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大手門と三百年の松(浜離宮①)
今日は、浜離宮について書いてみます。

大手門
 浜離宮には大手門がありました。
c0187004_2255673.jpg 浜離宮は、江戸城の出城だという人もいて、城郭の造りが取り入れられていて、ここは、まさに城門のつくりとなっています。
 江戸時代の城門の造りは、多くが枡形と言われる作りをしています。
 大手門口は まさに、この形になっています。駐車場が枡形です。そして石橋のところに木橋の大手門橋が架かっていて、高麗門がありました。そして、浜離宮の入り口に渡櫓門がありました。
 浜離宮の枡形、櫓台は、江戸城のどれよりも大きなものでした。
 大手門枡形 43メートル×27メートル(24間×15間)
 大手門櫓台 33メートル×奥行8メートル(18間×4間) 
 

三百年の松
 浜離宮の歴史は、元々は、3代将軍家光の次男の甲府宰相徳川綱重の屋敷でした。
c0187004_1103893.jpgc0187004_2261267.jpg その後、綱重の子綱豊が、五代将軍綱吉の養子となり、将軍家の別邸となりました。
 その綱豊は、徳川家宣と名前を替え、宝永6年(1709)に6代将軍となりました。 
 その年、家宣が、この庭園を大改修し、その時「浜御殿」と改称されました。
 その時に、この松は植えられたと伝えられていて、植えられてからおよそ300年たつため「三百年の松」と呼ばれれています。
 高さが10メートル、正面が17.7m、幹回り4.4mあり、都内では最大級の黒松です。
 黒松は、木肌が黒っぽいので黒松とよばれます。隣にあるのが赤松で木肌が赤っぽくなっています。
 この松の手入れが春と秋に行われますが、春に松の新芽を摘む作業をみどり摘みといい、秋に古い葉を手でしごき取る作業を「もみあげ」と呼びます。
 みどりつみには4人がかりで5日、もみあげには4人がかりで10日かかるそうです。
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by wheatbaku | 2014-05-31 20:00 | 大江戸散歩 | Trackback
榧の実油と椿油(油の話4 江戸の食文化49)
今日は、「食文化」のお話で、「油の話」です。
 「油の話」は前回まで、江戸五大油のうち、荏胡麻油、胡麻油、菜種油まで書きました。
 今日は、「榧(かや)の実油」と「椿油」について書きます。

 皆さんは「榧(かや)」という木をご存知ですか?
 榧の木は意外と知られていないのではないでしょうか

c0187004_1675785.jpg 榧(かや)は、イチイ科の常緑針葉樹で、イチョウと同じように雄株と雌株が異なっています。
 幹は直立し樹の高さは20m、周囲は3mほどまでなり、樹形は幅の広い円錐形になります。
 木の成長は非常に遅いのですが、寿命は長い樹木です。
 枝の様子などはモミなどに似ていますので、モミの木をイメージするとよいかもしれません。
 榧の木は、碁盤・将棋盤として利用され、宮崎県産のものが有名です。

 そんな榧の木ですが、東京で身近に見られる巨木があります。
 それは、増上寺南東端の慈雲閣の裏手にある榧の巨木です。
 目通り(地上1.5mの高さ)の直径約1.3m、樹高約25mあります。
 樹齢は推定で600年を超える雄株だそうです。
 港区の天然記念物に指定されています。

c0187004_16124167.jpg 榧の実油は、榧の種子から採られます。
 なお、種子は食用となり、アクが強いので数日間アク抜きしたのち煎るか、土に埋め、皮を腐らせてから蒸して食べるます。
 徳川家康が鯛の天ぷらを食べて亡くなったと言われますが、この時に使用した油が榧の実油であると言われています。
 また、榧の実油は食用のほか灯火用にも使われます。


c0187004_16183445.jpg 五大油の最後は「椿油」です。
 椿油は、ツバキ科のヤブツバキから採られる油です。
 椿油は、頭髪用として大変有名で、頭髪油と思われがちですが、江戸時代から高級食用油としても使われてきました。
 椿油で揚げると揚物は軽い仕上がりになります。また、椿油で揚げると他の植物油と比べて長い時間、カラッとした感じが保たれるようです
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by wheatbaku | 2014-05-28 13:05 | 江戸の食文化 | Trackback
「松寿丸の命」(大河ドラマ「軍師官兵衛」第21回)
 今日は、「軍師官兵衛」について書きます。

 黒田官兵衛が、荒木村重に幽閉され連絡がとれなくなったことにより、官兵衛が村重に加担した誤解した織田信長は、人質になっていた松寿丸を殺害するように命じます。

 秀吉も反論しますが、抗しきれず。信長の命令に服します。
 黒田家譜によると、竹中半兵衛も信長に抗弁しますが、信長が成敗を強く指示したため、やむえず承諾します。

 通常であれば、松寿丸の命は、ここでなくなったでしょう。
 しかし、竹中半兵衛は、こっそりと松寿丸を自分の領地菩提山城下に匿います。
c0187004_11203534.jpg 竹中半兵衛の領地は、現在の岐阜県不破郡垂井町にありました。有名な関ヶ原の東になります。
 右は、垂井町にある江戸時代の竹中家の陣屋跡です。竹中家は、江戸時代は交代寄合でした。

 竹中半兵衛は松寿丸を家臣の不破矢足の屋敷に匿いました。
 不和矢足は、半兵衛の重臣だったようです。矢足というのは変わった名前ですが、戦いの時に足に矢が刺さったのにもかかわらず、敵を討ち取ったことによるようで、「やそく」と読むようです。
 
 有岡城から官兵衛が助け出されると、松寿丸も許され岩手を去るとき、不破矢足の屋敷に銀杏の木を植えたと伝えられています。
 今、不破矢足の屋敷跡は、五明神社となっていて、松寿丸が植えた銀杏は、大河ドラマの最後に放映されたように現在も残っています。
 また、松寿丸は、菩提山を離れる時に、半兵衛の妻得月院にいつも肌身離さずもっていた守り本尊を譲るとともに、腰に指していた太刀も進呈したといいます。
 命を守ってくれたことに対する感謝を表したわけです。

 それだけでなく、松寿丸(成長して黒田長政)は、関ヶ原の戦いの後、福岡藩52万石の藩主となった際に、竹中半兵衛の孫重次を3千石で、不破矢足の子喜多村太郎兵衛を1千石で召し抱え、竹中家の恩に報いました。
 
 松寿丸が、許されて、姫路に帰るのは、有岡城が陥落して、官兵衛が救出された時です。
 しかし、この時には、竹中半兵衛は、すでにこの世の人ではありませんでした。

 竹中半兵衛は、天正7年6月13日に、三木城包囲の最中、平井山麓の農家でなくなりました。享年36歳でした。
 黒田官兵衛が、有岡城から救出されたのは、天正7年10月12日のことです。
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by wheatbaku | 2014-05-27 11:21 | 大河ドラマ | Trackback
亀の子束子西尾商店(巣鴨食文化散歩 )
 先週土曜日の浜離宮・芝離宮散歩の中で、巣鴨食文化散歩で訪問した亀の子束子(たわし)西尾商店が話題になりました。

c0187004_928956.jpg 巣鴨食文化で訪問した老舗については、大部分、このブログで紹介しているのですが、「亀の子束子(たわし)西尾商店」については、まだ紹介していませんでした。
 そこで、参加されたSさんからぜひブログに書いてほしいというお話をいただきましたので、今日は、「亀の子束子(たわし)西尾商店」をご案内します。

 皆さん、亀の子束子(たわし)はご存知だと思います。
 その亀の子束子を作っているのが、「株式会社亀の子束子西尾商店」です。

 旧中山道沿いにある大正風の建物の会社です。
 JR板橋駅からは8分程度、都営三田線西巣鴨駅からは5分のところにあります。


 「亀の子束子西尾商店」は、明治40年に創業した老舗です。
c0187004_9284140.jpg 西尾商店の初代社長西尾正左衛門が東京本郷真砂町にて棕櫚(しゅろ)製の亀の子束子を発明しました。
  西尾正左衛門の奥さんがマット用に棕櫚(しゅろ)を棒状に編んだものを二つに折って掃除しているのを見て、亀の子束子を考案したそうです。
 「亀の子」という名前は、形が亀に似ていること、水に縁があること、亀は長寿で縁起がいいことから命名されたそうです。
 そして明治41年に実用新案と商標登録をあわせて取得しました。
 当時の亀の子束子が店内に展示されています。右上写真の左が当時のものです。
 関東大震災で、本郷真砂町の事業所は壊れてしまいましたが、滝野川は大丈夫であったため滝野川に移転し、以後、現在まで、滝野川で営業を続けています。

 
c0187004_9304697.jpg 現在は、パームやしの繊維を利用して亀の子束子を製造しているそうですが、亀の子束子の製造は、すべて手作業だそうです。
 材料となるパームの繊維を均一に巻き込むのは、微妙な締め付け加減があり、機械ではできないそうです。
 巣鴨食文化散歩に御一緒した江戸検協会のUさんは、西尾商店で、実際に束子の製造を体験したそうですが、 パームの繊維をまくのが非常に難しかったと教えていただきました。

c0187004_9311010.jpg 「亀の子束子西尾商店」は、土曜日・日曜日は休業ですので、巣鴨食文化散歩の際には、外観しかご案内できませんでした。
 平日にお邪魔すると店内には、明治40年当時の束子から現在のまでの束子の現物が展示されていました。
 また、束子のできるまでの様子も説明されています。
 もちろん、亀の子束子も販売されています。
 亀の子束子がずらりと並んでつりさげられているのは壮観でした。
 また、「亀の子束子」という言葉が広辞苑にのっているということも、教えていただきました。
 商品名が、普通名詞になるなんてすごいですね。

 Sさん、「亀の子束子西尾商店」を尋ねるのは、平日がよろしいと思います。
 ぜひお出かけください。

 赤印が「亀の子束子西尾商店」です。

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by wheatbaku | 2014-05-26 09:24 | 江戸の老舗 | Trackback
浜離宮・芝離宮散歩
 昨日は、毎日文化センターの講座「江戸の名園を歩く」が開催され、受講生の皆さんと浜離宮と芝離宮を散歩してきました。

 今回は、浜離宮と芝離宮だけの案内ですが、浜離宮は見どころが多く、すべてをご案内できませんでしたが、主な見どころを案内した後、芝離宮を案内しました。c0187004_113722100.jpg
 昨日は、少々暑かったですが雲のない快晴で、庭園の緑を越えて吹いてくる風が心地よく感じられる中での散策でした。
 天候にも恵まれ、参加者の方も、いつもごとく熱心な方ばかりで、楽しく案内ができました。
浜離宮・芝離宮とも回数多く訪ねた方はあまりいなかったので、新しい発見ができたと喜んでいただきました。
 ご参加いただいた皆様大変お世話になりありがとうございました。

 それでは、当日の主な場所でのスナップをご紹介します。
浜離宮には、入口近くに、立派な松があります。そこで、家宣が宝永6年(1709)に植えたとされる三百年の松をご案内しました。
 三百年の松は、右上写真です。

 浜離宮は、現在では庭園というイメージが強いのですが、江戸時代には、庭園以外に、様々な機能を持っていて、松平定信が建てさせた大きな籾蔵が建っていました。
 c0187004_1138482.jpg松平定信は諸大名に対して、寛政元(1789)年に飢饉に備えて米穀の備蓄を命じました。これを「囲い米」と言います。
 そして、諸大名に命じるだけでなく、幕府も寛政元年と同7年に浜御殿内の内堀広場周辺に、各年それぞれ2棟、合計4棟の籾蔵を建てました。
 こちらの説明板をみる参加者です。

 将軍お上がり場は、将軍が船で来てここからあがりました。家斉は、隅田川で遊覧した後に浜離宮に寄ったり、直接、江戸城からここに船で来りしたようです。
c0187004_1140664.jpg 13代将軍家定までは、ここは遊びのための楽しい上陸地点でしたが、14代将軍家茂と15代将軍慶喜にとっては悲しみの上陸地点でもありました。
 家茂は、長州征伐の最中大阪城で死亡しますが、亡骸は幕府軍艦長鯨丸により海路品川まで運ばれ小舟(大茶船)に移されここから上陸しました。
 慶喜は、鳥羽伏見の戦いで敗れ、大阪城から、会津藩主松平容保、老中板倉勝静らごく少数の人たちと軍艦開陽丸で逃げ帰って慶応4年1月12日8時30分過ぎに上陸したのがここです。
 
 お上がり場の説明の最中には、水路を船が航行していきました。右写真は、お上がり場と船を見る参加者の皆さんです。

 現在、鴨場の施設が見られるのは全国で5箇所しかないとのことですが、東京では浜離宮恩賜庭園のみです。
c0187004_11404069.jpg 浜離宮には、 新銭座鴨場と庚申堂鴨場という二つの鴨場があります。
 庚申堂鴨場は、10代将軍家治が作ったもので、安永7年(1778)に作られました。
 11代将軍家斉は、鷹狩が大好きでしたので、ここを大いに活用しました。
 説明板には、こうした歴史のほか、鴨場での鴨猟の方法も説明されていて、参加者の皆さんも興味深くみていました。

c0187004_1141182.jpg 中島の御茶屋は、浜離宮の中心施設で、ここで歴代将軍とお客様が景色や食事を楽しみました。
 中島の茶屋は、宝永4(1707)年に、家宣によって建てられました。
その後、2回焼失し、現在の建物は、昭和58年に、日本宝くじ協会の支援を受けて復元されたものです。
 ここでは、抹茶セットをいただいて休憩する予定でしたが、昨日は30分以上時間がかかるとのことで、抹茶セットはあきらめ、休憩のみとしました。
 写真は、露台で、談笑する参加者の皆さんです。

 浜離宮の案内の後は、芝離宮に向かいました。芝離宮までは10分強歩きます。
 芝離宮は、浜離宮に比べるとだいぶ小さいので、一時間弱で、ご案内できました。
c0187004_11415183.jpg 芝離宮は、貞享3年(1686年)、大久保忠朝が、上屋敷内に庭園を造り、楽寿園と名付けたのが始まりです。その後、所有者が数人変わり、幕末には、紀州徳川家の別邸となりました。
 明治になると、有栖川宮熾仁親王邸となったあと、離宮になり、大正13年(1924年)、昭和天皇の御成婚を記念し、東京市(現東京都)に下賜されたものです、
 大山は、芝離宮で最も高い場所で、ここに上ると庭園全体が眺望できます。
 ここでは、参加者の皆さんはカメラのシャッターを切っていました。

c0187004_11421313.jpg 芝離宮の見どころとして、西湖の堤があります。
 西湖は、中国の杭州にある湖で、そこには、中国の詩人で政治家でもある蘇東坡(そとうば)が築いた堤防があり、西湖の堤または蘇堤と呼ばれます。
 芝離宮の西湖の堤は、風光明媚な西湖の堤を模した石造りの堤です。
 西湖の堤は昔から、詩歌や絵画の題材として珍重されました。そのため、小石川後楽園にも同じような西湖の堤があります。
 写真中央を斜めに横切っている堤が西湖の堤です。

 散歩の後は、恒例の飲み会です。
 「飲み会というと飲みすぎるから、これからは反省会と呼ぶようにしよう」というジョークが出るほど、参加者の皆さんは大いに飲まれました(ただし、男性の皆さんです)。
 
 飲むだけでなく会話も大いに盛り上がり、気が付くと2時間30分経っていました。
 そこで、「それでは、最後に、皆さん、ハイ、チーズ」
 ご参加された皆さん、楽しい散歩と飲み会ありがとうございました。
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by wheatbaku | 2014-05-25 11:31 | 大江戸散歩 | Trackback
菜種油 (油の話③ 江戸の食文化48)
今日は、菜種油について書きます。

 菜種油は、江戸時代からの代表的な油で、現在でも重要な油です。
 c0187004_1414205.jpg 菜種油はアブラナの種子からとることは良くご存知だと思います。
 アブラナは、アブラナ科の二年生植物です。
 原産は、西アジアから北ヨーロッパと考えられています。
 日本へは中国から渡来し、弥生時代以降から利用されていたと言われています。
 中世までは、菜食用に栽培されていました。

c0187004_14151185.jpg 江戸時代になって、植物油の採油目的として栽培されるようになりました。
 菜種油は、大坂で搾油されるようになったと伝えられ、主に灯油として利用される他、食用としても利用されました。
 そして、菜種油は、他の油に比べ良質なため、次第に他の油に替って需要が伸びるようになりました。

 江戸幕府は、当初、麦作の妨げとなることから、田畑に植えることを認めませんでしたが、元禄年間頃から、油の増産と流通に努めるようになってきました。
 こうして、菜種油が増産されて、正徳年間になると、菜種油は、胡麻油を圧倒しました。
 正徳4年に、大坂に入ってきた胡麻油は1万7千石、菜種油は15万石、大坂から送り出された胡麻油は2千石に対して菜種油は3万3千石超えていました。
 菜種油が、胡麻油の10倍前後も取引されていました。
 菜種油が胡麻油を圧倒したのは、安価だったためです。

 現在では、菜種油は、国内の需要量、生産量ともに最も多い油です。
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by wheatbaku | 2014-05-23 14:08 | 江戸の食文化 | Trackback
胡麻油(油の話② 江戸の食文化47)
 昨日は、日本で最も古くから利用されてきたと言われる荏胡麻油について書きましたが、
 今日は、荏胡麻油と同様に古くから利用されてきた胡麻油について書こうと思います。

 胡麻は、ゴマ科に属する一年生草木で、原産地はアフリカといわれ、古代から世界各地で栽培されてきました。
 胡麻という漢字は、胡は「えびす」とも読まれ西方を意味し、油が多いので「麻」の字をあてたと言われています。
c0187004_13363077.jpg その胡麻が、いつ頃日本に渡来したかははっきりしないようですが、縄文末期の遺跡には胡麻の種子が発見されているようです。
 そして、仏教の伝来とともに大陸から胡麻と一緒にその搾油技術が伝わり、油が採られ、灯油がつくられるようになりました。
 貴重品のため、大化の改新(645)の頃の「賦役令」には、胡麻油と荏胡麻油が現物税として朝廷に献上されたことがのっているようです。
 しかし食用とされたのは平安時代からといわれています。
 胡麻は、最初、京都を中心とした近畿地方で栽培されましたが、それが次第に各地に広がっていきました。
 奈良時代の「正倉院文書」では、尾張と豊後で胡麻が栽培されていたことがわかるそうです。
 奈良時代には、胡麻油は、大変貴重なもののため非常に高価だったそうで、伊豆国では胡麻油は米の4.5倍もしたそうです。
 そのため、胡麻油は、朝廷、貴族などの高貴の人だけしか食せませんでした。
 平安時代の「延喜式」の中では、越中以南の、伊勢・尾張・美濃・但馬・因幡など15の国から貢出されることとなっていました。
 また「延喜式」では胡麻は薬としても利用されていたことが書かれているそうです。
 しかし、当時は、主に灯火用に使用され、その他、食用、薬用、工芸用に使われました。

 中世から戦国時代において、京都大山崎の離宮八幡宮が中心となった搾油が行われ、油座が専売権をもっていたことは昨日書きましたが、胡麻油も当然油座の対象でした。

c0187004_13365511.jpg 江戸時代になると、胡麻の栽培は 全国に広がります。
 元禄10年(1697)に発行された「本朝食鑑」は、胡麻について次のように書いています。
 「胡麻はよく蒸して を打ちし。袋を圧し絞って、したたり落ちた油を取る。食油や灯油や雨具や塗髪に用いる。とりわけ灯油に最もよく利用している」

 守貞謾稿では、半平の項で
 「京阪にては半平を胡麻油揚げとなし、号けててんぷらといい、油を用いざるを半平というなり、江戸にはこの天麩羅なし。江戸にはこの天麩羅なし。他の魚肉・海老等に小麦粉をねり、ころもとし、油揚げにしたるを天ぷらという。この天麩羅。京阪になし。これあるは、つけあげという。」 (岩波新書「近世風俗史」五の105ぺージ)
 と書いてあり、胡麻油が天麩羅に使用されていたことが推測できます。

 現代では、胡麻油の原材料は、ほとんど輸入に頼っていて国産の胡麻はごく少量です。
 胡麻油には焙煎してから搾るものと、焙煎せずに搾るものとがあります。
 油の色と香りは、胡麻の煎り具合によって違います。
 時間をかけて焙煎したほうが、、油の色は濃く仕上がり、香ばしい香りが強くなります。
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by wheatbaku | 2014-05-22 14:00 | 江戸の食文化 | Trackback
荏胡麻油(油の話① 江戸の食文化46)
今日から、食用油について書いていきたいと思います。

 先日の食文化第5回模擬試験でも、油に関する問題を出題しましたので、それをフォローする意味もあります。

c0187004_14445272.jpg  江戸時代に主に利用されていた油は、次の5種類と言われています。
 ①荏胡麻(えごま)油 ②胡麻油 ③菜種油 ④榧(かや)の実油 ⑤椿油

 これらについて書いていこうと思いますが、今日は、荏胡麻油について書いていきます。
荏胡麻油は、荏胡麻から採ります。
 荏胡麻は、シソ科の一年草です。原産地は東南アジアですが、日本国内の縄文時代の遺跡から荏胡麻が出土しているので、縄文時代から栽培されていたと考えられています。
  荏胡麻は、東北地方では「じゅうねん」とも呼ばれますが、これは、荏胡麻を食べると10年長生きすると信じられていることによります。

c0187004_14534984.jpg 荏胡麻は、胡麻と同じように炒ってからすりつぶし、薬味としたり、味噌を入れてよく混ぜた「荏胡麻味噌」などとして食用にされました。
 福島県では、「じゅうねん味噌」と呼ばれる郷土料理があるようです。

  荏胡麻の種子は35~40%の油を含んでおり、これを搾りとったのが荏胡麻油です。
 荏胡麻油は、荏油(えのゆ)とも呼ばれます。また、荏胡麻はシソ科の植物であるため、荏胡麻油のことを「シソ油」と呼ぶこともあります。

 菜種油が普及するまでは日本で油と言えば荏胡麻油でした。
 荏胡麻油は、荏胡麻の種子を押しつぶして油を採っていたため労力と時間がかかり貴重品で高価でした。
 そこで、灯明に主に用いられました。
 当初は、神社仏閣用の燈明用油として利用されていましたが、その後一般の家々でも灯り用に使用されるようになり日本全国に広まってゆきました

 京都の大山崎にある離宮八幡宮によると、平安時代の貞観年間、離宮八幡宮の神官が神示を受けて「長木」という搾油器を発明し荏胡麻油の製油を始めたと言います。
 「長木」というのは、いってみれば「テコ」で、これにより種子を押しつぶして油を採りだしていました。
c0187004_14451667.jpg  この方法により搾油した油が全国の神社仏閣に奉納され、この業も全国に広まったため、離宮八幡宮は朝廷より「油祖」の名を賜ったそうです。
 そのため、境内には右写真のように「本邦製油発祥地」の碑がたっているようです。
 また、油座が作られ、離宮八幡宮は油の専売特許を持っていたため、諸国の油商人は離宮八幡宮の許状無しには油を扱うことはできませんでした。

 下剋上で有名な戦国大名の斉藤道三は、油商人から身を立てたと言われていますが、この斉藤道三が売っていたのが荏胡麻油だそうです。
 当時は、食用に売っていたわけではなく、主に灯明用に売られていたと言います。

 また、荏胡麻油は、さらさらした状態ではなく、すぐに固まる性質をもっています。そこで、その性質を利用して、荏胡麻油は油紙や雨傘等にも用いられてきました。

 荏胡麻油は、菜種油の普及により、すっかり忘れられていました。
 しかし、最近は、荏胡麻には豊富にα-リノレン酸が含まれていることが分かり、近年の健康ブームなども手伝って、再び注目されているようです。
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by wheatbaku | 2014-05-21 14:49 | 江戸の食文化 | Trackback
千川上水公園(巣鴨食文化散歩8)
 「巣鴨食文化散歩」では、江戸の六上水の一つ千川上水の史跡も案内しました。
 それは、「千川上水公園」です。そこで、今日は「千川上水公園」のご紹介です。


c0187004_9222640.jpg 江戸検のお題「江戸の食文化」のなかには、飲料水も入ることに気を付けておいたほうがよいように思います。
 ですから、江戸の上水道も要チェックだと思いご案内しました。

 千川上水公園は、江戸時代、ここにあった、千川上水の沈殿池を埋め立た跡につくられた公園です。
 旧中山道と明治通りの交差点(掘割の交差点)の東南側すぐそばにあります。

 千川上水は現在の西東京市にある西武線の武蔵境駅近くで、玉川上水から分水して武蔵野市との境を東流、練馬区、板橋区、北区を通って、現在の千川上水公園まで開渠で流れてきます。
c0187004_923815.jpg 千川上水公園には、沈殿池があって、砂やごみなどを沈殿させた後、江戸市中に給水されていました。
 千川上水公園まで開渠で流れてきた千川上水も、ここからは地下に潜り江戸市中に送られていました。
 千川上水は、主に小石川御殿、湯島の聖堂、寛永寺、浅草寺へ水を供給するために開削された上水です。
 そして、本郷・湯島・外神田・下谷・浅草など神田上水が供給していない地区にも給水していました。
また、千川上水の流路は、尾根道を通っていて、台地上に位置している滝野川村等での灌漑用水としても利用されました。

 千川上水は、元禄9年(1696)に 5代将軍綱吉により上水開削が命じられました。
 上水路の設計は、豪商の河村瑞賢が行い、多摩郡仙川村の太兵衛・徳兵衛が開削にあたったと言われています。
 千川上水という名前は、分水した場所周辺が仙川村であったことから千川上水と付けられ、村の名前は「せんがわ」ですが、濁るのを嫌って上水の名前は「せんかわ」としたものと思われます。

千川上水は、享保7年(1722)に、他の青山上水・三田上水・本所用水とともに廃止され農業用水として使用されていました。
c0187004_9233166.jpg   その後、天明元年(1781)に再開されましたが、天明6年(1786)には、再び廃止されてしまいました。

幕末になると、王子に大砲製造所の建設が計画され、その動力源として水車の使用が計画されたため、慶応元年9月に、千川上水から王子方面に分水がひかれ王子分水といわれました。
 また、明治13年には、岩崎弥太郎が発起人になって、千川上水を利用し、本郷・小石川・下谷・浅草・神田方面に飲料水を供給するための千川水道会社が設立されました。
 千川上水公園の向かい側に千川上水分水堰の碑があります。明治15年に建てらえたものです。
 (右写真参照)
 これは、王子分水への給水量と千川水道会社への給水量を明示したものです。

c0187004_9234756.jpg 千川上水公園内の地下は六義園への貯水槽になっていて、手前の給水用と奥の排水用の2基のバブルが残されています。
 六義園への給水は、江戸時代からおこなわれていましたが、この貯水槽がいつ造られたかはわかりません。
 六義園への給水は昭和43年都営地下鉄三田線の工事によって不可能となり、現在は井戸に切り替えているそうです。

 赤印が「千川上水公園」です。

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by wheatbaku | 2014-05-20 09:10 | 大江戸散歩 | Trackback
「江戸の食文化」第五回模試正解
 今日は、第5回の食文化の模擬試験問題の正解をアップします。

 今回の出題は大久保洋子先生著「江戸のファーストフード」からでした。
c0187004_10174159.jpg その中でも、今回は、「江戸のファーストフード」のタイトルどおり、「てんぷら」「そば」「すし」「かばやき」に限った出題としました。
 「江戸のファーストフード」に書かれていることは平易なことが書かれているのでが、竹翁さんとひまつぶしさんのコメントを読むと問題は予想外に難しかったようです。
 少し問題をひねりすぎたかもしれませんね。

 「てんぷら」「そば」「すし」「かばやき」は、絶対抑えておかないといけない項目だと思います。
 江戸検の参考図書「江戸の食文化」では4ページしか触れられていませんが、これに油断することなく、よく勉強されたほうがよいと思います。


1、 ①北尾政美  

 この問題は、食文化というより、江戸の文化の問題でした。
 鍬形恵斎(くわがたけいさい)」は、「近世職人尽絵詞」のほか「江戸一目図屏風」などでも有名です。
 鍬形恵斎は、最初、浮世絵師北尾重政に入門して、北尾政美(まさよし)と名乗っていましたが、寛政6年、津山藩にでにん出仕したのち画号を鍬形恵斎となのるようになりました。
 兄弟弟子として、北尾政演(まさのぶ)と窪俊満がいて、北尾三羽烏と呼ばれていました。
 北尾政演(まさのぶ)は、山東京伝が浮世絵師としてなのっていた名前です。

 参照56ページ

2、 ③喜多村筠庭「嬉遊笑覧」  

 「天麩羅」という漢字をあてたのは山東京伝という説、その経緯、その話がのっている鈴木牧之「北越雪譜」・山東京山「蜘蛛の糸巻」・喜田川守貞「守貞謾稿」という書名は、「江戸の食文化」受験の必須事項です。 必ず覚えておきましょう。
 喜多村筠庭(いんてい)の「嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)」は、江戸時代の風俗・習慣などに関する事柄を分類し考証を加えたものです。江戸検一級を受ける方には必須項目ですが、「天麩羅」の漢字の由来については書いてありません。

 参照25ページ

3、 ②紅花油  

c0187004_10181073.jpg 江戸時代、主に利用されていた油は、「江戸のファーストフード」に載っているように、胡麻油、菜種油、荏胡麻油、榧油でした。さらに付け加えて椿油でした。
 荏胡麻が最も古くから利用されていたようで、主に灯明用として利用されていました。
 紅花油は、サフラワーオイルとも呼ばれて、現代ではポピュラーとなってきていますが、紅花が油として利用されるようになったのは戦後のことで、江戸時代は、紅花はもっぱら染料として利用されていました。

 参照28ページ

4、 ②長良川の鮎寿司 

 各藩から将軍家に献上された寿司の多くは、「鮒ずし」だったようですが、それ以外では、長良川の鮎寿司が有名です。
 鮎寿司を運んだ岐阜から熱田までの道は、「鮎鮨街道」または「御鮨街道」ともよばれ、現代も「美しい日本の歩きたくなるみち500選」に選定されています。
 なお、この鮎寿司を献上したのは尾張藩のようです。
 
 参照35ページ

5、 ①鮭のこけら寿司 

 正解は 鮭のこけら寿司ですが、「こけら」とは、杉・檜などを薄くはいだ板をいいます。こけら寿司とは、薄く切った魚が「こけら」に似ていることに由来します。
 なお、「こけら」には、材木を削った時に出る削り屑という意味もあります。
 「こけら落し」というのは、新築や改築工事の最後に、屋根などの「こけら」を払い落としたことに由来する言葉で、新たに建てられた劇場で初めて行われる催しのことをいいます。

 なお、「料理物語」は寛永20年(1643)に刊行された初の本格的料理書で、「江戸の食文化」では必須語句ですので、この書名が出てきたら前後をよく注意して読んでおいてください。

 参照40ページ

6、 ④貝柱をのせたもの

c0187004_10182796.jpg 「花巻そば」「しっぽくそば」「あられそば」など、伝統的なそばの種類は案外どんなそばか知らないのではないでしょうか?
 私は、「花巻そば」「しっぽくそば」「あられそば」が、江戸検受験前までは。どんなそばが知りませんでした。
 そこで問題としましたが、「あられそば」は、解答のように貝柱をのせたものです。
 「花巻そば」とは浅草のりをかけたもの、「しっぽくそば」とは、玉子焼き・蒲鉾・椎茸・鶏肉など卓袱料理の材料をのせたものです。
 それでは、おかめそばとはどんなそばでしょうか?ご存知でない方は、今度蕎麦屋に行く機会がありましたら確かめてみてください。

 参照52ページ

7、 ②32文

 これは、参照ページを確認してください。
 てんぷらそばは、通常のそばの2倍したということになります。

 参照52ページ

8、 ④卵を利用する

 和食の麺と言えば、うどんとそばですね。うどんの材料となる小麦粉は、グルテンというたんぱく質がふくまれているため、めんに加工し易いのですが、そば粉にはグルテンが含まれていません。そば粉が100%の「生蕎麦」を作るのが難しいとされているのは、そのためです。
 そこで、麺にしやすくするため、「つなぎ」をいれます。
 「つなぎ」としては、卵、ヤマイモ、豆乳、ふのり(海草)など、いろいろなものが利用されるそうです。
 「料理物語」には、選択肢の①飯の取り湯でこねる②豆腐をすって水を加えたものを利用する③ぬるま湯を利用するが書かれていますが、卵や山芋、さらには最もポピュラーな小麦粉を使うという方法は書かれていません。
 

 参照46ページ

9、 ③医者  

 にぎり寿司の発案者が松本善甫であるという説は、私も「江戸のファーストフード」で初めて知りました。
 松本善甫は、幕府の奥医師でした。どうして医者がにぎり寿司を発案したのかとう経緯は書いてないのでわかりません。
 松本善甫は、幕末の有名な医者松本良順のお祖父さんにあたります。
 なお、松本良順は、松本家に養子になりましたので、義理のお祖父さんです。
 

 参照36ページ

10、 ③名古屋   

 いなり寿司について守貞謾稿には
c0187004_10184220.jpg 「天保末年、江戸にて油揚げ豆腐の一方をさきて袋形にし、木茸、干瓢を刻み交へたる飯を納て鮨として売り巡る。日夜これを売れども夜を専らとし、行燈(あんどん)に華表(とりい)を画き、号して稲荷鮨、あるいは篠田鮨という。ともに狐に因ある名にて、野干(狐の異称)は油揚を好むもの故に名とす。最も賤価鮨なり。尾の名古屋等、従来これあり。江戸も天保前より店売りにはこれあるか。けだし両国等の田舎人のみを専らとす鮨店に従来よりこれあるかなり」(岩波新書「近世風俗史(1)」296ページ) と書かれています。
 従って、江戸より以前に名古屋にあったようです。
 なお、豊川稲荷のある豊川市もいなり寿司の発祥地とする説もあるようですが、ここでは「江戸のファーストフード」の記述に従って、名古屋を発祥地としておきます。

 参照82ページ
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by wheatbaku | 2014-05-19 10:13 | 江戸の食文化 | Trackback
  

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