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官職名を理解しよう(江戸検お役立ち情報⑤)

 江戸検の本試検まで、4日になり、明日・明後日は、江戸検前の最後の土曜日・日曜日となりました。

 受検される皆さん、頑張ってください。

 江戸検お役立ち情報、今日は官職名について書いてみたいと思います。

 江戸検の書取問題では、過去に、(井伊)掃部頭、(浅野)内匠頭、吉良上野介、(大石)内蔵助など、官職名を問う問題が出ています。

 また、有名な南町奉行大岡忠相は大岡越前守、北町奉行遠山金四郎も遠山左衛門尉と官職名で呼ばれることがあります。

 

 「掃部頭」「内匠頭」「越前守」を「かもんのかみ」「たくみのかみ」「えちぜんのかみ」と読めるけれど、どうして「頭」や「守」を「かみ」と読むのだろうと素朴に疑問に思う人もいると思います。

 また、「上野介」と「内蔵助」の場合は、なぜ「すけ」を「介」と「助」と書き分けるのだろうと不思議に思う人もいると思います。

 今日は、この疑問に答えてみようと思います。

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 貴族が政権を握っていた「律令制」の時代の官制では、官職を長官・次官・判官(三等官)・主典(四等官)の4階級に分けて、長官を「かみ」、次官を「すけ」、判官(三等官)を「じょう」、主典(四等官)を「さかん」と呼んでいました。

 これを「四等官(しとうかん)」と言います。

 

 「四等官」の読み方は、どの役所でも「かみ・すけ・じょう・さかん」と呼びます(多少の例外あり)が、表記は組織によって異なる漢字で書いていました。

 代表的な役所である「省」「寮」「国司」で説明すると、「省」は「卿・輔・丞・録」、「寮」では「頭・助・允・属」、国司は「守・介・掾・目」と書いていました。

 「省」には、中務省、式部省、民部省、治部省、兵部省、大蔵省、宮内省の八省がありました。

 「寮」には、掃部寮、内匠寮、内蔵寮、雅樂寮、大学寮、主水寮、主税寮、主殿寮、大炊寮などがありました。

 「掃部頭」は「掃部寮」の長官、「内匠頭」は「内匠寮」の長官、「内蔵助」は「内蔵寮」の次官、「雅樂頭」は「雅樂寮」の長官ということになります。

 

 国司は、68か国あった各国の役人で、長官の「守」は現在の県知事にあたり、次官の「介」は副知事にあたります。

 そのため、「越前守」は、越前国の長官すなわち県知事ということになります。

 「上野介」は、上野国の次官すなわち副知事ということになりますが、実は、上野国、上総国、常陸国の三国は「親王任国」といって、親王が長官になることになっていました。 

しかし、親王は、京都に滞在し三国に赴任することがほとんどなかったため、次官の「介」が実質的に長官でした。

 つまり「上野介」は、実質的な「上野国」の長官つまり県知事でした。

 ですから、「上野介」が「越前守」より格が低いということはないと考えてください。
 現に、徳川家康の側近で幕府初期の重鎮であった本多正純の官職名が「上野介」でした。また、佐倉惣五郎に苛政を訴えられた佐倉藩の藩主堀田正信も「上野介」を名のっています。

 長官名は「かみ」と呼ばれますが、例外があります。
 それが「職(しき)」と呼ばれる役所の長官名で、「職」の長官は「かみ」でなく「だいぶ」と呼ばれます。
 「職」には、大膳職、京職(左右あり)、修理職などがあります。
 この長官は、「だいぶ」と呼ばれ「大夫」と書きます。
 「たいふ」でなく「だいぶ」と濁りますし「たゆう」でもないので読み方は注意してください。
 次官以下は「亮・進・属」と書いて、基本通り「すけ・じょう・さかん」と読みます。
 「花燃ゆ」にしばしば登場した長州藩主毛利敬親の官職名は「大膳大夫
(だいぜんだいぶ)」で「大膳職」の長官です。


最後に遠山金四郎の官職名「左衛門尉」について書いておきます。

律令制下では、皇居を守る軍事組織に「近衛府」「衛門府」「兵衛府」があり、それぞれ左右に分かれていて、総称して「六衛府」と呼ばれていました。

この組織のうち「衛門府」と「兵衛府」の四等官の呼び名も「かみ・すけ・じょう・さかん」で、その字は「督・佐・尉・志」と書きました。

これでもう想像がつくと思いますが、「左衛門尉」というのは「左衛門府」の三等官「尉(じょう)」という官職名です。

 律令制下の官職については、細かいことが多々あるようですが、とりあえず江戸検に必要と思われることだけ書いてみました。江戸検を受検される皆さんのお役にたてば幸いです。


 


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by wheatbaku | 2015-10-30 09:56 | 江戸検定 | Trackback
鷗稲荷と半田稲荷(江戸の祭礼と歳事)

「祭りだわっしょい!江戸の祭礼と歳事」に書かれている能勢稲荷と半田稲荷を夏に訪ねていましたが、まだ、このブログに書いてないので、まとめて書きます。

鷗稲荷は、錦糸町から徒歩12~13分の距離にある能勢妙見山東京別院の境内に鎮座しています。

c0187004_13403059.jpg能勢妙見山東京別院は、関西の能勢妙見山の東京における別院です。

能勢妙見山東京別院は、旗本能勢頼直の本所の下屋敷に、安永3(1774)年に建立し妙見大菩薩のご分体をお祀りしたのが始まりだそうです。

 鷗稲荷は、江戸時代には、外神田にあった旗本能勢家の上屋敷に鎮座していました。

c0187004_13403970.jpg 能勢家の上屋敷は、切絵図をみると津藩藤堂上屋敷の東側にありますので、現在でいうと秋葉原駅の東側にあったことになります。

 この鷗稲荷は、狐憑きに霊験があるといわれ、ここで出される札は、表面を黒く塗りつぶした札で「能勢の黒札」と呼ばれていました。

この札は、狐に憑かれないように、あるいは憑いた狐を払う効果があるとして人気があったと「江戸の祭礼と歳事」に書いてあります。



 半田稲荷は、金町駅から徒歩10分程度で住宅街の中に鎮座しています。

c0187004_13404963.jpg 半田稲荷の創建は、和銅4年(711)とも永久年間(111317)ともいわれています。

和銅4年とすると1300年も前に創建されたという古い神社です。

c0187004_13421177.jpgこの神社が、疱瘡や麻疹に霊験があるとして広く信仰された神社です。

金町は、現在では、上野からそれほどかかりませんですが、江戸時代は徒歩ですので、一日がかりだったと思います。

しかし、麻疹流行のたびに多くの人がお参りしました。

半田稲荷は、赤い衣装を身に付けた「願人坊主」が、赤い幟を持って鈴を鳴らしながら江戸市中を廻りました。

c0187004_13405646.jpgこの「願人坊主」は、「江戸の祭礼と歳事」によれば、疱瘡にかかっていない子どもがいる家の前で、いくらかの金銭で稲荷の真言を唱え、祝言を述べて踊り、病除けの一文人形を置いていく、一種の芸人だったようです。

半田稲荷の境内には、願人坊主が神仏に祈願する際に水垢離した神泉遺構が残されています。

井戸枠には注連縄(しめなわ)が掛けられています。

 。

青印が半田稲荷神社です。

周囲の石柵の柱をよくみると、市川団十郎・尾上菊五郎など新富座の役者の名前も刻まれています。

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赤印が能勢妙見東京別院です。
この境内に能勢稲荷(翁稲荷)があります


青印が半田稲荷神社です











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by wheatbaku | 2015-10-29 12:37 | 江戸の祭礼歳事 | Trackback
住吉神社(江戸の祭礼と歳事)

 先日の「鬼平散歩(in鉄砲洲・佃島)」では、「祭りだわっしょい! 江戸の祭礼と歳事」に載っている「住吉神社」もご案内しました。

 そこで、今日は「住吉神社」をご紹介します。

 ところで、江戸検を受検される方も「祭りだわっしょい! 江戸の祭礼と歳事」のどこに載っているのという疑問のある方もいると思いますが、157ページに小さく「佃島住吉明神祭礼」として載っています。(念のため)

 住吉神社は江戸初期に、摂津国西成郡(大阪市)佃村の漁民が江戸に移住した後、正保3年(1646年)に現在地に創建された佃島の鎮守です。

c0187004_09074126.jpg徳川家康が上方にのぼった際に、神崎川を渡れずに難渋していた時、佃村の漁師が漁船をだして助けたことから、徳川家康が江戸に入府した際に江戸に招かれて、江戸湾での漁業の特権をえたと言われています。

 この佃村から来た漁師たちが、正保元年に幕府から鉄砲洲東側の干潟を拝領し、その半陸地を埋め立て陸地としました。そして、故郷に因んで「佃島」と命名したと伝えられています。

そして、正保3年には、佃村の鎮守であった住吉神社を勧請しています。

住吉神社というとすぐに思い起こすのが、現在の大阪市住吉区にある住吉大社ですが、佃島の住吉神社は、住吉大社から直接分霊を受けて勧請したのではなく、佃村の住吉神社を勧請したようです。

現在、昔の佃村の住吉神社は、田蓑神社と名前を変えているようです。

住吉神社は、江戸時代には「住吉明神」と呼ばれていました。

「江戸名所図会」には、「住吉明神社」として次のように書かれています。

佃島にあり。祭る神、摂州の住吉の御神に同じ、神主は平岡氏奉祀す。正保年間、摂州佃の漁民にはじめてこの地を賜りしより、ここに移り住む。本国の産土神なるゆえに、分社して、ここにも住吉の宮居を建立せしとなり。(後略)

その祭礼は「佃祭」とも呼ばれていました。

「佃祭」は、歌川広重「名所江戸百景」の「佃しま住吉の祭り」にも描かれていますし、落語に「佃祭」という演目にもあるぐらいですので、昔から有名だったのだと思います。

佃祭は、江戸時代には、6月28日と29日に祭礼が行われました。

c0187004_09080352.jpgこれは、住吉神社が鎮座したのが正保3年の8月29日であったことによるそうです。

また、東都歳事記によると、龍虎の頭と神輿の海中渡御が有名だったようです。

六月二十八日 佃島住吉明神祭礼 

今明日修行(神主平岡氏 、小の月は名越祓と同日なり、龍虎の頭渡す。二十九日未の刻、神輿を海中に舁き入れ奉る) (後略)

龍虎の頭は、現在も残されていて、住吉神社近くの展示館に展示されていて、常時見ることができます。(右上写真)

c0187004_09075695.jpgまた、広重の「佃しま住吉の祭り」をよくみると海中に神輿が向かっていく様子が描かれています。

中央の幟旗の左手奥に神輿が見えます。

この絵は、住吉神社の境内から海方向を見て描かれています。

ですから、神輿が海に入ろうとしている場面だと思います。

住吉神社の神輿は「八角神輿」と呼ばれる八角形の神輿です。

八角神輿は、東都歳事記には「八角形」とは載っていないのですが、江戸時代のものが社殿奥の御神輿庫に展示されています。

説明板によると、天保9年(1838)に芝大門の万屋利兵衛により製作されたそうです。
c0187004_09081011.jpg 八角の神輿は関東では珍しく、天皇の高御座を模したと言われています。

現在の住吉神社の例祭は毎年8月6日、7日に行なわれます。

しかし、3年に1度行われる本祭りは、8月6日7日に近い土曜日曜を含む4日間行われます。

この時、獅子頭の宮出しや八角神輿の宮出し、神輿を船に載せて氏子地域を廻る船渡御が行なわれます。

現在は、江戸時代のものは文化財として保存するため、新しい八角神輿が作られ渡御しています。

昭和37年までは海中渡御が行なわれていたそうですが、現在は、船渡御となっています。

You Tubeに今年の「佃祭り」の様子が投稿されていました。

それによると、八角神輿が住吉神社の鳥居を通って担がれ、人足寄場跡を示す灯台がある佃公園の岸から船に乗せられた渡御していました。



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by wheatbaku | 2015-10-28 09:15 | 江戸の祭礼歳事 | Trackback
鉄砲洲稲荷神社(江戸の祭礼と歳事)

 土曜日の「鬼平散歩in鉄砲洲佃島」では、鉄砲洲稲荷神社をご案内しましたが、鉄砲洲稲荷神社は、江戸検の参考図書「祭りだわっしょい!江戸の祭礼と歳事」にも記載されてある神社ですので、今日は詳しく紹介しようと思います。

 鉄砲洲稲荷神社は、「八丁堀駅」から約5分の所にあります。

c0187004_09542979.jpg鉄砲洲稲荷神社は、古い歴史をもつ神社ですが、何度も遷座しています。

社伝によれば、平安時代初期の承和8年(841)に江戸湾の奥にお祀りしたのが最初のようです。

その後、埋め立てが進行して、現在の京橋のあたりへ遷座し、さらに室町末期の大永年中に今の新京橋の近くに遷座し、八町堀稲荷神社と呼ばれました。(私見ですが、八丁堀が築造されたのは、徳川家康が江戸に入府した後ですので、それ以降に八丁堀稲荷神社と呼ばれたものと思います)

c0187004_09544018.jpgその後も埋め立てが進行して海岸が東へ移りましたので、寛永元年には鉄砲洲に遷座しました。

鉄砲洲といっても、現在の場所ではなく、八丁堀と現在の亀島川の合流点の南岸です。


鉄砲洲の由来については2説あります。

一つは地形説です。徳川家康入府のころは、すでに鉄砲の形をした南北およそ八丁の細長い川口の島だったので、その名がついたという説です。

右上の幕末の切絵図の本湊町から明石町まであたりが鉄砲洲ですが、確かに鉄砲の形にみえますね。

もう一つは、寛永のころ、幕府の鉄砲方井上氏と稲富氏により、ここで大砲の試射場があり、射撃演習をしていたので、この名が生まれたという説です。

c0187004_09544872.jpg江戸時代の鉄砲洲稲荷神社は、広重の名所江戸百景の「鉄砲洲稲荷橋湊神社」と「江戸名所図会」に描かれています。

右が名所江戸百景の「鉄砲洲稲荷橋湊神社」です。

手前の帆柱の奥左手に赤く描かれているのが鉄砲洲稲荷神社です。

 その右の橋が、八丁堀に架かっていた「稲荷橋」です。

稲荷橋は、鉄砲洲稲荷のそばにあるので稲荷橋と名付けられたと思われます。

現在は、道路脇に「稲荷橋」の橋標が残されています。

下の絵が「江戸名所図会」に描かれている鉄砲洲稲荷神社です。
 「祭りだわっしょい!江戸の祭礼と歳事」にも掲載されています。
 お持ちの方は、そちらもご覧ください。

 鉄砲洲稲荷が稲荷橋の橋詰にあることや南を向いていたこと、富士塚もあることがわかります。

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江戸時代、鉄砲洲の先の隅田川河口は、江戸第一の港で、江戸で消費する米などの物資を運ぶ船のほとんどが集まってきました。そのため、鎮座地周辺は江戸湊と呼ばれました。

そこで、鉄砲洲稲荷神社は、湊神社とも湊稲荷とも呼ばれました。

鉄砲洲稲荷は、江戸時代は大変有名なお稲荷さんで、お稲荷さんの番付でも西の大関に位置づけられるほどのお稲荷さんでした。

このことは、「祭りだわっしょい!江戸の祭礼と歳事」にも記載されています。

 鉄砲洲稲荷神社 が、現在地に移転してきたのは、明治元年です。

 江戸時代の鎮座地が川のすぐそばであったので、水の被害が少ない場所に移転したいといった事情もあったようです。

社殿の西北隅に富士山の溶岩で築いた富士塚があります。

c0187004_09550786.jpgここの富士塚は、寛政元年9月に富士講の人たちが、稲荷橋のたもとにあった場所にお祀りされたものです。

明治になって、鉄砲洲稲荷が遷座したのに伴い、明治7年にこちらに移り、その後、何度か移転を重ねたうえで、昭和3年にここに造られました。

 高さは5.4メートルあります。

 東日本大震災で被害を受けたため、現在は、登拝禁止となっていますが、近いうちに修復工事が開始される予定です。


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by wheatbaku | 2015-10-26 09:52 | 江戸の祭礼歳事 | Trackback
「鬼平散歩(in鉄砲洲佃島)」に行ってきました

 昨日は、毎日文化センターの「鬼平散歩(in鉄砲洲佃島)」が行われました。

 快晴のもと絶好の行楽日和で史跡散歩を楽しんできました。

 ご参加いただいた皆さん、ありがとうございました。

 昨日のコースは次のようなコースです。

八丁堀駅 ⇒ 桜川公園(八丁堀跡) ⇒ 高橋 ⇒ 於岩稲荷田宮神社 ⇒ 南高橋 ⇒ 稲荷橋跡 ⇒ 鉄砲洲稲荷神社 ⇒ 鬼平揺籃の地 ⇒ 佃大橋 ⇒ 佃島 ⇒ 石川島人足寄場跡 ⇒ 住吉神社 ⇒ 月島駅
 

 主な案内場所をご紹介します。

c0187004_11243201.jpg 有名な「八町堀」の名前は、長さが八町あったからだと言われています。

 明治以降「桜川」と名前を変え、戦後、すべて埋め立てられました。

 その一部は「桜川公園」として区民の憩いの場となっています。

 その「桜川公園」の一画に、八丁堀の由来を書いて説明板が設置されています。

於岩稲荷田宮神社は、江戸後期の4代目鶴屋南北「東海道四谷怪談」に登場するお岩さんを祀る神社です。

c0187004_11245579.jpg四谷にも於岩稲荷田宮神社があります。

四谷の於岩稲荷田宮神社は江戸時代に創建された神社ですが、新川の於岩稲荷田宮神社は明治になって創建された神社です。

明治の名優市川左団次から、「新富座周辺に移転してほしい」という要望もあり、明治12の火事で四谷の社殿が焼失したのを機会に現在地に移転したものです。

c0187004_11250471.jpg南高橋は、もともとは隅田川に架かっていた旧両国橋そのものです。

旧両国橋は明治37年(1904)に架橋されています。

そのため、明治期の貴重な鉄橋として知られ、東京で2番目に古いトラス橋だそうで、全国でも6番目に古いそうです。

 もとの両国橋は、三つのトラスからできた橋でしたが、その中央部のみ利用したそうです。

鉄砲洲稲荷神社は、江戸検の参考図書「祭りだわっしょい!江戸の祭礼と歳事」にも取り上げられている江戸時代大変有名だった神社です。

c0187004_11251646.jpg江戸時代の稲荷番付によると西之方の大関に位置づけられるほどのお稲荷さんでした。

鉄砲洲稲荷神社は、社伝によれば、平安時代初期の承和8年(841)古い歴史をもつ神社ですが、何度も遷座しています。

明治元年(1868)現在地に移転しました。

鉄砲洲稲荷神社には、富士塚が残されていますので、お参りされた後、富士塚をご案内しました。

c0187004_11252914.jpgむかしの富士塚は「江戸名所図会」にも描かれたほど有名なものでした。

ここの富士塚は、寛政元年9月に富士講の人たちが築いたものですが、神社の移転等もあり、何度か場所を写し、現在の富士塚は、昭和3年(1928)に築かれたものです。

富士塚は登るのが禁止されていましたので、登れなくて、皆さん、残念がっていました。

 鬼平こと長谷川平蔵宣以は、5歳の時に、父親の長谷川平蔵宣雄の赤坂の屋敷と鉄砲洲にあった津田氏の屋敷が交換されることとなり、鉄砲洲に引っ越してきました。

c0187004_11311626.jpgそして、19歳に本所に引っ越すまでの間、鉄砲洲で暮らしていたとされています。

その鬼平が育ったといわれる場所は、現在市街地再開発の工事の真っ最中です。

再開発地には、タワーマンションが建てられるそうで、まもなく、景色は一変することになるでしょう。

目印は都バスの「湊三丁目」のバス停です。

佃島は、摂津国佃村からきた漁師たちが、正保元年に幕府から鉄砲洲東側の干潟を拝領し、その半陸地を埋め立て陸地に造成し、故郷に因んで「佃島」と命名したと伝えられています。

c0187004_11275825.jpg佃島で有名なものは「佃煮」です。

そこで、佃煮の老舗もご案内しました。

佃島には、江戸時代創業の老舗が三軒あります。

「天安」、「佃源田中屋」「丸久」の三軒です。

写真は、その一つ、「天安」です。変有名ですが、天保8年の創業のお店で、初代は「安吉」といったそうです。そこから「天安」という屋号になったそうです。

皆さんいいお買いものができたと喜んでくれました。

ついで今回の鬼平散歩のメインである「石川島人足寄場跡」をご案内しました。

人足寄場というのは、無宿人の授産更生施設です。

c0187004_11254277.jpg鬼平は人足寄場の造営を建議して認められ、そのまま寄場の責任者となりました。

鬼平は、隅田川河口にある石川島周辺の埋め立て寄場を建設することにしました。

なぜ、川の中の小島が選ばれたかというと、逃亡を防ぐためです。

そして、埋め立てには、有名な一大歓楽街であった三俣富永町の土砂が使用されました。

右写真の背景となっている石川島の灯台は、もとは慶応2年(1866)に、石川島人足寄場奉行清水純畸が、隅田河口や品川沖航行の船舶のため、人足寄場南端に築いた六角二層の常夜燈をモチーフとして造られたものです。

最後に住吉神社です。

住吉神社は江戸初期に、摂津国西都郡(大阪市)佃村の漁民が江戸に移住した後、正保3年(1646年)に現在地に創建された佃島の鎮守です。

c0187004_11255327.jpg江戸時代、龍虎の頭が巡行する佃祭りが有名でした。

現在は、有栖川宮幟仁(たかひと)親王が書いた陶製扁額と水盤舎が中央区民文化財に登録されています。   

右写真は、その説明板を読む参加者の皆さんですが、写真左手に写っている鳥居に陶製扁額が掲げられています。

散歩の後は、月島もんじゃ街で、「もんじゃパーティ」です。

大勢で入れる店が少ないので3グループに分かれて別々の店に入りました。

私は当然お酒を飲むグループの中です。

「もんじゃ」は慣れていないひとばかりで「どうする!どうする!」と騒いでいると、おもむろに「鬼平後」さんが、「小さい頃食べたことがある」といって、作り方を教えてくれました。

c0187004_11260476.jpgそのお蔭でおいしい「もんじゃ」と「お好み焼き」を食べることができました。

「もんじゃ」を作ることと食べることに夢中になっていて、写真をとろうと思った時には「もんじゃ」を食べ終わった後でした。そこで「お好み焼き」を撮ってみました。
 「もんじゃ」と「お好み焼き」、おいしかったです。

「もんじゃ」を作ることと食べることが忙しくてあまりお酒が飲めないと皆さんぼやきながらも結構飲んでいて、皆さん上機嫌の飲み会でした。

満足そうな皆さんの笑顔に「今回もお疲れ様でした!」

 また、江戸検を受検される人たちにとっても、良い息抜きとなったようで、皆さん異口同音に「明日から頑張ります!」と元気よく帰っていきました。

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by wheatbaku | 2015-10-25 11:20 | Trackback
「馬琴と月岑」講演会に行ってきました

 現在、日比谷図書文化館で「馬琴と月岑~千代田の”江戸人“~」が開催されています。

 その一環で、一昨日10月21日に講演会「馬琴・月岑と神田祭」が開催され、その講演会に行ってきました。

 講演会の講師は、江戸検の参考図書「祭りだわっしょい!江戸の祭礼と歳事」の著者でもあり、江戸楽アカデミーでも講師をされた滝口正哉先生です。

c0187004_19132057.jpg 滝口先生には個人的にも大変お世話になっていますのでので、講演会を楽しみにして申込みましたが、運よく当選ということで、一昨日、講演を聞くことができました。

 一昨日の講演は、千代田区に住んでいた文化人である曲亭馬琴と斎藤月岑の日記から神田祭の部分を抜き出して解説していただきました。

 曲亭馬琴は、元飯田町に住んだ後、明神下に自宅を構えていました。

c0187004_19135738.jpg 明神下は、当然神田明神の氏子ですが、元飯田町は、中坂の坂下に馬琴の旧居があり、神田祭の行列が通る道筋です。

 そのため、しばしば馬琴の日記には神田祭について書かれているそうです。

 「馬琴の記述は、神田祭の外にいた人の様子がわかって興味深い」という滝口先生の解説でしたが、馬琴一家が、一家総出で祭見物に出かけている様子がよくわかりました。

 次いで、斉藤月岑の日記について解説がありました。

 斉藤月岑は、神田雉子町の名主ですので、神田祭を執り行う側です。

 しかも名主ですので、祭礼を取り締る立場でもあるので、仕事は大変だったようです。

 滝口先生は、「斎藤月岑は、神田祭の4か月前から準備に入っている。幕府からの指導もあり、気が抜けない日々であったのではないかと思う。祭礼以外の仕事はできなかったのでないか」とおっしゃっていました。

滝口先生の準備していただいた資料では、嘉永2年と安政6年の日記がピックアップされていました。

それによると、嘉永2年には6月8日に神田祭礼掛を命じられています。

神田祭が9月15日ですから、3か月も前から準備が始まっています。
 そして最後に奉行所でお褒めを受けているのが、10月2日です。

本当に4か月間、神田祭に取り掛かっていますね。

安政6年の日記では、より詳しく書かれています。

例えば7月18日には、祭礼行列の山車をリストアップしています。

また、4日後の7月22日には、付祭の仕様書ができあがっています。

もう2カ月前には、祭礼行列の概要が決定しているんですね。

そして、8月13日には、祭礼の費用を集め終わっています。
 費用の集金も早いですね。

9月1日には、祭礼番付が出来上がって、その配布先リストを作成しています。

そして、いよいよ祭礼当日の9月15日ですが、この日、月岑は、田安御門での行列の繰り入れに立ち会っています。

「この立ち合いは、時刻や衣装が祭礼番付通りかどうか厳しくチェックされるので大変気をつかう仕事なので、この時、斉藤月岑は、相当気を使っただろう」というのが滝口先生の説明でした。

9月18日は、八丁堀の与力同心の屋敷にお礼参りにいっています。これもおもしろいですね。

特に興味深かったことが、9月12日に町奉行所に呼び出されていて、外国人が神田祭を見物することで相談を受けていることです。
 滝口先生は、「通常、奉行所からの指示は町年寄を通して行われるもである。それが、直接、奉行所に呼び出すことは異例の対応で、奉行所も外国人の扱いに相当気を使ったのではないか」と解説されました。

いかにも幕末らしいことだなと思いましたし、外国人が神田祭を見ていることを江戸っ子はどう思っただろうと思いました。

そういえば「祭りだわっしょい!江戸の祭礼と歳事」にもアメリカ人ヒュースケンが山王祭を見物したことが書いてありましたね。

神田祭や山王祭について勉強してきていたこともあって、一昨日の講演は、非常に面白い内容でした。

滝口先生、ありがとうございました。


c0187004_08574148.jpg江戸検講座を受講していただいた「鬼平後」さん、Mおじさん、K女史も講演を聞いていたので、講演後、一緒に展示のほうも見てきました。
 右写真は展示会場入り口です。
 こちらも興味深い内容でした。
 次の日程で行われる展示の解説もあるそうですので、いずれかの日に聞きにいこうと思っています。
 展示解説の日程
 10月31日(土)13時30分~、
  11月11日(水)18時30分~
    18日(水)12時30分~
 詳細は 文化財特別展の開催 をご覧ください。

なお、11月3日までは現在の展示で、4日以降に一部展示を入れ替えるそうです。
 江戸検を受検される方は、試験当日がチャンスかも・・・です。














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by wheatbaku | 2015-10-23 09:03 | Trackback
日枝神社宝物殿(日枝神社⑤ 江戸の祭礼と歳事)
今日は、日枝神社についての最後の記事です。
今日は宝物殿について書きます。

c0187004_09244325.jpg 日枝神社の宝物殿は、神門の手前にある手水舎の脇にあります。(右写真)

 その宝物殿には、貴重な日枝神社の宝物が展示されています。

 今日は、それら宝物の中から主要なものをご紹介いたします。

 宝物殿に展示されている宝物の撮影は禁止されていますが、このブログへの画像の掲載については日枝神社様のご許可をいただいて掲載させていただいております。(従って、画像の転載は固くお断りさせていただきます。)

 この掲載に際してご尽力いただいた権禰宜伊久様に改めて御礼申し上げます。

 まず、初代将軍徳川家康、2代将軍秀忠、3代将軍家光の朱印状をご紹介します。

 先日の模擬試験でも出題しましたが、日枝神社は、家康から江戸城内に5石の神領を拝領し、2代将軍秀忠の時に、その5石と引き換えに100石寄進を受け、3代将軍家光の時に、さらに500石の寄進を受け、合計で600石となっています。

 その3代の朱印状をはじめ歴代12代の朱印状を日枝神社は現在も所蔵されているそうです。

 そのうち、初代家康の朱印状と3代家光の朱印状が宝物殿内のガラスケースに展示されています。 
 鬼平散歩の時にご案内しましたが、参加者の皆さん「本物の朱印状をみたのは初めてです」と大変喜んでいただきました。

 なお、家康・家光の朱印状の後ろ側には、墨摺りの祭礼番付が展示されていますが、宝物殿を訪ねたら、祭礼番付もご覧なってください。
家康の朱印状

c0187004_08333907.jpg

秀忠の朱印状
c0187004_08395366.jpg
家光の朱印状
c0187004_08420358.jpg

 宝物殿には、獅子頭が一対展示されています。

この獅子頭は、3代将軍家光の習字に用いる帳面・冊子を貼って作ったといわれる獅子頭です。
 山王祭では、神輿とともに獅子頭が渡御しました。

山王祭の行列でこの獅子頭が見えると江戸っ子は土下座したので、「土下座の獅子頭」と呼ばれたそうです。

c0187004_09035624.jpg

 また。山王祭山車人形が2体展示されています。
 神功皇后像と竹内宿禰像で文政5年に製作されたものだそうです。

c0187004_08372903.jpg

 楊洲周延(ようしゅう ちかのぶ)の浮世絵も展示されています。

楊洲周延とは、明治時代に活躍した浮世絵師で、本名は橋本直義で、楊洲は号です。

高田藩の武士出身ですが、歌川国芳や三代歌川豊国に学び、代表作として「千代田の大奥」「千代田の御表」があります。

宝物殿には「千代田御表 山王祭礼上覧」と「江戸風俗十二ヶ月之内 六月 山王祭」が展示されています。
「千代田御表 山王祭礼上覧」

c0187004_08342129.jpg


以上、主要な宝物を紹介しまたしたが、そのほか、宝物殿には、刀剣が多数展示されています。

 私は、あまり刀剣の知識がないので解説することができませんが、お好きな方もいらっしゃると思いますので、お好きな方はご注目ください。



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by wheatbaku | 2015-10-22 09:05 | 江戸の祭礼歳事 | Trackback(1)
第10回「江戸の祭礼と歳事」模試正解

 今日は、先週金曜日に出題した模擬試験の正解をアップします。

 今回は、間違がっている説明を指摘する問題を多くしました。

 そのため、幅広い知識が必要なので、正解を見つけるのが結構大変だったことだろうと思います。

 今回は、問題を難しくするために、間違い指摘の形式にしたのではありません。

 多くの知識を確認していただき、総復習していただこうと思ったのです。

 ですから、正解の数が少ないとがっかりしないで下さい。

 知らないこと・不確かなことを確認して復習するきっかけとしてください。

1

山王権現については、夏検には出題されていませんが、本試検では必ず出題されると思っていますので、要注意です。

①山王権現の神領は、合計で600石でしたので間違いです。参考図書参照P14

②山王祭の行列が初めて江戸城内に入ったのは寛永12年で将軍家光の時ですので間違っています。参考図書参照P16

③山王祭の行列は山車行列の最後に神輿3基が渡りましたので間違っています。参考図書参照P26

④御雇祭についての説明は正しいので、答えはこれとなります。参考図書参照P33

2

夏検では「取り締る人々」からは出題されていませんが、1級で出題される可能性が高いので、よく勉強しておいてください。

①説明文の通りです。参考図書参照P30

②説明文の通りです。参考図書参照P36

③説明文の通りです。参考図書参照P37

④天下祭の行列の江戸城内への繰り入れには、徒目付と小人目付が立ち会うと参考図書に書いてあります。徒目付・小人目付は目付の下僚で、目付とは異なる役職です。これが間違いです。 参考図書参照P37

3

浅草蔵前牛頭天王は、「団子天王」と呼ばれていました。参考図書参照P52

過去のブログでも紹介してあります。
 団子天王 をご覧ください。 

4

富くじについての参考図書の説明はかなり詳しいので、江戸の富くじの知識として読むという面でも大変参考になります。よく読んでおくとよいと思います。

①江戸で富くじが最初に行われたのは牛込戸塚の宝泉寺でしたので間違いです。参考図書参照P60

②説明文の通りです。参考図書参照P60

③説明文の通りです。参考図書参照P61

④説明文の通りです。参考図書参照P62

5

相撲もかなり出題しやすい項目だと思っています。よく勉強しておいてください。

①説明文の通りです。参考図書参照P66

②説明文の通りです。参考図書参照P66

③説明文の通りです。参考図書参照P67

④同じ藩の抱え力士同志の取り組みはありませんでしたが、同部屋対決はありましたので、この説明文は間違っています。参考図書参照P68

6

寄席は、江戸時代後期に非常に盛んになりましたが、天保の改革を大きな制限をうけています。

それについて詳しく参考図書にかいてありますので、その部分を選択肢の中に織り込んであります。

①説明文の通りです。参考図書参照P73

②天保の改革で、演じるのが許された出し物は神道・心学・軍書講釈・昔噺でした。軍書講釈が漏れていますので、これが間違っています。参考図書参照P73

③説明文の通りです。参考図書参照P73

④説明文の通りです。参考図書参照P74

7

「聖と俗の空間」は、浅草と吉原・猿若町の関係について今まであまり触れられていない視点で書かれていると思います。ちょっと注目です。

①説明文の通りです。参考図書参照P81

②説明文の通りです。参考図書参照P82

③浅草寺は、浅草に三座が移転してくることに当初は反対していたので、この説明が間違いです。参考図書参照P82

④説明文の通りです。参考図書参照P82

8

「江戸神仏願懸重宝記」は、これまで馴染みのない書物ですので、結構難しい項目です。

しかも夏検では出題されていません。だからといって油断は禁物だと思います。

ここは、要注意です。よく読んでおいたほうがよいと思います。

①「錐大明神」- 説明文の通りです。参考図書参照P86

②「源覚寺」- 説明文の通りです。参考図書参照P86

③「笠森稲荷」- 疱瘡平癒を願う際には土の団子を供えますので、これが間違いです。P87

④「高尾稲荷」- 説明文の通りです。参考図書参照P88

 

9

「稲荷信仰と稲荷社」について夏検では出題されていません。

しかし、江戸では「伊勢屋・稲荷に犬の糞」と呼ばれるほど多い神社です。

これも出題可能性が高いのでよく勉強しておいてください。参考図書参照P91

c0187004_16282879.jpg選択肢①三囲稲荷は東之方大関で、過去何度も出題されています。

選択肢②鉄砲洲稲荷が西之方の大関です。鉄砲洲稲荷は、24日の「鬼平散歩in佃島」でご案内する神社です。

選択肢③能勢稲荷は鷗稲荷とも呼ばれる稲荷です。

選択肢④下谷稲荷は現在下谷神社と名前を変えています。

10 

「流行神」というのは、あまり馴染みのない項目ですので、理解しにくい項目だと思います。しかも夏検では出題されていません。しかし、この項目は要注意だと思います。

 覚えるのが難しいからといって軽視するのは危ないと思います。

よく読んでおきましょう。

 嘉永2年の流行神は②翁稲荷 ③正受院の奪衣婆 ④お竹大日如来です。

選択肢①半田稲荷は麻疹流行のたびに人々が群参しましたが、嘉永2年の流行神ではありません。

参考図書参照P96

11

 伊勢参りは、過去にも出題されていますので、要注意です。

①伊勢御師の最大の収入源だったものは、檀家の人々を伊勢神宮へ導き、自分が経営する宿坊に宿泊させることでした。参考図書参照P103

②説明文の通りです。参考図書参照P103

③説明文の通りです。参考図書参照P104

④説明文の通りです。参考図書参照P105

12

 富士講は、江戸で非常に盛んでした。そこで、富士山信仰についても復習しておいてください。

①説明文の通りです。参考図書参照P107

②説明文の通りです。参考図書参照P108

③説明文の通りです。参考図書参照P109

④富士山の山開きは、現在は7月1日ですが、江戸時代には6月1日でした。富士講の部分だけでなく年中行事の方にも書かれていますので覚えておいてください。参考図書参照P109、P134

13

「厄災と慰霊」もあまりなじみのない項目です。なんで「江戸の祭礼と歳事」の参考図書に載っているのだろうと疑問に思った方もいるかもしれません。

 そういう疑問のある項目こそ要注意だろうと考えこの問題を出題しました。

①惣五郎が直訴したのは4代将軍家綱です。参考図書参照P114

②説明文の通りです。参考図書参照P114

③説明文の通りです。参考図書参照P114

④説明文の通りです。参考図書参照P115

14

 「江戸のおもな祭礼と歳事」から、夏検で「くらやみ祭」とも呼ばれる「府中六所明神祭礼」が出題されています。

 そこで、東京で有名な神社の祭礼を覚えてもらうため選択肢としてあります。 

①水天宮参り  説明文の通りです。参考図書参照P151

②湯島天神祭礼  説明文の通りです。参考図書参照P153

c0187004_16291642.jpg③佃島住吉明神祭礼では龍虎の頭が巡行しました。24日に開催する「鬼平散歩in佃島」では、これをご案内します。その前に右の写真でご案内です。参考図書参照P156

④王子権現祭礼 説明文の通りです。参考図書参照P157

15

今年は大阪でも江戸検が行われるので、西日本の祭礼にも念のため注意しておいたほうがよいと考えて、西日本の祭礼に関心をもってもらうため、あえて西日本の祭礼を選びました。

①和歌祭 説明文の通りです。参考図書参照P167

②津和野の鷺祭 説明文の通りです。参考図書参照P167

③小倉祇園太鼓 八坂神社に参籠した小倉藩主は細川忠興です。小笠原忠真は細川家が熊本に転封された後に入封した小倉藩小笠原家の初代藩主です。参考図書参照P169

④長崎くんち  説明文の通りです。参考図書参照P169


 以上、長い文章で、すみませんでした。

 読んでいいただいてお分かりになると思いますが、問題と選択肢とも、参考図書に記載されている順に並べてあります。

 総復習しやすいように、そうしてありますので、是非活用してください。


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by wheatbaku | 2015-10-20 09:38 | 江戸の祭礼歳事 | Trackback
「干支(かんし)」を覚えよう

 「江戸検お役立ち情報」として江戸検受検のための諸々の基礎知識を先々週書きました。

暗記項目で大変だろうと思っていたのですが、意外と好評で多くのアクセスをいただいたり、よくわかったというメールをいただいたりしました。

 それに意を強くしましたので、また、続編をいくつか思いつくままに適宜書いていきます。

 今日は「干支(かんし)」についてかきます。

 

前回の江戸検お役立ち情報は「十干を覚えよう」という記事を書き、干支を覚えるにはまず十干を覚えることが必要だと書きました。

 そして、10日余りがたちましたので、今日は「干支」について書きます。

 「干支」は「えと」と一般的に読まれますが、江戸検の問題では、ふりがなが「かんし」とふられています。

十干は、先日書いたように次の10個です。
 熱心な人は、もう漢字で書ける方もいらっしゃると思います。

(こう) (おつ) (へい) (てい)

()  己()  庚(こう) (しん) (じん) ()

 そして、干支に必要なのが十二支です。

 十二支は、「ね・うし・とら・う・・・」と言葉で言うのは簡単ですから、漢字で書けることがポイントになります。
 
漢字で書くと次のようです。

 子(ね)  丑(うし) 寅(とら) 卯(う)
 辰(たつ) 巳(み)  
午(うま) 未(ひつじ)
 申(さる) 酉(とり) 戌(いぬ) 亥(い)

 

c0187004_09315225.jpg 十干と十二支が漢字で書けるようになると、次に「干支」を覚える段階になります。 
 しかし、60ある「干支」を一度に覚えるのは大変だと思います。
 でも、「干支」の作り方がわかると覚えやすいように思います。

 「干支」はどのように作られているかについて「こよみ読み解き事典」には、次のように書かれています。

十干と十二支を、それぞれ初めより一つずつ順繰りにとって組み合わせていく。

 まず甲と子、次に乙と丑、丙と寅、丁と卯、と順々に作っていくと、10番目に癸酉ができる。ここで十干は終わりになるから、また甲に戻り、十二支の方はそのまま11番目の戌をとって甲戌、次に乙亥とする。亥で十二支の方は終わるから、また初めに戻り、子をとり乙の次の丙とで丙子を作る。

 このようにして組み合せていくと、60の干支ができる。これを六十干支という。

 読んで意味がわかりますか?

 ポイントは冒頭の「十干と十二支を、それぞれ初めより一つずつ順繰りにとって組み合わせていく」という簡単なことなのですが、一度読んだだけでは難しいかもしれません。


 「干支」の作り方は、「こよみ読み解き事典」通りなんですが、私は私なりに次のやり方で「六十干支表」を作って「干支」を覚えました。
 参考になるかわかりませんが、一応「六十干支表」の作り方を書いてみます。

 まず一マス空けて、十干を6回書きます。

 ブログで説明する都合上、その一マスに順に①から⑫まで番号をつけていきます。

 これは、後で十二支に対応させるためです。

 そうすると次のようになります。

甲① 乙② 丙③ 丁④ 戊⑤ 己⑥ 庚⑦ 辛⑧ 壬⑨ 癸⑩

 甲⑪ 乙⑫ 丙① 丁② 戊③ 己④ 庚⑤ 辛⑥ 壬⑦ 癸⑧

 甲⑨ 乙⑩ 丙⑪ 丁⑫ 戊① 己② 庚③ 辛④ 壬⑤ 癸⑥

 甲⑦ 乙⑧ 丙⑨ 丁⑩ 戊⑪ 己⑫ 庚① 辛② 壬③ 癸④

 甲⑤ 乙⑥ 丙⑦ 丁⑧ 戊⑨ 己⑩ 庚⑪ 辛⑫ 壬① 癸②

 甲③ 乙④ 丙⑤ 丁⑥ 戊⑦ 己⑧ 庚⑨ 辛⑩ 壬⑪ 癸⑫

 次の作業として、順に①に子、②に丑、③に寅、④に卯、⑤に辰、⑥に巳、⑦に午、⑧に未、⑨に申、⑩に酉、⑪に戌、⑫に亥をそれぞれに入れていきます。

 すると次のような表ができあがります。

 これが「六十干支表」です。

 甲子 乙丑 丙寅 丁卯 戊辰 己巳 庚午 辛未 壬申 癸酉

 甲戌 乙亥 丙子 丁丑 戊寅 己卯 庚辰 辛巳 壬午 癸未

 甲申 乙酉 丙戌 丁亥 戊子 己丑 庚寅 辛卯 壬辰 癸巳

 甲午 乙未 丙申 丁酉 戊戌 己亥 庚子 辛丑 壬寅 癸卯

 甲辰 乙巳 丙午 丁未 戊申 己酉 庚戌 辛亥 壬子 癸丑

 甲寅 乙卯 丙辰 丁巳 戊午 己未 庚申 辛酉 壬戌 癸亥

 以上、私なりの「干支」の覚え方を書きました。
 口頭で説明すると理解しやすいのですが、ブログで書くとどうしても難しくなってしまいます。

いくらかおわかりいただけたでしょうか?

最初は難解だと感じると思いますが、一度覚えてしますと、意外と簡単だというのが私の感想です。





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by wheatbaku | 2015-10-19 09:20 | 江戸検定 | Trackback
第10回「江戸の祭礼と歳事」模擬試験問題

 今日は、江戸検のお題に関する今年最後の模擬試験を出題します。

c0187004_13003950.jpg

 夏の江戸検では、2級3級のみとはいえ、参考図書「祭りだわっしょい!江戸の祭礼と歳事」から、ほとんどの問題が出題されています。

 そこで、今回は、参考図書から、全問題を出題します。

参考図書の総復習として利用下さい。
 
従来出題していない項目からも出題したため、問題数が15問となっています。そのため、今年の模擬試験問題は、総数で105問出題したことになります。
 いくらかでもお役にたったのなら幸いです。

正解は、来週火曜日にアップします。

1、山王権現と山王祭について書いた次の説明で正しいものはどれでしょう?

①山王権現の神領は、徳川家康が五石、2代将軍秀忠が百石を寄進し、さらに3代将軍家光が五百石を寄進し、合計で650石であった。

②山王祭の行列が初めて江戸城内に入ったのは元和元年で将軍秀忠の時である。

③山王祭の行列は山車行列の途中に神輿をはさむ形式であった。

④御雇祭は、幕府が氏子以外の町に命じて出させる出し物である。

2、天下祭は、大規模な祭礼であったため、幕府も取締を強化していました。

天下祭の取り締まりについて書いた次の説明で間違っているのはどれでしょう?

①祭礼番付は、事前の取り決め通り祭礼が行なわれているかチェックするものだった。

②天下祭では、町奉行所は祭礼取扱掛名主を任命し氏子町の出し物全般を監督させた。

③町奉行所の祭礼出役は山王・神田・赤坂氷川の祭礼当日、行列の巡行に際して取り締まりを行なうのが主な任務だった。

④天下祭の行列の江戸城内への繰り入れには目付が立ち会った。 

3、浅草蔵前の牛頭天王の祭礼は、6月8日に行われました。

 神輿には、榊と四神鉾の行列が加わり、氏子の家々では団子を付けた笹を神前に奉納しました。

 この祭礼のため、浅草蔵前牛頭天王は、別名で呼ばれましたが、その別名は次のどれでしょう?

 ①榊天王 ②四神天王 ③笹天王 ④団子天王

4、富くじについての次の説明で間違っているのはどれでしょう?

①江戸で富くじが最初に行われたのは谷中感応寺であった。

②「御免富」が開始された時の将軍は8代将軍吉宗だった。

③「銭富」から「金富」へ移行された元文~宝暦期の富札1枚の販売価格は金一分であった。

④「江戸の三富」(感応寺・目黒不動・湯島天神)で富くじが開始されたのは、輪王寺と寛永寺の経営を救済するためだった。

5、相撲について書いた次の説明で間違っているのはどれでしょう?

 ①勧進相撲は集客力の高い寺社で行われ芝神明宮でも行われたことがある。

 ②当初、勧進相撲には土俵がなく人垣のなかで取り組みをした。

 ③土俵に近い土間より桟敷席が高級な席であった。

 ④同部屋対決や同じ藩の抱え力士同志の取り組みはなかった。

6、寄席は江戸っ子に大変人気があり、天保の改革直前には211軒の寄席が確認されているほどでした。

それでは、寄席について書いた次の説明で間違っているのはどれでしょう?

 ①文政~天保期の寄席は、昼夜交代制で7日目が区切りだった。

 ②天保の改革で、出し物は神道・心学・昔噺に限られた。

 ③天保の改革では江戸市中の15か所と、9か所の寺社境内での営業だけが認められた。

 ④天保の改革では寺社における寄席は各々1か所に制限されたが、浅草寺だけは3か所の設置が許可された。

7、浅草は吉原が近くにあるうえに、新たに造成された猿若町に江戸三座が移転させられました。そのため、浅草は、聖と俗の渾然とした町でした。

 これについて書いた次の説明で間違っているのはどれでしょう?

 ①スイスから来日したエメェ・アンベールは、浅草寺に吉原遊女たちの絵馬が飾られていることに興味を抱いた。

 ②吉原の仮宅が浅草寺と関係のある町に設置されたこともある。

 ③浅草寺は、参拝客が増えるので、当初から浅草に江戸三座が移転してくることに賛成していた。

 ④猿若町に移転後の中村座の初日に上演された演目は浅草寺に伝わる伝説をもとにした「金龍山誓礎(きんりゅうざんちかいのいしずえ)」だった。

8、「江戸神仏願懸重宝記」には、いろいろな願懸け対象が載っています。

それを中心に願懸けの方法として供物・断ち物・返礼などを決められた方法で行われたものがあります。次の組み合わせで間違っているのはどれでしょう?


 ①「錐大明神」- 3年間「鰯・ひしこ・ごまめ・たたみ鰯」などを口にしない。

 ②「源覚寺」- 願懸けする際に、「こんにゃく」を供える。

 ③「笠森稲荷」- 米の団子を供えて疱瘡平癒を願う。

 ④「高尾稲荷」- 祠に供えられた櫛を借りて、平癒後は櫛を倍にして奉納する。

 

9、「江戸の稲荷大明神番付」は、天保期ごろの江戸市中の稲荷を格付けしたものです。

 行事は、妻恋稲荷など5稲荷で、勧請元は王子稲荷となっています。

 それでは、西之方の大関となっている稲荷は次のどれでしょう?

 ①三囲稲荷 ②鉄砲洲稲荷 ③能勢稲荷 ④下谷稲荷  

10、江戸時代も幕末に近づくと異国船の接近が頻発したり天保の改革が失敗するなどして、漠然とした社会不安のなかで流行神現象が起こりました。

嘉永2年には複数の神仏が流行神となりましたが、次のなかで嘉永2年の流行神でなかった神仏はどれでしょう?

①半田稲荷 ②翁稲荷 ③正受院の奪衣婆 ④お竹大日如来

11、伊勢参りについて書いた次の説明で間違っているのはどれでしょう?

①伊勢御師は、いわば旅行斡旋業者であるが、伊勢神宮の神職だったものが商人化したもので、大神宮の御札が最大の収入源だった。

②伊勢参りする女性は嫁に家の実権を譲った40代~50代の人が多かった。

③オランダ商館の医師エンゲルベルト・ケンペルは、抜け参りの様子を「江戸参府旅行日記」に書き残した。

④犬だけの伊勢参りも行われ、1年ほどかけて会津の白犬が伊勢にお参りし帰国した例も記録されている。

12、富士講について書いた次の説明で間違っているのはどれでしょう?

①江戸で富士講を拡大させたのは食行身禄(伊藤伊兵衛)である。

②富士講は江戸庶民に熱狂的に迎え入れられ、俗に「江戸八百八講、信者八万人」と呼ばれた。

③江戸の富士塚の初めは、高田藤四郎らが10年近くかけて築いた「高田富士」である。

④富士山の山開き(7月1日)には多くの参拝客が富士塚を訪れた。

13、佐倉惣五郎義民伝説について書いた次の説明で間違っているのはどれでしょう?

①惣五郎は佐倉藩領の村役人で藩の苛政を3代将軍家光に直訴した。

②惣五郎を祀る「口の明神」が建てられた場所は平将門が城を築いた地とされている。

③惣五郎の百回忌に「宗吾道閑居士」の諡号を与えたのは堀田正亮だった。

④神田明神に祈願した時にみた夢に導かれ3代目瀬川如皐と佐倉に出向いて「東山櫻荘子」をつくった歌舞伎役者は市川小団次である。

14、江戸では特徴のあるさまざまな祭礼と歳事が行われました。その特徴ある祭礼・歳事について書いた次の説明で間違っているのはどれでしょう?

 ①水天宮参り ― 参詣者は水難除け・安産を願い、錠または錠と椿を描いた額を納めた。
 ②湯島天満宮祭礼 ― 砥餅という砥石の形の餅を神前に供え氏子にも配った。

③佃島住吉明神祭礼 ― 2体の獅子頭が巡行し神輿を海中に担ぎ入れた。

④王子権現祭礼 ― 参詣人は神前に小さな鎗を納め、ほかの人が納めた鎗を火災盗難除けの守りとして持ち帰った。

15、日本全国で江戸時代に起源・由来をもつ祭礼が現在も多く行われています。

その祭礼について書いた次の説明で間違っているのはどれでしょう?

①和歌祭 ― 紀州東照宮の完成の翌年元和8年に、紀州藩主の徳川頼宣が、徳川家康の霊を慰めるために行ったのが最初の紀州東照宮の大祭 

②津和野の鷺祭 ― 戦国時代に起源を持ちながら一時中断していたものを寛永20年に津和野藩2代藩主亀井茲政(これまさ)が復活させたもので、弥栄神社の例大祭で奉納される。

③小倉祇園太鼓 ― 元和4年の干ばつ・疫病・水害を憂えた小倉藩主小笠原忠真が八坂神社に参籠したところ平穏を取り戻したためお礼として催したことに始まる八坂神社の例大祭

④長崎くんち ― 寛永11年に二人の遊女が神前に謡曲「小舞」を奉納したことに始まる諏訪神社の秋季大祭 



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by wheatbaku | 2015-10-16 11:37 | 江戸の祭礼歳事 | Trackback
  

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