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「江戸の祭礼と歳事」第4回模試正解

 今日は、模擬試験の正解をアップします。
 今回の問題は、神田祭についての総まとめという感じで問題を考えましたが、結果的に難問ぞろいになってしまったようです。
 神田明神の資料館に行って丹念に見ると、今回の問題はかなり解けるようになるかもしれません。ぜひお出かけください。
 6月から毎日文化センターで開講する江戸検講座「共に学ぶ『江戸の祭礼と歳事』」では、講座「神田祭を学ぶ」を開講していてダブルといけないので神田明神と神田祭についての解説は省略しようと思っていました。
 しかし、受講される皆さんのご意見を聞いてみて、江戸検講座でも神田明神と神田祭のついての解説が必要とのご意見があれば、解説の時間を設けようと思います。
 
1
③神田明神がもともとあった場所であるから

  答えは、東都歳事記に書いてあります。

「竹橋御門を出、一ツ橋御館前へ出る。神輿は御やかたのうちへ入りて、奉幣あり。当社の旧地なりしゆえなり」

 一ツ橋家の御屋敷に入ったのは、神田明神の旧地つまり神田明神があった場所だったのです。

c0187004_15063220.jpg神田明神があったのは、現在の将門首塚の近くと言われています。
 右写真が現在の将門首塚です。

神田明神の旧地は、江戸開府当初は、土井大炊頭の屋敷そして酒井讃岐守の屋敷となり、当時は一ツ橋家の屋敷となりました。

現在の神田祭でも、将門首塚で神事が行われています。

2②南伝馬町 

これは、神田明神資料館で、岸川権禰宜さんが、しっかり説明していました。

ご参加された方、覚えています?

大伝馬町と南伝馬町は、道中伝馬役を勤めていました。

この道中伝馬役は、国役といって、幕府の御用を承っていました。

岸川権禰宜さん曰く「伝馬町と南伝馬町の町人は準公務員」でした。

こうした由緒のある大伝馬町と南伝馬町であるため、神田明神の神輿を担ったのだと思います。

なお、小伝馬町は、江戸市中の伝馬役を勤めていました。四谷伝馬町は大伝馬町が拝領した町、赤坂伝馬町は南伝馬町が拝領した町です。

3、 ④東京医科歯科大学付属病院 

 これは、講座「神田祭を学ぶ」で私が特にご説明しておきましたので、講座にご参加いただいた方は、全員わかると思います。

 本によっては、湯島聖堂前と書いてあるものもありますが、桜の馬場は、昌平坂学問所の西側にありました。
 従って、正しくは湯島聖堂の前ではなく、現在の東京医科歯科大学付属病院のある場所にありました。

 

4、 ②大江山凱陣  

 「大江山凱陣」は、江戸名所図(下の画像ご参照)にも載っている見世物で、山王祭の麹町の像の見世物と並んで双璧とも言われています。

 神田祭ガイドブックの58ページにも載っています。

「大江山凱陣」というのは、大江山の鬼を退治した源頼光と頼光四天王が、鬼の首を持って凱旋する様子を描いたものです。

c0187004_12141897.jpg

5①金色の烏帽子に金紙の幣

 これについて書いてある本はなかなか見つかりませんので、ご存知の方はほとんどいないのではないでしょうか。

ですから超難問だと思います。

これは、江戸楽アカデミーでご紹介した「大江戸の天下祭り」に書かれています。

神田祭では金色の烏帽子に金紙の幣、山王祭で銀色の烏帽子に銀紙の幣、宝永祭では黒烏帽子に白紙の幣だったそうです。④赤色の烏帽子に青紙の幣の猿は全く存在しません。
 下記写真は、神田明神資料館に展示してある山車の絵です。
 諫鼓鶏の羽は白く、猿は烏帽子と御幣が金色(ちょっと黄色にも見えますが)ですね。

 

c0187004_00241962.jpg

6、①神田明神に早く帰るため     

 解説の前に、おわびと訂正です。問題文の中に「天明2年」とあるの「天明3年」の間違いです。お詫びして訂正させていただきます。
 これは、結構難しいと思います。
 武江年表の天明3年9月15日に
「神田明神祭礼の時、神主願いにより、神輿10番と11番の間へ渡すこと当年より始まる。是までは36番の末へ渡しけるが、還輿深夜に及びける故、今年よりかくのごとくなる」と書いてあります。
 神輿が神田明神に戻ってくるのが深夜になるので大変なので、前の方で渡すことを神田明神からお願いしたんですね。
 なお、東都歳事記にも、「神輿2基とも古来は36番の後に渡しけるが、天明3卯年神主願によりて11番と12番の間に渡すこととなれり」と書いてありますが、こちらは11番と12番と書かれていますが、実際には10番と11番の間です。

 

7④火事が起きて町がすっかり焼野原となってしまったことを象徴した。

 これも、神田明神の資料館で、岸川権禰宜のお話を聞かれた方はすぐに正解できただろうと思います。

 江戸は、非常に火事の多い町でした。そのため、神田祭に出す山車も焼失してしまうことが度々ありました。

 しかし、岸川権禰宜のお話では、「山車を出すと決まっている町は、『山車が燃えてしまったから山車を出しません』とは言えなかった」そうです。

 焼失したり損壊したりした場合には、山車の製作には多額の費用と長い時間がかかるため立派な山車が間に合わないことが多々あったそうです。

そうした時、コストも安く短期間で製作できる「武蔵野」という山車が曳きだされました。

この山車は、「火事で燃えてしまい、昔の武蔵野に戻ってしまった」ということを表していたそうです。

8③常盤橋

  神田祭に曳き出された山車は常盤橋を過ぎると、それぞれの町に帰って行きました。

 神田明神資料館の説明板にも、そのことが書いてありましたし、神田祭ガイドブックの59ページにも書いてあります。
 神田祭の山車行列を出す町は、よくよく見ると大伝馬町と南伝馬町だけが日本橋周辺の町で、二町以外は、すべて神田地区の町です。

そのため、常盤橋で山車行列は解散していたようです。
 下の写真は、神田明神資料館に掲示してあった江戸時代の神田祭の巡行路です。
 山車の解散が常盤橋で行われたことが説明されています。
 また、1番の問題で触れた旧社地で神事が行われることについても説明されています。 

c0187004_00364346.jpg


9①後水尾天皇

 これは超難問だったかもしれません。

 問題文に書いた通り、神田明神に祀られていた平将門は赦免され、朝敵という汚名が正式に消えました。

 このことを御存知でない方は、この話題でもうだめだとあきらめた方もいらっしゃるかもしれません。

 さらに、天皇の名前など、江戸検で出題されそうにありませんから、勉強されていないかもしれません。

 しかし、選択肢の4人の天皇は比較的よくでてくる天皇ですので、しっかり覚えておいた方がよいと思います。

ヒントは、寛永3年という年です。

霊元天皇と東山天皇は松之廊下刃傷事件が起きた時つまり元禄年間の天皇です。

そうすると後水尾天皇か明正天皇ということになりますが、後水尾天皇が退位したのは寛永7年ですので、正解は後水尾天皇ということになります。

10 ④荷田春満   

 神田明神の境内には、国学発祥の地の石碑が建っています。

その石碑には「荷田東丸は 京都伏見稲荷社家に生る 通称羽倉斎本名信盛なり (中略) この東丸出でて吾が国学は加茂真渕 本居宣長と伝統して今日に至る 今その遺跡に記して後学の為に伝ふ」と刻まれています。

神田明神の説明では、、国学は、荷田春満(16691736)により江戸において始められた学問とのことです、

 この石碑ついては、岸川権禰宜の説明もあり、私のブログにも書いておきましたので、お分かりになった方も多いのではないでしょうか。






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by wheatbaku | 2015-04-30 11:35 | Trackback
「江戸の祭礼と歳事」第4回模擬試験問題
 今日は、「江戸の祭礼と歳事」に関する模擬試験問題を出題します。
 4月18日に、講座「神田祭を学ぶ」で神田祭について、神田明神さんにいろいろ教えていただきましたので、今回は、その復習をかねて、「神田祭」だけに関する問題としました。
 先日の講座にご参加いただいた方で、鳥居権禰宜と岸川権禰宜のお話をしっかり覚えている方は最低5問は解けると思いますので、挑戦してみてください。

 正解は、木曜日にアップします。

1、天保9年(1838)刊行の東都歳事記には、神田祭の祭礼行列について「竹橋御門を出、一ツ橋御館前へ出る。神輿は御やかたのうちへ入りて、奉幣あり」と書かれていて、一ツ橋家の御屋敷に神田明神の神輿が入ります。
 特別に一ツ橋家の御屋敷に神輿が入るのはなぜでしょう?

 ①神田祭を初めて上覧した5代将軍綱吉の屋敷があった場所であるから
 ②11代将軍家斉の実父一ツ橋治済が住んでいた屋敷だから
 ③神田明神がもともとあった場所であるから
 ④時の神田明神の宮司が一ツ橋家の出身であったから


c0187004_11122106.jpg2、神田祭で御祭神が鎮座する神輿は二つありました。
 その神輿は一般の人が希望すれば誰でも担げるというものではなく、特定の二町の人だけが担ぐことができました。
 そのうちの一つは、大伝馬町ですが、もう一つは次のうちどれでしょう?

 ①小伝馬町  ②南伝馬町 
 ③赤坂伝馬町 ④四谷伝馬町


3、神田祭の際、山車は暁丑の刻(午前2時頃)に桜の馬場に集合することとなっていました。
 東都歳事記には、「当日、桜の馬場を繰り出し所と定む」と書いてあります。
 それでは、桜の馬場はどこにあったでしょう?
 現在、有名な建物が建っていて、その建物が目安となります。
 桜の馬場跡に現在建っている建物はなんでしょうか?

 ①湯島聖堂   ②順天堂大学付属順天堂医院 
 ③ニコライ堂  ④東京医科歯科大学付属病院 

4、神田祭では山車や附祭(つけまつり)が曳きだされ江戸の町を埋め尽くしました。
 その中で附祭は人気があり、はりぼての人形や様々の流行の衣装を着た人たちが行列を作り歩いたようです。
 次の絵は、その附祭の代表的なものですが、何という名前がついているでしょう?

 ①牛若丸奥州下り ②大江山凱陣  ③朝鮮人来朝の学び ④大鯰と要石
c0187004_10580245.jpg

5、神田祭と山王祭の山車の1番は大伝馬町の諫鼓鶏、2番は南伝馬町の猿と決まっていました。
 しかし、同じ山車がでた訳ではなく、一部を変えていました。
 神田祭に出される諫鼓鳥は羽が白く山王祭に出される諫鼓鳥は五彩でした。
 猿の場合、烏帽子と幣(ぬさ:幣帛)の色が違っています。
 それでは、神田祭で出される猿の烏帽子と幣はどんな色でしょうか

 ①金色の烏帽子に金紙の幣 ②銀色の烏帽子に銀紙の幣 
 ③黒烏帽子に白紙の幣   ④赤色の烏帽子に青紙の幣
 

6、山王祭では、神輿は、山車行列の最後に渡御します。
 神田祭は、最初は、山王祭と同様に山車行列の最後に渡御していましたが、天明3年から、10番と11番の間で渡御することになりました。
 これは、どうして、変更されたのでしょうか

 ①神田明神に早く帰るため     
 ②山王祭との違いをはっきりさせるため
 ③将軍の上覧を早く済ませるため  
 ④平将門公より氏子町が先にいては怖れ多いという氏子町が多かったため

 
c0187004_10584193.jpg7、神田明神資料館には、山車の模型が展示されています。
 右写真の山車はそのうちの一つで「武蔵野」とい名前の山車です。
 真ん中の球体は月を表わしていて、回りにすすきが飾られています。
 この山車は、神田祭の祭礼でしばしば曳き出されました。
 それでは、この山車はどのような意図をもって曳き出されたのでしょう?

 ①神田祭は9月15日に催行されるので名月の風情を表わした。

 ②8代将軍吉宗は武蔵野の新田開発を推し進めたので、その吉宗の功績をたたえた。

 ③改革が厳しいので江戸の町は武蔵野のようにさびしくなっていますよと天保の改革を皮肉った。

 ④火事が起きて町がすっかり焼野原となってしまったことを象徴した。


8、神田祭では、山車行列は、最後まで曳かれていったわけではありません。
 ある場所で、山車は解散して、それ以降は神輿の渡御となりました。
 それでは、山車は、どこで解散していたでしょうか

 ①日本橋  ②江戸橋  ③常盤橋  ④京橋


9、神田明神の御祭神は、大己貴命(オオナムチノミコト)と平将門です。
 平将門は天慶の乱で朝廷に敵対したため、朝敵とされていましたが、神田明神では長く御祭神としてお祀りしていました。
 それが、許されたのは江戸時代のことです。寛永3年(1626)に江戸に下向した大納言烏丸光広が帰京して上奏した後、勅許にて赦免されました。
 それでは平将門を赦免した時の天皇はだれでしょう?

 ①後水尾天皇 ②明正天皇  ③霊元天皇  ④東山天皇


10、神田明神神主家9代目の芝崎好高は、邸宅を講義の場として提供するなどして、江戸の国学発展のため尽しました。
 この時に神田明神に留まり、国学の講義を行った国学者は誰でしょうか?

 ①平田篤胤 ②本居宣長  ③賀茂真淵  ④荷田春満    





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by wheatbaku | 2015-04-28 10:37 | 江戸の祭礼歳事 | Trackback
花燃ゆ第17回「松陰、最期の言葉」(大河ドラマ)
 昨日の「花燃ゆ」では、吉田松陰がついに処刑されてしまいました。
 「花燃ゆ」は、いくら杉文が主人公と言っても、やはり、役不足は否めないと思いますので、吉田松陰がかなり話題を提供してくれていました。
 この「花燃ゆ」についてのコメントも、吉田松陰中心に書いてきましたので、約4ヶ月間、勉強の題材を提供してもらいました。
 これからは、久坂玄瑞や高杉晋作中心にコメントすることになると思います。

 さて、昨日の「花燃ゆ」では、江戸に送られたら、すぐに小伝馬町牢屋敷に入れられたように描かれていました。
 しかし、江戸に送られた松陰は、6月25日に江戸に到着し長州藩江戸屋敷に入りました。そして、7月9日に、評定所に呼び出され取り調べが行われました。
 評定所は、最高の審判機関で、松陰の取り調べには、寺社奉行松平伯耆守宗秀、大目付久貝因幡守正典、南町奉行池田播磨守頼方、北町奉行石谷因幡守穆清(あつきよ)などがあたりました。

 松陰の容疑は、2つありました。
 一つ目の容疑は、安政3年に、梅田雲浜が萩を訪ねた際に政治的な謀議を行ったのではないかということでした。
 二つ目の容疑は、御所に幕政を批判した投げ文(投書)したのではないかということでした。
 松陰は梅田雲浜と合ったことはありますが、松陰は梅田雲浜に対する印象は良くなかったようですし、投げ文もまったく関わりのないことでした。
 そのため、幕府の疑いは、なんなく反論でき、容疑を解くことができました。

c0187004_09594411.jpg このままで終われば、松陰は、重い罪にならずに、萩に生きて帰れたでしょう。しかし、この場で、幕府の探索機関も把握していなかった老中間部詮勝の要撃計画を自ら告白してしまいます。
 この重大計画を聞いた奉行たちは、事の重大さに驚き、松陰を小伝馬町牢屋敷に投獄しました。
 松陰が投獄されたのは、小伝馬町牢屋敷の西奥揚屋でした。ここの牢名主が、昨日も再三登場していた沼崎吉五郎です。
 沼崎吉五郎は、松陰の遺書「留魂録」を長く預かっていた人物ですが、沼崎吉五郎が、あれほどクローズアップされるとは思いませんでした。

「花燃ゆ」では、松陰は井伊大老と直に話をするために、老中間部詮勝要撃を自白したと小田村伊之助に述べていました。
 そして、松陰の狙い通りに井伊大老が評定所に現れました。
 これもフィクッションと言ってよいと思います。
 開幕以来200年以上がたっている幕府は、組織だって政権運営が行われていました。
 重大な事件といえども、最高法廷は評定所とされていて、その席に、大老が出座するということはありえません。
 また、井伊大老が、吉田松陰を直に取り調べたという記録も残されていません。

 どうして井伊大老が取り調べの場に出座するという思いがけないストーリーにしたのかと私も疑問に思いましたので、ちょっと考えてみました。

 最後の場面で、井伊大老が、松陰の罪名を、「遠島」から「死罪」に書き換える場面がありました。
 当時の刑罰の決定には、遠島以上の重い刑罰については老中の決裁が必要でした。さらに死刑は将軍の許可が必要でした。
 そのため、評定所で取り調べた案件に対すす刑罰案が、評定所から上伸されますが、多くの場合は、その刑罰案通りに裁決されることが多いのです。
c0187004_10003097.jpg しかし、吉田松陰の場合には、それが井伊大老の段階で、重くなったのではないかという説があります。 その説に沿ったストーリーにするためには、罪名の書き換え場面だけでは、視聴者が理解できないので、あえて、井伊大老と吉田松陰との対決という場面を入れたのではないかと思います。

 以上書いたように、昨日の「花燃ゆ」は、一般に書かれている吉田松陰の江戸の評定所での取り調べとは大幅に異なったストーリーであり、昨日の展開の多くはフィクションになっているように思います。
 しかし、大河ドラマ「花燃ゆ」はおくまでも「ドラマ」ですので、フィクションであっても良いのだろうと思います。

 ただし、史跡案内では、フィクッションばかり話している訳にはいかないので、土曜日に行われた小塚原回向院にある吉田松陰のお墓(右上写真)の案内では、「吉田松陰と井伊大老との対決なんてありませんでしたよ」と解説しておきました。

 なお、吉田松陰の遺書「留魂録」については、以前に詳しく書いてあります。
 ご興味のある方は 「留魂録」 をお読みください。



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by wheatbaku | 2015-04-27 09:52 | 大河ドラマ | Trackback
南千住散歩
 昨日は、毎日文化センターの講座「吉田松陰ゆかりの地を歩く」で、受講生の皆さんと一緒に南千住を散歩してきました。

c0187004_10291939.jpg 天気予報では「にわか雨も?」という予報でしたのでちょっと心配をしていましたが、結局良い天気で楽しく散歩できました。
 ご参加いただいた皆さんありがとうございました。

 右写真は、荒川ふるさと文化館前に復元された橋本左内の旧套堂をみる参加者の皆さんです。

 昨日は、南千住駅 ⇒ 延命寺 ⇒ 小塚原回向院 ⇒ 素盞雄神社(すさのおじんじゃ) ⇒ 円通寺 ⇒ 永久寺 ⇒ 浄閑寺 というコースで歩いてきました。
 東京メトロ日比谷線の南千住駅から三ノ輪駅という一駅の間をていねいに4時間かけて散歩してきました。

c0187004_10305538.jpg 延命寺は、もとは小塚原回向院の一部でしたが、線路によって分断され、昭和57年に線路の南側の部分が延命寺として開山しました。
 一般には「首切り地蔵」と呼ばれる「延命地蔵尊」は、寛保元年(1741)に刑死者を弔うために建てられ、高さは約4メートル(1丈2尺)あります。
 首切り地蔵の隣には、「題目塔」がたっています。写真の左手前にあるのが「題目塔」です。 この「題目塔」は鈴ヶ森の刑場跡に同様なものがあります。

 回向院は、小塚原刑場で処刑をされた人などが埋葬されていますが、吉田松陰や橋本左内をはじめ、安政の大獄、桜田門外の変、坂下門外の変の犠牲者、そして鼠小僧などの有名人のお墓が史蹟エリアとして公開されています。
c0187004_10324334.jpg 史蹟エリアの最も奥に吉田松陰のお墓があります。
 吉田松陰は、安政6年10月27に処刑されましたが、長州藩の働きかけで、桂小五郎や伊藤利助たちが遺骸を受取、お墓を建てたという説明をしました。
 右写真の奥が、吉田松陰のお墓ですが、狭いので一人ずつお参りしていただきました。

 橋本左内は、吉田松陰が処刑される20日前の安政6年10月7日に処刑されています。
c0187004_10350419.jpg 松平春嶽が左内の遺骸を確保するよう命し、福井藩の働きかけによりお墓を建てることができました。 しかし、あまりにも立派すぎるため、小さなもの建て替えれらました。
 現在、回向院にある左内のお墓は、その時のものです。
 右写真の後方にある小さな堂は套堂といいますが、その套堂のなかに左内のお墓があります。

c0187004_10355021.jpg 素盞雄神社は、延暦14年(795)、小塚の中の奇岩が突然光を放ちに素盞雄大神と飛鳥大神が翁の姿をして現れ、御託宣があり、その御託宣に従って、御社を建て鄭重にお祀りしたのが始まりです。
 光を放った石は、瑞光石と呼ばれていて、本殿の脇に、現在もお祀りされています。(右写真)
 この瑞光石がある場所は小さな塚となっていて、この小塚から「小塚原」の地名が起ったともいわれています。

 円通寺は、上野寛永寺の黒門と彰義隊のお墓があることで有名です。
c0187004_10372091.jpg 黒門は、上野寛永寺の門の一つで、上野戦争の際に激戦が展開されました。
 当時の円通寺の住職が彰義隊士の遺体を埋葬し供養をしたのが縁で、明治40年に移設されました。
 黒門には、銃弾の痕もくっきり残っていて、参加された皆さんも驚いていました。
 この他、円通寺には「彰義隊士の墓」や「死節之墓」があり、ご案内しました。

 永久寺は、江戸五色不動のひとつ目黄不動として知られているお寺です。
c0187004_10374542.jpg このお寺は、南北朝時代に創建されたお寺ですが、江戸時代の寛文年間、幕臣山野加右衛門が、諸堂を再建し境内地を整備し、山野加右衛門の号である永久をとって寺院名も永久寺と改められました。
 山野加右衛門は、将軍家の刀剣の試し切りをする「御様御用(おためしごよう)」を拝していました。

 浄閑寺は、明暦元年(1655)に創建された浄土宗のお寺です。
 浄閑寺は、「投込寺」として有名です。
c0187004_10380564.jpg 安政2年(1855年)の江戸で大地震が発生し吉原が焼失しました。
 その際にたくさんの新吉原の遊女がなくなりましたが、なくなった遊女が投げ込み同然に葬られたことから『投込寺』と呼ばれるようになりました。
 その遊女を慰霊する「新吉原総霊塔」が本堂の裏にあります。
 また、山門は江戸時代に建立されたもので、荒川区教育委員会より荒川区の最古の寺社建築物として指定を受けています。写真は、山門を見る参加者の皆さんです。

 最後は、恒例の飲み会です。5時にお店が開くのをまってすぐに飛び込みました。
 今回は、珍しく女性陣がすくなかったので、少し華やかさが欠けたかもしれませんが、散歩の後のお酒は大変おいしいもので、楽しく盛り上がりました。
 楽しい時間を皆さんありがとうございました。
 最後に「ハイ チーズ」でお開きです。
c0187004_10471289.jpg
c0187004_10475991.jpg 一次会が早く終わったので、早く帰れると思っていたら、悪人5人組に捕縛されてしまい、二次会に行くことになりました。
 楽しいお話しで盛り上がっていたら、私たちグループ以外には、お客がいなくなってしまっていて今回も、また遅い帰宅となってしまいました。
 でも、悪人5人組の皆さん最後までお付き合いいただきありがとうございました。




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by wheatbaku | 2015-04-26 10:04 | Trackback
冑市(かぶといち) (江戸の祭礼と歳事)
 今日は、東都歳事記から歳事の話題です。

 4月25日から5月4日まで、3月の雛人形と同じように冑や人形を売る市つまり冑市がたちました。

 東都歳事記には次のように書かれています。

廿五日 
 今日より五月四日迄、冑人形、菖蒲刀、幟の市立、〈場所は三月の雛市に同じく、往還に小屋を構へ、甲冑、上り冑、幟旗挿物、馬印、菖蒲刀、鎗長刀、弓箭、鉄砲、偃月刀(せいりゅうとう)、其外和漢の兵器、鍾馗像、武將勇士の人形等を售ふ、夜にいたれば、燈燭にかヾやきてうるはしく、買人昼夜にたえず。
 再刻の江戸総鹿子に云、通塩町、昔は此町にて冑人形細工人多く、塩町人形と号し、其製麁(そ:雑なこと)なり、価の賤(やす)きをもって、田舍人のもてはやしける、今はこの名をだに知る人稀なり云々、 此節より菖蒲刀、街を売り歩行(ある)く、〉
 男子ある家には、おおかた今日より5月6日までのぼりをたつる。

c0187004_1720412.jpg 雛市は、2月25日から3月2日まで、十軒店などで開かれましたが、端午の節句を前に、冑や人形を売る市が開かれた様子が書かれています。

 絵本風俗往来には
 大名方・旗本衆ならびに町方の富める家々は前々より調え、注文御出入にて引き受けて納む。十軒店見世売りはこの以下の者の需めに応ず。されば品物も店先に飾り並べて商うは並製多し。即ち仕入数物なり。もし上物を求めんとならば、前々より注文し、金力惜しまざるにしかずとなり。

 と書いてあります。

 十軒店で普通に買うのでは、普通のものしか買えないようです。
 しかし、庶民は、普通のもので良かったのではないでしょうか。
 ですから、東都歳事記の挿絵(右)のように、十軒店の冑市が大勢のお客でにぎわったのでしょう。
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by wheatbaku | 2015-04-23 17:21 | 江戸の祭礼歳事 | Trackback
花燃ゆ第16回「最後の食卓」(大河ドラマ)
 昨日の「花燃ゆ」は、いよいよ、吉田松陰の江戸に送られる場面が描かれていました。

 吉田松陰は、老中間部詮勝を襲撃しようと計画していましたが、そのことを幕府がキャッチしていたはずもなく、明確に罪人として召喚されることはありませんでした。
 ですから、長州藩として、吉田松陰の江戸召喚を強く拒めば、それは防げたかもしれないとも言われています。
 「花燃ゆ」では、小田村伊之助が、藩の重臣長井雅楽頭なら松陰を犠牲にしても藩を守ろうとするだろう」と言っていましたが、そうした面が実際にもあっただろうと考える意見もあります。

 しかし、江戸藩邸では、幕府の命令をそのまま受け止め、松陰は江戸に送られることとなります。
 江戸に送られる日は5月25日ですが、その前日、司獄福川犀之助の配慮により、松陰は自宅に戻り、親子と水いらずの時間を過ごします。
 なお、福川犀之助は、この後で10日間の謹慎処分を受けています。

 帰ってきた松陰は風呂に入れられ母親の滝に背中を流してもらいます。
c0187004_12033442.jpg この時、滝は、もう一度元気な顔を見せてくれるように言い、松陰は「帰ってくる」と約束します。
 これは、「花燃ゆ」で描かれていました。
 しかし、ご存知の通り、吉田松陰は、小伝馬町牢屋敷で斬首され、当然、戻ってこれませんでした。

 しかし、松陰は、なくなった時に、両親の夢枕にたったと言われています。
 ある時、母は寅次郎が元気よく帰ってきたので、声をかけようとすると突然寅次郎が消えた夢を見、父百合之助は、自分の首を斬られたが非常に気持ちよかった夢を見たそうです。
 それから20日ほどたつと、江戸から松陰が刑死したとの知らせがきました。
 両親が数えてみると、先日夢をみた時刻は松陰が斬首された時刻だったそうです。
 後に、滝は「寅次郎は、元気で帰ってくるという約束が果たせないので、夢で会いにきて、元気な顔をみせてくれたのだろう」と語り、父の百合之助は「首を斬られながら気持ちよく感じた夢は、寅次郎が首を斬られた時に心にわずらいがなかったことを告げようとしたのだろう」と語ったそうです。

 そして、5月25日早朝に、松陰は野山獄を発ちます。
 野山獄で再会した高須久子に対して、吉田松陰は、恋情を懐いていたと考えられていますので、もう少し詳しく描かれるかと思いましたが、意外とあっさりだったという気がしないでもありません。

 古川薫氏の「吉田松陰の恋」の方がドラマチックだと思います。
 高須久子との恋について、以前書いた 「『吉田松陰の恋』(古川薫著)」 をお読みください。






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by wheatbaku | 2015-04-21 12:08 | 大河ドラマ | Trackback
神田明神の facebook に紹介されました。

 
 昨日アップした毎日文化センター講座「神田祭を学ぶ」開催の記事には、大勢の方からコメントをいただきました。

c0187004_11542298.jpg コメントをいただいた皆さんありがとうございました。

 神田明神さんにもお礼を申し上げたところ、神田明神さんの facebook で、早速ご紹介いただきました。
 神田明神さん、ありがとうございました。
 右写真は、江戸検合格祈願をする参加者の皆さんです。

 神田明神さんの facebook ですが、最初は自分の紹介記事だけに注目していましたが、順に読んでいくと、神田祭に関する情報が、小まめに書かれています。

c0187004_09303794.jpg 今年は、遷座400年を祝う神田祭ですので、盛大に執り行われるようです。

 そのイベントの御案内や準備の様子が、よくわかりますので、神田祭の最新情報がわかります。
 ご参考にされるとよいかと思います。

 岸川権禰宜様が紹介されていた『神社のおしえ』についても載っていました。
 岸川様のご説明では、江戸検の参考図書になる予定とのことですので、江戸検を受検される方には要注意図書となるのではないでしょうか。



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by wheatbaku | 2015-04-20 09:37 | Trackback
江戸検散歩「神田祭を学ぶ」が開かれました!
c0187004_01591313.jpg 昨日は、毎日文化センターの江戸検講座「神田を歩き 神田祭を学ぶ」が開催されました。
 最近の寒暖の差の激しい天候の中で、天気が危ぶまれましたが、幸いなことに、多少風が強く吹くこともありましたが、快晴の天気の中で開講できました。
 右写真は、湯島聖堂のご案内をお願いした木下栄三さんの開講の冒頭の話を聞く受講者の皆さんですが、背景の空をみていただければ、快晴であることがおわかりなると思います。

 今回は、神田明神さんの格別の御配慮で合格祈願、神田明神のご案内、資料館の展示の説明を丁寧に行っていただき、その後、湯島聖堂・御茶ノ水周辺の史跡をご案内させていただきました。
 ご参加いただいた皆さんありがとうございました。
 みなさんのご協力のお蔭で無事終了しました。お礼申し上げます。

c0187004_02000308.jpg 昨日は、まず、拝殿に昇殿して合格祈願をやっていただきました。
 神田明神さんに初めて昇殿する方も多く、初めての経験に大変喜んでいただきました。
 右写真は、合格祈願の始まるのをまつ受講者の皆さんです。

c0187004_02001372.jpg 合格祈願の祝詞奏上では、心を込めて江戸文化歴史検定での合格を祈願していただきました。
 そして、祝詞奏上の後、2人の代表の方に玉串奉奠を行ってもらいました。
 右写真は、玉串奉奠のため、玉串を受け取る受講者代表の浜之悪代官さんと御神輿御隠居のお二人です。
 そして、代表者に合わせて全員で拝礼して、各人の合格を祈願しました。


c0187004_11182918.jpg 神事終了後は、石の間で御神酒で直会を行いました。 そして、開運招福の御守も授与していただきました。
 右写真が御守です。 
 合格祈願をしていただき、御守まで授与していただきましたので、参加された方にとって、神田明神さんのご加護が絶対あるだろうと思います。
 皆さん、頑張ってください。


 合格祈願が終わったあとは、二班に分かれて、神田明神のご説明と神田祭のご説明を鳥居権禰宜様と岸川権禰宜様にしていただきました。


c0187004_02002694.jpg 神田明神には、境内に江戸神社・大伝馬町八雲神社・小舟町八雲神社など歴史のある摂社・末社が多くあります。
 その摂社・末社についても丁寧に説明していただきました。
 右写真は、江戸最古の地主神とさえる江戸神社について、鳥居権禰宜様が説明をしていただいているところです。

c0187004_02003676.jpg 境内には、摂社・末社のほか、国学発祥の碑や銭型平次の碑などもあります。
 それらについても説明していただきました。
 右写真は、国学発祥の碑の説明をしていただく岸川権禰宜様です。
 荷田春満が初めて国学の教場を開いたのが、神田明神社家の芝崎邸内であった御由緒により石碑が建立されているとのことでした。

c0187004_02004652.jpg 資料館では、特別展『大江戸・神田祭展』が開催されていますので、その説明を詳しくしていただきました。
 特別展では、江戸時代の神田祭の様子が人形で復元されている展示、神田祭を描いた浮世絵、絵巻物、山車の模型などが展示されています。
 これらについて丁寧なご説明をいただきました。
 右写真は、岸川権禰宜様の神田祭を描いた浮世絵に関する解説を聞きいる参加者の皆さんです。

c0187004_02005752.jpg 今回の講座は、神田明神さんでも大変お忙しい土曜日に開催しました。
 それにもかかわらず、鳥居権禰宜様、岸川権禰宜様には、貴重な時間を割いていただき、ご丁寧なご説明をしていただきました。
 鳥居権禰宜様、岸川権禰宜様、本当ありがとうございました。
 説明を聞いた受講者の皆さんから、「昇殿しての合格祈願に感激した」「神田祭や神田明神がよくわかった」などの感想がありました。
 心より御礼申し上げます。

【19日午後7時追記】
  神田明神さんの 
Facebook でこの講座の記事についてリンクを貼ってご紹介いただきました。

 神田明神での説明の後は、湯島聖堂を木下栄三さん、御茶ノ水周辺の史跡を私が説明させていただきたました。
c0187004_02011152.jpg 時間がないので、あわただしいご案内となってしまいました。
 そのため、写真を撮ることができませんでしたが、最後に、木下栄三さんが筋違橋御門をご案内している所の写真を撮ることができました。
 今回の案内では、木下栄三さんにも大変お世話になりました。
 木下栄三さんありがとうございました。

c0187004_02150133.jpg 5時20分には無事史跡散歩は終了し、散歩後の懇親会を秋葉原で行いました。
 懇親会には29名の方にご参加いただきました。
 懇親会に新たに参加される方もいて、新鮮な気分で、いつもより一層盛り上がりました。

c0187004_02012465.jpg そして、常連メンバーの御神輿御隠居のTさんが、他用で中座するということで、まさに中締めをやっていただきました。
 手締めも恒例となってきて、皆さん手慣れた調子で絞めてくれました。

 昨日は、込み合う日時ということで、飲み放題2時間という制限つきでしたので、話はつきませんが、8時に終了としました。
 そして最後に記念撮影ですが、参加者が29名もいらっしゃったので、銀座ライオンの入口階段での記念撮影となりました。
 みんな笑顔で撮れていますね。 
c0187004_02285328.jpg
c0187004_02014785.jpg しかし、飲み足りない人も多くて、2次会にいくことになりました。
 こちらも多いに盛り上がりました。
 終了は9時30分でした。
 こちらでも記念撮影ですが、店舗内が暗いのではっきりを写っていなくてごめんさい。








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by wheatbaku | 2015-04-19 08:30 | Trackback
小栗上野介の官職名 
 明日は、毎日文化センターの江戸検講座「神田を歩き 神田祭を学ぶ」があります。
 大勢の方にご参加いただけれることとなっていますので、今日もその準備で大わらわです。
 
 ブログの更新もやめようかなと思いましたが、昨日も更新できてないので、今日は頑張って更新することにしました。

 そんな関係で、明日の江戸検講座に関係する話題で、明日ご案内する予定の小栗上野介について関係することを書きます。

 小栗上野介の屋敷跡の案内の準備で、江戸の切絵図で、小栗上野介の屋敷が駿河台にあるかどうか確認をしました。
c0187004_09501086.jpg 確かに小栗家のお屋敷は駿河台を描いた切絵図の中にありました。
  右の切絵図の真ん中にある「小栗豊後守」と書かれている場所が小栗家のお屋敷です。
 しかし、よく見ると「小栗豊後守」となっています。
 うん? 小栗上野介でなく小栗豊後守?
 なぜ、豊後守なのか?
 
 そこで、小栗上野介は、豊後守を名乗っている時期があったのかなと思い調べました。
 すると、確かに、安政6年11月に最初に名乗ったのは、豊後守でした。
 では、いつ上野介になったのかというと、文久2年(1862)6月に勘定奉行を命じられた時に、豊後守から上野介に名乗りを変えています。

 名乗りを変えた理由を明確に書いたものがあるわけではありません。
 しかし、後に老中となる阿部正外(まさとう)が、この時に外国奉行に就任していて、豊後守を名乗っていたものと思われます。
 そのため、名乗りを変えたのではないかと思います。
 同じ名乗りの人が複数いてはだめということは江戸時代はなかったようですが、同職に同じ名乗りの人がいたり、直属上司に同じ名乗りの人がいた場合は、名乗りを変えていたようです。
 小栗上野介も直前は外国奉行でしたから、豊後守から上野介に変えたのではないかと思います。
 ただし、これは、まだ十分調査した結果ではありませんで、あくまでも私の推測です。

 上野介を名乗った人で、大変有名な人は、吉良上野介です。
 さらにその前に名乗ったのが本多正純です。
 吉良上野介は赤穂浪士に討ち取られ、本多上野介は改易されています。
 そして、小栗上野介も斬首されるということで、上野介を名乗った人は、3人とも不幸な最期となっています。

 ところで、通常の官職は、「大岡越前守」というように「守」ですが、小栗上野介の場合には「介」となっています。
 それでは、なぜ「上野守」と名乗らなかったのかということについて書いておきます。
 律令制度では、国司は、「守(かみ)」「介(すけ)」「掾(じょう)」「 目(さかん)」の4等級に分かれていました。
 そして「守」が長官、今でいえば県知事にあたり、「介」は次官、今で言えば副知事となります。
 ですから、多くの大名が「守」を名乗っていた訳です。
 しかし、上野国は、親王だけが国司の長官となることになっていました。
 こうした親王だけが国司となれる国は「親王任国」といって、上野国、上総国、常陸国の3か国が「親王任国」とされていました。
 従って、親王しか「上野守」を名乗れませんでした。そのため本多正純、吉良義央、小栗忠順は、「上野介」を名乗るしかなかったのです。
 ただ親王が地方へ赴くことはありませんでしたから、実際の長官の仕事は「介」が執り行いました。
 ですから、「越前守」でも「上野介」でも、その国の長官という意味では大きな違いはありませんでした。
 同じような例としては、織田信長が、若い頃に「上総介」を名乗っていた例があります。
 なお、親王が「守」を名乗る時には「大守」と呼ばれました。
 この例として、桓武天皇の第3皇子で、平清盛の先祖と言われる葛原親王(かずらわらしんのう)が、「常陸大守」となっている例があります。


 明日は、天気も良さそうです。
神田明神さんでしっかりお勉強をさせてもらおうと思います。
 そして、昇殿して合格祈願もやっていただけるので、受検される皆さんの合格もお祈りしてこようと思います。



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by wheatbaku | 2015-04-17 09:32 | Trackback
安居(あんご)  (江戸の祭礼と歳事)
 ブログをお読みの皆さん、「安居(あんご)」という言葉を知っていますか?
 今日は、そのお話を書きます。

 江戸検を受検される方は「東都歳事記」を持っている方もいらっしゃると思います。
 その「東都歳事記」の4月15日の項に
「浮屠(ほうし:僧侶)の結夏(けつが)また安居(あんご)」と書かれています。
「安居(あんご)」という言葉を私も初めて知りました。

 この安居(あんご)について、東洋文庫の「東都歳事記」には注釈がのっています。、
しかし、ちょっとわかりにくいので、「安居」は仏教用語のようなので、仏教関係の辞典を調べました。
 そのため、アップが一日遅くなりました。

 わかりやすく書かれていた「仏教大辞典」と「岩波仏教辞典」を参考に「安居」について書いてみます。

 「安居」というのは、もともとはインドの降雨季の行事で、4月16日から7月15日までの90日間、一定の場所に住んで、もっぱら研究修養に勤めることだったようです。
 これを行うのは、雨が降って外出に不便になることやこの期間に外出すると草木の若芽を踏んだり小さな虫類を踏み殺すことが多いのでそれを防ぐためだったようです。

 c0187004_23205775.jpg気候風土の異なり、雨期がない中国・日本でも行われ、日本では、天武12年に初めて行われ、平安時代以降は一般の寺院でも行われるようになりました。
 特に禅宗においては、厳しく行われ、夏だけでなく冬も行われます。
 夏は「夏安居(げあんご)」と言い、冬は「冬安居(とうあんご)」というそうです。
 

 安居の開始は、夏安居の制度を結ぶということから「結夏(けつげ)」といい、また「結制」ともいいます。
また、安居の終了は、夏安居の制度を解くことから「解夏(げげ)」といい、また「解制」といいました。
 
 この「結夏(けつげ)」が、「東都歳事記」のタイトルになっているわけです。

 こうしたことを踏まえて、東都歳事記の文章を読むといくらかわかったような気がします。

 「浮屠(ほうし:僧侶)の結夏(けつが)また安居(あんご)」
  今日より始まり(これを結制という)、7月15日に終わる(これを解夏、また解制という)
  90日禁足して外に出ず。草木虫類をやぶらん事を厭うが故なりとぞ

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by wheatbaku | 2015-04-15 23:22 | 江戸の祭礼歳事 | Trackback
  

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