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「宝暦治水工事」④(江戸の災害と復興)

 今日も「宝暦治水工事」について書きますが、これで一区切りとしたいと思います。

 「孤愁の岸」では、百姓が非協力的であったと書かれています。

 もちろん全員がという訳ではなく、協力的な百姓も描かれています。しかし、それは一部の百姓というトーンでした。 

 薩摩藩士の言葉として次のような表現もあります。

「肚は据えて来たんだ。前からは幕吏、うしろからは金貸し、横からは土地(ところ)の百姓どもにいびられる毎日だろうと。」

 ここには「百姓にもいびられる」と書いてあります。

 「孤愁の岸」を読んでいて、これには違和感を感じました。

 「わざわざ300里も離れた薩摩から、縁もゆかりもない濃尾平野に来て、自分たちのために治水工事をしてくれる薩摩藩士たちに対して、百姓がこんな冷たい仕打ちをするのだろうか?」と思いました。

 しかし、「孤愁の岸」では、最後まで、百姓が薩摩藩士たちに感謝する場面はありません。

 これでは、薩摩藩士たちはあまりにもかわいそうだと思いました。

 私は、名古屋にいたことから、西濃地方では「薩摩の方に足を向けて寝るな」という言い伝えがあることや岐阜県の小学校では社会科の副読本で「宝暦治水工事」のことが取り上げられているということを知っていましたので、一層、意外な感じがしました。

 そこで、西濃地区の百姓たちは、本当に感謝していなかったのか知りたくて本を読んでみました。

c0187004_22483083.jpg これについての回答は「かごしま文庫『宝暦治水・薩摩義士』」(坂口達夫著)に書かれていました。

 この本はかごしま文庫と書かれているように薩摩側から書かれたものですが、「宝暦治水工事」の概要や薩摩義士(「宝暦治水工事」に派遣され苦労した藩士たちの呼び名)の顕彰の経緯について書いてあります。

 「埋もれていた薩摩義士」の項目で、薩摩義士がどのように顕彰されるようになったかが詳しく書かれています。

 それによると薩摩義士が広く知られるようになったのは明治以降だそうです。

 顕彰の先駆けのなったのが三重県桑名郡多度村の豪農西田喜兵衛です。

『宝暦治水・薩摩義士』」によると次のように書かれています。
 「
西田家では祖先からの言い伝えで「他日これを世に発表せよ」と一つの書類箱が代々引き継がれてきたが、明治9年、伊勢の国に農民一揆が起きたとき、惜しくもこれが灰燼に帰した。

 喜兵衛は「薩摩のご恩、忘るべからず」と言っていた父祖の言い伝えをもとに、その書類が何の記録であったのか、その真相を調べていくうち、次第に薩摩藩の事績を義没者の埋葬地が明らかになり、明治の半ばから、これを広く世間に知らしめるため献身的に奔走し、薩摩義士懸賞の端緒を開いた」

c0187004_10171487.jpg薩摩藩士の顕彰は、こうして濃尾地区から沸き起こり、明治33年「宝暦治水之碑」が建立され、大正5年、平田靭負に従五位追が追贈されるようになったようです。

 昭和になると薩摩藩士の顕彰はさらに進み、宝暦治水工事の最難関工事であった油島千本松原近くに平田靭負を祀る「治水神社」が昭和13年に創建されています。(右上写真:ウィキペディアより転載)

薩摩藩士の地元の鹿児島県での顕彰活動は、当初は濃尾地区の活動に触発されて動き出したとも書かれています。

 こうした薩摩藩士の顕彰活動の経緯を見ると、「孤愁の岸」には描かれてはいませんが、地元の百姓は、深く薩摩藩士たちに感謝していたことがわかります。

 「やっぱり、百姓たちは感謝していたんだ」と思い、「ほっと!」しました。



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by wheatbaku | 2016-01-29 10:11 | Trackback
「宝暦治水工事」③

 今日は「宝暦治水工事」の3回目です。 

 「孤愁の岸」によれば、宝暦治水工事で、薩摩藩の死者は252人となっています。

 西濃に派遣された人数が約1000人、そのうち約250人も亡くなるというのは、すごい被災率だなぁと「孤愁の岸」を読んで思いました。

 

 しかし、実際の死亡者の数は、「孤愁の岸」に書かれているほど多くはないことがわかりました。

c0187004_11505090.jpg 「宝暦治水」(牛嶋正著)によれば84人と書いてあります。

 それでも、1年余りの工事で、84人もの人がなくなるというのはすごい数です。

 しかも、その内訳をみると割腹者が52人、病死者が32人となっています。

 そして、工事中の事故による死亡者はゼロとなっています。

 割腹者が52人というのは尋常ではないと思います。

 病死というのであれば、慣れない土地での慣れない作業、そして猛暑の夏、厳寒の冬での作業ということもありますので、多少、理解できます。

c0187004_11505623.jpg しかし、割腹と云うのは、何らかの意思が働いているとことです。

 一般的に考えられるのは、抗議、あるいは責任を取ってということになります。

 「孤愁の岸」では、「初犠牲(はつにえ)」で春期の工事の際の3人の武士の割腹が描かれています。

 これは、家老平田靭負に対して抗議の声をあげて欲しいと言う願いを込めた藩士の割腹でした。しかし、平田靭負は、怪我で死亡と届けさせました。

さらに、「雉子汁」で1人の割腹が描かれています。

 また、後半の「伊吹颪(おろし)」「風に哭く声」「野の落日」を通じて工事請負代金の詐取の責任を負って算用方が割腹します。(本論からはずれますが、この場面は劇的です。映画を観ているようでした。)

 それ以外では、割腹の場面は描かれていません。

 50人もの割腹があれば,様々な事情が想像されます。そして、それが幕府への抗議ということになれば、薩摩藩藩士の苦悩が劇的に描かれることになりますが、幕府に抗議して割腹する場面はありません。

 これが不思議だなぁと思いました。

 こうした書き方となっているのは、割腹の事情がはっきりしていないためのようです。

 「宝暦治水」(牛嶋正著)によれば、上記の人数についても注書きで「宝暦治水工事の犠牲者のうち、とくに、薩摩方の記録がほとんど欠けているので、人数および人名に関しては『鹿児島県史』などにもとづくこととした」と書いてあります。

 そして、本文では、「犠牲者に関する資料がないのは、幕府に対する抗議のための自害であることをできるだけ気づかれないように、薩摩方が表向き病死とか、怪我による死亡として幕府に届け出たことによる」と書いています。

 こうしたことから、52人もの割腹者がいながら、その間の事情がよくわからないのだろうと思います。

 そうした事情の中で「孤愁の岸」を書いた杉本苑子の筆力に驚かされます。

 
右の写真は、上段が伏見の薩摩寺(大黒寺)、下段が平田靭負のお墓です。




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by wheatbaku | 2016-01-27 12:30 | Trackback
川越「いちのや」(江戸の老舗)

  昨日は、川越の喜多院にちょっと遅めの初詣に行ってきました。

 その帰りに江戸時代から続くうなぎの名店「いちのや」に寄ってきました。

c0187004_22384089.jpg 「いちのや」は、西武線本川越駅から10分弱の距離にあります。

 喜多院からは6分程度の距離にあります。

 「いちのや」は天保3年創業の老舗です。

c0187004_22384867.jpg 川越には2年間余り勤務していたので、その当時、よく「いちのや」を利用しました。

 しかし、川越を離れた後は、毎年初詣に川越に行っていましたが、「いちのや」はいつも混んでいることから寄るのを避けていました。

 

c0187004_22385406.jpg 昨年、たまたまアナウンサーの徳光和夫さんが「いちのや」を訪ねているテレビ朝日の番組を見ていたので、ひさしぶりに訪ねてみようとおもいたちました。

 「いちのや」の玄関を入るとその時の写真が展示されていました。

 昨日も大勢の人が待っていましたが、待ち時間は30分でしたので、それほど長くは待ちませんでした。

  

 「いちのや」の名物は鰻ですので、「うな丼」や「蒲焼」もありますが、当然のように「うな重」をお願いしました。

値段は、「松」2850円、「菊」3620円です。味の違いはなくて、うなぎの大きさが違うそうです。

c0187004_22391014.jpg
 昔は、こんなに高くありませんでしたが、やっぱり、時代の流れですね。

 しばらく待つと、うな重がきました。

 ふっくらとして大変やわらかい鰻で大変満足しました。

c0187004_22430019.jpg

 「いちのや」の歴史を書くため、お店の人に伺いましたが、天保3年創業以外、詳しいことはわからないようです。
 お店のホームページでも歴史については「工事中」と書いてありました。

 赤印が「いちのや」です。ピンクが喜多院です。





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by wheatbaku | 2016-01-26 08:25 | 江戸の老舗 | Trackback
「鬼平散歩in四谷」が開催されました

 昨日は、「鬼平散歩in四谷」が開催され、四谷近辺を散歩してきました。

 3日前の天気予報では「曇り時々雪」なので、実施するかどうか危ぶまれました。

c0187004_12323388.jpgそして、一昨日の天気予報で大雪ではないとのことで実施することに決めました。
 しかし、昨日の朝の天気予報でも「午後は雨」ということで、2年半前から続いている「雨に降られないで散歩できる」記録がついに途切れるのかと覚悟してスタートしました。

しかし、参加者の皆さんの心がけがよかったようで、最後まで雨に降られずに終了することができました。

ご参加いただいた皆さんありがとうございました。

これで、また「雨降ふらず」記録が、連続2年半17回に伸びました。

私個人としては、これだけでもうれしいことでした。

昨日は、天気があまりよくないということでしたので、野外での散歩は少なめにしました。

そのため、次のコースで歩いてきました。

四谷三丁目駅 ⇒ 消防博物館 ⇒ 於岩稲荷田宮神社 ⇒ 陽運寺 ⇒ 本性寺 ⇒ 勝興寺 ⇒ 戒行寺 ⇒ 西念寺 ⇒ 「わかば」 ⇒ 四谷駅

c0187004_12325959.jpg消防博物館では、インストラクターの方に、「江戸の火消」について解説していただきました。

大名火消、定火消、町火消、それぞれの展示物を見ながらの説明でした。

江戸検の今年のお題の『江戸の災害と復興』に直接関係することなので、江戸検を受ける方には役だったのではないでしょうか。

c0187004_12330684.jpg於岩稲荷田宮神社は、東海道四谷怪談で名高いお岩さんゆかりの神社です。

お岩さんは実在の人物ですが、怨霊のかけらの全くなく夫婦仲もよい人物だったようです。

滅多にみられない江戸時代から続くという田宮家の井戸を観させていただきました。

すごく深い井戸でした。しかも現在も使用されているということで驚きました。

田宮神社さんありがとうございました。

c0187004_12331567.jpg本性寺では、毘沙門堂に昇らせていただいて、北向毘沙門天さんを拝ませていただきました。

北向毘沙門天さんは、家康が仙台の伊達氏が謀反を起こさぬよう、北方の守護神・毘沙門天を北向きに安置して祈願したという伝説から、そう呼ばれているものです。

鏝絵や龍の墨絵もすばらしいものでした。

写真は副住職様の説明を聞く参加者の皆さんです。
 副住職様ありがとうございました。

c0187004_12332173.jpg勝興寺には、山田朝右衛門のお墓があります。

山田朝右衛門は公儀御様(おためし)御用という刀剣の試し斬り役を務めましたが、その腕を見込まれて罪人の首切りも担当しました。

そのため「首切り朝右衛門」とか「首切り朝」と呼ばれました。

山田朝右衛門は9代目までいますが、勝興寺には6代目山田朝右衛門吉昌と7代目山田朝右衛門吉利のお墓があります。

c0187004_12332879.jpg戒行寺は長谷川家の菩提寺でしたので、鬼平散歩ではメインということになります。

しかし、明治時代までは、長谷川平蔵のお墓がありましたが、現在はありません。

墓の代わりに、参道に長谷川平蔵の供養碑が建てられています。(右最上段写真)
 鬼平ファンの蝦夷っ子さんに長谷川平蔵宣以と池波正太郎さんの御位牌が安置されている供養塔を教えてもらってみんなでお参りしました。
(右写真)

c0187004_12333763.jpg西念寺は、徳川十六神将の一人服部半蔵正成のお墓があります。

また、服部半蔵が徳川家康から拝領した槍が残されています。

先端が30センチ、矢尻150センチを戦災で損壊したそうですが、それでも全長が258センチ、重量7.5キロもある大きな槍です。

半蔵の槍は、全体では4メートル40センチにもなるので、実際に戦闘に使ったのではなく、飾ったのでないかとのことでした。 

写真は、本堂内に飾られた半蔵の槍を観ながら説明を聞く参加者の皆さんです。

半蔵の槍は床の間に飾られています。

c0187004_12334742.jpg四谷駅近くに東京三大たい焼きのひとつに数えられる「わかば」があります。

散歩の最後は、この「わかば」でたい焼きを買ってたべました。

参加者の多くは酒飲みが多いのですが、甘い物も大好きという人も多くて、長い行列にもかかわらず、並んで買いました。

c0187004_12385797.jpg私も買って、家に持ち帰って食べましたがあいかわらず大変おいしいです。

「わかば」のたい焼きは、皮はうすく餡子が一杯詰まっていますが、餡子は甘さ控えめです。

最後は、飲み会です。

鬼平散歩ということで、昨日の居酒屋は、その名も「鬼平」という居酒屋で懇親会でした。

これも蝦夷っ子さんのご紹介です。蝦夷っ子さんありがとうございました。

昨日は、寒い日でしたので、お酒が一段とおいしかったようで、皆さんの酒量は多かったように思います。

私個人としては、雨降らず記録が途切れなかったことを皆さんが喜んでくれたのが一番うれいしいことでした。
 そのため昨日のお酒は抜群においしかったです。
 最後までご参加いただいた皆さんありがとうございました。

c0187004_12335677.jpg


 最寄駅の鴻巣の駅に帰りついたのは9時過ぎでした。
 しかし、最寄駅を降りても雨は降っていませんでした。 
 おもわず、四谷散歩の無事をお願いするためにお参りした巣鴨の妙行寺のお岩さんのお蔭だと感謝しました。




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by wheatbaku | 2016-01-24 12:27 | Trackback
宝暦治水工事②(江戸の災害と復興)

 今日も「宝暦治水工事」について書きます。

 今日は、「どうして薩摩藩が宝暦治水工事を担当することになったか」について書きます。

 結論からいうと、これははっきりしません。

c0187004_09285415.jpg「孤愁の岸」の冒頭は、平田靭負(ゆきえ)が急ぎ登城を命じられる場面から始まります。

それは江戸から急飛脚が鹿児島に着き、それを家老たちで協議するための呼出しでした。

 急飛脚が届けた情報が、木曽三川の「お手伝い普請」を命じられたというものでした。

 

 「お手伝い普請」は、大名の財力を割くために大名に命じるといわれていて、「孤舟の岸」でもそのように書かれています。

 そのため、各大名は、その対象となることを極力避けるために、江戸藩邸の幹部は、情報収集や幕閣への工作を行うとされています。

 しかし、「孤愁の岸」では、そうした場面はまったくなくて、まさに突然に場面が展開していきます。

 

その命令を受けるかどうかの評議の中で、これは当時の尾張藩主の徳川宗勝の暗躍ではないかと意見が出され、「策士と噂されている尾州侯宗勝。新将軍家重の暗愚に付け込んで幕閣に威をのばしはじめた宗勝ならば、卑劣な工作ぐらいやりかねない」と書いてある部分もあります。

 しかし、全体として、いきなり「お手伝い普請」を命じられたことから物語が始まっていて、なぜ薩摩藩が、それを命じられたかについて杉本苑子さんは触れていません。

 宝暦治水工事は総額で40万両もかかった大工事です。

これほどの大工事が計画されているということは江戸で話題になるはずです。現に「孤愁の岸」には、留守居役からそれを伝える手紙が平田靭負に届いたことになっています。

これに対して、どの藩であっても、これを一藩で担当するのは大変ですので、わかっていれば、それを避けようと幕閣に働きかけるはずと思われます。

 そうしたことから薩摩藩は「お手伝い普請」を避ける努力をしなかったのかというのが私の疑問だったのですが、「宝暦治水・薩摩義士」(坂口達夫著)、「宝暦治水」(牛嶋正著)、「箱根用水と宝暦治水物語」(濱田進)の3冊の本を読んだ限りでは、そうしたことについて触れたものはありませんでした。

 多分、宝暦治水工事が、なぜ薩摩藩に命じられたことということがわかる記録が残されていないのではないかと思います。

 そもそも、宝暦治水工事に関する記録そのものが少ないようです。

 「宝暦治水・薩摩義士」には、薩摩義士の顕彰に尽力した勝目清元鹿児島市長の手記が載っています。

それによると、「平田靭負以下の一同の子孫も先祖が善いことをしたとは思っていなかった。恥ずかしい思いをもっていたのである。(中略)一家の恥とも思っていたから、子孫にも伝えていない。(中略)義士の遺族に残った文書は非常に少ない。」と書かれています。

こうしたことから、当事者である薩摩藩にも残された記録が非常に少なかったのではないでしょうか。

 このように、3冊の本を読んだ限りでは、薩摩藩がお手伝い普請を命じられるようになった背景について、一般的に言われる「外様大名の財力をそぐために命じた」ということ以上の詳しいことは明確となっていないように思われます。

 
 右上写真は、昨日、小ツルさんがコメントしてくれて犬山城とその眼下を流れる木曽川の写真です。



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by wheatbaku | 2016-01-22 09:24 | Trackback
宝暦治水工事(江戸の災害と復興)

「孤愁の岸」は大変感動した小説でした。

 しかし、読んでいていくつかの疑問がおきました。

 ①なぜ、宝暦年間まで、木曽三川の治水がほったらかしにされていたのか?

 ②なぜ、突然、薩摩藩が「お手伝い普請」を命じられたのか?

 ③なぜ、多くの藩士が割腹したのか?

 ④地元の百姓たちが、本当に非協力的だったのか?

c0187004_22483083.jpg こうした疑問をいくらかでも解消したいと思って、「孤愁の岸」のほかに、いくつかの本を図書館から借りて読んでみました。

 それは、「宝暦治水・薩摩義士」(坂口達夫著)、「宝暦治水」(牛嶋正著)、「箱根用水と宝暦治水物語」(濱田進)です。

 これらを読んで、いくらかわかったことがあります。

 そこで、わかったことについて順に書いておきます。

 今日書くことは「なぜ宝暦年間まで、木曽三川の治水工事が本格的に行われなかったか」についてわかったことを書きます。

 これについては上記の3つの本に書いてありました。

 治水工事が行われなかった理由は幕府の政策だったようです。

 というのは、木曽三川を江戸を守る自然の防衛線にしようという考えがあったと書いてあります。

 尾張国の地形は東が高く西が低い「東高西低」の地形となっています。

 そのため、木曽御嶽付近で降った雨を集めた木曽川、飛騨地方に降った雨を集めた長良川、養老山系に降った雨を集めた揖斐川の流れがすべて西濃地域に集中してきます。

 そして、これが江戸からは遠い距離にありますが、上方から江戸が攻撃されるのを防衛するうえで重要な拠点と考えられたようです。

c0187004_22483676.jpg そこで、木曽三川の東側に位置する地域に御三家の筆頭尾張藩を配置しました。

 そして、その尾張藩を洪水から守るために、木曽側の尾張藩側つまり東側に堤防を築きました。
 これが「御囲堤」と呼ばれる大堤防です。

 これに対して、木曽三川の西側の堤防は、尾張側の堤防より3尺低く築くことが不文律とされていました。

こうすることによって、どんな大洪水が起きても、尾張藩側が被害を受けることはなくくなりました。

この政策は尾張藩を守るだけでなく江戸を守る軍事上の備えの面ももっていたようです。

こうした政策のため、美濃・伊勢側の水田は大雨があれば常に被害を受けるようになるため、しばしば、木曽三川の本格的な治水工事を行うよう、幕府に陳情しました。
 しかし、当初の政策が家康の時代の決定であったこと、そして、美濃・伊勢側の堤防を強固なものにすれば、尾張藩の被害が生じることから幕府の尾張藩への気兼ね、そして尾張藩の反対がありました。
 こうしたことが、長いこと本格的な治水工事が行われなかった理由だと書いてあります。

こうした状況のため、「宝暦治水・薩摩義士」によれば、元禄14年(1701)の大洪水以降、宝暦治水工事が行われた宝暦4年(1854)までの53年間に41回もの水害が発生していたそうです。
 徳川幕府が開かれたころから数えれば、150年もの間、しっかりした治水工事が行われなかったので、数多くの洪水が発生していたものと思われます。

こうした状況の中で、宝暦3年(1753)に大水害が発生します。

ここで幕府はようやく重い腰をあげて、本格的な治水工事に着手することとなったと「宝暦治水」に書かれています。
 
 これで、長いこと本格的な治水工事が行われなかった事情がわかりました。





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by wheatbaku | 2016-01-20 09:35 | Trackback
「孤愁の岸」(杉本苑子著)読了 (江戸の災害と復興)

 今日は、本の紹介をします。

 12月に「怒る富士」をブログで紹介しましたが、これを早速読んでいただいた方もいて、大変おもしろい本でしたとご感想をいただきました。

 こうした声に勇気づけられて、また小説を紹介しようと思います。

 江戸検を受検される方々は、今年のお題「江戸の災害と復興」の勉強を始めているかどうかわかりませんが、私は、この時期は、小説など読みやすい本を読んでおくと良いのではないかと思っています。

 そうしたことから「江戸の災害と復興」に関係する小説を捜して読んでいます。

 今日は、そうした小説の一つ「孤愁の岸」を読了しましたので、これを紹介しようと思います。

 本文に入る前にお礼とお詫びがあります。

 江戸学アカデミーで「過去問題からみる『江戸博覧強記』勉強の実践的ポイント」という講座の講師を仰せつかりましたが、この講座、お蔭様で定員を大幅に超えるお申し込みをいただきました。

 事務局からは追加講座を開講して欲しいとのありがたい要請を受けましたが、日程の都合でやむなく追加講座開講をお断りさせていただきました。

 お申込みいただきながら、受講できない方がいらっしゃることになりますが、お許しいただきたいと思います。

 さて、「孤愁の岸」は、杉本苑子が直木賞を受賞した作品です。

 杉本苑子は、吉川英治の唯一の弟子だそうです。この小説の解説で初めて知りました。

c0187004_09383151.jpg この「「孤愁の岸」は、宝暦治水工事と呼ばれる江戸時代の宝暦年間に木曽川・長良川・揖斐川のいわゆる木曽三川の治水工事を命じられた薩摩藩の激闘を描いた小説で、その中心人物は薩摩藩の工事責任者である家老平田靭負(ゆきえ)です。

 

 私は、学生時代と社会人のスタート時期を名古屋で過ごしたことから、木曽川・長良川・揖斐川のいわゆる木曽三川は、関西方面に向かう際には、常に超える川であり、その周辺を旅行したこともあり、大変なじみのある川でした。

 そして、江戸検1級に合格し江戸に関心を持つようなってから、宝暦治水工事のことを知りました。
 さらに、幕末史跡を訪ねて京都へ旅行した際に伏見の薩摩寺(大黒寺)に平田靭負のお墓をあることを知りました。

 その時の記事 ⇒ 薩摩寺と松林院(京都幕末史跡めぐり)

 そうしたことから、「孤愁の岸」はいつか読みたいと思っていた小説です。
 それをようやく読み終わることができました。

 

 読み始めたら大変おもしろいうえに臨場感あふれる小説ですので、あっというまに読み終わりました。

 非常に素晴らしい小説です。

c0187004_09384399.jpg 宝暦治水工事は、名前の通り、宝暦4年から5年にかけて、木曽川・長良川・揖斐川のいわゆる木曾三川の洪水を防ぐために行われた治水工事です。

 この工事は幕府主管で行われました。

 江戸時代の大規模な土木工事は、大名の財力をそぐという目的もあって、幕府主管であっても、資金や人や物資を大名に出させる「お手伝い普請」の形式で行われました。

 この木曾三川の治水工事も「お手伝い普請」で行われ、「お手伝い」を命じられたのが、濃尾平野からは300里も離れた日本最南端の薩摩藩でした。

 幕府の命令に抗う事のできない薩摩藩はやむなく命令に応じて約1000人の藩士を派遣します。

 その派遣部隊の責任者が勝手方家老であった平田靭負です。

 工事費は当初15万両と言われていましたが、平田靭負は念のためと思って30万両を手配して現地に向かいました。

 しかし、30万両もの資金を簡単に用意できるわけがありません。

 平田靭負は大阪で自ら資金調達交渉を行い、ようやく目途をたてて現地に向かいました。

 工事は2期に分かれて行われる計画でした。

 春期に行われる工事は、前年までの洪水等により壊れた河岸などの修復がメインでした。

 そして、秋期工事が本格的な治水工事です。

 木曽川と長良川と揖斐川が河口では合流していたものを、分流させるというのが秋季工事です。

 秋季工事は、流れの速い木曽川と長良川の間に堤防を築いて分流させるという難工事が含まれた本格的な治水工事です。

 この工事のためには、多くの石材が必要となりますが、地元の村人の協力が得られずなかなか集まりません。

 また、予定していた以上の費用が必要となることがわかってきます。

 こうしたことで秋季工事の準備期間だけで38名もの藩士が切腹していきます。また、慣れない土地での過酷な労働の為、病死する人も続出します。

 「孤愁の岸」では「屠腹した者50名、病死者202名」と書かれています。

 こうした非常な困難の中でも、薩摩藩士は、ひたすら辛抱し工事を続行していきます。

 そして、ついに工事開始の翌年宝暦5年5月にはすべて工事が完了します。

 工事の出来栄えは素晴らしく、工事検分にあたった幕府役人からは賞賛の声があがりました。

 工事が終わった藩士たちは、薩摩または江戸に帰っていきます。

 そして、最後まで残務整理をしていた幹部たちが江戸と薩摩に帰る日がきました。

江戸に帰る人たちは5月25日に出発、薩摩に帰る人たちは翌5月26日と決まり、それぞれが準備に追われ、25日を迎えました。

 その早朝、平田靭負は、現地の総指揮所であった美濃大牧の役館で、割腹して果てます。

 そして、「孤愁の岸」は、平田靭負の遺骸が、船に載せられ木曾川を下るところで終わります。

 平田靭負は美濃に向かう時点から、もう薩摩に帰ることはないと覚悟して故郷を出発しています。その覚悟通りの最後です。

 この小説には、割腹する人たちや工事の犠牲者たち等平田靭負を取り巻く薩摩藩士たちのエピソードも織り込まれていますが、小説の冒頭が平田靭負で始まり、最後も平田靭負でおわります。ですから、平田靭負が主人公といってもよいと思います。

 杉本苑子のあとがきの中に講談社の担当者が徹夜で読了したというエピソードが書かれています。私は、1日での読了は無理でしたが、4日で読了しました。

 それだけ、読み甲斐のある小説でした。

 


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by wheatbaku | 2016-01-18 09:23 | Trackback
木下栄三さんの水彩画展②

 今日も、木下栄三さんの水彩画展について書きます。
 今日は、水彩画展に展示されている絵の紹介です。

 木下さんの水彩画展で展示されている中心は、江戸城の城門の絵です。

 これは、朝日新聞の「江戸城今昔」で連載されたものです。

 木下さんの説明では、三十六見附を描いているので、江戸城の城門だけを描いているわけではないが、今回の絵画展がお正月に開かれるので、お正月の雰囲気を出そうと思っていたら、結果として江戸城の城門が中心となったと言っていました。

c0187004_09083675.jpg 今日は、その江戸城の城門を描いた木下さんの絵を展示されている順に紹介します。

 右写真の右奥が清水門、手前左が皇居正門(西の丸大手門)です。

 清水門から順にご紹介します。

清水門

 清水門は、現在も昔の姿のまま残っています。

 ですから、描かれている人物も現在の人が描かれています。

 木下さんは、清水門の妻側の軒の瓦が何枚あるか数えて、その数の通り、水彩画の中に描きこんでいるそうです。

 その緻密さに驚かされます。

c0187004_09084425.jpg

田安門

 田安門は、現存している江戸城の門としては最も古いものです。
 そのため、清水門、外桜田門とともに国の重要文化財に指定されています。

 田安門は、千鳥ヶ淵とともに桜が大変美しい門ですが、桜に埋まる田安門が描かれています。

c0187004_09084908.jpg

外桜田門

 外桜田門の絵には桜田門外の変の様子が描かれています。

 この絵を描くため、桜田門外の変の関係者を数多く調べたそうです。

 そして、絵の中には、水戸藩脱藩浪士17人と薩摩藩士有村次左衛門を描きこんでいます。

 実は、水彩画の方には人物名まで描かれていませんが、別資料には人物名が描かれています。
 こうした資料まで準備して描いているのですから、迫力のある絵になりますね。
 左上には、彦根藩井伊家の表門も描いてあります。

c0187004_09090415.jpg
 下の絵が桜田門外の変の関係者の人物名が書かれたものです。
c0187004_09090975.jpg


大手門

 徳川盛世録をもとに、大名・旗本が江戸城に登城した後、下馬先で待っている供の様子が描かれています。

 大手門橋前には下馬札まで描かれています

 大手門の枡形の北(絵の上部中央)には、勘定奉行所(下勘定所)も描かれていますが、これも古史料に基づいて描いているそうです。

c0187004_09091692.jpg

平川門

 平川門は、竹橋にあるパレスサイドビルの屋上から見た視点で描いているそうです。

 平川門は枡形は再建されていますので、それが描かれていますが、梅林門は現在は残っていませんが、いかにもそこに現存しているかのごとく描かれています。

 平川門は、江戸城内で罪を犯した人たちが城外に出される際に利用されたと言われていて、浅野内匠頭や絵島もこの平川門から出たとされています。

浅野内匠頭は、どのような道順で城外に出されて田村右京太夫邸に向かったのかが話題になりました。

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北桔橋門

 北桔橋門は、江戸城の北側にありますが、この周辺の石垣は、城郭の石垣として3番目の高さを誇っているそうです。
 東京にもこんな景色があるのかと驚かされる江戸城の絶景です。
 その石垣全体を北桔橋門とともに描いていますが、その緻密さに驚かされます。

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坂下門

 現在の坂下門は東を向いていますが、江戸時代の坂下門の櫓門は北を向いていました。

 江戸時代の櫓門を解体してから再度現在地に移設したようです。

 絵の左上にはその移設の図が描かれています。

また、大名が登城した際に供の者が待機していた「腰掛」という建物が描かれていますし、手前には、玉川上水の枡も描かれています。

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皇居正門(西の丸大手門)

 現在、俗に「二重橋」と呼ばれている場所が描かれています。

 江戸時代は、西の丸の大手門でした。

 「二重橋」というのは、江戸時代は、手前と奥と二本ある橋のうち奥の橋を呼びました。

 奥の橋は水面までの高さが高いので橋を二階建てにしたため、「二重橋」と呼ばれたといいます。

 木下さんが描いた二重橋は確かに2階建てになっていました。
 また、右上には、滅多に見られない南西側からみた伏見櫓が描かれています。これは、写真をもとに描いたものだそうです。


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 以上が江戸城の城門の水彩画ですが、江戸のなごりを感じることができますし、木下さんの思い入れも感じ取れる素晴らしいものばかりです。その他、数多くの水彩画が展示されています。


 土曜日は2時から木下さんによる作品解説もありますので、週末は、木下さんの水彩画展に行かれてはいかがでしょうか。





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by wheatbaku | 2016-01-15 08:51 | Trackback
木下栄三さん水彩画展①

 昨日、木下栄三さんの水彩画展に行ってきました。

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c0187004_09563829.jpg 木下栄三さんの水彩画展は「江戸のなごり歴史散歩」と題して、112日から22日(金)まで、「銀座煉瓦画廊」で開催されています。

「銀座煉瓦画廊」は歌舞伎座の東側の道路に面するわかりやすい場所にあります。
 右写真のビルの2階が「銀座煉瓦画廊」です。


c0187004_09544548.jpg 木下栄三さんは、同じ年に江戸検1級に合格した仲間として合格以来親しくお付き合いをさせていただいています。

水彩画展の御案内をいただいたので、獏塾の皆さんの中で都合のあう人たちと一緒に行ってきました。



 木下さんは、本職は建築設計士で、設計の分野でもかなりの実績をあげていますが、絵画も、もう余技のレベルを超えた水準です。

c0187004_09545216.jpg 絵画の面で、朝日新聞での連載やNHK学園での講座の講師などもされていて、本業を含めて八面六臂の活躍をされています。

 頑張りすぎなので、木下さんに会うたびに「健康に気を付けてくださいね」と言っていますが、「大丈夫だよ」といいながら、あいかわらず頑張っています。


c0187004_09550526.jpg そんな多忙の木下さんが昨日は、水彩画展の初日ということもあり、銀座煉瓦画廊に一日いると聞きましたのでお邪魔しました。 
 今回の水彩画展は、「江戸のなごり歴史散歩」と銘打っているように、朝日新聞に「江戸城今昔」として連載された江戸城の城門を中心に展示されていました。

c0187004_09551181.jpg 昨日は午後2時から展示されている水彩画について作品解説がありましたが、私たちは総勢12名でお邪魔したので、木下さんのご配慮で、追加解説として、一点一点詳しく解説していただきました。
 大勢のお客様がいらっしゃる中での特別の対応で、参加された皆さんも大変喜んでいました。

 木下さん、本当ありがとうございました。

 

c0187004_09551906.jpg 木下さんは、江戸検1級に合格するほど江戸に関する知識がありますが、木下さんの水彩画は、単に景色を描いているのではなく、「江戸」を描いているように感じました。

 いやぁ、素晴らしいの一言です。

参加された皆さんも、一様に、木下さんの知識の豊富さ.描写の緻密さに驚いていました。

 22日まで開催されていますので、江戸に興味のある方は、ご覧になることをお勧めします。
 今週土曜日の16日と最終日22日(金)の午後2時からは木下さんの作品解説が予定されているようです。

 そうそう、会場には、江戸文化歴史検定協会からのお祝いの花が飾れていました。(右上写真)


 解説が終わった後、木下さんを中心に参加者で記念撮影させてもらいました。

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木下さんの解説が終わった後も、しばらく会場に展示されている資料等を見ていたので、銀座煉瓦画廊を出たら日が落ちていました。

 懇親会の予定はなかったのですが、参加した面々の顔が、「新年ですから新年会やりましょう」といっていたので、衆議一決そのまま銀座で懇親会にということになりました。

 懇親会の席での話は、木下さんのお話、江戸の話、そして江戸検の話で時間を忘れました。

 1級に合格した人もいたことから、「今年の江戸検は頑張る!」という雰囲気が満ち溢れた懇親会で、木下さんの素晴らしい水彩画も見られて良い年明けイベントでした。

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 木下さんありがとうございました。そして、ご参加の皆さん、お疲れ様でした!
 なお、展示されていた水彩画の中から江戸城の城門について次回御紹介します。










 






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by wheatbaku | 2016-01-13 10:08 | Trackback
小石川七福神(七福神めぐり)

 

 小石川七福神巡りをしてきました。

 七福神めぐりは、長いこと、お正月の恒例行事として行ってきて、このブログにも以前書いていましたが、ここ2年ほどは、廻ることができませんでした。

 そこで、今年は思い切って、七福神巡りのための時間を作り、一昨日、小石川七福神巡りをしてきました。

 日枝神社、神田明神、湯島天神に初詣をした後でしたので、茗荷谷駅をスタートしたのは3時になってしまいました。

 日没が5時ですので、あわただしい七福神巡りとなりましたが、2時間で回りきりました。

 

小石川七福神は、平成7年に始まった比較的新しい七福神です

小石川七福神は次の8か所に鎮座しています。

c0187004_10051147.jpg深光寺 - 恵比寿

徳雲寺 - 弁財天

極楽水 - 弁財天

宗慶寺 - 寿老人

真珠院 - 布袋

福聚院 - 大黒天

源覚寺 - 毘沙門天

東京ドーム - 福禄寿

 東京ドームを起点とする道順と茗荷谷駅を起点とする道順がありますが、茗荷谷駅を起点にした方が、下り坂になるので、私は、茗荷谷駅からスタートしました。


1
、深光寺(恵比寿)

 深光寺は、茗荷谷駅2番出口を出て、左に行けば下り坂となり、右に行けば春日通りになります。その左側の下り坂を5分程下って行きます。すると拓殖大学の正門に出ます。その正門の向かい側の坂をすこし登ると本堂です。

深光寺は「しんこうじ」ではなく、「じんこうじ」と呼ぶようです。

浄土宗のお寺で寛永16(1639)に創建されました。

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 深光寺の本堂右手に恵比寿様が鎮座しています。

 ここに、色紙や案内図が揃えられていましたので、ここで色紙(500円)と案内図(100円)を購入してスタートしました。

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 本堂左手前には、滝沢馬琴のお墓があります。

 戒名が「著作堂隠誉簑笠居士」となっています。原稿料をもらった作家第一号であったといわれている滝沢馬琴らしく「著作堂」という戒名となっていますね。

 御住職のお話では、滝沢馬琴の御子孫のお墓もあるそうです。

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2
、徳雲寺(弁財天)

深光寺から徳雲寺に向かいましたが、徳雲寺に着くまでちょっと手間取りました。

徳雲寺は、南に面して表門があるものとばっかり思っていました。
 しかし、表門は春日通り側(つまり北側)にありました。

 徳雲寺は、臨済宗円覚寺派のお寺で寛永7年(1630)に創建されました。

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 徳雲寺の弁財天は、見慣れた女性像ではありませんでした。

 徳雲寺の弁財天は人面蛇身の弁財天でした。
 人面蛇身の弁財天なんてあるのと意外に思う方も多いと思います。

民間信仰には頭が老人で身体が蛇の姿をした宇賀神という神がありましたが、中世に伝来の弁財天と宇賀神この宇賀神と弁才天が習合して宇賀弁財天として信仰されました。

そのため、人面蛇身の弁財天もいらっしゃいます。

 徳雲寺の弁財天は、鎌倉の円覚寺の大鐘弁財天の分身だそうです。

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3、極楽水(弁財天)

極楽水は、現在は小石川パークタワーという高層の分譲マンションの中庭の中にあります。

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 極楽水の弁財天は、白蛇の弁財天と説明書に書いてありますが、実際には開扉されていませんでした。

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4、宗慶寺(寿老人)

 小石川パークタワーの道を一つ挟んだ北側に宗慶寺があります。

宗慶寺は、応永22年(1415)浄土宗中興の祖、了誉聖冏(りょうよしょうげい)というお坊さんが開いた庵が始まりです。

その後、徳川家康の生母お大の方が現在の伝通院に葬られ、聖冏(しょうけい)の開いた庵が移され「伝通院」とされました。つまり、「伝通院」の元となったお寺です。

 元和7年(1621)徳川家康の側室「茶阿の局」の墓所となり、法名にちなみ吉水山朝覚院宗慶寺と称するようになりました。
 「
茶阿の局」は松平忠輝の母です。そうして関係から、三つ葉葵の紋があります。

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 寿老人は、本堂の回廊に鎮座していました。

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5、真珠院(布袋)

 真珠院の本堂は、非常に近代的なお寺でした。

松本藩初代藩主水野忠清を開基として貞享元年(1684)年に創建されました。

水野忠清は家康の生母於大の方の甥となります。つまり徳川家康と従兄弟ということになります。

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 布袋様は、本堂右手の階段をあがったところの布袋堂に木彫の布袋様が祀られていました。

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 また、本堂下の通路を抜けると裏手が墓地になっており、そして墓地の奥に大きな布袋様の石像がありました。

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6、福聚院(大黒天)

 福聚院は、伝通院の山門の手前にあります。

 もともとは伝通院の子院だったようです。

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 ここの大黒様は「叶大黒」として有名です。

 第9回江戸検の「今年のお題『祭礼と歳事』」の参考図書「祭りだわっしょい!江戸の祭礼と歳事」P120にも載っています。

それによると一般的は大黒像と違い、右手で袋の口を握り、左手で打出の小槌を握っていることから「叶(かなえ)の大黒」と呼ばれ、願い事が叶うと信じられ、甲子の日には大勢の参詣者で賑わったと書いてあります。

通常は、正月3日と甲子の日にしか、開扉されませんが、今年は1月7日が甲子であるため、特別に1月1日から7日まで開扉しているとのことで、運よく「叶の大黒」を拝むことができました。

「叶の大黒」は、武装したスタイルをしています。そして、製作年代が鎌倉時代に遡ることなどから貴重なものとして、文京区の文化財に登録されています。

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 福聚院は幼稚園を併設していて、境内が園庭となっています。
 その園庭の一画に咳が治るとお礼に唐辛子を供える咳止め地蔵が祀られていました。

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7、源覚寺(毘沙門天)

 源覚寺は、「こんにゃく閻魔」として知られているお寺です。

 その由来は、ある老婆が眼病治癒の願を閻魔にかけたところ、閻魔がその右目を犠牲にして老婆の眼病を治したと夢枕に立ち、眼が治ったので、老婆の好物のこんにゃくを断って供えたというものです

 こんにゃく閻魔も「祭りだわっしょい!江戸の祭礼と歳事」に載っていましたね。

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 毘沙門天様は、本堂脇の毘沙門堂に安置されていました。
 源覚寺に着いたころは夕闇せまる頃でしたが、毘沙門天はライトアップされていました。

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8、東京ドーム(福禄寿)

 東京ドームに着いたのは4時45分でした。もうすっかり夕闇が迫っていました。

 スタンプ等は、22番ゲート向かいにある総合案内所に置いてありました。

 22番ゲートは、正面ゲートのようで、水道橋駅(つまり南側)にありますので、源覚寺からは、東京ドームの周囲を回るようにして向かいました。

 東京ドームでは、御朱印もスタンプ形式でした。

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 福禄寿様は、総合案内所から少し離れた場所にありました。
 分りにくいところにありますので、七福神めぐりをされる方は、総合案内所に鎮座されている場所を確認するとよいでしょう。

 福禄寿様は木陰に安置されていましたので、お参りした時には、スライドを使用しないとダメなほど暗くなっていました。

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 曇り空のため日没も早く感じられる天気なので急いで廻りましたが、まだ松の内ということもあり、各寺社で丁寧に御対応いただきました。
 
 日枝神社・神田明神・湯島天神で初詣、そして小石川七福神巡りを行い、今年も良い年になるようにお願いができ 有意義な一日でした。







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by wheatbaku | 2016-01-08 09:28 | 七福神めぐり | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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