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深川散歩

 土曜日は、毎日文化センター主催の「盛り場散歩」で深川を受講生の皆さんと一緒に散歩してきました。

c0187004_09171307.jpg 天気は曇り空でかえって紫外線を気にする必要もなく暑すぎることもなく快適な散歩でした。

 ご参加いただいた皆さんお疲れ様でした。

散歩コースは次の通り木場駅から門前仲町駅までの散歩です。

木場駅 ⇒ 洲崎神社 ⇒ 繁栄稲荷神社 ⇒ 平久橋 ⇒ 深川三十三間堂跡 ⇒ 富岡八幡宮 ⇒伊勢屋⇒ 永代寺 ⇒ 深川不動堂 ⇒ 伊能忠敬住居跡 ⇒門前仲町駅

 洲崎神社(右最上段写真)は、護持院隆光が、桂昌院が信仰していた江戸城の紅葉山の弁財天を移して元禄13年(1700)に創建したもので、江戸時代は、洲崎弁財天社と呼ばれていました。

c0187004_09173496.jpg 江戸時代は、海辺にあって、景色が大変よくて多くの行楽客が遊ぶ場所でした。

 しかし、寛政3年(1791)9月4日10時頃、洲崎・木場一帯に高潮がおしよせ大きな被害を受けたため、幕府は、洲崎弁天社から西のあたり一帯を買い上げて空き地としこれより海側に人が住むことを禁じました。

 そして、空地の東北地点に建てられた波除碑が「津波警告の碑」として残されています。

 右上写真は、その説明板を読む参加者の皆さんです。

 繫栄稲荷神社は、大丸の守り神です。

c0187004_09175514.jpg由緒書きによれば、この神社は、宝暦7年(1757)、深川木場に、貯木場を備えた別邸を建築し、その一廓に社殿を造り伏見稲荷大社を勧請し繁栄稲荷と称したのだそうです。

明治になって、明治43年大丸東京店(昔の江戸店)を閉じ木場の別邸をなくした時、社殿は根津嘉一郎の青山に屋敷に移って、根津家の嘉栄稲荷の社殿となりました。

 昭和35年、社殿が繁栄稲荷のものであったことがわかり、根津家の厚意で大丸へ返えしてもらい、現在地(大丸松坂屋百貨店本社脇地)にお祀りすることになりました。

 江戸の三十三間堂は、京都の三十三間堂を模して、寛永19年(1642)に浅草に建立されました。

c0187004_09183009.jpg この浅草の三十三間堂が元禄11年の火事により焼失してしまい、元禄14年(1701)に深川に移されました。

 深川における三十三間堂は、南北66間(約118.8m)・東西4間(約7.2m)の建物で、本尊は千手観音でした。

 江戸に三十三間堂が作られたのは、京都の三十三間堂での通し矢が盛んに行われた影響だそうです。

 江戸の三十三間堂も、京都と同じように南北に長い建物で、その西側の回廊で、通し矢が行なわれました。

 深川三十三間堂は、明治5年に解体されてしまいました。

 富岡八幡宮は寛永4年(1627)、長盛法印というお坊さんが当時永代島と呼ばれていた現在地に創建しました。 

c0187004_09190456.jpg 周辺の砂州一帯を埋め立て、合計で60508坪もの土地を境内としました。

 御祭神は応神天皇です。「江戸最大の八幡様」で、「深川の八幡様」と親しまれています。

 富岡八幡宮は江戸勧進相撲発祥の地として有名です。

 そうしたことから相撲関係の石碑が数多くあります。

 横綱力士碑は、明治33年、江戸時代の最後の横綱である第12代横綱陣幕久五郎を発起人に建立されたものです。

c0187004_09192519.jpg 当初は、本殿の裏手に建てられていましたが、関東大震災後、現在地に移されました。

 その大きさは高さ3.5m、幅3m、重量は20トンに及び、横綱を顕彰するにふさわしい堂々たる石碑です。

 この碑には初代明石志賀之助から71代鶴竜までの四股名が刻まれています。

伊能忠敬の銅像は、平成13年(2001)に建立されました。

 富岡八幡宮の鳥居の側に伊能忠敬の銅像があります。

c0187004_09200758.jpg 伊能忠敬の測量開始は寛政12年、西暦でいうとちょうど1800年です。

 伊能忠敬像は測量開始200年にあたり広く一般から浄財を公募して建立されました。

 伊能忠敬は、深川黒江町(現・門前仲町1丁目)に住んでいて、測量に出発する時富岡八幡宮を参拝していたことから、ここに銅像が建てられました。

 永代寺は寛永4年(1627)に富岡八幡宮別当永代寺として、長盛上人によって永代島に創建されました。

c0187004_09213074.jpg 永代寺は、現在の富岡八幡宮、深川不動堂、深川公園すべてが、江戸時代には、永代寺の寺域でした。江戸時代の永代寺は非常に大きなお寺であったことがわかると思います。

 江戸時代には、出開帳の会場、3月の山開き、そして、江戸六地蔵の一つがあることで大勢の参拝客でにぎわいました。

 しかし、明治元年(1868)の神仏分離令を契機に行なわれた廃仏毀釈により廃寺となってしまいました。

 明治29年(1869)に、永代寺の塔頭(たっちゅう:大きなお寺の中にある小さなお寺)であった吉祥院が永代寺の名称を継いで現在に至っています。

 深川と成田不動尊とは深い関係があり、成田不動尊の12回の出開帳のうち深川永代寺で11回行われています。

c0187004_09232955.jpg1回の出開帳が行われたのは元禄16年のことでした。

 第1回の出開帳と同時期に、市川団十郎は「成田山分身不動」という芝居を森田座で上演しました。

 明治元年(1868)に神仏分離令とそれにもとづく廃仏運動のなかで、深川の信徒講社は御旅所の深川移転説を主張し、成田山当局にも熱心に働きかけました。 

 その結果、旧来しばしば出開帳を行ったゆかりの地である現在地に、不動明王が正式に遷座されました。そして、明治14年に「深川不動堂」が完成しました。

 

 伊能忠敬住居跡は、伊能忠敬が50歳で隠居して、翌年寛政7年(1795)佐原から江戸に出てきて住んだ場所です。

c0187004_09213810.jpg 当時は深川黒江町といっていました。

 伊能忠敬は19年間、ここに住み、文化11年(1814)に八丁堀亀島町に転居し、そこで、文政元年(1818)74歳の生涯を終わっています。

 地図はまだ完成していなかったため、忠敬の死は隠され、地図の作成作業は進められ、忠敬の死の3年後の文政4年(1821)に、『大日本沿海輿地全図』と名付けられた地図が完成し、地図の完成後に忠敬の死が発表されました。

 最後は、恒例の飲み会です。

c0187004_09214480.jpg「盛り場散歩」シリーズは、今回で終わり、秋からは、「気ままに江戸散歩」の装いを一新して、新シリーズで始める予定です。

 そのため、思い出話、新しい散歩のイメージなどの話もでて、あっと言う間の2時間半でした。

 最後までご参加いただいた皆さんお疲れ様でした。



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by wheatbaku | 2016-05-30 09:08 | Trackback
江戸楽アカデミーのご案内(江戸検対策講座です)

今年の江戸検のお題は『天下大変~江戸の災害と復興~』です。

このお題に合わせた、江戸検合格のために下記講座を開講します。

江戸検のお題に関連する講座は、昨年までは、毎日文化センターで開講していましたが、今年は、江戸楽アカデミーで開講することにしました。

c0187004_16490284.jpg

講座タイトルは次です。

「今年のお題『天下大変~江戸の災害と復興~』参考図書 読み込み講座」

例年、「今年のお題」に関する問題の多くは、江戸検協会指定の参考図書から出題される傾向にあります。

そのため、お題参考図書の勉強は、江戸検合格のために欠かすことができません。

今年は、参考図書が6月末に出版される予定とのことです。

この参考図書を、受講生の皆さんと一緒に読み込んでいこうという趣旨で開講します。講座の概要は次の通りです。

「今年のお題『天下大変~江戸の災害と復興~』
 参考図書 読み込み講座」

1、開催日時・時間

7月3日(日)・7月24日(日)・8月28日(日)

各日とも13時30分~16時30分

2、講義時間 3時間×3回

3、会場  日比谷図書文化館

4、定員  60名

5、受講料 12,960円(税込)

ただ、講義を聞いていただくだけでなく、講義終了後は懇親会をセットして、受講生同志の情報交換も行います。

昨年の毎日文化センターで開講した講座を受講された皆さんの中から7名の1級合格者がでましたが、昨年の合格者の皆さんにも懇親会にはご参加いただく予定ですので、合格体験談も聞くこともできるかと思います。

こうした情報交換も含めて、今年も、この講座を受講された皆さんの中から大勢の1級合格者が出るよう鋭意努力していきたいと思います。

 大勢の皆様のお申し込みをお待ちしています。

 講座の詳しい内容や申込方法は、下記ホームページをご覧ください。
 申し込み期日は、6月6日です。

 江戸楽アカデミー夏季・秋季講座ご案内


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by wheatbaku | 2016-05-25 16:43 | Trackback
廬山寺(江戸時代の天皇ゆかりのお寺②)

 江戸時代の天皇にゆかりのお寺の二つ目は「廬山寺」です。

 「廬山寺」は、金閣寺や清水寺などメジャーなお寺ではありませんが、「紫式部ゆかりのお寺」として知る人ぞ知るお寺です。

 「廬山寺」は、京都御所の東側にあります。市バスの府立大学前のバス停から3分ほどです。

c0187004_23180895.jpg 廬山寺は、比叡山天台18世座主元三大師良源によって天慶年中(938年~947年)に船岡山の南に創建されました。

 寛元元年(1243)に法然の弟子である覚瑜が船岡山の南麓に再興、中国の廬山にならって廬山天台講寺と称しました。

c0187004_23185784.jpg 室町時代に応仁の乱で焼失した後、豊臣秀吉の寺町建設によって天正年間に現在地に移りました。

 度々の火事で焼失したため、現在の本堂と御尊牌殿は寛政6年(1794)、光格天皇が仙洞御所の一部を移築して造営されたものだそうです。

廬山寺がある場所は、昭和40年に角田文衞博士により紫式部邸跡とされました。ここで、紫式部が育ち、結婚生活を送り、一人娘の賢子(かたこ)を育て、源氏物語を執筆した場所だと言われています。

 
c0187004_23191845.jpg そうしたことから、廬山寺は紫式部ゆかりの寺とされていて、拝観受付前に紫式部歌碑があります。

その歌碑には、百人一首の「めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に 雲がくれにし夜半の月かな」が刻まれています。

c0187004_23193552.jpgまた、本堂の庭が、「源氏庭(げんじてい)」と名付けられ、白砂の中に桔梗が植えられています。

  源氏物語に出てくる朝顔の花は今の桔梗のことであり、紫式部の紫にちなみ、紫の桔梗が選ばれたそうです。

 桔梗は、6月末から9月初め頃まで花が咲くそうです。私が訪ねた時期は、まだ桔梗は全く咲いていませんでしたが、清楚な庭のたたずまいが印象的でした


 この廬山寺の境内に、「慶光天皇(きょうこうてんのう)」のお墓があります。

c0187004_23195338.jpg 「慶光天皇」といってもピンとこない人が多いとおもいますが、「慶光天皇」は光格天皇の父です。

 「慶光天皇」というのは、明治以降の呼び名で、それ以前は、閑院宮典仁(すけひと)親王と呼ばれ、世襲親王家閑院宮2代当主でした。

c0187004_23200910.jpg光格天皇は、父である典仁親王の宮中での地位が大臣より低い事から、太上天皇の尊号を贈ろうとしましたが、幕府老中松平定信に反対され、贈る事はできませんでした。

これが尊号事件と言われるものです。


明治になってから、明治17年に、典仁親王は「慶光天皇」の諡号が贈られました。

しかし、慶光天皇は、歴代天皇の代数には数えられません。

そうしたことがあって、あまり知られていないのだろうと思います。


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by wheatbaku | 2016-05-23 09:15 | Trackback
泉涌寺(江戸時代の天皇ゆかりの寺①)

 日曜日から京都旅行したのは、第一には葵祭を観るためでした。

 第二の目的は、江戸時代の天皇ゆかりの寺院を訪ねることでした。

 江戸時代の天皇は、崩御されると土葬されましたが、明治以降のように神式でなく、仏式でお寺に埋葬されたようです。

 そのため、江戸時代の天皇や親王家のお墓が京都のお寺にあります。

 その中で、今回は、泉涌寺と廬山寺、そして天皇家と関係のある聖護院を訪ねてきましたので、順に紹介していこうと思います。

 今日は泉涌寺です。

 泉涌寺は、東山にある真言宗泉涌寺派のお寺です。
c0187004_08414748.jpg 江戸時代には、後陽成天皇から孝明天皇に至る歴代天皇・皇后の葬儀は泉涌寺で行われ、後水尾天皇から孝明天皇までの陵が境内に設けられています。

 こうしたことから、泉涌寺は天皇家の菩提寺といわれていて、「御寺(みてら)」とも呼ばれています。

 京都駅からそれほど遠くないバス停「泉涌寺道」から数分歩くと見えてくる総門を入口として、坂道を登っていきますが、多くの塔頭を抱えて広大な敷地を誇っています。
 坂を上りきった所に大門(右写真)があり、そこから拝観しますが、総門から大門まで5分ほど距離があります。


大門から見下ろした坂下の仏殿が建っています。

c0187004_08421481.jpg仏殿は、寛文8年(1668)徳川四代将軍家綱によって再建されたものです、

仏殿は入母屋造り本瓦葺き、唐様建築で、国の重要文化財に指定されています。

仏殿内陣には運慶作と言われる阿弥陀・釈迦・弥勒の三尊仏が安置されていて、過去・現在・未来の三世にわたって人々の平安を祈っているそうです。

また、仏殿の天井には、狩野探幽の「龍図」が描かれています。


c0187004_08423656.jpg 舎利殿は、お釈迦様の遺骨つまり「仏舎利」を納める建物です。

慶長年間、京都御所の建物を移築改装したもので、仏殿と同じ時代に現在の位置へ移されたそうです。

舎利殿の天井には狩野山雪の鳴き龍の絵が描かれているそうです。

謡曲の「舎利」の素材ともなったそうです。


c0187004_08430554.jpg 仏殿、舎利殿、その後ろの霊明殿を過ぎて、霊明殿の東に回ると前庭が白い砂で囲まれた一画が現れます。

c0187004_08495322.jpgここが、後水尾天皇から仁孝天皇までが眠られている月輪陵(つきのわみさぎ)です。

江戸時代の天皇のほかに四条天皇や皇妃、皇子・皇女が埋葬されているそうです。

泉涌寺のHPには、「ここに鎮まるかたがの御葬儀は泉山長老が御導師をお勤め申しあげ、御陵もすべて仏式の御石塔でお祀りされている。」と書かれています。

 陵の中は拝観できませんので、どのようになっているのかわかりませんが、石塔が建てられているようであることはわかります。

歴代の天皇が眠られている月輪陵の後ろ側の山腹に、孝明天皇の陵(後月輪東山陵)があります。

c0187004_08433286.jpg一旦、舎利殿の脇から境内を出て陵への参道を歩いていきます。

 砂利の敷かれている坂道ですので、ちょっと歩きにくいのですが、5分程歩くと目の前が広がって広場になります。

ここが、孝明天皇陵の前の広場です。

孝明天皇の陵には当然のことながら鍵がかかっていて拝観はできません。

 ですから内部どのようになっているのかはっきりしませんが、大きな陵の感じがしました。

c0187004_08435285.jpg最後に、歴代天皇の御遺愛の品について触れておきます。

大門を入って左手奥にあるお堂が楊貴妃観音堂です。

ここに有名な楊貴妃観音がお祀りされています。

この像は、像が美しいので、玄宗皇帝が亡き楊貴妃の冥福を祈って造顕された像だとの伝承を生み、楊貴妃観音と呼ばれています。

非常に穏やかでふくよかな御姿でしたが写真撮影禁止の為、楊貴妃観音は写せませんでした。

この楊貴妃観音堂の手前右手に宝物館があります。

c0187004_08442388.jpgそこでは、現在「泉涌寺の仏像と仏画」展が開催されていますが、その展示品の中に、霊元天皇の蒔絵硯箱と孝明天皇の煙草盆が展示されていました。

その他、泉涌寺には歴代の天皇の御遺愛の品が残されているそうです。

さすが「御寺(みてら)」と呼ばれるだけのことはありますね。



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by wheatbaku | 2016-05-19 09:47 | Trackback
葵祭を観覧してきました!

 一昨日から京都に行ってきました。

c0187004_11104456.jpg 今回は、5月15日に催行された京都三大祭の一つ葵祭を観ることが主な目的でした。当日は、晴れて少し暑いくらいでしたが、古都の王朝絵巻を堪能することができましたので、今日は、その様子をお伝えしたいと思います。

 葵祭は、上賀茂、下鴨両神社の例祭で、祇園祭、時代祭とともに京都の三大祭に数えられているお祭りです。

 葵祭の行列のコースは、次のようなコースです。

京都御所出発(10:30)堺町御門→丸太町通→河原町通(11:00)→下鴨神社到着(11:40)<社頭の儀12:00-14:00>出発(14:20)→下鴨本通→洛北高校前→北大路通→北大路橋→賀茂川堤→上賀茂神社到着(15:30)

c0187004_10270152.jpg 主な観覧場所は 京都御苑内 河原町今出川交差点周辺 下鴨神社 賀茂川堤 上加茂神社だそうです。

 このうち、京都御苑と下鴨神社内には有料観覧席(2050円)が設けられ、事前に予約販売されていました。

 どこで、見学しようかと思い情報収集すると「御所の有料観覧席でみる」のが一番良いとのこと。しかし、有料観覧席は販売完了、しかも、御所内は人が大勢で後ろの方からでは行列があまりよくみえないとのことで、御所内での観覧はボツ。

 次の案として、賀茂川堤(賀茂街道)が穴場で良いということでした。

 午後からは、見学者の数が少なくなるし、賀茂街道では、道路が広くないことから、行列を間近に見られるということでした。

 そのため、賀茂街道で見ようということになり、とりあえず上加茂神社にお参りしてから、葵祭を観ることにしました。

 そこで、上加茂神社に向かうと参道に有料観覧席が有るではありませんか。

c0187004_10271701.jpg 係りの方に尋ねると当日販売でまだ余裕があるとのことでした。

 早速購入をしました。自由席でしたし、行列到着の2時間前でしたので、前列から2列目を抑えることできました。

 行列がくるまで時間がありますので、その間、上加茂神社にお参りをすることもできました。

 行列は全員で500人を超える人々だそうで、様々な衣装を着た人々が行進します。

c0187004_10272522.jpg すべてを識別するのは大変ですが、先頭を歩く「乗尻」はわかりました。

 この人たちは、馬に乗って行列を先導する人たちですが、上加茂神社では、馬を下りて徒歩で先導していました。

 行列の中には、当然騎馬の人たちもいるのですが、上加茂神社では、全員が馬を下りて徒歩で歩くことになっています。

 騎馬姿や牛車は見られませんでしたが、行列を間近に見ることができました。

 行列は500人もいるので、通り過ぎるのに1時間はかかりました。

c0187004_10274177.jpg 行列の中心は「斎王代」と「勅使」です。

 「斎王代」とは「斎王の代理」です。

 「斎王」とは、かつて伊勢神宮や賀茂の神社に奉仕した未婚の内親王または女王のことです。

鎌倉時代の承久の変以後途絶えていましたが、昭和31年から、民間の未婚の女性から選ばれた「斎王代」が行列に加わったそうです。

c0187004_10274804.jpg 今年の第61代斎王代は、西村和香(わか)さん(26)という江戸時代前期から続く京漆器の老舗「象彦」社長のお譲さんでした。

西村さんは、お母さんや二人の叔母さんも斎王代を務めたことがある斎王代一家の一員そうです。

なお、行列が市中を巡行する際には、「斎王代」は腰輿に乗りますが、上加茂神社では徒歩です。

「勅使」とは天皇の使者です。

葵祭は、勅使が派遣される勅祭で、「三勅祭」の一つです。

三勅祭とは、葵祭のほか、石清水八幡宮の石清水祭、春日大社の春日祭の3つを言います。

c0187004_10275853.jpg「勅使」は、宮内庁賞典長が勤められていました。

「勅使」は、市中巡行には参加せず、上加茂神社と下鴨神社の参道しか歩まないそうです。

私たちは上加茂神社の参道におりましたので、貴重な経験をしたことになります。

「勅使」は黒色の束帯姿に金色の飾太刀をさした堂々たる姿でした。

念願の葵祭を目の前で見ることができ素晴らしい一日でした。



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by wheatbaku | 2016-05-18 10:24 | Trackback
北町奉行所の碑の設置場所が変わっていました。

 先日、東京に用事があり、東京駅周辺をみていましたら、東京都教育委員会が設置している「徒旧跡北町奉行所跡」の碑の設置場所が変わっていました。

c0187004_10371158.jpg


 以前は、東京駅八重洲北口改札を出てまもなく建物内の通路脇に設置されていました。

 非常に見つけにくいところにありましたので、気が付く人はいなかったと思います。

 しかし、案内する側からすると、あの有名な「北町奉行所」がこんなところにあるのかと

いう「サブライズ」がとれる面もありました。


 以前案内した時の記事はこちらご覧ください。 ⇒  北町奉行所跡(八丁堀八重洲散歩6)



c0187004_10381500.jpg 現在は、東京駅の八重洲北口改札をとおり、そのまま、外堀通りまで出た脇に設置されています。

 右写真の右手前に写っているのが「北町奉行所跡」碑です。

 この移設により、多くの人に、北町奉行所があった場所がわかるようになってと思います。


 東京駅に行かれたら立ち寄ってみてください。





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by wheatbaku | 2016-05-13 10:34 | Trackback
天和の大火(八百屋お七①)

 江戸検の今年のお題「天下大変~江戸の災害と復興~」に関連して、「八百屋お七ゆかりの地」をいくつか紹介しようと思います。

 八百屋お七はかなり有名です。

 芝居にも取り上げられていますし、歌謡曲に題材にもなっています。

 その「八百屋お七」の話のきっかけとなった火事が「天和の大火」と呼ばれる大火です。

 この「天和の大火」は、別名「お七火事」とも呼ばれていますので、かなり有名かなと思いますが、意外にもインターネットで検索してもあまり出てきません。

 そこで、まず「天和の大火」について書いていきたいと思います。

c0187004_20444699.jpg 「天和の大火」について詳しく書いてあるのが、「お七火事の謎を解く」(黒木喬著 教育出版)ですので、この本を参考に書いていきます。

 天和の大火は天和2年16831228日に発生しました。

 出火元は駒込の大円寺だとされています。

 大円寺から出火した火事は、隣の同心屋敷に延焼し、本郷方面に燃え広がりました。

 本郷にあった加賀藩前田家の上屋敷も炎上しました。

 明暦の大火の後、前田家の上屋敷であった辰の口の屋敷が、徳川綱吉の屋敷となったため、焼失を免れていた本郷の屋敷が上屋敷となっていました。

 この時の加賀藩の藩主は前田綱紀ですが、前田綱紀は、金沢に帰国していて、この悲報を金沢で聞きました。

 前田家の上屋敷に隣接している富山藩、大聖寺藩の上屋敷も炎上してしまいました。

 火事は本郷から湯島・神田方面に向かいました。

 幸いにも、湯島天神・神田明神の社殿は焼失を免れましたが、火事は柳原の土手沿いに東に向かい、浅草橋門も焼失し、火の手が近づいた小伝馬町牢屋敷では、明暦の大火の時と同じように囚人の切放しが行われました。

 浅草橋門を焼失させて火事は、隅田川を飛び越えて、回向院に飛び火しました。

 回向院もまもなく焼失し、火事はさらに隅田川沿いに南下して、霊厳寺、富岡八幡宮も焼失させて、ようやく翌日29日の午前5時頃に鎮火しました。

 この大火で、焼失した大名屋敷は73、旗本屋敷166、寺社95だそうです。そして、死者は最大3500名余と書いたものがあるようです。

 この火事で焼け出された有名人が、松尾芭蕉です。

 松尾芭蕉は、延宝8年(1680)から、小名木川から別れた六間堀そばに門人の杉山杉風(さんぷう)の生け簀の番屋を改築して芭蕉庵と名付けて住んでいました。

 この天和の火事の際、芭蕉が住んでいた芭蕉庵は焼失してしまいました。

 芭蕉自身は、六間堀に腰までつかって頭に苫をかぶり、時々は苫に水をかけて火を凌いだそうです。



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by wheatbaku | 2016-05-11 20:33 | Trackback
亀清楼

 今日は、柳橋の老舗料理屋「亀清楼」について書きます。

 柳橋といえば、江戸時から続く花街として有名でした。

 江戸時代は、船宿が立ち並び、明治以降は、新橋と競い合っていました。

 そして、料亭や料理屋が軒並べていましたが、現在は料亭は一軒もなく、料理屋も数少なくなりました。

c0187004_09461895.jpg そうした中で、唯一、江戸時代から続く老舗の料理屋が「亀清楼」です。

 「亀清楼」は、安政元年(1854)に 創業者亀屋清兵衛が人気料亭「万八楼」を買い取って改名したと言われています。

c0187004_09484962.jpg 「万八楼」は、歌川広重の「江戸高名会亭尽『柳ばし夜景万八』」に書かれているほど、有名な料亭です。(右下浮世絵参照)

 ここでは、書画会などもしばしば開かれましたが、「大食い大会」が開かれたことでも有名です。

 江戸時代後期になると、泰平の世相を反映して、大食い大会や大酒大会が開かれました。

 良く知られているのが文化12年(1815)に千住宿で開かれた「千住酒合戦」ですが、文化14年(1817)に「万八楼」で行われた「大食い大会」も大変有名です。

c0187004_09463940.jpg酒の部では 30歳の芝口の鯉屋利兵衛が 三升入りの杯で六杯半飲み、そのまま倒れて気がつくと茶碗で水を17杯飲んだそうです。

 菓子の部では 50歳の神田の丸屋勘右衛門が 饅頭50 羊羹7棹 餅30、茶19杯をたいらげたそうです。

 そして、飯の部では、 浅草の和泉屋吉蔵(73)が ふつうの茶漬け茶碗に万年味噌の茶漬けと香の物だけで54杯、唐辛子を58本食べたそうです。

 ともかくすごいですね。

c0187004_09471145.jpg こうした歴史のある「亀清楼」で料理を食べるとなると高いだろうと思いきや、ランチがお安く食べられます。

 天ぷら御膳1800円、言問御膳200円、両国御膳2100円、隅田川御膳2400円

 と手ごろな定食が四種類あります。

 しかも、土曜日は2割引きになります。


c0187004_09473410.jpg 私が訪ねたのは土曜日でした。

 両国御膳をお願いしましたが、土曜日でしたので、2割引きで平日2100円のものが1680円でした。

c0187004_09475387.jpg 開店早々にお邪魔しましたので、まだ来客が少なく隅田川の眺望も楽しむことができました。

 窓からは両国橋も見ることができます。
(右写真参照)


c0187004_09481331.jpg 亀清楼は、平山郁夫画伯が愛した料理屋としても有名で、店内には平山画伯の作品が数多く展示されています。

 それだけでなく、お店の入り口に掲げられている店名も平山画伯の書です。

 おいしい料理が手ごろな価格で楽しめるうえに平山画伯の作品も同時に楽しめる良いお店でした。


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by wheatbaku | 2016-05-09 09:43 | Trackback
蔵前神社(蔵前散歩③)

 蔵前散歩ですが、最後は「蔵前神社」をご案内しました。

 蔵前神社については、このブログで紹介していないので、今日は「蔵前神社」を紹介します。 
 
 蔵前神社は、都営地下鉄大江戸線「蔵前駅」A6番出口から2分程度、浅草線「蔵前駅」A4番出口からは3分程度の至近距離にあります。しかし、江戸通りの一本西側の通りに面しているため、初めて場合には、ちょっと見つけにくいかもしれません。
  

c0187004_11362564.jpg 蔵前神社は、5代将軍綱吉が元禄6年(1693)、京都男山の石清水八幡宮を勧請したのが始まりです。

江戸城鬼門除の守護神ならびに徳川将軍家祈願所の1社として篤く信仰され、社領200石を寄進されていました。


c0187004_11363222.jpg 創建39年後に類焼し、浅草三嶋町に遷されていましたが、延享元年に元々鎮座していた現在地に戻ってきました。

正式な社号は『石清水八幡宮』ですが、江戸時代には一般には『藏前八幡』または『東石清水宮』と呼ばれていたようです。

幕末の切絵図をみると「八幡宮」とだけ書かれています。


 また、由緒書によると、天保12年(1841)12月には、日本橋坂本町にあった下総国成田山新勝寺の出張所「成田不動(成田山御旅宿)」が、寺社奉行松平伊賀守忠優の達を受けて、蔵前神社境内に遷されました。

 確かに切絵図をみると「成田不動」と書かれています。

 明治に入ると、『神仏分離令』が布告され、別当寺であった雄徳山大護院は廃寺となり、成田不動は、明治2年深川吉祥院境内に遷されました。

 そして、明治11年に不動堂と改称されました。これが現在の深川不動堂です。


 蔵前神社は、明治6年、社号をそれまでの『石清水八幡宮』から「石清水神社」と改称、さらに明治19年、再び『石清水八幡宮』と改称しました。

 さらに、昭和26年、社号を『藏前神社』と改称しました。


 蔵前神社は相撲と深い関係があります。
 江戸時代は、蔵前神社境内でしばしば勧進大相撲が開催されました。

その回数は宝暦7年(1757)10月を始めとして、文政年間まで約70年の間に23回に開催され、両国回向院、深川富岡八幡宮と並んで、三大拠点の一つでした。

c0187004_11363859.jpg 現在の『縦番付』は宝暦7年10月、蔵前神社で開催された本場所から始められたものです。

また、天明2年(1782)2月場所7日目、安永7年(1778)以来、実に63連勝の谷風が新進小野川に「渡し込み」で敗れた一番は江戸中大騒ぎとなったそうです。

 このようなことから、財団法人大日本相撲協会(現・財団法人日本相撲協会)から現存の社号標や石玉垣が奉納されています。


c0187004_11364496.jpg さらに蔵前神社は、落語「元犬」(もといぬ)や「阿武松」(おうのまつ)の舞台ともなっており、「元犬」像が落語愛好家によって奉納建立されています。


赤印が蔵前神社です。






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by wheatbaku | 2016-05-06 11:29 | Trackback
浅草文庫と東京職工学校(蔵前散歩2)

 榊神社が、現在地に鎮座したのは昭和3年のことです。

 それ以前、榊神社の鎮座地は、江戸時代は「浅草御蔵」でした。

 そして、明治8年以降は「浅草文庫」となり、さらに明治15年以降は「東京職工学校」でした。

 そこで、今日は「浅草文庫」と「東京職工学校」について書いてみます。

 榊神社の西門の脇に「浅草文庫碑」が建っています。

c0187004_19324378.jpg「浅草文庫」は、明治の初めにあった公立の図書館です。

浅草文庫を継承した国立博物館のHPによれば次のような歴史があるようです。

明治2年、政府は徳川幕府の開成所・昌平坂学問所・医学館などの文教施設を併合して大学校を設立し、それと同時に、紅葉山文庫をはじめとする旧幕府の書籍類を接収して各官庁に引き継ぎました。

 そして、継承された書籍類を昌平坂学問所の大講堂に集め一般公開するため書籍館(しょじゃくかん)を設けました。これがわが国における最初の近代図書館です。

明治7年、政府は昌平坂学問所の大講堂を別の用途に利用するため、書籍館を浅草御蔵の八番米蔵へ移転することを決めました。

新しい図書館は翌年の明治8年5月に完成しました。

浅草文庫は、蔵書は約14万の古典のほかに古書画を保管し、観覧および模写も許可しました。蔵書には三条実美の筆跡による蔵書印が押されていたそうです。

 明治14年、浅草文庫は上野公園に新築された博物館構内の書籍借覧場に移転しました。

その後、書籍館・浅草文庫の蔵書は一部を内務省に返却されましたが、その大部分は現在まで引き継がれ国立博物館蔵書の基礎となっているとのことです。

 「浅草文庫」が上野に移転した跡地は、明治15年に、前年に創設された「東京職工学校」の敷地となりました。

c0187004_19325300.jpg「東京職工学校」は、現在の目黒区大岡山にある東京工業大学の前身です。

「東京職工学校」は、工業教育の指導者を養成する機関です。

その後、「東京工業学校」さらに「東京高等工業学校」と改称されました。

東京高等工業学校時代は約20年以上にもわたって、「煙突のある所蔵前人あり」といわれるほど豊富な人材を生み出してきました。

 しかし、大正12年の関東大震災で、すべて焼失してしまい、大正15年にキャンパスを現在の大岡山に移転しました。

 そして、昭和4年に「東京工業大学」となりました。

こうした経緯から、榊神社の境内には、「蔵前工業学園の蹟」の石碑があります。

歩道脇に建っていますが、見上げるほどの高さがある大きな石碑です。

東京職工学校の初代校長は正木退蔵と言いました。

正木退蔵は、松下村塾で学んでいた吉田松陰の弟子です。

明治になって、イギリスに留学し、そこで、ロバート・L・スティーブンソンと出会いました。

そして、師である吉田松陰について語りました。

このことを記憶していたロバート・L・スティーブンソン は、後に「吉田松陰伝」という伝記を書きます。

これが初めての吉田松陰の伝記です。

このロバート・L・スティーブンソンは、少年冒険小説「宝島」の作者です。

このことは、過去に書きましたので 「宝島」と吉田松陰  を読んで見てください。



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by wheatbaku | 2016-05-02 08:23 | Trackback
  

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