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「江戸の祭礼と歳事」第5回模擬試験問題
 まもなく5月も終わりとなります。
 しかし、今月はまだ模擬試験を出題していなかったので、晦日ぎりぎりですが模擬試験を出題します。

 来月中旬には、参考図書が出版されるそうですが、「祭礼と歳事」についての適切な参考書がないという声が聞こえてきます。
 参考図書がないわけではないのですが、受検される方が容易に手に入れられるものが非常に少ないという面は確かにあると思います。

 そこで、今回は、比較的容易に見ることができる「江戸学事典」をベースに問題を作成してみました。
 挑戦してみてください。

 正解は、来週火曜日にアップします。

c0187004_16505668.jpg1、右の浮世絵は、歌川広重の名所江戸百景のうちの「浅草川大川端宮戸川」です。
 墨田川とともに描かれているのは『大山参り」の一行です。
  この左手に大きく描かれているのは「梵天」と呼ばれる大きな幣束で、梵天と木太刀を押し立て、先達役が法螺を吹くと、一同口を揃えて「俄悔、俄悔、六根清浄」と繰り返し唱えながら進んでいきました。
 この大山参りの人たちは、出発する前に、水垢離場で身を清めました。
 それでは、水垢離場は、どこにあったでしょう?

 ①永代橋東詰  ②新大橋東詰 
 ③両国橋東詰  ④吾妻橋東詰

2、江戸時代には、特別な霊験があり、あっという間に世間に知らられ、人々が群れてお参りし、一定期間経つと、すっかり廃れてしまう「流行神(はやりかみ)」という神様がありました。
 江戸には、稲荷が多かったため、稲荷で「流行神」となったものが多くあります。
 「武江年表」に享和3年(1803)、慶応3年(1867)と2度流行神化したと書かれている稲荷の名前はなんといったでしょう?
 柳川藩立花家の屋敷神で、現在の台東区にありました。

 ①太郎稲荷  ②宝珠稲荷  ③亀住稲荷  ④金丸稲荷

3、江戸時代、五色不動と呼ばれた不動尊があり、目白不動(新長谷寺)、目黒不動(龍泉寺)、目赤不動(南谷寺)、目青不動(観行寺)、目黄不動(永久寺)が五色不動でした。
 この中に3代将軍家光により命名されたという言い伝えのある不動尊があります。
 それは次のうちどれでしょう?

 ①目白不動  ②目黒不動  ③目赤不動  ④目青不動

4、江戸時代、「大山講」と呼ばれる講が各所に生まれ、多くの人が大山石尊にお参りしました。
 その様子は落語の「大山参り」にまで取り上げられるほど人気がありました。
 この大山参りは江戸時代後期にはいろいろな楽しみ方が加わり人気が高くなりましたが、もともとの大山石尊の御利益はなんでしょう?

 ①火伏(火防)  ②学業成就  ③縁結び  ④雨乞い  

5、七福神めぐりは、現在は、短時間・短距離で巡れる七福神めぐりが各所に創設され、お正月の定番となっています。
 この七福神めぐりが江戸に盛んになったのは、江戸時代中期と言われています。
 それでは、大田南畝・亀田鵬斎・加藤千蔭・酒井抱一などの文人たちによって始められた七福神はどれでしょう?

 ①谷中七福神  ②隅田川七福神  ③山手七福神  ④浅草名所七福神

c0187004_09222803.jpg6、右の挿絵は、守貞謾稿の中にある柏餅の挿絵です。
 守貞謾稿によれば、江戸では、赤豆餡のもののほか、砂糖入り味噌餡のものもありました。
 味噌餡のものを識別するためにした工夫は何でしょう?

 ①柏の葉の表を出す  ②柏の葉の裏を出す  
 ③柏の葉2枚で包む  ④餅を丸くする

7、成田山新勝寺は、「成田のお不動様」と呼ばれ多くの人の信仰を集め、成田詣では江戸時代後期に特に盛んになり大勢の人がお参りしました。
 このように成田山の人気が高まったのは、江戸で出開帳がしばしば行われたためです。
 江戸時代を通じての成田山の出開帳は11回にも及びます
 その出開帳が最初に行われたのはどこでしょう?

 ①深川八幡  ②回向院  ③浅草寺  ④湯島天神

8、春と秋のお彼岸の頃、江戸の人たちは、行楽を兼ねて、「六阿弥参」という巡礼を楽しみました。
 東都歳事記によれば、常楽院、与楽寺、無量寺、西福寺、延命院、常光寺が六阿弥陀とされていて、「六体とも行基菩薩の作なり。彼岸中都鄙の詣人道路に満つ」と書かれています。
 この六阿弥陀の多くは、城北部ありました。
 しかし、一つだけ少し離れた城東の亀戸にあった寺院があります。
 亀戸にあった寺院はどれでしょう?

 ①常楽院  ②与楽寺  ③無量寺  ④常光寺

9、文政末の富くじの状況をまとめた「江戸大富集」によれば、毎月定例的に開催される富くじは、目黒不動、谷中感応寺、湯島天神、浅草寺、回向院の5ヶ所でした。
 この5ヶ所で売り出される富くじの札料は、浅草寺のものが1枚銀2匁5分で、その他の寺社のものの札料は同じ金額でした。
 それでは、浅草寺以外の4ヶ所の札料はいくらだったでしょう?

 ①金2朱  ②金3朱  ③銀2匁  ④銀3匁

10、六地蔵には、元禄4年に空無が開いたものと享保の初めに正元の建てたものがありますが、一般的に正元が建てたものが六地蔵と呼ばれています。
 東都歳事記によれば、六地蔵は、品川品川寺、四谷大宗寺、巣鴨眞性寺、山谷東禅寺、深川霊厳寺、深川永代寺があげられています。
 それでは、この六地蔵が建てられたのはどういう寺院でしょう?

 ①遊郭のそば  ②江戸の入り口  ③触頭の寺院  ④正元が修業した寺




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by wheatbaku | 2015-05-30 08:50 | Trackback
両国の花火(江戸の祭礼と歳事)
両国に関係した話の最後に、花火について書いておきます。

 昨日書いた「守貞謾稿」にも
c0187004_22153745.jpg 五月二十八日 浅草川川開き 今夜初めて、両国橋の南辺において花火上ぐるなり。諸人、見物の船多く、また陸にても群衆す。
と書いてありますし、、
 東都歳時記の二十八日の項には 
 今夜より花火をともす。 (中略) 鍵屋玉屋の花火は今にかわらず。
と書いてあります。

 両国橋の川開きは、武江年表によれば、享保17年5月に幕府が全国の餓死者の慰霊および悪疫退散を兼ねて、両国川で水神祭を開催して、両岸の水茶屋も川施餓鬼をおこなったのが始まりであると書いてあります。
 なお、「一説には享保18年とするもある」 とも書いてあります。
 
 この川開きに花火が打ち上げられました。
 この花火の打ち上げは、横山町の鍵屋弥兵衛と両国広小路の玉屋市郎兵衛の請負で行われました。
 両国橋の上流は玉屋、下流は鍵屋を受け持っていました。
 これにより、見物客も「かぎやぁー」「たまやぁー」と歓声を上げるようになりました。
 玉屋は、文化5年(1808)に鍵屋7代目が番頭の清七にのれん分けして起こした店の歴史は浅いのですが、玉屋の方の人気が高かったようです。
 次のような歌や川柳が残されています。

 橋の上 玉や玉やの 声ばかり なぜに鍵やと いわぬ情けなし 
 また玉屋 だとぬかすはと 鍵屋言い
 不出来は みな鍵屋へ おっかぶせ

c0187004_15505550.jpg しかし、天保14年(1843)、家慶日光社参の前夜、玉屋は火事の火元となったため、江戸所払いとなり廃業となり、 以後鍵屋だけが残りました。
 鍵ばかり居なりで玉は紛失し

 玉屋の存続期間が35年しかありませんから、鍵屋と玉屋が両国橋を挟んで上流と下流で競演をしていたのはそう長くありません。
享保17年は西暦 1732年です。明治元年まで約140年あります。
そのうちの35年ですので、鍵屋が単独で打ち上げていた期間がずっと長いことになりますね。

 右の浮世絵は、名所江戸百景の「両国花火」です。
 この絵は安政5年(1858)に描かれていますので、この絵の花火を打ち上げたのは鍵屋ということになりそうです。







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by wheatbaku | 2015-05-29 09:50 | 江戸の祭礼歳事 | Trackback
船遊山(江戸の祭礼と歳事)
 昨日は、東都歳事記の5月28日の項を紹介しました。
 今日は、守貞謾稿にも『5月28日 浅草川川開き』という項があり、両国の様子が書かれていますので、その紹介から始めます。
近世風俗志(守貞謾稿)をお持ちの方は、4巻の217ページを見てください。
 そこには次のように書かれています

五月二十八日 浅草川川開きc0187004_15510764.jpg 今夜初めて、両国橋の南辺において花火上ぐるなり。諸人、見物の船多く、また陸にても群衆す。今夜より、川岸の茶店、夜半に至るまでこれあり。軒ごと、絹張り行燈に種々の絵をかきたるを釣り、茶店・食店等、小提灯を多く掛くる。茶店、平日は日暮限りなり。今日より夜を聴す。その他観場および音曲、あるひは咄・講談のよせと云ふ席等も、今日より夜行を聴す。今夜大花火ありて、後納涼中、両三回また大花火あり。その費は、江戸中、船宿および両国辺茶店・食店よりこれを募るなり。納涼は専ら屋根船に乗じ、浅草川を逍遥し、また両国橋下につむぎ涼むを、橋間にすゞむと云ふ。大花火なき夜は、遊客の需に応じて、金一分以上これを焚く。

 この中で、注目すべきことは、花火の費用が、「船宿および両国辺茶店・食店よりこれを募るなり」 と書かれていることです。 
 花火の費用は、船宿などが負担していたのですね。やっぱり客寄せの面もあったと思われます。
 船宿というのは納涼・遊郭への往復、宴会などに利用された宿です。

 その船宿がどこに多かったかについて、東都歳事記に書かれています。
 東都歳事記には、昨日書いた「夕涼み」に続いて「船遊山」という項目があり、大変詳しく書かれています。
 最初は次のように書かれています。
 船遊山  両国より浅草川を第一とす。花火の夜はことに多し。やかたぶねの名は「江戸砂子拾遺」に百艘を挙ぐ。今は次第に減じて、屋根船(本名日よけ舟)のみ、年々に多くなれり

 そして、その後に船宿が多い場所が列挙されています。

 船宿  日本橋東西河岸・鞘町河岸・本銀町壹丁目・江戸橋・堀江町・伊勢町・両国橋東西・柳橋・米澤町・本所一ツ目辺・石原・浅草川吾妻橋の東西・鉄砲洲・霊元島(後略)

 東都歳事記には、屋形船についても説明しています。
 屋形船は、東都歳事記にも、守貞謾稿にも、幕末には少なくなったように書かれていますが、東都歳事記に面白いことが書いてありましたので、紹介しておきます。

 屋形船は、寛永の頃より時花(はやり)出て、百艘に極りしとぞ。東國丸といへるを大船の始とし、夫より続て、熊市丸、山市丸あり。
 熊市は座敷九間に台所一間ある故なり。
 山市は座敷八間台所一間ありし故なり。(後略)

 これおもしろいですね。

 さらに猪牙船の由来について書いてありましたが、それがおもしろいのでそれについて書いておきます。

 (菊岡)沾凉が「世事談」に「猪牙舟は明暦の頃両国橋笹屋利兵衛見付の玉屋勘兵衛と云う者これを造る。押送りの長吉というもの、船を薬研の形に作り、魚荷を積て押に、至て早し。是を考へてつくるものなり。長吉船というべかりけるを、ちょき舟と云えり。近年猪牙の2字を用う。猪の牙に状(かたち)似たるゆえか」とあり。

 なるほど、なるほど! 最初は長吉という人が工夫したので長吉船と呼ばれていたのがいつしか「ちょき船」と呼ばれるようになったという説があるんですね。





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by wheatbaku | 2015-05-28 11:32 | 江戸の祭礼歳事 | Trackback
夕涼み
 「東都歳時記」をお持ちの方、5月28日の項を読んでみてください。
 両国橋の両側、いわゆる両国広小路が大変な盛り場であったということは知っていましたが、「東都歳事記」という身近な本に、こんなに詳しく書いてあるということを初めてしりました。

c0187004_23530427.jpg 「東都歳事記」には次のように両国橋の夕涼みの様子が書かれています。 「両国橋の夕涼今日より始り、八月二十八日に終る。ならびに茶屋、見せ物、夜店の始にして、今夜より花火ともす。逐夜貴賎群衆す」
とあります。
 
納涼と言えば両国橋が大変有名でした。
「この地四時蕃昌(はんじょう)なるが中にも、納涼の頃の賑はしさは余国にたぐひすべき方はあらじ」と書かれていて、いつも賑やかな両国橋周辺が納涼の頃は一層賑わった書いてあります。
 その賑わいの様子も「東都歳事記」に書かれています。

 私なりに書かれている内容の概略を書いてみると次のようになります。

 両岸には茶店がならびきれいどころが客をさそっている。
 路には、つなわたり、かるわざ、なんきんあやつり、さるしばい、そのほか、珍獣などの看板をかかげたみせ物などの小屋が並んでいる。
 また、楊弓(ようきゅう)、影芝居、落語、髪結い床、人相観、占い師、水菓子、心太売りなどがあり、ないものはないという賑わいぶりである。
 日が暮れてくると茶店の軒にともしびが灯って、まるで暗闇がない国のようである。
 雷のようなすごい音がするので驚いて首を上げてみると、花火が天空に広がっている。
 両国橋で遊んでいる人は、金持ちも貧しい人も金を惜しまないというのももっともなことである。
 誠に世界第一の見事な景観である。

 納涼は、3代将軍家光の時代である寛永・慶安年間に始って、承応年間には盛んになっていたとも言います。

 そして、明暦3年(1657)の明暦の大火後、両国橋が架けられました。
 両国橋の東西のたもとは、橋に類焼しないように広小路が設けられました。
 そして、恒久的な建物の建築が禁止されたため、すぐに解体できる床店や芝居小屋・見世物小屋が建てられました。
 そのため、江戸随一の盛り場となりました。

 天保4年の瓦版「両国八景はうたいよぶし」には次のように両国の見世物が詠いこまれています。
「これは両国盛り場の名寄せ、咄講釈浄瑠璃や、万作踊りに小供芝居、操人形、軽業じゃ、子供新内、玉ぞろい、楊弓、茶見世に花火船、続いて影芝居、さっても願おう夕涼に江戸の花」

 両国橋には、いろいろな見世物があったんですね。




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by wheatbaku | 2015-05-27 09:32 | 江戸の祭礼歳事 | Trackback
江戸検のここが変わります!
 今年の江戸文化歴史検定の実施要領が5月22日に、江戸文化歴史検定協会から発表になりました。
 詳しくは 右の江戸文化歴史検定協会のHPをご覧ください。 ⇒ 「第10回江戸検 ここが変わります!」
c0187004_16100233.jpg
 今回は、大幅な変更がありますが、重要な変更点は、①出題範囲の変更 ②合格基準の変更です。
 先日の世田谷散歩で、「今回の変更で、特に合格基準の変更〔偏差値の導入〕についてわかりにくい」というお話がありましたので、重要な変更点についての私なりの理解を書いてみたいと思います。
 受検される皆様のお役にたてば幸いです。

 まず、出題範囲の変更ですが、次のようになっています。
 1級 公式テキスト上級編『江戸博覧強記』より 約5割 +「今年のお題」より約2割を出題
 2級 公式テキスト初級編『大江戸見聞録』より 約2割 + 公式テキスト中級編『江戸諸国萬案内』より約5割+「今年のお題」より約2割を出題
 3級 公式テキスト初級編『大江戸見聞録』より約7割+「今年のお題」より約2割を出題

 変更になったのは、公式テキストからの出題割合が増えたことです。
 従来の公式テキストからの出題範囲は、次のようになっていました。
 1級 公式テキスト上級編『江戸博覧強記』より 約
 2級 公式テキスト初級編『大江戸見聞録』より 約割 + 公式テキスト中級編『江戸諸国萬案内』より約5割
 3級 公式テキスト初級編『大江戸見聞録』より 約7割

 これをみて、お分かりなるように、1級・2級では公式テキストからの出題割合が、それぞれ
 1割増える ことになります。
 
 2月の江戸楽アカデミーでも公式テキストを勉強することの重要性を強調しておきましたが
出題範囲の変更で公式テキストをしっかり勉強することが一層重要になります。 
 既に2月に江戸楽アカデミーを受講された方は、もう最低でも公式テキストは2回は読了しているだろうと思いますが、これからも、しっかり読むことが大事ではないかと思います。
 また、7月12日の江戸楽アカデミー 「過去問題からみる『江戸博覧強記』 勉強の実践的ポイント」 で、1級向け公式テキスト「博覧強記」の実践的勉強法について話す予定ですが、その席で「博覧強記」の重要性を改めて強調したいと思っています。

 さて、それよりも重要なのが合格基準の変更です。
 従来は、100点満点中、3級・2級は70点以上、1級は80点以上で合格でした。
 しかし、今年からは
1級・2級では「偏差値」が導入され、2級は偏差値が 55.0以上、1級は70.0以上でも合格となります。

 これは、重要な変更です。
 従来は、絶対基準だけでした。 
 今年から「偏差値」も導入するということは、相対基準を
絶対基準と併せて導入するということです。
 偏差値は、最近の高校入試や大学入試では、ごく普通に採りいれられているので、経験のある方は抵抗なくわかると思いますが、60歳以上の方では、ご自分は体験していないので、理解しにくいかもしれません。
 私も、偏差値世代ではないので、偏差値を本当に理解するのはなかなか難しくて、私もとても説明しきれません。
 しかし、試験の平均を50として、成績がどのくらいであるか判断する方法だということぐらいはわかります。
 問題の内容によって平均点は上下しますが、偏差値はどのテストでも平均点を50に置き換えて点数を判断する方法です。

 今年の江戸検から、この偏差値が導入されて、しかも1級の場合「70.0」以上を合格とするということになります。

 こうすることによって、たとえ、80点に達していなくても、1級合格の栄冠を得る可能性がでてきました。
 つまり、79点の場合には、昨年までは不合格であったわけですが、今年からは、79点でも偏差値が70.0以上であれば、1級合格となります。

 偏差値70.0以上の分布は、2.3パーセント程度と言われています。
 今年からは、1級の場合、
最低でも受検者の2パーセント程度の方が合格することになります。
 昨年の1級は合格率1パーセントですから昨年より明らかに合格しやすくなると思います。
 
 しかし、あまり糠喜びしないでください。
 大学入試の場合、偏差値70以上というと国立大学でも私立大学でも上位校になるようです。
 ですから、これからもしっかり勉強しないと合格しないようです。
 でも狭き門が確実に広がります。
 受検される皆さん、是非頑張ってください。

 なお、このブログでもご案内した 
毎日文化センターの江戸検講座 「共に学ぶ『江戸の祭礼と歳事』」ですが、お陰様で満員となっております。

 大勢の皆様にお申込みいただきありがとうございました。紙上を借りてお礼申し上げます。







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by wheatbaku | 2015-05-26 08:35 | 江戸検定 | Trackback
花燃ゆ第21回「決行の日」(大河ドラマ)
  昨日の「花燃ゆ」は、文久3年(1863)の正月から5月までの動きが描かれていましたが、あまりにも急展開ですので、なかなか難しいとも思われます。
 そこで、時間を追って、概略を振り返ってみたいと思います。

 まず、正月5日には、江戸の高杉晋作は、吉田松陰の遺骨を世田谷若林に改葬する場面がでてきていました。
c0187004_11003208.jpg 一昨日、松陰神社の松陰のお墓をお参りしたので、「花燃ゆ」の展開と絶好のタイミングとなりました。 一昨日の散歩でも話題となりましたが、松陰神社と豪徳寺はあまりにも至近距離にあり、距離が離れていない場所に、吉田松陰と井伊直弼が眠っていることに驚く人が多いのです。
 この埋葬地を決めたのは高杉晋作だろうと思われますが、はっきりと誰でどのような理由で決めたのか書いた物は私が調べた限りではありませんでした。
 この改葬の途中で、上野寛永寺前の忍川に架かっていた三つの橋の中央を押し渡ったというエピソードは大変有名ですが、「花燃ゆ」で冒頭の場面で描かれていました。
 三つある橋の中央の橋は、将軍が寛永寺にお参りする際にだけ渡れる橋ですので、その橋を渡るということは、重大なことでした。
 ですから、高杉晋作はあえてその暴挙を行ったのでしょうが、幕府がそれを問題にした形跡はないようです。
 しかし、長州藩内では、「高杉を江戸に置いておいては何をするかわからん」ということになり、京都に呼び寄せることになり、高杉晋作は、京都に上ります。
 ちょうど同じ頃の3月4日、14代将軍家茂が上洛しました。
 そして3月11日に、上賀茂神社と下鴨神社へ孝明天皇が行幸し、攘夷祈願を行い、そのお供を家茂にさせました。
 この賀茂行幸を画策したのが、久坂玄瑞を中心とした長州藩でした。
 この行幸に家茂にお供をさせるということは、天皇の方が将軍よりもえらいのだということを人々に知らせることになります。
 また、将軍の移動は駕籠によるのが通常ですから、騎馬姿でお供するというのも異例です。
 この行列の最中に、高杉晋作が「いよう、征夷大将軍」と声をかけました。
 この行動によって長州藩が進める攘夷実行策に悪い影響があると考えた周布政之助、桂小五郎、久坂玄瑞たちは、高杉晋作を詰問したのです。
 その後、突然、高杉晋作が出家して、3月26日に京都を発って萩へ向かいました。
 出家の理由はなぜかということはよくはわかっていないようです。
 そうして、高杉晋作が出家している中でも、攘夷実行の動きは急速に進み、長州藩では、下関での外国船砲撃の準備を進めます。
 4月15日久坂玄瑞は帰国を命じられ、萩から政庁の移っていた山口に行った後、4月26日下関に向かいました。
 久坂玄瑞らは、光明寺を屯営として「光明寺党」を名乗ります。
 攘夷期限の5月10日、関門海峡にアメリカ商船のベングローブという船がやってきます。
 これに、長州藩は砲撃を加えることになります。
 もちろん、その中心となったのは久坂玄瑞です。

c0187004_11042887.jpg 文久3年から翌年の元治元年まで、下関戦争、8月18日の政変、池田事件、禁門の変、第1次長州征伐と、長州藩を中心に政局が目まぐるしく変わります。 こんな激動の時代を女性の文の立場からどう描けるか脚本家の力量が問われることになりそうです。
 先日の世田谷散歩の際にも視聴率も低いそうですねという話もありましたので、これから「花燃ゆ」に是非頑張って欲しいですね。
 そういえば、東急世田谷線には「花燃ゆ」電車も走っていました。
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by wheatbaku | 2015-05-25 10:53 | 大河ドラマ | Trackback
世田谷散歩

 昨日は、毎日文化センターの講座「吉田松陰ゆかりの地を歩く」の最終回があり、世田谷(主な案内場所:教学院、松陰神社、豪徳寺、世田谷城址公園)を案内しててきました。

昨日は、一人の欠席者もなく、大部隊でしたが、事故もなく無事終了しました。

 気温は少し暑い感じでしたが、天気も良くて快適に楽しく散歩できました。ご参加いただいた皆様ご協力ありがとうございました。

最初にご案内したのは目青不動として知られる教学院です。

五色不動とよばれる目黒不動、目白不動、目赤不動、目青不動、目黄不動の一つです。

c0187004_09144249.jpg目青不動は、江戸時代には麻布谷町(現・港区六本木一丁目付近)にあった観行寺にお祀りされていました。

しかし、明治15年に観行寺が廃寺になったため、ご本尊の不動明王像(秘仏)と前立の不動明王像が教学院に遷されました。

このお不動様の像の作者は目黒不動と同じ慈覚大師といわれていて、お不動様は秘仏で公開されないそうです。

お不動様の像の右脇侍は閻魔大王、左脇侍は奪衣婆が安置されているので、この不動堂は一名閻魔堂ともいわれるそうですが、堂内が暗くて閻魔様がいるのが確認できませんでした。
 
 教学院は、小田原藩大久保家、烏山藩大久保家、荻野山中藩の菩提寺です。 
 c0187004_09153475.jpgこの大久保一族からは老中が5人でています。 小田原藩から4人(忠隣、忠朝、忠増、忠真)、烏山藩から1人(常春)です。
 このうち忠隣以外のお墓が教学院にあります。
 そこで、この人たちのお墓をご案内し、特に二宮尊徳を見出したことでも有名な小田原藩中興の名君忠真について詳しく説明しました。
 右写真の右端が大久保忠真のお墓です。

吉田松陰は安政6年(1859)10月27日、小伝馬町牢屋敷で30歳の若さで死刑になり、小塚原回向院に埋葬され、文久3年(1863)正月5日、吉田松陰の門下生であった高杉晋作、伊藤博文等によって世田谷若林の長州藩抱え屋敷に改葬されました。

c0187004_09154852.jpg元治元年の禁門の変の後、江戸にある長州藩邸は幕府に没収されましたが、若林の抱え屋敷は没収され(旗本志村氏に引き渡された)、吉田松陰のお墓も破壊されました。

明治になって、明治15年11月21日吉田松陰門下の人々が相談して、お墓にそばに社を建てて松陰神社が創建されました。


松陰神社には、萩の松陰神社境内に保存されている松下村塾を模してつくられた松下村塾がありますので、松下村塾についてもご案内しました。。

c0187004_09160407.jpg松下村塾というと吉田松陰が開いた塾のように思う人が大部分だと思いますが、松下村塾は、松陰の叔父の玉木文之進が開いた塾です。

松下村塾というのは、塾があった松本村からとった名前です。 

松陰が塾生に教育したのは安政3年8月の頃より安政5年末に投獄されるまでの、2年半程でした。

松下村塾で薫陶をうけた塾生はおよそ90名前後と言われており、久坂玄瑞、高杉晋作、木戸孝允、山縣有朋、品川弥二郎、伊藤博文などが特に有名です。

松陰神社の墓所には、多くの人が眠っています。

もちろん、中心となるのは吉田松陰です。

c0187004_09161752.jpgその隣に安政の大獄でなくなった小林民部、頼三樹三郎が埋葬されています。

その他、来原良蔵、中谷正亮、福原乙之進、綿貫次郎輔、其の他の墓碑があります。

文久三年(1863)正月。高杉晋作、伊藤博文、山尾庸三、白井小助等により、吉田松陰の遺骨が小塚原回向院から改葬されました。

同時に頼三樹三郎、小林民部も同じく回向院より改葬しました。

禁門の変の後、長州征伐の際に幕府によって吉田松陰以下の墓は破壊されましたが、木戸孝允等により明治元年に吉田松陰以下の墓を修復しました。


豪徳寺は、世田谷城跡の一部でした。

c0187004_09162603.jpg寺伝によれは今から500年前は世田谷城内の小庵で弘徳院といい、室町時代後期の文明12年(1480)吉良政忠という吉良氏の一族の人が伯母のために建てたもので、その法号にちなんで弘徳院と名づけられたといわれています。

寛永10年(1633)に、世田谷は彦根藩井伊家の領地となり、その時の井伊家藩主井伊直孝により、井伊家の菩提寺に取り立てられました。

井伊直孝が亡くなった後、直孝の法号「久昌院殿豪徳天英大居士」に基づいて豪徳寺と寺号を改めました。

直孝の娘掃雲院は多くの堂舎を建立、寄進し、豪徳寺を井伊家の菩提寺に相応しい寺観に改めました。

その当時の仏殿や石灯籠、梵鐘が現在も残されています。
 右上写真は、仏殿を見る参加者の皆さんです。仏殿の額に「三世仏」と書かれています。


c0187004_09164199.jpg豪徳寺には三重塔があります。 三重塔は平成18年に完成したものです。
 この塔の一層目に干支が彫られています。真北を向いた面の真ん中のところから、時計回りに子、丑、寅、卯・・・・と。彫られています。

北の中央は猫が彫られていますが、その両脇にネズミが彫られています。

向かって左のネズミは小判を持っています。

さらにその上の二層にも猫が彫られています。
 右写真は、猫の彫刻をさがす参加者の皆さんです。

井伊直弼の墓は都史跡に指定されています。

井伊直弼は、極悪人のように描かれていることが多いのですが、これは、明治新政府を作った人々が吉田松陰の門下生が多かったことあるいはその知人であったことから、松陰を死罪においやった井伊直弼を敵と考えていたことが大きく影響していると言われています。

c0187004_09165634.jpgしかし、戦後以降、こうした評価にとらわれない井伊直弼の真の人物像が描かれてようになりました。

そうした中で、文化人としての井伊直弼ついても多くしられるようになってきました。

そして、剣では居合の達人となり新心新流を興しました。

芸術では、和歌、茶道、狂言に力をいれました。

そして、それぞれ、一家をなすまでに腕をあげました。

和歌では歌集が出されています。茶道では彦根一会流という流派をつくりあげています。狂言では「鬼が宿」という作品を残しています。

こうしたことから、あだなが「ちゃかぽん」とうつけられました。

直弼は、このように下積みが長く苦労した人物でした。

安政の大獄については評価がわかれるところですが、日本の行く末を考えたうえでやむえずとった政策であると擁護する意見もないわけではありません。

桜田門外の変が起きた日、水戸浪士たちの襲撃の計画があるという投げ文を無視して登城したことやここに刻まれている戒名は、亡くなる前に井伊直弼が自分で決めていたことなどから死を覚悟していたのではないかとも言われています。

豪徳寺から世田谷城址公園にかけて世田谷城という城が、北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされるまでありました。

c0187004_09171128.jpgこの世田谷城の城主は吉良氏でした。

吉良氏といえば吉良上野介を思い出すと思います。

吉良上野介の吉良氏は、三河吉良氏と呼ばれます。

世田谷城の吉良氏は奥州吉良氏と呼ばれ、三河吉良氏と先祖は同じとする一族ですが、吉良上野介の吉良氏とは別の吉良氏です。

世田谷城は武蔵野台地の一角にあります。台地の先端部にあり、西・南・東の三面に烏山川が蛇行して、要害をなしていました。 

豪徳寺参道沿いに土塁が残っていますし、城址公園には土塁と堀が残されています。

最後は、恒例の飲み会です。

もう、これが楽しみという人も多くて、快い散歩の後の酒は皆さん格別のようです。

わきあいあいの飲み会は、飲む量が増えるのに従って、いつしか声高となり、他のグループを圧倒していました。

最後に記念撮影です。

c0187004_09173825.jpg

一次会が終わり、渋谷まで来たら、誰が言い出したかわかりませんが「今日はどうする?」との声があり、即座に、加州そうせい公、浜之悪代官、五瓜紋の殿、火盗改鬼平後のお殿様たち、「行くぞ」ということになり、軽く2次会をやって帰りました。

4人の悪殿の皆さん、今回も遅くまでありがとうございました。
 やっぱり「悪(わる)よのう」ですね。



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by wheatbaku | 2015-05-24 08:56 | Trackback
梅田雲浜・鼠小僧のお墓(南千住散歩)
 今週末に、毎日文化センターの講座「吉田松陰ゆかりの地を歩く」もあり、本業の仕事もあり、結構忙しい日々をおくっています。
 明日は、晴の予報ですし、楽しく松陰神社や豪徳寺をご案内してこようと思っていますが、最後の準備に追われています。
 そんなことで、小塚原回向院については、吉田松陰、橋本左内、桜田門外の変関係者のほかに、多くの有名人のお墓もあるのですが、今日は、その内の、梅田雲浜と鼠小僧のお墓についてだけご案内します。

 梅田雲浜のお墓は、有村次左衛門のお墓の真向かいにあります。
c0187004_09243155.jpg 墓碑には「梅田源次郎」と刻まれています。 梅田雲浜は、元小浜藩士で、雲浜の号は、若狭国小浜海岸からの由来で名づけたといわれています。
 梅田雲浜は、尊皇攘夷を求める志士たちの先鋒となり、幕政を激しく批判しました。
 このため、時の大老・井伊直弼により、最も過激な人物として、安政の大獄の早い時期に摘発されました。
 捕縛後は京都から江戸に送られ厳しい尋問が行われました。
 しかし、取調べにおいても何一つ口を割らず、安政6年(1859年)に獄中で病死しました。
 流行のコレラに罹ったとも、厳しい取調べの結果病死したとも言われています。
 幕府が吉田松陰を江戸に送るように指示した理由は二つありました。
 その一つが、京都御所に幕政を批判した投書をしたのではないかという疑いでした。
 そして、もう一つ、梅田雲浜が長州に下った際に、梅田雲浜と政治的な策謀を相談したのではないかという疑いでした。
 この二つの容疑について取り調べるために吉田松陰を江戸に送れと幕府は長州藩に命令してきたわけです。
 江戸に送られた松陰は、この二つの嫌疑については、しっかりと抗弁をして疑いを晴らします。しかし、自ら 老中間部詮勝要撃計画を告白し、その結果、松陰は斬首されることになります。
 こうしたことを考えると、梅田雲浜は、吉田松陰の人生に大きな影響を与えた人物の一人ともいえます。

 鼠小僧のお墓は、橋本左内のお墓の手前右手にあります。
c0187004_09244118.jpg 墓碑には「源達信士」と刻まれていて、右に「俗名鼠小僧」と刻まれています。 鼠小僧は、実在の人物で、天保3年(1832)8月19日市中引き回しの上、獄門に処せられています。
 鼠小僧は、大名や旗本屋敷を狙って盗みに入り、盗んだお金は3120両といわれています。
 そして、講談やテレビなどでは、盗んだお金を貧しい人たちに配った義賊だと言われています。
 しかし、大名や旗本屋敷に盗みに入ったのは事実ですが、貧しい人たちにお金を配ったというのは作り話だと言われています。
 なぜ、大名・旗本屋敷を狙ったかというと、大名・旗本屋敷が意外と警備が薄いということと外聞を重んじるため盗まれたことを公表しないためだったと言われています。
 そのため、鼠小僧に複数回盗みに入られた御屋敷もあったようです。
 鼠小僧は、市中引き回しの上、獄門となりました。
 肥前国平戸藩主松浦静山は、その著書「甲子夜話」に、この獄門の様子をわざわざ家臣に見に行かせて、見物人が20から30人の見物客が集まっていたという報告を受け取っています。
 現代の私たちからすれば、獄門は残酷な刑罰で、いくら犯罪者とはいえ、生首など見たくもないと思う人が多いと思いますが、江戸時代の人たちは、それを見に行った人が行った人が確かにいたんですね。






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by wheatbaku | 2015-05-22 09:18 | 大江戸散歩 | Trackback
花燃ゆ第20回「松陰、復活!」(大河ドラマ)
 「花燃ゆ」を昨日観ることができましたので、今日は「花燃ゆ」について書きます。

 今回の「花燃ゆ」では、久坂玄瑞の恋人(?)となる辰路が出てきますが、結構、年上に見えるので驚きました。
 しかし、演じている女優の鈴木杏さんは、文を演じる井上真央さんとは同い年なんですね。こちらも驚きました。
 それはさておき、今日は「英国公使館焼き討ち事件」について書こうと思います。

c0187004_16293392.jpg 「英国公使館焼き討ち事件」は、文久2年(1863)12月12日年1月31日に起きていますので、吉田松陰が刑死してから4年が経っています。 井伊大老が暗殺された後、幕府は公武合体策を推進し、和宮の降嫁を実現します。 しかし、文久2年(1862)1月15日に坂下門外の変が起き、推進者の老中安藤信正が襲撃され、その後罷免されると、全国的には攘夷運動が強まります。
 そうした情勢のなかで、長州藩は、長井雅樂の「航海遠略策」つまり公武合体をベースにした開国論から攘夷論に舵をきりました。

 こうした中で、計画されたのが「英国公使館焼き討ち事件」です。
 当初、高杉晋作は、外国人の殺害を計画しました。
 そして、外国人公使を暗殺するため、高杉晋作たちは神奈川の宿屋に集合しましたが、この計画が漏れていて、毛利定広から説得されて、暗殺計画は未遂に終わりました。

 この後、高杉晋作は「御盾組」という攘夷決行のための組織を作りました。
 高杉晋作が大将で、久坂玄瑞が副将でした。

 この「御盾組」が次に計画したのが「英国公使館焼き討ち事件」です。
c0187004_16295557.jpg それまでは、麻布の善福寺がアメリカ公使館として利用されていたように外国の公使館は、お寺を利用していました。 こうしたお寺では容易に襲撃されるため、文久元年(1861) 2月、幕府は公使館を品川の御殿山へ建設することで各国公使と合意しました。 御殿山公使館は、これまでの寺院を間借りしたものとは異なり、洋風建築であり、周囲に深い空堀と背の高い柵をめぐらして、跳橋を設けるなど、嬢夷派の襲撃に備えた構造だったようです。
 御殿山の公使館用地には、各国の公使館が建設される予定でしたが、最初に建設が始まったのは御殿山東南の英国公使館です。
 この英国公使館が、文久2年12月には、ほぼ完成に近づいていました。
 ここを襲撃しようというのが高杉晋作たちの計画でした。

 襲撃を実行したのは、高杉晋作、久坂玄瑞、井上聞多(後の井上馨)、伊藤利助(博文)
たちです。
c0187004_16315247.jpg 文久2年12月12日の夜九時半(午前1時)に、品川宿の旅籠屋土蔵相模 に集合した高杉晋作や久坂玄瑞ら13名は、英国公使館に忍び込み、焼き討ちを実行しました。 彼らは、空堀と柵を越えて館に侵入し、爆弾に火をつけて公使館を全焼させました。 襲撃側には、負傷者はいませんでした。

 焼き討ち事件は、当然、幕府を驚かせましたので、犯人の捜索が行われました。
 その結果、長州藩士の仕業らしいということを突きとめました。
 しかし、厳しく追及をしていくと長州藩を敵に回すこととなり、それを怖れた幕府側の判断で、犯人追究はうやむやになってしまいました。




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by wheatbaku | 2015-05-20 16:23 | 大河ドラマ | Trackback
桜田門外の変の関係者の墓(南千住散歩⑤)
  今日も仕事が忙しくて、アップが夜になってしまいました。
  今日も小塚原回向院の続きです。
  吉田松陰のお墓をご案内しましましたが、松陰の墓の前に、桜田門外の変で亡くなった人たちのお墓がありますので、ご案内します。

 桜田門外の変で、井伊大老を襲撃した実行犯は18人いました。
 明治まで生き残った人は2人(増子金八と海後磋磯之介)で、それ以外の人は、当日斬り込された人(1人)、自害した人(5人)、そして、自首した後死亡した人(3人)のほか、、自首したり逮捕された人7人が斬首されています。
 こうした人たちのお墓が回向院にあります。
 その中の主な人のお墓を紹介しておきます。

 右下写真の右が現場の指揮者であった関鉄之助のお墓で、その隣が井伊大老を殺害した有村次左衛門のお墓です。

関鉄之助
c0187004_19342474.jpg 関鉄之助は桜田門外の変での実行部隊の指揮者で、桜田門外の変の後、近畿・四国・中国さらには九州まで各地を逃げ回りましたが、安住の地はなく、水戸藩に戻り袋田にかくまわれていました。
 しかし、そこにも危険が迫ったため越後へと逃れていきましたが、最終的に福島県との県境近くの湯沢温泉(現在の岩船郡関川村)で捕らえられ水戸に送られます。
 その後、さらに江戸に送られ、文久2年(1862)5月11日に小伝馬町牢屋敷で斬首されました。

有村次左衛門
 その隣が、井伊大老の首を上げた有村次左衛門のお墓です。
 有村次左衛門は、井伊大老の首を落としたあと、首をもち、日比谷方面に逃げようとした際に、彦根藩士に背中から斬り付けられて重傷を負いました。
 現在のパレスホテルの東側まできましたが、もうだめだと観念して自害しました。
 
c0187004_19340832.jpg金子孫二郎
右写真の左が金子孫二郎のお墓です。
 金子孫二郎は、水戸藩の郡奉行を務めました。
 桜田門外の変の首謀者です。
 井伊大老の襲撃には加わりませんでした。
 しかし、井伊大老の襲撃が成功したという連絡を受けて、薩摩藩士の有村雄助(有村次左衛門の兄)とともに京へ上る途中、伊勢四日市にて捕縛され、江戸に送られ斬首されました。



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by wheatbaku | 2015-05-19 19:01 | Trackback
  

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