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握りすし (すし⑤ 江戸の食文化55)
 すしの話の5回目は、いよいよ江戸の 「握りずし」 についてです。c0187004_1591242.jpg 江戸時代後期、さまざまなすしが生まれる中で、その最後を飾るかたちで、文政年間(1818~1831年)に「握りずし」が誕生しました。

 握りずしの創案者は、両国の「与兵衛鮨(よへいずし)」の華屋(花屋と書くという説もある)与兵衛と言われています。

 華屋(花屋)与兵衛
 華屋(花屋)与兵衛は福井藩出入りの八百屋の倅で、9歳の時に、江戸蔵前の札差に下男奉公に入り、20歳まで勤めます。その後、何度かの商売替えの末,文政年間、本所横綱の長屋に住んでいて、毎夜、夜明けごろまですしを売り歩いて、金を貯め、両国回向院前に小さな店を持って、与兵衛鮨の看板を上げ、握りずしを創案したと伝えられています。

c0187004_20123656.jpg 江戸中の評判となり、
  鯛ひらめ いつも風味は与兵衛鮨 買手は見世にまって折詰
  こみあいて 待ちくたびれる与兵衛鮓 客ももろてを握りたりけり
 という狂歌ができるほど賑わいました。 
  与兵衛鮨があった場所(墨田区両国1-8)近くに、「与兵衛鮨発祥の地」と書かれた史跡説明板が、建てられています。
 それによると、「与兵衛鮨」は、昭和5年まで同じ場所で営業していたそうです。
 なお、余談ですが、和風レストランチェーン華屋与兵衛とは直接的な関係はありません。

 与兵衛が、握りずしを売り出した年は諸説ありますが、文政年間初めと言われています。
 しかし、「握りずし」が突然創案されたわけではなく、それ以前にも「握るすし」があり、それをモチーフとして「
握りずし」が文政年間には完成をみて、「与兵衛鮓」は最初の大成者となったと言われています。
 文献的には文政12年(1829年)の『柳多留』に「妖術という身で握るすしの飯」という川柳があるのが最初です。(1827年作句)





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by wheatbaku | 2014-06-30 07:26 | 江戸の食文化 | Trackback
早ずし (すし④ 江戸の食文化54)
 すしの話の4回目は、早ずし です。
c0187004_12352451.jpg すしはもともと自然発酵による保存食です。
 早いもので1カ月、長い場合には3年かかるものもあります。
 やがて、人々は、長く待つことより早く食べたいと考えるようになってきました。
 そのため、江戸時代に入り、「酢」に出会って、自然発酵を待たずに、発酵を促進するために、飯に酢を混ぜてつくる 「早ずし」 が生まれます。
 また、ご飯は最初は発酵を助けるためだけでしたが、江戸時代になると、ご飯そのものもおいしく食べる 「早ずし」 へと変わっていきました。

  早ずしの中に分類されるすしは、現在、全国各地にいろいろあります。
  その中ら、代表的な早ずしとして、押しずしとして富山のますずし、棒ずしとして京都のさばずし、包みずしとして奈良の柿の葉ずしを取り上げます。

鱒寿司 (押しずし)   
 c0187004_12332086.jpg押しずしは、飯と具を重ね、一定時間、力をかけて押したものです。
 駅弁としても知られている「鱒寿司(ますずし)」は、富山県の郷土料理です。
 鱒を使って、発酵させずに酢で味付けした押し寿司(早ずし)の一種です。
 木製の曲物(わっぱ)の底に放射上に笹を敷き、塩漬け後に味付けをした鱒の切り身をその上に並べ、そこに酢めしを押しながら詰め、笹を折り曲げて包み込み、その上から重石をしたものです。
 享保年間に富山藩第3代藩主前田利興の家臣吉村新八が、前田利興に献上し、さらに8代将軍徳川吉宗に鮎寿司を献上し絶賛されたそうです。
 その時の製法は、酒につけた鮎を酢飯の上にのせたもので、現在の鱒寿司と同じ製法に近いものであり、これが現在の鱒寿司の始まりとして語られているそうです。



さばずし(棒ずし)(姿ずし)  
 姿ずしは、魚の頭や尾は残し、背開きや腹開きにして、魚で飯を包み込むようにしてつくられるすしです。
 まず、背開きや腹開きにした魚に塩をあて、塩をよくなじませて洗います。
 次に酢につけてから水分をよくとり、頭から尻尾まで酢飯をよく詰め、笹などを敷いた箱に並べて重石をします。
 こうして作られるさばずしは秋祭りに食べる地域が多いようです。
 京都や大阪では、さばずしは、三枚におろした身を塩と酢でしめ、棒状に伸ばした飯をのせて押し圧をかけてつくります。
 そのため、京都や大阪では、さばずしは、「棒ずし」と呼ばれます。 
 「棒ずし」が、ご飯を棒状にするのは、魚の姿をできる限り生かそうという工夫から行われており、「姿ずし」の名残りとも考えられています。
c0187004_10205930.jpg 京都のさばずしで非常に有名なのが祇園の「いづう」のさばずしです。
 いづうでは、鯖は日本近海の脂ののった真鯖、ご飯は滋賀県産の江州米(ごうしゅうまい)、昆布は道内産の天然真昆布を使ってさばずしが作られます。
 4月に京都に行った時にお邪魔しました。




柿の葉ずし (包みずし) 
 包みずしは、木の葉や笹の葉などで包んで保存性と美的付加価値を高めたすしです。
 東京の「笹巻けぬきすし」も包みずしです。
 地方の包みずしで有名なものは、「柿の葉ずし」です。
 柿の葉すしも江戸時代に生まれました。和歌山県や奈良県の名産品として全国的に有名です。
 保存用に塩でしめた鯖の切り身をご飯に添え、柿の葉で包んで一晩置いたところから、柿の葉ずしは生まれたとされています。
 江戸時代中期に、夏祭り用のご馳走として振る舞われるようになったそうです。

柿の葉寿司
柿の葉寿司 posted by (C)テツさん
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by wheatbaku | 2014-06-27 08:45 | 江戸の食文化 | Trackback
なまなれ(すし③ 江戸の食文化53)
 今日は、すしの3回目で、「なまなれ」について書いていきます。

  なれずしは米は捨てて魚だけを食べました。
 しかし、やがて、魚だけでなくご飯も一緒に食べる「生成(なまなれ)ずし」と呼ばれるすしが盛んになってきました。室町時代のことです。
 魚は半生の状態で米飯もまだ飯として食べられる内に一緒に食べてしまうものです。漬ける期間は短く5日くらいで、ほんのり酸っぱく発酵します。
 これを日比野先生は、なまなれはナレ(発酵)が生々(なまなま)しいところから命名されたのだろうと推測しています。

釣瓶すし
 なまなれでは、江戸との関係では、奈良の「釣瓶(つるべ)ずし」を落すわけにはいかないと思います。
c0187004_13223058.jpg 吉野の鮎ずしは、延喜式もでてくるほど古い歴史があるそうです。
 その吉野の鮎ずしの中で有名なのが「釣瓶(つるべ)ずし」です。
 「釣瓶すし」という変わった名前の由来は、鮎ずしを入れる桶が、釣瓶形の桶であったことに由来します。(右写真参照)
 
「釣瓶すし」で有名なのが、吉野下市にあるという鮨屋「つるべすし弥助」です。


ここは江戸期に書かれた歌舞伎「義経千本桜」で源氏の追手から平維盛をかくまった鮨屋として登場しますので、歌舞伎をご存知の方には、大変に有名なお店です。

当時は、天然鮎を開いて腹側にすしめしを抱かせ、釣瓶の形をした桶に笹の葉を敷き、鮎を敷き詰めて笹で覆いをし蓋をし重石をかけました。

現代は残念にも古来の味が馴染めないようで、今は調味した酢めしを抱かせて「布巾締め」で押す「鮎姿鮨」と、押し鮨の「焼鮎山椒鮨」が作られ、鮎料理がメインの料理屋として営業されています。。

 「鮎鮓街道」「御鮨街道」 
 岐阜に「鮎鮓街道」「御鮨街道」と呼ばれる街道があります。岐阜から熱田までの岐阜街道の別称で、江戸時代初期の慶長8年(1603)に将軍徳川家康と秀忠に鮎鮓を献上し、その後、元和元年(1615)から、毎年6月から9月まで、鮎鮓を江戸城へ届けた時に使われた街道です。
 この献上鮎鮓が「なまなれずし」です。
 「江戸の食文化」に、鵜匠家の鮎すしと書かれています。
 現在、「鵜匠家に伝承する鮎鮓製造技術」として岐阜市の重要無形民俗文化財に指定されています。
 
 江戸時代には、尾張藩が、将軍家や諸家へ献上したり、藩主らが賞味したりする鮎鮓や鮎の
 塩漬・粕漬などは「御鮓所」で製造されました。
 「御鮓所」は、古屋敷村(現在の岐阜市益屋町)にあったとされます。
 尾張藩は、献上や進物として使う鮎を、鵜飼漁で獲れた鮎のうちから納めさせました。
  これは鵜匠が御鮨所に納める定めであったようです。

いずし
 「なまなれ」には、いずし(以下カタカナでイズシと書きます)と呼ばれる系統もあります。
 イズシは、飯と魚・野菜・麹を混ぜて桶に入れ、重石をのせて漬け込み、乳酸発酵させて作るナレズシの一種です。
 イズシは北海道から北陸地方の日本海沿いに分布しています。
 その中で、有名なものが、秋田県のハタハタずしと石川県のかぶら寿司です。

ハタハタずし
 ハタハタずしには、頭をつけたまま漬ける「一ぴきずし」、頭を落として漬ける「全(まる)ずし」、切身を漬ける「切りずし」があります。
c0187004_9355547.jpg 秋田でよく見かけるのは「全(まる)ずし」だそうです。
 ハタハタずしの漬け方は、桶の底に塩をふった後、麹を混ぜた飯をしき、塩処理をしたハタハタを並べて、上にニンジンやコンブなどの細切りを置き、これを繰り返してつくります。
 飯に麹をいれて発酵を促進させることが特徴です。
 ハタハタずしは、正月用のすしで「すべて元旦より2月朔日まで祝の膳には鮓のハタハタを用いる也」と書いた文書も残されているようです。
 しかし、現在では、通販でいつでもハタハタずしを取り寄せることができますので、取り寄せて味わってみました。
  ハタハタずしの飯は、鮒ずしほど酸っぱくありませんので、十分、飯として食べられます。
 しかし、やはりメインはハタハタのようです。ほどよい酸っぱさで、これだけで食べてもよいし、ご飯のおかずとしてもよい食べ物だと思いました。 


かぶら寿司
 かぶら寿しは、石川県の郷土料理です。
 塩漬けにしたカブで、やはり塩漬けにしたブリの薄切りを挟み込み、細く切った人参や昆布などとともに、米麹(糀)で漬け込んで醗酵させたものです。
 独特のコクと乳酸の香りをもつために、おもに酒の肴として全国的に人気があります。
 ブリの水揚げが最盛期となる冬の名産であり、この地方の正月料理の一品という性格も持っています。
かぶら寿し
かぶら寿し(2) posted by (C)KYR
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by wheatbaku | 2014-06-26 08:30 | 江戸の食文化 | Trackback
なれずし(すし② 江戸の食文化52)
 すしの2回目は、「すし」の原形と言われる 「なれずし」 についてのご案内です。
 c0187004_1892480.jpg 「なれずし」 
 すしの起源は、紀元前4世紀頃の東南アジアにさかのぼります。
 タンパク質をおぎなうため、飯の中に塩味をつけた魚を漬けて発酵させた魚肉保存法だとされています。
 これは、内臓を処理した魚を米飯に漬け、米飯の乳酸発酵によって魚の保存性を高めた食べ物でした。
 このすしを「なれずし」と呼びます。
「なれずし」は漢字では「熟鮨」や「馴れずし」と書かれます。
「江戸の食文化」では、「熟鮨」を使用しています。
「なれずし」では、食べるのは魚だけ、米は捨てられてしまいます。

鮒寿司
 なれずしの 姿を今も残しているものが、琵琶湖周辺でつくられている鮒寿司です。
 鮒寿司(ふなずし)は、フナを用いて作られるなれずしの一種で、滋賀県の郷土料理です。
主に琵琶湖の固有種であるニゴロブナが使用されます。
 オスメスともに使われますが、子持ちのメスのものが高価です。

 春の4月頃、ニゴロブナの内臓を除き、たっぷり塩を詰めたものを多数桶に詰め、重しを乗て塩漬けにします。.夏場まで3ヶ月ほど塩漬けにした後、土用の頃、フナを取り出して水で良く洗い、さらに水に浸けて塩抜きをします。
c0187004_8402649.jpg 次に塩を混ぜた飯をフナの身の中に詰めます。桶の中にフナだけでなく飯も交互に敷き詰め、フナは身の内と外から飯に囲まれた状態で敷き詰められます。
 落とし蓋の上から重しがかけられ、念入りにする場合には、落としぶたの上に水を張って外気を遮断します。
 こうして、桶を涼しいところにおいて、鮒と飯を発酵させます。
 早くても年末頃、長ければ1年から、人によっては2年程度保管する場合もあります。
 桶内のフナは乳酸発酵によって腐敗が防止され、アミノ酸などのうま味成分が増す。
 こうしてできるのが鮒寿司です。
現在の鮒寿司は、土用に漬け込んでいますが、江戸時代には「寒の内」に漬け込んでいたようです。

 この鮒寿司は最近では、通販で取り寄せることができます。
 5月に取り寄せて味わってみましたが、ふなずしは、いわゆる「握りずし」と違っていることは一目瞭然です。
 また、味わってみれば、これまたまったく違ったものです。
 まさに魚の保存食であり、ご飯は非常に酸っぱくて、ご飯を食べるのはちょっと無理があります。
 しかし、鮒は、ほどよい酸っぱさがあり大変おいしく乙なものでした。
酒の肴として最適だと思います。

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by wheatbaku | 2014-06-25 07:48 | 江戸の食文化 | Trackback
すしの語源 (すし① 江戸の食文化51)
  しばらく、「江戸の食文化」関係の記事を書いていませんでしたので、今日から、すしのお話をしていきます。

 すしは、今や世界のSUSHIと呼ばれ、四大和食の一つ「すし」に数えられますが、江戸時代に、急速に発展しました。
 「江戸の食文化」では、必須項目ですので、よく勉強する必要があると思います。

c0187004_815193.jpg 「すし」について、江戸検参考図書「江戸の食文化」(原田信男編)には4ページしか書かれていません。
 より詳しく学ぶには、次の2冊がよいと思います。
 日比野光敏著「すしの歴史を訪ねる」(岩波新書)
 篠田統「すしの話」(岩波現代文庫) 

 もし、時間がなければ、日比野光敏著「すしの歴史を訪ねる」(岩波新書)を読まれることをお勧めします。
 新書ですので短時間でも読むことができます。

 今回の記事は、上記2冊を参考に書いていきます。

 まず第一回は、すしの漢字と語源についてです

鮨・鮓・寿司  どれが「すし」!  
 「すし」を表す漢字はには『鮨・鮓・寿司』があります。

 そのうち、 「鮨」と 「鮓」はもともと二千年以上も前からあった中国の漢字です。
 「鮨」と「鮓」は、本来、違った食べ物を示す漢字でした。
 
  「鮨」 は魚を塩漬けした食品、すなわち塩からでした。
 一方、 「鮓」 は魚を塩と米に漬けて熟したものと定義されていました。
c0187004_1332224.jpg  ところが時代が下り、三世紀に編纂された中国の辞書「広雅」の中で「鮨」と「鮓」は混同されてしまいます。
 
 その後、日本に伝わったとき、両者は既に同なじ意味を表わす漢字として扱われていました。
 中国で混同されたものが、そのまま日本でも混同されて使われたのです。
 平安時代の法令解釈書「令義解」では「鮨は鮓のこと」と書かれているようです。

 以上から、「すし」の本来の漢字は『鮨・鮓』ということになります。
 それでは、最もよく使われる「寿司」 という漢字ははどうかと言いますと、「寿(ことぶき)を司る(つかさどる)」ということで、縁起がいいものとして、江戸時代に考案された当て字だそうです。

 「すし」という言葉の語源は、大槻文彦の「大言海」には、「すしは酸(す)しの義」と書いてあります。
 また、「酸し」は「スッパシ、酸味あり」と書いてあります。
 つまり、「すし」と言う言葉は、まさに「酸っぱい食べ物」ということからきているようです。
 この説は、貝原益軒や新井白石も唱えている一般的な「すし」の語源説です。

 すしは、原田先生の「江戸の食文化」によれば、 「なれずし」 、「なまなれ」、「早ずし」、「握りずし」というように発展してきたようです。
 そこで、それぞれの段階のすしについて説明するとともに代表的なすしについて、次回から紹介していきます。
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by wheatbaku | 2014-06-24 08:11 | 江戸の食文化 | Trackback
「江戸の食文化」第六回模試正解
c0187004_175745.jpg 今日は、「江戸の食文化」に関する第6回目の模擬試験問題の正解をアップします。

 
 さて、今回の出題は、第5回と同じく大久保洋子先生の「江戸のファーストフード」からとしましたが、原田信男先生の「江戸の食文化」もにらんで出題しています。
 基本的な事項を出題してありますので、たとえ正解せきなくても関連事項を含めて記憶しておく必要があると思います。

 何にしても「江戸の食文化」の基本となる本は原田先生の「江戸の食文化」ですので、よく読み込んでください。
 そんな場合のお薦めが次の講座です。
 江戸検を受検される方ぜひご参加ください。

 『江戸の食文化』読み込み講座
  お申し込みは ⇒  毎日文化センター



1、 ①青山上水 

 玉川上水から分水された上水は、青山上水、三田上水、千川上水の三上水です。
 そのうち青山上水は四谷から、三田上水は北沢から、千川上水は現在の境橋付近で分水されていました。従って正解は青山上水です。

「江戸のファーストフード」参照179ページ
「江戸の食文化」 参照60ページ

2、 ③松平定信 
 
 この政策を進めたのは松平定信ですが、幕府の肝いりの割には、関東の酒屋は規模が小さく技術も未発達で、下り酒に匹敵するほどの優れた酒を造ることができずに、この政策はうまくいきませんでした。
 このことについては原田信男編「江戸の食文化」にも書かれています。

「江戸のファーストフード」参照78ページ
「江戸の食文化」 参照110ページ

3、 ④この鍋を最初に出したお店の名前から

柳川鍋の由来には諸説があり、九州の水郷柳川を思い浮かべるかたも多いと思いますが、大久保洋子先生は「柳川」という店で売り出されたと書いています。
この説は「守貞謾稿」の記述をもとにしたもので、千葉大学名誉教授の松下幸子先生も採用されています。

「江戸のファーストフード」参照84ページ

4、 ②忍藩   
「石城日記」については、参考図書「江戸の食文化」にも取り上げられており、原田信男先生の論文もあるようですので、覚えておくべき書物だと考え問題としました。

 「江戸の食文化」の本の中でも取り上げられる「鸚鵡籠中記」は尾張藩士朝日定右衛門の著作、下級武士の食事がよくわかるとして有名な「酒井伴四郎日記」を書いた酒井伴四郎は和歌山藩士、昨年公開された映画「武士の献立」のモデルとなったのが加賀金沢藩の包丁侍舟木伝内です。

 「江戸のファーストフード」参照114ページ
 「江戸の食文化」 参照58ページ

5、 ①鮭  
 選択肢として挙げた4項目はすべて初物の規制の対象となっているものです。
 この中で、水戸藩が将軍家に献上していたものは、那珂川で初めてとれた鮭を江戸まで二泊三日で届けていました。
 
 「江戸のファーストフード」参照135ページ

6、 ③6ランク  
 「豆腐百珍」は「江戸の食文化」にも取り上げられており、必須項目でしょう。
 「豆腐百珍」では、豆腐料理を「尋常品、通品、佳品、奇品、妙品、絶品」の6ランクに分類されており、これも読書の人気をよんだようです。

 「江戸のファーストフード」参照156ページ
 「江戸の食文化」 参照66ページ

7、 ④テーブルクロス
 「卓袱」という言葉のうちで、「卓」とは「食卓」を意味し、「袱」は訓読みで「ふくさ」と読むようです。
以上からわかると思いますが、「卓袱」とはテーブルクロスを意味する中国語です。

 「江戸のファーストフード」参照221ページ
 「江戸の食文化」 参照78ページ

8、 ④雉(きじ)

 将軍の食膳にあげられない食材については、主なものは記憶しておいた方がよいと思います。
 鳥類で、食膳にあげてよいものは、鶴、雁、鴨、兎の4つだけで、それ以外は禁止されていました。
 兎は、獣ではなく鳥類という分類にしていたようです。
雉は将軍の食卓にはあがりませんでした。
しかし、朝鮮の人は雉を好んだため、朝鮮通信使の接待用に雉を飼う施設を幕府が持っていたと言います。
その施設があったことが「雉子橋」の由来だという説もあります。

 「江戸のファーストフード」参照100ページ

9、 ②濱口儀兵衛
 現在、生産量第一位の醤油メーカーはキッコーマン」です。「キッコーマン」は野田の高梨家と茂木家で作ったメーカーです。第3位は、ヒゲタで」、銚子の豪農田中玄蕃が始めました。「ヤマサ」は、第2位で、醤油製造の先進地である紀州湯浅近く広野出身の濱口儀兵衛が、銚子で始めたメーカーです。

 「江戸のファーストフード」参照71ページ
 「江戸の食文化」 参照168ページ

10、 ③文化年間  
 江戸っ子は、江戸時代の初期から、初鰹を大事にしました。
 寛文5年(1665)には、初物の売出時期を指定する御触書が出されているということは、既にその頃から初物が大事にされたということになります。
 その初鰹に対する関心が特に盛り上がったのは、江戸時代後期です。設問の話題は有名な出来事ですが、これが起きたのは文化9年のことです。

 「江戸のファーストフード」参照142ページ
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by wheatbaku | 2014-06-23 07:22 | Trackback
「江戸の食文化」第六回模擬試験問題
 今日は、「江戸の食文化」に関する第6回目の模擬試験問題の出題です。
 
 「江戸の食文化」は、範囲が広すぎてどう勉強したらよいかよくわからないという受検される方の声をよく聞きます。
 確かにそうだとは思います。どこからでも勉強できるので、逆にどこがポイントとなるのだろうという不安となる面があるように思います。
 しかし、どこからでも勉強できるからこそ今年こそチャンスだという見方もあります。
 そんな様々の思いを持った受検生の皆さんの声に応えて

    ― 江戸検受検対策講座 ―
『江戸の食文化(原田信男編)』読み込み講座


 を毎日文化センターで開講します。
 一緒に参考図書を読み込み、それぞれが持っている情報を共有して、江戸検合格をめざしましよう。ご参加お待ちしています。

 お申し込みはこちら ⇒ 毎日文化センター

c0187004_13561014.jpg さて、今回の出題は、第5回と同じく大久保洋子先生の「江戸のファーストフード」からです。
 正解は、月曜日にアップします。

1、江戸六上水とは、神田上水、玉川上水、青山上水、三田上水、亀戸上水、千川上水をいいます。このうち三つの上水は、玉川上水から水を分けてもらう分水でした。
 それでは、四谷で玉川上水から分水されていた上水はどれでしょうか?

 ①青山上水 
 ②三田上水 
 ③亀有上水 
 ④千川上水

 
2、江戸時代、酒は上方の酒いわゆる「下り酒」の品質が優れていました。しかし、これでは、江戸の金が関西に流出するため、これを防ぐ目的で、関東で上質の酒を醸造するのを奨励するため「御免関東上酒」という政策が企画されました。
 それでは、この政策を企画したのは、次のうち誰でしょうか?

 ①徳川吉宗  ②田沼意次  ③松平定信  ④水野忠邦 

3、どじょう料理の代表的なものは「柳川鍋」です。さて、この「柳川鍋」の「柳川」の由来は何でしょうか?

 ①この鍋を考案した人物の名前から  
 ②この鍋がよく食べられていたのが九州の柳川だったから
 ③材料となるどじょうがよくとれた川の名前から
 ④この鍋を最初に出したお店の名前から

4、幕末の下級武士の食生活が具体的にわかる史料である「石城日記」は、ある藩の下級武士尾崎准之助(号を石城と言いました)が書いた物です。
 それでは、石城は、何藩の藩士だったでしょうか

 ①名古屋藩   ②忍藩   ③和歌山藩   ④金沢藩

5、水戸藩徳川家では、その年に初めて捕れたある魚を将軍家に献上していました。
 その魚は何でしょうか?

 ①鮭  ②鮎  ③鮟鱇(あんこう) ④生鱈
 
6、「豆腐百珍」は、大ベストセラーとなりました。これは庶民的な豆腐を食材にして100もの料理を並べたことにありますが、さらにその料理をランク付けしたことも読者の人気を呼びました。
 それでは、豆腐百珍では、豆腐料理は何ランクにランク付けされていたでしょうか?

 ①4ランク  ②5ランク  ③6ランク  ④7ランク

7、卓袱料理は、今では、長崎の郷土料理として有名ですが、もともとは中国から長崎に渡来したものです。
 「卓袱」とは、食事に関係するあるものを指した言葉ですが、「卓袱」とは何を意味したでしょうか?

 ①テーブル  ②イス  ③キッチン  ④テーブルクロス

8、将軍の食材には、食膳にあげられないものが決められていました。
 野菜類では、ねぎ、にら、にんにく、らっきょうなどで、魚類では、このしろ、こはだ、さんま、いわしなどでした。
 それでは、鳥類で食膳にあげてはいけなかったものは次のうちのどれでしょうか?

 ①鶴(つる)  ②鴈(がん) ③鴨(かも)  ④雉(きじ)

9、醤油は、江戸時代初めは、上方で生産され、大量に江戸に送られてきました。
 しかし、徐々に、江戸周辺で生産されるようになり、「下り醤油」を駆逐していくようになります。
その主要生産地は、銚子と野田でした。
 それでは、銚子の老舗で、現在も生産量第2位を誇る「ヤマサ」の創業者の名前はなんというでしょうか?

 ①髙梨兵左衛門  ②濱口儀兵衛  ③茂木七左衞門    ④田中玄蕃


10、江戸っ子にとって初鰹は特別のものでした。
 そのため、日本橋魚河岸へ17本入荷した初鰹を、6本は将軍家お買上げ、3本は2両1分で八百善が買い、8本は魚屋へわたり、その中の1本を中村歌右衛門が3両で買ったという話も残されています。
 それでは、この出来事が起きたのはいつの時代でしようか?

 ①元禄年間  ②天明年間   ③文化年間   ④文政年間
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by wheatbaku | 2014-06-20 08:00 | 江戸の食文化 | Trackback
潮入りの池周辺の見どころ(浜離宮11)
 今まで、浜離宮について10回にわたりご案内しましたが、最後に潮入りの池周辺の見どころをまとめて案内して、浜離宮のご案内を終わりにしたいと思います。

c0187004_9385981.jpg 潮入りの池の西側に「八景山」と名付けられた小高い丘があります。
 この丘からは、中島の御茶屋や燕の茶屋など潮入の池を中心とした眺めのすばらしい8カ所をみることできたことから八景山と名付けられました。
 その八景とは、中島の御茶屋、三丈ケ岡、富士見山、塩浜、御亭山、観音堂、海手茶屋 燕の茶屋でした。

 八景山の南側、中島の御茶屋に架かる橋の手前に「吉宗ゆかりのトウカエデ」があります。。
c0187004_9451662.jpg トウカエデとは、漢字で書くと「唐楓」です。
 江戸時代享保年間に中国から渡来したのでトウカエデ(唐楓)と呼ばれたといいます。
 享保年間と言うと、将軍は八代将軍吉宗の時代です。
 享保6年(1721)、八代将軍徳川吉宗に清国の船がトウカエデ6株を献上し、1株は小石川御薬園(現・小石川植物園)に、5株は浜離宮に植えられたと伝えられているそうです。
 トウカエデはカエデの一種ですので、秋には紅葉をしますが、非常に見事な紅葉のようです。

c0187004_9402116.jpg トウカエデを過ぎて潮入りの池の西南端脇の樹木の中に「観音堂と鐘楼跡」があります。
 現在は石段だけしか残されておりませんが、この奥に「観音堂と鐘楼」がありました。
 11代将軍家斉の頃は「晩鐘が響き渡る観音堂」と当時の景色を描写しています。
 本尊は慈覚大師・円仁の作と伝えられ、狩野派の絵師によって描かれた絵馬も掲げられていたそうです

c0187004_9403769.jpg 潮入りの池の南端には「富士見山」があります。
 西南の方向に富士山が見えたので富士見山と名付けられていますが、いまは見えません。
 北東の方向にははるか房総の山、そして北には筑波山がみえたそうです。
 もともとは、最南端に築かれていましたが、幕末に砲台が設置されたため、ここに移されたといいます。
 






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by wheatbaku | 2014-06-19 08:14 | 大江戸散歩 | Trackback
象の飼育場所跡(浜離宮10)
 浜離宮の10回目です。
 今日は、象の飼育場所跡について、ご案内します。

 浜離宮では、江戸時代、象が飼育されていたことがあるというとほとんどの人がびっくりします。
c0187004_8524599.jpg 象といえば、現代でも、動物園でみられるだけです。
 それが、鎖国の時代に、江戸にいたなんて多くの人は思いもよりません。
 まして、それが浜離宮にいたなんて想像もできません。

 しかし、現に、吉宗の時代に、浜離宮で像が飼われていたのです。
 その場所は、現在は花木園となっているあたりです。
 右写真の正面が休憩所ですが、この左手辺りで象が飼われていました。
 象は、外国の物産に非常に興味をもっていた吉宗が所望して、広南(いまのベトナム)から取り寄せたのです。
 享保13年(1728)6月13日に、広南から、中国の貿易商鄭大成により 雄雌2頭の象が長崎にやってきました。
 雄は7歳、 雌(めす)は5歳でした。
 雌(めす)は長崎に到着後まもなくに死亡してしまいました。
 翌年3月13日、ベトナム人の象使い2名と中国人の通訳2名とが付いて、雄の象が、江戸にやってきました。
 途中、京都では中御門天皇と霊元上皇の上覧がありました。
 この時、上覧には官位が必要なことから、象に『広南従四位白象』の官位が与えられました。
 享保14年4月28日のことでした。
c0187004_853325.jpg この時、中御門天皇は、「時にしあればひとの国なるけだものもきょう九重にみるがうれしさ」と、そのよろこびを和歌にしています。
 そして5月25日江戸に到着し、27日は,江戸城大広間車寄で吉宗が上覧しました。
 その後、ゾウは浜御殿にて飼育されていましたが、12年後の寛保元年(1741)4月、中野村の源助に払い下げられ、翌年12月に21歳で病死しました。
 中野の宝仙寺には、馴象之枯骨(じゅんぞうのここつ)として、戦前まで象の頭骨や牙などが保存されていましたが、昭和20年の空襲で一部を残し焼失してしまったそうです。

 この像が、長崎から江戸に旅する様子を書いた「象の旅―長崎から江戸へ」(石坂昌三 新潮社刊)という本もあります
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by wheatbaku | 2014-06-18 08:50 | 大江戸散歩 | Trackback
「帰ってきた軍師」(大河ドラマ「軍師官兵衛」第24回)
 今日は、「軍師官兵衛」に関連する記事を書きますが、その前に「江戸の食文化」に関連するお知らせをしておきます。

 
c0187004_13194468.jpg 月一回、模擬試験問題を出題していますが、今月は、今週金曜日に出題しようと思っています。
 出題は、前回同様大久保洋子先生の「江戸のファーストフード」からとします。
 前回は、四大和食に関してだけの出題でしたが、今回は、それ以外の項目について出題します。本を持っている方は、軽く斜め読みに読んでおいてください。


 
 さて、「軍師官兵衛」ですが、今回のタイトルは「帰ってきた軍師」でした。
 竹中半兵衛亡き後の秀吉の軍師として官兵衛の活躍を描いていますが、その冒頭は、三木城の別所長治に対する降伏の勧告でした。
 今日は、この三木城攻防戦について書いてみたいと思います。
 三木城攻防戦は、俗に「三木の干殺し」と呼ばれました。
 秀吉が徹底した兵糧攻めを行ったからです。

 三木城主別所長治は、天正6年(1578年)3月、織田方に敵対しました。
 これに対して羽柴秀吉は、竹中半兵衛と黒田官兵衛の策をいれて、三木城近くの平井山に本陣を設け、三木城を包囲するため、多くの付城を築き、兵糧攻めを行いました。
c0187004_13223189.jpg 三木城包囲開始後に荒木村重の謀反が起こり、情況は大きく変わりましたが、秀吉は、無理に攻撃をしかけるとういうことはせず、城から出てくる敵をたたく程度の攻防戦をおこなっているだけで、三木城の包囲の手をゆるめませんでした。
 天正7年(1579年)5月には、丹生山明要寺と淡河城が落城するなどし、三木城への兵糧の補給が困難となります。
 そして、ついに天正7年11月には、有岡城が落城します。
 既に、備前の宇喜多直家は、織田方に加わっており、毛利方の援軍、兵糧補給も絶望的となり、三木城内の食料はすでに底をついて城内の兵士は飢餓状態にありました。
 これがいわゆる「三木の干殺し」です。
 三木城の兵糧が尽きて、城兵の士気が衰えてきたと判断した秀吉は天正8年(1580年)1月、三木城の支城に対して総攻撃を開始します。
 1月11日には別所長治の叔父別所賀相が守る鷹尾山城を攻めました。
 別所賀相は、城を脱出し、三木城に入りました。
 ここで、秀吉は、別所長治のもう一人の叔父で織田方についていた別所重宗を通じて三木城の開城勧告を行いました。
 「軍師官兵衛」では、黒田官兵衛と別所重宗が、三木城で勧告をしたと描いています。
 この勧告をうけて、別所長治は、開城することを決意します。
 開城の条件は、別所長治はじめ一族が切腹する代わりに城兵の命を助けるというものでした。
 正月17日、長治以下城主一族が切腹し、1年10ヶ月に及ぶ篭城戦が終了します。
 長治の辞世の歌は
   いまはただうらみもあらず もろ人の命に代わるわが身と思へば
 でした。

 秀吉は、この経験から、因幡の鳥取城を攻める際に、兵糧攻めを行っていますが、「軍師官兵衛」の中では、詳しくは取り上げられないようです。
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by wheatbaku | 2014-06-17 07:49 | 大河ドラマ | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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