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毎日新聞の記者さんに史跡案内してきました
 昨日は、幕末史跡の案内をしてきました。
 今回の史跡案内は、毎日新聞の生活報道部からご依頼があったものです。
 そこで、大河ドラマ「花燃ゆ」が放映されているので、幕末の史跡を案内させてもらいました。
 ご一緒させていただいたのは生活報道部の女性記者のSさんでした。

 昨日、ご案内した場所は、小伝馬町牢屋敷跡、佐久間象山塾跡、桜田門、上杉藩邸跡、長州藩邸跡、日比谷門跡などでした。
 
c0187004_20294740.jpg 小伝馬町牢屋敷跡は、現在は、十思公園と十思スクエアになっています。
 昨年、特別養護老人ホームや銭湯のある十思スクエア別館が完成したことに合わせて、十思公園も整備されて、すっかりきれいになりました。
 右手前が新しくなった、十思公園の説明板、左手には「石町の時の鐘」が設置されています。

c0187004_20301181.jpg 現在の十思公園からは、小伝馬町の牢屋敷はとても想像ができませんが、十思スクエアには、先日ご案内したように、小伝馬町牢屋敷の模型が展示されています。
 そこで、模型を見ながら小伝馬町牢屋敷を説明させていただきましたが、模型があったので、よくご理解いただけたようです。
 S記者も盛んに模型の写真を撮っていました。

c0187004_20303054.jpg 佐久間象山塾での説明では、佐久間象山の経歴について説明させてもらうとともに、吉田松陰との関係について説明させてもらいました。
 しかし、ビル街の中に説明板があるだけですので、ちょっと S 記者もびっくりでした。
 でも、熱心に写真を撮られていました。その熱心さに感心させられました。

 その後、東銀座から霞が関に地下鉄で移動し、桜田門、長州藩邸跡、日比谷門跡を歩いてご案内させてもらいました。
c0187004_22164145.jpg 桜田門では、櫓門と高麗門の違い、枡形となっている理由、桜田門の特徴など説明させてもらいましたが、江戸城の城門の構造についてよくわかっていただいたようです。
 最後に、日比谷門を案内させてもらいましたが、桜田門をみていたので、江戸時代の日比谷門の様子がイメージできてよかったですと感謝されました。

 S記者は、大変熱心に説明を聞かれたし、質問もたくさんしていただいたので、9時30分から始めて12時30分まで、休憩なしでびっちり3時間の案内でした。
 
 スタート前の予定では、銀座で休憩タイムを取ろうと思っていたのですが、説明を熱心に聞いてもらえるので、ついつい、いろいろな説明を追加したので、説明が長くなり、結局休憩時間が取れませんでした。
 それでも押せ押せになってしまい、最後の日比谷地区での案内は、大分簡略にさせてもらいました。
 休憩なく案内させていただいたので疲れたのではないかと思っていましたが、S記者は、「大変楽しかったですよ」とすごく喜んでくれました。
 S記者に喜んでいただいたので私もうれしく思いました。
 お蔭様で天気にも恵まれ充実感のある案内となりました。S記者ありがとうございました。
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by wheatbaku | 2015-01-30 08:16 | Trackback
どの大名も一日10里は歩いた
 今日も、大名行列のお話です。
 まず、冒頭に昨日の過去問の回答を書いておきます。
 正解は、(ろ)6泊7日です。

 「参勤交代道中記 加賀藩史料を読む」(忠田敏男著、東京平凡社発行)には次のように書いてあります。
 「最小日数というと、4代光高が6泊7日の記録を作った(寛永21年)。光高の正室は水戸徳川頼房の娘で、徳川家光の養女になっていた清泰院である。その清泰院が産気づいたので、「江戸より早々参勤なさるべき旨の御内書」の飛脚がきた。光高は昼夜の区別なくひたすら急いだ。江戸までの日数6泊7日というのは、早道飛脚が夏は5日、冬は6日で走っており、光高は、その飛脚並の早さで急いだことになる。歩くというより小走りの連続だったと想像できる。」

 それにしても平均して約17里歩くのですから大変です。
c0187004_17243053.jpg 加賀藩上屋敷は、現在の東大本郷キャンパスです。直線距離で70キロ程度のところを探すと埼玉県の深谷市です。
 これを一日で移動するのですから大変だったでしょう。
 昨年話題になった「超高速参勤交代」でさえ、奥州湯長谷藩に下った命令が5日で参勤しろという命令でした。湯長谷藩まで、日本橋から約40里ですので、それを上回る「超々高速参勤交代」ということになると思います。

 加賀藩前田家の参勤交代のルートは「参勤交代道中記」によれば3ルートありました。
 第一は、金沢から富山方向に道を通るルート、第2のルートが、金沢から福井を経由し中山道に出るルート、第3のルートが、金沢から福井を経由して東海道に出るルートです。
 第1のルートは約120里、第2のルートは164里、第3のルートが151里程度だったようです。

 加賀藩前田家の参勤交代は190回あったそうです。
 そのうち、第1のルートつまり富山方面に向かうルートが181回、その他が9回で圧倒的に第1のルートが多くなっています。

 その理由は、まず第1のルートが、距離が短いことがあります。
 しかし、それ以外にも理由があるそうです。
 それは、第2・第3のルートは、御家門の福井藩松平家と御三家の尾張藩の支配地を通らなければならず、大変気苦労が多かったという理由もあったそうです。
 
 今日は、仙台藩の参勤交代の例も見てみます。
c0187004_17244996.jpg 4代藩主伊達綱村が初めて仙台に入国したのは、延宝3年(1675)のことでした。
 9月19日に江戸を発ち、27日に仙台に着いていますので、7泊8日で仙台まで移動したことになります。 
 仙台から江戸までの距離は92里30町です。7泊8日ですと平均して一日10里あまり移動していることになります。
 この時の初日には、江戸藩邸を午前6時に発って、越谷宿で昼休み、粕壁宿に泊まっています。
 江戸・粕壁間は約10里あります。
 この時の人数は、「伊達治家記録」によると3480人余りだったようです。
 幕末になると人数は少なくなってきていますが、文久3年の伊達慶邦の上洛の行列は2200余りというのですから、仙台藩の参勤交代の行列は2000名を超えていたものと思われます。
 ですから、仙台藩も2000名以上の行列で一日10里程度歩いていたようです。

 次いで、盛岡藩南部家の参勤交代の様子が、「参勤交代 巨大都市江戸のなりたち」の中に書かれていました。

 それによると盛岡藩は、10万石の外様大名で、奥州道中を隔年で往復しました。
 盛岡城下から江戸まで139里(約556キロ)です。
 盛岡藩の参勤交代行列の規模は、500~600人程度でしたが、財政難のため供連人数は減少していく傾向にあり文化5年に20万石に格上げされても300人程度だったようです。
 そして、盛岡から江戸までの日数は、11泊12日もしくは12泊13日で江戸に到着するのが最も典型的な日程で、平均して1日43キロ~46キロ(まぁ11里程度ということになりまず)、なかには50キロメートル以上も移動することもあったそうです。
 その例としてその説明がされている地図の中で盛岡を出発して宇都宮に11日目に宿泊していて、12泊目が杉戸になっています。これを直線距離で計っても60キロあります、つまり約15里も移動したということになります。
 300人の行列で約15里、これも大変ですね。

 以上、加賀藩、仙台藩、盛岡藩の例を見ましたが、いすれも大勢の行列で、一日10里程度移動するのが普通だったようです。
 江戸時代の人々の脚力に驚かざるをえません。





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by wheatbaku | 2015-01-29 07:18 | Trackback
大名行列も一日10里移動(江戸検定)
 大名行列は、参勤交代の際に、一日どのくらい進んだのだろうか?
 こんな疑問を持ちました。
 そのきっかけは、昨年秋の日本橋散歩です。
 日本橋は、御存知の通り、五街道の起点です。
 そこで五街道の説明に関連して、江戸の人は一日に約10里歩いたことを話しました。 
 しかし、大名行列の場合にはどうかということは、その時は明確にはわからなかったので、調べようと思いました。

 そうしているうちに、江戸検1級の過去問を調べていたら第4回の19問に次のような問題が出ていました。

 加賀前田家の参勤交代行列は2000~3000人規模となり、江戸と金沢のあいだは平均して12泊13日かかりました。しかし、寛永20年(1643)4代藩主光高は江戸にいた夫人が産気づいたため、その旅程を急がせ驚異的な速さで江戸にたどり着きました。さて、何日で江戸に到着したでしょう?

 (い)5泊6日 (ろ)6泊7日 (は)7泊8日 (に)8泊9日


 皆様、おわかりなりますか?
 どの選択肢をとっても一日当たりの移動距離はすごいことになりそうです。
 これは、大名行列の移動距離を本格的に調べなくてとは思いました。

 そこでいろいろな本で調べましたが、最大の石高を誇り江戸検1級の問題にも取り上げられている加賀藩前田家の大名行列について調べた本がありました。
 「参勤交代道中記 加賀藩史料を読む」(忠田敏男著、東京平凡社発行)です。
c0187004_17273268.jpg 「参勤交代道中記」によると加賀藩の参勤交代の所要日数は次のようになっています。
  なお、江戸から金沢までは、中山道・北国下街道を通行すると約120里あります。
   1位 12泊13日 33 回
   2位 11泊12日 17 回
   3位 13泊14日 15 回

  そして、 「参勤交代の発駕の日は送別の会があり、着府の日はまだ太陽の明るいうちに着いた。この両日は五里ずつ歩いたと仮定して2日で10里、残り110里を11日で歩くと、一日の平均旅程は10里である。」と書いてありました。

 つまり、大名行列も、一日10里歩いていることがわかりました。

 
 加賀藩前田家の移動距離は一日10里だと書いてありましたが、大名行列ですから、数人で移動したということはなさそうです。
 それでは、どれだけの人数の行列を組んで一日10里進んだのでしょうか?
 加賀藩前田家は御存じの通り、100万石の大大名です。
 そのため、大名行列も大勢の人数となります。
 どのくらいの人数が参勤したかについて「参勤交代道中記」に書かれています。
 それによると、5代目藩主綱紀の頃が最大で4000人、享和2年(1802)12代斉広の初入国の時に3500人、享保9年(1724)6代吉徳の初入国の時が3000人、延享2年(1745)吉徳が次男の重 と同道して帰国した時が2500人だったようです。
 幕末の万延元年に13代斉泰が帰国した際に魚津に宿泊した際には、合計で2238人が宿泊した記録があるそうです。

 つまり、江戸検1級の問題文どおり、2000人以上の人々が行列をつくって平均一日10里移動したのです。
 
 すごいですね。

 ただし、「大名行列は、整然として進んでいったイメージがありますが、道中常に整然と進んだわけではなく、野間では槍を肩にかけ隊伍を崩して気楽な自由な足取りとなって進みました。
 しかし、大きな宿場や城下・関所などを通る時は「下ニイ」という警蹕の声と共に、乱していた隊形を整え、笠は被り直し足並みを揃え、騎馬の侍は騎乗し肩にかけていた槍を立てた。」そうです。

 さて、前述の問題ですが、その答えも、「参勤交代道中記」に書いてありました.。
 しかし、正解は、明日、書こうと思います。答えを考えながら1日お待ち下さい。





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by wheatbaku | 2015-01-28 08:58 | 江戸検定 | Trackback
小伝馬町牢屋敷における松陰(大河ドラマ「花燃ゆ」第4回)
 今日も「花燃ゆ」に関連して、吉田松陰のお話です。
 3月には「吉田松陰ゆかりの地を歩く」で、小伝馬町牢屋敷を案内しますが、それとも関連するので、松陰の小伝馬町牢屋敷入牢について書いておきます。
 
c0187004_10242163.jpg 海外渡航に失敗した吉田松陰は、下田で自首し逮捕されます。
 そして、江戸に送られ、北町奉行井戸対馬守の取調べを受けて、小伝馬町牢屋敷に入れられます。
 小伝馬町牢屋敷は、現在の小伝馬町駅近くの十思スクエア(右写真)および十思公園にありました。

 小伝馬町牢屋敷は、全体で2600~2700坪あり、表門は西側あり、表門を入ると左手に塀があり、その奥に牢屋がありました。
 現在、十思スクエア玄関に、小伝馬町牢屋敷の模型が展示されていて、牢屋敷の様子がわかるようになっています。(右下写真)
c0187004_10255229.jpg 小伝馬町牢屋敷には、東牢と西牢があり、庶民が入牢する大牢と二間牢が一つずつ、御目見以下の御家人、諸藩藩士、僧侶、神官などが入れられる揚屋が、各二つあり、奥揚屋と口揚屋があります。
 吉田松陰は、長州藩士ですので、東口揚屋に入れられました。
 口揚屋というのは入り口に近いため口揚屋と呼ばれているように思います。

 「世に棲む日日」では、入獄した際に、牢名主が脅かすと、松陰は「私は命を惜しむものではない。すでに死を覚悟して渡海を決意した以上、どこで死んでも杭はない」と話すと牢名主は気味悪くなって「おまえは何者だ」と言辞を改めて尋ねるので、海外渡航を行おうとしたことを説くと「皆感激」したと書かれています。
 また、「松風の人」でも、入牢の際に、牢名主が脅かすと「私は死を覚悟しており恐れるものはありません」と言い考えを陳べると、牢名主は学殖のある者で口調を改め穏やかな口調でお金を手配してもらうため「手紙を送れ」といい、『東揚屋の囚人たちは松陰を取り囲み、その履歴を詳しく知ろうとした。松陰がこれまでの努力を語りおえると、彼らは皆感激した。』と書かれています。
 「花燃ゆ」で描かれた場面とほぼ同じです。
 こうした牢名主の対応があり、さらに知人からの「ツル」の差し入れもあり、牢屋敷内での序列も上位とされたため、吉田松陰は牢内での生活はそれほど厳しいものではなかったようです。

 吉田松陰が、密航の罪で小伝馬町牢屋敷に入られことに連座して、師匠の佐久間象山も逮捕され小伝馬町牢屋敷に入れられました。
 それは、佐久間象山が、吉田松陰の海外渡航を扇動したと疑われたからです。
 吉田松陰は東口揚屋でしたが、佐久間象山は、東奥揚屋でした。
 そのため、牢内で会話を交わすことはできませんでした。
 吉田松陰は、罪状を素直に認めました。
 しかし、佐久間象山は、国禁した覚えはないと強く抗弁しました。
 そして、奉行所の与力の調書の語句の読み違いまで指摘するほどでした。
 そのため、佐久間象山に対する奉行所の心証はかなり悪かったようです。
 吉田松陰、佐久間象山ともに、国禁を犯した大罪人であるので、死刑が相当という声が強かったものの、最終的には国許で蟄居ということになりました。
 この判決については、昨日も書いた通りペリーからの要請もあり、幕府が国際関係も配慮した結果であると考えられています。
 
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by wheatbaku | 2015-01-27 10:21 | 大河ドラマ | Trackback
花燃ゆ第4回「生きてつかあさい」(大河ドラマ)
 「花燃ゆ」の第4回目は、吉田松陰が、海外渡航を企てましたが、ペリーの拒絶にあい、密航が失敗し、幕府に自首した後、萩に送られ、野山獄にいれられる所まででした。

c0187004_23425083.jpg ペリー艦隊への乗り込みは、回想の形で描かれていましたが、ようやくペリー艦隊の旗艦ポーハタンに乗り込めた吉田松陰と金子重輔の海外渡航の希望を、なぜペリーは拒絶したのでしょうか?

 その答えは「ペリー艦隊日本遠征記」に書いてあります。

 そこで、「ペリー艦隊日本遠征記(オフィス宮崎編訳)」によって、そのやりとりを書いておきます。

 (ペリー)提督は彼らの来艦の目的を知ると迎えることはできない、と答えさせた。そして、二人が日本政府から許可を受けるまでは、受け入れを拒絶せざるをえないが、艦隊は下田港にしばらく滞在する予定だから、許可を求める機会は十分にあるだろうと言ってきかせた。提督の回答に二人は大変動揺して、陸に戻れば首を斬られることになると断言し、とどまることを許してもらいたいと熱心に懇願した。この願いはきっぱりと、しかし思いやりを込めて拒絶された。


 ペリーがなぜ吉田松陰の願いを拒絶したか、その理由も「ペリー艦隊日本遠征記」の中に書かれています。

 提督とその士官は、信頼につけこんだり、条約の精神に反するような行為をするつもりはなく、当局の同意がない限り日本人はひとりアメリカ船に迎え入れることはないので、今後は心配は無用であると伝えた。

 つまり、幕府が承認したものであれば、艦隊に乗せて渡航させてもよいが、幕府の承認がない場合には、連れていけないと考えていました。

 もし、提督が、自分の感情の赴くままに自由に事を進めてよいと思うのであれば、(中略)日本を脱出しようとした哀れな日本人を喜んで艦内にかくまってやっただろう。しかし、曖昧な人道心より高度な考慮を必要とする問題があった。ひとりの人民の逃亡を黙認することは、日本帝国の法律に背くことであり、すでに多くの重要な譲歩を意に背いて行った国の規範をできる限り顧慮して従うことが、唯一の正しい政策だった。

 ペリーは、日米和親条約を幕府が結びましたが、それは幕府が大幅に譲歩した結果であることを理解していたようです。
 ですから、ペリーは、吉田松陰の海外渡航を手助けするのは、日本の法律を犯すことになり、それにより、ようやく日米和親条約を締結して開国にまでこぎつけた日米関係に悪影響が出ては困ると考えたようです。

 しかし、それだけでなく、別の理由もあったようです。
 それは次の文に書かれています。

 日本帝国では死罪をもって自国民が外国に赴くことを禁じている。艦隊に逃れてきた二人の男は、アメリカ人には無実だと思われても、日本の法律に照らせば罪人なのだ、そのうえ二人の日本人が自ら述べた説明を疑う理由はないにしても、彼らが主張する動機とは別の、もっと不純な動機が働いていた可能性もある。それはアメリカ人の節度を試す策略であったかもしれず、そう思った者もいたのである。

 つまり、吉田松陰たちがスパイではないかと疑ったようです。

 なお、「花燃ゆ」の中で、ペリーが寛大な処置を幕府に要望したという場面がありましたが、そのことについてもペリー艦隊日本遠征記に書かれています。

 哀れな二人の運命がどうなったのか、確かめることはまったくできなかったが、当局者が寛大であり、斬首という最も重い刑に処することのないように望む。なぜなら、日本の法典によれば大罪であっても、われわれには自由で大変賞賛すべき好奇心の発露だと見えるからである。
 ちなみ、提督からの問い合わせに対して、当局が深刻な結末を懸念する必要はないと保証したことは、せめてもの慰めであった。

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by wheatbaku | 2015-01-26 07:39 | 大河ドラマ | Trackback
「吉田松陰ゆかりの地を歩く」散歩が開催されました
  昨日は、毎日文化センター主催の講座「吉田松陰ゆかりの地を歩く」で日比谷から銀座を散歩してきました。

c0187004_00322.jpg 今年の大河ドラマ「花燃ゆ」にちなんで、吉田松陰関連の史跡をめぐろうという企画です。
 
 今回の散歩は、話題の吉田松陰ゆかりの地を歩くということから、大勢の皆様にお申込みいただきました。
 お申込みいただいた皆様、ありがとうございます。

 さて、 昨日の散歩ルートは、
 桜田門 ⇒ 法務省旧本館 ⇒ 長州藩邸跡 ⇒ 仙台藩邸跡 ⇒ 日比谷門跡 ⇒帝国ホテル ⇒ 山下門跡 ⇒ 泰明小学校 ⇒石川啄木歌碑 ⇒ 銀座三河屋 ⇒ 金春屋敷跡 ⇒芝口御門跡 ⇒ 三十間堀跡 ⇒佐久間象山塾跡 ⇒ 狩野画塾跡
 というコースでした。
 

c0187004_014471.jpg ちょっと寒い中でしたが、いつものように楽しい散歩になりました。 
 ご参加いただいた皆様、ありがとうございました。

 そこで、散歩の様子をスナップ写真をいつからアップしながらご紹介したいと思います。

  昨日の案内は桜田門から案内し、米沢藩邸跡を案内した後、長州藩邸跡を案内しました。
長州藩邸は、現在の日比谷公園にありました。
 右上写真は、長州藩邸のあった場所を散歩する参加者の皆さんです。

 ついで、伊達藩邸跡を案内して、日比谷門をご案内しました。
c0187004_012860.jpg 日比谷門は、寛永4年に浅野家により石垣が築かれ、寛永6年に伊達政宗により櫓が構築されています。
 日比谷門跡のすぐそばに日比谷公園の心字池がありますが、その心字池は、日比谷入江と言われた海の名残りだという説明もさせていただきました。
 

c0187004_014898.jpg 帝国ホテルは江戸時代末期には、奥州白河藩の藩邸跡に建てられました。
 そのため、帝国ホテルの敷地の一画に江戸時代の切絵図の説明板が建てられています。
 そこで、帝国ホテル周辺の江戸時代の様子をご案内しましたが、現在の日生劇場や東京宝塚劇場がお濠だったという説明に皆様驚いていました。

c0187004_02535.jpg 泰明小学校の説明の後、銀座並木通りにある石川啄木歌碑のご案内をしました。
 歌碑には『京橋の滝山町の新聞社 灯ともる頃のいそがしさかな』という和歌が刻まれています”
 なぜ、石川啄木の歌碑が銀座にあるかというと、ここにあった東京朝日新聞に、石川啄木が校正係として勤務していたからです。
 石川啄木の歌碑は、啄木没後60周年を記念して銀座の有志により昭和48年に建てられました。

 そして、銀座三河屋さんにお邪魔しました。
c0187004_025396.jpg 銀座三河屋さんは、元禄時代、三河の国より江戸に上り、酒屋や油屋を営んだ後、 江戸時代後期から平成まで、手芸品や和装小物を営業していましたが、平成15年に「江戸の食(スローフード)『銀座・三河屋』」新規開店しました。
 三河屋さんの名物商品は、「煎(い)り酒」と「江戸元禄の酒」ですが、「江戸元禄の酒」は試飲をさせていただきました。
 甘口だけれど、紹興酒のようでおいしいと大変好評でした。
  銀座三河屋さんありがとうございました。

  銀座のど真ん中を通っている中央通りは、江戸時代の東海道です。
c0187004_023535.jpg その東海道が汐留川を渡る場所に新橋が架かっていました。
 その新橋の北詰に、宝永7年(1710)、芝口御門という門が建設されました。
 これは、翌年正徳元年の朝鮮通信使の来朝に備えて、わが国の威光を顕示するため、新井白石の建策にもとづいて、城門が建設されたのです。
 右写真は、芝口御門の説明板を読む参加者の皆さんです。

c0187004_031557.jpg 吉田松陰は、佐久間象山塾に嘉永4年に入門しています。
 その佐久間象山塾は、現在の東京メトロ東銀座駅そばにありました。
 佐久間象山の経歴および吉田松陰と佐久間象山との関係について説明させていただき、さらに吉田松陰が海外渡航をめざすことになった経緯についてもお話させていただきました。

 最後はいつもように飲み会です。
 昨日は、天気予報とは違い、ちょっと寒い天気でしたので、早めに飲もうと思いましたが、お店が開くのが5時からでしたので、5時になるのをまって飲み始めました。
 飲み始めれば、江戸の話を中心に話題はつきません。
 あっというまの2時間がすぎて「御開き」ということになりました。
 そこで、最後にいつもの記念撮影です。
 皆様、最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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by wheatbaku | 2015-01-25 09:00 | 大江戸散歩 | Trackback
明六つは日の出の時刻ではありません!
 昨日、「時の鐘」について書きましたところ、多数のアクセスがあり、コメントも多数いただきました。
 そこで、今日も「時刻」について書こうと思います。

 まず、江戸時代の時刻の数え方に二通りありました。
c0187004_956490.jpg 「子・丑・寅・・・」と干支で数える方法と「九つ・八つ・七つ・・・」と数字で数える方法です。
 干支で数える方法の順序は、わかりやすいのですが、数字で数える方法は、なぜ「九つ」から始めるのか、そして「九つ」の次は「八つ」になるのかなぜかという疑問があると思います。
 これについて、答えている本を見つけました。
 「暦と時の事典」(内田正男著)です。
 これによると、平安時代の延喜式に既に、子と午の時には九つ、丑と未の時には八つ、寅と申の時には七つ、卯と酉の時には六つ、辰と戌には五つ、巳と亥には四つ太鼓を鳴らすと決められていたそうです。
 ですから、子や午を九つと呼ぶ呼び方は、この太鼓の数のよったものだろうと書いてあります。
 そして、「九つ・八つ・・・・」と逆に数えることについても解説してあります。
 一から九までの数字で、奇数は陽数と言われていて、陽数の最大の数が九です。そこで九と一を掛けた九から始まり、次いで九に二を掛けて十八の十を除いた八を取り、九に三を掛けた二十七から二十を除いて七、九に四を掛けた三十六から三十を除いて六、九に五を掛けた四十五から四十を除いた五、九に六を掛けた五十四から五十を除いた四 というふうに順に決まったということのようです。
 ただし、この説が、最も有力ですが、他の説もあり確かなこととは言えないとも書いてあります。
 
 このように数えていくと同じ数の時刻が一日に2回繰り返されますので、混乱を避けるために、江戸時代には、それぞれの頭に次のような言葉を入れて呼ばれるようになりました。
 九つ 八つ 七つ ⇒ 暁
 六つ         ⇒ 明
 五つ 四つ     ⇒ 朝
 九つ 八つ     ⇒ 昼
 七つ         ⇒ 夕(ゆうべ)
 六つ         ⇒ 暮
 五つ 四つ      ⇒ 夜
 こういう習慣が確立したため、「明六つ」とか「暮六つ」という言葉が生まれたのですね。

 ところで「明六つ」は日の出、「暮六つ」は日没と思われがちです。
 実は私もそう思っていました。
 しかし、正しくは、「明六つ」は日の出より約35分前です。そして「暮六つ」は日没より約35分後です。
 従って、明るい星がいくつか見える頃、手の大筋が三つばかり見える頃が「明六つ」「暮六つ」とされました。
 これを知ったのは、昨年のお題の参考図書「江戸の食文化」に
 江戸の朝は明け六つの鐘とともに始まる。ふつう明け六つの鐘が鳴らされるのは、夜明けの約30分前。つまり、江戸の朝はまだ暗いうちから始まることになる
 と書かれていたことです。
 今回、参考にした「暦と時の事典」にも、同様に書かれていました。時刻はより正しく35分前後と書かれていましが。

 最後に余談を一つ
 現在、お昼の12時を「正午」と言いますね。
 これは、江戸時代の干支により時刻を数えたなごりです。
 それでは、夜の12時はつまり午前零時はなんと呼ばれていたでしょうか?
 正解は「正子(しょうし)」です。
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by wheatbaku | 2015-01-23 09:56 | Trackback
時の鐘に時計はあった。
 今日は、時の鐘についてのお話です。
 先日、川越の時の鐘について書いたところ、信州健児さんから次のようなお問い合わせがコメント欄にありました。

 時の鐘ですが、江戸時代の人はこの時の鐘で時刻を知ったのですが、鐘を撞く人はどのようにして時刻を知ったのですか?不定時法の和時計を所有していたのでしょうか?

 多くの方も疑問に思う大変良い質問だと思いましたので、ブログ本文で回答させていただこうと思います。

 江戸には、9カ所に時の鐘があったとされていますが、その中で、すべての時の鐘に時計があったかどうかは不明ですが、多くの時の鐘には、時計があり、それにより時刻を計り、鐘を撞いていたようです。

 時の鐘があったとされる場所は次の9ヵ所です。
  本石町、浅草寺、上野寛永寺、本所横川町、目白不動、
  市谷八幡、赤坂田町、四谷天竜寺、芝切通し 
 
 この中で、時計があったと思われるのが、「本石町」「上野寛永寺」「芝切通し」「四谷天龍寺」「本所横川町」です。

 まず、本石町ですが、鐘撞役の辻源七の書留(享保年間)に 「時の勤方之儀は常香盤ならびに時斗(とけい)貮組(にくみ)を以て相勤申候」 と書かれています。
 さらに、元文元年の鐘撞銭の徴収状況と使途について書いた記録が残されています。
 この中に、時計磨料 金弐分 、常香 金弐分 と書かれています。
 時計磨料というのは、時計の管理費用でしょう。
c0187004_17265074.jpg  また、常香というのは、「香盤時計」のことです。時計と同様に時刻を確認するため所有していたものと思われます。
 これらから、本石町の時の鐘は、時計と香盤時計で時刻を計っていたことがわかります。

 次いで、上野寛永寺の時の鐘です。
 寛永寺に残された「寛永寺鐘撞堂文書」の元文4年の記事の中に、「尺時計」と「大時計」を使用して、時刻の調節をしていると書かれています。
 右写真は、上野の時の鐘です。
 これらのことは、主に浦井祥子先生の「江戸の時刻と時の鐘」を参考にさせていただきました。

 また、浦井先生は、芝切通しも増上寺が所有している時計に基づいて鐘を撞いていたと書いています。

c0187004_1716390.jpg 次いで、四谷(新宿)天龍寺ですが、天龍寺の時の鐘は、5代将軍綱吉の側用人を勤めた牧野成貞が寄進したと言われています。
 その時の鐘と同時に、鐘をつく時刻を知るための櫓時計も、牧野成貞から寄進されていて、新宿区の有形文化財に指定されています。
 なお、天龍寺の櫓時計は、拝観をお願いすると、お寺で支障がなければ見させていただけます。
 右写真は、 数年前にお邪魔して見させていただいた時のものです。

 また、坂内誠一氏著の「江戸最初の時の鐘」によると、本所横川町の天保13年の「鐘撞堂修復書留」に天保13年に新規の時計を注文したところ18両かかったと書かれているそうです。

 以上、いろいろな本や史料などから判断して、「時の鐘」には、時刻を計るため、櫓時計などの和時計が設置されていたと考えてよいと思います。

 また、享保11年(1726)に能勢肥後守の名前で出された文書には時の鐘の撞き方についての指示が書かれています。
すなわち
 市谷の東円寺(市谷八幡)の「時の鐘」は、上野寛永寺の「時の鐘」が捨て鐘を撞いたのを聞いてから撞きはじめるように指示してあります。そして赤坂成満寺は市谷八幡の捨て鐘を聞いて撞くように、芝切り通しは赤坂成満寺の捨て鐘を聞いてから撞きはじめるようにと指示してあります。
 この指示から考えると、少しの遅れはありますが、上野、市谷、赤坂、芝の時の鐘は、それぞれ連携をとって(いわばリレー方式で)時刻を知らせていたので、江戸市中で、大幅に時刻が違うということはなかったと思われます。

 余談ながら、この幕府の指示によれば、市谷八幡で寛永寺の鐘の音が聞こえたことになります。
 市谷八幡から上野の時の鐘まで、直線距離で、約4.5キロあります。
 
 上野寛永寺の時の鐘は、現在でも朝夕6時と正午の3回、鐘の音を響かせていますが、湯島にお住いの方に、「鐘の音を聞いてことがありますか」とお尋ねしたら「聞いたことはありません」という答えでした。
 現在では、湯島で聞こえなくても当然だと思いますが、江戸時代には、時の鐘は、かなり遠くまで鐘の音を響かせていたんですね。
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by wheatbaku | 2015-01-22 07:00 | Trackback
「江戸の祭礼と歳事」第1回模試正解
 今日は、先日出題した、江戸検お題「江戸の祭礼と歳事」の正解を発表します。
 今回は、主に「東都歳事記」と「守貞謾稿」から出題しました。
この模擬試験が、「東都歳事記」や「近世風俗志(守貞謾稿)」のきっかけになればよいなぁと思います。


1、 ①えのき 

c0187004_22464877.jpg 東都歳事記の十二月晦日の項に次のように書かれています。
 今夜、王子稲荷の傍ら衣装榎の本へ狐多く集まる 
 と書かれていますので、正解は えのきです。
 この言い伝えは、江戸では、かなり有名であったようです。
 歌川広重も名所江戸百景の中で「王子装束ゑの木大晦日の狐火」(右の写真参照)として描いています。
 この狐火をみて、近在の農家は、新年の豊凶を占ったことも東都歳事記に書かれています。

2、 ②総州 

 三河万歳についてはブログでも書いてあるので、この問題は易しいと思います。
 先日書いた東都歳事記には 「才蔵は安房上総または下総古河の辺より出る。」  と書かれていますが、守貞謾稿には、 「この才蔵、多くは総州の夫」  と書かれています。
 「近世風俗志(守貞謾稿)」では152ページに載っていますので、確認してみてください。

3、 ①神田神社  

 「東都歳事記」には次のように書かれています。
 深川洲崎 品川高輪等の海浜、神田の社地等にて日の出を拝する輩、今暁七時より群衆す。
 七時(ななつどき)ですので、午前4時頃には、大勢の人々が、日の出を拝むために、海辺や神田神社に集まっていたようでね。

4、 ④繭玉

 私は幼い頃に「繭玉」を見た記憶がありますが、この「繭玉」が守貞謾稿に載っているので正直驚きました。
 私の見た繭玉は、米の粉を丸めて茹でたものを木の枝につけて,床の間や柱などに飾られていましたが、守貞謾稿には 「繭玉は土丸(つちだま)を用ひ、その他は厚く重ね張りたる神製にて、胡粉・丹・緑青そのほかとも彩を加ふ。」  と書かれていますので、食べることはできなかったようです。
 繭玉は、農作物の豊作を予祝する餅花が,養蚕と結びついて生れたもので、繭が良くできるように願ったものです。
 農作物の豊作を祈願する場合には、「餅花」「花餅」「稲の花」などと呼ぶようです。
 守貞謾稿の  「初卯、亀井戸また専らこれを売る」 と書かれているのは、ブログでも書きましたが、亀戸天満宮の境内にある妙義社(現在は御嶽神社)で、初卯の際に、繭玉が売られたことを書いたものです。

5、  ③12文 

 この問題は、江戸検の第2回2級の過去問を出題しました。ただし、「絵本風俗往来」の説明の部分を加えるなど問題文を一部変更してあります。
 正解は12文です。

 「絵本江戸風俗往来」には
湯銭は寛永銭三つを白紙にひねりて渡す。これをおひねりという  と書かれています。
 この寛永銭は、四文銭(いわゆる波銭)のことでしょう。ですから、12銭ということになります。
 また、 「浮世風呂」には、「御祝儀の十二銅、男衆への水引包は、二つの三方にうず高うして、雪消えぬ不尽(富士)と筑波山をあらそへり」 と書かれています。
 

6、 ①酉の市  

 「酉の市」は、旧暦の11月に開催されますが、江戸の人は、「酉の市」は春を呼ぶ行事と考えていたのですね。
 二十四節気でも、天保暦以前は、冬至が年の初めとされていましたから、ほぼ同じ頃に開かれる「酉の市」を春の初めと考えてもおかしくはないと思います。

7、 ②節季候  

 節季候は、年末にやってきます。
  東都歳事記」の「十一月二十八日」の項に  「今日より、節季候出る」 と書かれています。
  東洋文庫の「東都歳事記」の注釈には、節季候について、  暮に訪ねる門づけ祝言の徒 と書かれています。
 それ以外の、大黒舞、太神楽、鳥追は、お正月にやってくる門付芸です。
 大黒舞について、東洋文庫の「東都歳事記」の注釈には、次のように書かれています。
 各戸をめぐって行う祝福芸で、大黒頭巾をかぶり、面をつけ、張り子の小槌を持ち、伴奏の供を伴い、「大黒舞を見なさいな」で終わる数え歌のめだたい歌をうたい、舞を舞い、米銭を貰って歩いた。
 そして、太神楽については次のように注釈されています。
 太神楽 獅子舞の一種。伊勢代参の神楽である代神楽から展開した門付芸。正月これを行うのは、獅子を神と考え、その神が新春に幸福を約束をしてゆくと考えたためで、これが次第に曲芸化した。
 鳥追の注釈は
  田畑を荒らす鳥獣を退散させて、その年の豊穣を祈願予祝する農村行事であるが、江戸では早く避妊の妻娘がこれを担当し門づけ芸となった。 と書かれています。

 守貞謾稿には、鳥追と大黒舞について説明されていますが、鳥追について、次のように書いています。
 今世、江戸のみ鳥追あり。常平、女大夫と称し、菅笠をかぶり、三絃を弾きて銭を乞ふ女非人、元日より15日まで、衣服平日と同じといへども、新綿服を着し、常のごとく紅粉を粧ひ、ただ平日に異なるは、編笠着し、三絃の唱歌を異にす。


8、 ③卯半刻  

 この問題は、東都歳事記から引用してありますので、東都歳事記で確認してください。
 大名たちが登城するのは「卯半刻」です。
  「卯」は、明け六つ頃で午前6時ごろ、「卯半刻」は午前7時ごろと、東洋文庫「東都歳事記」の注釈に書かれています。
 元日には、諸大名は、随分早く登城していたのですね。
 我が社では、午前8時から初祈祷を行いましたが、それでも早いと思いましたが、江戸時代は、もっと早やかかったのですね。


 9、 ④筑後  
 

 水天宮は、安産の神様として大変有名ですが、それでは、「お祀りされている神様は誰でしょうか?」と聞かれると、答えられる人は少ないのではないでしょうか?
 水天宮にお祀りさえている神様は、御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)とともに、安徳天皇、建礼門院、二位の尼です。御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)は神話上の神様ですが、安徳天皇、建礼門院、二位の尼は平家一門の人々です。
 これらの人々がお祀りされるようになった由緒は、水天宮のHPで確認してみてください。
 水天宮の本宮は、筑後国久留米にあります。
 江戸の水天宮は、久留米藩有馬家の第9代藩主有馬頼徳が、文政元年に三田赤羽橋にあった有馬家の上屋敷に勧請したのが始まりです。その後、明治になって、一度青山に移転した後、明治5年に現在地に移転しました。
 ちなみに、水天宮が現在鎮座している場所は、有馬家の下屋敷でした。
 こうした関係があるため、水天宮近くにある小学校の名前は現在も「有馬小学校」と名付けれています。

10、 ①大田南畝  

 大田南畝は、狂歌が大変有名で、「寝惚先生文集」や「万載狂歌集」が有名ですが、それ以外に、様々な本を書いています。
 昨年の江戸検1級に出題されたコーヒーについては「瓊浦又綴(けいほゆうてつ)」という本に書かれています。そして、今回の「夢の憂橋」は、永代橋落橋事件の起きた文化4年に出版されたものです。
 大田南畝は、重要人物ですし、経歴も興味をひくものがあるので、いつかブログで書いてみたいと思っています。ただし、今年中に書けるか自信はありませんが。

 なお、これに関連する過去問もあります。
 第3回2級問題ですが、

 文化4年(1807)の富岡八幡宮の祭礼のときに、見物の群集の重さに耐えきれずに崩落し、多数の犠牲者を出した橋は次のうちっどれでしょうか?

 (い)高橋 (ろ)永代橋 (は)新大橋 (に)両国橋

 この正解は、いうまでもありません。すぐおわかりになると思います。
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by wheatbaku | 2015-01-20 09:22 | 江戸の祭礼歳事 | Trackback
「ついてない男」(大河ドラマ「花燃ゆ」第3回)
 「花燃ゆ」の第3回は、文と久坂玄瑞の出会いが多くの時間をとって描かれています
 久坂玄瑞は、古川薫氏の「花冠の志士」によれば、天保11年(1840)に萩藩医久坂良迪の三男として生まれました。幼名は秀三郎といいました。
c0187004_913464.jpg 兄の久坂玄機は、秀三郎より20歳年上で、大変優秀で、久坂家を継ぎました。
 ですから、秀三郎は、普通であれば、医者になる必要はありませんでした。
 しかし、ペリ-が来航した嘉永6年、玄瑞が14歳の夏、母がなくなり、そして翌年嘉永7年の2月には、兄玄機がなくなってしまい、その一週間後には父良迪がなくなります。
 そのため、秀三郎が、久坂家を継ぐことになり、玄瑞と名乗るようになります。
 ですから、「花燃ゆ」で、文と出会う頃は、まさに孤独な境遇でした。こうした事情は、久坂玄瑞の回想の中で描かれていました。
 「ついてない男」というタイトルは、この久坂玄瑞が、相ついで、肉親をなくし、自分が藩医を継ぐことになったことを指して付けたものだと思われます。
 ただし、この頃に、久坂玄瑞と文が出あったというのは、創作でしょう。

 さて、吉田松陰の動向については、「花燃ゆ」の中では飛び飛びにしか描かれていませんので、ペリー艦隊に乗り組むため、下田に行くまでを簡単に書いておきます、
 
 脱藩の罪で萩に送還された吉田松陰は、脱藩したため、吉田家の家名断絶となりました。
 そして、松陰自身は、父百合之助の「育み」となりました。
 「育み」というのは長州藩独自の制度で、父の保護下におかれることとなりました。
 松陰という有名な号は、この時期にを使い始めたと言われています。
 そうして、萩で過ごしていた松陰に対して、毛利敬親は、10年間の国内遊学を許しました。
 毛利敬親は、吉田松陰を高く評価していたと言われています。
 そこで、吉田松陰は、2度目の江戸遊学に出ます。
 吉田松陰は、近畿を周遊したのち、江戸に到着しますが、桜田の藩邸に入らず、蒼龍軒に草鞋を脱いだ後、すぐに鎌倉の叔父の所へ向かいました。
 そして、再び江戸に戻り、桜田藩邸に出向いた日に、浦賀にペリー艦隊がきたことを知らされます。
 すぐに、佐久間象山の塾に向かいますが、既に象山は浦賀に向かっていました。
 そこで、松陰も浦賀に向かい、ペリー艦隊を海岸から眺めていましたが、国書を渡したペリー艦隊が浦賀を去っていったため、松陰も江戸に戻ります。
 このペリー来航に刺激された吉田松陰は、佐久間象山の塾で、西洋事情の収集や西洋兵学を熱心に学びます。
 そして、西洋に伍して戦うとためには、海外の事情を知る必要があり海外渡航が必要と考えるようになります。もともと、佐久間象山がそうした考えを持っていたようです。
 そこで、ロシア使節プチャーチンが長崎に来たという報を聞いた松陰は、海外渡航をするために長崎に向かいます。
 しかし、松陰が長崎についた時には、プチャーチンは長崎を去った後でした。
 やむなく、吉田松陰は江戸に戻ります。
 そうしているうちに、嘉永7年正月に再びペリーがやってきます。
 そこで、吉田松陰は再び海外渡航を計画します。
 この時期には、兄の梅太郎も江戸に出てきていました。兄の梅太郎は、松陰が「とんでもないこと」を計画をしているという噂を聞いたようで、大変心配をしたそうです。
 これは、「花燃ゆ」でも描かれていましたね。
 しかし、松陰は、海外渡航の計画を実行しようとします。
 嘉永7年3月5日に、佐久間象山に別れの挨拶をしに訪ねますが、象山は出張中であったため象山には会えないままに、江戸を出発します。
 横浜で佐久間象山とあった後、黒船への乗りこみの機会をうかがいますが、チャンスがありませんでした。  チャンスがないまま時が過ぎた後、ペリー艦隊は、横浜を出港し下田沖にむかってしまいました。
 そして、下田に着いた吉田松陰と弟子の金子重輔は、ついに、3月27日に、ペリー艦隊に乗りこむため、夜の海に漕ぎ出すのです。
 これ以降の展開は、第4回で描かれるようです。

 
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by wheatbaku | 2015-01-19 08:57 | 大河ドラマ | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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