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城下町小幡
 今日は、群馬県甘楽町の小幡の2回目です。
 小幡は、江戸時代を通じて城下町であって、明治以降も、その伝統を維持してきている非常に落ち着いた風情のある街だと思います。
 そんな小幡の見どころを先日訪ねて来たので紹介します。

雄川堰
c0187004_16463866.jpgc0187004_16463137.jpg 小幡は、町の中心を雄川堰という水路が流れています。
 この水路がいつ開削されたかははっきりしませんが、織田氏が小幡に入った江戸時代初期に掘削されたと考えられています。
 雄川堰は、住民の生活用水や非常用水、下流の水田のかんがい用水として、多目的に利用されてきました。
 その雄川堰の水は澄んでいてすごくきれいでした。
 それもそのはず、雄川堰は日本の名水100選にも選ばれているんです。
 雄川堰の脇には桜が植えられていますし、古い面影のある民家も残されていて、見ごたえのある風景です。
 行った時には、まだ桜は全く咲いていませんが、桜の季節には、さぞかし綺麗だろうと思いました。

 そんな小幡で、 4月5日に「さくら祭り」 が開催されるため、各所にポスターが貼ってありました。
 さくら祭りでは、武者行列が行われます。
 桜の花が舞う中、馬上の大将とそれに続く織田隊が出陣し、城下町小幡を勇壮に練り歩くようです。
 甘楽町では「歴史に香る町並みと鎧・甲冑に身を固めた戦国武将たちの華やかな絵巻をお楽しみください」と書いています。
 今度の日曜日ですので、桜もちょうど満開で素晴らしいのでないでしょうか。

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 小幡は、江戸時代、織田家と松平家の城下町であったため、城下町の風情が各所に残っています。

楽山園(らくさんえん)
c0187004_17070885.jpgc0187004_17003507.jpg 訪ねて行くまでは「らくざんえん」と濁るかなと思っていました。
 しかし、正式には「らくさんえん」と濁りません。
 楽山園は、初代藩主織田信雄によって造られたものです。
 「楽山園」という名前は、「智者ハ水ヲ楽シミ、仁者ハ山ヲ楽シム」という『論語』の故事から名づけられたそうです。

 江戸時代初期の池泉回遊様式庭園で、京都の桂離宮と同じ特色を有しているといいます。
 中央に広い昆明池があり、築山にあずまやを建て、熊倉山・紅葉山が借景となっています。
 群馬県内では唯一残っている大名庭園であり、国の史跡に指定されています。
 国の史跡に指定されて間もなくということもあり、しっかり整備されていて感心しました。



高橋家の屋敷と庭園
c0187004_16464606.jpg 小幡には、武家屋敷があちこちに残されています。 

 その武家屋敷の中でも、昔の様子を最も残しているのが、小幡藩勘定奉行「高橋家」の屋敷と庭園です。
 個人が使用している自宅を開放してあります。
c0187004_16465309.jpg 高橋家の屋敷内に入ってみると、民家の庭園が開放されているのがよくわかります。
 庭園は、心字池を中心にしたもので見事でした。

 写真左手の高い樹木は樫の木です。
 勘定奉行だけに
借りるより「貸し」たほうがよいという語呂をかついで樫の木が植えられているそうです。

楽山園に至る御殿前通り
c0187004_16470074.jpg 楽山園に至る道は御殿前通りと呼ばれています。
 その道路の北側には、江戸時代の石垣がしっかりと続いています。
 この石垣の内側は、一般の住宅が並んでいます。


喰い違い郭
c0187004_16470624.jpg 大手門から陣屋に至るまでの主要大通りがいわゆる「中小路」で、幅13mの道があったそうです。
 その中小路に面した山田家の東南側に「喰い違い郭」が残されています。
 「喰い違い郭」は、戦争の際に防衛上の役割を担うために造られたと考えられています。
 そのほか、下級武士が上級武士に出会わないよう、隠れる場所だったとも言われています。






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by wheatbaku | 2015-03-31 08:19 | Trackback
「花燃ゆ」第13回「コレラと爆弾 」(大河ドラマ)
 昨日の「花燃ゆ」はタイトルの通り、コレラと爆弾のお話でした。

 コレラは、幕末に大流行して、多大な被害を引き起こしています。
 そこで、今日は、「花燃ゆ」とは少し離れる気もしますが、コレラについて書こうと思います。

 まず、コレラというのはどういう病気かということですが、
 コレラはコレラ菌で起こる伝染病で、インド東北部のガンジス河三角州からベンガル平原の風土病でした。
しかし、インドがイギリスの植民地となるなかで、全世界に広がっていきました。

 コレラは感染すると、激しい嘔吐と下痢が突然始まり、全身が痙攣するそうです。そして、短期間で亡くなっしまうため、「三日コロリ」「虎列刺(これら)」「虎狼痢(ころり)」「暴瀉病(ぼうしやびょう)」とよばれ、非常に恐れられました。

 日本で初めて流行したのは、文政5年(1822)でした。この時は主に西日本で流行し、江戸までは流行しませんでした。
 次いで、幕末の安政5年(1858)に大流行しました。
 これが、「花燃ゆ」で描かれていたコレラです。
 このコレラは、中国から長崎に入港したアメリカ海軍軍艦ミシシッピー号の水兵がコレラを発症し、長崎から大阪や江戸まで広まり、大変な猛威をふるいました。
 この時期は、安政の五カ国条約が調印された時期でもあり、異国からもたらされた病気のため、当時の攘夷運動にも大きな影響を与えました。

 コレラにかかると、人々はなすすべもなく亡くなっていき、医者も、有効な治療法がわからず困り果てていました。
 そのため、庶民の間では、加持祈祷に頼ったり、疫病退散のために鐘や太鼓をたたいたり狼煙をあげて疫病神を追い出そうとしたりしました。
 しかし、こんなことで、コレラがなくなるはずがありません。

c0187004_10254262.jpg こうした状況の中で、すばやく対応したのが、当時長崎に来ていて、長崎海軍伝習所で医学を教えていたオランダ人の軍医ポンペです。
 ポンペは、「コレラ患者にキニーネとアヘンを服用させ、温浴させる」治療方法を行いました。
 また、長崎奉行所へ生鮮食品の禁止など、予防対策をとるよう進言しています。
 キニーネとはキナという木の樹皮からとれる抽出物で、ヨーロッパから長崎に入ってきていました。

 また、大坂の緒方洪庵は、「モスト」・「カンスタット」・「コンラジ」という3つの書物から、コレラについて書かれている部分を訳しまとめ上げ、「虎狼痢治準」として8月に百部刊行、無料で配布しました。
 緒方洪庵は、コレラ流行の真っ最中に、他の医師たちに配布してコレラ対策に役立ててもらうとして、わずか4~5日で書き上げたそうです。

 下の絵は、歌川広重が描いた「青物魚軍勢大合戦の図」という安政6年(1859)に出版された浮世絵です。
 原田信男先生編集の「江戸の食文化」にも載っていますので、ご覧になった方もいると思います。
 この絵は、擬人化された青物(野菜)と魚介類の合戦が描かれています。
 これは、青物つまり野菜はコレラにかからない食物として描かれ、魚はコレラにかかりやすい食物として描かれていて、青物が勝利するというふうに描かれているともいわれています。
 この絵を描いた広重自身が、コレラでなくなったと言われていますので、ちょっと複雑な気持ちがします。
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 日曜日にお玉が池種痘所をご案内しました。
 その準備のため、手塚治虫の「陽だまりの樹」や吉村昭の「暁の旅人」を読みました。
c0187004_10253337.jpg その両方とも、安政5年のコレラの大流行について触れています。
 「暁の旅人」は、松本良順の生涯を描いた小説ですが、お玉が池種痘所の初代頭取は大槻俊斎、2代目が緒方洪庵、3代目が松本良順です。
 この「暁の旅人」の中に、コレラ対策に奔走するポンペと松本良順が描かれています。
 そして、患者の治療にあたっていた松本良順自身も感染してしまいます。
 その場面は次のようです。

 良順はポンペを呼んで欲しい、とかすれた声で言った。
 夜はまだ明けきっていなかったが、ポンペが急いでやってきて、問診の結果、真性コレラにちがいない、と診断した。
 さらにポンペは、
「貴君ハ身体壮健デ、シカモ精神モタシカデアル。必ズ治シテミセル」
と、言った。
 ポンペは、厨房の者に指示して湯を沸かさせ、医生たちに良順を浴槽に運ぶよう命じた。同時に良順にキニーネと阿片をとかした薬液を飲ませ、浴槽に身をひたさせた。

 こうして、松本良順はポンペの献身的な治療によってコレラを治すことができました。。

 今日は、なんか、「花燃ゆ」のストリーからは、すっかりずれてしまったようですね。
 失礼しました。




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by wheatbaku | 2015-03-30 10:22 | Trackback
お玉が池・小伝馬町散歩
 昨日は、毎日文化センターの講座「吉田松陰ゆかりの地を歩く」で、お玉が池から小伝馬町まで史跡散歩してきました。

c0187004_01435186.jpg 午前中は曇り空でしたが、散歩を始める頃には、すっかり雲も取れて春の日差しが照りつけてきて暑いくらいでした。 この講座も2回目なので、お互いの顔もわかり、初回に比べて、和気あいあいの雰囲気のなかで散歩することができました。
 散歩にご参加いただいた皆さんお疲れ様でした。
 楽しい時間を過ごすことができました。ありがとうございました。

 昨日のコースは、 駅でいえば、東京メトロの秋葉原駅から小伝馬町駅までの一区間ですので、歩いても15分で歩けるところを4時間かけて史跡をじっくり観ながら散歩しました。

 主な所を、スナップ写真とともにご紹介します。
 最初にご案内したのは、柳原土手跡です。
c0187004_01444114.jpg  柳原土手は、神田川を掘削した際に、堀った土は盛りあげられ、土手とし、その土手に柳の木が植えられたことから、柳原土手(やなぎはらどて)と言われました。  
 この土手の下には、古着屋が立ち並び、江戸の古着屋の町として大変有名でした。
 そして、その伝統は、昭和まで続き、この辺りは、「既製服問屋街発祥の地」とされてています。
 右写真は「既製服問屋街発祥の地」についての千代田区教育員会の説明板を読む参加者の皆さんです。

c0187004_01451211.jpg 玄武館跡は、現在、千代田区が区営住宅を建設中のため、右写真の工事現場の搬入路となっている場所に設置されてあった石碑が撤去されてしまっています。 
 そして、工事終了後に再度設置する旨の説明書きがされています。

 千葉周作が開いた北辰一刀流の玄武館ですので、石碑はなくても話すことは一杯ありましたが、馬庭念流のとの抗争事件を中心にお話させていただきました。

c0187004_01454017.jpg お玉が池というのは、千葉周作の玄武館があるところとして、大変名前がしれています。 昔は、不忍池よりも大きかったそうですが、現在は、池は姿を消しています。
 お玉が池の唯一の名残りが、「繁栄お玉稲荷」です。
 お玉が池というのは、池の近くに住んでいた娘さんの故事に由来する名前です。
 池がまったくなくなっていることに、参加者の皆さん驚いていました。

 お玉が池には、幕末に、「お玉が池種痘所」が開設されました。
c0187004_01460362.jpg これは、天然痘の予防および治療を行う医療施設ですが、江戸の蘭方医82名がお金を拠出して設立したものです。
 お玉が池種痘所がお玉が池にあったのは、わずか半年ですが、このお玉が池種痘所は東大医学部の源流となっています。
 そのため、昭和36年に「お玉が池種痘所記念碑」が東大医学部によって建設されています。
 右写真中央にある記念碑を参加者の皆さんが熱心に見ています。

c0187004_01462749.jpg また、お玉が池種痘所は、手塚治虫の「陽だまりの樹」にも出てきます。 手塚治虫の高祖父の手塚良仙が、種痘所の建設に多大な尽力をしたからです。
 「お玉が池種痘所跡」の石碑が「陽だまりの樹」の中に出てくることを説明したら、参加者の皆さんは大変驚いていました。
 写真左手が「お玉が池種痘所跡」を示す石碑と説明板です。

c0187004_01465247.jpg 今日のメインイベントは、小伝馬町牢屋敷のご案内でした。
 元の十思小学校(現在の十思スクエア)の一階には、牢屋敷の模型が設置されています。
 その模型を観ながら丁寧に説明しましたが、長時間にもかかわらず、参加者の皆さんは熱心にきいていただけました。
 そして、ご質問も一杯いただきました。

c0187004_01473186.jpg 小伝馬町牢屋敷があった十思公園には、「吉田松陰先生終焉の地」と刻まれた石碑があり、吉田松陰の辞世の次の歌も刻まれています。 「身はたとえ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留めおかまし 大和魂」
 この歌は松陰の遺書といわれる「留魂録」の冒頭に書かれている和歌ですので、「留魂録」が現在にまで残された経緯についてお話させていただきました。

 この後、宝田恵比寿神社(右写真最上段)と「馬込勘解由屋敷跡」をご案内して史跡散歩を終了しましたが、散歩終了の後は、恒例の懇親会です。
 昨日は、気温が高かったせいもあり、喉が渇いたらしく、お酒の飲みっぷりが一段とよかったように思います。
 楽しくワイワイ騒いで2時間30分があっというまに過ぎました。
 そこで、いつもの記念撮影です。
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 懇親会が終わった後、飲み足りない人たちに誘われて二次会まで行きました。
 二次会も、一次会同様の大変な盛り上がりでした。


 最後におまけのハプニングです。
c0187004_01502370.jpg 三州赤坂に赴任する予定の浜之悪代官様が、今回も最後まで特別にご参加いただきました。
 そして、東京メトロに乗る段になって、携帯電話が見当たらないと言い出しました。
 そのため、加州そうせい公様が、電車に一本乗り遅れてしまいました。
 そして、「これでは、金沢まで帰れない」と大変なご立腹でした
 しかし、間もなく、見つからないと大騒ぎした携帯電話も無事見つかって、浜之悪代官様が加州そうせい公様に謝ってまるく収まりました。
右写真は「浜之悪代官様、加州そうせい公様に平身低頭で謝罪す」の図です。(実はおふざけです)
 こんなハプニングも笑いとばして、今日もみんな笑顔で解散でした。

 最後までおつきあいいただいた皆さんお疲れ様でした。









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by wheatbaku | 2015-03-29 08:18 | Trackback
崇福寺の織田家7代の墓(上州小幡)
  先日書いたように3月22日の日曜日に馬庭に行きましたが、少し足を伸ばして、「小幡」にも行ってきました。
c0187004_09302716.jpg  小幡は、江戸時代、小幡藩の城下町であった町です。 
 小幡藩は、織田信長の次男織田信雄を初代とする織田家が長く藩主を務めていました。
 馬庭まで、高崎から上信電鉄で行きましたので、小幡にも、上信電鉄を利用していきました。
 小幡への下車駅は、「上州福島」です。
 上州福島駅から、小幡の中心地まで、約3キロありますが、バス便がないということなので、タクシーを利用しました。

c0187004_09412952.jpg 最初に向かったのは、織田家7代の墓のある「崇福寺(そうふくじ)」です。
 崇福寺には、初代の織田信雄から7代の織田信富の墓が残されています。

 織田信雄は、織田信長の次男ですが、信長の死後、弟信孝と争い、さらに徳川家康と結んで小牧・長久手の戦いを起こした豊臣秀吉と戦いました。
 その後に和睦しましたが、冷遇される時期が長くありました。
 しかし、大坂夏の陣で、徳川家康に味方したことから、元和元年(1615)、大和国宇陀郡と上野国甘楽郡合わせて5万石の領主となり、小幡に陣屋を築き統治しました。

c0187004_09310282.jpg 後に、3代信昌は、祖父信雄の遺命により、宇陀郡3万石を叔父織田高長へ譲り、小幡藩は2万石となりました。
 そして、8代信富の治世の明和4年(1767)、家老吉田玄蕃が山県大弐と親交があったという理由(明和事件)で出羽高畠2万石に移封されるまで、152年間小幡の藩主として統治しました。
 なお、高畠に転封された織田家は、さらに陣屋の移転に伴って出羽天童藩主となり、そのまま廃藩置県を迎えています。
c0187004_09311344.jpg  当初、織田家は、旧領主小幡氏の菩提寺であった宝積寺(ほうしょくじ)を菩提寺としていました。
 しかし、4代目の信久が、廃寺であった崇福寺(そうふくじ)を改築し、臨済宗に改めて菩提寺として、宝積寺から3代の墓石も崇福寺に移しました。
 それ以後崇福寺が織田家の菩提寺となりました。
 織田家7代の墓は、崇福寺の本堂の斜め裏側にあります。
 7代の墓が整然と並んでいます。
 昔は、墓石には一箇所づつ上屋がついていたといわれています。
 その後、宝暦8年(1758)と明治4年の二度の火災にあったため、今は、その上屋もありませんし、墓石もその時の火災により傷ついているものもあります。

 その中で、織田信雄のお墓は、火災の影響もなく、大きな五輪塔でした。
 お彼岸ということもあって、お花が手向けてありました。
 法名「徳源院殿実巌常真大居士」が刻まれていました。


 織田氏位牌堂は、本堂の脇に建てられていて、歴代の藩主の位牌が祀られています。
c0187004_09311942.jpg 崇福寺は、火災に遭い、建物や墓石も大きな被害を受けましが、歴代藩主の位牌は難を逃れることができました。 位牌堂は、昭和61年に建造されたもので、この中には、2代信良と7代信富を除いた10代信美(のぶかず)までの位牌と、2代大和松山藩主で4代小幡藩主信久の実父でもある織田高長の位牌も祀られています。
 その中で、織田信雄の位牌が中央に安置されているのかと思いましたが、右から順に並んでいたため、右から2番目が信雄の位牌でした。
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by wheatbaku | 2015-03-27 09:18 | Trackback
「花燃ゆ」第12回「戻れないふたり 」(大河ドラマ)
 今日は、「花燃ゆ」について書こうと思います。
 今回の「花燃ゆ」は、まさにドラマで、史実に関連する場面が少なかったように思います。
 
 杉文と久坂玄瑞とが結婚をしたのは、安政4年の年末のことのようです。
 吉田松陰は、文に「文妹の久坂氏に適ぐに贈る言葉」を贈っているそうです。
 その中には、文が生まれた時に、叔父の玉木文之進が大変喜んで、文之進の一字を与えて「文」と名付けたと書いているそうです。
 そして、久坂玄随を、「防長における年少第一流の人物であり、天下の英才である」と大変褒めています。

 こうしたことから、吉田松陰は、久坂玄瑞と文の結婚を大変喜んでいたことがわかります。

 こうして、文と結婚した久坂玄瑞は、安政5年のお正月は、杉家で迎えましたが、「花燃ゆ」でも描かれていたように、安政5年の1月末には、江戸行が命じられます。
 江戸遊学は、久坂がかねてから希望していたことですから、玄瑞の希望がかなったということになります。
 しかし、文にとっては、結婚早々に分かれるわけですからつらかったと思います。

 この遊学をすすめたのは吉田松陰でした。
 そのため、妹文の悲しみなど気にせず、久坂玄瑞に熱い思いをこめた送別の辞「日下実甫(くさかじつほ)の東(とうこう)を送る叙(じょ)」を贈っています。
 読み下し文は最後に書いておきますが、その意味を私なり解釈するつぎのような意味ではないでしょうか。


 江戸に行けば、天下の英雄豪傑と会うことができるから、こうした人たち議論を行い、帰ってきて藩の正しいあり方をきめられるようになってほしい。
 も、これができないのであれば、君は一流の人物だといっていることが私だけの考えになって、世間の人に恥ずかしいことになってまう。(だから、一生懸命頑張ってほしい


 ご参考に読み下し分文を書いておきます。

 実甫(じつほ)往け。
 士(し)此の間に生まれて、適(ゆ)く所を択ぶを知らざれば、士気と才気と、将(は)た何の用ふる所ぞ。
 生の死に如(し)かざるや之れ久し。
 実甫(じつほ)の行きて、皇京(こうけい)を過(よぎ)り、江戸を観れば、其れ必ずや徧(あまね)く天下の英雄豪傑の士に見(まみえ)ん。
 往きてともに此の義を討論し、以ってこれを至当(しとう)に帰し、返りて一国の公是(こうぜ)を定むるは、誠に願う所なり。
 もし然(しか)る能(あた)はざれば、吾れの推すに少年第一流を以ってせしは、一家の私言(しげん)となりて、天下の士に愧(は)ずべきや大なり。
 実甫(じつほ)往け。是を贈言となす。






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by wheatbaku | 2015-03-24 16:37 | 大河ドラマ | Trackback
「江戸の祭礼と歳事」第3回模試正解

 今日は、先日出題した模擬試験の正解をアップします。 今回の問題では、6番の問題は、かなり難しい問題だと思いますが、それ以外は、それほど難しくないと思いますし、インターネットで検索すると正解はすぐにわかったのではないかと思います。

1、②帝国ホテル 

c0187004_08153128.jpg

 現在、山下橋の名残りを残すものは、まったくありません。

 そうした中で、山下橋の目印として最もわかりやすい建物が帝国ホテルです。
 帝国ホテルの東側のJRのガード名に「山下橋架道橋」という名前がかろうじて残っています。(右写真参照)

 従って、山下橋があった場所近くにあるホテルは帝国ホテルです。

2、 ①聖徳太子 

 これはすごく簡単だっただろうと思います。
 漢字をみただけで「聖徳太子」だとわかりますよね。

 「太子講」の場合の「太子」は、「聖徳太子」の字をとって「太子」と書きます。

 「両大師詣」の場合には「大師」と書きます。

 選択肢に挙げた慈恵大師と慈眼大師が、上野寛永寺の「両大師堂」にお祀りされています。

3、 ②立夏  

一年間は365日です。これを24に分けていることから、二十四節気は、ほぼ365日÷24=15.2日となり、ほぼ15日間隔で巡ってくることになります。

従って、45日後というのは、春分から3個目の二十四節気ということになり、春分、清明、穀雨、立夏というふうになりますので、正解は立夏ということになります。

4、 ④阿蘭陀
   石町の鐘は( 阿蘭陀 )まで聞こえ

c0187004_08154517.jpg 長崎屋は、もともとは薬種問屋でしたが、オランダ商館長が江戸に参府する際には宿舎となりました。

 現在、新日本橋駅の室町3丁目北東の出口に、右写真のような「長崎屋跡」の説明板が設置されています。

 その長崎屋のすぐ北側に、石町の鐘がありました。

 そうしたことから、上記の川柳が詠まれました。

5、 

前回も書きましたが、守貞謾稿の挿絵は重要項目です。

しかも、雛の種類は要チェック項目ですので、雛の区別ができるようにしっかり覚えておきましょう。


ちなみに①は室町雛 ②享保雛 ③次郎左衛門雛 です。

6、 ②朝早く行くように言った

 

 これはかなり難しいと思います。即答で回答できる人はほとんどいなかったのではないかと思います。

 曲亭馬琴の「兎園小説余録」の中の「深川八幡宮祭禮の日永代橋を踏落して人多く死せし事」に次のように書かれています。

 予が妻の所縁ありける山田屋という町人、当時深川八幡門前におり、このものかねてより祭りの日には子達攜(つれ)て来ませなどと言われしに、(中略) 子どもに観するもよかるべしと思いしかば、その前夜妻に誨(おし)へていうよう。翌祭を観にいなば、朝とくいづべし (中略) 朝の出立はやからば、さまで群集すべからず。

 つまり、永代橋は古くなっていていつ落ちるかわからない状況にあり、富岡八幡宮の祭礼で大勢の人が、永代橋をわたると危ないから、朝早いうちにでて、大勢の群衆がわたるような時間をさけろと奥さんに忠告をしました。

 そのため、奥さんと子供は、朝早く出かけ、落橋事件が起きた時刻には、永代橋を渡り切っていました。

 そうして、馬琴の妻と子供は助かったと書いています。

7、 ③菅原道真の母の夢に白牛が現れ、生まれた子供が道真だったから

  天神様は、祭礼の面からも歳事の面からも注意しておいた方がよい神社だと思い、天神様に関係する問題として、この問題を出題しました。

 特に亀戸天神については、いろいろな問題が考えれられますので、これから、よく調べておいてたほうがよいと思います。

 さて、天神様のお使いとして牛の像が、多くの天神様に置かれていますが、その理由は諸説あります。

菅原道真が生まれたのは、承和12年(845)6月25日で、その日は乙丑(きのとうし)でした。
 
従って、①は正しい選択肢です。
 なお、道真が亡くなったのは 延喜3年(903)2月25日で丑の日であったそうです。

そして、菅原道真がなくなった時に、菅原道真の遺体を運ぶ牛車がまったく動かなくなったため、そこに遺体を埋葬しました。それが現在の太宰府天満宮だと言われています。

 従って②も正しい選択肢です。

 菅原道真は、亡くなった後に、「天満大自在天神」という神様の位を贈られました。

自在天は、ヒンドゥー教のシヴァ神を仏教に取り込んだ神様ですが、仏教におけるお姿は、八本の腕と三つの眼を持つ八臂(はっぴ)三眼で、白い牛に跨がるとされています。 そこから、天神様と牛が結びつけられたとも言われています。

従って、④も正しい選択肢です。

8①尾張町

北朝室町 南朝( 尾張町 )

守貞謾稿の雛市の項に

2月25日より3月4,5日比(ころ)まで、江戸十軒店および尾張町・麹町等 (中略) 仮店を列す。

と書いてあります。

また、東都歳事記には、2月25日の項に

「今日より3月2日まで雛人形同調度の市立」と書かれ、その後に「十軒店本町、尾張町、人形町、浅草茅町、池の端仲町、牛込神楽坂上、麹町三丁目、芝神明前」が挙げられています。
 東都歳事記に挙げられている地名でわかりにくいのは尾張町だと思います。
 尾張町は、現在の銀座5丁目にあった町名です。
 前記の川柳に載っている「室町」は十軒店のことを指しています。その十軒店から日本橋を過ぎて東海道を南下すると尾張町になります。
 従って、室町が北にあり、尾張町が南にあることになりますので、前記の川柳が詠まれました。

9 ④和中散 

c0187004_08155730.jpg 代表的な浮世絵の一つの名所江戸百景を再び問題として取り上げましたが、これからも名所江戸百景は取り上げていきたいと思います。

 「蒲田の梅園」は、江戸の有名な梅園でした。

江戸っ子は、梅の季節には大勢梅見に出かけたようです。

この「蒲田の梅園」と並んで有名な梅園に「亀戸の梅園」があります。

ここには、有名な梅の木「臥龍梅」があり、歌川広重も名所江戸百景の中で、「亀戸梅屋敷」として書いています。

こちらも、よく覚えてきたい浮世絵です。この臥龍梅は、水戸光圀の命名したものと言われています。

和中散は、暑気あたり・食あたりなどに効く漢方薬で、『江戸名所図絵』にも大森で和中散を売る店の風景が描かれています。

 ①屠蘇散は、お正月に飲む「お屠蘇」であり、②反魂丹は、胃痛、腹痛の時に服用する薬で富山の薬の原点と言われている薬です。
 ③錦袋円は、痛み止め・気付け・毒消しなどに効く薬で、下谷の勧学屋が売っていました。

10②大黒様

c0187004_11505368.jpg  今年のお題の「江戸の祭礼と歳事」に神様の名前まで出題されるか微妙ですが、有名な祭礼がおこなわれる神社の神様は覚えておいたほうが安心です。

 特に、天下祭の山王権現、神田明神、根津権現は最低覚えておいたほうがよいと思います。

 天下祭が行われる神社がお祀りしている神様の中で、もっとも簡単な神様を出題しました。

 神田明神をお参りしたことのある方は、すぐにわかったことだろうと思います。

 神田明神の境内には、右写真のような大黒様の大きな石像があるのは、神田明神の御祭神が大黒様だからです。
 4月18日に、毎日文化センターの神田明神散歩がありますが、その際には、大黒様をご案内する予定です。










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by wheatbaku | 2015-03-23 22:43 | 江戸の祭礼歳事 | Trackback
馬庭念流道場

 昨日、馬庭に行ってきました。

 馬庭というのはあまりメジャーな地名ではないと思いますが、群馬県の高崎市吉井町にあります。

c0187004_10080294.jpg ここに馬庭念流の道場があることを知ったので、その馬庭念流道場を見に行ってきました。

 今週の土曜日には毎日文化センターの「吉田松陰ゆかりの地を行く」のご案内がありますが、その際に、お玉が池にあった北辰一刀流道場「玄武館跡」もご案内する予定です。

 その準備のため、司馬遼太郎の「北斗の人」や津本陽の「千葉周作」を読みましたが、その中に出てくるのが、馬庭念流との抗争です。

 「北斗の人」によれば、千葉周作は、師匠であり養父でもある浅利又四郎のもとを去り修業のため上州を廻ります。

c0187004_10081463.jpgそして、上州の剣客たちと他流試合をしていきますが、周作の強さに驚いた馬庭念流の高弟たちが次々と千葉周作の弟子になっていきます。

 そして、弟子たちは、弟子の数が増えたことを誇示するために、伊香保神社に絵馬を奉納しようとします。

 それに対して、馬庭念流側は、それを阻止しようとして、抗争がおきます。

 一触即発という状況下で、岩鼻代官の指示で、千葉周作側が、絵馬の奉納を取りやめます。

 これが伊香保掲額事件と呼ばれるものですが、「北斗の人」では、後半の大部分を、伊香保掲額事件について書いています。 

 この抗争の当事者であった馬庭念流は現在も系統が続いていて道場も馬庭にあるということをネットで知りました。
そこで、昨日、馬庭まで行ってきたわけです、

c0187004_09524152.jpg 馬庭念流の道場は、上信電鉄の「馬庭駅」から徒歩10分ぐらいの所にありました。

 道場は、長屋門の一部を利用したもので、念流第20世樋口定広の代の、慶応3年(1867)に建てられたものだそうです。

 大きさは、高崎市のHPによれば、東より土間(3間四方)・門・板張りの道場(間口5間半、奥行き3間)・上段の間(板張り間口3間奥行き3間半)ということです。

 従って長屋の長さは37メートル程度あることになります。そのため、全体を撮るためには、建物から相当下がらないと無理でした。(右写真参照)

念流は、奥州相馬の相馬四郎義元(出家して「念大和尚」と名乗った)によって創始された流派で、馬庭の郷士樋口定次が念流八世を継承して後、「馬庭念流」と呼ばれ、現在に至っています。

c0187004_09525401.jpg 樋口家は木曾義仲の四天王樋口次郎兼光の子孫だそうです。次郎兼光の妹は木曽義仲の愛妾巴(ともえ)御前として有名です。

 千葉周作との抗争が起きたのは、念流第17世樋口定輝の代です。

 赤穂浪士の一人として有名な堀部安兵衛も、安兵衛の出身地新潟県新発田市のホームページによれば、馬庭念流を学んでいます。

 長屋門の西側が道場となっていて、幸いにも、稽古を見学することができました。

 馬庭念流は、自衛の剣として広まった剣術とのことであり、形稽古が基本とのことでした。

c0187004_09530413.jpgまた、馬庭念流の稽古は、竹刀でなく木刀が使用されていました。

馬庭念流の防具は、剣道で一般的に使用されている面・胴・小手と異なっています。

頭を守る防具は、ラクビ―のヘッドギアのような形をしていますし、小手も一般に使われているものとは違います。右上写真参照

 司馬良太郎の「北斗の人」や津本陽の「千葉周作」に出てくる馬庭念流を身近に見ることができてよい経験になりました。
 なお、稽古は、毎週日曜日の午後にやっているとのことで、見学も自由とのことでした。
 




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by wheatbaku | 2015-03-23 09:58 | Trackback
「江戸の祭礼と歳事」第3回模擬試験問題
 今日は、「江戸の祭礼と歳事」の模擬試験問題を出題します。
 第2回は、結構難しかったというご意見がありましたので、今回は少し易しくしたつもりです。
 基本的に覚えておいた方がよいと思われる問題としましたので、前回ほど難しい問題はないと思います。
  
 正解は、来週の火曜日にアップします。

1、山王祭の山車の集合場所は、山下門でした。
  山下門のあった場所の近くには、現在、有名なホテルがあります。
  そのホテルは、次のうちでどのホテルでしょうか?

  ①ホテルニューオータニ  ②帝国ホテル  ③ホテルオークラ  ④第一ホテル

2、 2月22日には、大工、左官などの職人が中心となって太子講が開かれました。
  それでは、太子講の太子とは誰を指すでしょう?

 ①聖徳太子  ②弘法大師   ③慈眼大師  ④慈恵大師

3、今年の春分は、3月21日ですが、この約45日後に到来する二十四節季は次のうちどれでしょう?
 
  ①穀雨  ②立夏  ③小満  ④芒種

4、東都歳事記には、長崎のオランダ商館長が、5年に一度2月25日頃に江戸に参府して、3月上旬に登城すると書いてあります。
 オランダ商館長たちが宿泊したのが長崎屋でした。そして、長崎屋のすぐ近くには、石町の時の鐘がありました。
 そのため、次のように川柳があります。(  )内に入る地名はどれでしょう? 

 石町の鐘は(   )まで聞こえ

①長崎  ②紅毛  ③南蛮  ④阿蘭陀

5、守貞謾稿には、雛の種類が挿絵とともに詳しく説明されています。
 それでは、守貞謾稿に載っている古今雛の挿絵は次のうちのどれでしょう?
①                     ②
c0187004_9203266.jpgc0187004_9201631.jpg

③                     ④
c0187004_9204743.jpgc0187004_921481.jpg


6、永代橋落橋事件は、当時の重大事件でしたので、多くの書物に、その内容が記録されています。 その一つに曲亭馬琴の「兎園小説余録」があります。
 その中で、曲亭馬琴は、馬琴のアドバイスにより八幡宮の祭礼を見物に行った妻と子供が落橋事件に巻き込まれなかったと書いています。
 それでは、馬琴はどのようにアドバイスをしたでしょうか?

 ①富岡八幡宮へのお参りを中止させた。
 ②朝早く行くように言った。
 ③両国橋を渡っていくよう忠告した。
 ④隅田川を船で渡るように言った。

7、山王権現のお使いは「猿」、毘沙門天のお使いは「虎」です。
 そして、天神様のお使いは「牛」ですが、「牛」が天神様のお使いとされる理由は、いくつか言われていますが、次のうち間違っているのはどれでしょう?

 ①菅原道真が生まれた日が「丑」の日であったから
 ②菅原道真の遺体をのせた牛車を曳いていた牛が動かなくなり、その場所に埋葬したから
 ③菅原道真の母の夢に白牛が現れ、生まれた子供が道真だったから
 ④菅原道真の神号である「天満大自在天神」は白い牛に乗った御姿をしているから

8、雛市が開かれて場所として最も有名な場所は、日本橋の十軒店ですが、江戸では、十軒店以外にも、多くの場所で雛市が開かれました。そのため、次のような川柳が詠まれています。
 (   )には、十軒店に次いで有名な場所が入りますが、どこでしょう?

  北朝室町 南朝(   )

 ①尾張町  ②麹町  ③人形町  ④芝神明

c0187004_9213346.jpg9、右の浮世絵は、歌川広重の名所江戸百景のうちの「蒲田の梅園」です。
 江戸時代に薬屋を営んでいた山本久三郎が、文政年間に梅を始めとする多くの木を植え、茶屋を開いたことが起源とされています。
 ここにあった料亭では、幕末の文久2年には「梅屋敷事件」と呼ばれる事件も起きています。
 さて、薬屋の山本久三郎が販売していた薬は、つぎのうちどれでしょう?

 ①屠蘇散  ②反魂丹  ③錦袋円  ④和中散 

10、神田明神は、社伝によれば、天平2年(730年)に創建されたとされていて、当初は、現在の将門塚のある辺りに鎮座していました。
 神田明神が最初にお祀りした神様は大己貴命(おおなむちのみこと)ですが、この神様は、一般的には、何と呼ばれているでしょうか?

 ①天王様  ②大黒様  ③恵比寿様  ④毘沙門天様  
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by wheatbaku | 2015-03-20 09:26 | 江戸の祭礼歳事 | Trackback
落着(らくちゃく)と引廻(江戸時代の刑罰)
 今日も、江戸時代の刑罰について書いていきます。
 判決の申渡は、刑事事件の場合には「落着(らくちゃく)」と言いました。
 よく、時代劇で、遠山の金さんが「これにて一件落着」と言いますね。その「落着」です。

 この「落着」がどこで行われたかが今日の話題です。
 「遠山の金さん」では、金さんが「市中引き回しの上、磔獄門」、そして「これにて一件落着」と言って物語が終わりとなります。
 このため、判決の申渡し(落着)は、奉行所で町奉行がやっているように思われがちです。
 しかし、江戸時代の判決の申渡しは、二つに区分されていました。
 つまり、奉行が、御白州に出座して、判決を申渡す場合と、奉行の命令を受けた与力が牢屋敷内で判決を申渡す場合です。

 奉行が、直接、判決を申渡す場合は、遠島以下の刑の場合でした。
 そして、死刑の場合、つまり、下手人、死罪、獄門、磔、鋸挽、火罪の場合には、町奉行所の与力が牢屋敷に出向いて牢屋敷の中の改番所という所で判決を申渡していました。

 つまり、「遠山の金さん」のようにお奉行様が「市中引廻の上、磔・獄門」というような判決の申渡しはなかったということになります。
 なお、昨日書いたように磔と獄門は、異なる刑罰ですので、磔と獄門が同時に科せられるということはありませんでした。
 

 次いで、「市中引廻」についても書いておきます。
 引廻とは、罪人を馬に乗せて、人目に触れやすい場所を、引廻すことです。
 江戸時代の刑罰に対する基本的な考え方に「見懲(こ)らし」という考え方があります。
 「見懲らし」というのは、「見て懲らしめる」ということで、罪の犯した場合にはこのように罰せられるということを人々に見せて、罪を犯さないようにさせることをいいます。
 獄門や磔と同じように、引廻も「見懲らし」の要素をもったものです。
 引廻は、下の絵のように裸馬の上に菰(こも)を一枚乗せて、その上に罪人を乗せました。
 そして、与力2騎は馬に乗り同心が徒歩で従い、非人20人程が付き添って行列を組みました。
c0187004_11272105.jpg
 


 引廻は、「町中引廻」と「五か所引廻」とがありました。
「町中引廻」は、日本橋を中心とした江戸の繁華街を引廻すもので、「五か所引廻」は芝や赤坂まで引廻すもので、江戸市中を大きく引廻しました。
 「御定書百箇條と刑罰手続」によると、「町中引廻」は、小伝馬町の牢屋敷の裏門をでて、本石町、室町、日本橋、四日市広小路、江戸橋、荒和布橋、小舟町、大伝馬町を経て、牢屋敷裏門にまで戻ってくるコースを引廻しました。
 そして、江戸で犯罪を犯した者は、上記のコースを基本にした上で犯罪地と居所も引廻すことがあったようです。

 五箇所引廻は、牢屋敷から鈴ヶ森・小塚原の刑場まで送られる際に、罪人の名前・居所・年齢・罪を書いた捨札を 、日本橋、両国橋、 筋違橋 、四谷御門、赤坂御門に立てつつ、引廻されました。






 
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by wheatbaku | 2015-03-18 16:17 | Trackback
江戸時代の死刑(江戸時代の刑罰)
 毎日文化センターの講座「吉田松陰ゆかりの地を歩く」で、4月に小伝馬町牢屋敷跡、5月に小塚原刑場跡の案内をするので、江戸時代の刑罰について調べています。
 すると、いろいろなことがわかりました。
 そこで、何回かに分けて、江戸時代の刑罰について書いていこうと思います。

c0187004_10074077.jpg 参考にした本は、中公新書「江戸の刑罰」(石井良助著)「御定百箇條と刑罰手続」(藤井嘉雄著)「伝馬町牢屋敷」(布施弥平治著)などです。
 江戸時代の刑罰は、大きく分けて、「死刑」「追放刑」さらに身体を傷めつける「身体刑」などに分けられます。 その中で、命を絶つ「死刑」について書いてみます。

 江戸時代の庶民に対する死刑は6種類ありました。
 江戸検1級のテキスト「博覧強記」では、3項目に大別されていますが、下記の6種類として記憶した方が覚えやすいと思います。
 軽い刑から、下手人、死罪、獄門、磔(はりつけ)、鋸挽、火罪という順になります。
 それぞれの刑について下記で説明します。

1、下手人 (げしゅにん)
  下手人というと一般的には「人を殺した人」という意味にとらえられますが、江戸時代は、刑罰の一種でもありました。
  下手人は死刑の中では最も軽い刑ですが、首を斬られるという点では、次の死罪と同じです。
  しかし、死罪と異なる点は、斬首された後の処置です。
  下手人の場合には、遺骸は、様斬(ためしぎり)にされませんでした。
  様斬(ためしぎり)というのは、刀の斬れ具合を試すために死体を斬ることをいいます。
  この御用を承っていたのが、山田浅(朝)右衛門です。
  小伝馬町牢屋敷には、「様場(ためしば)」という施設がありました。

2、死罪
 死罪と死刑と同じような言葉としてとらえられがちですが、命を絶つ刑罰全体を指す言葉が「死刑」です。
 それに対して「死罪」は、「死刑」の中の一種を指しますので、注意してください。
 「死罪」は、下手人と同じく、首を斬る刑です。
 しかも、首を斬られた後、その遺骸は、様斬り(ためしぎり)にされました。

3、獄門
 獄門は、死罪より思い刑で、首を斬られた後、刑場で、首を晒される刑です。いわゆる晒し首です。
 獄門の場合、牢屋敷で首を斬られ、その後に鈴ヶ森か小塚原の刑場の獄門台で首のみ3日間晒されました。

4、磔(はりつけ)
 磔は、「張り付ける」ということで、刑場で十字架をした罪木に縛り付けられ、突き手が槍で25回から30回突き刺しました。
 そして、死後3日間晒されました。
 磔は、獄門よりさらに重い刑です。
 それは、獄門は、公衆のいない牢で首を斬られた後に首を晒される刑ですが、磔は、生きているうちから公衆の面前に晒され、さらに死後も晒されるれるからです。
 そして、獄門は一瞬に命を絶たれますが、磔の場合には、一瞬には命がなくならず苦痛を伴う刑だからです。

5、鋸挽(のこぎりびき)
 鋸挽は、鋸で首を挽かせる刑です。
 縛り付けた罪人の首に浅く傷をつけ、その血をつけた鋸を近くに置いて、通行人などに一回か二回ずつ挽かせ、ゆっくりと死なせる刑罰であり、江戸時代以前には実際に首を鋸で挽かせていたようです。
 死亡するまで時間がかかり非常な苦痛を伴う刑であるため、磔を上回る刑罰として位置づけられていました。
 この刑に処せられる罪人は、日本橋の南の広場の土中に埋められた晒箱(さらしはこ)に入れられ、首だけが地面から出るようにした上で、3日間、晒されました。
  (晒は日中のみで、夜間は牢屋敷に連れ戻されました)
 その際、罪人の首の左右に竹の鋸と鉄の鋸を立てかけておき、鋸で首を挽ける状態にしておきました。
 しかし、鋸挽といっても、実際に鋸で首を挽くことはなく、晒した後は市中引き回しをしたうえで磔としました。

6、火罪
 死刑の中で、江戸時代の刑罰の中で最も重い刑で、放火犯には、この刑が適用されました。 
 江戸は、非常に火事の多い都市でした。そして、一度火事が起きると多くの人命と財産が失われました。
 そのため、放火犯に対しては極刑が下されました。
 火罪というは、わかりやすく言うと「火あぶりの刑」です。
 刑場で罪木に縛り付けられた後、火あぶりにされました。
 生きたまま火あぶりにするのはあまりにも残酷だというので、火あぶりの前に絶命させていたという説もあります。



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by wheatbaku | 2015-03-17 21:54 | Trackback
  

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