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榊神社(蔵前散歩)

 先日の「浅草橋・蔵前散歩」でご案内した場所は、既にこのブログで紹介したものが多くあります。

 そこで、まだ、このブログで紹介していないものについて数ヶ所ご案内しますが、今日は、「榊神社」についてご案内します。

「榊神社」は、インターネットで検索すると「第六天榊神社」として出てくる場合が多数あります。

c0187004_09361980.jpg しかし、正しくは「榊神社」です。

 それは、神社の鳥居脇にある社号標にも「榊神社」と刻まれていますし、東京都神社庁のHPでも「榊神社」となっています。

 「第六天」という名前は、江戸時代の呼び名で、切絵図には「第六天」と書かれています。

 明治になって、神仏分離令により社号を榊神社へ改称しています。

 宮司さんに伺ったところでは、「江戸時代は『第六天神宮』と言っていましたが、『第六天』と『神宮』という呼び名が両方とも好ましくないと指摘された」そうです。

 そこで、新社名を検討し、神社と縁の深い「榊」という名前としたそうです。

 

榊神社は、社伝によれば、日本武尊が勅命により東国を平定するために来た際の景行天皇40年(110)に創建したといいます。

江戸名所図会には鳥越明神社の項に次のように書かれています。

昔は第六天神・熱田明神を合せて鳥越三所明神と号(なづ)けしが、正保2年(1645)この地公用のため召し上げられ、三谷にて替へ地をたまひ、わづかに社の地ばかり残さる。その頃より熱田は三谷の地へうつし、第六天は森田町へうつせしといえへり

これによると、榊神社は、現在の鳥越神社と同じ場所に江戸時代初めまで鎮座していた後、正保4年に森田町に移ったと書いてあります。

森田町というは、浅草御蔵前に江戸時代にあった町名です。

さらに江戸名所図会の「第六天神の社」には次のように書かれています。

昔は大倉前森田町にありしを、享保4年(1719)火災の後、いまの地に移る。

つまり、享保4年(1719)に、柳橋に移りました。幕末の切絵図には、浅草橋の近くに「第六天」と描かれています。
 その後、昭和3年に現在地に移転しました。

榊神社の御祭神については、江戸時代に呼ばれていた「第六天」から、織田信長が称していたという「第六天魔王」をお祀りしていると誤解している人もいるようです。

c0187004_09373295.jpgしかし、榊神社でお祀りしている神様は、面足尊(おもだるのみこと)惶根尊(かしこねのみこと)と言います。

この神様は、あまり聞きなれない神様ですが、日本神話に出てくる神様で、神世七代の第6代目の神様です。

このご祭神と「第六天魔王」とどのような関係があるのか宮司さんに聞いてみました。

すると次のような説明でした。

「榊神社が『第六天」と江戸時代に称していたのは、『神代七代の第六代目の神様』をお祀りした神社という意味であって、『第六天魔王』を祀っていたわけではない」という説明でした。

この説明を伺うまでは、何がなにやらわかりませんでしたが、宮司さんの説明で、「第六天神」の意味がよくわかりました。

やはり、インターネットの情報だけに頼るのではなく、直に聞くべき必要があると思いました。

ちなみに江戸名所図会にも

祭神は面足尊(おもだるのみこと)惶根尊(かしこねのみこと)なり。(天神六代の神)

としっかり書いてあります。


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by wheatbaku | 2016-04-27 09:32 | Trackback
浅草橋・蔵前散歩

 昨日は、毎日文化センターの「盛り場散歩」で、浅草橋から蔵前周辺を散歩してきました。

 曇り空で少し暑いくらいでした。今回のコースでは公園が少なくて、グットタイミングに休憩する場所がないので、休みなしで散歩しましたので、いつもより疲れた方も多かったようです。

参加された皆さん、本当にお疲れ様でした。

 昨日のコースは次の通りです。

浅草橋駅 ⇒ 浅草御門跡 ⇒ 郡代屋敷跡 ⇒ 初音森神社 ⇒ 両国広小路跡 ⇒ 両国橋 ⇒ 柳橋 ⇒  篠塚稲荷神社 ⇒ 銀杏岡神社 ⇒ 須賀神社 ⇒ 榊神社(「蔵前工業学園の蹟」碑・浅草文庫碑) ⇒ 首尾の松 ⇒ 浅草御蔵跡 ⇒ 楫取神社 ⇒ 蔵前神社 ⇒ 蔵前駅

 主なご案内先をスナップで紹介します。

c0187004_13552072.jpg 奥州街道の出入口を警護するために設けられた浅草御門は、浅草橋の南側つまり中央区側にありました。

しかし、浅草見附跡の碑は、浅草橋の北側すなわち台東区側にあります。

 ここでは、明暦の大火の際の浅草御門の悲劇についても説明しました。
 右上写真は、浅草橋の北のたもとにある『浅草見付跡」の石碑をみる参加者の皆さんです。

c0187004_13554266.jpg 郡代屋敷跡の碑は、浅草橋の南側に建てられています。

 設置されている場所は、本来は、浅草御門のあった場所であること郡代屋敷があった場所の説明や関東郡代の世襲した伊奈氏のことについて説明しました。
 交番の手前に説明板があり、参加者の皆さんが見ています。

c0187004_13555904.jpg 両国広小路は、明暦の大火の後に隅田川に架けられた両国橋の西側のたもとに造られた広場です。

 見世物小屋や水茶屋がならぶ江戸最大の盛り場でした。

 現在の両国橋は、え度時代のものより上流に架けかえられていて、両国広小路の場所はビル街になっていることなどを案内しました。
 右写真は「旧蹟両国広小路」の石碑をみる参加者の皆さんです。

c0187004_13562035.jpg 柳橋は、神田川が隅田川に流れ出る河口に架けられた橋です。

橋のたもとに柳が植えられていたため、「柳橋」と名付けられたという説もある通り、橋周辺には現在も柳が植えられています。

 明治以降は、新橋とならば二大花街となってことなども説明しました。
 柳橋の説明板は川の両岸にあります。右写真は中央区の説明板を見る参加者の皆さんです。
 柳の木も植えられています。

c0187004_13563456.jpg 蔵前橋のたもとに植えられている首尾の松は、現代のもので7代目だそうです。

 隅田川を上下する吉原通いの遊客が、松の近くで、吉原での「首尾」を話し合ったため「首尾の松」と呼ばれるようになったという説などいくつかの由来話があります。
 写真中央の松が「首尾の松」と言われています。

c0187004_13565112.jpg 浅草御蔵は、広さが36千坪以上もあるという広大な米蔵でしたので、その広さを実感してもらうために、江戸と明治の地図を使用して、丁寧に説明しました。

 そして、蔵前国技館についても説明しましたが、鬼平後さんが良くご存じでしたの補足説明をしてもらいました。
 「首尾の松」の碑の真向かいに「浅草御蔵跡」の碑と説明板があり、皆さんがそれを読んでいます。

c0187004_13570861.jpg 最後は、蔵前神社です。

蔵前神社は、5代将軍綱吉が元禄6年(1693)、京都の石清水八幡宮を勧請したのが始まりです。

また、相撲との深い関係があり、勧進相撲が23回も開かれていて、大相撲の3大拠点の一つでした。

玉垣には多くの相撲関係者の名前が刻まれていました。
 鳥居の脇に、神社の御由緒が書いた説明板があり、皆さんがそれを見ています。

c0187004_13573157.jpg 最後はいつも飲み会です。

 昨日は、休みなしに歩いたので疲れた人が多く、店に着くと急いで飲み始めました。

 ほどよい疲れの後の酒がおいしかったのか、いつもよりは長い時間の飲み会でした。

 最後に飲み会参加者で「パチ!」 これで解散。

 ご参加いただいた皆さんお疲れ様でした。


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by wheatbaku | 2016-04-24 13:51 | Trackback
寺社の移転(明暦の大火)

明暦の大火により、多くの寺社が移転することになりました。

今日は、明暦の大火をきっかけとして移転することとなった代表的な寺社を紹介します。

c0187004_09594050.jpg1、山王権現  
 山王権現は、明暦の大火の際には、半蔵門外にありましたが、明暦の大火で焼失したため、現在地(永田町)に移転しました。




c0187004_10001819.jpg2
、西本願寺  
 西本願寺は、明暦の大火の際には、日本橋横山町にありましたが、明暦の大火で焼失したため、現在の築地に移転しました。

現在は、築地本願寺と通称されています。


c0187004_10004921.jpg3、東本願寺 
 東本願寺は、明暦の大火の際には、神田明神下にありましたが、明暦の大火で焼失したため、現在の浅草(田原町)に移転しました。




c0187004_10011666.jpg4、霊厳寺 
 霊厳寺は、明暦の大火の際には、霊厳島(現在の新川)にありましたが、明暦の大火で焼失したため、現在の深川(白河)に移転しました。








c0187004_10022161.jpg5、吉祥寺 
 吉祥寺は、明暦の大火の際には、御茶ノ水にありましたが、明暦の大火で焼失したため、現在の駒込に移転しました。

 なお、この際に、吉祥寺の門前町の町民は武蔵野に移転させられました。

それが、現在の武蔵野市吉祥寺です。


c0187004_10034371.jpg6、高林寺 
 高林寺は、明暦の大火の際には、御茶ノ水にありましたが、明暦の大火で焼失したため、現在の駒込に移転しました。

 高林寺の境内にきれいな水が出る井戸がありました。これが御茶ノ水という地名の由来となっています。

 また、駒込の高林寺には緒方洪庵のお墓があることでも有名です。

c0187004_10041514.jpg7
、日輪寺 
 神田明神の別当寺であった日輪寺は、明暦の大火の際には、神田柳原にありましたが、明暦の大火で焼失したため、浅草に移転したとも言われています。

 なお、神田明神自体は、明暦の大火後、移転していません。


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by wheatbaku | 2016-04-18 09:58 | Trackback
両国橋の架橋(明暦の大火)

「明暦の大火」について書いてきてもう相当の回数となります。

今日は、大火後の都市再生について書いていきます。

まず、「両国橋の架橋」について書きます。

幕府は、隅田川は江戸を護る外堀と位置付けていました。そのため、隅田川には、千住大橋より下流には橋は架けられていませんでした

そのため、明暦の大火では、隅田川の川べりまで逃れてきた人々も川を越えるすべがなく、生き延びることができませんでした。

こうした事態を受けて、幕府は隅田川に橋を架けることを決断しました。

橋が架けられた年については2説あって、万治2年(1659)または寛文元年(1661)に架かられたといわれています。

長さ171メートル、幅7.3メートの橋でした。

名称は当初「大橋」と呼ばれていました。

c0187004_10392712.jpgしかしながら西側が武蔵国、東側が下総国と2つの国にまたがっていたことから両国橋と呼ばれるようになりました。

右写真は、現在の両国橋ですが、江戸時代の両国橋は、現在の位置よりも少し下流にありました。

両国橋が架けられてことにより、下町町民の避難路が確保されたことになります。

さらに、この架橋により本所・深川方面の発展に大きく寄与することになりました。

また、幕府は、火事の際に非常に重要な避難路になる橋が燃え落ちないように幕府は橋のたもとは広場をしました。

両国橋も例外でなく、橋のたもとは広小路とされました。

これが有名は両国広小路です。

後に、ここに見世物小屋や芝居小屋が集まり、江戸随一の盛り場として栄えることになります。

幕府は両国広小路のほか日本橋川南岸の四日市広小路、筋違門火除地など各所に広小路や火除地をつくりました。

また、神田の新銀町火消から柳原までの約1091メートル、そして日本橋から江戸橋までの272.5メートルの間に、それぞれ防火堤を築きました。

さらに、幕府は武家屋敷の移動も行いました。

吹上と北の丸には、明暦の大火以前には武家屋敷が立ち並んでいました。

主なところで、吹上には、尾張・紀伊・水戸の御三家の屋敷がありました。

「明暦の大火」(黒木喬著)によればれ、紀伊家は麹町5丁目、水戸家は小石川、尾張家は麹町十丁目に移転し、江戸城内にあった家綱の弟の徳川綱重と徳川綱吉の屋敷もそれぞれ大手門前の辰の口に移転しました。




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by wheatbaku | 2016-04-15 10:15 | Trackback
江戸城散歩を開催しました。

 日曜日には江戸城散歩に行ってきました。
 曇り空でしたが、楽しく散歩することができました。

c0187004_16564626.jpg 江戸検1級では、しばしば江戸城の問題が出ています。

 そこで、実際に江戸城を散歩して登城ルートを実感しようという企画です。

 この散歩は、江戸検の勉強グループ「獏塾」のイベントとして行いました。

 今回は、江戸検1級合格者の信州健児さんがガイド役をやってくださいました。

 信州健児さんありがとうございました。
 右写真は、中之門内の大番所前で説明を聞く参加者の皆さんです。


c0187004_17064948.jpg 大手門前に集合し、大手門⇒大手三之門⇒中之門⇒中雀門⇒玄関跡⇒大広間跡と登城ルートをたどりました。

 その後は、本丸跡を富士見櫓⇒松之廊下跡⇒数寄屋多聞⇒石室⇒天守台⇒西 橋門⇒梅林門⇒平川門と巡りました。
 右写真は、上梅林門で石垣の刻印を探す参加者の皆さんです。

主なポイントを案内している様子をご紹介したいと思います。


大手三之門

c0187004_17111355.jpg 大手三之門は、別名下乗門と呼ばれる門で、此処で御三家・日光門主以外のは駕籠を降りなくてなりませんでした。

 現在は、三之門前の堀は埋め立てられてしまっています。

富士見櫓

c0187004_17155384.jpg 富士見櫓は、高さ16メートルの櫓です。

 どこからみても同じような形に見えることから「八方正面の櫓」とも呼ばれました。

 明暦3年(1657)の大火で天守閣が焼失した後は、その代わりとされたといわれています。


天守台

c0187004_16570232.jpg 江戸城の天守は、慶長・天和・寛永の3度造営されました。

 現在の天守台跡には天和・寛永度の天守が建てられました。

 寛永15年(1638)3代将軍徳川家光が建てた天守は明暦の大火で全焼してしまいました。

 現在の天守台は、前田綱紀により築造されたものです。

平川門

c0187004_16571166.jpg 平川門は三の丸の正門ですが、大奥への出入り口でしたので局門とも呼ばれました。

 また、罪人や死者などがこの門から城外に出されたことから不浄門とも呼ばれます。

 その不浄門は、帯曲輪へ通じる曲輪門を指すとも平川門全体を不浄門と言うとも言われています。

 信州健児さんのおかげで、江戸城がよくわかったと塾生の皆さんに大変好評でした。

 やっぱり、実際に説明付で現場をみてみると理解がすすむようです。




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by wheatbaku | 2016-04-11 17:41 | Trackback
資金援助と在府大名の削減(明暦の大火⑩)

幕府は、粥の施行や米価・木材価格の騰貴防止策のほか、大火後の動揺する人心を安定させるため非常に効果のあるお金を被害者に下賜する資金援助を行っています。

今日は、まず、この資金援助についてかいておきます。

幕府の資金援助は幅広くしかもかつ高額でした。

罹災した大名に対しては、銀100 貫目以上の恩貸銀を出し、翌年から10 年間で返済させるようにしました。

一方、旗本・御家人は拝領金を渡し、100 石以下の小禄の者には率を増して与えました。こちらは返済不要です。

扶持米取りの者(給料を米で支給されていた幕臣)には、いわば本給である俸禄米とはべつに1人扶持につき、5俵(約262.5㎏)の割で、特別金を支給しました。

幼少の者や病気で役についていない者にも相応の手当てを支給しました.

こうした措置の結果として、4代将軍家綱の弟松平綱重と松平綱吉には各2万両、松平光長の母の高田殿(2代将軍秀忠の娘)には5千両が下賜されました。

町奉行の神尾元勝と石谷貞清は各1千 両を拝領しました。

資金援助は、武士だけではありませんでした。

江戸町民への援助もありました。

江戸市中への賜金は、銀で1万貫目、金にすると約16 万両の非情な高額でした。

幕閣の間には「それではご金蔵がカラになってしまう」と反対する声もあったようですが、保科正之は「幕府の金蔵に貯えたのは、こういう時に使って民衆を安堵させるためのものではないか。このような時に救済しないならば、貯えない方がましである」と言って説得したと言われています。

支給の割合は、間口1間について金3両1分・銀6匁8分だったといわれているようです。これは、焼失した町屋は片町で800町、間口は6尺を1間として4 万8000 間だったからだそうです。

 1万貫のうち、5月11日、半金の5千貫が町奉行に渡さました。

 大火で江戸城の御金蔵が焼亡してしまったために、これらの資金は1千石以上の者には大坂で、それ未満の者には駿府で支給されましたが、急がない人には、江戸で支給されました。

そのため、駿府や大坂から江戸に大量の資金が搬送されました。

こうした大名・旗本から江戸の町民まで幕府が下賜した援助金は膨大な額となりました。

 こうした施策を実行する一方で、幕府は江戸に住んでいる人たちを減らす策も行っています。

江戸に住んでいる人が多ければ、多くの米などが必要となり、物価高騰の要因にもなります。

そのため、人口抑制のため江戸にいる諸大名を減らす施策を実行しました。。

c0187004_11024456.jpg2月9日には、松平越前守光通など17大名が帰国を許されました。

それ以前には、在国の大名の参勤を免じる命令も出してあります。

これに対し、御三家の徳川頼宣はこのような緊急時こそ人員を多く呼び寄せるべきではないかと異を唱えたが、松平信綱は次のように答えたといます。

人物叢書「松平信綱」からです。


 信綱は「このようなことを方々と議すると、何かと長談義に日を費やし無益のことです、後日お咎めあれば信綱一人の落度にしようとの覚悟でこのように計らいました。今度の大災害で諸大名の邸宅も類焼して居所もないので、就封させて江戸を発足すれば、品川・板橋から先は家があり、上より居宅を下されたも同じことです。また府内の米蔵はすべて焼けたので、大名が大勢の人数で在府すれば食物に事欠き、飢民も多くなるでしょう。よって江戸の人口を減少させれば飢民を救う一端となります。万一この機に乗じ逆意の徒があっても、江戸で騒動を起こされるより地方で起こせば防ぐ方策もあろうかとこのように致しました。」と言うと、頼宣は手を打って感嘆したという。

 知恵伊豆と言われた松平信綱の面目躍如の回答です。



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by wheatbaku | 2016-04-08 11:00 | Trackback
幕府の食糧・材木対策(明暦の大火⑨)

 明暦の大火後、すぐに幕府は粥の施行を実施したのをはじめとして被災者の救済にあたるとともに、米価騰貴の抑止、材木価格騰貴の抑止などにも着手しています。

1、粥の施行 

幕府はまず、内藤忠興、石川憲之、六郷政晴及び松浦鎮信の4大名に対し、被災者に粥を施行するよう命じました。

粥の施行は明暦3年の正月21 日から9日間、府内6か所で行なわれました。

日本橋から南は内藤忠興と石川憲之が、北は六郷政晴と松浦鎮信が担当しました。

米は1日に1,000 俵(約52.5 トン)ずつを費消したといわれます。

しかし、最終日の正月29 日になっても、飢えに悩んでいる町民が多かったので、給食事業は2月2日まで続行された。粥の施行はさらに隔日に給されることになり2月12日にいたってようやく終了した。幕府が放出した米は、合計6,000 石(約900トン)にのぼりました。

2、焼米放出

火事が浅草米蔵にも燃え移り米蔵が燃え始めた時、幕府は火消人足を集めようとしました。しかし、将軍の補佐役を務めていた保科正之が、火消人足を集めるのではなく、勝手にに火を消して、焼残りの米をもっていてよいという触れをだせば火も消えて市民も焼き米を食べられて助かるだろう」と主張したことにより、浅草米蔵の焼米を得ることができて救済になったそうです。

『寛永録』には、伝馬町、芝金杉町及び深川猟師町に焼米300 俵(3斗6升入、約15.8 トン)が支給されたとあり、『撰要永久録』にも、南伝馬町が焼米300 俵と焼けた干飯1,000 かますを拝領したという記録が見えるそうです。。

こうしたことから、焼米が江戸の市民の口に入ったことだけは確かであり、このような形でも救済が行われました。

3、米価の騰貴対策

 幕府は、火事の鎮火後すぐに正月21 日に金1両について、米は7斗(約105 ㎏)と基準を示し、それより高価に売ってはならないことを通達しました。

大火の影響で、1両では米が2斗(約30 ㎏)しか購入できないほど、米価が高騰していたからです。

さらに正月24 日、八丁堀で米の安売りを行ないました。

金1両について8斗(約120 ㎏)という値段のため、多くの市民が殺到しました。

このときに放出した米は1,000 俵(約52.5トン)で、、紀伊和歌山藩から献上された米でした。

一方で幕府は、旗本・御家人に給米の前借りを許可しました。

夏・冬2回に支給される禄米のうち、夏に受け取る分の三分の一を前渡ししました。

また、松平信綱は、旗本の人々に時価の倍にして金を渡したので、このことを聞いた諸国から江戸に米を搬送して利益を得るのはこの時なりとして米を送ってきたので、間もなく江戸には米が十分供給されるようになり飢えはなくなったそうです。

4、材木の価格騰貴の抑止

被災した人々にとって、食料の供給はもちろん大切でしたが、大火後の正月20日、大雪が降り凍死者が大量に出ました。

そのため、家の建設は江戸の町民にとって食料とともに深刻な問題でした。

大火後、材木商は焼け残った木材をかかえ込んで、値段をつり上げていました。

そこへ、江戸城の造営は3年間延期する、必要な材木は天領の山林から採るので、民間からは一本も買い上げない、大名屋敷も急いで造らなくてもよい、という通達が出たとうわさが飛びました。

そして現に松平信綱も川越から取り寄せた材木で屋敷の普請を開始しため、多くの大名もこれにならいました。

こうしたため、材木の値段は急落したといわれています。




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by wheatbaku | 2016-04-06 10:08 | Trackback
両国回向院(明暦の大火⑧)

 明暦の大火についての8回目ですが、両国の回向院について書いてみます。

c0187004_10192367.jpg 回向院は明暦の大火の被害者を供養するために建てられてお寺であることはかなり知られていることだと思います。

 この回向院建立の提案をしたのは保科正之です。

 

 正月18日19日と燃え続けた火事は、江戸市中の6割を燃え尽くしたといわれています。

 死者は、いろいろな説がありますが、「むさしあぶみ」によれば10万人以上となっています。

 なくなった人々の遺骸の多くは、江戸市中にそのままに放置されていました。

 正月24日に保科正之は、2代将軍秀忠の命日であるため、将軍家綱の代わりに増上寺に代参しました。

 この途上、市中に焼死体が多数積み重なっているのに驚きました。そして、市中各所を調べさせると、焼死体が放置されていることがわかりました。

 そこで、保科正之は、死骸を一ヶ所に集めて埋葬したらどうかと井伊直孝・酒井忠勝・松平信綱等の幕閣に提案します。

 幕閣に異論はなく、早速、死体を船で隅田川を越えた牛島に運び、そこに掘られた20間四方の大きな穴に埋葬されました。

 その一方で、幕府は、増上寺の住職遵誉上人に命じて無縁仏の冥福に祈りをささげる大法要を執り行うよう指示しました。

遵誉上人は3月26日から100人の僧侶を率いて盛大な供養を行いました。

また、遵誉上人は宗旨に限らず無縁仏の供養を行う寺として、諸宗山無縁寺回向院という名をつけました。

回向院には、現在も明暦大火の供養塔が建てられていて、東京都指定有形文化財となっています。

墨田区教育委員会の説明板には次のように書かれています。

c0187004_10193151.jpg石造明暦大火横死者等供養塔

明暦3年(16571月、江戸市中の繁華街を焼いた有名な明暦の大火による焼死者・溺死者をはじめとして、入水者・牢死者・行路病死者・処刑者その他の横死者に対する供養のために造立されたものである。

もと、回向院本堂の向って右に存した三仏堂の前に建てられていたが、堂舎の位置がその後移転したにもかかわらず、この供養塔の位置はほとんど動いていないものと思われる。

総高3.0メートル、延宝3年(1657)頃建立された。願主は回向院第2世住持信誉貞存。

 回向院は、こうした創建の由来から、以後も、火災、風水害、震災などで犠牲になった無縁仏が葬られるようになり、境内には、安政大地震、関東大震災、海難事故、囚人牢病死者などの供養塔も建てられています。



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by wheatbaku | 2016-04-04 10:15 | Trackback
霊厳寺と京橋の惨劇(明暦の大火⑥)

 明暦の大火では、浅草御門で多数の死亡者が出ましたが、霊厳寺や京橋でも多数の焼死者が出ました。

c0187004_09532229.jpg 霊厳寺は、現在は江東区にありますが、明暦の大火以前は、隅田川の手前(現在の東京都中央区新川)にありました。

 霊厳寺は、寛永元年(1624)に、雄誉霊巌上人が霊巌島に霊厳寺を創建したのが始まりです。

 その当時、霊巌島の辺りは湿地帯で、そこを埋め立てて霊巌寺を建てました。

 霊厳寺の広さは、東西109メートル、南北218メートルもある関東18壇林に数えられる大きなお寺でした。

c0187004_09533154.jpg そのため、霊厳寺の建てられた埋立地は霊厳島と呼ばれるようになり、現在も「霊岸島」という交差点の名前として残っています。

 本妙寺から出火し日本橋まで達した火事により、人々は東もしくは南に逃げていきましたが、霊厳寺の東側は隅田川であり川を渡ることができないため、霊厳寺の周辺に群がっていました。

c0187004_09533616.jpg そうした状態で、霊厳寺の本堂など堂塔伽藍が燃え上がり、霊厳寺にいた人々が焼死しました。

 霊厳寺でなくなった人は、「むささあぶみ」によれば9600人余りとされています。

明暦の大火で焼失した霊厳寺は、現在の深川の地に移転しました。

 現在の霊厳寺(最上段は本堂)には、松平定信のお墓(右写真2段目)や江戸六地蔵(右写真3段目)などあります。

 また19日に小石川伝通院表門下新鷹匠町から出火した第2の火事により、江戸城の天守・本丸・二ノ丸を焼失してしましました。
c0187004_09534256.jpg その火事は、さらに大手門前の福井藩や加賀藩の屋敷を焼失させた後、中橋や京橋に向かいました。

 避難民は、南に逃げて行きましたが、京橋にも火が付き焼け落ちてしまいました。

 逃げ場を失った多くの人々が京橋周辺でなくなり、死者は「むさしあぶみ」には2万6千人と書かれていて、浅草御門での死者を上回る最多の死者となりました。
 現在、京橋川が埋め立てられたため、京橋は地名としてのみ残されています。
 京橋のあった場所には親柱だけが残されています。(右写真)

 


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by wheatbaku | 2016-04-01 09:51 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
by 夢見る獏(バク)
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