言われています。
この井戸は、歌川広重の名所江戸百景の「外桜田弁慶堀糀町」にも描かれています。
写真右手が桜の井戸です。

c0187004_0284640.jpg 赤坂見付は赤坂御門の別名です。
見付とは城門のことです。
赤坂見附は、福岡潘主黒田忠之が石垣を築造しました。
その石垣に、明治初年に刻まれた几号水準点があります。
右写真は几号水準点を確認する参加者の皆さんです。


c0187004_0285867.jpg ご案内の最後は、赤坂不動尊です。
ここでは、79才になるご住職の御父様が伝教大師(最澄)御自作という御由緒のあろ御本尊様の由来、紀州徳川家との関係などについてご説明くださいました。
そして、平生は公開していない内陣内まで拝観させてくださいました。
ご長老様ありがとうございました。

そして、散歩の後は、いつもの飲み会です。
昨日は、15名の方が参加してくださいました。
江戸の話に盛り上がった2時間半でした、
そして最後に記念撮影です。パシャ!!
うれしそうな顔、満足そうな顔を見る度に、ガイド冥利に尽きると感じる一瞬です。
参加された皆様ありがとうございました。
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by wheatbaku | 2014-01-26 09:45 | Trackback
将軍の料理 (江戸の食文化15)
将軍の食事について、将軍が大名家に御成りになった際の料理について原田信夫著「江戸の食生活」に書かれていますの、これについて触れておきます。

c0187004_9591827.jpg 寛永元年(1624)正月23日に、大御所徳川秀忠が、紀州徳川家藩主徳川頼宣の竹橋屋敷に御成りになった際の献立が残されているそうです。


 まず御数寄屋で饗宴が開かれています。
 その時の料理の内容は次のようです。
 本膳  酒漬の鶴、鮑、鯛、栗生薑、縒り鰹、蜜柑。』昆布と椎茸煮染の七菜に鶴・土筆の汁と飯がつきました。
 二の膳 ユルカ(鱁鮧=アユの塩辛)の和え物、鳧(けり)の焼物、平貝、切蒲鉾
 肴として 京焼の皿に盛られた海鼠腸(このわた)が付き、
 金飩(きんとん)・水栗・御楊枝・豆の子・黒胡麻・砂糖・山芋煮染といった七種の菓子が供されました。

 その後、書院でのお祝いが始まり、初献は、亀足の鳥と雑煮に、餅・荒布、鯣(するめ)・菜・鰹の五種を亀甲に盛り、芋一重と餅五切に小串鮑と平鰹。
 このほかに、塩引き・鰭のものなど五種の二献と、鱲子(からすみ)、鯣など三種の三献といった内容で、祝賀の儀礼に行われる礼式である式三献が行われました。

 【亀足】とは、紙の端をひねった形が亀の足に似ているところから、 焼いた鳥肉の足や魚のくし焼きの手元を紙で巻き、その端をひねったものをいうそうです。


 続いて祝賀の能七番に狂言一番が催された後、書院にて本格的な七五三の膳に入ります。
 本膳は、塩引き・蛸・蒲鉾・和交(あえまぜ)・香の物・含め鯛・桶の七菜に湯漬け
 二の膳は、巻鯣(まきするめ)・削(そ)ぎ物・貝盛・鱲子(からすみ)・海月(くらげ)の五菜に集汁(あつめじる)と鯉の汁
 三の膳は、羽盛・船盛・鰭(ひれ)の物といった装飾を施した三菜に白鳥などの汁二品。
 さらに桜煎と福良煮の吸い物、これに焼き麩・饅頭・姫胡桃・蜜柑・羊羹・豆飴・御楊枝・結び昆布・柿・榧(かや)・千鳥など十一種の菓子が添えられています。

 これに合わせて三献が終わると、再び引き替えの御膳が出てきます。
 この本膳は、かき合え鯛・縒(よ)り鰹・生椎茸・独活(うど)・香の物・鱁鮧の和え物の七菜に飯と鶴の汁。
 二の膳は、鮒の生馴れ鮓・煎鳥・萵苣(ちさ)・塩鯛・焼き鱒の五菜に汁、
 三の膳は、焼き小鯛・白魚と昆布・韮の和え物の三菜に汁
 これに引き物として、雲雀の煎鳥と烏賊の塩刺と煎子と牡蠣の吸い物、さらに菓子として肥後蜜柑と枝柿が添えられていました。

 すごい品数ですね。さすが大御所に対する饗応御膳です。
 書くだけでも疲れるほどです。
 これでも、室町時代に比べて、全体として規模が縮小して簡便化が図られていると原田先生はコメントしています。
 初めて聞く料理名も結構ありますので、追々調べていきたいと思います。
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by wheatbaku | 2014-01-24 09:56 | 江戸の食文化 | Trackback
御台所の食べ物 (江戸の食文化 14)
 御台所の朝食、昼食、夕食の様子も「定本江戸城大奥」に書かれています。
 次に書かれているものは、毎日同じものが出されるわけではないのでしょうから、代表的なものが記されていると思いますが、御台所がどんな料理を食べていたのががわかります。


 朝御飯は、一の膳と二の膳が出されると書かれていて、内容は次のようです。
 一の膳には、①汁   ②平     ③置合(口取) ④チギ箱   ⑤鳩 
 二の膳には、①焼き物 ②お外物 ③御壺      ④香の物 が出されます。

 汁は味噌汁に落し玉子が出されます。
 お平は、サワサワ豆腐の淡汁(つゆ)で、これに花の香りを十分入れます。
 置合(口取)は、蒲鉾、クルミの寄せ物、金糸、昆布、鯛の切身、寒天等が出されたようです。
 
 そして、チギ箱という聞きなれないものが出されています。
c0187004_8582939.jpg 「チギ箱へは、朝に限り、御召し上がりの前、飯粒三を入れて蓋をなす。この箱は、例年芝神明大祭の時、境内の露店で売っているものと同じでその最も小さなものを、神明神宮から納めてもらったものだ」と書かれています。
 芝神明神宮は、現在は芝大神宮と名前を変えていますが、チギ箱は、いまも「千木筥」として売っています。
 芝神宮の「千木筥」が大奥で使用されているとは思いませんでした。
 右写真は、「だらだら祭り」の際に買ったものです。

 鳩は、本当の鳩ではなく、小さい京焼の蓋物の中に胡粉を塗った小さなおもちゃの鳩が一羽入れてあります。

二の膳の焼き物は   
 お外の物は玉子焼へ干海苔を巻いた物、
 御壺は、入り豆腐
 御壺は、煎豆腐
 香の物 瓜粕漬け、大根の味噌漬け

 二の膳の香の物は、御広敷からは来ず、奥御膳所から差し上げます。
 ご本膳の高香の物は非常にまずく臭気さえあるため奥御膳所の方ですべて準備しました。また御外の物も奥御膳所で準備しました。
 香の物が、非常にまずいというのは驚きました。
 そんなに御膳所の漬物担当は、腕が悪かったのでしょうか。
 あるいは、以前書きましたが、漬物を塩っぱく漬けていて、徳川家康に褒められた故事にもとづいて、塩っぱい漬物で、大奥では嫌われていたのかもしれません。

 二度目の御膳(昼食のこと)には、チギ箱がなくなりました。
 汁はしじみ、
 平はコチの切身、長芋、ぜんまい、
 置合は寒天、栗または慈姑(くわい)のキントン、ギセイ豆腐、金糸昆布、
 焼物は鯛、
 お外の物は海老、お壺は蒸玉子等でした。

 夕ご飯は一の膳がなく、二の膳のみでした。
 また朝と昼の食事の際には、全て黒塗りの椀を使用しましたが、三度目に限り陶器製の御茶碗で召し上がりました。
 夕ご飯には、お平がなくなりました。
 汁は鯉コク、
 皿は鯛の刺身、
 置合は蒲鉾、切身、羊羹、玉子焼き、鴨、鴈等、
 焼物は鱚、
 お外の物は鮑、
 お壺はからすみ等だったと書かれています。
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by wheatbaku | 2014-01-23 09:19 | 江戸の食文化 | Trackback
台所役人の役得 (江戸の食文化13)
 「定本江戸城大奥」には、台所役人の様子まで書かれています。
 それを読むと江戸城の下級の役人たちがどのように働いていたかがよくわかります。

 それによると
 日々の料理は、御台所人30人が調理します。
 これらの人は、肩??(かたぎぬ)を着ています。ただし、その肩??は極めて麁末(そまつ)なもので、皺が一杯寄ったものもあります。非常にみすぼらしいものです。
 70坪余りの大きな板の間に薄縁を敷き詰めた中央に幅2尺5寸、縦4尺もある俎(まないた)の向こうに御台所人が居並んで、魚を撃つものもいれば菜を調理する者もいます。
 また、皮を剝ぐ者もあれば実を裁る者もいます。
 煮る掛りの者は大きな俎の傍らに据え付けた幅2尺5寸、長さ3尺ばかりの七輪の周囲で働いて、大俎から物をうつして味をつけるのに大変忙しくしています。

 御菓子掛は、御舂屋(おつきや)または御用菓子屋から納めてきたものを取り扱うのに余念がありません。
 また、賄方40人は、名ばかりの袴を着けて、御台所人に使役されています。
 蒲鉾係りは市中の店と同じように朝未明より調子を合わせて敲きたてています。

 御料理人の中に役成(やくなり)というのがいます。これは味噌摺りの方に回され円形3尺もある石の擂鉢へ味噌2貫ばかりを一度に一度に入れ、長さ4尺56寸ばかりなる擂粉木一つ取って一心不乱に擂っている様子は、肩??着けているだけにおかしく見えます。


 さらに、台所役人の役得についても次のように説明されています。
 薄給なのに、贅沢な生活をしているのは 役得が多いためです。
 それは、御料理の一部を密かに取っておいて自分の物にするからです。
c0187004_9155727.jpg 例えば、鰹節などは2,3度ぐらい削っただけで残りはことごとく取り捨てて、魚もその中程を切り取って頭と尾は肉のついたまま棄てて、鳥もササミを使うだけでその他を捨てて、味噌も一鉢2貫目のうち5百目をはねのけて、蒲鉾は賄役からの注文20本に対して40本を作り20本を余して、そして自分たちで分けて家に持ち帰りました。
 こうしたことから、台所役人は大概この取りよけておいた物で自分たちの食料は十分まかなえるだけでなく、時には御広敷の役人に弁当や菜を売って商売をしていました。

 監視する役の御賄吟味役も、思いがけない役得を自分のものとしてしまうためか、台所役人の不正を見逃して咎めることがありません。
始めこそ不行跡と見られたこれらの行為も、後には、通例のこととなってしまい、誰も咎める人はなくなってしまいました。

 以上のように、台所役人の役得というより不正行為がなまなましく書かれていて、おもしろいと思いました。
 現代で言えば、横領または窃盗となるこのような台所役人の不正行為を行うのが通例となっているのですから台所役人にとっては、まさに天国だったことでしょう。
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by wheatbaku | 2014-01-22 09:07 | 江戸の食文化 | Trackback
江戸城での食糧調達 (江戸の食文化12)
 魚や野菜を江戸城ではどう調達していたかについても「定本江戸城大奥」に書かれています。

 魚類の御納屋は日本橋四日市にあり、御納屋に一名の役人(30俵ばかり)がいて、その下に手付という人が14~15名います。股引を穿いて尻を引きからげて小さな鍵を袂にいれて、毎日新場と魚河岸を巡回して目に留まった魚があるとすぐに袂にいれていた鍵を引きかけて、大きな声で「御用」と呼んで、持ち主から御納屋に納めさせます。
c0187004_947126.jpg また、いつも四日市の河岸に見張所を設けておいて、入荷するものは必ずこの見張り所で送り状と照らし合わせて検査し、目に留まったものは「御用」と呼んで納めさせます。
 大奥に御客がある時には、その前日に御膳所から何々の品が必要という旨の連絡が御納屋にあります。
 たまたま不漁などで魚類が少ないと御納屋役人は手付を品川沖まで船を出させて漁舟の出入りを見張らさせます。そして、一々送荷を検めて「御用」といって納めさせます。
 どうして、品川沖まで出張させるかと言えば、不漁の時に不意に取り上げられるのを恐れる漁師たちは船を日本橋ではなく品川に着けて陸揚げすることが度々あったため、これを防ぐためでした。
 
 御用となった魚は一尾一文から十文まで払い渡す決りでしたが、この価格では漁夫には儲けがないため、時にはまるで掠めとられるのと同じでした。そのため、翌日の魚の入用がたくさんあるという情報を内々に聞いた魚河岸の人たちは「それ大変」といって急に生簀から魚を引き上げて別の場所に隠してしまいます。
 実は、この隠し場所が変わっていて、「雪隠」に隠したそうです。
 それは、押入や戸棚などに隠しておいたことが露顕すると非常に面倒なことになりますが、雪隠に隠しておいた場合は、万が一露見しても、お咎めがないからだそうです。
 御用の品は、申し出次第、即日、代価を支払いました。
 
 右上写真は、日本橋魚河岸の碑です。


 青物は、神田多町の御納屋から納めさせます。
代価は魚類と同じようで、時の相場にかかわらず、何文と規定して買い上げるため何銭かの損が必ずあります。
 この損は、多町の問屋仲間で割り付けて負担をしていました。

 お米は、美濃産のもので、これを御舂屋(おつきや)で精米し、毎日4、5人が、御番立の上に大きな黒塗りの盆を置いて一粒ずつ選りわけて少しでも不良なものは取り除いてしまいます。
 そして、粒を揃えて御膳所に送ります。
 お米を一粒ずつ選り分けるというのがすごいですね。ただし、不良品は、役人の役得になったそうですので、そのために、一生懸命選り分けたのではないでしょうか。。
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by wheatbaku | 2014-01-21 09:20 | 江戸の食文化 | Trackback
  

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