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かまぼこの歴史1(かまぼこ① 江戸の食文化69)
 今秋、10月の第2土曜日と第4土曜日、文京学院大学さんの生涯学習センターで主催する「江戸の老舗めぐり」の案内をすることになりました。
 10月11日には、日本橋、10月25日には神田の老舗をご案内する予定です。

c0187004_8554058.jpg そこで、日本橋で案内する予定の老舗の一つ「神茂」さんに、訪問のお願いに行ってきました。
 「神茂」さんは、「かまぼこ、はんぺん」の老舗で、元禄元年(1688年)創業の日本橋で営業して350年が経とうとしています。
 「神茂」さんについては過去に書いていますのでご覧ください。 
  ⇒  神茂(日本橋散歩)

 「江戸の食文化」(原田信男編)では、「かまぼこ」が触れられていますが、今まで、「かまぼこ」にはついてはこれまで書いてきていませんので、今日から数回にかけて、「かまぼこ」について書いていきます。

 今日は、「かまぼこ」の歴史について書きます。

 「かまぼこ」の起源として、神功皇后が、三韓征伐の途中、神戸の生田神社で、すりつぶした魚肉を鉾の先に付けて焼いて食したという伝説があります。
この伝説には、筑紫の国布陣の際であるという説もあります。
 しかし、はっきりした記録があるわけではありません。
 
 「かまぼこ」が 文献に登場するのは、平安時代の「類聚雑要抄(るいじゅぞうようしょう)」が、初めてといわれています。「類聚雑要抄(るいじゅぞうようしょう)」とは宮中の恒例・臨時の儀式、行事における調度について記したものです。
 「類聚雑要抄(るいじゅぞうようしょう)」の中の図に、永久3年(1115年)7月21日に、関白右大臣藤原忠実が東三条殿へ移転した時に催された宴会で出されたご馳走の挿絵が載っています。
 この中に、鯛の平焼、あわびの熱汁などと一緒に現在のちくわに似た形をした「かまぼこ」が記録されています。

 昔から、七五三のお祝い料理に子供の成長を祝って紅白のかまぼこを用意していたこともあり、文献に初めて登場したこの1115年にちなんで、全国蒲鉾水産加工協同組合連合会は、11月15日を『かまぼこの日』として制定しています。

c0187004_815216.jpg   「かまぼこ」という名の由来は、戦国時代の大永8年(152)に伊勢貞頼入道宗五によって記された宗五大草紙(そうごおおぞうし)に、「かまぼこはなまず本なり、蒲の穂を似せたるものなり...」と書かれています。
 当時の「かまぼこ」は、魚のすり身を竹の棒に巻きつけて炭火であぶり焼きしたもので、その形状は、今の竹輪に近かったようです。

 左の写真が、「蒲の穂」(「季節の花300」さん)です。
 竹輪が良く似ていますね。
 この蒲(がま)の穂に色や形が似ていることから、蒲穂子(がまほこ)と呼ばれていました。
 
 また、蒲の穂は武器である「鉾」にも似ているので蒲鉾(がまほこ)の字を当てるようになり、次第に「かまぼこ」と呼ばれるようになったのではないかとも言われているようです。

 現代のかまぼこの中心は板にすり身をつける「板付きのかまぼこ」ですが、これが生まれたのは、室町時代の末頃とされています。
 それについては明日書きます。
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by wheatbaku | 2014-07-31 08:52 | 江戸の食文化 | Trackback
「江戸前」とはうなぎの別名(うなぎ④ 江戸の食文化68)
 今日は、「土用の丑の日」です。
 「うなぎや」は大忙しですね。先日土曜日に江戸川橋の老舗「はし本」でうなぎを食べようと思い、11時30分の開店と同時に店に入りましたが、予約席で満席となっていて、待つと何時間かかるかわからないということで諦めました。
 今日、「うなぎ」を食べられる方は幸せですね。

 今日は「江戸前」について書いていきます。
c0187004_9484614.jpg 現代では、 「江戸前」 というと、寿司をまず思い浮かべますが、もともと江戸前とは鰻の代名詞でした。
 江戸前とは、江戸城の前面の海や河川でとれた魚を意味しますが、使われたのは享保年間(1716~1735年)以降のようです。 
  そして、うなぎをさすようになったのは宝暦年間(1751~1763年)のころからのようです。

 宝暦10年の川柳評万句合に 「江戸前に のたをうたせる 女あり」 という句があります。
 このころ、女の鰻さきがいたことを詠んでいますが、この句のなかに「江戸前」とあるのが鰻のことです。

 三田村鳶魚は、「江戸の食生活」の中で、
 「この江戸前という言葉が、宝暦以来うなぎのために繰り返されている。江戸前という言葉は、鰻によって出来たのかと思われるぐらいであります」 と述べています。

 それでは、「江戸前」とはどの地域をさすかについてです。
c0187004_9554787.jpg これも諸説ありますが、「日本橋魚市場沿革紀要」に
 「江戸前と唱へ候場所は、西の方、武州・品川州崎一番の棒杭と申場所、羽根田海より江戸前海へ入口に御座候。
 東の方武州深川州崎松棒杭と申場所、下総海より江戸へ入口に御座候。
 右壱番杭と松棒杭を見切と致し、夫より内を江戸海と古来より唱へ来り候」 とあります。
 これによれば、品川の州崎から深川の州崎の内が江戸前の海ということになり、現在よりかなり狭い範囲になります。

 このように「うなぎ」は別名で「江戸前」と呼ばれるようになったため
 江戸前の風を団扇で叩き出し
という川柳も詠まれるようになりました。

 一方、江戸以外で獲れた「うなぎ」は、「旅鰻」と呼ばれました。
 そこで次のような川柳も詠まれました。
  丑の日に籠でのり込む旅うなぎ

 江戸っ子は、「旅うなぎ」は下等だと考えていたようですが、 現在、私達が食べるうなぎは、ほとんど「旅うなぎ」になってしまいました。
 そんな「うなぎ」も、「ニホンウナギ」が絶滅危惧種に指定されてしまった中では、安い値段では食べられなくなってしまう時代が、すぐそこまで近づいているのかもしれません。
 今のうちに「うなぎ」を食べておきましょう!!
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by wheatbaku | 2014-07-29 09:45 | 江戸の食文化 | Trackback
「うな丼」と来訪者35万達成(うなぎ③ 江戸の食文化67)
  先週、ブログ来訪者が35万人を超えました。
  日頃、お読みいただいている皆様に感謝申し上げます。
  

 先日も会社の同期入社の会合があり、毎日の来訪者が300人で間もなく35万人という話をしたら、大変驚かれましたが、ブログを書き始めた頃には、思ってもいなかった来訪者の数となりました。
 最近は、ブログを読んでいただいている方と直接話をする機会が多くなりましたが、
 「ブログが更新されているのでお元気だろうと思っています」と言われたりします。ブログを更新していることが私の元気の証しになっているようです。
 また、江戸検を受検される方からは「江戸検の参考にしています」と言われたりします。
 こうしたこと考えると、このブログを更新を期待されている方が大勢いらっしゃるようですので、引き続き数多く更新をしていきたいと思います。 
 つたない文が多くて恐縮ですが、これからもご愛顧いただきますようお願い申し上げます。

 さて、今日の本題は「うな丼」です。
 
  「うな丼」 は、文化年間(1804~1817)ごろに 大久保今助が考案したという話が有名です。
c0187004_104094.jpg 堺町の芝居の勧進元の大久保今助は非常に多忙でした。うなぎが大好きな大久保今助は、冷めた蒲焼はまずいので、冷めないように飯の間に蒲焼を挟んで持ってこさせて、忙しい合間に、それを食べたのが起源とされています。

 一方、竜ケ崎市のHPには、うな丼の発祥について次のように書いてあります
 「大久保今助が故郷である現在の茨城県常陸太田市に帰る途中、水戸街道を牛久沼まで来て、茶店で渡し船を待っているときに鰻が食べたくな り、蒲焼きとドンブリ飯を頼んだが、注文した品が出てきたとき、船が出そうになったため、今助はドンブリ飯の上に蒲焼きののった皿をポンと逆さにかぶせて船に乗り込み、対岸に着いてから食べたところ、蒲焼きが飯の温度で蒸されていて、より柔らかくなり、飯にはタレがほどよくしみこんで、これまでに食べたどこの鰻よりもうまかった。」
 そうしたことから、竜ケ崎市は牛久沼が「うな丼発祥の地」としています。

 この大久保今助ですが、現在の茨城県常陸太田市で生まれ、江戸に出て財産を築き、江戸三座の一つ中村座の金主となり、歌舞伎興行にも大きく関わりました。
 有名な歌舞伎興行中にうな丼を発明したというのはこの時期の話です。
その後、水戸藩に多額の献金を行ない、藩の勝手方に取り立てられ、最後は藩の要職にまで出世しています。

 「うな丼」の前身は「鰻飯」ですが、大久保今助が活躍する以前の享和2年(1802)に発行された「名飯部類」に、
 鰻飯 鰻を蒲焼にし、熱い飯と鰻を段重ねにしておひつにいれ、蓋をして、蒸らしてから食べる
と書かれていました。
 このことからすると、うなぎ飯自体は、文化年間以前に存在したことになり、大久保今助考案説は弱くなりますが、確証はありませんので、江戸検を受検される方は、ご参考程度に、ここの部分は読んでおいてください。
 

 守貞謾稿は、
 「鰻飯 京阪にて「まぶし」、江戸にて『どんぶり』と云ふ。鰻丼飯の略なり。」
と書ています。

 そして、鰻飯の様子についても次のように書いていいます。
 「朝顔形の丼鉢に盛る。鉢底に熱飯を少し入れ、その上に小鰻首を去り長(た)け3,4寸のものを焼きたるを5,6つ並べ、また熱飯をいれ、その表にまた右の小鰻を6、7置くなり」

 これをみると、当時の鰻飯には、2重にうなぎが入っていたようです。
 そして、これを「中いれ」と称したようです。

 また、「江戸にては名のある鰻屋にはこれを売らず。中戸以下の鰻屋にてこれを兼ね、あるひはこれを専らにす」と書いてあり、有名な鰻屋では「鰻飯」は売っていなかったようです。
 
 この鰻飯が、幕末の安政(1854~1859)のころから「うな丼」と呼ばれるようになりました。
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by wheatbaku | 2014-07-28 10:00 | 江戸の食文化 | Trackback
後楽園散歩
 昨日は、暑い中、毎日文化センターの「名園を歩く」が開催され、後楽園を散歩してきました。
 東京地方は35度という猛暑の中の散歩でしたので、歩く前から熱中症を大変心配しましたが、参加者全員の皆さんが、体調変化なく、無事最後まで、歩くことができました。
 暑い中、ご参加いただいた皆さん、本当お疲れ様でした。全員が熱中症にかからず無事散歩を終了することができて、ほっとしています。
 ありがとうございました。

 さて、それでは、後楽園でのスナップ写真をごらんいただきたいと思います。

c0187004_9124487.jpg 小石川後楽園は、水戸藩徳川家の初代藩主の徳川頼房が、寛永6年(1629)に作り、2代藩主の徳川光圀が完成させた江戸期の代表的な大名庭園です。
 関東では、後楽園とは、この小石川後楽園を指しますが、岡山にも後楽園があることから、正しくは小石川後楽園と呼びます。
 
 後楽園という名前ですが、四文字熟語に「先憂後楽」という言葉ありますが、この「先憂後楽」から採られた名前です。
 こうした説明が書かれた説明板が正門前にかかげられています。
 右最上段写真は、正門前の説明板を読む参加者の皆さんです。

c0187004_9131818.jpg 中国の名勝地「廬山」にちなみ、京都の清水寺一帯が小廬山と言われています。
 大堰川上流の景色が、京都の清水寺に似ていることから、寛永17年に林羅山が「小廬山」と名づけました。
 現在は、オカメザサに覆われている丘が小廬山と呼ばれています。
 写真は、小廬山の山頂で一休みする皆さんです。

c0187004_9161329.jpg 後楽園の特徴の一つは中国様式が取り入れられていることです。
 その代表が「円月橋」です。
 円月橋は、中国人の朱舜水の指図により、駒橋という石工が造ったものです。
 この橋は、中国の山水画にある橋柱のない橋です。
 橋柱がないため、橋が水に写った様が、満月のようであるので、円月橋と名づけられています。

 
 後楽園を完成させた徳川光圀に関係するものが数多く残されています。
c0187004_9135159.jpg 徳川光圀が7歳の時初めて3代将軍家光に謁見した折、さまざまな品物を見せて、その中から好きなものを取ってよいといわれて「文昌星」の像を取り上げたため、家光は大変感心したといわれています。
「文昌星」というは文学の神様です。
 後に、光圀は、「文昌星」を思い起こし、八卦堂を造って安置したといわれています。
 この八卦堂も関東大震災の時に焼失してしまいました。
 写真は、八卦堂跡を見つめる参加者の皆さんです。

c0187004_9143563.jpg ともかく暑い一日でした。
  そのため、水分補給をしっかりし、塩飴も舐めながらの散策でした。
  後楽園は、緑が多いので、説明は木陰で行い、休憩を数多くとりながら説明をしました。
  右写真は、後楽園を代表する景色である大泉水のまえで、一休みする参加者の皆さんです。
 写真奥にこれまた後楽園を代表する「徳大寺石が小さく写っています。


 そして、最後は、飲み会です。
 さすが、昨日は暑いので、散策は4時過ぎに終了し、4時30分には飲み始めました。
 飲み物がおいしかったこと。最高でした。
 あっという間の2時間が過ぎて、最後に記念撮影です。
 飲み終わって。お店を出たら、まだ明るい時間帯でした。
 皆さん、暑い中、本当にお疲れさんでした。
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by wheatbaku | 2014-07-27 09:18 | Trackback(1)
かば焼き (うなぎ②  江戸の食文化66)
 今日のうなぎの話は、かば焼き についてです。

 うなぎは、万葉の昔から、滋養がある食べ物としての認識があったようです。
 縄文時代の遺跡からの出土例もあるそうですし、万葉集に、大伴家持(おおとものやかもち)の次の和歌があります。

 石麻呂に 我物申す 夏痩せに 良しといふものぞ  鰻(むなぎ)取りり食(め)せ
  (万葉集巻十六 )

 大伴家持が夏痩せした知人の吉田石麻呂にうなぎを食べるようにすすめています。
c0187004_8542629.jpg なお、うなぎは、万葉集のころは「むなぎ」と呼ばれていました。
 「むなぎ」の「む」は「身」を意味し、「なぎ」は「長し」の「なが」から来たとする説が有力です。
 「うなぎ」は、「むなぎ」から転じたと言われています。

 うなぎが室町時代以前にどのように食べられていたかはっきりとはわかっていないようです。
 しかし、江戸時代初期の寛永20年に刊行された「料理物語」には、「なます、さしみ、すし、かば焼き、こくしょう、杉焼き、山椒みそ焼、このほかいろいろある」とされていますので、江戸時代には、いろいろな料理の仕方があったようです。
 この中で「こくしょう」という料理の仕方がありますが、「こくしょう」とは、薄塩の味噌を濃く溶いて煮汁とした汁で、現在でいえば「鯉こく」のイメージを思い出すとよいと思います。

 しかし、うなぎの料理といえば、何と言ってもかば焼きが代表的なものです。
 江戸時代より前のかば焼きは、筒ぎりにされて料理されていたようです。
 その形が、蒲(がま)の穂に似ていることから「蒲(かば)焼き」という名前がついたとされています。

 江戸時代以前のかば焼きは、筒ぎりにされて料理されていたようです。
 その形が、蒲(がま)の穂に似ていることから「蒲(かば)焼き」という名前がついたとされています。
c0187004_815216.jpg 蒲焼の語源について、守貞謾稿は、  
  「古は鰻蒲焼と云ふ名のあるは、鰻を筒ぎりにして串にさして焼きしなり。
  形 蒲穂(がまほ)に似たる故の名なり。」 と書いています。

 大言海では、「かばやき 蒲鉾焼の略なり」 と書かれています。そこで蒲鉾(かまぼこ)を調べてみると、「蒲の穂」と書いてあります。
 左の写真が、「蒲の穂」(「季節の花300」さん)です。
 うなぎを筒状に切って、串を縦に刺した様子をイメージしてみて下さい。
 それに大変よく似ています。

 その後、うなぎを割いて骨を取り除き、串を打つ方法が享保年間(1716~1736年)頃に登場しました。
 これが、現在の蒲焼です。

 蒲焼は、江戸と京阪では、微妙に違っていたようで、守貞謾稿には次のように書かれています。

 京阪は鰻をさきて大骨を去り、首尾全体にてこれを焼き、しかる后斬りて椀に盛る。
 これを焼くとき鉄串を用ひ、串を去りて椀に盛る。
 江戸は大骨を去り、鰻の大小に応じ2.3寸に斬り、各竹串2本を貫き焼きて、串を去らずに皿に盛る。
 江戸はこれを焼くに、醤油に味醂酒を和す。京阪は諸白酒を和す、
 また、京阪は鰻の腹を裂き、江戸は背をさくなり。

 守貞謾稿に書かれている京坂と江戸の違いをまとめてみると次のようになります。
 京坂              江戸
  首尾全体で焼く        2,3寸に斬って焼く
  鉄串               竹串
  串をとって椀に盛る      串をとらずに皿に盛る
  醤油に諸白酒         醤油に味醂酒
  鰻の腹を裂く          鰻の背を裂く

 京坂と江戸の蒲焼の違いの中で、最も大きな違いは、江戸は「背開き」、京阪は「腹開き」ということでしょう。
 これは、武士の多い江戸では「腹を裂く」ことが切腹につながり縁起が悪いということで背中から開き、商人の町大阪では「腹を割って話せるように」と腹開きにしたからだと言われています。
 しかし、江戸では蒸す工程があるため、背開きにして身の厚い背に串を刺して、串から抜け落ちないようにしたという合理的な説もあります。
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by wheatbaku | 2014-07-24 08:44 | 江戸の食文化 | Trackback
土用の丑の日(うなぎ①  江戸の食文化65)
 今年の土用の丑の日は、7月29日です。
 土用の丑の日には「うなぎ」を食べるのが定番になっています。
そのため、鰻屋やスーパーでは、盛んに鰻の宣伝をおこなっています。
今年の江戸検のお題は「江戸の食文化」ですので、以前書いた「うなぎ」のお話を再編集して改めて書いていきたいと思います。
 
 そもそも土用とは、五行思想に基づく季節の分類の一つです。
c0187004_10284794.jpg 中国の古い思想に陰陽五行説というのがありますが、それに基づき、中国では、春・夏・秋・冬の四季を、木・火・土・金・水の五行に当てようとしました。
 けれども五行と四季では数が合いません。そこで春に木、夏に火、秋に金、冬に水を当て、各季節の終りの18日余りに土を当てました。
 これが土用です。
 土用はおよそ18日、そこに十二支を当てはめます。そして、丑があてはまった日が、土用の丑の日となります。
土用が18日あって干支は12ですので、年によっては丑の日が二回めぐってくることがあります。


 今のように土用の丑の日に鰻を食べるようになった由来は、平賀源内が、夏場にウナギが売れないので何とかしたいと鰻屋に相談され、「本日、土用丑の日」と書いた張り紙を張り出し宣伝したところ、大評判になり千客万来になったことがきっかけだと言われています。

 しかし、それ以外にも、土用の丑の日にうなぎを食べることとなった由来について、別の説がありますので、紹介します。

 ☆大田南畝 説
 広告を考えたのが、平賀源内でなく、太田南畝だという説です。
 大田南畝(蜀山人)が、鰻屋「神田川」に頼まれ、「丑の日に、うなぎを食べたら病気にならない」という内容の狂歌を作って宣伝したことが始まりといわれています。

☆春木屋善兵衛 説
 文政年間(18818~29)に出版された「江戸買物独案内」に春木屋が「丑の日元祖」として紹介されています。
 ある時、神田和泉橋通りの春木屋に、伊勢津藩藤堂家の屋敷から、大量の蒲焼の注文がありました。
 春木屋の主人、春木屋善兵衛は、子の日、丑の日、寅の日の三日に分けてうなぎを焼き、土蔵に貯蔵して3日間(7日間とも)置いたところ、丑の日に焼いたうなぎだけが、色合い、風味とも変わりませんでした。
 そこで丑の日に焼いたうなぎを藤堂家におさめたそうです。
 それ以来、春木屋は「丑の日元祖」の看板を上げたそうです。

 まだ他の説もあるようですが、いずれにしても、土用にうなぎを食べる習慣は、すっかり定着していて、今の時期、鰻屋には、ポスターや広告がいっぱい飾られています
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by wheatbaku | 2014-07-23 10:24 | 江戸の食文化 | Trackback
再仕込み醤油(江戸の食文化64)
 以前、醤油の話の中で醤油の種類について書きましたが、その時以来、「再仕込み醤油」というのに興味がありました。
 再仕込み醤油は、山口県で考案された醤油で、西日本で主に生産されてきた醤油で、全国的にも1パーセントのシェアしかない醤油で、私たち関東の人には、あまりなじみがありません。
 そこで機会があったら「再仕込み醤油」を味わってみたいと思っていました。

c0187004_22585020.jpg 先週、新橋に用事があって、新橋駅におりましたら、「せとうち旬彩館」という香川県と愛媛県のアンテナショップがありました。
 そこには香川県と愛媛県の物産が並んでいました。
 その中に醤油や清酒のコーナーがあり、その中に再仕込み醤油が陳列されていました。

 その中で、最も古いメーカーである香川県の「かめびし屋」の「三年醸造醤油」を買ってきました。
 「かめびし屋」は、香川県東かがわ市にある醸造メーカーで、江戸時代中期の宝暦3年(1753)に創業したとのことですので、もう260年の歴史のある老舗醤油メーカーです。

c0187004_232167.jpg  通常の醤油は、醪(もろみ)を造る時に麹に食塩水を入れます。
 *麹は、蒸した大豆(脱脂加工大豆)と炒った小麦を混合し、種麹(たねこうじ)を加えて造られます
 しかし、再仕込み醤油は、食塩水の代わりに 生醤油(きじょうゆ)を使い、成分は濃口醤油の約2倍、濃度とうま味、風味が高くなります。
 醤油を二度醸造する形になるので再仕込み醤油といいます。
 
 「かめびし」の「三年醸造醤油」は、三年間じっくり熟成させまた醤油で、じっくり熟成させた旨味とコク。さしみ醤油としてもピッタリという宣伝文句でした。

 実際に、自宅で、再仕込み醤油を味わってみましたが、濃度は明らかに、日頃使用している濃口醤油より濃い色をしています。
c0187004_2343828.jpg 味も、濃厚な味がして旨味が詰まっている味になっていました。
 塩分については、少し再仕込み醤油の方が濃く感じましたが、調べてみる「三年醸造醤油」は14パーセントであり、濃口醤油は16パーセントでした。
 色の濃さにまどわされたかもしれません。
 冷奴とさしみにつけて食べてみましたが、濃厚な味がして、冷奴とさしみがいつもよりおいしくなった気がしました。
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by wheatbaku | 2014-07-21 08:16 | 江戸の食文化 | Trackback
谷中ショウガ(江戸野菜⑤ 江戸の食文化63)
 江戸野菜の五回目は「谷中ショウガ」です。これで、とりあえず江戸野菜は一区切りです。
 もっとも代表的な江戸野菜である「練馬大根」は取材をした後改めて書きたいと思います。

  葉ショウガが店頭に並ぶ季節になりました。葉ショウガは、酒を飲むには、絶好のつまみになります。
 この葉ショウガを居酒屋では「谷中ショウガ」や「谷中」と言ったりします。
c0187004_13165687.jpg 谷中とは、東京の谷中をいいますが、現在では、すっかり「谷中ショウガ」が葉ショウガの代名詞になっています。

 「谷中ショウガ」は、江戸時代には、現在の荒川区西日暮里から台東区谷中にかけてが産地でした。 
これらの地域の中で、谷中ショウガは谷中本村と言われた現在の荒川区西日暮里付近で多く取れました。
西日暮里付近は水に恵まれかつ排水も良く、さらに谷中の台地があって西日を避けられ、風にもあたらないという地形で、生姜の栽培に適していたからだと言われています。
 谷中という地名は、上野台地と本郷台地の谷間を指しての名前と言われていますが、現在は、谷中の大半が台地の上にあり、台東区になりますので、江戸時代の産地は、谷中ショウガとはいいながら、現在の谷中とはちょっとはずれた地域になります。

  「谷中ショウガ」は味が良く、収穫時がちょうどお盆の時期にあたるため、商人や職人、谷中の寺社などが、お中元の贈答品に利用したため、盆ショウガと言われて、江戸の評判になったそうです。

 ショウガは、ショウガ科の宿根草で、インド・マレーシア地方が原産地とされています。
 中国では紀元前480年頃の「春秋」にも記述があり、中国にショウガが伝わったのは非常に古い時代でした。
 日本にも、古くに渡来しており、奈良時代の正倉院文書の中に、その名前が記録されているそうです。
 ショウガは、別名はクレノハジカミといいます。ハジカミは山椒の古名ですが、同じ辛味をもつため、ハジカミという名が付き、山椒のハジカミと区別するためにクレという言葉がついたといわれています。クレとは呉(現在の中国)のことです。
 ハジカミと言えばどっかで聞いたような気がしませんか。そうです。焼き魚に添えられる葉ショウガの酢漬けを「ハジカミ」と呼びますね。ハジカミとはショウガの別名だったんです。
 そのハジカミが「ショウガ」と呼ばれるようになったのは江戸時代からのようです。
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by wheatbaku | 2014-07-18 08:11 | 江戸の食文化 | Trackback
千住ねぎ(江戸野菜④ 江戸の食文化62)
 今日も江戸野菜について書いていきます。

 今回の江戸野菜についての記事を書くにあたっていろいろお教えいただいた大竹道茂さんのブログ 「江戸東京野菜通信」 に、この江戸野菜に関する記事をご紹介いただきました。
 大変丁寧にご紹介いただき、大竹さんに改めて感謝申し上げたいと思います。
 本当にありがとうございました。 

 さて、江戸野菜の四回目は、「千住ネギ」です。

 ネギは、ユリ科の植物で、原産地は中国西部あるいはシベリアとされています。
c0187004_9514718.jpg 中国では、2200年前からすでに栽培されていたと言われている古い野菜です、
 しかし、ヨーロッパには16世紀末、アメリカには19世紀に伝わったものの、欧米ではあまり普及しませんでした。
 日本では、『日本書紀』の中に、仁賢天皇6年9月(493年)に「秋葱(あきぎ)」の名前がでており、「和名抄」にも出てきており、古くから栽培されています。

 「ネギ」という名前ですが、古くは「葱(き)」の一音でした。そのため「一文字(ひともじ)」という別名もあります。
 その「葱(き)」の根を賞味することから「根葱(ネギ)」と呼ぶようになったと言われています。

 江戸野菜として有名なネギは「千住ネギ」です。
c0187004_9521590.jpg ネギは大きく分けて「白ネギ(根深ネギ・長ネギ)」と「青ネギ(葉ネギ)」があります。東日本では白い部分を食べる白ネギが好まれていて、西日本は根元まで青い「青ネギ」が一般的になっています。
 また、ネギの品種には、大きく分けて「千住群」「加賀群」「九条葱群」と三つあります。
 「千住ネギ群」は、現在では、関東を中心として東日本で栽培されており、一般に根深ネギと呼ばれています。
 関東でネギといえばこの「千住ネギ群」を指します。
 ネギの中では最も背が高く、葉の部分に深く土を寄せて日に当たらないようにすることで白い部分が多くなるように栽培します。

 ネギは、天正年間に、摂津から江戸の砂村や品川に持ち込まれたそうです。
 摂津より寒い江戸では葉が枯れてしまいました。これではもったいないと土の中の白い部分を食べるようになり、元文年間にはいわゆる「根深ネギ」の「砂村ネギ」が作り出されたそうです。
 この「砂村ネギ」が隅田川を遡り、葛西・足立方面でも栽培されるようになり、特に千住地区で良質なネギが収穫されたことから「千住ネギ」と呼ばれるようになりました。
 しかし、千住ネギの「千住」というのは、実は産地の名前ではなく、ネギ市場が千住にあったのが由来で、実際の産地は、葛飾区北部一帯で、この地域が、昭和の中期まで「千住ネギの産地」として広く知られていたという説もあります。

 また、「千寿葱」と書くネギもあります。
 この「千寿葱」は、現在、東京都足立区にある「山柏青果物市場」という葱専門の市場でのみ取り扱われるネギで白ネギのトップブランドですが、江戸時代から続く伝統野菜ではなく、その後交配された品種です。

 最後にネギの話題を二つ紹介しておきます。
c0187004_10403391.jpg ネギの花は、その形から「葱坊主」(ネギぼうず)といい、「擬宝珠」とも呼ばれます。橋の欄干にある「擬宝珠」は、ネギの花からついた名前だという説もあるそうです。

 また、「ネギ」は、色の名前にも採りいれられています。
 「あさぎいろ」という薄い青緑をした色がありますが、この「あさぎいろ」は漢字で「浅葱色」と書いて、葱の葉の色の浅いものを指します。
 江戸時代、遊郭では、田舎から出てきた武士を「浅葱裏」と読んでいました。
 これは、田舎武士の多くが浅葱色の裏のついた羽織をきていたため、こう呼ばれるようになったと言われています。
 その浅葱色というのは、葱の葉の色に由来しているんですね。
 また、「もえぎいろ」という色があります。
 「もえぎいろ」というのは鮮やかな黄緑色系統の色ですが、この「もえぎいろ」は漢字では「萌葱色」と書いて、葱の若芽のような黄色を帯びた緑色をさします。

 右上二つの写真は、農文協発行の「江戸東京野菜」図鑑編に掲載されている「新宿一本ねぎ」の写真です。
 「新宿」というと、新宿区の「新宿」を思い浮かべますが、この「新宿一本ねぎ」の「新宿」は、水戸街道の「新宿」です。現在は葛飾区新宿となっていて、最寄駅は常磐線の「金町駅」です。
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by wheatbaku | 2014-07-16 09:52 | 江戸の食文化 | Trackback
小松菜(江戸野菜③ 江戸の食文化61)
江戸野菜の三回目は、「小松菜」です。

 江戸野菜の代表としてしばしば取り上げられる「小松菜」は、ツケナの一種です。
ツケナはアブラナ科アブラナ属に属する野菜のうち、漬物や煮物に使われる非結球の葉菜類の総称です。
c0187004_10341376.jpg 非結球の葉菜類とは、葉がキャベツのように球にならない野菜で主に葉を食用とするものをいいます。
ツケナには、小松菜のほか、野沢菜、水菜、チンゲンサイなどがあります。

 アブラナはヨーロッパ東部の亜寒帯地方に野生していますが、野菜として発達したのは中国で、ツケナの原産地は中国と言われています。
 我が国にツケナが渡来したのは、奈良時代以前の古い時代で中国から渡来し、各地で多くの品種が成立しました。
 京都の水菜、長野の野沢菜、広島の広島菜などが有名です。

 小松菜は、江戸を代表する野菜で、守貞謾稿には、江戸のお正月の雑煮には小松菜を入れると書いてあります。
 小松菜は、在来のカブから分化したものと考えられていて、江戸時代初期に現在の東京都江戸川区小松川付近で品種改良して栽培され始めたツケナだといわれます。
c0187004_1038995.jpg 吉宗が、鷹狩のため、享保4年(1719年)に小松川村を訪れた際、香取神社が御膳所となりました。
 この時に、香取神社神主の亀井和泉守が、地元で採れた青菜を入れた餅のすまし汁を吉宗に差し上げたところ、吉宗はたいそう気に入り、土地の名をとって「小松菜」と名付けたと言われています。
 この由来を書いた「小松菜ゆかりの里碑」が新小岩の香取神社に設置されています。(右上写真)

 また、江戸初期”葛西菜”と呼ばれていた菜を改良したのが小松菜とも言われていて、このことは「新編武蔵風土記」に書かれているそうです。
 この葛西菜を小松菜に改良したのが椀屋久兵衛だとも言われています。
椀屋久兵衛とは、大坂の豪商で、遊郭で遊びすぎて身を持ち崩した人物で、井原西鶴の浮世草子『椀久一世の物語』にも描かれています。

 小松菜は、現在、東京都、埼玉県、神奈川県、千葉県といった東京近郊や大阪府・京都府、兵庫県・福岡県などの日本各地の大都市近郊で盛んに生産されています。
 しかし、最近、市場に出回っている小松菜の大部分は、中国野菜と掛けあわせて作られた交配種であり、江戸時代に栽培されていたものとは、異なったものだそうです。
 江戸時代から栽培されているものは「伝統小松菜」と呼ばれていて、「後関晩生」という品種と「城南小松菜」が、「伝統小松菜」として認められています。
 ちなみに最上段の小松菜の写真は「伝統小松菜」で「江戸東京野菜」図鑑編に掲載されている小松菜です。
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by wheatbaku | 2014-07-15 08:21 | 江戸の食文化 | Trackback
  

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