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吉原の「秋の雪」または「八朔の雪」(江戸の祭礼と歳事)

 八朔は、吉原にとっても特別の日でした。

 

 8月1日に、吉原の遊女で仲の町を花魁道中する遊女は、白無垢を着ていました。

c0187004_09592502.jpg 

 このことは、私も江戸検の勉強をする中で知っていました。

 そして、この風俗は、江戸城の八朔の行事を模したものだろうと思っていました。

 しかし、そうではなさそうです。

 『東都歳事記』には、次のように書かれています。

 今日吉原遊女一般に小袖を着して仲の町へ出る。

 今日白無垢を着する事は、元禄の頃江戸町一丁目巴屋源右衛門が家の高橋といへる太夫、其頃瘧(おこり)を煩らいけるが、なじみの客来りし時、打ふしいたりし白無垢の儘(まま)にて、揚屋入しける風情の艶なるに、万客思いをなやましけるが、これより移りて年々八朔に、白無垢を着る事になれりといえり

 つまり、元禄のころ、高橋という太夫が、瘧(おこり)という今でいうとマラリアにかかっていましたが、馴染みの客が来たというので、白無垢を着たまま対応をしました。

 これが艶やかで、大変好評だったので、吉原で白無垢を着ることになったということです。

 この行事は、「秋の雪」と呼ばれたり「八朔の雪」「里の雪」などともよばれました。
 そして、川柳にもいろいろ詠まれています。
  秋の雪これも客から貢ぎ物 

  秋の雪更けて衣桁に消え残り 
  秋の雪その日降つてはその夜消え 
  八朔の雪は質屋へ流れ込み 

 以上のことは、江戸検の参考図書「江戸の祭礼と歳事」はじめいろいろな本に書いてありますが、「江戸の祭礼と歳事」にはさらに「吉原三大景要」の一つ「俄」についても説明されています。 

8月1日から、九郎助稲荷の祭礼が始まり、「俄」が行われます。

俄は、8月中旬から9月中旬まで仲の町で毎晩、女芸者や幇間、若い者などが即興寸劇を演じて、大変華美風流だったと「江戸の祭礼と歳事」に書いてあります。

別の本によれば、安永から天明の頃、芝居好きの引手茶屋や妓楼の主人が俄狂言を作って仲の町を練り歩いたのが始まりとされています。

九郎助稲荷は、吉原に祀られていた5つの稲荷のひとつで、現在は吉原神社となっています。(右上段写真参照)

 なお、最後に問題です。

 「吉原三大景要」の一つは、今日書いた「俄」です。それでは、残りの二つは何でしょうか?

 正解は「江戸の祭礼と歳事」に書いてありますので、そちらをご覧ください。





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by wheatbaku | 2015-07-31 09:55 | Trackback
八朔 (江戸の祭礼と歳事)

 8月1日は「八朔」と呼ばれます。

 「八朔」、徳川家康が初めて江戸に入府した日であるということをご存知の方はかなりいると思います。

 もともと、8月1日は、昔から「田実(たのみ)の節」でした。

c0187004_11445109.jpgこの日は農家では今年収穫された稲などを神様に供えたり、主家や知人などに贈って、豊かな実りを祈願していました。

「たのみ」には「田の実」と「頼み」という二つの意味が込められていました。

八朔の頃は、二百十日など台風が襲来する時期にあたります。この時期を無事に過ごせるようにと八朔の日に神様に祈願しました。

それが、武家や町人にひろがり、「八朔のお祝い」と呼ばれる贈答が盛んに行われるようになったようです。

そして、天正18年の8月1日に徳川家康が初めて江戸に入ったことから、江戸時代には「八朔の祝儀」として盛大にお祝いが行われました。

そのため、東都歳事記には次のように書かれています。

八月朔日 八朔御祝儀、(五ツ時白帷子にて御礼あり)貴賤佳節を祝す。(今日を田実(たのみ)といひて、往古よりの佳節とすれども、東都にては、わけて祝すべき日なり、天正18年8月1日、台駕はじめて江戸に入らせ給ふ、かくてぞ四海昌平に帰し、萬民鼔腹して樂しむにあらずや、神恩たれか尊み祝し奉らざるべき、公にも五度の佳節より、わけて祝はせらるるとぞ聞えし。

東都歳事記によれば、五節句以上のお祝いがされたと書かれています。

この八朔の祝儀の際には、東都歳事記にも書かれているように装束は白帷子だったようです。

この日に白帷子を着るのは、8月の「節」を「白露」ということによるようで、東都歳事記には次のように書かれています。

元祿の頃、清原長須といふ人の編輯の中に、江城八朔の白かたびらは、八月の節を白露といふによるかといへり

 なるほど、二十四節気の「白露」に由来するとは知りませんでした。





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by wheatbaku | 2015-07-29 11:41 | 江戸の祭礼歳事 | Trackback
紺屋と二十六夜待ち(江戸の祭礼と歳事)
 今日も「二十六夜待ち」の続きです。
 
  「二十六夜待ち」を詠んだ川柳に次のような川柳があります。

一寝入り 寝て 高輪は月見なり
 二十六夜は月齢26の月ですが、月齢26の月の出は、深夜1時から2時ごろになります。
 そのため、一寝入りしてから月見をすると詠んでいるわけです。

三尊の弥陀を生酔い拝むなり
 阿弥陀三尊をよっっぱらいながら拝むということで、信仰心より娯楽の面が強い「二十六夜待ち」を詠んでいいるのでしょう。

 さらに、次のような川柳があります。

 車座に 紺の手の出る 六夜待ち
 月の出を 空色の手で 拝むなり
 六夜待ち 百染ほどな 手を合わせ
 海上を 百染ほどの 手で拝み

 やたらに「紺」や「空色」の手が詠まれています。
 また「百染の手」というのも出てきます。「百染」というのは安っぽい染色をいい、紺色にならない空色を指した言葉です。
 こうした手をしているのは紺屋の職人です。
 これらの川柳は、紺屋の職人が「二十六夜待ち」に大勢集まったものを詠んだ川柳です。

 二十六夜には、紺屋では、愛染明王をお祀りしたそうで、紺屋を中心に「六夜待ち」という講も結成されていたそうです。
   
 愛染明王は、もともとはインドの神様で梵名は「ラーガ・ラージャ」といい、「ラーガ」とは赤色・愛欲を意味することから「愛染明王」と訳されました。
 愛染明王の全身は赤色に塗られ、三目六臂(三つの目と六本の腕)の姿で、獅子の冠を戴き、不動明王のように忿怒の形相をしています。

 愛染明王は、その「愛染」という名前から、愛情を染め付けるという意味に理解され、女性の恋や愛に関する霊験が強調されました。
 そのため、江戸時代は遊女たちの信仰をあつめ、現在でも、水商売の女性たちから信仰を得ているそうです。
 一方、「愛染」という名前は「藍」を「染める」とも読めることから紺屋(染色業者)の信仰も集めました。
 そして、愛染明王の縁日が26日であったこともあって、愛染明王信仰が二十六夜待ちと習合し、紺屋が26日に愛染明王をお祀りするようになったようです。

 宮田登著「江戸の歳事記」によれば、藍玉問屋は江戸に36軒あって株仲間を構成し、これらにそれぞれ紺屋が関係していたそうです。
 そして、江戸だけでなく各地方都市の紺屋仲間たちが一斉に愛染明王を信仰していて、愛染明王は紺屋という職業集団の神様だったそうです。

 東都歳事記には、7月26日に「板橋日曜寺愛染明王開帳」とも書いてあり、26日に、愛染明王が信仰されていたことを記録しています。

 東都歳事記に載っている板橋の日曜寺は、正徳年間の開山といわれ、享保年間には、8代将軍の次男である田安宗武の帰依をうけていた寺院だそうです。
 ついでながら、田安宗武が屋敷を構えた田安台は高台にあることから、二十六夜待ちの名所にもなっていました。




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by wheatbaku | 2015-07-28 11:14 | 江戸の祭礼歳事 | Trackback
二十六夜待ち (江戸の祭礼と歳事)
 昨日は、7月26日でした。
 7月26日は、旧暦であれば「二十六夜待ち」という、「月見」の時季です。
 こんな暑い時に、「月見」などピンとこないと思います。ピンと来なくて当然だと思います。
 現在は新暦です。旧暦の7月26日は、今年の場合には9月9日です。
 この頃になると「月見」がピッタリしますが、重陽の節句の時季とも重なり、書くのを忘れそうです。

 そのため、江戸検のため、あえて、この時季に「月見」の話をしておきます。
 江戸時代は、七月二十六日の月見は「二十六夜待ち」といって大変盛大に行われた行事です。
 東都歳事記には次のように書いてあります。

 廿六夜待 高きに登り、又は海川の辺酒楼等に於て月の出を待つ。左に記せる地 は、分て群集する事夥しく、宵より賑へり。
 芝高輪・品川 此両所を今夜盛観の第一とす。江府の良賎兼日より約し置て、品 川高輪の海亭に宴を儲け、歌舞吹弾の業を催するが故、都下の歌妓幇簡女伶の属(たぐい) 群をなしてこの地に集ふ。
 或は船をうかべて飲宴するもの尠からずして、弦歌水 陸に喧し。
 築地海手深川洲崎、湯島天満宮境内、飯田町九段坂、日暮里諏訪ノ社辺、目白不動尊境内、西南に向て月を看るに便りあしけれど、此辺の輩は集へり。

 東都歳事記の挿絵は、湯島での「二十六夜待ち」です。(下記参照)
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 なぜ、こんなに「二十六夜待ち」が賑やかだったのか「絵本江戸風俗往来」に次のように書いてあります。

 二十六夜 この月二十六日の夜を二十六夜といいて、今夜の月の出は三尊の姿に上天すとかいいて、この三光を拝さばやと人々高台の地に、海の眺望をえらみて相集まり、時刻を待つ。

 そして、「絵本江戸風俗往来」の校注には、なぜ、二十六夜の月を信仰するか次のように解説してあります。

 七月二十六日の夜半すぎに出る月は、出しおに光が三つに分かれ、瞬時にしてまた一つに合するように見えるという。これを弥陀三尊の出現と見、実際にその光の中に阿弥陀・観音・勢至の三尊に姿が見えるともいわれた。そしてこれを拝むと幸運をうることができるとの信仰がかなり古くからあって、江戸では、特に二十六夜待ちの行事がさかんであった。


 ところで、江戸時代の初期には、七月だけでなく正月の二十六日にも月の出を待ったようです。
 しかし、正月は寒くて耐え難いので七月だけになったと東都歳事記に書いてあります。
 このことから、斉藤月岑は、東都歳事記の中で、「二十六夜待ち」が賑やかなのは、信仰心から起こったものではないと言っています。


 この二十六夜待ち」は過去の江戸検でたびたび出題されています。
 一例をあげると第一回目の2級の試験で次のような問題として出題されています。

 旧暦7月26日の夜は「二十六夜待ち」といって、品川や高輪では、歌舞音曲や酒宴を楽しみながらにぎやかに月の出を待ちました。深夜、海から昇る月を拝んだのですが、この月は何の出現と考えられていたでしょう?

 い)弁財天  ろ)東照大権現  は)天照大神  に)阿弥陀三尊

 
正解は、既に本文の中に書いてありますが、「二十六夜待ち」については、しっかり覚えた方がよいでしょう。




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by wheatbaku | 2015-07-27 11:17 | Trackback
江戸検講座第2講開かれました!

 昨日は、毎日文化センターの江戸検講座「共に学ぶ『江戸の祭礼と歳事』」第2講が開かれました。

 

c0187004_10021093.jpg 外気も35度を超える暑さでしたが、江戸検まで4ヶ月となり、そろそろ勉強を本格化させる時期ともなってきました。
 そのため、受講される皆さんの熱気が感じられる熱い講座となりました。

 受講される皆さんから数多くの質問が寄せられましたし、こちらからの質問に対しても素早い回答が返ってきました。

 受講いただいた皆さん、お疲れ様でした。

 昨日の講義では、テキストの「祭りだわっしょい!」江戸の祭礼と歳事」のうち「天下祭り」さらに「開帳」「富くじ」「相撲」について解説しました。

今年のお題のなかで、天下祭りの勉強は欠かせないので、天下祭についてすべて解説しました。

c0187004_09310271.jpgそのなかでも、天下祭の山車は種類が多く識別が大変なのですが、特に重要な「江戸型山車」について重点をおいて説明させてもらいました。

また、「祭礼を取り締まる人々」については、他に書いた書物がないことから、特に詳しく説明しました。

昨日の講座には確認テストもありました。「確認テスト」については、最初は驚きとブーイングありましたが、でも、熱心に取り組んでいただきました。(右上写真)


c0187004_09434272.jpg 受講者の皆さんも多くの情報を持っているので、受講者間の情報交換も取り入れました。


 情報交換では、安戸ひろみさんが、自分が書いた「はじめての御朱印ガイド」を紹介してくれました。

c0187004_09382407.jpgきれいな読みやすい御朱印についての入門書だと思います。

Amazonでの販売も好調とのことです。

参加者の皆さんからも好評のようで、講座の会場で購入する人も大勢いました。

講義終了後は、会場を変えての情報交換会です。

今回からは、江戸検が近づいたことから、本当の情報交換をやろうということにしましたが、初めて参加された方の自己紹介もあり、役立つ情報交換ができたと好評でした。

最後に参加者の記念撮影です。

ご参加いただいた皆さんお疲れ様でした。

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 この写真、マダムから借用しました。
 
 




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by wheatbaku | 2015-07-26 08:52 | Trackback
「正受院の奪衣婆」 (江戸の祭礼と歳事)
  今日は、「流行神」について書きます。
  「流行神」は「はやりがみ」と読みます。
  「流行神」ってどんな神様かご存知です?
  あまり知られていないだろうと思います。

c0187004_09390664.jpg  その「流行神」が、今年のお題の参考図書「祭りだわっしょい 江戸の祭礼と歳事」の中に書かれています。 後半に書かれているので、まだ、読んでいない方も多いだろうと思いますが、
 「流行神」とは、江戸学事典には次のように書かれています。

 特別な霊験が示されるのを契機として、いっせいにはやり楽車、あっと云う間に遠隔地までその名称が知られるようになり、人々の群参が一定期間つづく。しかしその後はすっかりすたれてしまい、次第に忘れ去れ、その地域でひっそりと祀られている神仏のあり様をさす。

 「江戸の祭礼と歳事」の中に、嘉永2年に「日本橋四日市の翁稲荷」「新宿正受院の奪衣婆」「お竹大日如来」が「流行神」となったと書いてあります。「新宿正受院の奪衣婆」は、以前から知っていましたし、何度か行ったことがありますが、しばらく行っていないので、海の記念日に高田富士に行った日に、新宿まで足を延ばしました。

c0187004_09401627.jpg 正受院は、東京メトロ「新宿御苑前」駅から徒歩5分で靖国通りに面した位置にあります。 正受院は、文禄3年(1594)に創建された浄土宗のお寺です。
 「正受院の奪衣婆」は、入り口得脇のお堂の中に鎮座しています。(右写真)

 奪衣婆というの、「三途の川」 のほとりに立っていて,亡者の衣類をはぎ取る鬼婆です。
 新宿区教育委員会の説明板によれば 「正受院の奪衣婆」は、小野篁の作であるとの伝承があり、また田安家所蔵のものを同家と縁のある正受院に奉納したとも伝えられているそうです。
 また、像底のはめ込み板には「元禄14辛己年奉為当山第七世念蓮社順誉選廓代再興者也七月十日」と墨書されており、元禄年間から正受院に安置されていたことがわかるそうです。

 この奪衣婆像は、片膝を立てていて、右手で握っているのは、亡者たちから奪い取った衣服です。
 頭から肩にかけて頭巾状に綿を被っているため「綿のおばば」とも呼ばれますが、これは、咳止めに霊験があるとされていて、綿は咳止めのお札参りに奉納したと伝えられています。
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 この奪衣婆が、幕末の嘉永2年(1849)頃大変はやり、江戸中から参詣人をあつめましたし、錦絵にも描かれました。
 「藤岡屋日記」には、大勢の参拝客が押し寄せてきて、正受院の僧が暴利を貪ったので、寺社奉行の脇坂淡路守からけん責を受けたことが書かれているようです。
 それほど、賑わったということですね。


赤印が正受院です。新宿三丁目からもそれほど遠くないですね。

 




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by wheatbaku | 2015-07-24 09:31 | 江戸の祭礼歳事 | Trackback
元祖富くじの宝泉寺(江戸の祭礼と歳事)

 水稲荷神社をお参りし、高田富士に登拝した後、宝泉寺に参拝しました。

c0187004_09403861.jpg 宝泉寺は、東京メトロ「早稲田」駅から徒歩5分、早稲田大学のキャンパスのすぐそばです。

宝泉寺は、平将門の乱を平定した藤原秀郷が創建したと言われています。

この宝泉寺は、江戸時代は、大変に繁栄しました。

c0187004_09405119.jpgそれは、富くじ興行が宝泉寺で開催されたからです。

富くじ興行というと「江戸の三冨」つまり感応寺、湯島天神、目黒不動が大変有名です。

しかし、「江戸三冨」で富くじ興行が行われたのは、江戸時代後期の文化年間からです。

宝泉寺では江戸時代初期から行われていました。

 この宝泉寺の富くじ興行は、鞍馬寺の富突興行を模して始めたと言われています。

 鞍馬寺でも、毘沙門天を祀る宗教行事として富興行が行われていました。

宝泉寺には毘沙門堂があり、藤原秀郷の念持仏の毘沙門天が安置されていました。

そうしたことから、江戸で最初に富くじが行われたようです。

毘沙門堂は、明治30年代まで宝泉寺南側の毘沙門山にあったが火事で消失しまったそうで、現在の宝泉寺境内にはありません。

c0187004_09412088.jpg現在は、本堂に慈覚大師円仁彫刻の毘沙門天を描いた第十二世住職の慈純の掛け軸が祀られています。右上写真

本堂は、 昭和 41年に建立されたとのことで、近代的な本堂でした。

c0187004_09472516.jpg本堂でお参りをしていたら、ここのおみくじは「富くじ」と書いてありましたので、思わず、ひとつ引いてきました。

お財布の中に入れておくと富が貯まるなど金運・勝負運に御利益があるそうです。

今週土曜日は、毎日文化センターの江戸検講座でちょうど「富くじ」の講義を行うので、皆さんに見てもらうと思っています。

c0187004_09444192.jpgまた、宝泉寺は、隣接していた水稲荷神社の別当寺でした。

水稲荷神社には、高田富士がありましたが、宝泉寺には、高田富士を築いた高田藤四郎(日行)のお墓があります。

きれいに整備されていてお花も手向けてありました。

 赤印が宝泉寺です。隣は、早稲田大学のキャンパスです。
 江戸時代には、早稲田大学の大隈重信の銅像のある辺りに本堂があったとか。




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by wheatbaku | 2015-07-23 09:39 | Trackback
高田富士(江戸の祭礼と歳事)
 梅雨明け後の暑い日が続きますが、皆さんいかがお過ごしですか?
その暑さの中、昨日は、早稲田にある水稲荷神社に行ってきました。

 

c0187004_12461401.jpg 水稲荷神社には、江戸で最初に築かれたといわれる「高田富士」があります。 その「高田富士」は、7月19日20日に執行される水神社の祭礼「富士祭」にしか開山されません。



 「高田富士」については、以前から一度は登ってみたいと思っていた富士塚ですが、今年の江戸検の参考図書「江戸の祭礼と歳事」にかなりのスペースをとって書かれていることもあるので、暑い最中に行ってきました。 


 水稲荷神社は、東京メトロ「早稲田」駅から徒歩10分ほどのところにあります。

 御三卿の一つ清水家の下屋敷跡につくれた「甘泉園公園」の南側にあります。


 

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ご由緒によると、水稲荷神社は、天慶4年(941)に 藤原秀郷が旧社地にあった古墳ともよばれる冨塚(とづか)に稲荷大神を勧請し「冨塚稲荷」とよばれました。元禄15年(1702)には御神木のおおきな椋の根本から霊水が湧きだし、眼病に利くとして江戸で評判となり、また、その際に、火難退散の神託があったことから、「水稲荷神社」と称されるようになったそうです。 社殿の前は、お祭りというのに右写真のように閑散としていました。
 聞く所による、祭りの本番は、夕方からとのことでした


「江戸名所図会」には「高田稲荷明神社」として挿絵とともに詳しく書かれています。


 「高田富士」は安永9年(1780)に、食行身勒の弟子の植木職人高田籐四郎(日行)が江戸の高田に10年ほどかけて築いたものです。
もともとは、現在の早稲田大学9号館の建っている場所にあったのですが、早稲田大学のキャンパス拡張のため、現在地に移転し築かれたものです。
 それでは、ちょっとスナップ風に写真をアップしていきます。


高田富士の入り口です 

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 高田富士の由来を書いた看板がありました。

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歌川広重が描いた高田富士の絵です。

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浅間神社が高田富士の麓にありました。

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高田富士の参道入り口です。
浅間神社の脇にあります。
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参道の途中です。

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頂上が見えてきました。頂上には「鉦」がありました。

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「鉦」はみんなの健康と幸せ・安全を願って7回たたきます。
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水稲荷神社の旧地の入り口です。
この道の奥には早稲田大学の9号館があります。
そこに、水稲荷神社があり、高田富士もありました。

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 赤印が水稲荷神社 青印が水稲荷神社の旧地 緑が東京メトロ「早稲田駅」










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by wheatbaku | 2015-07-21 09:39 | Trackback
富士講 (江戸の祭礼と歳事)

 皆さん、「富士講」って知っていますか?

 名前は知っている方が多いと思いますが、どんな組織かというのは話題になることは少ないように思います。

 しかし、今年の江戸検のお題「江戸の祭礼と歳事」では、この「富士講」も問題範囲の中です。

 そこで、今日は「富士講」の由来について書いてみます。

 富士講については、江戸検の参考図書「江戸の祭礼と歳事」そして「江戸学事典」に詳しく書かれていますので、それを参考に書いていきます。

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 江戸時代後期には「江戸八〇八講」と呼ばれるほど「富士講」が隆盛を誇りました。

 江戸で富士講をこれほどまでに発展させて中心人物は「食行(じきぎょう)身禄(みろく)」という人物でした。

 「食行(じきぎょう)身禄(みろく)」は通称「伊藤伊兵衛」という伊勢出身の油商人でした。

17歳のとき、富士講の五世行者月行に出会って富士信仰に入り、富士登山45度という大行者でした。

 「食行(じきぎょう)」とは、「食は元なり」という信念を表した名前で、「身禄(みろく)」というのは釈迦入滅後の56億7000万年後に地上に現れるとされている『弥勒菩薩』にちなんだ名前です。

 「食行身禄」は、従来の呪術的な加持祈祷で人を驚かす方法ではなく、

「人は心を平らにして、正直・慈悲・堪忍・情・不足を旨とし、各々の家職を熱心につとめるならば末の世は神の加護により倖せを得る」
 と言って説いて回りました。

 享保17年、西日本に大飢饉が起こり、享保18年には、江戸で初めての打ちこわしが起こり、米問屋の高間伝兵衛の店が襲われました。

 食行身禄は、庶民の食を奪った政治に反発し、世を救うために入定(にゅうじょう:宗教的自殺)することを決意しました。

享保18年、食行身禄は富士山の烏帽子岩で断食入定を始めました。

そして、高弟の田辺十郎右衛門父子に「三十一日の巻」を口述し、約一ヵ月後の7月13日に絶命しました。

遺骸はその場に埋葬され、現在は身勒神社がたっているそうです。

食行身禄入定の知らせは、十郎右衛門によって江戸に伝えられ、市中では瓦版が出たといいます。

 食行身禄の死後、江戸で、富士講は爆発的に拡大していきました。

 この勢いに怖れをなした幕府は度々禁令を出して弾圧を試みましたが、俗に「江戸八百八講 富士講八万人」と呼ばれるほど隆盛を誇るようになりました。




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by wheatbaku | 2015-07-17 16:44 | 江戸の祭礼歳事 | Trackback
盆棚 (江戸の祭礼と歳事)

昨日は、東都歳事記の7月15日には、「お盆」についてはあまり書かれていないことを書きました。


 そこで、守貞謾稿を見てみると『守貞謾稿』には「お盆」について次のように書いてありました。

 七月十五日を中元日と云う。

 今日盂蘭盆会を設く故に或は上略して盆と云ふ。

 盂蘭盆の始は斉明天皇三年、始めて盂蘭盆会を設く。

 『公事根源(書物の名前)』に云う。天平五年七月初て盂蘭盆を大膳職に備ふとあり。

 盂蘭盆と云うは、梵語なり。以下略

 守貞謾稿には、盆は「盂蘭盆」の略、梵語に由来し、日本での始まりは天平五年であると書いてあります。

 そして、盆棚の祭り方についても次のように書いています。

今世江戸にては大略仏壇中に祭るを略とし、専ら下図の如き棚を造り、四隅に青竹を立て、菰縄を張り、下には真菰筵を敷き、棚の周りには、青杉葉にて造りたる籬(まがき)と云うをもって、欄(てすり)のごとくにす。この棚上に、常には仏壇に置る位牌を取出し祭る。

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私が知っている限りでは、仏壇とは別に精霊棚を設ける家が多いように思いましたが、

仏壇の中に祭るのが略とかいてありますから、江戸時代には、仏壇に祭ることも行われていたのでしょう。

 菊池貴一郎の「絵本江戸風俗往来」には

 133日に魂棚をしつらえ、自家の先祖代々より有縁無縁の亡魂を祭り、出来秋の野菜果物の初物を供え、また、菩提寺より僧来りて看経を勤む。これを棚経という。棚経僧の出づる寺は小刹のみにして、大寺院よりは棚経に出づることなし。この魂棚のある中は、魚鳥の肉を食せず。勿論双親存在せる子等は精進に及ばず、俗に「盆知らず」といいたり。市中すべて魚鳥の肉を商うもの盆中は休業に同じ。16日より商いを始む。


 お盆のことを調べていて、祖先をお祭りするのは、現在では、お盆となっていますが、祖先を祭るのは、別に盆に限ったものではなかったということを知りました。

 守貞謾稿には、次のように書かれています。

『世事談(書物の名前)』に曰く、精霊(しょうりょう)を祭る事、昔は十二月晦日にも祭れり。

『徒然草』に、こと年の名残も心細けれ。亡き人の来る夜とて玉祭る業は此頃都にはなきを、吾嬬(東)の方には、なおすることにてありしこそ、云々。

守貞云う。今は東の方にも十二月の魄祭(たままつり)は行れず、いづれの頃廃せしか古きことなるべし。

守貞謾稿によれば、昔は、大晦日にも祖先を祭ったといいます。

しかし、『徒然草』には、都ではすたれてしまい、東国には残っていると書いてあるようです。

それも、守貞謾稿が書かれた江戸時代後期には、大晦日に祖先を祭る習俗は廃れてしまったようです。





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by wheatbaku | 2015-07-16 12:01 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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