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『江戸検 10周年感謝の集い』に参加しました。

 昨日は、江戸検協会主催の『江戸検 10周年感謝の集い』が開催され参加してきました。

 『感謝の集い』は、第1部が江戸東京博物館館長の竹内誠先生の講演会、第2部が懇親会という2部構成です。

c0187004_09523887.jpg 第2部は、竹内先生の乾杯の音頭で開始されました。

竹内先生のすぐお近くに席を取らせていただいたので、先生と大変親しくお話もさせていただきましたし、乾杯の挨拶もすぐそばから撮らせていただきました。

ところで第1部の竹内先生のお話は「祝祭都市-江戸」というタイトルでした。

 江戸では周年ごとに町全体を盛り上げるお祭りがおこなわれ、将軍も庶民の近くで祭りを楽しんでいたということをしっかりした記録に基づいてわかりやすくお話いただきました。内容ももちろんのことですが、膨大な資料を準備されていて時々は横道にそれながらも、しっかりと定められた時間内に講演が終了されるという話術の巧さ(先生、申し訳ありません!)に恐れ入りました

 

 懇親会では、第10回江戸検の特別表彰贈賞式も行われました。

c0187004_09532119.jpg 最高得点者、最年長合格者、最年少合格者などが次々表彰されました。

 3級の最年少合格者は中学1年生だそうです。大変初々しいので、会場は一段と盛り上がりました。

 しかし驚いたのは表彰式の後のできごとです。彼は、表彰式が終わると、竹内先生のところにお邪魔して、安政江戸地震の際の鯰絵を手にして、どう読んだらよいのかを質問していました。

もう今年のお題「江戸の大変」に関係する勉強をしていて、夏検での2級合格をめざしているんだと思います。
 夏検で合格すれば、秋は1級受検ということになりますね。すごいですね。頑張ってくださいね。

懇親会では、「超難問クイズ大会! 第10回江戸文化歴史検定【番外編】」というコーナーもありました。

c0187004_09534604.jpg実際に、昨年の江戸検の出題問題として検討されて、宇南山代表理事いわく「ボツ」となった超難問5問が出題されました。

例えば、

加賀藩主・前田光高が急死した翌日、その向かいに屋敷があった福井藩主・松平忠昌に、将軍家光は「酒を慎むように」と諫言、これに対して忠昌は狂歌で返答しました。その忠昌の狂歌の大意は次のうちどれでしょう?

い)光高の死が悲しくて、飲まずにいれない。

ろ)家光が酒をやめるなら、私もやめる。

は)光高は下戸だったのに若死にした。

に)酒をやめるには死ぬしか方法がない。

どうですか、皆さんお分かりになりますか? 

正解は次回発表します。

c0187004_09541552.jpgこういった超難問が5問出題されました。

さすが、江戸検合格者の皆さんも四苦八苦です。
 お楽しみの正解発表では、皆さんどきどきのようでした。(右は正解を発表する宇南山代表理事)
 結局5問正解はお一人、4問正解もお一人という状態でした。
 やっぱり超難問ですね。

こうしたコーナーは初めてでしたが、大変おもしろい良い企画だと思いました。

昨日の集いには第2回合格者の同期会である『2期会』の人たちが15名ほど、江戸検勉強サークル『獏塾』のメンバーが8名参加されていました。

両グループとも2次会に行くということになりましたが、2期会の方は申し訳ないがお断りして獏塾の2次会に参加しました。

c0187004_09543909.jpg獏塾の2次会は少人数でしたが、少人数であるがゆえにじっくり話ができるというメリットもあって、参加された人たちのとのお話は次々と展開していき際限なく続きました。
 ふと時計をみると8時近くとなっていましたので無理やりお開きとしました。

終わってみれば、懇親会・二次会あわせて延々5時間も飲んだ一日でした。

2次会までご参加の皆さん、ほんと〜に長時間お疲れ様でした。

最後に、2期会の皆さん、参加できなくて申し訳ありませんでした。

次回は参加しようと思いますのでまたよろしくお願いします。



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by wheatbaku | 2016-02-29 09:58 | Trackback
治水神社と宝暦治水之碑(宝暦治水工事ゆかりの地を行く②)

 今日は「治水神社」と「宝暦治水之碑」についてご案内します。

 「治水神社」は、国営木曽三川公園と道をはさんだすぐ南に鎮座しています。

c0187004_10244609.jpg 訪ねた日は、参拝する人もまばらで、まさに千本松原の静寂の中に鎮座していました。

 「治水神社」は、宝暦治水工事を総奉行として指揮した薩摩藩家老の平田靭負を祭神とした神社です。

c0187004_10201504.jpg 治水神社は、昭和13年5月25日に創建されました。

 明治以降に始まった薩摩藩士顕彰の動きのなかで、大正14年から地元の有志によって宝暦治水奉賛会が設立され、広く全国に基金を募り建設を進め、昭和2年3月に着工し、昭和13年2月に竣工したものです。

着工から約10年以上かかっているということは、治水神社が、多くの人々の浄財で完成したことを物語っているようです。

c0187004_10202378.jpg社殿脇には、「薩摩義士之像」が設置されています。

これは、鹿児島ライオンズクラブから寄贈されたものだそうです。

また、4月25日の春季例大祭や10月25日の秋季例大祭には鹿児島県からも参拝者があるそうです。

鹿児島県の人たちも故郷の先人を厚く顕彰していると感じました。

「治水神社」から千本松原を南に約1キロほど行った所に「宝暦治水之碑」があります。

薩摩藩が大きな犠牲を払って宝暦治水工事を行ったことは、江戸時代は、あまり知られていませんでした。

明治になって、揖斐川の西側にある三重県の西田喜兵衛が、薩摩藩士たちの顕彰のために尽力しました。

西田喜兵衛は、「薩摩のご恩 忘るべからず」という先祖からの言い伝えを守り、生涯をかけて宝暦治水工事の顕彰活動に尽力しました。

c0187004_10203137.jpgこの結果、明治33年に千本松原に「宝暦治水之碑」が建立されたのです。

篆額の「宝暦治水之碑」は当時の総理大臣山県有朋が書いています。

この石碑の建立式には総理大臣山県有朋をはじめ、薩摩出身の内務大臣西郷従通など多くの参列者が集まりました。

山県有朋は碑文の文章を自ら読み上げたそうです。

撰文は、時の枢密院書記官長小牧昌業が書いています。

その最後の部分には次のように書かれています。

c0187004_10203766.jpg(宝暦治水工事)以来百五十年を経る。里人今に至るも偉業を讃えること忘れず。話が犠没者の事に及ぶとすすり泣きする者あり。(中略)この地の人々、宝暦治水の功績を偲び、犠没者を悼み、その偉業を忘れないようにと有志を謀り石碑を建て、事績を刻んで後世に伝えるため私に撰文を求める。

 石碑の裏面(右上写真)には、平田靭負をはじめ犠牲者の名前が刻まれています。

赤印が治水神社、ピンク印が宝暦治水之碑です。 国営木曽三川公園の展望タワーは青印です。



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by wheatbaku | 2016-02-26 10:08 | Trackback
千本松原(宝暦治水工事ゆかりの地を行く①)

先週、宝暦治水工事ゆかりの地を訪ねてきました。

宝暦治水工事については、1月に4回に分けて書きましたが、実際の姿はどのようになっているのか興味がありました。

そこで、名古屋時代にお世話になった人たちとの旧交も温めることも目的に、先週名古屋に行ってきました。

c0187004_17514804.jpg宝暦治水工事ゆかりの地として巡ってきたコースは次のようなコースですが、愛知県、岐阜県、三重県と三県にまたがるコースです。

これを電車とバスを利用して巡ると結構時間がかかると覚悟していました。

しかし、名古屋でお世話になった人に事前に電話を入れると、「『木曽三川公園』はよく知っている場所だから車で案内してやる」と言ってくれて車で回ることができました。
 おかげで、交通の便があまり良くない広い範囲を半日で回ることができました。

 やはり知っている人はありがたいですね。

名古屋⇒ 国営木曽三川公園(岐阜県海津市) ⇒ 治水神社(岐阜県海津市) ⇒ 宝暦治水之碑(岐阜県海津市) ⇒ 多度神社(三重県桑名市) ⇒ 大巻薩摩工事役館跡(岐阜県養老町)

まず向かったのは、国営木曽三川公園です。

c0187004_17414348.jpgここには、高さ65mの展望タワーがあって、木曽三川を見下ろすことができます。(右写真)

ここから、是非とも長良川と揖斐川を分流した堤防である「千本松原」を見てみたいと思っていました。

行った日は快晴でしたので、眼下に千本松原がくっきりと見下ろすことができました。

右側の流れが揖斐川、左側の流れが長良川です。

画面中央の松原が、薩摩藩士たちが築き上げた分流堤防です。

手前の少し緑が広がった場所に「治水神社」が鎮座しています。
       ☆「治水神社」については次回ご案内します。

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 千本松原は、治水工事の完成を記念して、薩摩藩士が長良川と揖斐川を分流させるために築いた堤防の上に千本の「日向松」の苗を植えたものと伝えられています。
c0187004_17513902.jpg  それが成長して今では樹齢200年を越えるこんもりとした松林となっており、千本松原と呼ばれています。 
 松原の中には治水工事の頃に植えられたと思われる松も残されています。
 右の松は「望み松」と名付けられている松で樹齢200年と推定されています。

「油島築堤工事」と呼ばれる工事は、宝暦治水工事の中でも最大の難工事といわれたもので、それまで合流していた長良川と揖斐川を分流させるという工事でした。

この工事は、宝暦4年の9月から始められ翌年3月には完了したということなので、約半年で仕上げた工事ということになります。

土木機械もない時代に、こんな大工事を半年で良く仕上げたものだと以前から思って感心していましたが、実際に現場を見ると「これは本当にすごい!!」と心から驚嘆せざるをえませんでした。
 下記の図の青が国営木曽三川公園の展望タワーですが、そこから南に細長く1キロ以上続くのが薩摩藩士が築いた分流堤防です。
 そこにず~っと松が植えられています。
 それが千本松原です。



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by wheatbaku | 2016-02-24 06:00 | Trackback
江戸楽アカデミーで講義させていただきました。

昨日は江戸楽アカデミーで「江戸博覧強記」の実践的な勉強法について講義させていただきました。



 講義では、①過去問の傾向、②「江戸博覧強記」の勉強方法、③基礎知識の重要性について話をさせていただきました。

c0187004_08055032.jpg 過去問の傾向は、「江戸博覧強記」からの出題数の推移や重要項目の説明をさせていただきました。

 第10回の1級問題は約5割が「江戸博覧強記」から出題されることとなっていましたが55問出題されているということも説明しました。

「江戸博覧強記」の勉強法については、「満遍なく深く読むこと」を強調させていただきました。

 受講者の中には昨年5回以上読んでいる人も5人程いてその熱心さに驚きました。

 さらに、年号や旧国名などの基礎知識を今の時期からマスターしておくことの大切さについても説明させていただきました。

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 36名の受講者の皆さんは、欠席は一人もなく、熱心に聞いてくださいました。

 受講いただいた皆さんありがとうございました。

 「博覧強記」の勉強方法については昨年も開催していますが、第10回の1級問題の傾向を加味したものなので、昨年のものとは違いが出せたと思います。

受講された方は、今年初めて1級を受けようという方が半数近くいらっしゃっいましが、繰り返し読むことの大切さを説明しましたので、1級って大変だとすごく思われた方もいたかなと少し反省もしています。

しかし、一番に強調した、「江戸検を楽しむことの重要性」については多くの方がうなずかれていましたので、ご理解いただいたものと思います。

講義の後には恒例の懇親会を開催しました。

従来の江戸楽アカデミーでは、講義後の懇親会へのご参加が少なかったのですが、今回は、事前にご案内をしたこともあり、17名の方にご参加いただきました。

懇親会へご参加いただいた方は半分が初めての方なので仲良くお話しできる心配をしましたが、やはり江戸好きの皆さんですので、あっという間に親しくなりました。

懇親会で自己紹介をしていただきましたが、初めて1級を受ける方がいる一方で、もう何回も受検しているという方もいました。

c0187004_08061346.jpg初めて受けようという方からは「江戸検を楽しんで受けたい」という声が聞かれましたし、もう何回も受検している方からは「今年は最後だと思って頑張ります」という意気込みも聞かれました。

歓談では、いつもごとく江戸の話があちこちで盛り上がり、気がつけば、あっという間に3時間がたっていました。

懇親会の最後に常連のKさんの音頭で一本締めて締めた後、参加者全員で記念撮影をしました。

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 懇親会までご参加いただいた皆様ありがとうございました。



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by wheatbaku | 2016-02-22 08:08 | Trackback
上野東照宮の社殿と透塀

 上野東照宮についての御案内、本日で最後です。

 今日は、いよいよ御社殿と透塀(すきべい)の御案内です。

 御社殿と透塀(すきべい)は長いこと修復工事をしていて拝観できませんでしたが、久しぶりに見る 御社殿と透塀は金色の輝く創建当時の姿が復元されていました。

 社殿は、慶安4年(1651)に造営されたもので、安部重次が造営奉行として造営されたものです。現在は国の重要文化財に指定されています。

c0187004_09240149.jpg戦後かかれた本を読むと、社殿内には、後水尾天皇が書かれた「東照宮」の勅額が拝殿正面にかかげられていると書いてありますが、文化財保護の為、社殿内は非公開とされているため、外側からしか拝観できません。

建物は、拝殿、幣殿(石の間)、本殿の三つの部屋から構成されているいわゆる「権現造り」となっています。

この社殿は「 金色殿」とも呼ばれていて、建物に金箔が施されていて、金色に輝いていました。

また、社殿外壁には豪華な彫刻が施されていて、日光東照宮にも匹敵する彫刻だそうです。

下写真は、西側から写した社殿です。

手前が本殿、中央が幣殿、右が拝殿です。

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 社殿の四方を囲んでいる塀が透塀(すきべい)です。こちらも国の重要文化財です。 

c0187004_09352999.jpg 菱型の格子の向こう側が透けて見えるのでこの呼び名がありますが、「すかしべい」でなく「すきべい」と呼ぶようです。

 この透塀も社殿と同時に修復され、創建当時のすばらしい彫刻が復元されています。

 透塀には、多くの動植物が彫刻されていますが、よく見ると目の高さだけでなく足元にも鮮やかな彫刻があります。

 しかも、それをよくみると、上の彫刻は、野山の動物と植物で、足元の彫刻は、海や川に棲む動物が彫刻されています。
 まず、上部の彫刻のいくつかを紹介します。

 これは鹿

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 これはねずみ

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 これは猿

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 これは燕かな

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 透塀の下部は、海や川に関係する動物が彫刻されています。

 これは鯉か鯰かな

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 これは千鳥かも

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 どんな動物が彫刻されているか探すのが結構おもしろいです。

 上野東照宮の楽しみ方もいろいろですね。


 


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by wheatbaku | 2016-02-19 09:30 | Trackback
上野東照宮の唐門

 上野東照宮についての4回目は唐門です。

 唐門は、社殿の前にある門ですが、修復が完了して、金色色に輝いています。

c0187004_11482039.jpg この唐門の形式は、唐破風造四脚門だそうです。

 ここで有名なのが、唐門の左右にある昇り龍・降り龍の彫刻です。

 社殿を囲う透塀と唐門の間に嵌め込まれているように設置されています。

 この彫刻は名工左甚五郎の作と伝えられています。

 ところで、この龍ですが、左右の龍どちらも上に向かって登っているように見えます。
 はっきりそれがわかるように写真をアップして掲載しておきます。
 上が右側の龍です。下が左側の龍です。

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 両方とも上を向いているように見えます。
 これがどうして「昇り龍・降り龍」と呼ばれるのか不思議です。

 実は、この彫刻ですが、向かって右側の龍の頭は下を向いています。左側の龍の頭は上を向いています。

「ははぁ~ん。そうか! 右の龍は頭が下を向いているから、こっちが降り龍だ!」と思うと「あに はからんや」、これが違っていて、右側の龍が昇り龍だそうです。

偉大な人ほど頭を垂れるということから、頭が下を向いているものが昇り龍だそうです。

では、頭も胴体も上を向いているのが「降り龍」となります。

この理由は、頭をもたげて傲慢な態度をとっているものは、いずれ降る運命にあるということを暗示しているため「降り龍」と呼ばれているそうです。

実に、哲学的ですね。驚きました。

拝観料500円を払って、透き塀の中に入り、社殿側から、唐門を見ると、「諫鼓鶏」の彫刻が施されています。

c0187004_11583068.jpgこちらも極彩色の見事なものです。

ところで、こちらも少し説明が必要かと思います。

「諫鼓鶏」というのは、「政治が好ましくない時に人民に諫言させるために天子が宮殿の前に太鼓を設置しましたが、善政が行われ世があまりにも平和なので、太鼓の上に鶏が止まって遊ぶほどになった」という故事から、「天下泰平」の象徴と言われています。

「天下泰平」なることを願って、この彫刻が施されているとのことです。

「諫鼓鶏」というからには、太鼓がつきものです。

説明板を見ると左右の門に「諫鼓鶏」の彫刻がされていると書いてあります。

社殿から見て左側の門扉には、太鼓が彫刻されていますので、あきらかに「諫鼓鶏」です。

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しかし右側をみると2羽の鶏だけが彫刻されていて太鼓がありません。

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太鼓がなくて、どうして「諫鼓鶏」なのかと思いました。

じつは、右側にいる2羽の鶏は、雌鶏と雛鶏だそうです。

そして、右左一体の彫刻で「諫鼓」の周りで鶏一家が遊んでいる様子を彫り込んだ「諫鼓鶏」を表しているそうです。

「なるほど。だから右側の扉には太鼓がないのだ」と納得しました。



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by wheatbaku | 2016-02-15 11:34 | Trackback
上野東照宮の銅燈籠

 上野東照宮の3回目は、銅燈籠について書きます。

 上野東照宮には、多くの石燈籠と銅燈籠があります。

c0187004_09423875.jpg 水舎門を入ると両側に、石燈籠がずらっと並んでいます。
 右写真は、社殿側から写した参道の石燈籠です。

 そして、社殿の前には銅燈籠、さらに社殿の脇にも石燈籠が設置されています。

 

 銅燈籠はすべてで50基、石燈籠は約280基あるそうです。

 この燈籠群には、奉納された年月日と奉納者の名前が刻まれています。

c0187004_09425151.jpg それを見ると、慶安四年四月十七日となっているのがほとんどです。

 この日は上野東照宮の社殿が落慶した日です。

 その中で、一つだけ寛永五年(1628)に奉納されたものがあります。

c0187004_09425837.jpg 参道を社殿に向かってあるいていくと、左手に東京都教育員会が設置した説明板がありますが、その銅燈籠は、説明板の裏側にあります。

 右上写真の2つある銅燈籠の左手のものです。

 奉納者名は「伊賀少将藤原朝臣高虎」となっています。

 伊勢国津藩藩主藤堂高虎です。

 この銅燈籠は、徳川家康の十三回忌に藤堂高虎から奉納されたものです。

 ちなみに右上写真の右側の銅燈籠は、会津藩主保科正之が奉納したものです。


 さらに、社殿唐門の両脇には、御三家から奉納された銅燈籠があります。

c0187004_09431892.jpg 写真右から、紀州藩主徳川頼宣、水戸藩主徳川頼房、尾張藩主徳川光義となっています。

 さすが、御三家ですね、社殿に最も近い所に設置されています。

 ところで、ちょっと不思議に思いませんか?

 御三家の筆頭といえば、尾張藩ですが、どうして、尾張藩主徳川光義から奉納された銅燈籠が最も下座に設置されているのでしょうか?

c0187004_09441599.jpg これの答えは、奉納者の名前と一緒に官位も刻まれているので、それを見るとわかります。(右写真は、最も判別しやすい徳川頼房の刻銘です)

 紀伊国主従二位権大納言源頼宣

 正三位権中納言源頼房

 尾張国主参議従三位兼近衛権中将源光義

となっています。

 つまり、官位順に設置されています。

 尾張藩主の徳川光義は、後に改名して徳川光友となっていて、光友のほうが知られているのでちょっとわかりにくいですね。

 父の義直が慶安3年に亡くなり、光友が尾張藩を相続したばかりですので、官位も低いので、徳川光友が奉納した銅燈籠が下座に設置されているものと思われます。義直が存命であれば、当然、尾張藩主が奉納した銅燈籠が上座に設置されたでしょう。

c0187004_09442713.jpg 社殿手前には、銅燈籠が一群をなして設置されています。

 これら、すべての銅燈籠群は国の重要文化財に指定されています。


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by wheatbaku | 2016-02-12 09:41 | Trackback
上野東照宮の水舎門

 今日は、上野東照宮の2回目です。

 

 石鳥居をくぐるとその先に、門が見えてきます。

c0187004_09240629.jpg これが、水舎門(みずやもん)です。

 水舎門というのは、あまり聞かない門の名前だと思います。

 実は、この門は、もともと社殿の手前にある水舎として使用されていたものを門として利用しているものです。

c0187004_09242833.jpg 門の屋根を、門の下からみると、なるほど水舎の造りです。(右写真)

 東照宮の水舎は、慶安4年(1651)、時の老中阿部重次が奉納したものです。

 阿部重次が東照宮の造営奉行を命じられていたので、水舎を奉納したそうです。

 その水舎は、社殿の手前右側にありましたが、その水舎の上屋だけを昭和39年に門として移築したものだそうです。


 水舎は、現在も、社殿の前にあります。

c0187004_09243781.jpg 現在の水舎は、明治 6年(1873)、新門辰五郎が寄進したものといわれています。
 しかし、水舎の中に設置されている水鉢をよくみてください。

c0187004_09244511.jpg 水鉢の右側に「従四位下阿部対馬守藤原朝臣重次」左側には「慶安四年猛春吉辰」と刻まれています。

猛春は三月を指していると思われます。
 また、吉辰は吉日と同じ意味です。

 つまり、阿部重次が慶安4年3月に奉納した水鉢であることがはっきりわかります。

 水舎門に使用されている上屋と水鉢は一体となって使用されていたものと思います。
 ところで、水鉢として使用されている石材は小松石だそうです。
 小松石は、非常に堅い石ですので、少しの文字を刻むにも相当の労力を必要とするそうです。
 それにもかかわらず、これだけの文字を刻んでいるので、労力を惜しまずこなわれていることがわかるようです。

 水舎を奉納した阿部重次は、この水舎を奉納してまもなく亡くなっています。

c0187004_09350779.jpg 慶安4年4月20日に3代将軍家光が亡くなりました。

 家光が亡くなった際に、5名の殉死者がいました。

老中では、阿部重次と堀田正盛が殉死しました。

堀田正盛は、若い頃から家光に寵愛されていましたので殉死して当然と思われました。

しかし、阿部重次が殉死を申し出た時、多く人が意外に思いました。

その際、阿部重次は、「高崎に幽閉されていた家光の弟忠長に切腹を迫る際に、死を覚悟して臨んでいたので、その時、既に家光に命を捧げていた」と説明をしたので、多くの幕閣も、殉死をとめなかったと言われています。

なお、家光がなくなった際に、知恵伊豆と呼ばれた松平信綱が殉死しなかったため世間から非難を浴び、落書にも「弱臣院前拾遺豆州大守弱死斟酌大居士」と書かれたということが、昨年の江戸検1級の試験問題で出題されました。




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by wheatbaku | 2016-02-10 09:23 | Trackback
上野東照宮の石鳥居



 国立科学博物館で開かれていた「渋川春海と江戸時代の天文学者たち」に行ってきました。

 その展示を見た後、上野東照宮にお参りしてきました。
 上野東照宮は長い期間社殿の修復工事をしていて平成25年12月に完了していましたが、修復工事完了後参拝をしていなかったので、ちょうど良い機会と思いお参りしてきたのです。
 このブログでは、上野東照宮について詳しくは書いてないので、今日から上野東照宮について書いていきます。


 上野東照宮は、藤堂高虎が創建したものです。

c0187004_09165781.jpg 上野といえば、江戸時代の初めから寛永寺があると思っている方が多いと思いますが、寛永寺ができたのは寛永8年(1631)で、寛永寺ができる前にには、藤堂高虎等の下屋敷がありました。

 藤堂高虎が寛永4年(1627)その屋敷跡に、徳川家康を祭神とする上野東照社を創建しました。 

 一説では、家康がなくなる時に、藤堂高虎と天海僧正が、危篤の家康の病床に招かれ、三人一つ所に末永く魂鎮まるところを作ってほしいという遺言されたので、藤堂高虎の屋敷があった場所に創建されたとされています。

 また、江戸市民が東照宮に参拝しやすくするために上野に創建されたとも言われています。

 東照宮は、創建当時は東照社と呼ばれていましたが、正保3年(1646)、朝廷は家康に「東照宮」の宮号を贈りましたので、それ以後、東照宮と呼ぶようになりました。

 現在の社殿は、慶安4年(1651)、3代将軍家光が大規模に造り替えたものです。



 東照宮の入口に、国の重要文化財に指定されている大きな石鳥居があります。

c0187004_09172725.jpg この鳥居は、寛永10年(1633)上州厩橋(現在の前橋)藩主で老中を勤めた酒井忠世が奉納したものです。

 石鳥居の左の柱に「寛永10年 酉四月十七日 厩橋侍従酒井雅楽頭源朝臣忠世」と刻まれています。  

 この鳥居の様式を明神型鳥居といいます。

 酒井忠世は、2代将軍秀忠付の年寄でしたが、家光が世継となると家光付の年寄となります。

 家光は、平素口数少なく厳正な忠世を最も畏れたといいいます。

 この鳥居を奉納された翌年の寛永11年家光が30万の大軍を率いて上洛していた7月に西の丸が火災で焼失する事態が起こり、忠世は責任をとって寛永寺に退去しましたが、これがかえって家光の怒りをかい失脚することとなりました。

c0187004_09173491.jpg 酒井忠世の子は忠行で、孫が4代将軍家綱の時代に下馬将軍とよばれ権力を振るい大老にまでなった酒井忠清です。


 大鳥居の石材には備前の御影石が使用されています。

 鳥居の右の柱には、得鉅石於備前国迎茲南海運干当山と刻まれています。

 正確な読み方はわかりませんが、「備前国で巨石を取り出し、南海を運んで当山に建てた」というような意味だと思われます。



 この石鳥居を建立した酒井忠世は、家光の勘気を蒙って失脚しましたが、その後、天和年間に石鳥居が地下に埋められたと言われています。

 天和年間になぜ地中に埋められるようになったかは詳しいことはわかりません。

 それを享保19年(1734)に再建したのが、7代後の酒井雅楽頭家の当主である酒井忠知(忠恭)です。

c0187004_09174429.jpg 石鳥居の裏側には、そのことが刻まれています。


  鳥居の裏には次のように刻まれています。


「右石華表者七世祖考酒井忠世所奉建也。今茲蒙台命加琢磨奉再建之。享保十九年甲寅十二月十七日、厩橋城主従四位下酒井雅樂頭減朝臣忠知」


「華表」とは「鳥居のこと」、「琢磨」とは「玉などをとぎ みがくこと」です。

 すると石鳥居は、7代前の祖先である酒井忠世が建てたものです。今、将軍の命令を賜って、磨きなおし再建しました。享保19年 酒井忠知」といった意味だと思います。
 酒井忠知は、後に酒井忠恭と名前を変えていて、老中まで勤めています。
 

 時には、鳥居に刻まれている文字を読んで見るのも良いものです。


 この石鳥居は基礎工事が万全だったため、安政の大地震、関東大震災の折にも少しも傾かなかったことで有名です。





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by wheatbaku | 2016-02-07 23:17 | Trackback
陽運寺

 「於岩稲荷田宮神社」の道路を挟んだ向かい側にも、お岩様がお祀りされています。

  こちらは陽運寺という日蓮宗のお寺です。

  

c0187004_09284791.jpg 陽運寺は、昭和の初めに創建されたお寺だそうです。
 陽運寺のホームページによれば、陽運寺は水戸市にある昌寺の貫首であった蓮牙院日建上人が昭和の初め頃建立したそうです。


c0187004_09291356.jpg陽運寺の本堂は宝暦七年(1757)建造の薬師堂を移築したものだそうです。

 お岩稲荷をお祀りしているのは、陽運寺が建立された場所が田宮家の屋敷があった場所であることによるものだそうです。

c0187004_09293134.jpg そのため、境内には「お岩様縁(ゆかり)の井戸」もあります。(右写真)

 しかし、前回ご紹介したように「於岩稲荷田宮神社」にも井戸があります。

 そこで陽運寺が建立されている場所にも田宮家が住んでいたのか、少し疑問になりましたので、幕末の切絵図を見てみました。

 それによると、陽運寺がある場所は、その切絵図では、櫻井家の屋敷となっていました。

 長い江戸時代のことなので、田宮家の屋敷が移転したこともありえますので、断定は難しいと思いますが、幕末時点では、陽運寺の場所には田宮家はなかったようです。

 しかし、陽運寺でもお岩様をお祀りされていますので、こちらもお参りするとより一層お岩様の御利益があると思います。

 陽運寺では、「縁きり・縁結び祈願のお寺」を唱っています。


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by wheatbaku | 2016-02-05 09:25 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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