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京都祇園の老舗「二軒茶屋 中村楼」

 日曜日、京都に用事があり、土曜日曜と京都に行ってきました。

 今回は、あまり時間がとれないので、観光はほとんどできませんでしたが、かねて行ってみたいと思っていた室町時代創業の老舗「二軒茶屋中村楼」でランチしてきましたので、今日は京都の老舗の様子を紹介します。

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「二軒茶屋 中村楼」は、八坂神社の南楼門の脇にあります。

「二軒茶屋 中村楼」の創業は、室町時代だと言われています。

 400年以上の歴史を誇る老舗です。

 当時、八坂神社の門前には、参道沿いの東西に向かい合ってお店を構えた二軒の茶屋がありました。

 そのうちの一つ柏屋の流れをくみのが「中村楼」で、現在のご当主は12代目だそうです。
 2年ほど前にリニューアルしたそうで、玄関とは一変した雰囲気のテーブル席でいただきました。

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 お昼の懐石をお願いしましたので、順にお料理を紹介していきます。

先付 鯒の焼霜 ヤングコーン 赤万願寺 枝豆 旨出汁ジュレ 花穂ちらし

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造り 鯛 かんぱち あしらい

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吸い物 鱚葛打ち 翡翠(ひすい)茄子 オクラ じゅんさい 梅肉
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八寸  鯛子玉〆 鱚幽庵焼き すだち アスパラ 鮭酢〆蓮根巻 海老奉書焼 三度豆 焼き椎茸 ごま和え 新子芋玉味噌掛け ふり柚子 青瓜 もろみ

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変わり田楽 うすい豆味噌 胡麻麩

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小鉢 ズッキーニ油焼き 蛸湯引き 酢取り茗荷 喜味噌

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ごはん 新生姜ご飯 止め椀 香物

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デザート 抹茶 くずもち

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 さすが伝統の味、素晴らしかったです。特に豆腐田楽が創業以来の名物でしたので、変わり田楽は抜群の味でした。かつて私が食べて田楽で最もおいしいと思うぐらいでした。

 そこで、追加をお願いしたら、本物の名物「豆腐田楽」を奨められましたので、それを追加しました。

 これも豆腐・味噌ともに抜群、本当に満足しました。

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 比較的空いていたこともあり、帰りには玄関まで見送りをしていただき、素晴らしい料理の数々そして親切な応対、本当に満足のいくランチでした。




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by wheatbaku | 2016-06-27 09:37 | Trackback
天皇即位を理由とした改元(改元理由②)

今日は、江戸時代の年号の改元理由についての2回目です。

 今日は、天皇即位を理由とする改元についてお話します。

 改元理由について書く前に、江戸時代の天皇にどんな人物がいたのかを知る必要があります。

江戸時代の天皇は合計で16人います。

 インターネットで検索すると、「江戸時代の将軍は15人でした。それと同じように江戸時代の天皇は15人でした」と書いてあるものもあります。

c0187004_08430554.jpg しかし、よく数えてみると16人います。

たぶん15人と数えるのは、明治天皇が即位したのが慶応3年で江戸時代での在位期間が短いためだと思います。

15人と云う数は、確かに覚えやすい面があります。

しかし、正確に数えると16人いますので、覚える手段として「将軍と同じく15人」と覚えてもいいですが、正確に話をする際には、16人として覚える必要があると思います。

江戸時代の天皇の一覧を書いておきます。

107代   後陽成天皇

108代   後水尾皇

109代   明正天皇

110代   後光明天皇

111代   後西天皇

112代   霊元天皇

113代   東山天皇

114代   中御門天皇

115代   桜町天皇

116代   桃園天皇

117代   後桜町天皇

118代   後桃園天皇

119代   光格天皇

120代   仁孝天皇

121代   孝明天皇

122代   明治天皇

 この16人の天皇即位に応じて改元された年号がどれか順に確認していきます。

107代後陽成天皇・・・・・・・・・ 改元なし

108代後水尾皇・・・・・・・・・・ 改元なし

109代明正天皇・・・・・・・・・・ 改元なし

110代後光明天皇・・ 寛永 ⇒ 正保

111代霊元天皇・・・・・・・・・・ 改元なし

112代後西天皇・・・ 承応 ⇒ 明暦

113代東山天皇・・・ 貞享 ⇒ 元禄

114代中御門天皇 ・ 宝永 ⇒ 正徳

115代桜町天皇・・・ 享保 ⇒ 元文

116代桃園天皇・・・ 延享 ⇒ 寛延

117代後桜町天皇・・ 宝暦 ⇒ 明和

118代後桃園天皇・・・・・・・・・・ 改元なし

119代光格天皇・・・ 安永 ⇒ 天明

120代仁孝天皇・・・ 文化 ⇒ 文政

121代孝明天皇・・・ 弘化 ⇒ 嘉永

122代明治天皇・・・・・・・・・・・ 改元なし

天皇即位に応じて改元されたのが9例あります。

つまり16人のうち9人の天皇が即位した際に改元されているということになります。

なお、江戸時代の天皇で、後陽成天皇・明治天皇以外はすべて京都の泉涌寺に埋葬されています。(最上段写真参照)

そこで、5月の京都旅行でも泉涌寺にお参りしてきました。

既にブログに泉涌寺の記事を投稿していますので、ご覧ください。


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by wheatbaku | 2016-06-24 16:35 | Trackback
江戸時代の年号改元の理由①

 最近出版された中公新書に「江戸の災害史」という本があります。

 今年の江戸検のお題が「天下大変~江戸の災害と復興~」なので、早速購入して読んでみました。

 この本を読んで気が付いたことが「年号の改元が災害の発生を理由にしばしば行われている」ということでした。

 そういえば、明暦の大火が発生した翌年すなわち明暦4年には改元が行われ「万治」となっています。

 また、目黒行人坂の大火が発生した年すなわち明和9年に改元が行われ「安永」と改元されています。

 そこで、江戸時代の年号の改元理由はなにかと興味をもち調べてみました。

 今日からは、何回かにわけて、年号の改元について書いていこうと思います。

 なお、私は「年号」と書いていますが、「元号」と呼ぶ人もいます。

法律には「元号法」という法律があります。また、「改元」という言葉は「元号を改める」という意味です。

こうしたことから「元号」という呼び方が適切かもしれませんが、このブログでは「年号」と書いていきますので、ご了承ください。

さて、江戸時代の年号は、「慶長」から始まって「慶応」まで次の36の年号が定められました。まず、これが基礎知識となります。

慶長 元和    寛永 正保  

 慶安 承応    明暦 万治

 寛文 延宝    天和 貞享

 元禄 宝永    正徳 享保

 元文 寛保    延享 寛延

 宝暦 明和    安永 天明

 寛政 享和    文化 文政

 天保 弘化    嘉永 安政

 万延 文久    元治 慶応

この年号の改元理由について「見る・読む・調べる 江戸時代年表」(山本博文編 小学館刊) に基づいて調べました。

c0187004_09013862.jpgこの本には、改元日と改元の理由が書いてありますので、大変役に立ちました。

そこに書かれている改元理由を
 ①天皇即位 ②将軍宣下など 
 ③革命 ④災害 と分けました。

調べた結果を書いていくと

①天皇即位  10年号

 ②将軍宣下など 3年号

 ③革命     9年号

 ④災害    13年号 となります。

(☆これを合計すると35になりますが、「見る・読む・調べる 江戸時代年表」には「慶長」の改元理由が書いてありませんでした。)

ご覧いただいてわかるように最も多いのが ④災害 ということになりました。

最も多い理由は①天皇即位だろうと思っていたので、調べた結果は意外なものでした。

また、飛鳥時代や奈良時代には「和銅」「霊亀」などおめでたいことが起きたことをきっかけに改元されていることがありましたが、江戸時代には瑞祥を理由に改元した例がゼロであったということにも驚きました。

改元理由について書いていくとボリュームが多くなるので、数回に分けて書いていきますが、次回は「天皇即位を理由とした改元」について説明します。


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by wheatbaku | 2016-06-22 08:59 | Trackback
江戸楽アカデミー後の懇親会のご案内

 7月3日に江戸楽アカデミーで開講する「今年のお題『天下大変~江戸の災害と復興~』参考図書 読み込み講座」の申込状況について、江戸楽アカデミーの事務局から連絡がありました。

 おかげさまで定員の60名を超える方の申込をいただいたたそうです。

 大勢の皆さまにお申込みいただきありがとうございました。

 期待の大きさが感じられ責任重大だなと気を引きしめています。

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 定員オーバーとなったため、受講できない方には、すでに受講できない旨のご連絡が送付されているそうです。

しかし、受講できる方への受講案内の発送が今週金曜日になるという連絡も同時にありました。

 申し込まれた方はやきもきされているかもしれませんが、もう少しお待ちいただきたいと思います。

 今回の江戸楽アカデミーは、3回のシリーズものですので、受講される方同士の交流を図るため、講座後に懇親会を開催することにしています。

 その会場はすでに決まっていて、受講案内の中に、講座終了後の懇親会の案内が同封され、申込方法も記載されています。
 会場からは6月30日までに人数を確定してほしいと言われていますが、受講案内の発送が遅くなりますので、このブログを利用して事前ご案内しておきます。

 多くの方にご参加いただきますようお願いいたします。

【懇親会開催要領】

◆日にち 7月3日(日)

◆時 間 午後5時開始   *2時間。途中で中座いただいても構いません。

◆場 所 日比谷グリーンサロン  TEL 03-3503-2021

*日比谷公園内にあり、日比谷図書文化館から2~3分、

詳細は当日もご案内します。

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◆会費 4500円
   *会費は当日徴収させていただきます。
    おつりのないようにご準備ください。

◆キャンセル

*前日および当日キャンセルの場合には、3000円のキャンセル料がかかりますので、キャンセルの場合は早めにご連絡ください。

 懇親会の申し込み期限が6月30日午後5時までとなっていますので、懇親会に参加希望される方は、受講案内が自宅に届いたらすぐに開封され、申込方法を確認してお申込みいただきたいと思います。

 どうぞよろしくお願いします。




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by wheatbaku | 2016-06-20 09:13 | Trackback
富岡八幡宮の陣幕顕彰碑(深川散歩⑤5)


 富岡八幡宮の横綱力士碑をよく見ると、周辺に、いろいろな石碑もあることに気が付きます。

これらの碑はあまり注目されていないようですので、今日は、横綱力士碑周辺の碑について説明します。

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横綱力士碑の両脇には、力士の像が描かれています。

皆さん気がつきましたか?

c0187004_09204271.jpg向かって右側が「陣幕顕彰碑」です。

ここに刻まれているのは「陣幕久五郎」です。
 いうまでもありません。「横綱力士碑」建立の中心となった人物です。

像の右脇には出雲 陣幕久五郎と刻まれています。

そして上部には

安政四年正月 両國回向院二於テ大角力 興行二日目ノ取組ナリ

と書かれていて、安政四年正月場所における陣幕久五郎の取り組みの姿であることがわかります。

右側側面には次のように刻まれています。

幕久五郎ハ島根縣出雲國八束郡意東村ノ生レニシテ初メ黒絨槙太郎卜云フ大阪朝日山四良右衛門ノ門二入り江戸二下り秀ノ山雷五郎ノ門二入ル安政三年十一月阿州候ノ御抱トナリ陣幕久五郎卜改名ス此取組ハ安政四年正月ノ大相撲二シテ阿洲候直々追手風喜太郎玉垣額之助両人工御話アリテ始テ不知火光右衛門卜立合市中大二賑ハエタル時ノ姿ナリ陣慕ハ此時幕下十一枚目二在リ次二雲州候ノ御抱トナリ後薩洲候ノ御抱トナル


一方、横綱力士碑の向かって左側にあるのは「不知火顕彰碑」で、ここに刻まれている力士は11代横綱不知火光右衛門です。

c0187004_09205853.jpg像の左脇には 肥後不知火光右衛門 と刻まれています。

そして上部には

安政四年正月 両國回向院二於テ大角力 興行二日目ノ取組ナリ 

と書いてあって、陣幕久五郎と安政四年正月場所で戦った時の姿であることがわかります。


「不知火」といって、何か思い当りませんか?

そうです。横綱の土俵入りに「不知火型」というのがありますね。

「不知火型」は、この不知火光右衛門が考案した土俵入りだといわれています。


不知火光右衛門の経歴も、顕彰碑の右に刻まれています。

それが次です。

不知火光右衛門ハ熊本縣肥後國合志郡大津在下町ノ生レニシテ大阪湊諾右衛門ノ門二入り殿リ勝五郎卜云フ又江戸二下り境川浪右衛門ノ門二入ル肥後侯ノ御抱トナリ不知火光右衛門卜改名ス此取組ハ安政四年正月ノ大相撲ニシテ不知火ハ幕ノ内下ヨリ三枚目二在リ陣幕卜始メテ立合シタル時ノ姿ナリ


 不知火光右衛門と陣幕久五郎は後にそれぞれ11代横綱と12代横綱となりました。

この両雄の取り組みはさぞかし江戸中を沸かせたことでしょう。



「不知火顕彰碑」の前に「超五十連勝力士碑」があります。

c0187004_09212144.jpgこの石碑は、昭和63年に建立されたものです。

五十連勝というのは、現行制度でも3場所連続で全勝していないと達成できない金字塔であるということから、それを達成した力士を顕彰しようということで建立されたようです。


 ここに刻まれている力士は次の5人です。

 六十三連勝 第四代横綱   谷風梶之助

 五十八連勝 第十五代横綱  初代梅ケ谷藤太郎

五十六連勝 第二十二代横綱 太刀山峰右衛門

六十九連勝 第三十五代横綱 双葉山定次

五十三連勝 第五十八代横綱 千代の富士貢


 白鵬は平成22年に63連勝しているのですが、この石碑に名前は刻まれていません。

 どうして刻まれていないのかわかりません。

 私の勝手な推測ですが、白鵬がまだ現役だからかもしれません。






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by wheatbaku | 2016-06-17 09:22 | Trackback
富岡八幡宮の横綱力士碑(深川散歩④)


富岡八幡宮に数多くある相撲関係の石碑の中で、最も有名な石碑が「横綱力士碑」です。

 今日は、この「横綱力士碑」について書いてみます。

 横綱力士碑は、社殿の東側にあります。 

 当初は、本殿の裏手に建てられていましたが、関東大震災後、現在地に移されたものだそうです。

 境内の最も奥まった部分にありますので、社殿でお参りした後に訪れる人が多いのではないでしょうか。

 横綱力士碑の大きさは高さ3.5メートル、幅3メートル、重量は20トンに及び、横綱を顕彰するにふさわしい堂々たる石碑です。

c0187004_12540588.jpg この碑は、明治33年、江戸時代の最後の横綱である第12代横綱陣幕久五郎を発起人に建立されたものです。

 横綱力士碑には、明治28年と刻まれていますが、実際に建てられたのは、明治33年のことです。

 何らかの理由、おそらくは工事の遅れによって、予定より遅れたのでしょう。

 横綱力士碑建碑の中心となった12代横綱陣幕久五郎は、出雲国の出身で、徳島藩・松江藩のお抱え力士として活躍して、元治元年以降は薩摩藩のお抱え力士となり慶応2年に横綱となりました。

 左右の石には、横綱力士碑建設に協力した人たちの名前が刻まれています。

政界では、伊藤博文、山県有朋、大隈重信といった総理大臣経験者をはじめ西郷従道・榎本武揚・大山巌・陸奥宗光などの大臣経験者、   経財界からは渋沢栄一・大倉喜八郎・安田善次郎・浅野総一郎など、歌舞伎界では市川団十郎・尾上菊五郎などの賛同者の名が刻まれています。

こうした人たちの名前を見ると、横綱力士碑が広く各界から協賛を得て建立されたことがわかります。

 

 相撲に関係する寺社は、富岡八幡宮のほかにも多数あります。

c0187004_12544590.jpg 特に回向院などは、江戸時代後期は、まさに相撲興業の中心でした。

 そうした場所でなく、なぜ富岡八幡宮が建碑場所として選ばれたのでしょうか。

 その理由は、陣幕が東京府知事に提出した建設願いの中に書かれています。

 富岡八幡宮に横綱力士碑が建てられたのは、
 ①富岡八幡宮に相撲の祖先とされている野見宿弥が祀られていること(現在は に合祀されていますが、野見宿祢社があります。)
 ②先日書いたように貞享元年に富岡八幡宮で相撲興業が許されて以降、大相撲興行がしばしば富岡八幡宮で行われていたこと 
 ③陣幕と同郷の釈迦ヶ嶽雲右衛門を記念する碑が建てられていることなどによるものだそうです。(釈迦ヶ嶽雲右衛門の碑は、前回書いたように天明7年に建てられたものです)

 横綱力士碑の裏面は、最上段に「力士栄誉横綱歴代」と刻まれた篆額は、時の海軍大将伊藤佑亨によるものです。

 その下段には、初代明石志賀之助から71代鶴竜までの四股名が刻まれています。

 ここに刻まれた横綱代数ですが、現在、日本相撲協会もこの代数を正式に認めていますが、当初は、横綱力士碑を建設するにあたって、陣幕久五郎が調査し決定したものです。



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by wheatbaku | 2016-06-13 12:41 | Trackback
富岡八幡宮の巨人力士の石碑(深川散歩③)

富岡八幡宮にある相撲関係の碑は、数多くあります。

今日は、その2回目ですが、今日は、身長の大きい力士に関する石碑についてご紹介します。

c0187004_09503094.jpg前回紹介した「大関力士碑」の右手前に「釈迦ヶ嶽等身碑」その奥「巨人手形・足形碑」、「大関力士碑」の左手前に「巨人力士身長碑」があります。

 これらが、長身力士を顕彰した石碑です。

 右写真で、中央の大関力士の右の黒い円柱が「釈迦ヶ嶽等身碑」、左の白い円柱が「巨人力士身長碑」です。

c0187004_09544170.jpg「釈迦ヶ嶽等身碑」は、天明7 年(1787)に建設されたものです。

 釈迦ヶ嶽は寛延2 年(1749)出雲国に生まれ、雷電為五郎の弟子となり大坂で初土俵を踏み、明和7年(1770)の江戸番付に東大関として登場します。

c0187004_09510837.jpg身長7 尺5 寸(約2.26メートル)、体重800 匁(172 キロ)という大型力士でした。

しかし、安永4年(1775)江戸在場所中に26歳で亡くなってしまいました。

この碑は釈迦ヶ嶽の実弟である真鶴咲右衛門によって13回忌にあたって、天明7 年(1787)に、追善供養のため建立されました。

この碑は、釈迦ヶ嶽の身長と同じ高さに造られていて、高さ2.26メートルの円柱形の碑です。

建設当初は、富岡八幡宮境内の野見宿禰社の東側にありましたが、昭和2年に横綱力士碑のそばに移動し、さらに昭和63年に現在地に移動したようです。

「巨人力士身長碑」は、昭和58 年に建てられたものです。

c0187004_09513087.jpg この碑は、「大関力士碑」と同じように、富岡八幡宮宮司の富岡興永氏の発案によるものだそうです。

 大相撲力士の中には、長身で有名であった釈迦ヶ嶽に負けない巨人力士がほかにもおり、その背くらべを一つの石で示してみたいという趣旨で造られたようです。

そのため、歴代の巨人力士の四股名と身長が刻まれています。

ここに刻まれた巨人力士は、大正~昭和にかけて「文ちゃん」 の愛称で人気を博した出

羽ヶ嶽文治郎の6 尺7 寸7 分(約2.05 メートル)をボーダーラインとして、その身長より高い力士12名の四股名が刻まれています。

最も身長の高い力士は、天保・弘化年間に活躍した生月鯨太左衛門(いきつきげいたざえもん)の7尺6 寸(約2.30メートル)です。

2番目が大空武左衛門の7尺5寸(約2.27メートル)、

3番目が釈迦ヶ嶽雲右衛門です。こちらの碑では、7尺4寸8分(約2.26メートル)となっています。

c0187004_09514856.jpg 「釈迦ヶ嶽等身碑」の右奥にある「巨人手形・足形碑」には、巨人力士の手形や足形が刻まれています。

 手形の方は、大空武左衛門、釈迦ヶ嶽雲右衛門、九紋竜清吉、鮨ヶ嶽源大夫、出羽ヶ嶽文治郎、竜門の6力士の手形が刻まれています。

足形は、生月、竜門、男山の三力士が刻まれています。

これらの手形・足形は、元力士・記者・漫画家であった小島貞二氏のコレクションから提供されたものだそうです。


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by wheatbaku | 2016-06-10 09:49 | Trackback
富岡八幡宮の大関力士碑(深川散歩②)

 今日からは、富岡八幡宮についてご案内します。

 富岡八幡宮は寛永4年(1627年)、長盛法印が当時永代島と呼ばれていた現在地に創建しました。 

c0187004_10344397.jpg周辺の砂州一帯を埋め立て、合計で60508坪もの土地を境内としました。

御祭神は、八幡宮の名前でわかるように応神天皇です。

「江戸最大の八幡様」で、「深川の八幡様」と親しまれています。

この富岡八幡宮の別当寺が永代寺でした。

江戸時代は、神仏習合でしたので、富岡八幡宮と永代寺は一体でしたが、明治になって神仏分離令が発布され、お寺と神社は明確に区分するよう求められました。

 その結果、永代寺は廃仏毀釈の影響も受けて廃寺となりました。

永代寺の住職は、宮司になることを選択して、富岡八幡宮の宮司となったそうです。

 富岡八幡宮は江戸勧進相撲発祥の地として有名です。

江戸時代初期、相撲興業は トラブルが多くしばしば禁止されました。

c0187004_10351484.jpgしかし、5代将軍綱吉の治世の貞享元年(1684)に勧進相撲が許されました。

これが江戸相撲の再興とされています。

その時、開催場所となったのが富岡八幡宮の境内でした。

 その後、蔵前八幡や神田明神なども興行場所となりましたが、富岡八幡宮でしばしば行われ、貞享元年以降31回開催されています。

天保4年降、本場所は、本所回向院で開催されることとなりましたが、勧進相撲の勃興期における富岡八幡宮の地位はかなり高いものでした。

そうしたことから相撲関係の石碑が富岡八幡宮に数多くあります。

最も有名なのが横綱力士の碑ですが、横綱力士碑は、本殿の東側にあり、それより手前の表参道大鳥居脇に相撲関係の石碑が数多くありますので、そちらから案内します。

その中から、今日は、まず、「大関力士碑」をご案内します。

c0187004_10354501.jpg表参道大鳥居をくぐってすぐ右手には、 歴代大関を顕彰するために建立された 「大関力士碑」があります。

この石碑は、昭和58年に建てられ、富岡八幡宮宮司である富岡興永氏の発案のもと、元力士・記者・漫画家であった小島貞二氏
と相撲趣味の会の加藤健治の調査に基づき建てられたものだそうです。
 

中央に建てられている「大関力士碑」が、昭和58年に建てられたものです。

歴代大関の四股名は、その斜め後ろの両脇にある大きな石に刻まれています。

 この石碑は、明治31年に、9代目市川団十郎と5代目尾上菊五郎により寄進されたものです。
 向かって右側(右上写真)が市川團十郎が寄進したもの。
 左側(右下写真)が尾上菊五郎が寄進したものです。

c0187004_10362344.jpgこの石は、横綱力士碑を建てた際に、資金協力者の名前を刻むために準備された仙台石ですが、工事を急いだため、名前を刻まないまま、横綱力士碑の手前に置いてあったものだそうです。

その石を利用して、江戸時代の実力を伴わないいわゆる「看板大関」と横綱に昇進した力士を除いた大関の四股名を刻んだものです。

この2基の仙台石には、初代大関雪見山から最近の琴欧州まで、107人の歴代大関の四股名が彫り込まれています。
 右上写真には、寄進した尾上菊五郎の名前と最後の刻銘大関(琴欧州)の名前が刻まれています。





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by wheatbaku | 2016-06-08 10:20 | Trackback
洲崎神社と平久橋の波除碑

 先日の深川散歩では、洲崎神社を案内しました。

 今回、洲崎神社を案内したのは次のような事情がありました。

 参加者の中には、江戸検を受検する方がいます。

今年のお題は「天下大変~江戸の災害と復興~」ですので、それと関連する「波除碑」をみていただくためです。

 今日は、その「波除碑」について書いていきます。

 まず、洲崎神社について案内します。。

c0187004_09551342.jpg 洲崎神社は、元禄131700)に、護持院隆光が、5代将軍綱吉の母桂昌院が信仰していた江戸城の紅葉山の弁財天を移して創建したものです。

神社が西を向いているのは珍しいのですが、洲崎神社が西を向いているのは、江戸城を守護するという意味合いがあるそうです。

c0187004_09552958.jpg江戸時代は、洲崎弁財天社と呼ばれていましたが、明治になって神仏分離令により、洲崎神社と名前を変えました。

 江戸時代は、海辺にあって、景色が大変よくて多くの行楽客が遊ぶ場所でした。

 そのため、茶店や料亭が立ち並んでいました。

 松江藩主松平治郷(不昧)が贔屓にしていた「枡屋」が大変有名です。

「升屋」があった場所ははっきりしませんが、洲崎神社の宮司さんの話では、神社の言い伝えとして本殿の南側あたりにあったとされているそうです。

3月3日は、江戸では潮干狩りの日でしたが、洲崎は潮干狩りの名所とされていて、朝早くから大勢の潮干狩り客が訪れました。

波除碑は、洲崎神社の鳥居のすぐそばにあります。

c0187004_09563016.jpg江東区教育委員会の「津波警告の碑」という案内がないと見落としそうな石碑です。

寛政3年(179193日から4日にかけて江戸は台風に襲われました。そして4日の午前9時ごろ満潮を迎え、10時頃、洲崎・木場一帯は高潮がおしよせました。

この高潮により、石垣は崩れ、洲崎弁天堂は大破し、付近の家屋がことごとく流されて多数の死者、行方不明者が出ました。

幕府はこの災害を重視して洲崎弁天社から西のあたり一帯の東西285間(約513メートル)、南北30間余り(約54メートル)、総坪数5,467坪(約1万千平方メートル)を百坪につき9両1分で(深川区史、上、P101)買い上げて空地としこれより海側に人が住むことを禁じました。

c0187004_09565815.jpgそして空地の東北地点である洲崎神社と西北地点である平久橋の袂に波除碑を建てました。当時の碑は地上6尺、角1尺であったといいます。

 石碑は砂岩で脆く、震災と戦災によって破損が著しくて、文字をほとんど判読できません。

 建設は寛政6年(1794)碑文は屋代弘賢によるものと言われています。

 文章は、次のように書かれていたと江東区史に書かれています。

葛飾郡永代浦築地

此所寛政重三年波あれの時、家流れ人死するもの少なからず。此後高なみの変ハかりかたく流死の難なしといふべからず。是によりて、西ハ入舟町を限り、東ハ吉祥寺前に至るまで、凡長弐百八拾五間余りの所、家居とり払ひ、あき地になしをかるゝもの也

寛政六年甲寅十二月

c0187004_09573571.jpg西北の端に設置された「波除碑」は、現在は、平久橋の西のたもとに設置されています。

ただし、幕末の切絵図と比較してみると、現在の設置場所は、原位置から若干移動しているように思われます。

こちらの「波除碑」も摩耗が激しく、ほとんど刻まれた文字は判読できません。

赤印が洲崎神社の波除碑、 青印が平久橋の波除碑 



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by wheatbaku | 2016-06-06 09:46 | Trackback
「山王祭のいま・みらい」展のご紹介
 6月7日から、山王祭が執り行われます。

c0187004_12053507.jpg それにあわせてアーツ千代田3331で、企画展「山王祭のいま・みらい」 が開催されています。

 その企画展に木下栄三さんが描いた山王祭の絵が展示されているという案内をいただいたので、観に行ってきました。


 今年の山王祭は、6月10日が神幸祭(神輿渡御)、6月15日が例大祭です。


 今年は、山王祭が江戸城内に入った元和元年(1815)から数えて400年が経ったので、天下祭400年と銘打って盛大に催行される予定だそうです。


c0187004_11504488.jpg そうしたことから、木下さんに山王祭の絵を描いて欲しいと依頼があったそうですが、あいかわらず多忙の中でよく依頼を受諾したなぁとまたまた感心しました。


 木下さんが描いた絵は、浮世絵の三組もののスタイルで、中央に江戸城および見附、左手に山王権現の麹町界隈が氏子町、右手に日本橋の氏子町が描かれています。
(右下全体写真ご参照ください)


c0187004_11510021.jpg あいかわらず丁寧に描かれていますが、1か月で仕上げたとのことでした。


 江戸城の城門は以前見たこともある絵柄なのですが、この絵のために新たに描いたのだそうです。

 さぞかし睡眠時間を削って仕上げたのだろうと思います。

 木下さんのその熱心さ・丁寧さに今回も脱帽しました。



c0187004_11510701.jpg 山王祭りの絵を中央に、江戸城三十六見附が展示されていますが、三十六見附には新たに描いた物も展示されています。

 右写真は、木下さんと話題になった市ヶ谷御門です。

これは木下さんいわく以前描いたものだそうですが、私は初めて見たような気がしたので写真に撮っておきました。



企画展は、6月12日まで開催されています。

お時間のある方、ぜひ寄ってみてください。

下の赤印がアーツ千代田3331で、東京メトロ銀座線「末広町駅」から徒歩2分の至近距離にあります。






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by wheatbaku | 2016-06-02 11:49 | Trackback
  

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