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本年もありがとうございました!

 今年も早いもので大晦日となりました。

 今年もご愛読いただきありがとうございました。

 このブログを書き始めて8回目の大晦日となりますが、今年は、大変うれしいことがいろいろありました。

 一つは ブログ来訪者が50万人を超えたことです。

 二つめは、江戸文化歴史検定で、一緒に勉強した人たちから大勢の合格者が出たことです。

 三つめが、毎日文化センターで開講している「気ままに江戸散歩」が充実してきたことです。

 まず一点目ですが、お蔭様で、10月には来訪者が50万人を越えました。

 その後も、毎日お読みいただく方は400人を超えていて、多い日には1000件を超えるアクセスをいただいたこともあります。

そうしたことから、来訪者は順調に増え続け、数日中に53万人になろうとしています。

 大変多くの方にお読みいただきありがとうございました。

 続いて、二点目ですが、先日の交流会の記事( 「江戸検受検者交流会(兼祝勝会)が開催されました!」 )で紹介したように、名の方が江戸検1級に合格しました。

 「一緒に勉強している人たちから、今年こそは合格者が出てほしい」と念願していましたが、それが実現して本当にうれしかったです。

 交流会等では、私のお蔭という感謝の言葉を多数いただきましたが、私は勉強をする環境を整えているだけ、実際は、合格に向けて努力してきた方々の精進の賜物と思っています。

 多くの合格者がでたので私も大変うれしいのですが、一番うれしいのは合格された皆さん自身と思います。
 合格された皆さんにとっては、今回迎えるお正月は格別のお正月になるだろうと思います。

 三点目の「気ままに江戸散歩」ですが、毎日文化センターの「気ままに江戸散歩」は、私が江戸検1級に合格した後、本格的な史跡散歩として開講した講座ですので、私自身の思い入れはかなりあります。

 お蔭様で、当初は数名であった受講者も、現在では、常に定員を上回る申し込みがあります。

 しかも、大部分がリピーターの方で気心も知れていることから、私自身も楽しみながら散歩しています。


 この講座を開講していることから、今年2月には毎日新聞に掲載していただきました(「史跡案内の様子が毎日新聞に掲載されました!」)が、このことを一番喜んでくれたのは「気ままに江戸散歩」受講者の皆さんでした。


 これも大変うれしいことでした。

 このようにお蔭様で今年一年大変充実した年を過ごすことができました。

 これも多くの皆様のお蔭だと感謝しています。
 そして感謝しながら年を越そうと思っています。

 読者の皆様も良いお年をお迎えください。



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by wheatbaku | 2015-12-31 09:44 | Trackback
「怒る富士」の主人公・関東郡代伊奈忠順(江戸の災害と復興)

  今日は「怒る富士」の続編です。

c0187004_10330506.jpg 「怒る富士」の主人公は、関東郡代伊奈忠順です。

 この小説を新田次郎がなぜか書くようになったか?
 それは、「怒るの富士」のあとがきを読むとよくわかります。

 「怒る富士」のあとがきの概略を書いておきます。

 私(新田次郎)は、富士山山頂観測所の勤務で、昭和7年から昭和12年まで、年に3か月か4か月富士山で暮らした。

 宝永噴火と代官伊奈半左衛門の話は、強力(ごうりき)たちの口を通して最初に耳にした。

 宝永噴火のため田畑が砂に埋まり、農民が餓死に瀕しているとき代官伊奈半左衛門は、駿府にある幕府の米蔵を開けて飢民を助けたが、その咎を受けて幕府に捕えられ、江戸に送られて、死罪になったという話に私は感動した。
 私は「富士山頂」「芙蓉の人」など富士山頂と関係のある小説を書いたが、もっと大きなスケールで富士山を書きたいと思った。
 私は伊奈半左衛門忠順の人物から調査を始めた。

 関東郡代としての業績はかなりはっきりしているが、駿府の米蔵を開けて飢民を救ったという記録は何処にもなかった。
 しかし、駿東郡内を調査していると伊奈半左衛門の伝説は、伝説というよりも固定観念として根強く残っていることにまず驚いた。
 江戸時代から伊奈半左衛門を祭った小祠があちこちにあったが幕府の眼をおそれて例祭日を設けなかったなどという話は、伊奈半左衛門の死がなにか異常であったことを思わせた。

 伊奈半左衛門が切腹したという記録はないが、調べて行けば行くほど、その死が尋常なものではなかったように思われて来た。

 小説「怒る富士」は資料倒れするほと資料を集めた。そしてその引用を明らかにするよう努めた。
 私としては今までになく気張った小説であった。小説としての興味よりも、真実のとしての興味に、何時の間にか引張りこまれていた。
 いい仕事をしたという満足感はあった。

 あとがきを正確に書いたわけではありませんが概略を書きました。
 もし「怒る富士」を読む機会がありましたら、あとがきから読むのもよいと思います。

 このあとがきは、すごいあとがきで、新田次郎が、この作品に相当の思い入れを込めて書いたということがわかります。
 また、
新田次郎は、その出来栄えにも満足しているということもわかるように思います。

 

 さて、幕府が、駿東郡59か村を「亡所」にするという場面があります。
 「亡所」というのは、先にかいたように「災害などで人が住めなくなる場所」ということです。

人は住めない土地となるので、そこに住む百姓たちは税を納める必要はないということになります。

一見、幕府が被災地を配慮して、「亡所」に指定しているかのように思われがちですが、これは、配慮したわけではなく、そこで生活していた百姓たちを救済しなくなるということです。

新田次郎は、「怒る富士」の中で、亡所の意味を次のように書いています。

「山野が一面火山灰に覆われていて、復興開発ができないから、住民たちは何処にでも勝手に離散して生活しろと幕府の奉行はいう。
 しかし、百姓は、どこの国にいく方便もなく、ただただ餓死を待つばかりとなった。


 こうした無為の救済策をとることに関東郡代・伊奈忠順は納得しません。

 現にそこに住んでいる人がいる限りそれを救済しようとするのです。

 そのため、適法でないやり方で、駿府の米蔵を開かせるのでした。
 米蔵を開くということは百姓を救済することであり、幕府の「亡所」という施策に対する抵抗となります。
 そして、責めを一身に背負って切腹して果てるのでした。
 

 ところで、「亡所」とされた駿東郡59か村の百姓の嘆きの場面を読んだ際には東日本大震災による福島第一原発の事故により避難をよぎなくされた人々を思い起こしていました。

そして、もし新田次郎が今も生きていたら、福島第一原発の事故をどう見るだろうかとも思いました。



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by wheatbaku | 2015-12-30 08:52 | Trackback
「怒る富士(新田次郎)」読了(江戸の災害と復興)

 江戸検の平成28年度の「今年のお題」は『江戸の大変~江戸の災害と復興~』と発表されましたね。

 詳細が発表されていませんが、自然災害と火事がお題の中心になるようです。

 

 いずれ参考図書も出版されることと思いますが、お題の勉強を始めた方もいることと思います。

 私も、いくらか本を捜しましたが、「今年のお題」自体の全体像がわかりませんので、軽々にご紹介できるわけでもないので、ご紹介できる時がきたらご紹介したいと思います。

c0187004_10330073.jpg 現在は、のんびりと読んで楽しいものを読んでいますが、「今年のお題」に関係する素晴らしい本を読了したので、今日は、その本をご紹介します。

 その書名は新田次郎著「怒る富士」です。

 新田次郎は富士山頂観測所に勤務していた経験があることから、「富士山頂」「芙蓉の人」など富士山について書いた小説が多くあります。

 「怒る富士」もその一つです。

 「怒る富士」は、富士山の宝永噴火の被害を受け荒廃した麓の村々を救援するために奮闘し、最後は非業の死をとげる関東郡代伊奈忠順(ただのぶ)の姿を描いた小説です。

c0187004_10330506.jpg 当然、「怒る富士」は小説ですので、登場人物は架空の人物もいますし、史実とは異なることもあります。

 しかし、宝永の大噴火を背景として書いているため、富士山の大噴火のすさまじさやその復興の困難さなどがよく理解できる小説です。

 時代小説としても楽しめますし、「今年のお題」の勉強にも役立つものだと思います。

 富士山は、宝永4年(1707) 11月23日に噴火始めましたこれが宝永の大噴火とよばれる噴火です。

 この噴火は、富士山の頂上ではなく富士山の七合目付近で起きました。

c0187004_10331194.jpg その噴火口は宝永噴火口と言われ、噴火口のそばに出来た小山は宝永山と呼ばれ、富士山の瘤のような形として現在も残されています。(右写真)
 さらに上空から写すと火口がハッキリとわかります。(右下写真)
c0187004_10351105.jpg この噴火により、富士山の東側にあたる駿河国駿東郡と相模国足柄上郡と足柄下郡は大量の火山灰が積もりました。

 特に富士山に近い駿東郡59ケ村には、大量の砂が積もり、須走村では1丈(約3メートル)も積もったといいます。

 皆さん、3メートルも火山灰が積もった状態を想像できますか?

 田畑はもとより、山林、河川を問わず、あらゆる地表に3メートルの火山灰が積もるというのは、なかなか想像できません。

 こうした被害を受けて、被害地の百姓たちは小田原藩に直訴します。小田原藩は当面の救済として2万俵のお救い米を出します。しかし、根本的な救済を行える財政事情になく、幕府は、駿東郡59ケ村をはじめ足柄上郡・足柄下郡など約6万石を天領とし、さらに駿東郡59ケ村を亡所(ぼうしょー災害などで人が住めなくなる場所)と決します。

 天領になったため、この代官として任命されたのが関東郡代伊奈忠順です。

 伊奈忠順は、伊奈忠次以来の関東郡代として百姓の救済を企図します。

 幕府も甚大な被害をこうむった駿東郡や足柄上郡・下郡を救済するため、勘定奉行の萩原重秀は、1万石につき2両の拠出を命じます。

 しかし、富士山噴火被災地救済のために集められたお金ですが、幕府は財政状況が厳しかったため、萩原重秀は、その一部しか被災地救済に利用しませんでした。

 しかも、富士山が大噴火した時期は綱吉政権の末期であり、微妙な権力バランスの変化が表れてきました。

その政争の影響を受けて、救済策が思うように採用されません。

 救済が遅々として進まない中で、百姓たちは疲弊していきます。

救済の重要性を認識しない幕閣が多い中で、孤立無援な伊奈忠順は、様々な手づるを頼りにして、柳沢吉保、荻生徂徠、新井白石などに、懸命に救済策の必要性を訴え、一年ごとのわずかな救済策の承認をとっていきます。

 しかし、幕府の全面的な支援のない、そのばしのぎの救済策では、伊奈忠順が如何に孤軍奮闘しようとも被害を受けた駿東郡59ケ村の復興が進むはずがありません。

 噴火後4年たった正徳元年(1711)の冬には、駿東郡59ケ村の百姓全員が餓死するかもしれないという絶望的な状況に追い込まれます。

 この状況下で、伊奈忠順は、幕府の正式な許可を得ずして駿府の米蔵から5千俵の米を運びだし被害地に配給するという最終手段をとります。

 この処置が幕閣の知る所となり、その責任を追及され、伊奈忠順は、全ての罪を背負って、切腹して果てます。翌年正徳2年(1712年)2月29日のことです。

 「怒る富士」は、富士山の噴火から伊奈忠順の切腹までを伊奈忠順を主人公として描いたものです。

 

 時代は、宝永の大噴火が起きた時代は、ちょうど綱吉政権から家宣政権への過渡期にあたり、政治の表舞台では、綱吉の死去、柳沢吉保の引退、家宣の将軍就任、間部詮房・新井白石の政治への関与、朝鮮通信使の来朝など目まぐるしい変化がありました。

 そのため、政治面にだけ目が奪われがちです。
 私も、今まで、こうした政治面だけの歴史しかわかりませんでしたが、その裏側で、富士山東麓の百姓たちは、餓死という深刻な局面に立たされて、幕府の救済がなされていなかったということを知り深く考えさせられました。

 江戸検の「今年のお題『江戸の災害と復興』」の勉強としてはもちろんですが。関東郡代伊奈家が代官中の代官と呼ばれ、江戸市民に深く尊敬された理由も理解できるすばらしい小説だと思います。



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by wheatbaku | 2015-12-28 10:27 | Trackback
安政南海地震と「稲むらの火」(江戸の災害と復興)

 昨日、11月5日が「世界津波の日」に制定されたという報道がされました。

 

 右下写真は、昨日の読売新聞の一面です。

 記事の中身は次のように書かれています。

c0187004_10430463.jpg国連総会は22日、11月5日を「世界津波の日」に制定する日本提出の決議案を全会一致で採択した。決議採択により、11月5日は正式に国連が定める「世界津波の日」となる。

早期警報や住民避難など津波対策の重要性を広めるため、各地で啓発運動が行われることになる。日本は活動を後押しする方針だ。

 日本で11月5日は「津波防災の日」に制定されており、決議案提出は今年3月に仙台市で開かれた第3回国連防災世界会議を受けて行われた。過去に津波の被害にあった南米チリや東南アジア各国のほか、アフリカなど内陸国も含めて、140か国以上が共同提案国となった。

 11月5日は、安政南海地震があった1854年のこの日(旧暦)、津波の到来に気づいた和歌山県の村人が稲束に火を付けて他の村人を高台に避難させた故事にちなむ。

 最後の段落に注目してください。

 なぜ、これを今日の記事にしたか、江戸検に関心のある方はおわかりになると思います。

 「今年のお題『江戸の災害と復興』」に関係するからです。

 安政年間は、大地震が連続して起きました。

 安政元年(正しくは嘉永7年)11月4日に「安政東海地震」、そして翌日の11月5日に「安政南海地震」が起き、翌安政2年10月2日に「安政江戸地震」が起きています。

 安政南海地震は、安政元年(正しくは嘉永7年)11月5日に発生したマグニチュード8.4の巨大地震で、関西から四国、九州東岸の広い範囲で大きな被害をもたらしました。

 2日にわたる巨大地震の発生で、太平洋岸の各地を津波が襲いました。

江戸検協会のHPに載っている出題例の問5もこの時のことを題材にしています。

紀伊半島の紀伊田辺領内では津波の高さは推定7mにも達したといいます。

この大津波に際して、収穫したばかりの稲むら(収穫した稲を乾燥させるため積み上がたもの)に火をつけて、村人を救ったのが、紀伊国広村の浜口儀兵衛です。

この話をモデルに書かれたのが「稲むらの火」で、昭和12年から昭和22年にかけて小学国語読本の中に掲載されました。

小学校の副読本ですので、分量も多くありませんので、全文を最後に書いておきました。江戸検を受検しようと思う方は、最後まで読んでみてください。

c0187004_10433303.jpg

なお、私は、この話を第8回江戸検の「今年のお題『江戸の食文化』」を勉強する中で知りました。
 「稲むらの火」のモデルとなっている浜口儀兵衛は、ヤマサ醤油の7代目当主でした。

醤油の歴史を調べる中で、これを知りましたが、「江戸の災害と復興」でお目にかかるとは思いませんでした。

浜口儀兵衛は梧陵(ごりょう)という号をもっています。その浜口梧陵の生涯をえがいた「津波救国──〈稲むらの火〉浜口梧陵伝」という本も出版されています。
 もちろん、ヤマサ醤油のホームページにも「稲むらの火」のことが掲載されています。

稲むらの火

 「これはただ事ではない」とつぶやきながら、五兵衛は家から出てきた。今の地震は、別に烈しいという程のものではなかった。しかし、長いゆったりとしたゆれ方と、うなるような地鳴りとは、老いた五兵衛に、今まで経験したことのない無気味なものであった。

 五兵衛は、自分の家の庭から、心配げに下の村を見下ろした。村では豊年を祝うよい(宵)祭りの支度に心を取られて、さっきの地震には一向に気が付かないもののようである。

 村から海へ移した五兵衛の目は、忽(たちまち)そこに吸付けられてしまった。風とは反対に波が沖へ沖へと動いて、見るみる海岸には、広い砂原や黒い岩底が現れてきた。

「大変だ。津波がやってくるに違いない」と、五兵衛は思った。

このままにしておいたら、四百の命が、村もろとも一のみにやられてしまう。もう一刻も猶予は出来ない。

「よし」と叫んで、家にかけ込んだ五兵衛は、大きな松明(たいまつ)を持って飛び出してきた。そこには取り入れるばかりになっているたくさんの稲束が積んである。

「もったいないが、これで村中の命が救えるのだ」と、五兵衛は、いきなりその稲むらのひとつに火を移した。風にあおられて、火の手がぱっと上がった。一つ又一つ、五兵衛は夢中で走った。こうして、自分の田のすべての稲むらに火をつけてしまうと、松明を捨てた。まるで失神したように、彼はそこに突っ立ったまま、沖の方を眺めていた。日はすでに没して、あたりがだんだん薄暗くなって来た。稲むらの火は天をこがした。 山寺では、この火を見て早鐘をつき出した。

「火事だ。庄屋さんの家だ」と、村の若い者は、急いで山手へ駆け出した。続いて、老人も、女も、子供も、若者の後を追うようにかけ出した。

 高台から見下ろしている五兵衛の目には、それが蟻の歩みのように、もどかしく思われた。やっと二十人程の若者が、かけ上がってきた。彼等は、すぐ火を消しにかかろうとする。五兵衛は大声で言った。

「うっちゃっておけ。大変だ。村中の人に来てもらうんだ」

 村中の人は、追々集まって来た。五兵衛は、後から後から上がってくる老幼男女を一人一人数えた。集まってきた人々は、もえている稲むらと五兵衛の顔とを、代る代る(かわるがわる)見くらべた。その時、五兵衛は力いっぱいの声で叫んだ。

「見ろ。やってきたぞ」

たそがれの薄明かりをすかして、五兵衛の指さす方向を一同は見た。遠く海の端に、細い、暗い、一筋の線が見えた。その線は見る見る太くなった。広くなった。非常な速さで押し寄せてきた。

「津波だ」と、誰かが叫んだ。海水が、絶壁のように目の前に迫ったかと思うと、山がのしかかって来たような重さと、百雷の一時に落ちたようなとどろきとをもって、陸にぶつかった。人々は、我を忘れて後へ飛びのいた。雲のように山手へ突進してきた水煙の外は一時何物も見えなかった。人々は、自分等の村の上を荒れ狂って通る白い恐ろしい海を見た。二度三度、村の上を海は進み又退いた。高台では、しばらく何の話し声もなかった。一同は波にえぐりとられてあとかたもなくなった村を、ただあきれて見下ろしていた。稲むらの火は、風にあおられて又もえ上がり、夕やみに包まれたあたりを明るくした。始めて我にかえった村人は、この火によって救われたのだと気がつくと、無言のまま五兵衛の前にひざまづいてしまった。



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by wheatbaku | 2015-12-25 10:56 | Trackback
江戸楽アカデミーのご案内

 今日は、「江戸楽アカデミー」のご案内です。

江戸検を受検された方には、江戸検の結果通知に同封されて「江戸楽アカデミー」のご案内が届いていると思います。

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 その中の「1級合格者による江戸講座 -合格ご指南付き-」のうち次の講座の講師を担当することになりました。

 「過去問題からみる『江戸博覧強記』勉強
 の実践的ポイント」

  2月21日 午後1時30分~

江戸検1級は、「江戸博覧強記」から約5割の問題が出題されることとなっています。

この範囲は、第2回から第6回まで約5割でしたが、第7回・第8回で約4割に減少しました。

これにより合格者が少なくなったこともあったのでしょう。第10回から約5割となりました。

 これまでの「江戸博覧強記」の出題数を調べてみると、確実に5割また4割出題されています。

 第10回でも、約5割とされているものの、四捨五入すると6割に達する問題が「江戸博覧強記」から出題されています。

私は、「江戸博覧強記」をしっかり勉強し、さらに「今年のお題」の参考図書をしっかり勉強すれば、70点以上は可能だと考えています。

 そのため、「江戸博覧強記」を勉強することが1級合格の必須条件だと考えています。

 

 しかも、1級問題は「江戸博覧強記」から万遍なく出題されているわけではありません。

 過去問題を分析すると一定の範囲から出題されていることがわかります。

 これが重点勉強項目となります。

 講義の中で、この重点勉強項目を示しながら、「江戸博覧強記」の勉強の重要性、そして、「どう勉強したらよいか」について講義しようと思っています。

 さらに、江戸に関する基礎知識の重要性と勉強方法についても講義しようと考えています。

 この講義は、今年の7月と8月に2回に亘って開講しました。

 そのため9回までの過去問題の分析は終了していますので、その分析を深化させ、さらに10回の出題問題傾向を加味して講義します。

 今年受講されていない方、また今年2級に合格して来年1級をめざす方にとってお役にたつと内容だと自負しています。

 ご希望される方はお申込みいただきたいと思います。

 お申込み方法は、 『江戸楽アカデミー』春期講座ご案内 をご覧ください。

 


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by wheatbaku | 2015-12-24 09:05 | Trackback
江戸検受検者交流会(兼祝勝会)が開催されました!

 昨日、江戸検受検者交流会(兼祝勝会)が新丸ビル5階の「隨園」で正午から盛大に開かれました。
 そこで、今日はその様子を紹介します。

 

c0187004_09033638.jpg この会は、江戸検を受検する人たちで情報と元気を交換しようという目的で開催しており、今年で3回目となります。

 参加される方が、年々増加していて、昨日の参加者は、長崎と神戸から参加いただいたIさん・めぐみ帝国さん・Sさんを含めて40名を超えました。

c0187004_23402516.jpg しかも、今年は、仲間の中から大勢の1級合格者がでたため、仲間同士の交流だけでなく、合格した人たちを祝福する「祝勝会」となり、大変盛り上がりました。
 参加いただいた皆さんには大変喜んでいただきましたが、私も非常に楽しい時間を過ごすことができました。

 ご参加いただいた皆さんありがとうございました。
 

 この会には、江戸文化歴史検定協会の宇南山知人代表理事にもご出席いただき、ご挨拶を頂戴しました。

c0187004_23404460.jpg 代表理事からは、合格された方への祝福とはなむけの言葉を頂くとともに参加者皆さんに長く江戸検を愛してほしいというご挨拶をいただきました。

 宇南山代表理事、お忙しい中、ご出席いただきありがとうございました。

c0187004_23421127.jpg 来賓ご挨拶のあと、最長老の「加州そうせい公様」の音頭で、乾杯をしましたが、いつもに増した大きな唱和になったのは、合格者が出たせいではないでしょうか。


c0187004_23403166.jpg 交流会では、参加者全員に自己紹介をしていただきましたが、参加者が大勢でしたので、自己紹介だけでも1時間かかりました。

 自己紹介の中では、江戸検受検のきっかけ、江戸検の結果などがそれぞれコンパクとに紹介されました。

c0187004_23401547.jpg 特に、合格された方からは、合格の喜びの声や勉強の仕方なども紹介され、参加者からは「合格者の体験を聴くことができ、大変よかった、来年頑張る気になった」という声をいただきました。

 その1級合格者ですが、毎日文化センターの江戸検講座や江戸楽アカデミーの9月の直前特訓講座を受講された方から9名の方が合格されました。

c0187004_23422773.jpg そのうち交流会(兼祝勝会)には8名の方がご参加いただきました。
 右写真は交流会終了後に撮った1級合
格者の皆さんです。

 さすが合格した人たち、自然とVサインですね。

 こんなに大勢の合格者が仲間から出たので、参加者の皆さんは大いに驚いていましたが大きな励みにもなったようです。
 この間、合格に向けてお手伝いをしてきた私としても大変うれしい結果でした。

 合格された皆さん、この間のご努力は並大抵のものではなかったと思います。この間の努力に敬意を表します。

 本当におめでとうございます。

 

 自己紹介の後は歓談の時間です。

c0187004_23450274.jpg 歓談時間は1時間以上あったのですが、あっというまに終了時間の3時となってしまいました。 そこで、一旦、中締めをさせてもらいました。
 右写真は中締めをする参加者の皆さんですが、中締めの音は会場外にも響き渡るほどの大きさでした。

c0187004_23570406.jpg 1次会には間に合わないが2次会があれば参加したいと人がいましたので、2次会もセットしました。
 その2次会ですが、1次会だけでは話足りなかったり飲み足りなかった人が半数以上残りました。
c0187004_08454773.jpg そのため、2次会も大いに盛り上がりみました

 この席でも、合格された方の合格体験談があちころで話題になりました。
 今年、残念な結果であった皆さんにも大いに刺激になったようです。
c0187004_08453972.jpg 一緒に学んだ仲間から合格者が出るというのは非常に良いことだと改めた感じました。
 2次会もあっという間に時間が過ぎて終了時間の4時30分となり、写真を撮ってお開きとなりました。

 私はここで帰らせていただきましたが、さらに3次会に行かれた方もいたようで、皆さん大いに楽しまれたことと思います。

 

 昨日は、大勢の人にご参加いただいたので全員の集合写真が撮れませんでした。

 そこでグループごとに撮った写真をアップしておきました。
 皆さんの楽しそうな顔が印象的です。
 参加された皆さんお疲れ様でした。

 そしてありがとうございました。
 最後に進行役の殿、受付.会計をお手伝いをしてくれた蝦夷っ子さん・Sさん・Nさんありがとうございました。


 


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by wheatbaku | 2015-12-21 09:00 | Trackback
「夢酔独言」読了②

 江戸検の結果が発表になりましたね。

今年の1級合格者は23名のようで昨年に比べると大分増えました。

 合格された方おめでとうございます。

 この間の合格に向けて大変なご努力をされたこと思います。

この間のご努力に敬意を表したいと思います。

 また、残念な結果に終わった方、心機一転して、新たに頑張ってください。

 今日は「夢酔独言」の2回目です。

c0187004_10003118.jpg出奔して苦労した後江戸に戻った勝小吉は16歳の頃から御番入りをめざした活動を本格化していきます。

 しかし、就職活動はうまくいきません。

 「父子鷹」では、この就職活動の頃から小説が始まっています。

 「父子鷹」では、就職の見込みがついたので宴席を設定したのにもかかわらず陰湿にいじめる上役を料亭の庭石に投げつけてしまい、せっかく決まりかけた話をぶち壊してします場面が描かれています。

この話は、「夢酔独言」には書かれていませんが、真山青果作の「天保遊侠録」には同様な場面があるようです。

この後、兄の彦四郎が代官を務める信州中之条に赴いて、兄を手伝ったりしていますが、21歳の時に再び出奔し遠州森町の知り合いの所で過ごしていると甥の男谷精一郎が呼び戻しに来たので江戸に戻ります。

江戸に戻った小吉を父平蔵は温かく迎えますが、同時に座敷牢に入ることを命じます。

そのため、小吉は男谷家につくられた座敷牢に24歳まで入れられることになります。

勝海舟が生まれたのは、小吉が座敷牢に入れられている間でした。

勝海舟は、両国の男谷家に生まれたということは知っていましたが、なぜ誕生地が男谷家の屋敷だったのか不思議でしたが「夢酔独言」を読んで、その理由がわかりました。

小吉は、勝海舟が生まれた後もしばらく男谷家に住んでいましたが、24歳の時に、本所割下水の天野左京の地所を借りて男谷家で住んでいた家を移築して住みました。

そこに住んだ3年目に、今度は出口鉄五郎の屋敷地のなかの空いた家作に引っ越しました。そこで出口の借金や地代取立ての面倒をみていましたが、出口に意見したことから地主に追い立てを喰らい、入江町の岡野孫一郎の屋敷地に移ります。

この岡野孫一郎の屋敷に移って間もなくに勝海舟が犬に咬まれて大けがをしましたが、この話は以前書きました。

その後、小吉は御番入りはあきらめたのでしょう。

刀剣の鑑定の商売を始めます。

もともと、小吉は、直心影流を団野真帆斎から学び、かなりの達人だったようです。

「父子鷹」では剣術の試合の審判を乞われて行う場面が出てきます。

 また、「夢酔独言」には、山田浅右衛門に弟子入りして土壇切りをして遊んだとも書かれています。

こうした刀剣鑑定の商売をやったりしながら吉原通いをして放蕩していたため兄彦四郎から座敷牢にまた入れられそうになり、ついに隠居して家督を海舟に譲りました。

小吉37歳の時です。

「夢酔」という号は、隠居後の号で、「父子鷹」では兄彦四郎が考えたことになっていますが、「夢酔独言」には、その由来については書いてありません。

c0187004_10234974.jpg勝部真長氏は「勝海舟」のなかで「酔生夢死」からとった名前だろうと書いています。
 「酔生夢死」とは酔っ払ってくらし、夢見て死ぬという意味のようです。

隠居してまもなく、小吉は地主の岡野孫一郎の借金返済問題に取り組むことになります。

岡野家は北条氏の旧臣板岡部江雪を祖とする名門 でしたが、幕末には大変困窮していました。

それに当主の放蕩もあって借金が嵩みました。そうした状況の為、小吉は岡野家の苦境を救うために、岡野氏の知行地摂津まで出かけて、知行地から600両の金を調達します。

これにより岡野家は一息つくことができました。

しかし、尽力した小吉は苦境にたつことになります。

当時旗本は、江戸を離れる時には幕府の許可が必要でした。しかし、小吉は無断で摂津に向かったのでした。

そのため、お咎めを受け他行止めを言い渡され自宅で蟄居するはめになりました。

「夢酔独言」は勝小吉が42歳の時に書いたものですが、勝小吉は「夢酔独言」を書いた7年後の嘉永3年(1850)49歳でなくなりました。


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by wheatbaku | 2015-12-18 11:22 | Trackback
「夢酔独言」読了①

 今日は勝小吉が書いた「夢酔独言」について書きます。

 「夢酔独言」といえば、今年の江戸検1級の問題に次のような問題がありました。

 

 幕臣だった大田直次郎(南畝)は、彼を嫌っていた採点官の目付が低い評価を付けたため、第1回の学問吟味に合格できなかったといいます。『よしの冊子』で、著者の水野為永に「他人のことを悪く言わないと出世できないという見識」の持ち主と評された、この目付は誰でしょう?

 い)『東歌』の著者、加藤枝直  ろ)『夢酔独言』の著者、勝小吉

 は)『耳嚢』の著者、根岸鎮衛  に)『賤のをだ巻』の著者、森山孝盛

c0187004_10003118.jpg「夢酔独言」が、この問題の選択肢の一つとなっていて、関心のある方もあるかと思いますので、少し詳しく書いていこうと思います。

 「夢酔独言」は、勝小吉が42歳の天保14年(1843)の初冬に書いた自伝です。

 自伝といって、自分の過去を誇るために書いたものではなく、自分の生涯を反省し、子孫の参考にさせようというために書かれたものです。

 それは「夢酔独言」の最後に書かれています。

 

 男たるものは、決しておれが真似をしないがいい。

 孫やひこ(曾孫のこと)が出来たらば、よくよくこの書物を見せて、身のいましめにするがいい。

 今は書くにも気がはずかしい。

そもそも勝小吉の実家男谷家は、代々続いた武家ではありません。

父男谷平蔵は旗本でしたが、祖父は米山検校(のちに男谷検校)といい、越後出身の盲人でした。

米山検校は、江戸に出て鍼灸按摩等の医療に携わり水戸藩の殿様に気に入られ、その後ろ楯により「検校」となりました。

そして、蓄えた金で旗本の株を買って、検校の三男男谷平蔵がつぎました。

勝小吉は、平蔵の三男で旗本の勝家に養子に行ったので、勝小吉を名のります。

勝小吉は、三男といっても妾腹の子供です。生まれたのは実母の家で生まれ、平蔵の正妻が引き取って男谷家で育てました。

勝小吉の兄男谷彦四郎は有能な旗本だったようで、信州中之条と越後水原の代官を勤めています。

「夢酔独言」にも、しばしば男谷彦四郎は出てきますし、「父子鷹」では、口やかましい兄貴として描かれています。

男谷彦四郎の養子が男谷精一郎で「剣聖」と呼ばれた剣豪です。

次兄の松坂三郎左衛門も有能だったようで越後水原の代官を勤めています。

兄弟の中で、唯一無役で終わったのが勝小吉です。

勝小吉は7歳で勝家の養子となりますが、養家には、妻となる信とその祖母が居るだけで信の両親は亡くなっていました。

c0187004_10234974.jpgこの勝家の祖母が意地悪なおばあさんで、小吉はだいぶいじめられたようです。

「勝海舟」を書いている勝部真長は「幼い小吉の性格を歪めた大きな原因は、この意地悪婆さんにある」と書いています。

家にいられない小吉は、外に出て遊んで喧嘩ばかりしていました。

湯島聖堂に入校しても隣の桜の馬場で馬に乗っていて学問はそっちのけでした。

そして、ついには14歳の時に出奔をして伊勢白子まで旅をしますが、体をこわし、結局江戸に戻ります。

16歳になって御番入りをめざすことになりますが、これ以降のことは次回に書きたいと思います。

 


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by wheatbaku | 2015-12-16 10:18 | Trackback
「父子鷹」(子母澤寛)読了

 江戸検の結果が今週には通知されるようですが、受検された皆様はドキドキハラハラでお待ちのことだと思います。

 私は、今週は20日の「江戸検受検者交流会」の準備であわただしい一週間になりますが、受検された皆様からの朗報が届くことを期待しながら過ごしたいと思っています。

 「鬼平散歩in本所」が終わった後、しばらくぶりに余裕ができたので、「父子鷹」と「夢酔独言」を読むことができました。

 最近は、江戸検や史跡散歩に関係する部分を拾い読みするという本の読み方が多くて、一冊の本を最初から最後まで読み切るということがないのですが、ひさしぶりに通読することができ、少し達成感を感じました。

 「父子鷹」は、子母澤寛の小説で、主人公は勝海舟の父勝小吉です。

c0187004_10004169.jpg 勝小吉は、男谷平蔵の3男として生まれ、7歳で41石の小禄旗本勝家の養子となります。

 「父子鷹」は、小普請組の勝小吉が御番入りのため奔走する場面から物語が始まり、最後は、37歳で家督を勝海舟に譲った後、兄の男谷彦四郎が亡くなる時期までが描かれています。

 「父子鷹」は、一言で言うと「痛快アクション時代小説」と呼ぶのがよいように私は思いました。

 勝小吉は、旗本の枠にはまらない自由奔放な生き方をします。

 一時は、自分をころして御番入りをめざした就職活動をしますが、就職が決まる直前に、まもなく同輩となるはずの人たちを喧嘩をして、一人を殺してしまいます。

 このため、就職が実現せず、一生無役で終わります。

 しかし、剣術の達人でもある小吉は、知り合いから依頼されたさまざまトラブルを納めていき、徐々に本所の顔役としてその存在感を高めていきます。

 当初は敵対した人たちも、無欲な人柄に魅かれて、手下同様になります。

 ヒーローはどんな困難にあって怪我をすることもなくうまく解決していくというパーターンでトラブルが解決していきますので、安心して小説を読んでいられます。

 まるで「アクション映画」を観ているように物語が展開していきます。

 これが子母澤寛の筆力だと思います。

 勝小吉が解決するトラブルは数多くありますので、それをすべて紹介するわけにもいきませんので、一つだけ紹介します。
c0187004_09591675.jpg 下巻のほうに書かれている話です。

 勝小吉は、小吉自身が29歳、勝海舟が8歳の時から、旗本岡野孫一郎の屋敷内に住んでいました。

 この岡野孫一郎家は大身旗本ですが、小吉が地借した当時は、岡野孫一郎のだらしなさもあって、貧窮のどん底にありました。いわゆる貧乏旗本でした。

 そこで、勝小吉は家督を勝海舟に譲った38歳の時に、岡野家の立て直しを依頼されて、一肌脱ぐことになります。

 小吉は、岡野家の知行所である摂津まで出かけて立て直しに必要な339両を調達しようとします。

それまでも、度々、岡野家から無理な要求を呑まされていた知行所の百姓たちは当然反抗し一揆直前という事態にまでなります。

しかし、小吉は様々な手段を講じて百姓たちを納得させ結果的には600両を調達します。

その手段のなかには、能勢の妙見様にお参りして雨を降らせてみせるというようなことまであります。

まさか、小吉の力で雨が降るとは思いませんが、「夢酔独言」には、そのように書いてあり、子母澤寛は、それに基づいて書いているものと思います。

「夢酔独言」を合せて読んでみると、「父子鷹」は「夢酔独言」に書かれているエピソードをかなり取り込んでいることがよくわかります。

その「夢酔独言」については、次回書きたいと思います。



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by wheatbaku | 2015-12-14 09:51 | Trackback
陽運院と千栄院(報恩寺塔頭)

 今日も、本所の報恩寺に関する話題です。
 
c0187004_09444210.jpg 報恩寺は、江戸時代には日蓮宗の触頭を勤め、塔頭が20ヶ寺あったそうですが、現在は4つの塔頭があります。

 右写真は、報恩寺の参道で、この参道の両側に4つの塔頭が並んでいます。

今日はこのうち陽運院と千栄院の2ヶ寺についてご案内をします。

陽運院 

陽運院は、参道の西側にあります。

陽運院は、報恩寺の2代住職日親上人が創建されたお寺です。

c0187004_09445159.jpgこの陽運院は「めぼし霊場」として目の病気にご利益のあるお寺で知る人ぞ知るお寺だそうです。

 「めぼし」という言葉はあまり聞きなれない言葉ですが、その由来ははっきりしないようです。ただ御住職のお話では、「目星をつける」の「目星」と関係があるかもしれないということでした。

 眼病に御利益があることの由来ですが、身延山の11代法主であった日朝上人像を安置していて「めぼし護符」を授与していたことによるようです。

日朝上人は室町時代中期の人物ですが68歳の時に目の病気を患いましたがひたすら祈ることにより病気に打ち勝ちました。

そして死ぬ際に眼病を患うを人を救おうと言い残したそうです。

御住職からいただいた資料には漢文で書かれているので正確には読み切れないのですが、「目の病気を患う人が毎月25日にお題目を100回唱えれ「南無身延11代日朝尊者」と7回唱えれば御利益があるだろう」と書いてありました。

こうしたことから日朝上人は「眼病守護の日朝上人」と呼ばれました。、陽運院では、この日朝上人をお祀りし眼病守護の「めぼし護符」が授与されていることから「めぼし霊場」と呼ばれていたようです。

 最近は、諸事情から「めぼし護符」の授与はやめているそうですが、目の悪い方が現在もご祈祷にくるそうです。

千栄院

千栄院は参道の東側の報恩寺寄りにあります。陽運院から見ると斜め東側になります。

c0187004_09445916.jpg千栄院は報恩寺の3代住職日喜上人によって創建されたお寺ですが、「たんぼとけ霊場」として、ぜんそく、たん、百日咳にご利益のあるお寺として知られています。

お寺の東側に「たんぼとけ」と刻まれた石碑があります。

「たんぼとけ霊場」といわれる由来は次のようなお話があるようです。

c0187004_09450969.jpg江戸時代に、長年ぜんそくに苦しむ人が、千栄院の信者となり法華経を信仰し毎日1万回余りの御題目を唱えた功徳によりぜんそくが直りました。

 そこで、その人が、「私を信ずる人は必ず守護する」という誓いを立てました。

 その人物が亡くなって千栄院で「道晴尊霊」として祀られました。

明治以降の記録では道晴堂というお堂の中に五輪の塔があり「闘病平癒」の祈願が行われいたそうです。

現在は、本堂の中に五輪塔が祀られているようです。

千栄院は、現在も「たんぼとけ霊場」として、ぜんそく、百日ぜき、痰切りに悩む方あるいは声を使う仕事の人の信仰を受けているそうです。

 



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by wheatbaku | 2015-12-11 09:37 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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