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江戸城天守炎上(明暦の大火⑥)

 昨日は、3月25日から31日まで一般公開されている皇居乾通りに行ってきました。

c0187004_13512128.jpg 乾通りの一般公開は、今秋と来春は中止が決まっているとのことで、しばらくチャンスがなくなるので、昨日はお花見日和ではありませんでしたが、あえて行ってきました。

 乾通りの一般公開は、坂下門から乾門までの乾通りが公開されるものですが、日頃見ることのできない皇居内を見ることができました。
 右上写真は、富士見多聞ですが、手前の桜は2分咲き程度でした。

 乾通りを歩いた後は、皇居の東御苑に入り、天守台を見てきました。

 天守台は、江戸城本丸の一番北側に位置しています。

c0187004_13522429.jpg 現在、残された天守台は、明暦の大火で焼失した天守を再建する計画で、明暦3年から工事が着工されたものの、天守の必要性が薄れたとの保科正之の意見が通り、天守の再建が見送られたため、天守台だけが残されたものです。

 江戸城の天守は、3度築造されています。

 まず、初代将軍徳川家康が慶長11年(1606)に築造しました。これが「江戸城 その全容と歴史」で西ヶ谷恭弘先生が「慶長度天守」と呼んでいる天守です。

慶長度天守が築かれた16年後の元和8年(1622)に2代将軍秀忠が「元和度天守」を築造しました。

さらに元和度天守築造後16年たった寛永15年(1638)に3代将軍家光が築造した天守が「寛永度天守」が築かれました。

つまり、将軍の代替わりごとに築き直されているわけです。

元和度・寛永度の天守は、現在の天守台とほぼ同じ位置にありました。

しかし、家康が築いた慶長度天守は、現在の天守台より南の本丸中央に近い場所にありました。

また、家康の築いた天守は白漆喰塗りの天守で、冬には白雪を冠ぶった富士山と並び立つようだったそうです。

秀忠が築造した天守の様子は史料が残されていないため詳しいことはわかっていないようです。

家光が築造した寛永度天守は五層五階地下一階ので、石垣が約13メートル、棟までの高さが約45メートルありました。全体で60メートルにも達する巨大天守でした。

また、「江戸城 その全容と歴史」によれば、壁面は燻加工され防火性を高めた黒色の銅板が貼られていたため、天守は黒い色をしていたそうです。

明暦の大火の第一の出火元本郷の本妙寺から起きた火事の際には、江戸城は幸いなことに炎上しませんでした。

しかし、第二の出火元である小石川伝通院表門坂下からの火事は、小石川にある水戸藩の下屋敷を焼き、堀を飛び越え、竹橋内の天樹院(千姫)の屋敷や将軍の弟である甲府藩主松平綱重や館林藩主松平綱吉の屋敷を炎上させ ました。

そして、ついに本丸にも火事が近づいてきました。天守に火が移ったのは「明暦の大火」(黒木喬著)によれば正午から午後1時にかけてだったとされています。

防火性能の高い黒燻加工のされた銅板が貼ってあった天守ですが、どういう理由かわかりませんが、2層の窓が開いていたため、そこから火が天守の内部に入り込み炎上したそうです。

「後見草」には、「御天守二重目の銅窓の戸内より開き是より火先吹込、移り申候よし」と書いてあります。

c0187004_13533044.jpgそして、本丸と二ノ丸にも火が移ったため、将軍家綱も西の丸に避難することに決しました。

この時、大奥の女中たちも避難しましたが、大奥の中にいて表の様子のわからない奥女中のを避難させるために、松平信綱が、表の座敷の畳を一畳ずつ裏返して逃げ道の目印としたとされています。
 天守台近くの元大奥であった辺りの桜は結構咲いていました。


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by wheatbaku | 2016-03-29 13:36 | Trackback
吉原散歩

昨日は、毎日文化センターの「盛り場散歩」があり、「吉原」をご案内してきました。

c0187004_19204858.jpg東京は開花宣言が既に出たので、花見ができるかと期待していましたが、平年以下の低温が続いたため、まだ2分咲き程度で、しかも昨日も平年以下の気温でしたので、ちょっと寒い中での散歩でした。

 そんなことで、ご参加いただいた皆さんには大変な散歩だったかもしれませんが、案内する側の私としては楽しい散歩でした。
 右写真は、山谷堀からみたスカイツリーです。
 まだ咲き始めです。


 吉原は、幕府公認の遊郭で、小説や浮世絵の題材にもなっている場所で、江戸で最も有名な場所の一つでしたので、かねて案内したいと思っていました。

しかし、現在でも「吉原」と言えば、有名なソープランド街ですので、受講者の皆さんをご案内するリスクもあるだろうと、長いこと二の足を踏んでいた地区でもあります。

そこで、今回は、下見をした際に吉原神社の宮司さんと、吉原交番に治安状況を教えていただきました。

両者の話では、「現在の吉原はまったく問題はありません。ました史跡散歩のグループとトラブルを起こしたとなれば、ソープ側で大問題になります。安心してお越しください」ということでした。

そこで昨日は安心して散歩しましたが、一人で下見をしている際には、呼び込みのお兄さんに声を何回もかけられましたが、団体で歩いている際には、一度も声をかけらませんでした。

安心して史跡散歩できる地区だと実感しました。

c0187004_19195065.jpgさて、吉原名物といえば、「見返り柳」です。

現在は、土手通り沿いのガソリンスタンドの前に6代目と言われる「見返り柳」が植えられています。

しかし、今の時期では、緑の葉も芽生えてなく、幹だけが植えられています。

参加者の皆さんも、ちょっとがっかりという雰囲気でした。

今回の散歩では、地元の人に、いろいろ声をかけられました。五十間道や大門で説明中に、案内に加わっていただきました。

そのため、大門でも参加者の皆さんの写真を撮り損ねてしまいました。

c0187004_19195935.jpg右写真は、吉原で唯一残っているお歯黒どぶの遺構として残っている石垣です。

吉原の郭内が一段と高くなっていて、お歯黒どぶのほうが一段低くなっていたそうです。

お歯黒どぶの跡は埋め立てられて道路となっているため、幅が広くなっている場所もありますが、ほぼ江戸時代のまま残されています。

c0187004_19200721.jpg吉原神社は、五十間道の脇にあった玄徳稲荷社、それに九郎助稲荷社など吉原の四隅にあった四つの稲荷社を明治5年になって合祀した神社です。

昭和9年に現在地に鎮座しました。その際に吉原弁財天も合祀し、現在は、浅草名所七福神の札所ともなっています。

c0187004_19202477.jpg吉原を出た後で、吉原の名妓高尾太夫のお墓がある春慶院をご案内しました。

高尾大夫は、三浦屋を代表す大夫名で、高尾太夫を名乗った遊女は7人とも11人ともいわれ諸説あり、はっきりしていない。

 台東区教育員会の説明板では、仙台高尾世あるいは万治高尾といわれた二代目高尾太夫の墓とされています。

この他、江戸六地蔵のある東禅寺や待乳山聖天もご案内しましたが、ちょっと寒い陽気でしたので、5時から散歩後の飲み会です。

c0187004_19203150.jpg寒い中で歩いていたので、熱燗かと思いましたが、皆さんがまず頼んだのはビールのジョッキでした。

2時間以上飲んで騒いで楽しい時間を過ごしました。

最後にパチ!

飲み会までご参加いただいた皆さんお疲れ様でした。


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by wheatbaku | 2016-03-27 19:28 | Trackback
浅草門の悲劇(明暦の大火⑤

今日は、明暦の大火の5回目として「浅草門の悲劇」について書きます。

浅草門は、現在の浅草橋の南たもとにありました。

c0187004_08581895.jpg右の浅草橋は北側から撮っていますので、橋の先にあったことになります。

 浅草門は、奥州街道の出入り口の関門として、神田川が隅田川に流れ込む部分に建てられました。

浅草門の浅草は、「浅草寺」の正面にあることから付けられた名前です。

「浅草寺 見附で聞けば つきあたり」という句の通り、浅草見附(浅草門)の真北が浅草寺になります。

門が建てられたのは、寛永13年(1636)で、門を構築したのは、越前藩主松平忠昌でした。

c0187004_08582574.jpg開幕当時は、現在の常盤橋門が、浅草口と呼ばれましたが、この門が構築されてからは、浅草口の名前も、こちらに移りました。

浅草見附(浅草門)は橋の南側にありましたが、浅草見附跡の碑は、橋の北側に設置されています。

ちなみに、浅草橋の南側は中央区で、北側は台東区です。


浅草門では、明暦の大火の際に2万人以上の人が死ぬという悲劇が起きました。

 火事が小伝馬町牢屋敷に近づいた時に、石出帯刀が、囚人の切放をしたことは、前回書きました。

 これが結果的に悲劇を引き起こすこととなりました。

 小伝馬町牢屋敷の囚人を切放したことが、浅草門に正しく伝わらず、「囚人が牢屋敷から逃げ出した」と伝わりました。

浅草門は、江戸市中から浅草方面に逃げる逃げ道でした。そのため、多くの市民が殺到していました。

本来であれば、この人たちを逃すために、門は開放されていなければなりません。

しかし、囚人が脱走したと勘違いした番人が警戒のため門を閉めたといわれています。

そのため、浅草門の枡形内には大勢の人が集まり、身動きできない状態となりました。

そこに火事が迫り火の粉が降り注ぐ事態となりました。

逃げ場を失った人の中で、体力のあるものは、浅草門の石垣をよじ登り屋根を乗り越えて、そこから神田川に飛び込みました。

 彼らは石垣に頭や体を打ちつけ大けがをしたり死亡したりしました。

無事堀に飛び込めた人も後から飛び降りてくる人たちに圧殺されたりしました。

 下の絵は「むさしあぶみ」に描かれている絵ですが、浅草門の屋根から人々が飛び降りている様子や神田川に大勢の人があふれている様子がよくわかります。

c0187004_08583355.jpg

 そうしているうちに浅草門自体に火が燃え移り、門が大音響とともに崩れおちました。

これにより門内にいた人たちも焼き尽くされてしまいました。

 翌日、浅草門は黒焦げの死体で埋め尽くされていたそうです。

 ここでの死者は2万3千余りと「むさしあぶみ」は書いています。


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by wheatbaku | 2016-03-25 09:08 | Trackback
切放(きりはなし=解放) (明暦の大火④)

明暦の大火の際に、小伝馬町牢屋敷の囚人の切放(きりはなし=解放)が行われました。

今日は、この切放(きりはなし=解放)について書いていきます。

明暦の大火の第1の出火場所である本郷本妙寺から出火した火事は西北の風にあおられて南に進み、湯島天神、神田明神、そして当時は神田にあった東本願寺も焼失しました。

さらに、神田・日本橋に延びていきました。

 日本橋の長崎屋には、オランダ商館長のザカリア=ワゲナールが滞在していて、ワゲナールは明暦の大火に遭遇しています。

 日本橋を焼いた火事は、市村座・中村座のある堺町、さらに吉原の遊郭を全焼させました。

 そして、火事は小伝馬町の牢屋敷にまで近づいてきました。 

 小伝馬町牢屋敷は、天正年間(157392)に常盤橋外にできた牢屋が慶長年間(15961615)に小伝馬町に移されたとされています。 

 明治8年(1875年)に市ヶ谷監獄が設置されるまで、江戸時代を通して小伝馬町に設置されていました。

 下写真は、小伝馬町牢屋敷があった十思公園です。

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 小伝馬町牢屋敷は、約2600坪の面積があり、囚人を収容する牢屋のほか、囚獄つまり牢屋奉行の役宅もありました。

 右写真は、小伝馬町牢屋敷の模型で、十思公園西側の十思スクエァ玄関に展示されています。

c0187004_09594134.jpg

 牢屋奉行は、小出帯刀が世襲で勤めました。

石出帯刀は、もと本多図書常政という大番の武士だったといいます。

天正年間に徳川家康に仕え大坂の陣にも出陣しましたが、後に牢屋奉行を命じられ、世襲となりました。

 明暦の大火当時の牢屋奉行は、石出帯刀吉深といいました。

 

 この石出帯刀は、囚人たちが焼死するのは「ふびんである」と考え、火事が牢屋敷に近づくと、切放(きりはなし=解放)を行いました。

 牢屋奉行とは、町奉行の配下で与力格の役職でしたので、囚人解放などの重要事項を決定する権限はありませんでした。
 囚人解放は石出帯刀が独断で行ったのでした。

 石出帯刀は、戻った者は罪一等を減じ、逃げたものは雲の果てまで追いかけさがしだす。浅草の善慶寺に3日後に集まるようにといって数百人の囚人を解放しました。

 黒木喬著「明暦の大火」によると

 「石出勘助の書上」という記録では、解放された囚人は120から130人で、指示通り19日に全員が善慶寺に戻ったと書かれているそうです。

 しかし、黒木喬氏は、解放された囚人は「むさしあぶみ」に書かれているように数百人で、何人かは戻らなかったのではないかとも書いています。

c0187004_10001326.jpg また、囚人が集合するように指示されたお寺として「むさしあぶみ」に書かれている「下谷のれんけい寺」という寺は存在しないので、浅草の善慶寺だろうと黒木氏は書いています。

 右写真は、現在の善慶寺です。

 いずれにしても、石出帯刀の処置は、事後、上司から高く評価されたそうです。

 この制度は、その後、正式に取り入れられて、切放後3日以内に北町・南町奉行所または本所回向院に戻れば、罪一等を減じ、戻らなければ、遠島ということになったようです。

 切り放しは、江戸時代、公式的には12回(もしくは14回)行われています。

 さらに、この石出帯刀が初めて行った切放(きりはなし=解放)は、現代の法律(刑事収容施設法)でも、制度として残っています。

 以下刑事収容施設法215条に「災害時の避難及び解放」として定められた切放の条文です。

第二百十五条  留置業務管理者は、地震、火災その他の災害に際し、留置施設内において避難の方法がないときは、被留置者を適当な場所に護送しなければならない。

2  前項の場合において、被留置者を護送することができないときは、留置業務管理者は、その者を留置施設から解放することができる。地震、火災その他の災害に際し、留置施設の外にある被留置者を避難させるため適当な場所に護送することができない場合も、同様とする。

3  前項の規定により解放された者は、避難を必要とする状況がなくなった後速やかに、留置施設又は留置業務管理者が指定した場所に出頭しなければならない。

 まさに石出帯刀が実行し指示した通りのことが現代の法律でも定められています。

 350年前の小伝馬町牢屋敷の牢屋奉行石出帯刀がとった措置が、現在も踏襲されていて、当時の石出帯刀の判断が現在も高く評価されていることになります。


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by wheatbaku | 2016-03-22 10:05 | Trackback
明暦の大火の出火原因(明暦の大火③)

 今日は、明暦の大火の出火原因について書いてみたいと思います。

 明暦の大火は、江戸最大の火事であったことから、その出火原因については諸説があります。今日の記事は長いのですが、ちょっとおつきあいください。

1、振袖供養から出火説

 出火原因が諸説ある中で、最も広く信じられているのが本妙寺の振袖供養の火から出火したという話です。

c0187004_11162359.jpg これが広く信じられていたということは、明暦の大火は、俗に「振袖火事」とも呼ばれていることでわかります。

それでは、振袖供養とはどういうお話だったについて、矢田挿雲が中公文庫新版 「江戸から東京へ〈1〉麹町・神田・日本橋・京橋・本郷・下谷 」 の中に詳しく書いていますので、それに基づいて書いてみます。

明暦の大火の4年前の承応3年(1654)春3月、麻布の質商遠州屋彦右衛門の一人娘梅野が、母に連れられて、菩提寺の本妙寺に参詣したついでに、浅草観音にまわるつもりで、上野山下まで来たところ、上野山内に姿を消した寺小姓風の美少年に一目ぼれしたのが発端です。

美少年は、紫縮緬(むらさきちりめん)の畝織(うねおり)へ荒磯と菊の模様を染めて、桔梗の紋をつけた 振袖を着ていましたので、梅野は母親にねだって寺小姓が来ていた通りの振袖を縫ってもらい、梅野は、枕に鬘(かつら)をつけて、それを振袖で包んで夫婦遊びをしていました。

c0187004_09525569.jpg両親は八方へ手分けをして、その美少年を探しますが見つかりませんでした。

そして、梅野は恋わずらいにより翌年の承応4年(1655)1月16日、17歳でなくなってしまいました。

遠州屋では、梅野の棺を振袖で蔽(おお)って、葬式をすませ、振袖は本妙寺に納めました。

本妙寺では葬儀が済むと、古着屋へ振袖を売り払いました。

《昔は、葬儀には亡くなった人が生前一番愛用していた衣類を棺に掛けて行われるのが慣例で、埋葬の後にはその衣類が古着屋に売られ、墓の穴掘り人足の浄めの酒代にされたそうです。》

c0187004_09211356.jpgその振袖が、翌年の梅野が亡くなった同じ日に行われた、上野の紙商大松屋又蔵の娘きの(17歳)の葬式に、再び本妙寺に納まりました。そして本妙寺では、それをまた売り飛ばされました。

すると翌年の同月同日に、今度は本郷元町の麹商喜右衛門娘いく(17歳)の葬式に三度本妙寺に戻ってきました。

三度も同じことが重なったため、さすが、住職もこわくなって、今度は振袖を古着屋の手へ渡すことを思いとどまり、娘三人の親が施主となって、明暦3年1月18日、本妙寺内で大施餓鬼を行い、振袖を火に投じて焼くことにしました。

この日、振袖を火に投じると一陣の竜巻が、北の空から舞いさがり、火のついた振袖がさながら人間の立った姿で、80尺の本堂真上に吹き上げたため、火の粉は雨のように降りそそぎ、たちまち本堂から出火し、これが近隣に燃え広がっていったといいます。

 

以上が「振袖火事」の伝説ですが、「明暦の大火」研究の第一人者黒木喬氏は、この説に否定的です。

黒木氏著の「明暦の大火」によると、この話は真実ではないそうです。だいいち振袖伝説がいつごろどのようにつくられたのかもはっきりしていないそうです。

 ただ、明暦の大火の25年後の天和2年(1682)に起きたいわゆる「八百屋お七の大火」の事件が影響を及ぼしていると書いています。

つまり、「八百屋お七の大火」より明暦の大火ははるかに被害が大きいのだから、なにか変わった因縁話があったにちがいない。いやないほうがおかしい。おそらくこのような心理が民衆に働いたのではなかろうかと書いています。

 

2、本妙寺火元引受説

 本妙寺が火元だと信じられています。

しかし、本妙寺は実際の火元ではなくて、火元を引き受けたのだと言っています。

 本妙寺のHPには以前次のように書かれていました。(現在のHPには掲載されていません)

しかし、本妙寺は火元ではない。幕府の要請により火元の汚名をかぶったのである。

真相は、本妙寺に隣接して風上にあった阿部家が火元である。

老中の屋敷が火元とあっては幕府の威信失墜、江戸復興政策への支障をきたすため、幕府の要請により本妙寺が火元の汚名を引受けたのである。 

こう考える理由は、当時、江戸は火事が多く、幕府は火元に対しては厳罰をもって対処してきたが、本妙寺に対しては一切お咎めなしであった。

それだけでなく、大火から三年後には客殿、庫裡を、六年後には本堂を復興し、十年後には当山が日蓮門下、勝劣派の触頭に任ぜられている。これはむしろ異例な厚遇である。

さらに、当山に隣接して風上にあった老中の阿部忠秋家から毎年当山へ明暦の大火の供養料が大正十二年の関東大震災にいたるまで260年余にわたり奉納されていた。

この事実からして、これは一般に伝わる本妙寺火元説を覆すものである。


3、放火説

明暦の大火が発生した当時、もっとも広く信じられていたのは不逞浪人による「放火説」のようです。

明暦の大火が起きたのは明暦3年(1657)正月ですが、その6年前の慶安4年(1651年)7月に「由比正雪の乱」が起きています。

この残党が放火したのでないかという説です。

 「玉露叢」という本に書かれているそうです。

また、幕府の石工棟梁の亀岡宗山が書いた「後見草」に、丸橋忠弥や由比正雪の残党が火をつけたのではないかという説が書かれています。

さらに「幕府が江戸の都市改造を実行するために放火したとする幕府放火説」もあると書いている本もあります。

このように諸説がありますが、実際の原因については明確になっていないということのようです。





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by wheatbaku | 2016-03-18 09:07 | Trackback
本妙寺(明暦の大火②)



 今日は、明暦の大火の2回目ですが、明暦の大火の火元とされている本妙寺をご案内します。

 本妙寺は、江戸時代は本郷にありましたが、現在は巣鴨にあります。

 JR巣鴨駅から徒歩10分ほどの距離にあります。


c0187004_09210714.jpg本妙寺の山号は徳栄山と言いますが、これは、徳川家が栄えるようにとの願いでつけられたものです。

本妙寺は、もともとは、徳川家に仕えた久世家、大久保家、阿部家などが、元亀2年(1572)徳川家康が岡崎城から浜松城に移った際に浜松に創建されたお寺です。

こうした経緯から徳栄山と云う山号にしたと思われます。


その後、徳川家康の江戸入府した際に、久世家、大久保家、阿部家等と共に江戸へ移転しました。

c0187004_09211356.jpg本妙寺のHPによると「当初は江戸城清水御門内の礫川町へ移建されたが、江戸城の拡張に伴い飯田町、牛込御門内、小石川(今の後楽園)へと移動させられている」と書かれています。しかし、「江戸城清水御門内の礫川町」というのがどこか不明です。

寛永13年(1636)出火のため全焼した後、久世大和守広之の尽力により本郷丸山に替地をうけ、約6000坪の境内をもつ大寺院として復興しました。

 しかし、明暦3年(1657)正月十八日、明暦の大火によってすべて焼失しました。

その後、火元と言われながらも郊外へ移転を命じられることなく本郷での再建を許され、江戸時代を通じて本郷にありましたが、明治43年(1910)に巣鴨に移転しました。


明暦の大火供養塔

c0187004_09241587.jpg  本堂の横に、「明暦の大火供養塔」があります。
 明暦の大火は、本妙寺が火元とされていますので、その人たちを供養するために建てられたものです。

ここには、いつお参りしてもお花が供えられています。



本妙寺には、遠山金四郎景元をはじめ有名人のお墓が多くありますので、明暦の大火には直接的には関係ありませんがご案内しておきます。

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北町奉行遠山金四郎景元の墓、千葉周作成正の墓、本因坊のお墓、関宿藩主久世大和守歴代の墓の順にご案内をしてきます。

遠山金四郎景元の墓
 遠山金四郎景元のお墓は墓地の東側奥にあります。
c0187004_09212783.jpg 写真左手が、遠山金四郎景元のお墓で、右手は遠山金四郎が建てた遠山氏先塋(せんえい)之碑です。
 遠山金四郎は、嘉永4年(1851)夏、軽い「中風」となり、翌嘉永5年(1852)3月24日、南町奉行辞任し、3年後の安政2年(1855)2月29日死去し、3月2日に葬儀が行われています。
 講談社現代新書「名奉行『遠山の金さん』の実像に迫る」によると、2月30日、3月1日に、北町奉行与力2人、同心3人、南町奉行与力7人。与力見習2人、同心6人さらに江戸町年寄3人が弔問に来ており、遠山金四郎が部下に慕われたお奉行であると書かれています。

 部下に慕われていたという証のものが、墓前にもあります。お墓の前の石灯籠がそれです。

右手の石灯籠は、小伝馬町牢屋敷の老奉行石出常真と南町奉行所与力東條為一・為文が寄進をしたもので、左手は、江戸町年寄の館興正、喜多村政文、樽忠温が寄進をしたものです。


千葉周作の墓

千葉周作はいうまでありません、北辰一刀流の創始者で、道場は神田お玉が池の玄武館です。

c0187004_09231124.jpg弟子には、幕末の有名人も数多くいます。

浪士組の清河八郎、山岡鉄舟、新選組の山南敬助などです。

千葉周作は、岩手県陸前高田市で生まれましたが、先祖を辿れば板東八平氏のうちの一つである名門千葉氏の出身です。

坂東八平氏の一である千葉氏の家紋は、星と月を象った「月星」です。この家紋が、千葉周作のお墓に刻まれています。


囲碁家元本因坊歴代の墓

本因坊という言葉をご存知の方も多いと思います。

c0187004_09213555.jpg本因坊というと現在は、囲碁のタイトルの名前を思っている方もいらしゃるかと思いますが、もともとは、本因坊は、囲碁の四家元の一つ(他には井上、安井、林の各家)です。

「本因坊」という名前は、京都・寂光寺の塔頭の一つ本因坊に 初代本因坊の本因坊算砂が居住していたことに由来します。
 本因坊算砂は本坊因家の初代頭領として「名人・本因坊」に叙せられ、また慶長8年(1603)、江戸幕府から初代の「碁所」に任ぜられました。
 「碁所」とは江戸城において将軍の御前で対局をする「御城碁」の棋士の手合いを差配したり、棋士の段位を定めたり、免状の発行権をもつなど、囲碁界最高の地位を保証された棋士です。
 碁所をめぐって四家はしばしば熾烈な争いを展開しましたが、その中で頂点に立ったのが本因坊家であり、庶民への広まりも含めた碁界の隆盛に貢献しました。
 その理由に実子相続とする世襲制ではなく、弟子の中で優れたものが相続する実力制だったことが挙がられます。

昭和になって最後の世襲本因坊二十一世本因坊秀哉が、本因坊の名は棋界随一の実力者が名乗るべきものであるということから、日本棋院に本因坊の名跡を譲り渡し、選手権制による本因坊戦が行われることになりました。


関宿藩主久世大和守歴代の墓

c0187004_09231778.jpg久世氏は、もともと三河の武士でした。そして、本妙寺を創建した一族でもあります。

初代の広之が関宿藩主となり、以後、2代目重之の時一時、関宿を離れたこともありますが、まもなく関宿藩主に戻り、以後幕末まで、長いこと関宿藩主でした。

久世家の歴代藩主は、幕閣の枢要な地位を占めることが多く、その中でも、初代広之、2代重之、4代広明、7代広周の4人が老中に就任しています。






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by wheatbaku | 2016-03-16 08:58 | Trackback
明暦の大火の3カ所の出火場所(明暦の大火①)

 今年のお題「江戸の大変」を勉強する上で欠かせないのが「明暦の大火」だと思います。

「明暦の大火」は、明暦3年正月18日から正月20日にかけて起きた火事で、火災の大きかった江戸でも、最大の火事と言われています。

 この火事では、江戸城の本丸・天守をはじめ、大名屋敷160、旗本屋敷770余り、寺社350が焼失し、結果的に江戸市街の6割が焼き尽くされたと言われています。

死者も史料により相違はありますが、「むさしあぶみ」によれば10万人以上となっています。

この「明暦の大火」は、被害が大きかっただけでなく、大火を防ぐための都市改造が行われ江戸が大きく変貌するきっかけともなりました。

こうしたことから「明暦の大火」についての理解は大切なことだと思います。

そこで、今日から数回にわたり、明暦の大火に関係する場所を訪ねていきたいと思います。

今日は、大火の出火場所について書いてみたいと思います。

 明暦の大火は、一か所で発生したものではなく、本郷・小石川・麹町の3か所から連続的に発生しました。

 そのため、江戸最大の火事となりました。

第1の火事
c0187004_09525569.jpg 第1の火事は、明暦3年正月18日未の刻(14時頃)、本郷丸山の本妙寺より出火しました。

本妙寺は日蓮宗のお寺で、現在は巣鴨に移転していますが、江戸時代には本郷にありました。(右上写真は巣鴨にある現在の本妙寺の山門です)

江戸時代に本妙寺があった場所は、現在は住宅地となっていて、当時の面影はまったくありません。

c0187004_09355017.jpgしかし、「本妙寺坂」という坂の名前に、その名を残しています。

本妙寺坂は、東大の本郷キャンパスの西側にある坂で、東京メトロ「本郷三丁目」から徒歩5分の場所にあります。

右写真の右手前に写っている文京区の設置した説明板には次のように書かれています。

 この坂は、本郷の台地から菊坂へ下っている坂である。菊坂をはさんで真向かいの台地には(現在の本郷5-16あたり)かつて本妙寺という法華宗の寺があった。境内が広い大きな寺で、この寺に向かって下るであったところから「本妙寺坂」と呼ばれた。

 本妙寺は明暦の大火(振袖火事・明暦3年ー1657)の火元として有名である。
 明治43年豊島区巣鴨5丁目に移転した。

c0187004_09362010.jpgまた、「本妙寺跡と明暦の大火」と書かれた説明板も設置されていて、それには下記のように書かれています。
 右写真の右手前に説明板が写っています。
 写真正面が本妙寺があった方向です。
 もうすっかり住宅地でした。
 

 本妙寺(現在豊島区巣鴨5-35-6)は旧菊坂82番地(現本郷5-16)の台地一帯にあった法華宗の大寺院であった。寺伝によれば寛永13年(1636年)にこの地に移ってきた。

 境内には北山奉行“遠山の金さん”こと遠山左衛門尉景元、幕末の剣豪千葉周作や囲碁の本因坊歴代の墓所があった。

 明暦3年(1657年)の大火“振袖火事”の火元とされているが、原因は諸説ある。この大火後、幕府は防火対策を中心に都市計画を打ち出し、文京区の地域には寺社、武家屋敷などが多く移転してきて、漸次発展することとなった。

 この第1の出火による火事は神田・日本橋・京橋一帯を焼きつくしたうえで、さらに隅田川対岸の佃島にまで及び、寅の刻(午前4時頃)には鎮火しました。

第2の火事

 第1の出火による火事がようやく鎮火して余り時が経過しない正月19日巳の刻(10時頃)に小石川伝通院表門下新鷹匠町の大番衆与力の宿所から再び出火しました。

c0187004_09395500.jpg小石川伝通院表門下新鷹匠町大番衆与力の宿所というのは、色々な箇所で書かれていますが、実際はどこなのか明確に書いたものがありませんでした。

幕末の切絵図で探しても「新鷹匠町」という町は見つかりません。

しかし、小石川伝通院は有名なお寺で、江戸時代と同じ場所にあるので、実際に現地に行ってみました。
 右上写真が伝通院本堂です。

c0187004_09402442.jpg「伝通院大手門下」ということですので、伝通院の表門を探してみました。

多分、表門は、現在の春日通りの伝通院前交差点付近だと思います。(右写真が伝通院前交差点です。右奥遠方に伝通院の山門が写っています。

次いで「表門下」というのを探してみました。
 この伝通院交差点の南側に「安藤坂」という坂があり、南に向かって下っています。

c0187004_09422687.jpg この安藤坂の途中に文京区教育員会が設置して説明板があります。
 (右写真の左端です。)

 それには次のように書かれています。

 この坂は伝通院前から神田川に下る坂である。江戸時代から幅の広い坂道であった。傾斜は急であったが、1909(明治42)に路面電車(市電)を通すにあたりゆるやかにされた。

 坂の西側に安藤飛騨守の上屋敷があったことに因んで、戦前は「安藤殿坂」、戦後になって「安藤坂」とよばれるようになった。

 古くは坂下のあたりは入江で、漁をする人が坂上に網を干したことから、また江戸時代に御鷹掛の組屋敷があって鳥網を干したことから「網干坂」ともよばれた。

「御鷹掛の組屋敷」という語句もでてきて「新鷹匠町」らしき感じもしますので、「伝通院表門下新鷹匠町」というのは、この近くらしいと推定できそうです。

 この第2の出火場所「小石川伝通院表門下」から出火した火事は、江戸城を襲い、本丸や天守を焼きつくしました。そして、日比谷一帯まで焼き尽くし、酉の刻(午後6時頃)に海辺まで灰となりました。

第3の火事

 第2の出火が鎮火しないうちに、3番目の火事が、正月19日申の刻(午後4時頃)、麹町5丁目の町家より出火します。

 麹町5丁目と云うのは、幕末切絵図から見ると、現在の麹町4丁目交差点より東側です。
 麹町4丁目交差点近くから出火したと思われます。

 第3の火事により、永田町、桜田門外、芝一帯が焼失し、丑の刻(午前2時頃)には増上寺も焼失した後、火事は海辺に至りようやく鎮火しました。


 このように明暦の大火は、次々と3カ所から出火したことにより、江戸の大部分を焼失させる大きな火事となりました。

 赤印が「本妙寺跡」の説明板です。
 紫印が「本妙寺坂」の説明板です。



赤印が伝通院です。
青印が伝通院前交差点です。
紫印が「安藤坂」の説明板です。


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by wheatbaku | 2016-03-14 09:34 | Trackback
犬山城の「薩摩義士之碑」(宝暦治水工事ゆかりの地を行く⑥)

 宝暦治水工事ゆかりの地を行くの最後は犬山城です。


c0187004_11524288.jpg 常連コメンテーターの鶴ヶ島の小ツルさんが、このブログのコメントで「犬山城に石碑があった」と書いてくれたので、犬山城まで足を延ばしました。

c0187004_12001511.jpg 犬山城へは名鉄の「犬山駅」で下車して徒歩またはタクシーで行くのが一般的なのでしょうが、木曽川沿いの犬山城を見るために名鉄「犬山遊園」で下車して木曽川沿いの遊歩道を歩いていきました。

c0187004_15463705.jpg こちらのほうが近いようにも思います。

 おかげで、木曽川に臨ぞむ小高い山上に築かれ「後堅固(うしろけんご)の城」と言われた犬山城の雄姿をカメラに収めることができました。
天守最上階からみる木曽川も見事です。

c0187004_11530351.jpg 犬山城は、天文6年(1537)、織田信長の叔父織田信康が築いたといわれています。

c0187004_11533084.jpgその後、しばしば城主が変わり、小牧長久手の戦いの際には豊臣秀吉が入城し、小牧山城に陣を構えた家康とにらみ合ったこともありました。

江戸時代に入り、元和3年(1617)尾張徳川家の重臣成瀬正成が拝領しました。
c0187004_15502317.jpg このとき改良が加えられ、現在の天守の姿ができたといわれています。以後、成瀬家が幕末まで城主を務めることになります。

 成瀬正成は、小牧長久手の戦いで初陣を果たし、家康の側近の一人となりました。

 慶長15年に、家康の命により家康の九男である義直の傅役となりました。

 翌慶長16年に尾張藩政を任せられていた平岩親吉がなくなり、慶長17年から、竹腰正信とともに尾張藩附家老を命じられ、尾張藩政に関わりました。

c0187004_15482460.jpg そして、元和3年(1617)に将軍徳川秀忠より成瀬正成が拝領したものです。

 明治になって、一旦、県の所有となりましたが、明治28年に成瀬家に譲渡され、長いこと全国唯一の個人所有の城として大変有名でしたが、平成16年からは、「財団法人犬山城白帝文庫」の所有となっているそうです。 

c0187004_11542502.jpg 天守最上階からの眺めは見事でしたが、さすが最古の天守だけあって、登り階段が急なのには驚きました。 そういえば、松本城や彦根城の階段も急でしたね。

「薩摩義士之碑」は、この犬山城昇り口に建てられています。

 この碑は、碑文によると宝暦治水工事を行った薩摩義士たちに感激した大藪嘉一氏の遺言に基づきその兄弟が大正13年に建てたものだそうです。


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by wheatbaku | 2016-03-09 11:30 | Trackback
薩摩藩に対す感謝、今も続く!(宝暦治水工事ゆかりの地を行く⑤)

 今日は、現在も西濃地域では、薩摩藩に対する感謝が続いていることについて書きます。

「大巻薩摩工事役館跡」について前回ご案内しましたが、その「大巻薩摩工事役館跡」を訪ねた時にちょっと驚いたことがありました。

c0187004_10233115.jpg 記念碑や平田靭負の銅像を見た後、さぁ帰ろうとして振り返って驚きました。

 記念碑のある場所の目の前の畑が花壇となっていて、そこに「薩摩花壇」と名付けられていました。

c0187004_10233906.jpg その花壇で大勢の人が花を植えているところでした。

 そこで、少しお話を伺うと、地元の皆さんがボランティアで花壇を整備しているとのことでした。

 当然、薩摩藩が治水工事を行ったこともよく知っているということでした。

 

 また、「大巻薩摩工事役館跡」から名古屋に車で帰る途中、名古屋のお世話になった知人からちょっと質問がありました。

 その質問は「この辺りを通る時にいつも不思議に思っていることがある。揖斐川沿いの堤防を通る道路に「薩摩」という名前がついているのだけれど、それはお前が調べている宝暦治水工事に関係しているのか?」という質問でした。

 私もまさか岐阜県の道路に「薩摩」の名前がついているとは思いませんでした。

 早速、調べてみると「薩摩カイコウズ街道」とういう道路があります。

c0187004_10251214.jpg 「薩摩」はすぐに宝暦治水工事との関係だと想像できましたが、「カイコウズ」とは何だろうと思いました。
 そこで、また調べました。「カイコウズ」とは植物の名前で鹿児島県の県の木です。漢字で書くと「海紅豆」と書くそうです。

 この街道は、海津市から関ヶ原までの約35キロの道路で、沿線には鹿児島県の木「カイコウズ」が植えられているそうです。
 ちょうど国営木曽三川公園の西側を揖斐川にそって北上する道路と思われます。
 下の写真は国営木曽三川公園の展望タワーからとった写真ですが、流れている川が揖斐川です。
 写真中央に斜めに揖斐川沿いに写っている道路が「薩摩カイコウズ街道」です。

c0187004_10234751.jpg

「薩摩カイコウズ街道」は、直接的には、岐阜・鹿児島姉妹県盟約20周年を記念し、平成3年に整備された道路です。

岐阜県と鹿児島県が姉妹県となったのは、いうまでもありません、宝暦治水工事を薩摩藩が行った縁によるものです。

 また、「宝暦治水・薩摩義士」という本を見ていたら次のような話が載っていました。

c0187004_10235781.jpg 昭和21年から34年まで鹿児島市長を務めた勝目清氏の手記のなかに、勝目清たちが昭和の初めに、「木曽川治水犠牲者墓参団一行」50数人と木曽三川地域を訪れた時の様子を描いた次のような部分があります。

船着き場に上陸すると、町村長をはじめ学童、青年団員、婦人会員、有志諸氏が道路の両側に整列して、我ら一行を歓迎しているのであるが、全く宮様を迎えるような出迎えぶりである。

 

ものすごい歓迎ぶりに勝目氏たち一行は大変驚いたし喜んだことでしょう。 しかし、さらに驚くことがあったようです。
 勝目清氏ともう一人が一行を代表して、南濃地区で長く薩摩藩士の顕彰に尽力していた西田喜兵衛氏宅を訪問した際のことが次のように書かれています。

玄関先だけで挨拶をする予定であったが、ぜひとのことで座にあがったら、床の間十畳敷きの上座に座らされて、どうなることかと思っていると、ご主人が衣服を整え、袴姿で次の間から丁重な挨拶である。ご主人の挨拶の後の話では、西田家では代々、薩摩の人には宝暦治水工事の恩に対して、かかる丁重な挨拶をしなければならぬと言い伝えられているのだということであった。

木曽三川地域の人々が代々薩摩藩に感謝していたことがよくわかるエピソードだと思います。
 この勝目清氏の手記に載っている話は、昭和の初めの話ですが、「薩摩花壇」と名付けられたお花畑や「薩摩カイコウズ街道」と名付けられた道路を発見して、西濃地域では、本当に今でも薩摩にたいする感謝の念が続いているんだと実感しました。

そういえば、「大巻薩摩工事役館跡」では、毎年、春には、薩摩義士顕彰祭が、地元の小学生なども参加して行われているそうです。




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by wheatbaku | 2016-03-07 10:07 | Trackback
「大巻薩摩工事役館跡」(宝暦治水工事ゆかりの地を行く④)

 今日は、岐阜県養老町にある「大巻薩摩工事役館跡」をご案内します。

 この「大巻薩摩工事役館跡」は、宝暦治水工事の総司令部ともいうべき本小屋があった場所です。

江戸時代は大牧村と呼ばれ、「孤愁の岸」でも「大牧村の本小屋」と書かれていますが、明治8年町村合併により大巻村となったため、現在は、「大巻薩摩工事役館跡」と、呼び方が統一されているそうです。

「大巻薩摩工事役館跡」は、住宅が散在するのどかな田園地帯の一画にありました。

養老町のHPには地番がないので探すのに苦労すると思いましたが、カーナビを見ながら行きましたら、運よく、迷わず到着しました。

「大巻薩摩工事役館跡」には、平田靭負の銅像と「薩摩工事役館趾平田靱負翁終焉地」と刻まれた石碑が立っています。

c0187004_10243214.jpg

c0187004_10251420.jpg養老町における薩摩義士顕彰は、大正元年頃から活発となり、大正14年に薩摩義士顕彰会が組織され、「大巻薩摩工事役館跡」に昭和3年に記念碑が建立されたそうです。 平田靭負の銅像は、平成元年に養老ライオンズにより建立されたものだそうです。

平田靭負は、宝暦4年に着任し、翌年の5月に工事が完了するまで、ここで総指揮をとりました。

c0187004_10264503.jpg宝暦5年(1755年)5月22 日までには、幕府の検分も無事終わり、最後まで本小屋に残り、残務整理をしていた藩士たちも、それぞれ、江戸や鹿児島に帰ることとなり、副奉行の伊集院十蔵らの江戸に帰る藩士たちは5月25日に、平田靭負たち鹿児島に帰る藩士たちは5月26日に美濃を発つこととなりました。

24日夜には、ささやかな宴が開かれ、その後、平田靭負は、江戸と鹿児島にいる家老たちへの報告書を書き上げます。

こうして、治水工事のすべてが完了し江戸に帰る藩士たちの出発日であった5月25日早朝、ただならぬ叫び声が役館にひびきわたります。

平田靭負が本小屋において自刃し果てたのでした。

「孤愁の岸」には自刃の時の様子が次のように書かれています。

(以下は「孤愁の岸」からの抜書きですが、*部分は私の注意書きです)

足軽が開けかけたものであろう。控えの間の障子が一枚だけ引かれてい、血汐の中に佐田恒弥(*平田靭負の付人)が倒れていた。胸もとをみずからの手で貫き、左脇きを下にし両膝をちぢめた恰好で少年は息絶えている・・・

水屋の棚の上に家扶(*平田家の用人のこと)宮増外記へ宛てた一通が乗せられていたが、それには、「自分はどうする力もなかった。国許出立の時、すでにひそかに『生きて帰る気はない。お前を連れてゆくのは首を拾わせる為だ』と打ち明けられたご主人なのである。冥途までお供するつもりで、自分も実は美濃まで来た。奥様や宮増どのにはお詫びのしようもないが、なにとぞ許していただきたい」

・・・およそ、このような意味の言葉、しっかりした筆つきで綴ってあった。

平田は八畳の居間の床前に、うつぶしたままこと切れていた。麻裃の両肩を刎ね、右手に短刀、左手は面上を支えるように地海の下に敷かれている・・・・。深く腹を裂き、返す刀で頸の動脈を断ったみごとな最期だった。

遺書は無く、床の間に香炉と並んでひとすじ

住みなれし 里も今さら 名残りにて
 立ちぞわづらふ 美濃の大牧

しろじろと短冊が残されていたに過ぎない。

「御家老ッ」

左右から平田の屍へ、伊集院(*副奉行)と愛甲(*目付)は取り縋った。男泣きに彼らは泣いた。遺詠の文字は淡々とさりげなく、その故にいっそう読む者の感情をゆすぶり乱した。

長い引用になりましたが、杉本苑子さんの筆力で臨場感あふれる描き方となっていて、私は大変感動しましたので、つい引用させていただきました。お許しください。

c0187004_10260783.jpg「大巻薩摩工事役館跡」に立つ記念碑の脇には、平田靭負の辞世の句も残されています。

また、平田靭負の銅像は、右上の写真でお分かりになると思いますが、正面を向かず、斜めを向いています。
 私の推測ですが、正面は東です。平田靭負が向いている方向は南南東です。この方向には、治水工事で最大の難所であった千本松原がありますので、平田靭負は千本松原の方向を向いているのだろうと思います。

下の地図で赤印が「大巻薩摩工事役館跡」です。紫印が千本松原です
「大巻薩摩工事役館跡」からみてほぼ南南東にあるのがわかると思います。



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by wheatbaku | 2016-03-04 10:15 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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