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西京味噌(江戸の食文化23)
 今日は、西京味噌について書きますが、その前に味噌の分類方法について書きたいと思います。
 味噌の分類方法は次のようにいくつかあります。

1、麹 の原料による分類
 米味噌、麦味噌、豆味噌、調合味噌の分類となります。
 米味噌は大豆に米麹を加えてつくったものです。
 麦味噌は大豆に麦麹を加えて作ったものです。
 そして、豆味噌は大豆のみを主原料としています。
 調合味噌はこれらを混合した味噌です。

2、味による分類
 甘みそ、甘口みそ、辛口みそと分類されます。
 辛さ加減は、基本は食塩の量によります。
 甘味噌は塩分が5~7パーセント、甘口は塩分が10パーセント前後、辛口は塩分が12パーセント前後となっています。
 辛さのもう一つの決め手が麹歩合です。
 麹歩合とは原料の大豆に対する米麹や麦麹の比率のことです。塩分が一定なら、こうじ歩合が高い方が甘口になります。

3、色による分類
 赤味噌、淡色味噌、白味噌と分類されます。
  出来あがりの色によって、赤味噌、淡色味噌、白味噌に分けられます。

それでは、米味噌、麦味噌、豆味噌の分類に従って、順に代表的な味噌を紹介していきます。
 まず、米味噌から紹介しますが、西京味噌、江戸甘味噌、仙台味噌など代表的な味噌は、大部分が米味噌です。
その中で、西京味噌は、京都及び関西地方を中心として広く作られる米麹を多く配合した白黄色の甘味噌です。
 通常味噌汁用の味噌が12%前後の塩分であるのに対し5%前後で、塩分が低いのが特徴です。
 そのため、甘味噌に分類されます。
 西京味噌が甘口となるのは、塩分が低いほかに、米麹の割合が増やされ米の澱粉が糖化され、甘味成分に変わるためです。
 また、色が淡いクリーム色であるので、「赤味噌」に対して「白味噌」と呼ばれることもあります。

c0187004_1011339.jpg   
 天保元年、丹波杜氏であった本田味噌初代の丹波屋茂助が禁裏御所の用命を受け、宮中の料理用味噌を吟醸し、献上したのが始まりとされています。
 明治維新により都が江戸へ遷都し「東京」となり、京都をそれに対し「西京」とも呼ばれるようになりました。  そのため、京都の白味噌は「西京味噌」といわれるようになりました。

 京都のお正月の雑煮西は白いそうですが、それは西京味噌を使用しているからです。
 また、西京漬も西京味噌を利用してもので、西京味噌を味醂等で伸ばして魚や肉を漬け込んでつくります。

 この後に、江戸甘味噌について書こうと思いましたが、長くなるので後日書くことにします。
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by wheatbaku | 2014-02-28 09:12 | 江戸の食文化 | Trackback
味噌の歴史(江戸の食文化22)
 「江戸の食文化」のお話ですが、今日からは、味噌について書いてみたいと思います。

 その前に、先日ご案内した毎日文化センターの下記講座ですが、HPが開設され、お申し込みもHPからできるようになりましたのでお知らせします。
 下記タイトルをクリックすると毎日文化センターのHPが開きます。


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講座の詳細はこちらへ ⇒  「江戸検受験対策散歩のご案内」

 さて、味噌の話ですが、最初は、味噌の歴史を調べてみました。
 味噌の起源は、古代中国というのが定説となっていますが、日本発祥説もあります。
 味噌が中国から伝来されたという説は、古代中国の醤(ひしお)と豉(音読み シ 訓読み くき)がルーツであると考えます。
 肉や魚と塩と麹で作ったものを肉醤(ししびしお)、穀物から作ったものを穀醤(こくびしお)、野菜や海草を塩につけた「草醤(くさびしお)」と呼ばれました。 味噌は「穀醤」が発展したものと考えられています。
c0187004_9473760.jpg 醤はどろどろした粘性の調味料ですが豉(音読み シ 訓読み くき)は「豆豉(とうし)」とも呼ばれ、現在の塩辛納豆に類するものであったと考えられています。
* 塩辛納豆は、納豆の一種で、 大徳寺納豆、浜納 豆もしくは寺納豆ともいわれます。いわゆる納豆は「糸引き納豆」のことを指しています。(右写真参照)

 紀元500年頃に完成した世界最古の農業技術書「斉民要術(せいみんようじゅつ)」でには、醤や豉の作り方が詳しく載っているそうです。
 こうした古代中国で発達した発行食品を製造する技術が、中国大陸との交流を通じて日本へも伝来したと考えるのが中国伝来説です。

 味噌が中国から伝来したという説に対して、味噌は、温暖多湿な日本の国土条件によって造り出された物ではないかという考え方もあります。これが日本発祥説です。
 この説は、有史以前3千年の歴史で塩と穀物の生活の中で、みそ様の発酵食品が発生しなかったのは不自然である等の情況証拠から、古代の日本人が「味噌のようなものを食べていた」と考えているようです。

c0187004_9485095.jpg さて、668年に高句麗が新羅に滅ぼされると、大勢の高麗人が難を逃れて日本にやってきて、「みそ玉」を使用した「豆味噌」の造り方を伝えました。
 「みそ玉」というのは、蒸した大豆をつぶして子供の頭大に丸めて藁縄で軒下などにつるして自然のカビを生やしたものです。(右写真参照)

 日本初の国家基本法である701年の「大宝律令」では、大膳職に属する醤院で醤や豉が作られていましたが、それら以外に「末醤」という食品が登場しています。これは「未だ醤にならざるもの」すなわち「未醤(みしょう)」であり、発音が味噌に近いことから味噌の起源ではないかと考えられ、みしょう→みしょ→みそと変化したと推定されています。
 ちなみ、味噌の「噌」の字は日本で創造された文字ですが、「噌」の字は味噌と伊達政宗の造った味噌工場「御塩噌蔵(おえんそくら)」以外には使われないそうです。

 味噌は、当初は寺院や貴族階級に珍重される贅沢品で貴重な食品でしたが、次第に必需品となっていきました。
 味噌汁が考案されたのは鎌倉時代です。
 「一汁一菜」という食事習慣は、味噌汁が考案された後に定着しました。
 また、当時の武士の食事は米を蒸した「強飯」に味噌汁をかけて食べる「汁かけ飯」が一般的でした。
 室町時代には裕福な庶民の間での自家醸造も始まり、味噌汁も一般に普及していきました。

 戦乱の世の武士にとって味噌は携帯に便利な栄養食であったため、ますます貴重になり基本の食材となっていきます。
 戦国武将たちはみな、保存性が高く栄養価の高い味噌を兵糧として重要視しました。
 米と味噌、この2つは絶対必要な兵糧でした。武田信玄は信濃遠征に備えて農民に大豆の増産を促し、味噌造りを奨励したと言います。
 伊達政宗は軍用味噌を他に頼らず自給しようと考え、城内の一角に『御塩噌蔵(ごえんそぐら)』と称する日本で最初の大規模な味噌工場を建てました。慶長6年(1601)のことです。

 江戸時代に入ると、江戸の人口が増加し、江戸の生産だけでは味噌の需要を到底まかない切れず、三河の三州味噌や仙台味噌が江戸に運ばれるようになります。
 各地の味噌が、江戸に集まる中で、江戸っ子の好みにあった「江戸味噌」が考案され販売されるようになりました。
 こうして、 「手前味噌」という言葉のごとく各家庭で手造りされていた味噌は、手造りだけでなく、お店で買うことも多くなっていったのです。
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by wheatbaku | 2014-02-27 09:40 | 江戸の食文化 | Trackback
龍野の醤油の歴史(江戸の食文化21)
 関東地方の野田・銚子のように、有名な醤油産地が関西地方にもあります。
 それは兵庫県龍野市です。ここに本社を置く醤油醸造メーカー「ヒガシマル醤油」は関東での知名度はイマイチですが、キッコーマン、ヤマサ。ヒゲタに続く第4位の生産量を誇ります。

 龍野周辺の播州平野では品質の良い播州小麦がとれ、隣接する佐用(さよう)郡と宍粟(しそう)郡では三日月大豆と呼ばれる良質の大豆が生産されます。さらに有名な赤穂では良質な塩が生産されます。そして、町の東側を流れる揖保川は、その水が醤油生産に大変適しているとともに出来上がった醤油の運搬に好都合でした。

 龍野で作られる醤油は、「うすくち醤油」です。
 c0187004_10391571.jpgすでに述べましたが、「うすくち醤油」の製造工程は、「こいくち醤油」の製造工程をほぼ同じで、大豆と小麦を同量ずつ合わせて麹を作り、食塩水で仕込みます。「うすくち醤油」は、さらに甘酒が加えらる点が異なります。

 龍野の醤油は、天正15年(1587)円尾屋孫右衛門、天正18年(1590)栗栖屋横山五郎兵衛に よってはじめられたとされています。
また、天正年間に、播磨国守護大名赤松一族の家臣片岡治兵衛が、龍野で幾久屋(きくや)の屋号で醸造を始めたとされています。
 そして、 寛文6年(1666)円尾(まるお)孫右衛門によって「うすくち醤油」が考案されました。
 寛文12年(1672)に龍野藩主脇坂安政が、信州飯田から龍野に転封となりました。
 脇坂安政は、醤油醸造業の保護育成に力をいれるとともに、歴代龍野藩主も、醤油業界を保護しました。

 「うすくち醤油」は京都の精進料理や懐石料理に用いられるうち更に洗練されたものになり、甘酒をもろみに加えることが考案されました。

 「うすくち醤油」は、京料理に適することから京都での需要が伸びました。
そこで、円尾家では、延享3年(1746)に京都店を開設し、京都への販売を強化しました。
 こうした龍野醤油の京都進出が成功した背景には、安永9年(1780)に京都奉行所が、京都以外からの醤油の流入を公認したことがあります。

 また、龍野藩9代藩主脇坂安宅(やすのり)が、嘉永4年(1851)、京都所司代となり、京都、大阪へ販路拡大に尽力した結果、京阪市場でのうす口醤油の利用が一層広がりました。

 明治になると、北龍野村の商人因幡屋浅井弥兵衛が龍野藩の醤油製造所「物産蔵」を明治 2年に払い請け、淺井醤油が創業されました。
 浅井醤油は、「物産蔵」は藩の川東(かわひがし)蔵として東ノ丸と呼ばれていたことなどから商標をヒガシマルにしました。
 明治26年には菊屋11代片岡治助が「菊屋(幾久屋)」を改め、「菊一醤油造合資会社」を設立しました。
 そして、昭和17年に淺井醤油と菊一醤油が合併し、龍野醤油株式会社が設立されました。
 龍野醤油株式会社は、昭和39年、社名をヒガシマル醤油株式会社に変更し、現在にいたっています。
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by wheatbaku | 2014-02-26 10:30 | 江戸の食文化 | Trackback
30万突破御礼と「新橋虎ノ門散歩」
 一昨日、当ブログの訪問者が 30万人を超えました。
 平成20年12月に書きはじめましたので、5年2か月で30万を超えたことになります。
 ご愛読いただいている皆様本当にありがとうございます。 心より感謝申し上げます。
  

 このブログを書きながら、大勢の方に読んでいただいているので、いつも間違いがないかということを気にしています。
 そこで、機会があるたびに、江戸検二期会の仲間には、チェックしてほしいとお願いしています。
 二期会の仲間は「獏(バク)さんの記事は間違いがほとんどない」といってくれています。それだけでなく、「史跡ガイドをする際には、獏(バク)さんの記事を参考にしている」とも言ってくれます。
 また、江戸検を受験される方からも、しばしば、プリントアウトして参考にしているといった言葉をいただきます。
 そんなことから、大勢の方が、このブログをお読みいただくだけなく、利用もしていただいているのかと思うこの頃です。
 そうしたことから、このブログをお読みいただいている方はもちろんですがご利用していただいている皆様の役にも立つように、極力、正確・詳細・新鮮なものをしようと考えています。

 大勢の方に、支えられて、30万を超えることができました。
 改めてこの間のご愛読に感謝申し上げます。そして、今後も皆様にご愛顧いただけるよう頑張っていきたいと思いますので、引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。


 土曜日には、毎日文化センターの「江戸の名奉行ゆかりの地を行く」で「新橋虎ノ門散歩」を楽しんできましたので、そちらの報告もしたいと思います。
 土曜日は次のコースで史跡散歩してきました。
 新橋駅 ⇒ 烏森神社 ⇒ 遠山金四郎屋敷跡 ⇒ 塩釜神社 ⇒ 
 新正堂(和菓子屋) ⇒ 浅野内匠頭終焉之地碑(田村右京太夫邸跡)⇒
 松山藩松平家上屋敷跡 ⇒  真福寺 ⇒ 日本消防会館(仙石伯耆守邸跡) ⇒
 金刀比羅宮 ⇒ 江戸城外堀遺構 ⇒ 虎ノ門跡 ⇒ 虎ノ門駅

 北風が多少ありましたので、少し寒さを感じましたが、快晴のなかでの散歩で楽しく案内ができました。
ご参加いただいた皆様さありがとうございました。

 今回は、スナップ写真が結構とれましたので、順にご案内します。

c0187004_9394639.jpg 烏森神社は、社伝によれば、藤原秀郷が、平将門の乱を無事平定できたお礼に創建したと言われている神社です。
 新橋駅の「烏森口」の由来となった神社です。


c0187004_940160.jpg 「浅野内匠頭終焉之地碑」は、浅野内匠頭が切腹した田村右京太夫邸近くの日比谷通りに立っています。
 浅野内匠頭は、ここで、元禄14年3月14日に切腹しました。
 享年35歳でした。
 写真左端が「浅野内匠頭終焉之地碑」です。


c0187004_940561.jpg 新正堂は、浅野内匠頭が切腹した田村右京太夫邸跡近くにある和菓子屋さんです。
 大正元年に創業しましたので、100年を超える老舗です。
 ここの名物は「切腹最中」ですが、御主人の渡辺様が、切腹最中の由来や田村右京太夫邸について楽しくお話しくださいました。渡辺様ありがとうございました。


c0187004_9411070.jpg 真福寺は、真言宗智山派の東京別院です。
 江戸時代は、「愛宕の薬師様」と呼ばれ、江戸っ子の信仰を集めました。
 ここには、珍しい勝軍地蔵菩薩の銅像があります。
 写真左手にあるのが勝軍地蔵菩薩像です。


c0187004_9412564.jpg 赤穂浪士は、本懐を遂げ泉岳寺に向かう途中、吉田忠左衛門と富森助右衛門が大目付仙石伯耆守邸に自首しました。
 大目付仙石伯耆守邸跡は、現在は日本消防会館となっています。
 入り口脇に赤穂浪士のモニュメントがあります。
 右手の群像がそれです。


c0187004_9414081.jpg 虎ノ門付近には、外堀の遺構が残されています。
 その中でも、よく残されたと感心するのが、外堀の隅櫓台の石垣跡です。
 外堀通り沿いにありますが、あまり目立たない場所にありますが、大変貴重な遺構です。


c0187004_9415342.jpg 虎ノ門は、寛永13年に、肥前佐賀藩主鍋島勝茂により築かれました。
 現在は、その遺構は全く残されていません。
 ただ、東京メトロ「虎ノ門」の出口近くに虎の銅像が建てられているだけです。



 最後はいつも通りの「慰労会(飲み会)」です。
 今回は、大雪の跡で、体調が万全でない方もいらっしゃると思われましたので、本当に飲みたい人のみで慰労会を行いましたが、それでも12名の方のご参加で、大変盛り上がりました。
 飲み会にご参加いただいた皆様ありがとうございました。
 そして、「新橋虎ノ門散歩」にご参加いただいた皆様ありがとうございました。
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by wheatbaku | 2014-02-24 09:28 | 大江戸散歩 | Trackback
「秀吉という男」(大河ドラマ「軍師官兵衛」8回) 
 昨日は、毎日文化センターの講座「江戸の名奉行ゆかりの地を行く」で「新橋虎ノ門散歩」をしてきました。
 また、当ブログの来訪者が30万を超えました。

 
 これらについては、次回書くことにして、今日は、「軍師官兵衛」について書きます。

 岐阜城に着いた黒田官兵衛は、いよいよ織田信長に拝謁することになります。
 柴田勝家、明智光秀らそうそうたる重臣が居並ぶなかで、黒田官兵衛が、織田方に加勢する旨を申し述べます。
 これに対して、柴田勝家、明智光秀らが問いただします。それついて官兵衛が逐次答えていっていると、無言でそのやりとりを聞いていた織田信長が、いきなり立ち上がり官兵衛に近づき、腰につけていた佩刀を官兵衛に与えます。
 この佩刀が「圧切(へしきり)」と呼ばれる名刀です。
 この刀は、南北朝時代の刀工長谷部国重によってつくられた刀で、現在は福岡市博物館が所蔵していて、昭和28年3月国宝指定されています。
この名前の由来ですが、信長に仕えていた茶坊主がある時に無礼を働いた時に、信長がこの刀を持ち追いかけ、膳棚の下に隠れた茶坊主を隠れた棚ごと圧し切りました。
 その切味に驚いた信長自身が「圧切(へしきり)」という銘がつけて、佩刀としていた刀です。

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 そこに、秀吉が遅れて現れます。これはわざと遅れてきたようです。
 そして、秀吉が播磨攻めの大将として信長から指名されます。
 こうして、官兵衛と秀吉の関係ができるのです。

 信長との拝謁が無事済んだ後、秀吉から岐阜城下を案内され、その後、秀吉から長浜に招待され、建設途上の長浜を見物します。
 そこで、秀吉の妻おねにも面会します。
 こうした秀吉との交流のなかで、人を殺さずに戦に勝つことが大切だという点で一致したのでした。
 この出会いから、官兵衛が、秀吉の「戦わずして勝つ」戦いに取り組んでいくことになるのです。
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by wheatbaku | 2014-02-23 11:00 | 大河ドラマ | Trackback
銚子の醤油の歴史(江戸の食文化19)
 関東地方で銚子と並ぶ醤油の生産地として有名なのが銚子です。
 そこで、今日は銚子の醤油の歴史について書きたいと思います。
 「ヤマサ醤油」と「ヒゲタ醤油」は、銚子の醤油メーカーとして有名です。
 「ヤマサ醤油」はキッコーマンに次いで国内第2位、「ヒゲタ醤油」は第3位の醤油メーカーです。
 この2社の歴史が、銚子の醤油の歴史でもあります。

 
 元和2年(1616)、銚子の豪農、第3代田中玄蕃が、摂津西宮の酒造家、真宜九郎右衛門の勧めで、銚子で醤油の醸造を始めました。
c0187004_9442855.jpg これがヒゲタ醤油の創業で、関東で最古の醤油業と言われています。
 当時の醤油は、大豆が主体の「味噌溜まり」のようなものであったそうです。

 ヤマサ醤油を創業した初代濱口儀兵衛は、醤油発祥の地である紀州湯浅(和歌山県湯浅町)の隣りの広村(現広川町)の出身です。
 初代濱口儀兵衛が紀州から銚子に渡り、ヤマサ醤油を創業したのは正保2年(1645)のことです。
 新しい漁労法で大成功をおさめて銚子外川港を作った紀州出身の崎山次郎右衛門という人物に刺激されて銚子で醤油醸造を始めたのではないかといわれています。
 濱口家の家長は代々、紀州広村にある本家と銚子を行き来していました。
 そのため、濱口家の屋号は「広屋」と言いました。

 元禄10年(1697)第5代田中玄蕃が原料に小麦を配合するなどして製法を改良し、現在のこいくち醤油の醸造法を確立したとされています。

 このこいくち醤油が、江戸っ子に好まれ、一大消費地江戸で、次第に「地回り醤油」が上方からの「下りもの」を凌駕していきました。
 その時期は明和7年(1770)頃からと言われています。

c0187004_9445281.jpg 天保11年(1840)の「醤油番付」では、廣屋儀兵衛(ヤマサ印)が行司となっていて、別格の扱いとされています。
 また田中玄蕃(ヒゲタ印)は、関脇に位置しています。

 そして、元治元年(1864)の「最上醤油」には、野田のキッコーマン、キハク、ジョウジュウと並んで、銚子のヤマサ、ヒゲタ、ヤマジュウ、ジガミサの7銘柄が指定されています。
 ヒゲタ醤油とヤマサ醤油のロゴマークに「上」の字が含まれているのは、この「最上醤油」の称号を得たことを表しています。


 大正3年(1914)に、田中玄蕃家(ヒゲタ印)と濱口吉兵衛家(ジガミサ印)、そして深井吉兵衛家(ヒゲダイ印)が経営統合し銚子醤油合資会社を設立しました。
 その後大正7年(1918)に株式会社となり、更に昭和51年(1976)にはヒゲタ醤油株式会社に社名を変更して現在に至っております。


 一方、濱口儀兵衛家は、岩崎重次郎家(ヤマジュウ印)を吸収・合併し、昭和3年に、それまで濱口儀兵衛商店としていた社名を株式会社組織に改め、ヤマサ醤油株式会社としました。

 銚子も、昨日の野田と同様に、関東平野をひかえ、良質の大豆(常陸)や小麦(下総、武蔵など)、塩(行徳)など醤油の原料が、江戸川と利根川の水運を利用して手に入れることができます。
さらに、この水運により、つくった製品を江戸市中に運ぶことができるなど、しょうゆ醸造業発達の要因がそろっていました


 来訪者が、もう少しで30万になろうとしています。今日中に30万になるのはほんのチョッピリ無理だと思いますが、明日には確実に30万を超えます。
 しかし、明日は、毎日文化センターの「名奉行ゆかりの地をいく」シリーズで「新橋虎ノ門散歩」があり、ブログはお休みですので、30万突破の報告は、日曜日ということになると思います。
 30万を突破するなどとは、ブログ開始当初は思いもしませんでした。
 こんなに多くの方に読まれるようになって、ご愛読いただいた皆様に、ただただ感謝申し上げます。

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by wheatbaku | 2014-02-21 09:29 | 江戸の食文化 | Trackback
野田の醤油の歴史(江戸の食文化18 )
今日からは、醤油の主な産地の歴史について書いていきます。
 現在の日本で、最も生産量の多い醤油メーカーは、キッコ―マンです。
 キッコーマンは、野田の醤油醸造家が大同合併してできた会社で千葉県野田市に本社があります。
 そこで、今日は野田での醤油の歴史を書いてみます。

 野田で醤油作りが始まったのは、伝承によると、戦国時代末期の永禄年間(1558〜70)に飯田市郎兵衛の先祖が甲斐の武田氏に溜り醤油を納め、川中島御用溜醤油と称したとされていることから、野田市において最も古い醤油醸造は飯田家と言われているようです。
 その旧飯田家の工場(亀屋蔵)の跡地に記念碑が建てられています。
 しかし、近世の野田の醤油が商品化されはじめるのは、寛文元年(1661)に髙梨兵左衛門が醤油醸造を開始してからと考えられています。
c0187004_9594098.jpg  高梨家は古くから野田の「豪族」として知られた家柄で、醤油醸造業を始めたのは19代兵左衛門です。
 高梨家の製品はジョウジュウ印として知られています。
 その後、茂木七左衞門家が明和3年(1766)、みそ醸造から転じてしょうゆづくりを始めました。
 その後茂木家の分家も、それぞれ醤油醸造を始め、さらに多くの醸造家が創業しました。
 文政7年(1824)には、野田の「造醤油仲間」は19軒になったようです。
 そして、文政12年(1829)に高梨家、天保9年(1838)に茂木家が幕府御用醤油の指定も 受けるまでになりました。
 右上写真は、現在のキッコーマンの「御用醤油醸造所」です。

 天保11年(1840)、関東の醤油醸造家の順位を相撲番付に見立てた「醤油番付」を見ると、野田の高梨兵左衛門(ジョウジュウ印)と柏屋七郎右衛門(キハク印)が大関となっていて、関脇が茂木佐平治(キッコーマン印)となっています。下記写真参照
c0187004_100153.jpg

 
 幕末の元治元年(1864)、幕府はインフレ対策として物価の一律4割引き下げを強行しました。
 その際、価格引き下げの例外として価格の据え置きを許された「最上醤油」という醤油の一群があります。
 この銘柄は、野田のキッコーマン、キハク、ジョウジュウ、銚子のヤマサ、ヒゲタ、ヤマジュウ、ジガミサの7銘柄でした。
 幕府崩壊の影響を受けて、一時期停滞していた野田醤油業界も、それを乗り越え再び成長していきます。その要として、明治20年(1887)には野田醤油醸造組合が、髙梨家、茂木家を中心にして結成されました。
 明治末から大正初めにかけて、野田醤油業界は、急成長していきました。この中で生じた、茂木・高梨一族間のあつれきを解消するため、大正6年(1917)には、茂木一族と髙梨一族の八家合同による野田醤油株式会社(キッコーマン株式会社の前身)が誕生しました。
 八家とは次を指します。
 高梨兵左衛門家(ジョウジュウ印)、
 茂木一族本家茂木七左衛門家(クシガタ印)、
 茂木一族の分家 
  茂木七郎右衛門家(キハク印)、茂木佐平治家(キッコーマン印)、
  茂木房五郎家(ミナカミ印)、茂木勇右衛門家(フジノイッサン印)、
  茂木啓三郎家(キッコウホマレ印)

 この後、キッコーマンは、海外を含めて大きく発展していくことになります。

  一方、野田には、キッコーマン以外にも、天保期に創業した現在のキノエネ醤油株式会社などもあります。

 野田は、幕末には関東第一のしょうゆ産地として発展しました。
 このように発展したのは、しょうゆの原料の入手に便利で、大豆は常陸地方、小麦は下総台地や上州・相模などから入手でき、塩は行徳から入手できました。ただし塩は当初は行徳の塩を使っていましたが、やがて赤穂塩を使用するようになりました。
 また、江戸川の水質がしょうゆづくりに適していたといわれています。
 さらに、野田は、東に利根川、西に江戸川が流れていて、大消費地の江戸に出るには、朝、野田を発って江戸川を下ると、昼にはもう日本橋に着いているという、水運が非常に便利な土地柄でした。
 このように、野田は、醤油製造地として、大変立地条件にめぐまれた位置にありました。
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by wheatbaku | 2014-02-20 09:56 | 江戸の食文化 | Trackback
醤油の種類(江戸の食文化17)
今日は、醤油の種類について書きます。

 醤油は、現在、「こいくち(濃口)醤油」「うすくち(淡口)醤油」「たまり(溜)醤油」「さいしこみ(再仕込み)醤油」「しろ(白)醤油」の5種類に分類されています。
 そこで、順に説明していきましょう。

1、こいくち(濃口)醤油
c0187004_1162263.jpg 現在、最も一般的な醤油であり、通常「醤油」というとこれを指します。
 醤油の生産高の約8割を占めています。
 醤油特有の香りが高く、たまり醤油のように濃い色をしています。食塩分は約16%です。
 原料は、大豆と小麦の比率は半々程度です。
 江戸時代元禄年間に、銚子のヒゲタ醤油が、たまり醤油を改良し現在のこいくち醤油の醸造法を確立したと云われています。江戸っ子の口にあい、江戸料理の調味料として発達しました。
 あらゆる用途に利用され、様々な料理の味付けに使われ、色付け・香り付けにも使われています。
 
 全国で生産されていますが、特に関東地方における生産量が多く、千葉県野田市や銚子市が有名です。
こいくちの製法は、同量の大豆と小麦をそれぞれ蒸し炒って砕き、混合して麹菌を植え付けます。5日から1週間してから、それらを桶にいれた塩水に注ぎ込み(仕込み)、その桶の中を約1年間毎日撹拌しつつ諸味(もろみ)として発酵させ熟成するのを待ちます。諸味が熟成したら、それを布袋にいれて圧搾器にかけ、醤油を搾り出します。最後に加熱処理(火入れ)し、樽につめてできあがりです。

2、うすくち(淡口)醤油
c0187004_1165593.jpg 日本のしょうゆ生産量の15%程度を占めています。
 「うすくち(淡口)」というのは「色が淡い」という意味で「食塩分が薄い」という意味ではありません。食塩分は18~19%とこいくちしょうゆより約2%高くなっています。
 こいくちと製法は基本的に同じですが、原料の小麦を浅く炒ったり、塩を多めに配合したり、熟成期間を短くしたりして、色を薄くしています。また、仕上げの段階で甘酒をいれたりするのが特徴です。
 「うすくち」はこいくちに比べると、色同様に味や香りもうすいため、つけ醤油やかけ醤油には向いていませんが、料理素材の魚や野菜などの持ち味や色合いを生かすのに向いていて、汁物、煮物、かけうどんつゆなどの料理用に、特に関西地方で多く利用されています。
 うすくちは、寛文6年(1666)に播州龍野の円尾孫右衛門によって作りはじめられたと言われています。
 主に兵庫県で生産され、特に龍野市が有名です。

3、たまり(溜)醤油
c0187004_1171498.jpg 国内生産量は全体の2%弱くらいです。
 こいくちやうすくちは大豆と小麦をほぼ等量ずつ用いるのに対し、たまりは、大豆が中心で、小麦は使わないか使っても少量を使用します。
 醤油の原点で江戸時代中期までの醤油の主流でした。
 とろりとしており、味、色ともに濃厚ですが、香りはこいくちに比べてやや弱い。
 刺身につけたり、照焼きのタレなどに向いています。
 主に、愛知・岐阜・三重の東海三県で生産されています。

4、さいしこみ(再仕込み)醤油
c0187004_1173175.jpg 国内生産量は約1%です。
 風味、色ともに濃厚で、食塩分は約16%です。
 天明年間に周防国の柳井で考案されたと伝えられています。
 仕込工程で、塩水のかわりにすでに出来上がった醤油を用いて造り、しょうゆを2度醸造するような製法をとるため「再仕込み」しょうゆと呼ばれます。
 ややどろりとして濃く、甘味を帯びているので、さしみ醤油・甘露醤油とも呼ばれ、刺身、寿司などに向いています。また「甘露煮」にも利用されています。
 主に山陰や北九州で使用・生産されています。

5、しろ(白)醤油
c0187004_1174883.jpg 国内生産量は全体の1%弱、
 色はほとんどなく、透明に近いため、しろの名がつけられています。食塩分は約18%です。
 たまりしょうゆとは反対に、小麦を主原料として製造されます。
 三河地方で、江戸末期に開発されました。
 淡白な味と香りで 素材本来の色を活かしたり、高級料理のかくし味、うどんの汁などに利用されます。
 主に愛知県碧南市で生産されています。
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by wheatbaku | 2014-02-19 11:05 | 江戸の食文化 | Trackback
醤油の歴史(江戸の食文化16 )
 「霞が関赤坂散歩」の記事を書き終わりましたので、今日から「江戸の食文化」について書いていきます。

 「江戸の食文化」の切り口は様々な切り口がありますが、今日からは食材のうちの「調味料」に関係することについて書いていきます。
 ここでいう「調味料」とは「醤油」「味噌」「酢」「みりん」「砂糖」「塩」などを言っています。
 これらについて、「醤油」から始めて、随時書いていきたいと思います。

 今日は「醤油の歴史」について書いてみます。

 「醤油」のルーツは、古代中国に伝わる「醤(ジャン)」であるといわれています。
c0187004_9284838.jpg これはもともと食材を塩漬けにして発行させたもので、魚や肉を使った「魚醤(うおびしお)」、「肉醤(ししびしお)」、穀物を原料とする「穀醤(こくびしお)」野菜を材料にした「草醤(くさびしお)」などがありました。
魚を使った魚醤は塩辛の原型であると言われていますし、秋田地方の「しょっつる」や能登半島の「魚汁(いしる)」なども、「魚醤(うおびしお)」の流れをくむものとされています
 野菜を材料とした「草醤(くさびしお)」は、後に漬け物に発展した考えられています。
 そして、米・小麦・大豆を使用した「穀醤(こくびしお)」が醤油に発展したと考えられています。
 日本に「醤(ひしお)」として伝わったのがいつ頃なのかは明らかではありませんが、本格的に醤がつくられるようになったのは、大和朝廷時代頃のことと言われています。
 奈良時代の「大宝律令」によると、醤院(ひしおつかさ)という役所が設けられ醤がつくられていたそうです。
 さらに平安時代には、貴族の宴会では手元の皿に塩、酢、酒と並んで醤がおかれ、「四種器」と呼ばれて貴重な調味料だったと推定されています。

日本の醤油は、鎌倉時代前期に、紀州由良(和歌山県由良町)の興国寺の開山覚心(かくしん)が、中国の宗から持ち帰った径山寺(きんざんじ)味噌を伝えたことから始まるとされています。
紀州湯浅の村民に教えている時に、径山寺味噌の桶の底にたまった醤からしみだす汁がとてもおいしいことに気づきました。
 この味噌の溜(たまり)を調味料としたものが、現代につながる「たまり醤油」の原型とされています。
 日本の文献のなかに、初めて「醤油」という文字があらわれたのは慶長2年(1597)に刊行された「易林本節用集(えきりんぼん せつようしゅう)」という本の中のようです。
 これは、安土桃山時代には、既に醤油が出現していたことの表れと考えられています。

 江戸時代初期までは、日本の醤油の主流は色の濃い「たまり醤油」でした。
 この「たまり醤油」の産地は主に上方でした。
 一方、江戸では、醤油は製造されなかったため、上方から運ばれてきたものを使っていました。
 そして、この醤油は、「下り醤油」と呼ばれました。「上方から下ってきた醤油」という意味です。

 元禄年間になると、江戸近辺において、風味が優れており製造工程も改良され、江戸っ子の好みにあった「こいくち醤油」が考案されました。
 銚子の醤油メーカーのヒゲタ醤油によると、元禄10年(1697)第5代田中玄蕃が原料に小麦を配合するなどして製法を改良し、現在の「こいくち醤油」の醸造法を確立したとしています。
 この「こいくち醤油」が江戸っ子に愛され、「こいくち醤油」により、蕎麦、てんぷら、鰻の蒲焼、寿司、煮物など、今に続く江戸の食文化の花が開くことになったのです。

 そして、江戸時代後期になると、江戸で使用される醤油は、江戸近辺で製造されるものが「下り醤油」を圧倒するようになりました。
 文政4年(1821)の江戸への醤油の入荷量は、全体で125万樽(1樽7.5升)で、そのうち123万樽が、江戸近辺からの醤油でした。
 そして、幕末になると、「下り醤油」は200~300樽までになり、江戸近辺で製造される「こいくち醤油」が江戸の市場を制圧しました。
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by wheatbaku | 2014-02-18 09:21 | 江戸の食文化 | Trackback
赤坂不動尊(威徳寺)(霞が関赤坂散歩12)
 今日は「霞が関赤坂散歩」の最後で、「赤坂不動尊」をご案内します。

 赤坂不動尊は、正式には、智剣山威徳寺といい、真言宗智山派のお寺です。
c0187004_9122591.jpg 赤坂不動尊は、伝教大師ゆかりのお不動様です。
 延暦24年(805)伝教大師(最澄)が唐より帰国の途中、暴風雨で船が沈みそうになりました。伝教大師は御自作のお不動様を海に沈めて祈願しました。すると忽ち風雨が止んで無事帰国することができました。
 それから50年程たった天安2年(858)越後出雲崎の漁師が、不漁が続いた上に、毎夜海上に不思議な光が現れるので、海を探したところ、伝教大師が沈めたお不動様があらわれました。漁師たちそれ拾い上げ、丁重にお祀りし以後村の人たちに深く信仰されました。
c0187004_944020.jpg  その後、源義義が「前九年の役」で奥州を征伐する途中、戦勝を願って祈願しました。前九年の役が終わった際、康平6年(1063)源頼義は、お不動様を下総の米沢(現在の千葉県香取郡神崎(こうざきまち)町)に迎えました。
 さらに時代が下り江戸時代直前になって、お不動様から良台というお坊さんに赤坂の一ツ木に行くようにという夢のお告げがあり、慶長5年(1600)に赤坂一ツ木へ移転しました。
c0187004_915178.jpg 江戸時代には、近くに紀州徳川家の赤坂邸があったことから、紀州徳川家の祈願寺となったそうです。
 祈願時というのは、天下国家の安寧鎮護を祈願するお寺です。
 山門脇には、右写真のように「紀州徳川家御祈願所」という石碑が設置されています。

 また、祈願所であった縁から、内陣の中には、紀州家大奥から寄進された厨子や仏具が残されています。
 赤坂不動尊の案内書に紀州家から寄進された厨子や仏具が残されていると書いてあるところから、拝観できるかお願いしましたら、先代御住職自らご案内をいただき、さらに講座本番では、受講生の皆様にご説明までしていただきました。

c0187004_95829.jpg ご本尊のお不動様は、伝教大師御自作ということから秘仏で拝観できません。紀州徳川家の大奥から寄進されたという厨司に安置されています。
 そのため、厨司の前のお前立のご本尊様を拝観できます。
 御前立のご本尊様は、正徳年間につくられたものだそうです。御前立のご本尊の両脇には、五大明王も安置されていて、こちらも拝観させていただきました。

c0187004_96177.jpg 御前立の御本尊の前には、紀州大奥から寄進されたという供物台が置かれたいました。
 右写真がそれでですが台の部分に「紀州大奥」と刻まれています。ご本尊が安置されている御堂は、大正11年、関東大震災の直前に建立されたもので土蔵造りとなっています。
 御堂が土蔵造りとなっていますので、関東大震災も被害を受けることがなかったそうでう。また、昭和20年5月の大空襲の際も、周辺がほとんど焼失した中で、奇跡的に御堂は焼失を免れたそうです。
 先代御住職には、いろいろご案内・ご説明をしていただきました。改めて御礼申し上げます。

 赤印が「赤坂不動尊」(威徳寺)です。

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by wheatbaku | 2014-02-17 08:47 | 大江戸散歩 | Trackback
  

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