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魚もろもろ(江戸の食文化)
 江戸検の試験日まで、残す所、2日間となりましました。
 江戸検を受検されうる皆様、試験準備で大変だと思いますが是非頑張ってください。

 今日も「江戸の食文化」関連で、魚についてもろもろの事を書いてみます。

 江戸時代には、食品の上下がはっきりしていました。
 魚介類も上下の格付けがはっきりしていました。
上魚は、鯛、鯉、鰭白(はたしろ)、鮒、鮭、鱒、鰆(さわら)、鮟鱇(あんこう)、石鰈(いしかれい)、甘鯛、鱚(きす)、細魚(さより)、鮎、白魚、 生鱈があげられています。

 
活鯛屋敷
 魚の中で、鯛が最上等とされています。
 そのため、鯛は、江戸城でめでたいことが起こるとその食膳にのぼるため、多くの需要が生じます。
 例えば、慶長9年の家光が誕生した際には、200匹の鯛を納入するように言われたと言います。また時代が下がって、天保8年の徳川家慶の12代将軍就任の祝宴には500匹の鯛が準備されたそうです。
 こうした多数の鯛需要に応えるため、日本橋のすぐ下流にある江戸橋の近くに「活鯛屋敷」があり、中には大きな生簀(いけす)がありました。
 これは、日本橋の本小田原町に住んでいた大和屋助五郎が作り上げたものです。
 助五郎は、駿州地方の各浦を回って漁民と契約をし、かれらに仕入金を貸付けた上で、その浦々に活鯛場を設けました。そして、そこの鯛を日本橋に送らせるようにしたのです。

荒川の鯉が上等
 鯛が最高の魚となる以前は。鯉が最高ランクの魚だったことはご存知の方が多いと思います。
 その鯉ですが、三田村鳶魚の「江戸の食生活」によると、江戸では、隅田川の鯉が珍重されたようです。
 「江戸の食生活」による、寛保の「江戸往来」には「浅草鯉」と出たいて、享和の「東わらは」という本には「荒川鯉」と出ててくるそうです。
 向島の料亭「葛西太郎」が「鯉料理」で有名であったのは、この隅田川の鯉を料理していたからなんですね。
 なお、両国橋の少し上流に「百本杭」という場所がありましたが、三田村鳶魚の時代まで、「百本杭」で鯉が捕れて、その鯉が東京で一番上等だったそうです。


水戸藩は鮟鱇を献上していた
 先日の神田散歩では「いせ源」で「鮟鱇のつるし切り」を見させていただきましたが、その際、参加者の皆さんに「江戸時代、将軍はあんこうを食べたと思いますか」という質問をしてみました。すると多くの方が「食べなかった」という回答でした。
 鮟鱇の姿から想像して、そう思った方が多かったようです。
 しかし、将軍は鮟鱇を食べていたと思います。
 それは、いくつかの大名が将軍家に鮟鱇を献上しているからです。
 文化元年の「武鑑」を見ると、御三家の一つ水戸徳川家から11月に鮟鱇が献上された記録が残っています。
 また、磐城平藩安藤家から12月に鮟鱇が献上されています。

鮪の別名は「しび」 
 最後に江戸時代には下魚とされていたマグロについて書きます。
 現在では、鮪は魚の中で最高級品ですが、江戸の人は鮪を嫌ったそうです。
 なぜ、鮪が嫌われてかというと松下幸子先生によると「まぐろは『しび』という別名と油の多いことから嫌われた」と書いています。
 また、八百善の10代目栗山善四郎は、「昔の人は、マグロを『しび』と呼んでいたました。それを、駄洒落で死ぬ日とひっかけて『死日』と言った。だから、嫌われました。それと、姿が良くなかった。マグロは銚子沖で取れていました。それを江戸まで、荷車に乗せて、水をかけながら江戸の市中を運んでいました。マグロは大きく、200キロぐらいある。それがドザエモンにそっくりなので、すごく嫌わていたそうです。」と語っています。
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by wheatbaku | 2014-10-31 10:34 | Trackback
酒あれこれ (江戸の食文化)
 今日は、酒についてあれこれを書いていきましょう。

諸白(もろはく)
 まず「諸白」ということが良く出てきますが、「諸白」とは何かについて説明します。
 日本酒は、麹により米のでんぷんがブドウ糖に分解され、アルコールへと変わって製造されます。
この製造工程で、麹を造るために使われる米が「麹米」で、酒母やもろみを仕込む際に加える蒸した米を「掛米」といいます。
諸白とは、日本酒を造る際に、麹米と掛け米(蒸米)の両方に精白米を使用する製法です。

寒造り
 お酒は、江戸時代初期までは、秋の彼岸前後から春の彼岸すぎまで造られていました。
そして、造る時期によって次の5種類に区別されていました。
 それは、新酒、間酒(あいしゅ)、寒前酒(かんまえざけ)、寒酒(かんしゅ)、春酒(はるざけ)と呼ばれていました。
 その中で、小寒から立春までの約30日間が酒造に最適の時期であり、この時期につくることを寒造りといいました。

段掛け
段掛けは、段仕込みとも言い、醪(もろみ)造りにおいて、その前の工程で造られた酒母(しゅぼ)もしくは酛(もと)へ、原料である麹と蒸米を三回に分けて加えていくこと
 三段仕込みは、三段階を、初めから初添(はつぞえ)、仲添(なかぞえ)、留添(とめぞえ)と呼んで、4日間かけて仕込まれます。

火入れ
 火入れとは、醸造した酒を加熱して殺菌処理をすることをいいます。
 火入れされる前の酒は、まだ酵母が生きて活動していますし、麹により生成された酵素もその活性を保っているため酒質が変化しやすく、乳酸菌の一種である火落菌が混入している恐れもあります。
 こうした状態のまま放置しておくと酒が白く濁ってしまいます。これを火落ちといいます。
 そこで火入れすることにより、これら酵母・酵素・火落菌を殺菌あるいは活動を低下させて酒質を安定させることができます。
 火入れすることにより酒は常温においても長期間の貯蔵が可能となります。
 なお、火入れは、63度~65度程度の低温で行われます。


お銚子と徳利
c0187004_1011170.jpg 現在では、お銚子を徳利とはあまり区別されません。しかし、江戸時代中期までは、はっきりと区別されていました。
 近世風俗志(守貞謾稿)5には、詳しく書かれていますので、それを参考に書いていきます。

 徳利は、今では酒を注ぐのに用いられていますが、近代に瓶売りが一般化するまで、酒は量り売りするのが一般的で、酒屋は徳利に入れて酒を販売しました。
 徳利は個人の所有ではなく酒屋の貸し物であることが普通で、酒屋の屋号が大きく書かれていました。

 銚子は、燗をつけた酒を盃に注ぐための器です。本来の銚子は注ぎやすいように長い柄がついていました。
 守貞謾稿には、昔は鉄製の大きなものでしたが、近世のものは小さくなり、ちろりで燗をした酒を移すと書いてあります。
c0187004_1014678.jpg ちろりとは銅や錫または真鍮製の容器で、中に酒を入れ容器ごと湯につけて燗をしました。
 また、江戸では銚子は正式の膳である式正(しきしょう)にのみ使うもので、略式の時には燗徳利を使うのが普通と書いてあります。
 式正にも初めのうちは銚子を使い、三献するともっぱら徳利を使用するようになり、大名ですら略式の場合の酒宴では徳利を使うようになったと書いてあります。

 ちろりの燗酒は大変飲みにくいとも書いてあります。そのためだんだん使用されなくなったのでしょう。
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by wheatbaku | 2014-10-30 09:48 | 江戸の食文化 | Trackback
「江戸の食文化」第十回模試正解
 今日は、「江戸の食文化」に関する模擬試験問題の正解をアップします。

 今回は、直前ということもありますので、難解問題は避けて出題したつもりですが、結果はいかがだったでしょうか?

1、 ②銀  

c0187004_9502920.jpg 日本橋の「にんべん」には、商品切手の復刻したものが店内に展示してありますので、ご覧になった方もいらっしゃると思います。
 (右写真)
 「大江戸老舗物語」の「日本橋散歩」にご参加された方は、「にんべん」の担当者が説明されていたので、よく御存じだと思います。
 なぜ、金でなく銀を使用したかと説明はありませんが、金だと価値が高いため商品切手の大きさが小さくなりすぎること、銅や紙では価値がなさずぎること、上方は銀使いで「にんべん」は上方出身の商人であることなどを配慮したのではないかと個人的に推測しています。

2、 ④茗荷屋

 江戸の有名料亭は数が多く、どの料亭が重要かということは本によって違っているので、どの料亭名を覚えるか迷うところです。
 「博覧強記」に222ページに紹介されている料亭は、覚えておくとよいと思います。
 私がマーカーで印をつけたのは、洲崎升屋、深川八幡宮二軒茶屋、真崎甲子屋、葛西太郎、深川の平清、王子の扇屋、浅草大音寺の田川屋、柳橋の万八楼、そして八百善です。
 この問題は、「博覧強記」で紹介されている料亭の他に、『江戸の食文化』に掲載されている料亭は覚えておく必要があると思い、「茗荷屋」を出題しました。

 3、 ③3代家光 
 

 佃煮が佃島で考案されたということは多くの人がご存知だと思います。
 しかし、佃島が埋立てられた人工の島で3代将軍の正保年間に築かれたということ等を初めて知るという方もいるかと思い、これを覚えておいていただこうとして出題しましたが、簡単な問題だったと思います。

5、 ③新肴場 

 延宝2年には、日本橋魚河岸の締めつけに耐えかねた武州・相州の漁民たちが立ち上がり幕府に訴願した結果、楓川沿いの本材木町一丁目、二丁目に「新肴場」が開設されます。
 そして、「新肴場」は毎月10日までの江戸城の御用を承り、日本橋魚市場は、11日から30日までの御用を承るようになりました。
 この事情を知らなくても、江戸三大魚市場が、日本橋魚市場、新肴場、四日市の三市場であることがわかれば、ある程度推測がついたことと思います。

5、 ④キノエネ

 「最上醤油」と認められた七銘柄の醤油をすべて覚えておくべきだと思っています。
 そこで、その確認のための出題です。
 七銘柄のうち三銘柄は、現在も「ヒゲタ」「ヤマサ」「キッコーマン」として存続しています。
 その他の銘柄も銘柄としては存続していませんが、上記三社と合併して存続しています。
 すなわち、「ジガミサ」は「ヒゲタ」に、「ヤマジュウ」は「ヤマサ」に、「ジュウジュウ」と「キハク」は「キッコーマン」と一緒になっています。
 「キノエネ」は現在も存続している有力醤油メーカーですが、惜しいことに「最上醤油」ではありませんでした。

 
6、 ①みかん 

 この問題のポイントは、「鞴」の漢字が読めるかどうかです。「ふいご」と読みます。
 実際の試験ではフリガナがふられるかもしれませんが、『江戸の食文化』にはフリガナがふられていませんでしたので、あえてフリガナをふりませんでした。
 鞴(ふいご)祭りということがわかれば、みかんという答えは簡単だと思います。
 なお、鞴祭りになぜみかんをまくかというと、鞴は天から降ってきたのだそうですが、天から降ってきて際にみかんの木にひっかかったという伝承があるそうです。
 そのため、みかんをまくそうです。


7、 ②万宝料理秘密箱 

 「百珍物」といわれる本にどんな本があるかは、すべて記憶して方がよい考えます。
 「百珍物」は、玉子百珍以外は食材名が付されていますので覚えやすいと思います。「玉子百珍」と呼ばれる本だけ「玉子」が使用されていませんので、それを確認するために出題しました。
 ちなみに百珍物と呼ばれる物を挙げておきます。
  「豆腐百珍」 天明2年(1782)
  「鯛百珍料理秘密箱」天明5年(1785)
  「大根一式料理秘密箱」(大根百珍)天明5年(1785)
  「柚珍(ゆちん)秘密箱」(柚百珍)天明5年(1785)
  「万宝料理秘密箱」(玉子百珍)天明5年(1785)
  「甘藷百珍」寛政元年(1789)
  「海鰻百珍」寛政7年(1795)

8、 ①笹の葉で包む 

 この問題は、『江戸の食文化』には全くふれられていません。
 山田順子氏の「江戸グルメ誕生」に触れられている事項です。
 「鮮魚(なま)街道」については、松戸市のホームページでも紹介されていますが、利根川沿いの布佐河岸と江戸川沿いの松戸河岸を結ぶ街道です。
 笹の葉には、殺菌効果があるそうです。笹巻けぬきすしを訪れた際に、笹を巻く理由を尋ねた際に教えていただきました。
 笹を寿司に巻く程度であればそれほど驚きませんが、鮮魚を輸送する際にも利用されたとすると笹の葉の殺菌効果はかなりあるものと思われます。

 
9、 ③信州味噌 

 
 選択肢とした味噌は、八丁味噌以外は『江戸の食文化』に掲載されていますが、「仙台味噌」は、江戸の仙台藩下屋敷で作られて江戸っ子に人気の味噌でした。八丁味噌は、三河の味噌ですので、三河出身の人にとっては馴染のある味噌です。そして、西京味噌も、上方から輸送されてきていました。
 これらの味噌は、江戸っ子にとってなじみのある味噌でした。
 信州味噌は、現在では、関東でかなりのシェアを誇っていて、今の私たちにとっては大変なじみのある味噌です。
 しかし、これほど信州味噌が食べられるようになったのは、大正時代以降です。
 大正12年の関東大震災で、江戸の味噌メーカーが壊滅的打撃を受けた際に、長野県から救援物資として送られてきたのが信州味噌です。これ以降、東京でなじみの味噌となりました。
 また、江戸甘味噌は、米の使用量が多いため、戦時中の食料統制の中で、製造が禁止されました。そのため、江戸甘味噌に代わる味噌として信州味噌が食べられるようになりました。

10、 ②内桜田門  

 下馬から先には、大名・旗本の一部の供侍しか江戸城に登城できませんでした。
 その他の供侍は、大名らが戻るまで、下馬先で待っていました。
 この人たちを対象に屋台が出ました。
 下馬という場合、「大手門」、「西の丸大手門」、「内桜田門」を指すことが多いのですが、「江戸の食文化」では、「大手門」と「内桜田門」の二つを下馬としています。
 なお、「内桜田門」は「桔梗門」と呼ばれることが多く、単に「桜田門」と言った場合は、「外桜田門」を指しました。 
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by wheatbaku | 2014-10-29 09:41 | Trackback
「江戸の食文化」第十回模擬試験問題
 今日は、「江戸の食文化」に関する模擬試験問題を出題します。
 今回で、10回目となり、都合で100問の出題となります。
 今月は、文京学院大学の「大江戸老舗物語」の準備と本業の方が忙しくて出題を見送ろうと思っていましたら、先週土曜日にお会いした受検者の皆さんから、あと10問是非出題して欲しいとのお話がありました。
 大変うれしいことですので、江戸検本番が近付きましたが10問出題します。
 正解は明日アップします。


1、「にんべん」の六代目高津伊兵衛は、日本初の商品切手を考案しました。
 表に金額、裏ににんべんの印がつけられたもので鰹節と交換できるものでした。
 それでは、この商品切手はなんでできていたでしょうか?

  ①金  ②銀  ③銅  ④紙

2、江戸に料理屋が出現するのは宝暦天明期と言われていて、「八百善」をはじめ多くの有名料理屋が繁盛しました。
 その中で、雑司ヶ谷の鬼子母神前の名店で、幕末には彰義隊の面々が会合を開いた場所として知られている料亭は何というでしょうか

 ①平清  ②田川屋  ③平岩  ④茗荷屋

3、佃煮を考案したのは、もともと摂津国西成郡佃村から江戸に下ってきた漁師たちでした。
 この漁師たちが佃村の名主森孫右衛門に率いられて江戸にやってきたのは慶長17年のことでした。
 彼らは、拝領した江戸湾の干潟の一部を埋め立て小島を築きました。その島が佃島で、そこで考案された小魚の煮物が佃煮です。
 それでは、佃島が築かれたのは、何代将軍の時代だったでしょうか?

 ①初代家康 ②2代秀忠 ③3代家光 ④4代家綱

5、魚市場としては、日本橋の魚河岸がもっとも有名で、幕府の御用も一手に引きうけていましたが、延宝2年(1678)に開設された市場と、その役割を分担することになりました。
 新たに開設された市場は、江戸三大魚市場の一つに数えられましたが、この市場の名前はなんというでしょうか?

 ①芝雑魚場   ②雑喉場魚市場  ③新肴場  ④四日市

5、「最上醤油」と認められた醤油は七銘柄あり、銚子の四銘柄と野田の三銘柄でした。
 その七銘柄のうち四つは、「ヒゲタ」「ヤマサ」「キッコーマン」「キハク」です。
 それでは、次の四銘柄の中に「最上醤油」とは認められなかった銘柄が一つだけあります。
 それはどれでしょうか?

 ①ヤマジュウ  ②ジガミサ ③ジュウジュウ ④キノエネ

6、旧暦の11月8日には、鞴を使う職人が、火伏せと繁盛を祈り稲荷神を祭る行事である鞴祭りが行われました。
 鞴祭りではあるものがまかれましたが、鞴祭りでまかれたものは何でしょうか?

 ①みかん  ②あめ  ③もち  ④お金

7、天明2年に発刊された「豆腐百珍」が評判になって以来、「鯛百珍秘密箱」を始めたとしたいわゆる「百珍物」といわれる本が数多く出版されました。
 その中には、食材をタイトルに用いていない書名もありました。
 それでは、別名で「玉子百珍」と呼ばれる書物の正式な書名はなんといったでしょうか

 ①料理山海郷  ②万宝料理秘密箱  ③名飯部類  ④料理早指南

8、銚子沖でとれた魚は、夕刻に銚子を出発し、翌日の夕方から夜に日本橋に着き、翌朝のせりにだされました。利根川・江戸川の水運を主に利用しましたが、一部陸上輸送も利用し、その街道は、鮮魚(なま)街道と呼ばれました。
 それでは、銚子から鮮魚を輸送する際に魚の鮮度を保つために利用された方法は、次のうちどれでしょうか?

 ①笹の葉で包む  ②塩を振る  ③氷水にいれて運ぶ  ④酢でしめる

9、味噌は、「手前味噌」という言葉があるように、それぞれの家で作るのが普通でした。
 そのため、味噌は、全国各地で独特の味噌が作られていました。
 それでは、現在も馴染のある味噌で、江戸市民がほとんど口にしなかった味噌は次のうちどれでしょうか

 ①仙台味噌  ②八丁味噌  ③信州味噌   ④西京味噌

10、人の集まるところには屋台が出ました。
 その場所は、寺社境内・広小路・大店のある繁華街などですが、意外な場所にも屋台が出ていました。それが下馬です。
 それでは、「江戸の食文化」に上がられている下馬とは大手門前のほかどこの門前を言いましたか?

 ①西の丸大手門  ②内桜田門  ③外桜田門   ④和田倉門
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by wheatbaku | 2014-10-28 10:14 | Trackback
獣肉いろいろ(江戸の食文化)
 江戸検まであと一週間となりました。
 先日の「神田散歩」でも江戸検を受検される方々とお話しましたが、皆さん、一生懸命準備しているようで、ぜひ頑張ってほしいと強く思いました。
 受検される皆さん、あと一週間、フルに頑張ってください。
 江戸検まで、あと一週間ありますので、「江戸の食文化」に関することで、今まで書いてきてないことについて極力書いていこうと思います。

 今日は、「獣肉」について書いていこうと思います。
 江戸時代には、「獣肉」を食べていなかったと多くの思い人が思っています。
 江戸検を受検される方はそんなことはないとは思いますが・・・
 しかし、江戸時代には、「獣肉」はかなり食べられていました。

c0187004_8473017.jpg  両国にある「ももんじや」は、享 保3年(1718)創業の老舗で、いのしし鍋などを食べにいった人もいると思います。
 この「ももんじや」は、もとは屋号を豊田屋といい、当初「ももんじや豊田屋」と言っていました。それが、明治以降、他の「ももんじや」がなくなったので、「ももんじや」となのったと言われています。
 つまり、「ももんじや」というのは獣の肉を商う店の総称だったのです。
ですから、名前からして、獣肉屋が数多く多くあったことを想像させます。

 彦根藩では、牛肉の味噌漬けが、堂々と作られていました。
 彦根藩では、甲冑づくりに使用する牛皮をつくる際に余った肉を味噌漬けにして食べていました。
 これは、ある彦根藩士が『本草綱目』を読んで牛肉を味噌漬けにした食を考案したのだといいます。
 味噌漬けは「反本丸(へんぽんがん)」と呼ばれ、滋養強壮に効果のある薬とされていました。
 彦根藩では、牛肉の味噌漬けを将軍家や各地の大名への贈り物とし大変喜ばれました。
 彦根藩では、水戸藩徳川家にも、牛肉を贈呈していましたが、井伊直弼が藩主になって、牛肉の献上を中止してしまいました。その際に、徳川斉昭が牛肉を所望した手紙が残っているそうです。
 徳川斉昭と井伊直弼の仲が悪かったのは、牛肉が原因だったというおもしろい説もあったりします。

 8代将軍吉宗は、享保13年(1728)、インド産の白牛が3頭輸入しました。 輸入された白牛は現在の千葉県の嶺岡まで運ばれ、白牛は嶺岡で飼育されました。
 そして、白牛から搾った牛乳で「白牛酪」という乳製品を作りました。
 「白牛酪」は、乳を煮詰め乾燥させて団子に丸めたもので、現在のバターだという説があります。一方で、よりチーズに近いものともいわれたりしています
 始め将軍家に献上品として納められましたが、11代将軍・徳川家斉のときに嶺岡牧場の白牛は70頭までふくれあがり、その一部を江戸に移して白牛酪の製造を始めました。
 さらに家斉は医師の桃井桃庵に『白牛酪考』という本を書かせて薬効を一般庶民にも知らせました。
 白牛酪は、腎虚、労咳、虚弱用などの薬として使用されていましたが、11代将軍家斉が強壮剤として使用したとも言われています。55人もの子供ができたのは「白牛酪」のおかげかも・・・

 朝鮮通信使は、江戸時代を通じて、都合9回来日しました。
 朝鮮人は、獣肉を忌避した当時の日本人と異なり、豚や鹿や猪が好物でした。
 そのため、朝鮮通信使が来日した際には、猪や鹿の肉の準備が必要でした。
 そこで、使節を接待する幕府や大名は猪や鹿を領地の村々に命じて集めていました。
 江戸での朝鮮通信使饗応の際には、上野国に上納が命じられました。
 捕獲された猪の肉は、利根川を通じて江戸に運ばれました。

 また、オランダ商館のあった長崎では、近郊の村では、食用の牛や豚を飼育していました。貝原益軒の「大和本草」では、豚について「長崎に多く養い殺して異国人に売る」と書いてあります。
 遠山金四郎の父遠山景晋は長崎奉行を勤めたことがありますが、彼の「続未曾有記」に豚などを飼育し中国人やオランダ人に売っていると書いてあります。
これらの肉類は、外国人に売るだけではなく、日本人も食べていたようで、司馬紅漢もその日記「江漢西遊日記」に、長崎の宿で牛肉を食べたと書いているそうです。

なお、原田先生の「江戸の食文化」の重要事項一覧は次からダウンロードできますので、改めてご案内します。

 『江戸の食文化』重要事項一覧ダウンロード


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by wheatbaku | 2014-10-27 08:44 | Trackback
神田散歩
 昨日は、文京学院大学生涯学習センターの「大江戸散歩老舗物語」で、神田散歩をしてきました。
 今回は、「老舗物語」ということで、老舗中心にご案内をしてきました。
 今回、ご案内した老舗は、須田町の「まつや」・「いせ源」・「たけむら」・「ぼたん」・「かんだやぶそば」 ⇒ 小川町の「笹巻けぬきすし」 ⇒ 神田明神前の「三河屋綾部商店」です。

 今回は、料理屋さんが多いのでお店の中に入ってのご案内は日本橋のようにはできませんでしたが、「いせ源」では「あんこうのつるし切り」の実演を見させていただきましたし、 そして「三河屋綾部商店」では、御主人の御説明もいただけました。

 快晴にめぐまれて、快適な散歩でした。また、滅多にみられない「あんこうのつるし切り」もみられてよかったと皆さんには喜んでいただきました。
 ご参加いただいた皆さん、ありがとうございした。

 今日は、老舗訪問の様子をアップします。

c0187004_12535995.jpg お蕎麦屋の「まつや」は、明治17年の創業です。
 池波正太郎さんお気に入りの蕎麦屋で下駄履きで通ってきたことで有名です。
 まつやでは、予約を受け付けませんので、行列ができることがしばしばですが、土曜日には、いつもならんでいますが、昨日もお店の前の行列に、参加者の皆さんもビックリでした。

 あんこう鍋の「いせ源」では、あんこうのつるし切りを見させていただきました。
c0187004_12541695.jpg 7代目ご主人が、あんこうについて解説していただき、実際につるし切りを実演していただきました。
 的確なご説明とテキパキとした包丁さばきで参加者を魅了してくださいました。
 25人もの人を対象につるし切りをするのは初めてとのことでしたが、参加者からも質問も結構あり、それに対して7代目ご主人も丁寧に説明してくださって、会話も楽しみながらつるし切りをみさせていただきました。
 7代目ご主人の立川様お忙しいところ貴重な実演をみっせていただきありがとうございました。

c0187004_12543147.jpg 「かんだやぶそば」は、大正12年に建築された数寄屋造りの店舗は、平成25年の2月の火事で焼失して、10月20日(月)に店舗が再開されたばかりで、初の土曜日でした。
 そのため、大勢のお客様がお店の廻りに行列を作って待っていましたが、その数の多さに、参加者の皆さんも驚いていました。
 大みそか並みの行列とのことで、散歩終了後に近くを通ったら、日が暮れていても、長い行列が続いていました。

 「笹巻けぬきすし総本店」は、元禄15年創業のお店です。
c0187004_1255820.jpg ここでは、お持ち帰り用の笹巻けぬきすしを、事前に予約しておき、皆さんに買っていただきました。
 笹巻けぬきすしは、笹の葉で巻いた押し寿司の一種で、保存食とするため飯を強めの酢でしめてあり、ネタの魚類は、一旦塩漬けにした後、酸度の強い一番酢に漬けて一日しめ、その後、骨を抜いて少し酸度の弱い二番酢につけるなど下準備に10日ほどかけているそうです。
 そのため、夏場は3~4時間、冬場は5~6時間ごろたったころが一番おいしいそうで、お土産として自宅に持ち帰った頃が食べごろになります。
 お土産に持ち帰れた皆さんお味はどうでしたか?


 神田明神前の「三河屋綾部商店」は、麹つくりの老舗で、甘酒・納豆・味噌などを販売しています。
c0187004_12545113.jpg 三河屋綾部商店は、元和2年(1616)に創業した古い老舗です。
 創業以来まもなく 400年という老舗中の老舗です。
 初代は三河の出身で、徳川家康について三河から江戸に出て来て創業したとのことです。
14代目の御主人が私たちの到着を待っていてくださり、早速お店の説明をしてくださいました。
話の最後には、実際に米麹も食べさせていただきました。
 米麹の甘さに、参加者の皆さんは、驚いていました。
 御主人の綾部様、ご丁寧なご説明ありがとうございました。


 神田散歩の最後に、神田明神をご案内し、神田明神をご参拝していただきました。
 神田散歩にご参加いただいた皆さんありがとうございました。

 その後は、ご希望者に「湯島聖堂」、「万世橋駅跡」のご案内をした後、秋葉原駅前の居酒屋で「交流会」という名の飲み会をいつも通り行いました。
 今回の参加者の皆さんは、もう顔なじみの皆さんので、お互いに会話も盛り上がりました。
 飲み会に参加された皆さんの多くは、江戸検を受験されるので、江戸検の話題が中心になったようです。
 土曜日なので2時間程度でと事前に言われていたのにもかかわらず、3時間近くの飲み会となり、最後に記念撮影「パち!」です。
 飲み会までご参加いただいた皆さんありがとうございました。
c0187004_1258248.jpg



 お気楽マダムさんの作成した動画をご覧ください。よりビビットにおわかりになると思います。


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by wheatbaku | 2014-10-26 12:41 | Trackback
玉鮓(熈代勝覧⑤)
 「熈代勝覧」について主要なところを説明してきましたが、もう間もなく江戸検の本番ですので、来週は「江戸の食文化」関連の雉を書こうと思います。
 そんなことで、「熈代勝覧」については一区切りをつけようと思いますが、今日は、原田先生の『江戸の食文化』にものっていた「玉鮓」について書こうと思います。

c0187004_9315716.jpg 「熈代勝覧」では、「玉鮓」は、十軒店の北側の通り石町に描かれています。
  入り口の障子に「玉鮓」と大きく書かれていますのでわかりやすいお店です。
 店脇に掲げられた旗竿をよくみると「玉寿し」と書かれています。
 「玉鮓」は文政 年に出版された「江戸買物独案内」にも載っている名店で、「江戸買物独案内」には
 御膳 元祖 玉鮓所 本石通十軒店 翁屋庄兵衛  と書かれています。
 
 「玉鮓」の提供した寿司がどのような寿司なのか興味のあるところですが、店内をのぞいてみても、道具が描かれているだけで、どんな寿司なのか想像するのが難しいように思います。

c0187004_9322538.jpg 一方、本町通り近くの路上には、屋台の寿司屋らしきものがあります。
 「大江戸日本橋絵巻 『熈代勝覧』の世界」(浅野秀剛・吉田伸之編 講談社刊)では、
 屋台の構造や飯の入った櫃のある様子が、広重画「東都名所高輪廿六夜待遊興之図」に描かれた寿司屋の屋台の様子に良く似ている点と飯櫃の飯を手に取る様子が、握り寿司を握る様子を思わせる点に注目し、この屋台が握り寿司の屋台ではないかと考えています。
 そして、「本絵巻の屋台店は握り寿司的なものにつながる可能性も考えられる。」と書いてあります。

 握り寿司は、一般的には、文政年間に考案されたものと言われています。
 しかし、それ以前にも、握り寿司があったというふうにも考えるひともいます。

 「熈代勝覧」は文化2年に描かれていますので、もし、握り寿司が明確に描かれているのであれば、通説をひっくりかえす貴重な史料になったと思われます。

 しかし、熈代勝覧」に描かれた「玉鮓」も、本町通り近くの路上に描かれた寿司屋らしき屋台にも、明確に握り寿司であるとわかるものが描かれていません。
 ですから、上記のような可能性について言及するに留めているものと思います。

 「熈代勝覧」にもっと握り寿司だとわかる絵があるとおもしろかったのではないと思いました。
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by wheatbaku | 2014-10-24 09:32 | Trackback
越後屋の商法(熈代勝覧④)
今日は越後屋の商法について書いてみます。
 延宝元年(1673年)に開店した越後屋の商法は、「現金掛け値なし」のキャッチフレーズで有名ですが、それ以外の特徴的なことがかなりあります。
 そこで、それらを私なりにまとめてみました。

c0187004_2315567.jpg

 

1、現金商売
 越後屋というと「現銀掛け値なし」のキャッチフレーズが有名ですが、越後屋の商法は、当時としては画期的でした。

 当時の商売は
 「見世物商い(みせものあきない)」と言って、得意先に見本を持って行き注文を取る売り方や「屋敷売り(やしきうり)」と言って、商品を得意先で見てもらって売る売り方でした。
 しかも、これらの商売は、現金商売でなく、掛売りでした。
 支払いは6月、12月の節季払いか、年一度の極月払いを慣習としたので、資金の回転が悪く、回収不能等の危険がありました。
 そのため、売る側は、運転資金の利息分、売掛としていたお金の回収の費用、さらに回収不能になった場合のリスク分などを、販売価格に上乗せせざるをえず、売値が高くなっていました。

 三井高利は、「店先(たなさき)売り」といって、店頭で現金で販売することにしました。
 これが画期的なものでした。
 掛売りでないため、利息分や売掛金の回収費用、さらに回収不能の場合のリスク分を考慮する必要場ありませんので、当然のことながら、売値を安くすることができました。

2、定価販売
 呉服屋の商品には値段を符牒でつけ、お客様によって値段を上げ下げするのが当時の商慣習でした。
 しかし、越後屋では、正札をつけて定価で販売することにしました。
 今では、定価販売は当たりまえですが、当時としては画期的なことでした。 

3、切り売り
 当時は、呉服は一反単位での販売しか行なわれていませんでした。そのため、小裂が必要なお客様でも不必要に多くの呉服を買わざるをえませんでした。
 しかし、越後屋では、小裂を必要とするお客様のニーズに対応して、呉服の切り売りに応じました。
 「小裂何程にても売ります」というキャッチフレーズは、このことを言い表しています。。

4、分業制
 越後屋では、反物を、金襴類、羽二重類、紗綾類、紅類、麻袴類、毛織類等などと分類し、店員の担当を明確に分ける分業制をしいて販売しました。
 この手法は、「一人一色の役目」と言われました。

5、即座仕立て販売 
 越後屋では、顧客の注文にその場で応じる「即座仕立て」を取り入れていました。
 職人を大勢店内に抱えてお客様のニーズに合わせて、その場で着物を仕立ててすぐに渡すというサービスを行いました。
 今で言うとイージーオーダーですね。
 これがさらに進むと既製品販売となりますが、江戸時代後期には、既製品の販売も行われていたようです。

6、引札(チラシ)広告
 越後屋は、引札を最初に発行したお店です。引き札とは、いまでいうチラシです。
 こうしたチラシを配布し江戸市中に大きく宣伝をしました。


 こうした画期的な手法を展開し、越後屋は大繁盛することになり、次のような川柳が読まれるほどに繁盛しました。

  「駿河町 畳の上の 人だかり」
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by wheatbaku | 2014-10-23 10:00 | Trackback
熈代勝覧④
 「熈代勝覧」の3回目は越後屋についてです。

 越後屋は、駿河町の両側を占めて、描かれています。
 井桁に三の商標が染まれた暖簾と「現金掛け値なし」と書かれた看板で、越後屋であることは一目瞭然です。
c0187004_2315567.jpg

 それでは、最初に越後屋の歴史についてお話します。
 越後屋の創業者は、いうまでもありません、三井高利です。三井高利は、伊勢国松坂の出です。
 三井家は、大和とも近江とも言われる出身の武士であると言われています。
 高利の父の代に松坂で、商人になりました。
 越後屋という商号は、高利の祖父高安が越後守であったので、越後屋という名前にしたと言われています。
 高利は、8人兄弟の末っ子で、長兄俊次は江戸で呉服店を経営していました。
 この店は、「釘抜越後屋」と言われます。
 14歳のとき江戸に出て、高利は兄の店で働きますが、あまりにも商才があったので、警戒した兄から、たまたま松坂で母の面倒をみていた仲兄の重俊が亡くなったこともあって、母の孝養という理由をつけられて28歳のとき松坂に帰されてしまいます。
 その後は、高利は松坂で母の面倒を見ながら時期を待ちました。
 そして、再度江戸で商売ができるようになるのは、長兄が死亡した後になります。
 延宝元年(1673年)、三井高利が52歳の時に、長男の高平を江戸の責任者にして、本町1丁目(ちょうど現在の日銀新館あたり)にお店を開きます。
 この時に始めたのが「現金掛け値なし」という新しい商法です。
 この新商法により越後屋は大変繁盛しますたが、同業者に恨まれ、迫害を受けるようになりました。
 呉服仲間から仲間はずれにされたりしました。ひどい場合には、いやがらせのために越後屋の台所先に、雪隠が作られたこともありました。
c0187004_8441269.jpg  このような状況の中で、天和3年(1683年)に、火事により本町の店が焼失したこともあり、当時両替商が多く店を構えていた隣町の駿河町に移転しました。
 これが駿河町の越後屋の始まりです。
 移転当初は、駿河町の南側に店舗を構えました。間口約7間、奥行20間の小さなお店でした。
 右図を参照してください。
 そして、移転と同時に、呉服店の西隣で両替店も開設しました。
 その後、貞享2年(1685)に、北側に両替店を移転し、南側は、呉服店だけとしました。
 貞享4年(1687)には、両替店の脇に、「綿店」を開き、木綿類の販売も開始しました。
 元禄11年(1698)綿店と本店の位置を入れ替え、北側が本店となり、南側が向店となりました。
 以後、北側が本店、南側が向店の体制が続きます。

 『江戸の食文化』58ページには駿河町越後屋本店35間(63m)・向店21間半(39.1m)の間口がありましたと書いてあります。これがいつの時期かは書いてありません。
 現在の三井本館は約110メートルありますので、三井本館の半分強までが越後屋本店であったことになります。
 また、越後屋本店約320人・向店約200人の店員がいたと書かれています。
 すごい数の店員がいたことになります。
 この店員は、すべて、上方に採用された人たちで、しかも男性に限られました。
 江戸で採用されるのは、賄方など裏方を担当する人たちで、こちらも男性に限られました。つまり、越後屋の従業員は、すべて男性だったわけです。

 こうした体制で、越後屋は繁盛していくわけですが、その商法にも特徴がありました。
 その商法については明日書こうと思います。

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by wheatbaku | 2014-10-22 08:25 | Trackback
熈代勝覧③
 今日は、「熈代勝覧」の3回目で、室町二丁目にあった「木屋」周辺について書いてみます。

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 現在、「木屋」は刃物を取り扱っている店が一軒だけですが、江戸時代には、木屋は複数ありました。
「熈代勝覧」では、四軒の「木屋」が描かれています。上図が、四軒の「木屋」 を描いた部分です。
 四軒の「木屋」は、「木屋」の支店ではなく、それぞれ経営が別の「木屋」です。
 それは、暖簾に書かれた商標が違っていることから判別がつきます。
 建物を普請している店は暖簾がありませんが、大工が着ている印半纏には丸に木のマークがついています。これが「本家木屋」です。
 そして、その右隣はバツに木の商標、さらに右隣は山形に木の商標、そして最も右は井桁に木の商標と、それぞれの商標が異なっています。
 これにより、右三軒の「木屋」は暖簾分けされた「木屋」であることがわかります。
 本家の木屋の祖初代林九兵衛は、大阪の御用商人でした。
 家康から江戸に下るようにとの招きを受けましたので、当主の弟が江戸へ下りました。
 そして、大阪の店と分かれたので姓の林を二つに分けて「木屋」と名乗ったそうです。
本家木屋には「暖簾分けは許すが、本家と同じ商品を扱うことは許されない」と言う しきたりがあったそうです。
 そのため、暖簾分けされた木屋はそれぞれ、別の商品を取り扱かうようになりました。
 そのため、暖簾の商標も違ったものとなっています。
 現在、営業している「木屋」は、「熈代勝覧」では、最も右側の「木屋」です。
 現在の「木屋」は、刃物を販売していますが、「熈代勝覧」、当時は看板に火打ち石などと書かれていて、刃物を営業をしているようには見えません。

c0187004_981492.jpg 木屋から少し北にいき駿河町に近づいてくると「書肆 本」と書かれた看板を店先に置いた店舗があります。
 こちらは、本屋の須原屋市兵衛の店です。
 須原屋市兵衛は、杉田玄白の「解体新書」や林子兵の「三国通覧図説」などを出版している有名な本屋です。



c0187004_9111682.jpg 須原屋の店の前に、坊さん二人と下男風の男二人のグループがあります。
 右図の右下に描かれた下男風の男がもっている箱をよくご覧いただくと、そこには、「回向院 文化二」と書いてあります。
 そして幟旗には「本堂」と書かれています。
 これは回向院の本堂再建の勧進を行っているグループだと言われています。
 ここに書かれている文化二が、「熈代勝覧」が描いている時期を決定づける重要な語句です。
 これにより、「熈代勝覧」は、文化2年頃の日本橋通りを描いたものであるというのがわかります。
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by wheatbaku | 2014-10-20 09:06 | Trackback
  

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