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駒込土物店(江戸の食文化)
 六義園散歩で行った六義園の詳細は、時期を見て、アップします。
 六義園散歩の最後にご案内した「駒込土物店(つちものだな)跡」が「江戸の食文化」とも関係するので、今日は、「駒込土物店跡」についてご紹介します。
 
c0187004_1011711.jpg 「駒込土物店跡」は、東京メトロ「本駒込駅」 出口から徒歩2分の天栄寺門前にあります。

 「駒込土物店」というのは、江戸時代から昭和にかけて、駒込にあった青果市場です。
 「土物(つちもの)」というのは、大根・にんじん・ごぼうなど根菜類を言い、ここで根菜類を中心に取引が行われたため「土物店」といいます。
 「駒込土物店」は、神田、千住とならぶ江戸の三大市場のひとつに数えられる大きな市場でした。

 「駒込土物店」の由来については、天栄寺の参道にこの中に駒込土物店の歴史を書いた石碑が建てられています。
c0187004_10112989.jpg 右写真が「駒込土物店縁起」碑です。
 これによると、天栄寺の近くにサイカチの木があって、斉藤伊織という人がこの木の下にお稲荷様を勧請して千栽稲荷と名付けてお祀りしたそうです。
 そして、近隣のお百姓が毎朝下町へ青物を売りにゆく途中、いつも、この木の下で休憩したそうです。
 その時たまたま野菜を買う人があるとその斉藤氏が売り買いの仲立ちをしたことが市場の始りだそうです。
 
 天栄寺の門前は、日光御成街道が通っていて、南脇には、中山道に通じる細い道が通っていて、辻(十字路)になっていて、交通の要所でした。
c0187004_10114568.jpg  そのため、ここの市場は「駒込土物店」と呼ばれるほかに「辻のやっちゃば」とも呼ばれました。 
現在は、住宅地となって、昔の面影はありませんが、最盛期には、本郷通りの東側まで広がる大きな市場だったようです。
このように栄えた「駒込土物店」も、昭和12年に、豊島区巣鴨に移転し、現在は豊島市場となっています。

 散歩の際に、サイカチという木がどういう木かということが話題になりましたが、天栄寺の参道にサイカチの木が植えられています。
 サイカチは漢字では皁莢、梍と表記します。
 幹には、トゲがあるのが特徴で、木材は建築、家具、器具、薪炭用として用いるほか、実は去痰や利尿の漢方薬として使用されるようです。
 右写真は、石碑の脇に植えられているサイカチの木を眺める参加者の皆さんです。
 トゲがあることと葉っぱが山椒に似ていることが話題になりました。

 赤印が「駒込土物店跡」です。本駒込駅の至近距離にあります。

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by wheatbaku | 2014-09-29 10:04 | Trackback
六義園散歩
 昨日は、毎日文化センターの「名園を歩く講座」で、「六義園」を歩いてきました。
 昨日は、暑くもなく寒くもなく散歩にちょうどよい気候でした。
 真夏は、散歩を避けていたので、久しぶりにあうメンバーも多く、「おしひさしぶり」という挨拶があちこちで聞かれました。

 散歩コースは、六義園 ⇒ 駒込富士神社 ⇒ 吉祥寺 ⇒ 赤目不動 ⇒ 駒込土物店跡 というコースでした。
 御一緒した参加者の皆さんお疲れ様でした。

c0187004_10405042.jpg 「六義園」は、柳沢吉保が元禄8年に拝領した下屋敷に7年間かけて築造した庭園です。
  大泉水を中心に樹林に囲まれた池泉回遊式の典型的な大名庭園です。
   写真は、六義園の中心の大泉水・中の島を眺める参加者の皆さんです。

c0187004_1043289.jpg 柳沢吉保は、六義園に、名勝の紀州の和歌の浦そして和歌に詠まれた景勝地を取りこみ、「八十八境」と名付けました。
 その「八十八境」には、それぞれに石柱が建てられていて、現在でも32か所に残っているそうです。
 その中で「しるべのおか」の石柱は、園路のすぐ脇にあり、容易にみられる石柱です。
 写真は、「しるべのおか」の石柱をみる参加者の皆さんです。

c0187004_10432124.jpg 六義園は、明治になると三菱グループの総帥岩崎弥太郎の所有になります。
 岩崎家では、六義園内に多くの茶屋を新設します。吹上の茶屋は、岩崎家の熱海の茶屋を移設したもので、戦後再建されたものです。
 吹上の茶屋では、抹茶サービスがあり。参加者の皆さんが注文していました。
 すばらしい景色をみながらの抹茶の味は格別だったと思います。

c0187004_10433746.jpg 六義園をご案内した後は、本郷通り沿いに南下して、駒込の富士神社を参拝した後、吉祥寺を訪ねました。
 吉祥寺は、太田道灌が創建したお寺です。
 明暦の大火の後、水道橋から駒込に移転してきました。
 山門は江戸時代に作られたもので戦災による焼失を免れました。
 吉祥寺では、榎本武揚、二宮尊徳、鳥居耀三のお墓詣りもさせていただきました。


c0187004_10435254.jpg 次いで、目赤不動をお参りしました。
 目赤不動は、元は駒込の動坂にあり、「赤目不動」と呼ばれていました。
 三代将軍家光は鷹狩りの途中に動坂の庵に立ち寄った際に、寺地を本駒込に与え、赤目不動を目黒・目白に準じて目赤と名付けよと命じたため、「目赤不動」と改称しました。

 この後、駒込土物店跡を訪ねてから、お待ちかねの「飲み会」です。
 最近では、散歩は早めに切り上げて、「飲み会」を早くという雰囲気です。
 今回は、「本駒込駅」近くの「しゃぶしゃぶ食べ放題」のお店でした。
 食べ放題・飲み放題セットメニューでおなか一杯食べましたが、それよりもお話が盛り上がって、楽しい飲み会でした。
 そして、恒例の記念写真を撮って、散会した時は2時間ははるかに超過していました。
 皆さん、お疲れ様でした。
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by wheatbaku | 2014-09-28 10:44 | Trackback
海苔巻き・焼き海苔・味付け海苔(江戸の食文化)
 今日も海苔のお話をしたいと思います。 
 江戸では、海苔を使った料理や食品が数多く開発されています。
 その中で、代表的な 「海苔巻き」「焼き海苔」「味付け海苔」 についての書いてみたいと思います。

海苔巻き寿司 
c0187004_1559278.jpg 海苔を使った料理でもっともなじみがあるのが、海苔巻きでしょう。
 海苔巻き寿司ができたのは江戸時代です。
 にぎり寿司は、文政年間にできたと言われていますが、海苔巻きは、それよりも50年ほど早い安永の頃にはもう作られていたと言われ、天明の頃には流行していたといわれています。
 それが、文化・文政期になると、ますます海苔巻きが好まれ、屋台でも売られたりするようになりました。
 屋台の寿司が流行しだすと、手間のかかる太巻きに代わって簡単に巻き上げられる細巻きが現れました。
 守貞謾稿には海苔巻の図が描かれ「干瓢を巻きこむ」とあります。
 こうして江戸っ子たちは海苔巻きに親しんでいったのです。
 
焼き海苔 
 c0187004_16203127.jpg 焼き海苔は、乾した海苔の裏表をていねいに焼いたものです。焼き上げた海苔の艶が美しく、風味もよく、海苔をもっともおいしく味わうことのできる食品です。
 焼き海苔をはじめてつくったのは大森の海苔商人三浦屋田中孫左衛門という人で、弘化元年(1844)にガラス瓶に詰めて売り出したそうです。
 その後しばらく中断していましたが、明治初年に山形屋の5代目窪田惣八が、「貯蔵(かこい)海苔」の名で発売しました。
 海軍が買い上げたこの海苔が遠洋航海でも変色変味しなかったことから評判となり、多くのお店で販売され始めました。
 この海苔が、明治中期から「焼き海苔」と呼ばれるようになったのです。
 写真は、山本山の焼き海苔です。

味付け海苔  
 味付け海苔を開発したのは、山本海苔店です。
 c0187004_1602827.jpg 明治2年に、明治天皇が京都に行かれる際に、皇太后へご進物として持っていくものとして、山本海苔店2代目山本徳次郎が開発しました。
 山本徳次郎は、品川猟師町で作られていた「薬味海苔」を参考にして「色紙海苔」として納めたところ、すごく賞賛されたそうです。
 「薬味海苔」とは抄(す)く直前にみりん、しょうゆ、山椒、陳皮、唐辛子等を入れたものだったそうです。
 これが、味付け海苔の始まりですが、初期は注文製造でしたが、明治中期以降店頭でも販売されるようになったそうです。
 なお、このお話は宮下章の「ものと人間の文化史、海苔」に基づきます。
 写真は、山本海苔店の味付け海苔です。
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by wheatbaku | 2014-09-26 08:53 | 江戸の食文化 | Trackback
浅草海苔(江戸の食文化)
 今日は、浅草海苔 について書いていきます。

 浅草海苔は、海苔の代名詞でもありますが、江戸時代から、江戸の名物でした。
 江戸名所図会には
 『大森・品川等の海に産せり。これを浅草海苔と称するは、往古(いにしえ)かしこの海に産せしゆえに、その旧称を失わずしてかく呼びこ来たれり。(中略)諸国ともに送りてこれを産業とするもの夥(おびただ)しく、実に江戸の名産なり』
 と書かれています。

c0187004_22637.jpg 浅草海苔の名前の由来は、浅草周辺の海で採られ、作られ、売られたからだというのが通説ですが、天海大僧正が付けたという説もあるようです。
 浅草海苔が採られるようになったのは、東都歳時記によれば、徳川家康が江戸に入府する前後にあたる元亀・天正の頃からだそうです。
 採れた場所は、最初は浅草の周辺ですが、そのうち、葛西で採れた海苔が浅草に送られ浅草海苔と称されました。さらに、海苔の需要が増えると、浅草周辺での生産が追いつかなくなり、品川で採れた海苔が浅草で加工され浅草海苔とよばれるようになりました。


 浅草で浅草紙と呼ばれる漉き返し紙が製造され始めたのは、延宝年間(1673~1681)または天和年間(1681~1684)と言われています。
 浅草紙の漉き場は、橋場や今戸にあったようです。
 そして、浅草海苔の製法も、浅草紙の製法と似ており、浅草海苔の抄き場も橋場にあり、今戸に近い山の宿や花川戸にあったようです。
 そして、浅草海苔が作られ始めたのは享保年間といわれており、浅草紙より遅いとされています。
 以上から、浅草海苔は、浅草紙の製法を基礎にして、浅草紙と同じやり方で製造されるようになったのは間違いないようです。 

 
 江戸時代の中期になると、海苔の養殖が始まります。これは増大する需要に対応するためであったと思われます。
c0187004_14351975.jpg  養殖の開始時期については、諸説があり、最も早いものは延宝・天和(1673~1684)とする説が有り、最も遅い説は享保2年(1717)としています。
 宮下章氏の「海苔」では、元禄時代から養殖が始まり享保2年に基礎が築かれ、延享3年(1746)に盛んになったとしています。 
 海苔養殖のきっかけは、生簀(いけす)を囲む木の枝や笹竹に海苔が付くのを見て、木の枝や笹竹などを品川の浅瀬に建て始めたことからだと言われています。
 養殖のための木の枝などはヒビやヒビソダと呼ばれました。
 ヒビ材はナラが最もよく、次いでケヤキや竹がよいとされました。

名所江戸百景「南品川鮫洲海岸」 
c0187004_2272922.jpg  ヒビが建てられている様子は品川の名物になっていたのでしょう。
 歌川広重の名所江戸百景の中で「南品川鮫洲海岸」として描かれています。
 左の浮世絵がそれです。
 鮫洲海岸は、南品川から大森にかけての海岸を言います。広重の時代には。鮫洲海岸が海苔の養殖の中心になっていました。
 絵の広い範囲にヒビがかかれていて、海苔を採取している様子も描かれています。
 海苔を養殖する時期は冬ですので筑波山の上には雁が飛んでいます。
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by wheatbaku | 2014-09-25 08:20 | 江戸の食文化 | Trackback
八百善②(江戸の老舗)
 今日も、引き続き、先日お邪魔した八百善について書いていこうと思います。
 八百善の様子は、一緒にお邪魔したひまつぶしさんとお気楽マダムさんもそれぞれご自分のブログに書いていますのでご覧になってみてください。

 ひまつぶしさん 「過去・現在・未来」 
 お気楽マダムさん 「お気楽マダムの奮闘記」

  さて 今日は八百善で見させていただいた文化財についてご案内します。
c0187004_851122.jpg  その前に、八百善の建物について、11代目栗山雄太郎様から伺ったお話を書きます。
  右写真が、八百善の建物ですが、大変風格のある建物です。
  こちらは、明王院が管理している建物だとは聞いていましたが、お寺の建物とは思えない風情のある建物です。
  実は、この建物は、大正時代に建てられた某経済人の所有するものだったそうです。、それが、縁あって明王院が管理するものとなりました。
 そして、バブル時代には料亭として利用されていたこともあるそうです。
 なるほど、やはり、風格のある建物だと感じさせられる歴史があるんだと思いました。

c0187004_8513149.jpg  八百善には、多数の額や書が掲示されていましたので、今日は、それらをご紹介します。
 まず、大田蜀山人が書いた歌です、

 
  ちはやふる かみすきばしを 夕こえて 八百善にてや 月まつち山

 
 と書かれています。
 八百善の御主人10代目栗山善四郎様のお話では、こうした歌・俳句・詩・書といった類は、八百善の天井や壁や襖に、直に書かれているものが多かったそうです。
 4代目栗山善四郎は、そうした歌や書の一部を切り取って保存をしたそうです。
 山谷の八百善は、関東大震災で焼失してしまいましたが、このようして4代目が軸にしてくれたため、大田蜀山人の歌も残されたのだそうです。
 この歌は、八百善の営業案内にも使用されています。


c0187004_8524444.jpg 松平不眛公の額も掲示されていました。
 「安膝堂」と書かれています。 「膝を安んじる御堂」という意味だそうです。
 山谷の八百善は、江戸時代、いくつかの建物が建っていたそうです。
 そのうちの一つに、松平不眛公が「安膝堂」と名付け、額にしてくれたそうです。
 10代目栗山善四郎様のお話では、八百善は、関東大震災の際に焼失しましたが、火がつくまでに、2時間の猶予があったそうです。
 そのため、多くの貴重なものを持ち出すことができたようです。
 この額も、大震災の中で、八百善の人たちが守り抜いたものかもしれません。

 
c0187004_8532272.jpg 食事が終わり、最後に、11代目となる栗山雄太郎様に、酒井抱一の「鶴かけの松」の絵などは残っていませんでしょうかと尋ねました。
 すると「鶴かけの松」は残っていませんが、酒井抱一の書いた書で残っているものがありますとのことで、その書を特別に見せていただきました。
 別室ですが、抱一と署名されている書がありました。。「不老亭」と書かれています。


c0187004_8534747.jpg その部屋では、もっと貴重なものを拝見させていただきました。
 それは「徳川屏風」です。 文政10年に、11代将軍徳川家斉が世子の家慶とともに八百善に御成になった際に、その席に飾られた屏風だそうです。
 この屏風は将軍家が八百善に持ち込んだもので、御成が終わった後に、そのまま八百善に下賜されたものだそうです。
 左手には五つの葵の御紋が散らされていて、右手には扇面が描かれていました。


c0187004_8541490.jpg 八百善では、大変貴重なものを拝見させていただきました。
 私も、江戸の老舗を訪ねた際には、江戸時代から残されているものがあるか尋ねますが、多くの老舗が関東大震災や戦災で焼失してしまい残っていないと言われます。
 そうした老舗が多い中で、これだけの書や額がのこっているのは大変貴重だと思います。
 私も大変うれしかったのですが、ご一緒した皆さんも大変よろこばれていました。
 無理なお願いにもかかわらず御了承していただいた11代目の栗山勇太郎様ありがとうございました。
 最後までお見送りをいただき、かえって恐縮した次第です。
 帰り際にお写真を撮らさせていただきました。
 勇太郎様本当にありがとうございました。


 最後に、この記事を読まれて、八百善に行ってみたいと思われた方のため、八百善の営業案内を載せておきます。
 これに、大田蜀山人の歌 
  ちはやふる かみすきばしを 夕こえて 八百善にてや 月まつち山
が使用されています。
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by wheatbaku | 2014-09-22 08:59 | 江戸の老舗 | Trackback
八百善①(江戸の老舗)
 昨日は、『江戸の食文化講座』を受講された皆さんと一緒に鎌倉にある八百善に行ってきました。
 そんなことで、2回にわたって、八百善について書いていきます。

c0187004_974652.jpg 江戸時代、八百善は新鳥越町と言われた現在の東浅草にありましたが、関東大震災で焼失しました。
 その後、築地にあった八百善も戦災で焼失し、その後、都内各所で営業していましたが、それらのお店も諸事情では閉鎖され、平成25年春に、鎌倉の明王院の敷地内で営業を再開しました。
 そうしたことから、現在は八百善は鎌倉で営業されています。
 鎌倉駅からタクシーで約10分ほどでした。
 明王院の境内といっても門は、路地に面していて、お寺の境内にあるとは全く感じられません。

 
c0187004_981033.jpg 八百善では、10代目栗山善四郎様にお出迎えしていただきました。
 栗山善四郎様は、八百善の歴史、おじいさんにあたる8代目栗山善四郎のエピソード、そして提供される料理と器のお話を丁寧にしてくださいました。
 初めて聞くことばかりで、大変興味深くたのしく聞かせていただきました。 栗山様、ありがとうございました。


 八百善では、お料理は、3千円と5千円のコースがありますが、昨日は3千円のコースをお願いしました。
 それでは、八百善で出されたお料理の写真をフルラインアップします。

c0187004_8595524.jpg 最初は、お刺身です。
 天然もののイナダのお刺身です。
 器は志野焼き


c0187004_9155897.jpg 鮭の芋がゆ仕立て
 器は、村瀬治兵衛作の日月椀


c0187004_913994.jpg この芋がゆの写真だけは、自分のものを撮り忘れました。幸い、隣の人の芋がゆが撮ってありました。
 隣の人の器は、この時期だけに使用される鈴虫の漆器ですが、大勢で行ったため、器が二種類用意されていて、ゆき届いた配慮に感激しました。


c0187004_92219.jpg なすの蒲焼きもどき
 器は、織部のまな板皿
 なすの焼き方は秘伝だそうです。


c0187004_922410.jpg えびのしんじょ揚げ
 器は黄龍五爪(きりゅうごづめ)の皿


c0187004_925715.jpg この皿は、中国清の最後の皇帝溥儀が、昭和10年に満州国皇帝として来日し現在の迎賓館に宿泊した際に、八百善が料理を担当しましたが、その際に使用されたものだそうです。
 中国では、黄色は皇帝の色で、爪が五本の龍は皇帝を表すものです。


c0187004_931861.jpg わたりかにの「茶碗蒸し
 八百善では、蟹はわたりがにだけしか使用しないとのことです。
 また、蒸し物は、真夏でも出すのが八百善の流儀だったそうです。


c0187004_9274535.jpg 栗ごはん
 八百善では、ご飯のおかわりは自由だそうです。
 そして、おかわりの都度、使用するお茶碗を変えるとのことでした。 


c0187004_93403.jpg そこで、おかわりしました。
 確かに、違う器でした。
 左が最初に出された黄万暦(きばんれき)、右がおかわりしたもので美濃の赤絵です。
 今までのおかわりの最多は、男性6回、女性4回だでそうです。


c0187004_94227.jpg 最後は、お抹茶とお菓子です。
 こちらは、コース外で、800円で味わうことができます。


 最後は、10代目栗山善四郎様を中心に、参加者の皆さんで記念撮影を撮らさせていただきました。
 栗山善四郎様、ありがとうございました。
 大変おいしし料理と貴重な器の数々に感激しました。
 また、一緒に行かれた受講者の皆さん、お疲れ様でした。
 そして手配いただいたUさんありがとうございました。
c0187004_961167.jpg



赤印が八百善の場所です。「明王院」が目印になります。

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by wheatbaku | 2014-09-20 08:12 | 江戸の老舗 | Trackback(1)
八杯豆腐(江戸の食文化)
連休中に、『江戸の食文化』に出ていた「八杯豆腐」を作りました。
 そこで、今日は「八杯豆腐」のご紹介です。

 『江戸の食文化』には、豆腐を水六杯・醤油一杯・酒一杯の割合の汁で煮た物と書いてあります。
 すごく簡単な豆腐料理です。

 この「八杯豆腐」は、「豆腐百珍」の中に載っています。
 実は、「豆腐百珍」の中には、二つの「八杯豆腐」が載っています。
 一つが「草の八杯豆腐」、もう一つが「真の八杯豆腐」です。
 「草の八杯豆腐」については、次のように書かれています。

 豆腐を太いうどん状に切り、醤油に酒で加減して、薄葛を引く。おろし大根を置く。

 読んでわかる通り、水六杯、酒一杯、醤油一杯とは書かれていません。一方、「真の八杯豆腐」には

 絹ごしのすくい豆腐を用い、水六杯と酒一杯をよく煮返した後、醤油一杯を足し、さらによく煮返し、豆腐を入れる。おろし大根を置く。 

と書かれています。

 そこで、木綿豆腐を短冊状に切り、『江戸の食文化』の通り、水六杯、醤油一杯、酒一杯の割合で作った汁を一旦煮立てて、そこに豆腐を入れて温まったら、出来上がりです。
c0187004_8371359.jpg それが、右写真です。
 出汁(だし)もつかわず、醤油と酒と水だけですので、素朴な味ですが、おいしかったです。
 手軽にできるので、江戸の庶民がおかずの筆頭に挙げたのも十分理解できるものでした。
 写真を撮り食べ終わってから、大根おろしを加えるの忘れていることに気が付きました。
 次回は、大根おろしを忘れないで作ってみようと思います。

 豆腐は、木綿豆腐を使うように書いてありましたので、木綿豆腐を使用しましたが、
絹ごし豆腐の方が、写真写りはよいかもしれません。

 ところで、木綿豆腐と絹ごし豆腐の違いはわかりますか?
 日本豆腐協会のホームページに、二つの違いについて説明してありました。
それによると、木綿豆腐は、豆乳に凝固剤を加えて一度固めたものを崩してから、圧力をかけて水分をしぼり、再び固めたものです。
一方、絹ごし豆腐は、濃度の高い豆乳に凝固剤を加えて、そのまま固めて作ったものだそうです。

 絹ごし豆腐のほうが手間がかかっていると思いましたが、予想外に木綿豆腐の方が手間がかかっているんですね。

 作り方の違いにより、食べた時の食感が違うだけでなく、栄養分も違うそうです。

 最後に、江戸検に出題されそうな江戸庶民のおかず番付である『日々徳用倹約料理角力取組』にかかれているおかずを列挙しておきます。
 番付の右の「東方」には「精進方」として野菜のおかず,左の「西方」には「魚類方」として魚のおかずが列挙されています。
 精進方の大関は「八杯豆腐」、関脇に「昆布油揚げ」、小結に「きんぴらごぼう」,
 前頭は、筆頭が「煮豆」、次いで、「焼き豆腐」、「ひじき白あえ」、「切ぼし煮付け」、「芋がら油揚げ」、「油揚げつけ焼き」、「小松菜浸しもの」
 魚類方」の大関は「めざしいわし」です。関脇に「むきみ切干し」これは貝のむき身と切干し大根を煮たもの、 小結は「芝えびからいり」、これは芝エビを炒めたものです。
 前頭筆頭は「まぐろから汁」これはマグロだけの味噌汁です。次いで、「こはだ大根」、「たたみいわし」、「いわし塩焼き」、「まぐろ剥身(すきみ)」、「塩かつお」、「鰊(にしん)塩引き」
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by wheatbaku | 2014-09-18 08:55 | 江戸の食文化 | Trackback
「江戸の食文化」第九回模試正解
今日は、一昨日に出題した模擬試験の正解をアップします。
 今回も『江戸の食文化』を中心に出題してあります。
 江戸検本番まで2か月を切ってしまいました。
 一級を受検する人は、「博覧強記」はもちろん、『江戸の食文化』はもうかなり読み込まれているとことと思います。
  今年のお題『江戸の食文化』はかなり多彩な情報が織り込まれているので、尾内の「江戸の食文化」の勉強は、これからは、原田先生編の『江戸の食文化』一本でよろしいのではないかと私個人は考えます。
 『江戸の食文化』をよく読み込まんでください。
今回の模擬試験が そのメルクマールになれば幸いです。

 では、正解をアップします。


1、 ③調理  

 てんぷらの語源説はいろいろあります。『江戸の食文化』でも、スペイン語の寺院を意味する「テンプロ」、ポルトガル語の祭日を意味する「テンポラ」と調理を意味する「テンペロ」が南蛮語系として紹介されています。
 受検者からすると覚えにくい事項ですが、問題にしやすい項目でもありますので、出題してみました。
 なお、てんぷらの語源説では、「天麩羅」という漢字名を考えた山東京伝は必須事項です。

参照『江戸の食文化』P132


2、 ①4月  

c0187004_854851.jpg 現代では、鮎の解禁は6月からとする川が多いのですが、江戸時代は、鮎の初物売出時期は4月からでした。
 今回の問題は鮎としましたが、代表的な初物の売出時期は、覚えておきましょう。
 なお、『江戸の食文化』では初物の時期は、魚類、野菜類、果物類と分けられていることに留意して覚えるとよいと思います。

参照『江戸の食文化』P151

3、 ②慶長年間  

 蕎麦切りが文献に初めて出てくるのが、天正2年(1574)の木曽の定勝寺の文書のなかですが、これは木曾でのことです。
 江戸での蕎麦切りの初出は『江戸の食文化』でかかれている通り、慶長19年(1614)の「慈性日記」の中です。


参照『江戸の食文化』P133


4、  ④升屋

 江戸時代後期になると高級料亭が数多く出てきます。
 これらの料亭を覚えるのは大変だと思います。
しかし、料亭の中で、深川の「升屋」は落せませんので、必ず覚えておいた方がよいと思います。
 「八百善」の前には「升屋」の方が有名であったという説もありますので。

参照『江戸の食文化』P140
 

5、 ③価格の釣り上げ  

 天保の改革の大きな眼目は、物価の統制でした。江戸の寿司屋の価格が高すぎるため、処罰されました。
 処罰された中には、「花屋与兵衛」や「松の鮓」も含まれていたといいます。

参照『江戸の食文化』P130

6、  ⑤菓子話船橋  

 これは、『江戸の食文化』の153ページの該当部分をそのままとりました。
「菓子話船橋」はあまりなじみのない料理書のように思われますが、『江戸の食文化』ではかなり重要視されていますので、よく覚えておいた方がよいと思います。
 なお、「菓子話船橋」は、深川佐賀町の菓子の名店船橋屋の主人船橋屋織江が書いた本です。

参照『江戸の食文化』P153

7、  ③木馬 

 餅屋の看板として「木馬」が利用されていたということを覚えている人は、守貞謾稿の記載を読まなくてもおわかりになったことだと思います。
 なぜ、餅屋の看板に木馬が用いられたかというと「あな、うま! ⇒ あな、うまし!」という洒落のようです。

参照『江戸の食文化』P136


8、 ②谷文晁

これは結構難しかったのではないでしょうか?
 「江戸流行料理通」の挿絵として有名なものは、酒井抱一が描いた蛤の絵です。「蛤」は写真も掲載されています。ですから、これは重要項目と思ってよいと思います。
 さらに、『江戸の食文化』を読むと谷文晁も「蔬菜図」を描いていると書かれています。
ですから、この絵が「蔬菜」であることがわかれば。谷文晁という答えはでてくると思います。
 また、絵をよくみると谷文晁の名前が書かれています。もちろんくずし字ですのでわかりずらいとは思いますが・・・

参照『江戸の食文化』P138

9、 ④水戸藩

これは、『江戸の食文化』には記載されていないことですので、案外難しかったのではないでしょうか?
 ただ大久保今助が常陸の出身者だというのを知っていると答えは簡単かもしれません。
 でも、このことを知っている人はあまりいないとは思います。
 大久保今助は、現在の常陸太田市の生まれで、江戸にでて、財産を築き、中村座の金主となりました。
 その後、水戸藩にお金を献納したことにより勝手方に取り立てられ、最後は勘定奉行までに栄進したと言われています。

 
参照なし

10、  ②料理歌仙の組糸

 この問題も『江戸の食文化』の144ページをそのまま引用して問題としました。
 どれだけ、『江戸の食文化」を読んでいるかを問う問題です。
 『江戸の食文化』をよく読まれている方には、簡単な問題だったのではないでしょうか。


参照『江戸の食文化』P144
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by wheatbaku | 2014-09-16 13:55 | 江戸の食文化 | Trackback
「江戸の食文化」第九回模擬試験問題 
 連休は皆さんいかがお過ごしでしたか?
 私は、先週、旅行してきましたので、今週は家で本を読んだりしてのんびりしましたが、パソコンの具合が悪くなって、最終日は、その復元に追われてしまいました。
 無事、パソコンの具合も回復しましたが、本日朝アップする予定であった模擬試験の出題が遅れてしまいました。
 今回の模擬試験も、「江戸の食文化講座」で出題した問題です。
 今回の問題も原田信男編『江戸の食文化』からの出題です。
 もう、多くの受験者の皆さんが『江戸の食文化』を読まれていると思いますので、高得点を目指して挑戦してみてください。

 回答は水曜日にアップします。



1、てんぷらの語源には諸説あって、明確とはなっていません。語源説の一つにポルトガル語の「テンペロ」に由来するという説があります。
 それでは、この「テンペロ」は、日本語ではなんという意味でしょうか?

 ①寺院  ②祭日  ③調理  ④油

2、幕府は、初物珍重による物価高騰を防ぐため、魚・野菜などの売出時期を指定する御触書を出しています。
 それでは、「江戸の食文化」では、あゆの売出時期は、いつからとなっているでしょうか

 ①4月  ②5月  ③6月  ④7月

3、蕎麦切が考案された時期は明確ではありませんが、江戸で蕎麦切が普及していることが明確に記録されているのは、いつの頃の書物か次の中から選びなさい。

①天正年間  ②慶長年間  ③元和年間  ④寛永年間

4、山東京山の「蜘蛛の糸巻」にも載っていて、「望汰欄(ぼうだらん)」という別名でも有名な料亭の名前はなんというでしょうか

 ①葛西太郎  ②平清  ③二軒茶屋  ④升屋

5、天保の改革の際に、200人以上のすし職人が手鎖に処されていますが、その理由はなんだったでしょうか

 ①材料の虚偽表示  ②集団食中毒の発生  ③価格の釣り上げ  ④原料の不法仕入

6、庶民が楽しめるように製法の秘伝・口伝のほか渓斎英泉の挿絵を添えた菓子製法書の最高峰と言われる書物は次のうちのどれでしょうか

①餅菓子即席手製集  ②御前菓子秘伝抄  ③御前菓子図式  ⑤菓子話船橋  

7、守貞謾稿に、「古は諸国ともに餅・饅頭店にはこれを用ふなり。今は看板あるひは暖簾に誌せり」と書かれていて、餅屋の看板として利用されていたのは、次のうちどれですか

①うす  ②きね  ③木馬  ④猿像

c0187004_2036010.jpg8、右の絵は、八百善の創業者栗山善四郎が刊行した「江戸流行料理通」に載っている絵です。
 それでは、この絵の作者は次のうち誰でしょうか?

 ①酒井抱一  ②谷文晁 
 ③鍬形恵斎  ④渓斎英泉

9、うな丼の考案者と言われるのは、中村座の金主であった大久保今助ですが、大久保今助は、後に、ある藩に仕え要職まで出世しています。
 それでは、大久保今助が仕えた藩は次のうちどれでしょうか?

 ①尾張藩  ②越前藩  
 ③出雲藩  ④水戸藩


10、江戸時代前期には料理人の料理人のための料理書が中心でしたが、しだいに料理人以外の人々が楽しめる「料理本」が主体となってきました。
 その皮切りとなった本の名前はなんというでしょうか

 ①料理物語  ②料理歌仙の組糸 ③豆腐百珍  ④名飯部類







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by wheatbaku | 2014-09-15 20:42 | 江戸の食文化 | Trackback
練馬大根③(江戸野菜 江戸の食文化)
 今日も「練馬大根」のお話です。
 今日は、練馬大根の誕生は、将軍綱吉によるという説についての考察ですが、練馬区教育委員会発行の『新版練馬大根』に書かれていることを記したいと思います。

c0187004_910536.jpg 『新版練馬大根』には、「将軍綱吉説」が初めて書かれたのは大正7年に発刊された「北豊島郡誌」であり、それ以前の明治30年刊「園芸会雑誌」にも将軍綱吉との関係をかいた記載があるとしています。(記載内容の詳細は後記赤字部分をご覧ください)
 そして、この「将軍綱吉説」について考察を書いています。その概略は次の通りです。
 1、「北豊島郡誌」は「園芸会雑誌」と比較しても修飾が多いきらいがある。
 2、「北豊島郡誌」には、綱吉が沢庵和尚に貯蔵法を講じたと書いてあるが、綱吉が生まれる以前沢庵和尚は死んでいて、綱吉が沢庵に貯蔵法を教えることはできない。
 3、綱吉が練馬で療養したことは「徳川実紀」に記録されていない。
 4、下練馬村に綱吉が御殿を建てたという伝聞は元禄時代にはあった。
 5、練馬大根は尾張の宮重大根を取寄せたとされているが、遺伝学上その証拠はない。
 6、「武蔵野歴史地理」(昭和3年刊)には、「(北豊島郡誌の説)は甚だ信用しがたい説である。」と書いている。

 この内容は、大変長い文章ですが、練馬区の公式ホームページの「練馬大根誕生伝説」というページにも掲載されています。
c0187004_9124459.jpg この練馬区のホームページの転載を練馬区広聴広報課にお願いしましたところ、御許可いただきましたので、そのまま転載させていただきます。
 転載を御許可いただいた練馬区に御礼申し上げます。
 以下が練馬大根誕生由来に関する綱吉説についての練馬区の考察です。
 長い文章ですので、時間のない方は飛ばしてください。

練馬大根誕生説
 練馬大根の伝説として、5代将軍綱吉説と篤農又六説の2つがある。明治以降、この2つの伝説は、相互に交流し加筆されて今日に至っている。

  将軍綱吉説

 この伝説の初見は、「北豊島郡誌」(大正7年刊 北豊島郡農会編)であり、次のように記載している。

 往時、徳川綱吉公右馬頭(うまのかみ)たりし時、偶々脚気症を患ひ、医療効を奏せず、時の陰陽頭をして、卜(ぼく)せしめしに、城の西北に方り、馬の字を附する地を択び、転養するに若かずと。依て地を下練馬村に卜して、殿舎を建て、療養せしに、病漸次癒え、徒然を慰むるため、蘿蔔(だいこん)の種子を尾張に求め、試みに字桜台の地に栽培せしむ。結果良好にして、量三貫匁、長さ四尺余の大根を得たり。公病癒えて帰城するや、旧家大木金兵衛に培養を命じ、爾来年々献上せしめ、東海寺の僧沢庵をして、貯蔵の法を講ぜしむ。

 とある。これが、練馬大根誕生伝説の一つである綱吉説の重要な文献になっている。しかし、この「北豊島郡誌」をさかのぼる20年前、その祖型と思われる「日本園芸会雑誌」(第80号日本蔬菜名品録、市川之雄編 明治30年発行)では、次のように記している。

 練馬大根は東京府下北豊島郡練馬村の産にして、秋大根中有数の名品なり、(略)今其起源を聞くに記録の因なるべきものなく、幾百年より栽培したものなるや確知し難しといえども、徳川将軍綱吉公の同村に別邸を建築せられたるとき、邸内の空地に大根を栽培して進献したる処、其性沢庵漬に適せる良味のものなりとの御諚ありたるより以降、同村に於て大根栽培せらるるものなり。


 綱吉説の考察

1.大正7年刊の「北豊島郡誌」と明治30年刊「園芸会雑誌」に記載されているものを比べると、前者の方は修飾が多いきらいがある。「園芸会雑誌」には、「右馬頭の脚気、陰陽師の卜、種子を尾張に求め、桜台(現在の北町4丁目辺り)に栽培、大木金兵衛に培養を命じ」などの記述はない。

2.史実では、綱吉は正保3年に出生し、沢庵和尚はその前年に没している。「北豊島郡誌」に述べられているように、綱吉が僧沢庵に貯蔵法を講ぜしむることはできない。

3.当時、将軍や世子兄弟の病気や湯治、屋敷の拝領などに至るまで「徳川実記」(嘉永2年完成-初代家康から10代家治に至るまでの将軍を中心にした編年体実録)には詳細に記録されているが、右馬頭が下練馬村で療養したことは出ていない。しかし、「新編武蔵風土記稿」(天保元年上呈、徳川幕府による武蔵野国の官撰地誌)の下練馬村の項には、「屋敷跡 村の南にあり、右馬頭と称せるもの住すといふ、其姓氏及何人たる事を伝へず、今陸田となり御殿 表門 裏門の小名あり、礎石なと掘出す事ままありと云。」とある。

4.下練馬村内田家文書「御府内并村方旧記」の元禄10年のくだりには、「護国寺建つ、館林御殿、当村に之有り候を引き移し建つ」とある。これによれば、旧記の執筆者が生存していた頃には、綱吉が下練馬村に御殿を構えていたという伝聞があったことは確かである。

5.種苗研究家森健太郎は、「北豊島郡誌」に「蘿蔔(だいこん)の種子を尾張に求め」とあるのは疑わしいということを、次の理由を挙げて説明している。「練馬大根が、尾張からとりよせた大根を宮重とすると、(練馬大根には)遺伝学上、どこかに宮重の遺伝現象が認められるはずであるが、(練馬大根には)なんら認められない。」(全日本種苗研究会機関紙 種苗指針第2号所収、括弧の部分は補記)

6.「武蔵野歴史地理」(高橋源一郎著 昭和3年刊)には、下練馬御殿の考証とともに、練馬大根の起源にふれ、「(北豊島郡誌の説は)甚だ信用し難い説である。或人は後人の偽作かとも云って居る。新編武蔵風土記稿には之に関することは少しも記していない。されば、この偽作も文化・文政以後最近のことであらうか。」と述べている。


 以上を読むと、「将軍綱吉」説には、論拠はないというのが大勢で、後人の偽作であるという説さえあるということのようです。
 「将軍綱吉説」の根拠が、大正7年の文献であり、江戸時代に書かれたものが一切なく、伝承も不確かなものだとすると、私は、「将軍綱吉説」というのが信用しがたいと思わざるをえません。


 なお、 『練馬大根』では、この後で、上練馬村百姓又六がたまたま古い練馬大根の原種を発見したという「篤農又六説についても説明しています。
 さらに、「将軍綱吉説」と「篤農又六説」の複合説も紹介していますが、複合説の代表が、春日町の練馬大根碑の碑文で、その碑文では、将軍綱吉より直接上練馬村の百姓又六に宮重大根の種子が与えられたことになっているそうです。

 そして、最後に次のように書かかれています。
 伝説とは、このように時代や地域により種々変化して語り継がれていくものである。変化することによって時代や地域に生きるものであるから、どちらが先かを争ったり、一方を否定したりすべきものではない。
 私たちは、いずれの伝説も練馬大根誕生の地が上・下練馬村の富士大山道沿いにあることを踏まえ、さらに史的な展望を試みたい。

 詳しくご覧になりたい方は、次の練馬区の公式ホームページをご覧ください。
  練馬大根誕生説


 今日は、長い記事になってしまいましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。
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by wheatbaku | 2014-09-12 08:57 | 江戸の食文化 | Trackback
  

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