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砂糖あれこれ(江戸の食文化38)
 今日は、砂糖について、今まで書いてこなかった諸々のことを書いています。

1、砂糖の白さは漂白剤のお蔭?
 黒砂糖や三温糖は、白くありませんが、白砂糖は、名前の通り「真っ白」です。
 この白さは、自然の白さでなく、人工的な白さだと考えている人が多いように思います。
 ネットで見てみると漂白剤を使用していると誤解している人もいるようです。
 これは大きな間違いです。
砂糖は本来、無色透明の結晶です。
 白く見えるのは、光の乱反射のためで、無色透明の氷を削ってかき氷が白く見えるのと同じです。
 白砂糖は、さとうきびの搾り汁から不純物を取り除き、さらに結晶化させ糖蜜を分離したものです。
 砂糖の結晶は一つ一つは無色透明で、漂白剤や染料で白くしているのではありません。
 黒砂糖はさとうきびからしぼった汁をそのままにつめて作ります。
c0187004_18213878.jpg  三温糖は、白砂糖を作るときに残った糖液を何回もにつめて出来上がります。三温糖の原料には、実はまだ糖分が多量 にふくまれています。
 三温糖がうすい茶色をしているのは、加熱により糖分がこげたための色です。
 
 右上写真は、砂糖の結晶ですが、 Wikipediaより転載させていただきました。

2、「てん菜」とは何?
 砂糖の主な原材料は、「サトウキビ」と「てん菜」です。
「サトウキビ」は、イネ科サトウキビ属の植物で、原産地は、現在のニューギニアあたりで、日本では、主に沖縄県と奄美群島を中心に栽培されています。
 現在、香川県や徳島県(上板町など)では、和三盆という砂糖の原料として竹糖(ちくとう、たけとう)と呼ばれる茎が細いサトウキビが栽培されており、世界におけるサトウキビの商業栽培の最北限と言われているようです。
サトウキビは、12月から3月にかけて冬季に収穫されます。冬季に収穫されるなんて意外だと思いませんか!

c0187004_18311596.jpg   一方、もう一つの砂糖の原料の代表は、「てん菜(甜菜)」です。
「てん菜」は、ビートやサトウダイコンとも呼ばれています。
 原産地は、地中海地方で、アカザ科の多年草で、葉はホウレンソウを大きくした感じで、見た目では、ホウレンソウと間違えやすいようです。
 砂糖の原料として利用されるのは紡錘形をしている根の部分で、根の重さは700g~1kgになるようです。
 国内では北海道だけで栽培され、十勝・網走などの畑作地帯を中心に栽培されていますが、日本で栽培されるようになったのは、明治4年になってです。
右のてん菜の写真も Wikipediaより転載させていただきました。
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by wheatbaku | 2014-03-31 08:11 | 江戸の食文化 | Trackback
「小寺はまだか」(大河ドラマ「軍師官兵衛」第13回)
 今日は、「軍師官兵衛」について書きます。
  今回の「軍師官兵衛」は、羽柴秀吉が播磨に入国し、その後、毛利方の福原城を攻めるまでが描かれそうです。

 天正5年10月19日、羽柴秀吉は、1万5千の軍勢を率いて播磨に入りました。
 秀吉は、播磨に入って、通常であれば、御着城に入城するところですが、黒田官兵衛が城主である姫路城に入城しました。

c0187004_19201393.jpg 現在の姫路城(右写真)は、世界遺産にも登録された日本を代表する名城ですが、当時は、御着城の支城の一つで、砦に毛の生えた程度の小さなお城でした、

 本来入城すべき御着城ではなく姫路城に入城したのは、小寺政職の去就がはっきりしなかったためであると考えられています。
 小寺政職は、官兵衛の説得により、織田方に味方していますが、信長との謁見をためらったり、人質の提供を引き延ばし最終的には人質を出しませんでした。
 こうしたことからわかるように小寺政職は、織田方に心底から味方していたわけではありませんでした。
 そして、官兵衛の同僚である小寺家の重臣たちの中には、官兵衛のことを快く思わない人たちもいました。
 こうしたことから、黒田官兵衛としては、羽柴秀吉を御着城に迎え入れることが難しい情勢でした。
 そのため、姫路城に迎え入れざるをえなかったものと考えられています。

 黒田家譜によれば、官兵衛は、秀吉が姫路城に入城すると、それまで、自分が住んでいた二ノ丸を秀吉に明け渡し、姫路の城下の屋敷も秀吉の家来に渡しました。
その後、本丸の工事が完了した後、秀吉が本丸に移り、二ノ丸に官兵衛が住むように言い渡され、官兵衛が再び住むようになったと言います。


 後半部では、福原城攻めが描かれるようですので、福原城についても触れておきます。
 播磨国は、東播磨と菱播磨に大きく分けられます。
 そのうち、東播磨は、有力大名の三木城の別所長治と御着城の小寺政職が織田方となっていたため、秀吉が姫路城に入城した時には、織田方の勢力圏にありました。
 しかし、西播磨は、龍野城の赤松広秀が織田方であるものの、毛利領に近いという地理的な要因もあり、毛利方の勢力下にある多くありました。
 その中で、福原城と上月城は、秀吉としては落さなくてはならないお城でした。
 
 当時、福原城は、福原助就が守っており、バックには備前の宇喜多直家がいました。
 この福原城の戦いで、黒田官兵衛は、三方から攻めて、あとの一方を逃げ道として開けておくという戦術をとったと言います。
そして、その逃げ道を逃げてくる敵将福原助就を討ち取ったと言います。

 いかにも「軍師官兵衛」の面目躍如といったところでしょうか!!
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by wheatbaku | 2014-03-29 19:22 | 大河ドラマ | Trackback
和三盆(江戸の食文化37)
今日は、砂糖の4回目で「和三盆」について書きます。

 その前に、江戸検の今年のお題「江戸の食文化」に合わせて4月に開催する
 「江戸の食文化体験~江戸の老舗を巡る」 
ですが、お陰様で大勢の方からお申し込みをいただきました。
 僅かですが残席がまだありますので、ご興味のあるかた、毎日文化センターまでお申込みください。(なお、この講座は入会金なしで受講できます。)

 さて、「和三盆」は、讃岐と阿波で、江戸時代後期から生産されている砂糖です。
 讃岐では「讃岐三白」に数えられました。「讃岐三白」とは、讃岐の特産品の「砂糖,綿,塩」を言います。
 「和三盆」は、現代でも香川県と徳島県の特産品です。
 ほどよい甘さで高級菓子の材料として利用されるほか、和三盆そのものを固めた干菓子もあります。(右下写真参照)

 江戸時代中期まで、砂糖は国内で生産はほとんどされず、輸入に頼っていました。
 そこで、8代将軍吉宗は、全国にサトウキビの栽培を奨励しました。
c0187004_1081798.jpg 高松藩では、5代藩主の松平頼恭(よりたか)の命をうけた平賀源内の努力によりサトウキビが栽培されるようになりました。
 しかし、砂糖の生産までは実現しませんでしたが、これに成功したのは医者の向山周慶です。
 周慶の苦心を伝えるエピソードもたくさん残っているようです。

 「和三盆」は、徳島と香川県の一部で現在も栽培されている在来品種である「竹糖」(通称、細黍とも言う)と呼ばれるサトウキビが原材料です
 「竹糖」は、沖縄などで栽培されている砂糖黍とはかなり異なり、背丈も比較的低く太さもかなり細いのがその特徴です。そのため、別名「細黍」と呼ばれます。

 それでは、次に「和三盆」の製造方法について書いてみます。 
 成育したサトウキビは12月に収穫されます。
 収穫されたサトウキビは機械で圧搾され、搾汁されます。
 その搾汁液からアクを取り、次に沈でん物を除去します。
 その後、煮詰めていき、その後、冷却し結晶化させます。
 この段階の糖液が「白下糖」と呼ばれます。
 この白下糖は糖蜜が含まれていますので、糖蜜を絞りとる「研ぎ」作業を行います。
 「研ぎ」というのは、和三盆独特の精製工程です。。
 まず、袋に入れて石の重しで加圧します。 その後、寒の水を加えながら手で練って分蜜します。
 この「研ぎ」工程を繰り返しと、糖蜜が絞り取られ段々白くなり、寒風で丸一日かけて自然乾燥させれると白い砂糖が完成します。
 しかし、和三盆には微量の糖蜜が残っていることから、「上白糖」ほどの白さではなく、淡く黄色がかった白さとなります。
 この淡い白さとほのかな甘さが和三盆の特徴でもあります。
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by wheatbaku | 2014-03-28 10:00 | 江戸の食文化 | Trackback
砂糖の製造方法(江戸の食文化36)
今日は、砂糖の3回目で、「砂糖の製造方法」について書こうと思います。


 砂糖の原料は、サトウキビやテンサイですが、サトウキビから砂糖ができる工程について説明します。

 砂糖の製造は、大きく言って、「原料糖」を製造する工程と「精製糖」を製造する工程に分けられます。
c0187004_10574115.jpg 刈り取られたサトウキビは、そのまま放置しておくと糖分をどんどん消費してしまいます。また、サトウキビに含まれている糖分は10数パーセントです。
 そこで、サトウキビの産地に近い所で「原料糖(粗糖)」に加工する必要があります。
 そして、「原料糖」を消費地に近い場所に運んで「精製糖」に加工します。

1、「原料糖」ができるまで
 サトウキビのできる限りきれいな部分を使用するために先端部の葉および茎に付いている枯葉を取り除き,茎だけの形にして製糖工場に送ります。
 製糖工場では、サトウキビの茎の部分をカッターで切断し、シュレッダーでさらに細かくし、水を加えながら圧搾機にかけます。
 そして、搾り出された搾り汁に石灰を加えます。
 石灰を加えるのは不純物を沈殿させるためです。
 沈澱物をろ過した後、上澄み液を取りだし、それを煮詰めたり、真空状態で濃縮したりして、結晶を作ります。
 これを遠心分離機で結晶と蜜に振り分けます。遠心分離器にかけられ結晶だけを取り出しますがが、この取り出された結晶が原料糖です。

2、「精製糖」ができるまで
 原料糖はまだ白砂糖と呼べるものではありません。
 原料糖に蜜を加えて、表面についた不純物を蜜に洗い出します。
 そして遠心分離機で結晶と不純物が溶けた蜜とに振り分けます。
 この振り分けられた結晶を、温水に溶かし、糖液とします。
 そして、石灰を加え、不純物を取り除きます。さらに活性炭やイオン交換樹脂を通し不純物を吸着させ取り除くと、透明な糖液になりす。
 その糖液を真空状態で加熱濃縮し結晶をつくります。
 この情況ではまだ結晶と糖蜜が混じっているので、遠心分離機で結晶と蜜に振り分けます。結晶は乾燥却されます。
 こうしてできあがる白い結晶が、いつも使う「砂糖」です。

 以上、砂糖の製造工程を書きましたが、これは現在の砂糖製造工程です。
 現在の砂糖は、まさに近代的な設備を備えた工場で大規模に製造されているように思います。
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by wheatbaku | 2014-03-27 10:58 | 江戸の食文化 | Trackback
砂糖の種類(江戸の食文化35)
 今日は、砂糖の三回目ですが、砂糖の種類について書きます。

c0187004_9364846.jpg1.上白糖(じょうはくとう)
白砂糖とは、普通、上白糖を言います。日本で使用されている砂糖のうち約半分を占める、もっとも一般的な砂糖です。
結晶が細かく、しっとりとして使い易く、上品な風味の砂糖です。
日本で大変ポピュラーな上白糖ですが、海外ではアジアの一部で使われているだけだそうです。

2.グラニュー糖(ぐらにゅーとう)
上白糖よりも結晶の大きい、サラサラとした感じの砂糖です。クセのない淡泊な甘さを持つ砂糖です。
 そのため、香りを楽しむコーヒーや紅茶に最適です。また、純度が高く焼き色などが一定になるので菓子用や料理用にも広く使われます。
また、グラニュ糖は角砂糖や粉砂糖の原料として使われます。
 海外では最も一般的な砂糖です。

c0187004_9405019.jpg3.白双糖(しろざらとう)
 結晶がグラニュー糖より大きく、無色透明の砂糖です。グラニュ糖等よりもゆっくり溶けるため、果実の旨みを十分に引き出した、おいしい果実酒をつくることができます。
 一般的に家庭で使われることは少なく、高級な菓子や飲料に多く使われます。

4.三温糖(さんおんとう)c0187004_943137.jpg
 黄褐色をした砂糖で、上白糖やグラニュー糖に比べて特有の風味を持っていて、甘さも強く感じます。煮物や佃煮などに使うと、上白糖などに比べて、強い甘さとコクがでます。
 また、フルーツケーキなどにも使われます。

5.中双糖(ちゅうざらとう)
 黄褐色をした砂糖で、グラニュー糖よりも結晶の大きい砂糖です。
 表面にカラメルをかけているので独特の風味を持っています。煮物などに使われます。そのほか、和菓子のあめやめん類の汁の味付けなどに使われます。

6.角砂糖(かくざとう)
 グラニュー糖を四角に固めたもので、コーヒーや紅茶に使われます。また、1個の重量が決まっているので、お菓子や料理用にも便利です。
7.氷砂糖(こおりざとう)
 氷のように見える、とても大きな結晶で、キャンディーとしてそのまま食べられます。また、溶けるのに時間がかかるので果実酒を作るのに最も適している砂糖です。

8.液糖(えきとう)
 溶かす手間が省けるため、ガムシロップをはじめとして清涼飲料水、ソース、焼き肉のタレ等に使われます。液糖の多くは業務用です。

9.和三盆(わさんぼん)
 日本の伝統的な製法で作る淡黄色の砂糖です。結晶の大きさが非常に小さく、独特の風味を持つので、和菓子の原料として珍重されます。徳島県・香川県で作られています。
 和三盆については。別に詳しく書きたいと思います。

10.黒糖(こくとう)・黒砂糖(くろざとう)
c0187004_1649121.jpg さとうきびの搾り汁をそのまま煮詰めて砂糖にしたものです。濃厚な甘さと、強い風味があります。沖縄県や鹿児島県の南西諸島で作られています。
 沖縄産さとうきびから作られる黒砂糖は、不純物を取り除くため石灰を加えて煮詰めるため、独特の風味と色が出ます。
一般的に国内の黒砂糖は高級品といわれています。カリウムやカルシウム、マグネシウムなどのミネラルが含まれているため、しょっぱく感じます。
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by wheatbaku | 2014-03-25 16:22 | 江戸の食文化 | Trackback
砂糖の輸入量(江戸の食文化34)
 今日は、食文化の話題に戻ります。
 砂糖の使用量が大幅に増えたのは江戸時代からです。
 その使用量の供給を支えたのは、外国からの輸入でした。
c0187004_11491825.jpg どのくらいの砂糖が輸入されていたかについて、「砂糖の文化誌」(伊藤汎監修 八坂書房出版)のなかの「近世日本の砂糖貿易」からまとめてみました。

1、この論文によると、オランダ人を長崎出島に強制移住させて、鎖国が完成した寛永18年(1641)の砂糖貿易量は次のようでした。
(1)唐船は97隻で、砂糖は、254万6427斤で、その内訳は次の通りです。
  ①福州方面より89隻。黒砂糖251万7千斤、白砂糖5,427斤
  ②広南方面より3隻。黒砂糖4千斤、白砂糖2万斤
  ③カンボチヤ、東京方面の唐船ともに砂糖なし
(2)オランダ船の積荷には黒砂糖3万5千斤、白砂糖4千斤でした。

(3)これによると、砂糖輸入量の合計は、258万5427斤です。
 そして、黒砂糖の輸入量が多いのが特徴です。
「斤」というのは、江戸時代に使用された重量の単位です。様々な換算数値があったようですが、明治以降は、600グラムとされましたので、それに基づいて換算すると。
c0187004_11503366.jpg 32万127斤は、258万5427斤×0.6キロ=155万1256キロとなります。

今、スーパーで売られている一般的な砂糖は1キロ(右写真)ですので、この袋が155万個も輸入されていたことになります。
 大量の砂糖が輸入されていたことになります。

2、そして、正徳2(1712)年 寺島良安著の「和漢三才図会」には次のように記してあるそうです。
(1)砂糖輸入量の内訳は次の通りです。
 ①白砂糖はおよそ250万斤が諸外国より長崎に来る。
 ②黒砂糖 およそ7、80万斤輸入されている。
 ③氷砂糖の輸入はおよそ30万斤
(2)「和漢三才図会」による砂糖輸入量の合計は、約350万斤程度です。
 キロに換算すると、350万斤×0.6キロ=210万キロ
 砂糖の輸入量が増えているのがわかります。
 
 そして、江戸時代前期には、黒砂糖の輸入が多かったのですが、中期になると白砂糖の方が多くなっていたようです。

3、このように多くの砂糖が輸入されていましたが、享保5年(1720)8代将軍吉宗が洋書解禁を行いました。
 そして、享保10年 (1725)には長崎に来航して来た南京船主沈玉国に「黒砂糖を作る法・白砂糖を作る法」を尋ねその回答を翌11年正月に受けているそうです。
 これを受け、10年8月全国に甘蔗栽培を奨励する法令を出しました。
 これよりわが国では砂糖を外国よりの輸入のみに頼ることがなく、自分で生産することができるようになってきました。
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by wheatbaku | 2014-03-25 11:04 | 江戸の食文化 | Trackback
「人質松寿丸」(大河ドラマ「軍師官兵衛」第11回)
 昨日の「軍師官兵衛」は、「人質松寿丸」でしたが、タイトルの通り松寿丸が人質となるまでのストーリーでした。
 そこで、今日は、松寿丸すなわち後の黒田長政について書いていきたいと思います。

 松寿丸は、永禄11年(1568)12月3日、黒田孝高の嫡男として播磨姫路城に生まれました。
 織田信長への人質となったのが天正5年(1577)ですから、10歳の時です。
 そして、昨日の大河ドラマの通り、羽柴秀吉に預けられ、長浜城で人質生活を過ごしました。
 この羽柴秀吉に預けられたことが、長政の命が助かる要因となりました。

 というのは、次のような事情があります。
c0187004_11581782.jpg この後の「軍師官兵衛」に必ず出てくると思いますが、荒木村重が謀反を起こします他。
 この時、黒田官兵衛は、村重を説得し翻意させる為に有岡城に行きますが、城内に幽閉されてしまいます。
 そのため、官兵衛は戻ることができなくなってしまいますが、織田信長は、これを荒木村重に寝返ってと考えました。
 そのため、信長は、人質の松寿丸を処刑するよう命じます。
 ところが、竹中半兵衛は、松寿丸を自分の居城岩手山城に匿い、信長に嘘の報告をしたため、松寿丸は、命が助かりました。
 黒田長政は、この時の恩に報いるため、後に竹中半兵衛の孫竹中重次を重臣として自分の家臣に迎い入れています。

 有岡城の陥落した後、幽閉から助け出された官兵衛とともに姫路へ帰りました。
 その後、官兵衛を共に秀吉の傘下で戦い続け、秀吉の九州征伐後は、官兵衛とともに豊前国中津に12万5,000石を拝領しました。
 官兵衛の隠居後は、家督を相続し中津城主となり、文禄・慶長の役では渡海しました。
 朝鮮では数々の武功を挙げたものの、文治派の石田三成や小西行長らと対立し、秀吉死去後は、徳川家康に接近し、関ヶ原の戦いでは、石田三成の部隊と激闘を演じ敗北に追い込んでいます。
 さらに、関ヶ原の勝敗を決定づけた小早川秀秋の寝返りは、黒田長政の工作によると言われています。
 その功績により、戦後、福岡藩52万石を与えられ、福岡藩の藩祖となりました。

 なお、昨日の「軍師官兵衛」でも、松寿丸は、「一粒種」すなわち「一人っ子」とさかんに強調されていますが、のちに母光(てる)は15歳ちがいの弟熊之助を生みました。
 しかし、この熊之助は、16歳の時、朝鮮で戦っている兄を加勢しようとして、船で出発しましたが、暴風のため亡くなってしまいました。
 
 右上写真は、広尾の祥雲寺にある黒田長政のお墓です。お墓の高さは5メートルもあり、覆いが造られています。
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by wheatbaku | 2014-03-24 09:21 | 大河ドラマ | Trackback
巣鴨染井散歩(大江戸散歩)
 本日、毎日文化センターの講座「江戸の名奉行ゆかりの地をいく」が行われました。
 その場で、「2日間、ブログが更新されてませんね。」というコメントをいただき、その鋭いコメントにたじたじでした。
 実は、本業の仕事が忙しいのと今日の講座の準備で忙しくて、ブログの更新ができませんでした。

c0187004_23373459.jpg 本日、毎日文化センターの講座が無事終わりましたので、先ほどの鋭いコメントを受けて、早速その様子を取り急ぎアップさせてただきます。

 本日の「江戸の名奉行ゆかりの地をいく」では、巣鴨染井の史跡を巡ってきました。
 というのは、遠山金四郎景元のお墓が染井の本妙寺にあるので、その周辺の史跡めぐりを行いました。
 本日のコースは次のようです。
 眞性寺 ⇒ とげぬき地蔵 ⇒ 巣鴨薬園跡 ⇒ 本妙寺(明暦の大火供養塔、遠山金四郎の墓、千葉周作の墓、関宿藩久世家歴代藩主の墓) ⇒ 染井霊園(岡倉天心の墓、高村光太郎・智恵子の墓、二葉亭四迷の墓)⇒ 勝林寺(田沼意次の墓) ⇒ 慈眼寺(芥川龍之介の墓、谷崎潤一郎の墓、司馬江漢の墓、小林平八郎の墓) ⇒ 岩崎弥太郎墓所 
 これをご覧いただいておわかりになると思いますが、著名人のお墓詣りでもありました。
 時あたかもお彼岸の最中で、お墓めぐりの好時期でもありました。
 天気も、「暑さ寒さも彼岸までの」の通り、寒さも消えて、散歩には絶好の日和となって気分よくご案内できました。
 ご参加いただいた皆様お世話になり、ありがとうございました。

 さて、それでは、スナップで、今日の「巣鴨染井散歩」の様子をご紹介いたします。

c0187004_23364125.jpg 眞性寺は、真言宗豊山派のお寺です。
 眞性寺で有名なのが、江戸六地蔵の一つの大きなお地蔵様です
 江戸六地蔵というのは、深川の地蔵坊正元という御坊さんが発願となって、
 江戸中期に、江戸の街道の出入り口に、6個のお地蔵様を建立したものです。
 眞性寺のお地蔵様は正徳4年(1714)に4番目に建立されました。今年でちょうど300年になります。

 有名なとげぬき地蔵ですが、お寺の正式な名前は高岩寺です。
 ここでは、とげぬき地蔵の由来についてご案内させていただきました。
 お彼岸の休日という事もあって、右写真のごとく大勢の方がとげぬき地蔵へ参拝されていて、洗い観音様の前には行列ができていたため、ご参加の方は、洗う時間がありませんでした。

 明暦の大火は本妙寺は火元と言われています。また、別名「振袖火事」ともいわれていますので、その由来となった「振袖伝説」について、明暦の大火供養塔の前で説明させていただきました。
 最上段写真は、明暦の大火供養を見られる参加者の皆様です。
c0187004_23375966.jpg 本妙寺には、遠山金四郎景元のお墓があります。
 右写真の左手が遠山金四郎のお墓で、右手は、遠山金四郎景元が建立した「遠山氏先塋(せんえい)之碑」です。
 遠山金四郎景元のお墓の前には、遠山金四郎景元が亡くなった際に、牢奉行・南町奉行所与力、江戸町年寄から奉納された石灯籠があります。

c0187004_2338433.jpg 染井霊園では、岡倉天心の墓、高村光太郎・智恵子の墓、二葉亭四迷の墓を案内させていただきました。
 写真は、高村光太郎・智恵子の墓を見られる参加者の皆様ですが、参加された中に、高村智恵子とごく近いのご縁のある方がいて、その関係などお話いただきましたが、思いがけないご縁に私もびっくりしました。

c0187004_2339149.jpg 勝林寺は、臨済宗妙心寺派のお寺です。江戸時代の初め 元和2年(1616)に湯島天神前に創建されましたが、中興開基が田沼意次です。
 そのため、墓地には大きな田沼意次のお墓があります。
 田沼意次は、「賄賂政治家」という評価がされてきていましたが、最近ではその評価が変わりつつあることなどを話させていただきました。

c0187004_23393341.jpg 最期は、慈眼寺(じがんじ)です。日蓮宗のお寺です。
 ここには、芥川龍之介墓、谷崎潤一郎墓、小林平八郎墓、司馬江漢墓のお墓がありますので、それを順にご案内しました。
 龍之介の墓は、本人の遺言によって、墓石が愛用していた座布団と同じ形と寸法で作られています。
 写真右端にある、四角いお墓が芥川龍之介のお墓です。

 こうした散歩の後は、恒例の「飲み会」です。
 「飲み会」も、散歩がメインなのか、「飲み会」のために散歩しているのかわからないといった冗談が出るほど、この講座ではすっかり定着してきました。
 そして、最後にいつもの記念撮影です。 皆様お世話になりありがとうございました。
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by wheatbaku | 2014-03-22 22:30 | 大江戸散歩 | Trackback
砂糖の歴史(江戸の食文化33)
 今日からは、「砂糖」について書きたいと思います。
 まずは、「砂糖」の歴史についてです。

 日本における砂糖の歴史は、天平勝宝6年(754)、唐から鑑真和上が日本に渡ってきた際、砂糖を持参したと記録されているのが、始まりのようです。

 その後、目立った動きはないようですが、中国から少量の砂糖が輸入されていたようですが、主に薬用として使用され、貴族や富豪の間で甘味料として珍重されていたにすぎません。

 「附子(ぶす)」という狂言がありますが、この狂言が、当時を砂糖がどのように取り扱われていたか如実に描いていますので、そのあらすじを書いておきます。
用事に出かける主人が、太郎冠者と次郎冠者を呼び出し留守番を言いつけます。
主人は桶を指し示して、この中には「附子」という猛毒があるから注意せよ、と言い置いて出かけます。
二人は怖いもの見たさで桶のふたを取ってみると、中に入っていたのは砂糖なので、二人で桶を取り合って全部食べてしまいまうという御話です。
 なお、「附子」というのはトリカブトの根を乾かして作られる猛毒です。

 室町中期になると、琉球からも輸入され、ようやく菓子の甘味料とし使われるようになりました。
 日本で砂糖が本格的に使用されるようになるのは、江戸時代からです。
 江戸時代初期には、砂糖は外国から輸入されました。1641~1670年頃には、オランダから138トンから252トン輸入されました。
 そして、中国からは1656年頃約1140トン輸入され、全体で約1380トン輸入され、当時のイギリスを上回り、世界一の砂糖輸入国だったと考えられています。
 しかも、この砂糖を非常に高価で輸入していました。
 ポルトガル商人がマカオで買い入れた砂糖が日本では10倍~20倍で売れたとも言われています。
 こうした高価な砂糖が輸入できたのは、日本で豊富な銀が産出されたからです。

c0187004_17284391.jpg このような高価の砂糖を、いつまでも輸入に頼るのではなく、国内で自給できるようにしようとしたのが8代将軍吉宗です、
 8代将軍徳川吉宗は、 サトウキビ栽培を奨励し、関東から九州に至る太平洋沿岸や瀬戸内沿岸で サトウキビが栽培されるようになりました。
 やがて、讃岐では、独自の方法で「和三盆」を製造できるようになりました。
 こうして、幕末にかけて、讃岐、阿波、和泉などでの生産量が増加し、安政5年(1858)には国産の砂糖は1万3374トンに達し、国内需要をはぼ充足できるほどになりました。
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by wheatbaku | 2014-03-20 17:21 | 江戸の食文化 | Trackback
みりんの製造法(江戸の食文化32)
今日は、みりんの2回目です。

 みりんは次のようにして製造されます。
 みりんは、蒸したもち米、米麹、焼酎(もしくはアルコール)を原料にし、40日~60日間かけて糖化・ 熟成させます。
 みりんには、酵母によるアルコール発酵過程がありませんので、清酒醸造の仕込み水のかわりに焼酎を原料にします。
 熟成させるあいだに米麹中の酵素が働いて、もち米のデンプンが糖分に、タンパク質がアミノ酸に分解されて、甘味成分や旨味成分が蓄積され、「みりん」特有の風味が形成されます。

 「守貞謾稿」では、みりんについて次のように書いています。
京坂夏月(京都大阪の夏)には夏銘酒「柳陰」と云ふを専用す。
江戸は「本直し」と号し、味琳と焼酎を大略これを半ばに合わせ用ふ。
 「ほんなおし」「やなぎかげ」、ともに冷酒にて飲むなり

 「守貞漫稿」によると、みりんと焼酎をほぼ半々に混ぜたものを関西では「柳蔭(やなぎかげ)」、江戸では「本直し」と呼び、冷用酒として飲むと書いてあります。

c0187004_13402342.jpg 「柳蔭」「直し」という飲み物は、古典落語の「青菜」に出てきます。
 私がよく聞くのは、春風亭柳橋「青菜」ですが、落語を何回聞いても、「柳蔭」「直し」がどういう飲み物かわかりませんでした。
 「守貞謾稿」を読んで、みりんのことかと理解しました。


 
 調味料の記事を書き始めたことによって、スーパーで、醤油。味噌、酢などを見る機会が増えてきました。

 醤油の記事を書いた際、兵庫県龍野市のヒガシマルというブランドのうすくち醤油が関東でも販売されていると鶴ヶ島の小人さんに教えてもらいましたが、先日、近くのスーパーに置いてあるのを見つけました。

 また、このみりんの記事を書くにあたっても、スーパーを見てきましたが、みりんのコーナーには、本みりんとみりん風調味料とが並んでいました。
 しかもみりん風調味料の割合が多いのに驚きました。
 「本みりん」と「みりん風調味料」の違いはなんだろうと疑問に思いましたので調べてみました。

c0187004_13484932.jpg 「本みりん」はもち米、米麹、焼酎(もいくはアルコール)から作られた醸造調味料です。
 アルコール分が13.5~14.4%含まれているため、酒類に属し酒税が課せられています。
  糖分は約40%ぐらい含まれています。

 「みりん風調味料」は、糖類を主原料とするアルコール分1%未満の甘味調味料です。
 アルコール分を1%未満に押さえていますので、煮きる手間が省けます
 糖分は55%以上を含みます。

 本みりん」と「みりん風調味料」の一番大きな違いはアルコール分のようです。
 「みりん風調味料」のアルコール分は1%未満ですので、「みりん風調味料」の場合、アルコールをとばす「煮切り」が必要ありません。
 違いは、こうしたことのようです。
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by wheatbaku | 2014-03-19 13:38 | 江戸の食文化 | Trackback
  

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