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抹茶・玉露(お茶の話4、江戸の食文化43 )
 今日は、食文化の話題に戻ります。
 お茶については、先週末にお茶の歴史を書きました。
 そして、先週の土曜日には「巣鴨食文化散歩」で江戸時代に創業した「岩田園」さんでお茶の説明を聞いてきました。
 そこで、今日は、お茶の話の続きで、お茶の種類にどのようなものがあるか説明します。

 お茶は大きく分けて、不発酵茶の緑茶 、半発酵茶の烏龍茶 、発酵茶の紅茶があることは、すでに書きました。
 岩田園さんでも、まず最初に、この説明がありましたので、再度、書いておきます。
 お茶の葉を摘み取ってすぐに蒸して発酵(酸化発酵)しないようにして作ったのが緑茶、完全に発酵(酸化発酵)させたものが発酵茶の紅茶、その中間に位置するのが半発酵茶で烏龍茶が代表です。

 これらのお茶の中で、日本で圧倒的に飲まれているのは緑茶ですので、これからは、緑茶の種類について書きます。

 緑茶の分類方法はいろいろあるようですが、茶葉が育った茶園が覆下園(おおいしたえん)か露天園かによっても分類することができます。
 覆下園というのは、ヨシズ・ワラ、または寒冷紗などの化学繊維などにより覆いをした茶園で、茶を摘む前に一定期間、日光を遮ることにより、渋みが少なく旨味が多いお茶となります。
 露天園というのは覆いをしない茶園を言います。

 覆下園で育った茶葉から作られるお茶には、「碾(てん)茶」「抹茶」「玉露」「かぶせ茶」があり、露天園で育った茶葉から作られるお茶には「煎茶」「番茶」「ほうじ茶」などがあります。

「碾(てん)茶」・「抹茶」
「碾(てん)茶」は、茶園をワラやヨシズなどで覆い日光をさえぎって育てた茶葉(一番茶)から作られます。
c0187004_11131562.jpg 最近は、寒冷紗などの化学繊維で覆うことも多くなっています。
 摘んだ茶葉を蒸した後、揉まずに乾燥したものが「碾(てん)茶」となります。
 「碾(てん)茶」の「碾(てん)」には「ひき臼」または「物をすりつぶす」と意味があります。
 ひき臼ですりつぶすお茶であることから「碾(てん)茶)」と呼ぶようです。
 碾茶を、ひき臼(石臼)で挽いたものが抹茶です。

「玉露」・「かぶせ茶」

 茶園をヨシズやワラで20日間ほど覆い、日光をさえぎって育てたお茶から「玉露」が作られます。
c0187004_1113366.jpg  碾茶・抹茶も覆下園の茶葉から作られますが、 「碾茶」は揉まず、「玉露」には揉みの工程がある点が大きく違います。
 「かぶせ茶(冠茶)」は、「玉露」と同じように、被覆栽培した茶葉から作りますが、「かぶせ茶」は「玉露」よりも被覆期間が、1週間前後と「玉露」より短くなります。
 「玉露」は、年1回しか収穫できませんので、高価なものになります。
 そこで、玉露の風味をもつお茶を安く提供するために、被覆期間を1週間前後として「玉露」より安価でできる「かぶせ茶」が考えだされました。

 さて、茶園に覆いをするとなぜ旨味が増すかについて書いておきます。
 お茶の成分にテアニンという成分があります。
 このテアニンはお茶の木の根で作られてから葉に移動し、日光に当たるとカテキンに変化します。
 テアニンはアミノ酸の一種で旨みがあり、カテキンには渋味があります。
 ワラやヨシズで覆いをすると光合成が抑制され、テアニンからカテキンへの変化が遅くなり、葉に含まれるテアニンの量が増えます。
 そのため、覆いをするとお茶が「まろやかな旨みを持った味」になります。
 さらに、茶の葉は覆いをして日光を遮断しても黄色くなったり白っぽくなったりせず、かえって葉緑素の量を増やして葉の色の緑が濃くなり、葉の表面の光沢を増し、葉の大きさははやや大きめになり、厚さは薄くなり、質は柔らかくなるなど、茶の品質が向上します。
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by wheatbaku | 2014-04-30 11:06 | 江戸の食文化 | Trackback
第四回模試正解(模擬試験問題)
 今日は、第4回の模擬試験問題の正解をアップします。
 問題は、 こちらをご覧ください ⇒  「江戸の食文化」第四回模擬試験問題 

c0187004_16334265.jpg 今回は、「幕末単身赴任 下級武士の食日記」からの出題でした。
 新書版ですので、しっかり読んでいれば、かなりの点数が採れたと思います。



1、 ②桜田門外の変  

 酒井伴四郎が、江戸勤番となったのは万延元年5月1日に和歌山を発ち、5月29日に江戸に着きました。
 安政7年3月18日に改元され万延元年となっていました。
 安政7年3月3日に井伊大老が暗殺された桜田門外の変が起きたことも改元の理由と言われています。
 

  参照25ページ

2、 ④衣紋方

 酒井伴四郎は、叔父の宇治田平三とともに江戸に行きましたが、叔父は膳奉行格衣紋方で、殿様の装束に関する責任者で、伴四郎にとっては上司でもあり師匠でもあります。
 伴四郎は、叔父様の指導を受けながら、着付けは装束に関する稽古をするのが仕事でした。

  参照51ページ

3、 ③姥が餅 

c0187004_16342870.jpg 中山道草津宿の名物餅は姥が餅でした。
 姥が餅は、上に白砂糖をのせた指頭大のあんころ餅で、南近江の守護大名六角義賢に幼児を託された乳母が生計のために売りはじめたものと言われています。 
 家康が讃え、芭蕉が食べ、蕪村が詠んだと言われています。

  参照33ページ

4、 ①なす  

 114ページに載っている表は、よく覚えた方がよいと思います。
 江戸検に出題されやすいデータが載っていると私は思っています。
 以前の江戸検一級で「酒井伴四郎が最も回数多く食べた魚は何か」という問題が出題され、私は不正解だった苦い記憶があります。
 回数の多少は当然ですが、いくら使用しているかなども覚えておいたほうがよいと思います。

  参照114ページ

5、 ③焼き豆腐   

 問4のコメントを参照してください。

  参照88ページおよび114ページ


6、 ②あんころ餅  

 「金龍山浅草餅本舗」の名物は、出題した通り「浅草餅」で、江戸時代の諸々の本に残されています。
 しかし、現在の「金龍山浅草餅本舗」の名物は「あげまんじゅう」で、「浅草餅」はほとんど製造されていません。
 仲見世で、お店をのぞいて、「浅草餅」が販売されていたら、迷わず買うことをお勧めします。貴重品です。

  参照138ページ

7、 ③大島桜  

c0187004_16382296.jpg 長命寺の桜餅は、長命寺の門番をしていた初代山本新六が桜の葉っぱの有効活用策として考案されたと伝わっています。
 大島桜の葉は良い香りがありますが、塩漬けされると一層よい香りとなり、桜餅の葉としては大島桜の葉が利用されています。

  参照137ページ

8、 ①汁粉  


 汁粉売りについて、守貞謾稿(「近世風俗誌(一)」309ページ)に、「三都ともに、この買を正月屋と異名す。 行燈にも正月屋と書ける者多し」と書かれています。
 酒井伴四郎は、夏でも、お汁粉を食べていたようですね。

  参照111ページ

9、 ②そうめん  

c0187004_16345478.jpg 七夕にそうめんを食べる風習は、古くからあり、平安時代の「延喜式」には、「そうめん」の原型といわれる「索餅(さくへい)」が、七タの儀式に供え物の一つとして供えられたと記録されているそうです。 
 これは、中国の故事に由来したもので、伝説の王の子供が7月7日に亡くなり、霊鬼となって、人々に熱病を流行らせました。そこで、熱病を防ぐために、その子供の命日に、子供が好きだった索餅を供えてお祭りするようになったといいます。

  参照178ページ

10、  ④麹町 

 「おてつ牡丹餅」は、胡麻・飴・黄粉の三色の牡丹餅でした。
 近くには、もう一つの名物で江戸のおける「どら焼き」の元祖ともいわれる、「助惣」があり、川柳に「助惣とおてつ、近所でうまい仲」と詠まれました。
 寺門静軒の「江戸繁昌記」には、「麹街は西郭の劇地、東西髪の如く、直に郭門を貫く。(中略)、而して食物には即ち助宗焼(すけそうやき)、於鉄牡丹餅(おてつぼたもち)、並びに名物と称す」とあります。

  参照54ページ


c0187004_16482621.jpg 第五回の模擬試験は、大久保洋子先生の「江戸のファーストフード―町人の食卓、将軍の食卓 (講談社選書メチエ) 」から出題します。
 5月中旬には、江戸検の参考図書が発刊されるそうですが、受験される皆さんが熟読できる頃を見計らって出題しようと思っています。

 江戸の食文化で、絶対はずせないのが、「寿司」「天麩羅」「鰻」「そば」です。
 これらは、江戸時代は、屋台で食べるファーストフードでした。
 「江戸のファーストフード」を熟読されて、「寿司」「天麩羅」「鰻」「そば」についての知識も習得されることをお勧めします。
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by wheatbaku | 2014-04-28 16:28 | 江戸の食文化 | Trackback
「見捨てられた城」(大河ドラマ「軍師官兵衛」第17回)
 昨日の「軍師官兵衛」は、「見捨てられた城」ということで、上月城の落城について描かれていました・

 今回は、個人的に興味のある人物が登場していましたので、今日はその人物について書こうと思います。
 その人物は、亀井進十郎です。
 昨日の「軍師官兵衛」では、羽柴秀吉に呼ばれ、上月城に籠城する尼子勝久と山中鹿介に対して「ここまでよく戦った。かくなる上は毛利に降伏せよ」と秀吉の伝言を伝えるよう指示されていました。
c0187004_11563920.jpg  そして、黒田官兵衛とともに上月城に入り、尼子勝久と山中鹿介にその旨を伝えました。
 しかし、尼子勝久は降伏せず、見事に切腹して果て、囚われの身となった山中鹿介は毛利方に殺害されます。

 亀井新十郎は、津和野藩亀井家の藩祖です。
 津和野は、山陰の小京都と呼ばれ掘割の鯉(右写真)で有名ですし、明治の文豪・森鷗外が生まれた土地としても有名です。
 江戸検では、津和野藩の藩校名養老館(右下写真)を問う問題が出題されたこともあります。
 こうしたことから津和野は、昔から関心もあり、行ってみたい観光地でもありましたので、この津和野を江戸時代の初めから250年に亘って、藩主として治めていた亀井家にも興味がありました。

 今回、その亀井家の藩祖の亀井新十郎が登場しましたので、亀井新十郎のちの亀井茲矩(これのり)について書きます。

 亀井新十郎は、弘治3年(1557)、尼子氏の家臣の湯永綱の長男として出雲国八束郡湯之荘(現在の島根県松江市玉湯町)に生まれました。

 新十郎は、成長した後、尼子勝久を奉じて山中鹿介が集めた尼子再興のための軍勢に加わり、天正元年(1573)には、但馬に出陣しています。
 そして、天正2年には、尼子の旧臣亀井秀綱の娘を娶り、亀井氏を継ぎました。
 山中鹿介は、亀井秀綱の娘を娶り、亀井氏を継いでいましたが、山中氏に復籍したためという説もあるようです。
 この説によれば、山中鹿介とは義兄弟の関係になります。
c0187004_1159359.jpg 尼子再興軍は人数が少なく、大大名となった毛利氏にはかなわなくなったため、織田家の力を頼るようになりました。
 そこで、亀井新十郎は、羽柴秀吉軍に組み込まれて、毛利氏と戦うようになります。
 尼子勝久と山中鹿介が上月城に入った時に、なぜ、亀井新十郎が入城しなかったのかわかりませんが、亀井新十郎は上月城陥落の際も命は助かり、以後、羽柴秀吉のもとで戦います。
 天正8年(1580年)の鳥取城攻略の際には、因幡国鹿野城の守備を命じられました。
 また、本能寺の変後の秀吉の中国大返しの際には後詰めとして鹿野城に残留したと言われています。
 また、中国大返しの際に、羽柴秀吉から、欲しい国を言えといわれたとき、「日本はすべて秀吉様のものになるので、できれば琉球国を拝領したいといって、秀吉から琉球守という名をもらったというエピソードがあります。
 文禄・慶長の役では朝鮮に出兵し、虎を仕留めたとも伝えられています。

 秀吉死後は徳川家康に接近し、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍方に与して戦い、戦後、加増され、3万8000石の鹿野藩初代藩主となります。
 慶長17年に鹿野城で56歳でなくなります。
 亀井茲矩の子政矩の時、津和野藩主であった坂崎家が改易されたため、坂崎家の跡を受けて4万3千石で津和野に転封しました。
 以後、明治維新まで、津和野藩は亀井家が治めていました。

 なお、国民新党の幹事長であった亀井久興氏は、津和野藩主亀井家の15代当主です。
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by wheatbaku | 2014-04-28 11:53 | 大河ドラマ | Trackback
巣鴨食文化散歩
 昨日は、毎日文化センターの食文化散歩で、巣鴨周辺の老舗を巡ってきました。
 少し暑いぐらいでしたが絶好の行楽日和で、食の勉強とお散歩を楽しんできました。
 ご参加いただいた皆様お疲れ様でした。

c0187004_11534827.jpg 昨日のコースは、地下鉄千石駅をスタートに次のようなコースで歩いてきました。
千石駅 ⇒ 伊勢五 ⇒ 巣鴨大鳥神社 ⇒ 徳川慶喜屋敷跡 ⇒ 福島家 ⇒ 東京種苗(榎本留吉商店) ⇒ 千川上水公園 ⇒ 岩田園 ⇒ 種子屋街道【日本農林社、鈴木重左衛門家跡、亀の子束子西尾商店、越部半右衛門家跡】 ⇒ 榎本孫八家  ⇒ 近藤勇処刑場所跡 ⇒ 近藤勇墓所

 今回お邪魔した老舗はお米屋の「伊勢五」、和菓子屋の「福島家」、お茶の「岩田園」、種子屋の「榎本孫八家」です。
 その様子をスナップでご紹介します。

c0187004_11541080.jpg 伊勢五の正確な創業年代は不明ですが、8代将軍吉宗の享保年間(1716~1736)には商いをしていたといわれています。
 伊勢五の名称は初代の伊勢屋五郎右衛門からとったものです。
 現在の当主は8代目で、通称として今井五郎右衛門を名乗っています。
 そのご当主が、伊勢五の歴史や国の登録有形文化財に指定されている母家・蔵について説明してくれました。
 母家は明治初期の建設、蔵は土蔵づくりの二階建てで大正12年頃の建築です。
 さらに、精米作業についても説明していただきました。

c0187004_1223172.jpg 「福島家」は幕末の文久元年(1861)には営業していた和菓子の老舗です。
 和宮が降嫁する時に巣鴨の町並み調査をした際の文書が残っていて、その中に、「福島家」の名前が「菓子商弥三郎(福島家)」として載っています。
 「福島家」には、江戸時代の和菓子の雛形帳(見本帳)が残されていて、それも見させていただきました。
 写真は、雛形帳をもって説明される5代目当主の福島専務さんです。
 雛形帳は、お客様から注文をいただく際に、見本として使用されたそうです。 
c0187004_11544970.jpg 雛形帳には、慶応3年の奥付があり、幕末には、利用していたものと思われます。 
東京の和菓子屋さんではあまり見かけない貴重なものを見させていただき皆さん感激していました。

 福島家さんでは、練り切りの製造工程も見学させていただきました。
 見させていただいたのは、今の季節に合わせた「ばら」という生菓子でしたが、スプーン一本で見事な「ばら」になっていく技に皆さん驚いていました。

 岩田園は、嘉永2年(1849)に初代岩田嘉右衛門が、滝野川村三軒家でお茶の栽培と製造を始めたお茶屋さんです。
c0187004_11551313.jpg 現在では、とても想像できませんが、幕末当時滝野川村付近は、お茶の栽培が大変盛んだったそうです。
 平成20年にお茶の販売だけでなく、素晴らしい日本茶を味わっていただくために「茶のしずく」というカフェを開店しました。
 6代目当主岩田社長さんには、「茶のしずく」の前で、お茶の歴史、お茶の種類、おいしいお茶の入れ方などについてご説明いただきました。
 日本茶インストラクターの資格をもっている社長の説明は、懇切丁寧でわかりやすお話で、質問をする参加者も何人もいました。


 榎本孫八家は、初代榎本孫八が興した種子屋で、滝野川の「三軒家」と称される大きな種子屋の一軒です。
c0187004_11553182.jpg ここの7代目当主の榎本様に、榎本孫八家の歴史についてお話いただきました、「
 榎本孫八家の創業時期ははっきりしませんが、江戸時代後期の文政年間以前に、創業したと考えられています。
 榎本孫八家は、大正半ばに帝国種苗ができた際に、種子屋は廃業しました。
 母家は、もともと中山道に面して明治末期に建築されたものですが、種子屋を廃業した後に、現在地まで家を曳いてきたそうです。

 今回の食文化散歩では、4人のご当主の方のお話を聞かせていただきました。
 ご当主の皆様お忙しい中でも、本当にご親切にご対応いただきました。
 本当にありがとうございました。心から感謝申し上げます。
 受講生の皆様も大変喜んでいただいたことを記しておきます。

c0187004_1158327.jpg 老舗のほかにも、巣鴨駅前の「徳川慶喜屋敷跡」(右写真)や板橋駅前の「近藤勇の墓所」なども案内させていただきました。
 ご参加いただいた皆さん、熱心に説明を聞いていただきありがとうございました。
 私の方も楽しくご案内できました。
 江戸検受験対策散歩と銘打ちましたが、江戸検のお役に立てたかどうか不安ですが、老舗との触れ合いができそれを楽しんでいただけたのであれば望外の喜びです。

 最期は、恒例の情報交換会という名の「飲み会」です。
 今回は、居酒屋が暗すぎたので、明るく撮れていませんが、皆さんの楽しそうな雰囲気はお分かりいただけることと思います。
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by wheatbaku | 2014-04-27 11:51 | Trackback
「江戸の食文化」第四回模擬試験問題
 今日は、第4回の模擬試験問題を出題します。 
c0187004_92173.jpg 今回は、「幕末単身赴任 下級武士の食日記」からの出題です。
 この日記の主人公は、紀州藩士の酒井伴四郎です。
 食通の酒井伴四郎は、江戸での食文化事情をこまかく書き残してくれました。
 酒井伴四郎に関係する問題は、過去に、江戸検で何度も出題されています。
 そのため、「幕末単身赴任 下級武士の食日記」は要チェエクの本だと思います。
 それでは、下記問題にチャレンジしてみてください。
 正解は、来週火曜日にアップします。

1、酒井伴四郎が江戸藩邸に勤番となり、「酒井伴四郎日記」を書いた年に起きた事件は次のうちのどれでしょうか?

 ①蛮社の獄  ②桜田門外の変   ③ペリー来航   ④蛤御門の変


2、酒井伴四郎の役職は何だったでしょうか

 ①薬込役  ②勘定方  ③台所方  ④衣紋方

3、酒井伴四郎は、叔父の宇治田平三たち4名および従者1名で、中山道を利用して江戸に下りました。
 酒井伴四郎は、その途中で、各所の名物を味わっていますが、草津では、名物の餅を5個も食べたと記しています。それではその餅はなんという餅でしょうか?

 ①五平餅  ②氷餅  ③姥が餅  ④力餅

4、伴四郎は、食べた内容まで細かく日記に書いていまが。
 それによると、江戸で食べた魚で最も多いのは「いわし」で48回食べています。
 それでは、野菜類の中で、最も数多く食べたのは何でしょうか。

 ①なす  ②大根  ③ねぎ  ④ごぼう

5、前問と同様な問題ですが、伴四郎が、惣菜類で、最も回数多く食べたものは次のうちどれでしょうか

 ①揚げ豆腐  ②白豆腐 ③焼き豆腐   ④あんかけ豆腐

6、酒井伴四郎は、浅草では「浅草餅」を食べています。
 浅草餅の由来は、享保年間に輪王寺宮に献上した際に『名物金龍山浅草餅』の御染筆をいただいたこと によります。現在でも「金龍山浅草餅本舗」は仲見世で営業をしていますが、創業以来340年以上たつ老舗です。
 それでは、この浅草餅は、どのようなお菓子でしょうか?

 ①くず餅  ②あんころ餅  ③さくら餅  ④かしわ餅

7、酒井伴四郎は、向島に遊びに行き、長命寺の門前で売られていた「長命寺の桜餅」も味わっています。
 「桜餅」は、江戸時代も大変有名な菓子で、滝沢馬琴編の「兎園小説」の中にも取り上げられているほどです。
 それでは、この桜餅を包んでいる桜の葉は、次のどの桜の葉でしょうか?

 ①染井吉野   ②山桜   ③大島桜  ④枝垂桜

8、酒井伴四郎は、正月屋と呼ばれた商売で売っているある物が大好きで毎月のように食べています。それでは、この「正月屋」が売っていて酒井伴四郎の好物であった物は何でしょうか

 ①汁粉  ②黒豆  ③きんとん ④蒲鉾

9、五節句のうち、人日の節句は七草粥、上巳の節句には菱餅、端午の節句には柏餅をたべるのが恒例でした。
 それでは、七夕の節句には、何が食べられたでしょうか
 もちろん、酒井伴四郎も、7月7日には、これを食べています。

 ①まくわうり ②そうめん  ③そば  ④あゆめし  

10、酒井伴四郎の好物は、「おてつ牡丹餅」でした。
 それでは、「おてつ牡丹餅」はどこで売られていたでしょうか?

 ①赤坂    ②新宿   ③牛込  ④麹町 
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by wheatbaku | 2014-04-25 08:53 | 江戸の食文化 | Trackback
お茶の歴史2 (お茶の話3  江戸の食文化42 )
 今日は、お茶の歴史に関する2回目です。

 前回、書いたように、長い間、お茶は上流階級で飲まれるもので、お茶の種類でいえば抹茶でした。
 しかし、現在の私たちが飲んでいるお茶は「煎茶」が主流です。
c0187004_10243774.jpg この煎茶を考案した人物が「永谷宗円」です。
 現在の宇治田原町湯屋谷の茶農家だった永谷宗円は、元文3年(1738)、煎茶製法を考案しました。
 宗円は抹茶(碾茶)の製法を基に、露天栽培のやわらかい新芽だけを用い、蒸してから焙炉上で始終手で揉みながら乾燥させるという新しい煎茶を編み出したのです。
 これを考案するのに15 年もの歳月をかけた言われています。
 後に、この製茶法は「青製煎茶」または発祥の地から「宇治製煎茶」 と呼ばれるようになり、永谷宗円は日本緑茶の創始者ともいわれるようになりました。

 永谷宗円直系のご子孫は、宇治市六地蔵で「永谷宗円茶店」を営業しています。
 また、お茶づけで有名な「永谷園」の創業者永谷嘉男も、永谷宗円につながっているそうです。

 永谷宗円が考案した「煎茶」の価値を認め、世に広めたのが、日本橋の「山本山」の4代目山本嘉兵衛でした。
c0187004_10245710.jpg 4代目山本嘉兵衛はこのお茶を「天下一」と名付けて販売し、たちまち江戸中で評判となりました。
 これにより山本家は大いに繁栄したため、永谷家に謝礼として明治時代まで毎年小判25両を贈り続けたといわれています。

 こうして、煎茶は、文化文政期に、広く社会に浸透し、生活に不可欠なものとなっていきました。

c0187004_10325341.jpg 「煎茶」の普及に貢献した「山本山」は、「玉露」も考案しました。
 「玉露」を考案したのは「山本山」の6代目山本嘉兵衛(徳翁)です。
 天保6年(1835)に6代目山本嘉兵衛が、宇治郷小倉の木下家において茶葉を露のように小さく丸く焙り乾燥させたところ、絶品に仕上がったといわれています。
 山本嘉兵衛は、これを「玉露」と名付けて売り出しました。
 これが「玉露」の始まりです。

 お茶は、幕末になると、海外に輸出されるようになります。
 お茶を最初に輸出したのは、長崎の女性商人大浦慶です。
 大浦慶は、安政3年(1856)に、お茶をアメリカに輸出しました。これが日本茶輸出の先駆けでした。
 それ以後、お茶は海外(主にアメリカ)に輸出され、戦前は、絹と並んで外貨獲得の重要な輸出品となりました。
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by wheatbaku | 2014-04-24 10:10 | 江戸の食文化 | Trackback
お茶の歴史1 (お茶の話2 江戸の食文化41)
 今日は、日本におけるお茶の歴史を書いていきたいと思います。

 日本では、元々山間部の奥地に自生していた「山茶(さんちゃ)」を飲んでいたという説もあるようですが、日本においてお茶がいつ頃から飲まれていたについては明確にはわからないようです。
c0187004_1333866.jpg しかし、お茶を飲むという風習が、中国から伝来したことは明らかなようで、平安時代には、最澄や空海が中国からお茶の種子を持ち帰ったという話が伝承されているそうです。
 お茶を飲んだということが、史料としてハッキリしているものは、平安初期に編纂された『日本後記』に、「弘仁6年(8158)に近江の梵釈寺に行幸した嵯峨天皇に、その寺の大僧都(だいそうず)であった永忠がお茶を煎じて奉った」と記述されていることだそうです。
 これが、わが国におけるお茶の喫茶に関する最古の史料といわれていますが、実際には、これ以前からお茶は飲まれていたと考えられています。
 しかし、このころのお茶は非常に貴重で、僧侶や貴族階級などの上層社会の人たちだけが口にすることができるだけで、一般庶民には手が届かないものでした。

 日本におけるお茶の歴史に大きな足跡を残したのは臨済宗の開祖栄西禅師です。
c0187004_136271.jpg 建久2年(1191)に栄西禅師は、宋から帰国した際、日本にお茶を持ち帰りました。
 栄西は、平戸や佐賀県の背振山で茶の実を播いたと伝えられています。
また、栄西は、お茶の効用からお茶の製法などについて著した『喫茶養生記(きっさようじょうき)』を書いていますが、これが、わが国最初の本格的なお茶関連の書といわれています。
 当時のお茶は、蒸した茶葉を揉まずに乾燥させ、それを粉末にして飲むという、現在の抹茶製法と同じような製法で作られお茶だったようです。

 その後、京都栂尾高山寺の明恵上人(みょうえしょうにん)が栄西より茶の種子を譲り受け栽培し、栂尾はお茶の栽培の中心地となりました。
 そして、それが宇治に伝わり、宇治でも茶の栽培が始まりました。
 鎌倉時代の末期には、お茶を飲み比べて産地をあてる「闘茶」という遊びが起こっています。
 この頃には、お茶は宇治でも栽培されるようになりましたが、「本の茶とは栂尾なり、非というは宇治茶の事なり」と呼ばれ、栂尾に劣っていたそうです。
 「丸久小山園」では、「栂尾は本茶と呼ばれ、宇治は非茶と呼ばれました」と説明してくれました。
 しかし、やがては、宇治のお茶が量質とも勝るようになります。
 そして、室町時代末期には、村田珠光、武野紹鴎によってお茶の礼式が整えられ、安土桃山時代に、お茶は、「茶道」として千利休により完成されました。
 
 江戸時代に入って、お茶も新たな発展がありますが、それについては、明日書きます。
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by wheatbaku | 2014-04-22 12:55 | 江戸の食文化 | Trackback
茶の分類(お茶の話1 江戸の食文化40)
 京都に行って、お茶について少し勉強してきましたので、今日から、お茶について数回に亘って書いていきたいと思います。

 まず今日は、お茶の種類の基礎知識について、書いていこうと思います。
 
 日本でお茶と言うと「緑茶」を言いますし、ここでも「お茶」と言った場合には「緑茶」のことを指すこととしたいと思います。
c0187004_113679.jpg しかし、全世界的に言うと、「紅茶」が最も生産されていて、約7~8割を紅茶が占めています。一方、緑茶は2~3割程度です。その他に私たちになじみのある「茶」として「ウーロン茶」などもあります。

 「茶」は、「発酵」をどの程度進めて製造するかによって、「不発酵茶」「半発酵茶」「発酵茶」に分類されます。
 なお、「茶」の分類で使用する「発酵」とは、は微生物による発酵ではなく、茶の葉に含まれるタンニンを酸化させ酸化発酵という作用を指すようです。
 「緑茶」が「不発酵茶」の代表で、「半発酵茶」の代表が「ウーロン茶」、「紅茶」は発酵茶の代表ということになります。
緑茶は、お茶の葉を摘み取ってすぐに加熱し、発酵(酸化発酵)しないようにして作ったのが緑茶です。
十分に発酵させてつくるものが紅茶です。
その中間に位置するのが半発酵茶です

 「江戸の食文化」で対象となるのは「緑茶」ですので、これからは、「緑茶」の代表的な種類を書いておきます。
c0187004_1133397.jpg 緑茶は、それを「蒸す=蒸し製法」のものと「釜炒り製法」で作られるものとに大きく分類されます。
 「釜炒り製法」で製造される物は、現在では、九州の一部で製造されているだけで、代表的な「抹茶」「煎茶」「玉露」をはじめとするほとんどの「緑茶」が、「蒸し製法」で製造されています。

碾茶(てんちゃ)・抹茶(まっちゃ)
 よしず等で覆いをし、直射日光を避けた茶の新芽を原料としたお茶で、摘んだ新芽を蒸してそのまま揉まずに乾燥します。これが碾茶です。
 碾茶を石臼で粉にすると抹茶になります。

煎茶(せんちゃ)
 現在、日常的に飲まれているお茶で、摘んだ茶の新芽を蒸し、それをを揉(も)みながら乾燥したものです。

玉露(ぎょくろ)
 よしず等で覆いをし、直射日光を避けた茶の新芽を、煎茶と同様に蒸した後揉んで乾燥させたものです。
 煎茶との違いは、直射日光を当てた茶葉を利用するか、覆いをした茶葉を利用するかが大きな違いです。

 緑茶については、以上の代表的な茶の他にもいろいろあります。
 それらについては、お茶の歴史を書いた後で書こうと思います。
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by wheatbaku | 2014-04-21 10:56 | 江戸の食文化 | Trackback
「上月城の守り」(大河ドラマ「軍師官兵衛」第16回)
  今回の「軍師官兵衛」は、尼子勝久と山中鹿助の守る上月城に対して毛利軍が大軍を差し向けてきます。
  そこで、今日は、敵方毛利において、「毛利両川」と称され重要な役を果たしていた「た吉川元春」と「小早川隆景」について書きます。

 吉川元春は、毛利元就の次男として安芸吉田郡山城で生まれました。
c0187004_153192.jpg 長兄の毛利隆元より「元」の字を貰い元春と名乗りました
 18歳の時に、母方の従兄の吉川興経の養子となります。
 これは吉川家臣団の求めがあったとされているようですが、毛利元就は興経を強制的に隠居させ、元春に家督を継がせた後に、興経とその実子・千法師を殺害して、吉川家を事実上乗っ取ったりました。
 吉川家は、藤原家の流れを汲む名族で、元々は、駿河国吉川(現在静岡市清水区吉川)に由来した姓です。鎌倉時代末期に安芸国に移住し、以後、小倉山城(北広島町)を拠点にしていた一族で、毛利元就は、この吉川家から妻を娶っています。
 吉川を継いだ吉川元春は、拠点が中国山中にあることから、主に、山陰地方の政治・軍事を担当しました。
 尼子氏を滅ばした第二次月山富田城の戦いでは主力として戦い、尼子氏を滅亡させています。
 元亀2年(1571)、毛利元就が死去すると、その跡を継いだ毛利輝元(元就の孫)を弟の小早川隆景と共に補佐しました。
 吉川元春は、勇猛果敢な武将であり、攻撃を主張する強硬派の面が強く、後に本能寺の変が起き、羽柴秀吉が、高松城から引き揚げる際にも追撃を主張したと言われています。


 小早川隆景は、毛利元就の三男として生まれます。吉川元春は同母兄です。
 8歳の時に、竹原小早川氏の当主小早川興景が死去した際、継嗣が無かったため、小早川家の重臣の求めに応じて、隆景は竹原小早川家の当主となります。
c0187004_1533440.jpg 一方、毛利元就は、小早川氏の本家沼田小早川家の当主繁平を隠居させ、隆景を繁平の妹に娶せ、沼田小早川氏を乗っ取る形で家督を継がせました。
 小早川氏は、その先祖をたどると始祖は鎌倉時代初期の武将土肥実平になります。
実平の子遠平が、相模国小早川(神奈川県小田原市付近)を支配して小早川の名字を称したのが始まりと言われています。
 小早川氏は、安芸国沼田荘(現在の広島県三原市)の地頭職となりました。また、承久の乱以後、安芸国竹原荘(現在の広島県竹原市)の地頭職を加えられました。
 沼田を領した小早川氏は、沼田小早川氏と呼ばれ本家筋でした。一方竹原を領した小早川氏は、竹原小早川氏と呼ばれました。
 両家は、しばらくの間分立していましたが、小早川隆景が両家の当主となることによって、沼田・竹原の両小早川氏が統合されました。
 小早川氏は、瀬戸内海の海賊衆も配下にもっていたことから、小早川隆景は、毛利水軍の指揮者としても活躍します。
 厳島の戦いにおいては、陶晴賢の水軍を破る大手柄をたてています。
 毛利元就が死んだ後には、甥の毛利輝元を補佐し、主に山陽方面の軍事を担当するとともに、小早川隆景は、柔軟な思考も持ち合わせて、毛利家の外交面も担当し、毛利家の存続に大きな役割を果たしました。

 右写真は、ウィッキペデアからの転載です。
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by wheatbaku | 2014-04-19 18:45 | 大河ドラマ | Trackback
鮒ずし(江戸の食文化39)
 江戸の食文化の代表に掲げられるのが寿司です。
 その寿司の起源は、「なれずし」だと言われています。
 その「なれずし」の姿を現在に残しているのが「鮒ずし」だと言われています。

c0187004_1405729.jpg 京都に行った際、鮒ずしを京都駅で見つけましたが、老舗のものでなかったのであきらめて、大津市にある 明治2年創業の老舗「阪本屋」の鮒ずしを取寄せて食しました。
 そこで、今日は、「鮒ずし」のお話です。
 
 すしの起源は、紀元前4世紀頃の東南アジアまで遡ると言われています。
 タンパク質をおぎなうため、飯の中に塩味をつけた魚を漬けて発酵させる魚肉を保存す方法だったとされています。
 これは、内臓を処理した魚を米飯に漬け、米飯の乳酸発酵によって魚の保存性を高めた食べ物でした。
 このすしを「なれずし」と呼び、数十日から数カ月たったところで魚をとりだし、魚だけを食べ、米は捨てられていました。

 近江の「鮒すし」は、鮒を用いて作られる「なれずし」の一種で、米の発酵を利用した保存食です。
 鮒ずしの起源は、千数百年以上前に、稲作技術とともに中国より伝わったものであると言われています。
 近江の「鮒ずし」は、古くは延喜式(927年)の中にも記されているそうです。
c0187004_1453440.jpg 「鮒ずしは」滋賀県の郷土料理で、滋賀県指定無形民族文化財に選ばれました。
 主に琵琶湖の固有種であるニゴロブナが使用されます。
 オスメスともに使われますが、子持ちのメスのものが高価だそうです。

 春の産卵期に、子持ちのニゴロブナの内臓を除き、たっぷり塩を詰めたものを多数桶に詰め重しを乗せて塩漬けにします。
 夏場まで3ヶ月ほど塩漬けにした後、鮒を取り出して水で良く洗い、さらに水に浸けて塩抜きをします。
 次に塩を混ぜた飯を鮒の身の中に詰めます。桶の中に鮒だけでなく飯も交互に敷き詰め、鮒は身の内と外から飯に囲まれた状態で敷き詰められます。
 落とし蓋の上から重しがかけられ、念入りにする場合には、落としぶたの上に水を張って外気を遮断します。
 こうして、桶を涼しいところにおいて、鮒と飯を発酵させます。
 
 鮒は乳酸発酵によって腐敗が防止され、アミノ酸などのうま味成分が増してきます。
 こうしてできるのが鮒寿司です。

 真空パックで送られてきた「鮒ずし」には、食べ方の説明書がついていました。
c0187004_145553.jpg それによると次の三種類が提案されていました。
 ①鮒に付いている白いごはん粒を洗わずに切り、切身をそのまま、または醤油を少しつけて、酒の肴としてたべる。
 ②お椀に切身を2~3片いれ、食塩と鰹だしをいれて、熱湯か茶をそそぎ即席のお吸い物としてたべる。
 ③御飯に2~3切いれて醤油を数滴たらし、お茶漬けにしていただく。

 この3種類の食べ方の中から、ためしに、酒の肴として、鮒ずしの切身をそのまま食べました。
 強烈な匂いがすると聞いていましたので、こわごわ食べてみましたが、匂いはまったく気になりませんでした。
 ほどよい酸味があり、お酒の肴として素晴らしい味でした。ごはん粒も食べてみましたが、ヨーグルトのような酸味があり、苦にはなりませんでした。

 そこで、翌朝には、お茶づけにして食べようと楽しみにして冷蔵庫に入れておきました。
 しかし、翌朝、「鮒ずし」を食べてみて驚きました。
 発酵が一気にすすみ、酸味が強くなりすぎていました。それでもお茶漬けにして食べてみましたが、前夜のほうがずっとおいしかったですね。
 やはり、開封したらすぐに食べた方がよいように私は思いました。
 ちなみに注文したのは、鮒ずしお試しサイズ1700円で、一人ですぐに食べられるほどの量です。
 
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by wheatbaku | 2014-04-18 13:54 | 江戸の食文化 | Trackback
  

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