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四谷御門内定火消屋敷(定火消屋敷⑬ 江戸の大変)

定火消屋敷めぐりの第9回は、四谷御門内の定火消屋敷を紹介します。

*この記事は、2011年に書いた記事を、今年の江戸検のお題「江戸の大変」のため、再度掲載するものです。

そのため、掲載する写真は当時のものであり、一部の情報が古くなっていることもありますので、その点、ご了承いただいた上でお読みください。

 四谷御門内の定火消屋敷は、現在は番町小学校になっています。

c0187004_09541694.jpg 番町小学校は、JR市谷駅から徒歩7分、JR四ツ谷駅からも徒歩7分です。

 番町小学校といえば、私たちの世代では、「番町、麹町、日比谷、東大」といわれ、番町小学校⇒麹町中学校⇒日比谷高校から東京大学へと進む有名進学校でした。

 番町小学校は、明治3年6月に設立された小学校で日本の中で、もっとも古い学校の一つです。

 最初は市ヶ谷八幡町の洞雲寺というお寺におかれたそうです。

 明治4年12月4日に、文部省直轄の小学校となり、正式の小学校として開校式を行い、この日が創立記念日となっています。

 2011年は創立140周年になることから、12月4日の挙行された創立140周年記念式典には皇太子様が臨席されました。

 さて、2011年当時の番町小学校同窓会のHPに、定火消屋敷との関係を書いた部分がありました。(*現在は掲載されていないようです。)

c0187004_09544309.jpg(番町小学校は) 明治五年六月に、現在の番町小学校のある場所に移され、その場所にあった小幡藩の藩邸を一部改修して校舎として使用しました。ここには、定火消役(今の消防署)、火附盗賊御改役(今の警察署)などが置かれていたこともあります。この地域は江戸時代、番方の住む旗本武家屋敷町であったことから『番町』と呼ばれていました。

新たな学制によって、明治六年五月三日、第一大学区第三中学区の「第一番小学 番町学校」と名前を改めることになりました。新しい歩みを始めた学校は、これまで使用していた屋敷を取り壊し、本格的な校舎を建てることになりました。明治十年八月から工事が始まり、明治十一年二月二日に開校式が行われました。新しい校舎は、全体がH字形をした唐破風造玄関を持つ洋風校舎で、六百四十人も入れる広さになりました。当時としては、近代建築の最先端をいく建物でした。

c0187004_09550730.jpg 同窓会の文章の中にも書かれていますが、元治元年の江戸切絵図を見ると、番町小学校の場所には定火消屋敷は見当たらず、火付盗賊改 戸田與左衛門 となっています。

 さらに、消防博物館に掲示されていた切絵図では、火付盗賊改役の役宅の後の上野小幡藩松平家の屋敷になっていました。(右上写真)
 これら幕末の切絵図からは、四谷御門内に定火消屋敷があったことが確認できません。

 そこで、四谷御門外の定火消屋敷が幕末にはどうなったのか調べてみました。

 宝永元年に10組となり、その後、長い間10組を維持していた定火消も、町火消の活躍もあって、幕末になると組数が減少していきます。

 安政2年には、10組から8組に減らされています。さらに慶応2年には4組に減らされます。

 安政2年に減らされたのが、四谷御門内と小川町の定火消です。
 安政2年の武鑑と安政3年の武鑑を比較するとよくわかります。

 さらに、「江戸城下変遷絵図集」という本に収録されている普請奉行が作成していた『御府内沿革図書』という書類を確認してみると天保9年の地図では「火消役屋敷」となっていますが、文久元年の地図では「松平摂津守」となっています。

 つまり、四谷御門内の定火消屋敷は、安政2年に廃止された後、火付盗賊改の屋敷となったり、諸大名の屋敷へと持ち主が変わっていったようです。



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by wheatbaku | 2016-07-29 09:49 | 江戸の大変 | Trackback
市谷左内坂定火消屋敷(定火消屋敷⑪  江戸の大変)

定火消屋敷めぐりの第8回目は、市谷左内坂の定火消屋敷です。

*この記事は、2011年に書いた記事を、一部見直して、今年の江戸検のお題「江戸の大変」のため、再度掲載するものです。

そのため、掲載する写真は当時のものであり、一部の情報が古くなっていることもありますので、その点、ご了承いただいた上でお読みください。

 市谷佐内坂の定火消屋敷跡には、新宿区が建てた定火消の発祥の地の標柱がありますので、見つけやすい屋敷跡です。

c0187004_11414769.jpg JR市谷駅から徒歩5分ほどで、南北線市谷駅からは徒歩1分程度のソニー・ミュージックエンタテインメントのSMEビルの東側脇に「定火消発祥の地」の説明標柱が建っています。

 それには、次のような説明が書かれていました。

 万治元年(1658),新たな消防制度として江戸に誕生した定火消の屋敷のひとつがこの市谷左内町21番地および市谷田町1丁目地内に置かれました。屋敷内には火の見やぐらが立てられ, 定火消役の旗本以下, 与力6, 同心30, 火消人足およそ100人が火事に備え, ここに初めて火消しの常駐する場所がつくられました。

    平成172月  新宿区

 幕末の切絵図を見ると、市谷の定火消屋敷は、標柱の建っている所より、もう少し北側にあったように思われます。

 下の消防博物館作成した比較地図をご参照ください。

c0187004_11421880.jpg

 

 定火消屋敷西側の坂は、「左内坂」と呼ばれています。

c0187004_11421087.jpgこの坂は、江戸時代初めの元和年間に島田左内という人が開発し、町家をつくったことにちなんで、左内坂と呼ばれるようになったそうです。

 島田家は明治時代まで名主を務め、代々島田左内を名乗っていたそうです。

 左内坂の西側には、江戸時代、尾張藩の上屋敷がありました。明治7年に、ここに陸軍士官学校が設置されました。

 そこは、左内坂を上ったところになることから、司馬遼太郎「坂の上の雲」の坂とは左内坂という説があるそうです。

 「坂の上の雲」は、私が読んだ本の中で、もっとも良い本と思っていますが、思がいけなく「坂の上の雲」とも関係のある場所を見つけて驚きました。



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by wheatbaku | 2016-07-27 11:39 | 江戸の大変 | Trackback
飯田町定火消屋敷(定火消屋敷⑩  江戸の大変)

 今日は、飯田町の定火消屋敷をご案内します。

c0187004_14142990.jpg 飯田町の定火消屋敷跡は、現在は、富士見小学校(左下写真)や日本歯科大学などになっていました。飯田町というので、JRの飯田橋駅の近くかと思いましたが、東京メトロの九段下駅が最寄り駅でした。東京メトロ「九段下」駅7番出口から富士見小学校正門まで約6分です。

 

 飯田町の地名は、飯田喜兵衛という名主の名前に由来します。 

飯田喜兵衛は、徳川家康が江戸に入府した際にこの辺りの道案内をしたそうです。丁寧に案内したことに感心した徳川家康から名主に任命され、飯田喜兵衛が支配する九段の土地は飯田町と名付けられたそうです。

 九段坂を拡幅するため削られた分として築地に南飯田町が与えられました。そして、元の九段の飯田町は、元飯田町と名付けられました。

 幕末の切絵図を見ると、現在の九段北一丁目は、元飯田町となっています。

 定火消屋敷の周辺は武家地ですので町名がついていませんが、通称として「飯田町」が使用されていました。

 明治になっても「飯田町」の名称は残っていましたが、昭和3年に「飯田橋駅」が開業したことから「飯田橋」の名称が浸透し「飯田」の名称は影が薄くなってきました。

そして、昭和41年に、「飯田町」から「飯田橋」に改称されました。

 飯田橋という名称は、元は「飯田町」だったんです。

c0187004_14152707.jpg 富士見小学校は、明治10年に創立されています。

 富士見町という名前は、明治5年になって、はじめて付けられています。

 富士見の名前は、文字通り、町内から富士山が眺められたことに由来しています。

 こうした説明の書かれた町名由来板が富士見小学校の南側歩道に設置されていました。

 説明板には、切絵図(上写真)も載っていました。切絵図の中心部分が定火消屋敷です。


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by wheatbaku | 2016-07-26 14:16 | 江戸の大変 | Trackback
江戸楽アカデミー第2回講座開講!

昨日は江戸楽アカデミーで「『天下大変~江戸の災害と復興~』読み込み講座」の第2回講義がありました。

c0187004_11285038.jpg ようやくお題のテキストも発売されましたが、直前まで入手が危ぶまれた人もいて、講師としてやきもきしましたが、昨日は、受講された方全員がテキストを持参していたので、安心して講義を始めることができました。

c0187004_11292363.jpg 講義の前には、前回に続いて今回も、緊張解きほぐしのゲームを行いました。 

そのため、講座全体として、受講者同士の交流もかなり進み、休憩時間中には、隣同士での会話もかなり行われて、益々和やか雰囲気になってきました。

 昨日、受講いただいた皆様、お疲れ様でした。

さて、講義ですが、昨日の講義では、「第1章大火」の前回の追加説明をした後で、「第2章地震と津波」、「第3章火山噴火」について説明しました。

c0187004_11294697.jpg「大火」では、町火消の喧嘩と失火の場合の処罰等について説明しました。

「地震と津波」については、南海トラフを震源として発生した地震と江戸における地震を中心に説明し、その後に描く地方の地震を説明しました。

 しかし、テキストで解説されている地震を解説しようとしましたが、時間が不足したことと、情報量が多くなりすぎることから、一部を割愛することにしました。

「火山噴火」については、「富士山宝永噴火」「浅間山噴火」『島原大変肥後迷惑』について説明しました。

今回の講座でも、どれも大切だと考え、多くの事項の説明した結果、各項目はポイントの説明になった部分もあったようにも思います。

 それが、今後のテキストの勉強のご参考になれば幸いです。

c0187004_11300522.jpg 講義終了後は、恒例の懇親会です。

今回も40名近くの方が参加されました。

初めて参加された方の自己紹介や昨年合格した人のあいさつもあり、いつものように江戸と江戸検の話で盛り上がりました。

その中で、最近、こうした懇親会に参加されるようになった方々が、非常に喜んでくれているのが、すごく印象的でした。

そして、一次会は2時間でしたが、一次会では話足りない人たちがそのまま残り、二次会となりました。

二次会にも20名以上の方が参加でした。

江戸検の勉強よりも飲み会が楽しみなのかと思えるほどです。

この時期だから、まぁいいかっ!

c0187004_11350969.jpg

一次会、さらには二次会までお付き合いいただいた皆さんお疲れ様でした!




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by wheatbaku | 2016-07-25 11:18 | Trackback
ほーりーの講演会に行ってきました

昨日、ほーりーこと堀口茉純さん(以下、ほーりーとさせていただきます)の講演会「徳川家茂とその時代
」が日比谷図書文化館で開催されました。

c0187004_15124910.jpg7月3日の江戸楽アカデミーの後に開催した受講生との懇親会にほーり―が特別参加していただきましたので、そのお礼をかねて、講演を聞きに行ってきました。

ほーりーの講演は、久しぶりに聞くことになりましたが、あいかわらず流暢な語り口で、観客を魅了していました。

ほーりーは、大の家茂ファンですが、昨日7月20日は家茂の命日ですので、それに合わせたイベントということで、この講演会が企画されたそうです。


20日が命日といいながら、冒頭のお話は、家茂の命日は、実は19日ではないかということから始まりました。

ほーりーの説明では、徳川実紀と勝海舟が書いた「断腸記」には、19日に亡くなったと思われる記述が残されているとのことでした。


c0187004_15131217.jpgまた、家茂は3回上洛していますが、その様子が浮世絵に描かれているとのことで、これは当時として異例のことですが、こうしたのは、徳川幕府の弱体化を防ぐために、あえて、公衆の面前に将軍の姿を誇示しようとしたためではないかというお話が浮世絵を見せながらありました。


また、新撰組の隊士の名簿を差し出すよう命じて、新撰組の面々が感激したというエピソードも話してくれましたが、こうした話は初めて知りましたので、大変勉強になりました。


c0187004_15134686.jpg和宮との結婚の話も当然出て、天璋院と和宮との間をとりもつ役を果たし、当初頑なだった和宮が次第に江戸風に慣れ家茂を慕うようになったエピソードがあちこちにちりばめられていました。


c0187004_15181691.jpg家茂を慕う人は存命中非常に多かったと言われています。

ほーりーは現在の家茂ファンで、その家茂ファンのほーりーが語ってくれたからだと思いますが、講演全体を通じて、人から慕われる家茂の人柄が良くわかる講演で良かったと思います。


講演の最後は、家茂に関する5問のクイズが出され、正解者1名に、記念のTシャツがもらえるというゲームもありました。

ほーりーが出題した問題は5問ありましたが、ちょっと難しいものを3問書いておきます。

①家茂の血液型は何型か?

②家茂が大好きだった和菓子の老舗はどこか?

③家茂からナポレオン三世に贈ったものは何か?

c0187004_15141331.jpgそれぞれ3つの選択肢があり、グー・チョキ・パーで回答するというゲームでした。

5問のクイズ、全問正解し、最後まで勝ち残った人は、鹿児島から参加した人でした。

自己紹介でそれがわかると会場が一段とわきました。

c0187004_15143480.jpg右写真は、講演会の最後に撮った ほーりー と江戸楽アカデミー事務局のTさんですが、Tさんが着ているTシャツが、今回のイベント用に特別に作った家茂の肖像画が入ったTシャツです。

これは7着しかないそうです、私も欲しかったのですが、クイズの正解者にプレゼントされたのが最後ということで残りはありませんでした。残念!

c0187004_15145682.jpg参加者全員におみやげがありました。

ほーりーの写真と家茂の肖像画が描かれた「キットカット」です。

赤と黒の二種類です、本来はおひとつお持ち帰りなんですが、ブログに載せるといってむりやり二つもらってきました。

ほーりー、無理を聞いていただきありがとうございました。

ちゃんとブログに載せました。

そうそう、ほーりーが出した問題の正解を最後に書いておきます。

①家茂の血液型はA型

②家茂が大好きだった和菓子の老舗は京都の虎屋

③ナポレオン三世に贈ったものは蚕     だそうです。


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by wheatbaku | 2016-07-21 15:16 | Trackback
赤坂御門外定火消屋敷(定火消屋敷⑨ 江戸の大変)

今日の定火消屋敷は、赤坂見附御門外の定火消屋敷です。

赤坂見附駅から訪ねる寺社といえば、赤坂日枝神社、赤坂氷川神社、そして豊川稲荷だと思います。

c0187004_14484780.jpgその豊川稲荷が鎮座している場所が、江戸時代には赤坂御門外定火消屋敷でした。

正しくいうと、赤坂御門外の定火消屋敷跡のほぼ北半分が豊川稲荷東京別院となっていて、真中を青山通りが通過しています。そして南側にはいくつかのビルが立ち並んでいます。

さて稲荷というと神社と思いがちですが、豊川稲荷は、妙厳寺(みょうごんじ)という曹洞宗のお寺です。
 赤坂にある豊川稲荷は、愛知県豊川市にある豊川稲荷の東京別院です。

 お祀りしてあるのは、豊川吒枳尼天(だきにてん)と言います。

c0187004_14491896.jpg 豊川吒枳尼天の姿は、白狐の背に乗り、稲束をかついだ天女の形をしています。

 枳尼天は、もともとは、インドに由来する仏教の女神ですが、日本では、稲荷信仰と習合し稲荷神と同一視されるようなりました。

 そうしたことから、豊川稲荷を稲荷神社と間違える人も多いようです。
 右上写真は、本堂内の写真ですが、お寺の本堂の雰囲気であることがわかると思います。

 豊川稲荷は、大岡越前守忠相と深い関係があります。

大岡越前守忠相は、南町奉行を勤めて後、三河国西大平1万石を領する大名となりました。

 西大平は、豊川稲荷に近いこともあり、大岡越前守忠相は豊川稲荷を信仰し、赤坂一ツ木の屋敷に勧請しました。

 幕末の万延2年の切絵図を見ると、大岡越前守家の屋敷が見つかりません。

 しかし、大岡紀伊守家の中屋敷が赤坂御門外定火消屋敷の東南向かい側にあります。

安政4年まで、大岡家の当主は大岡忠愛で紀伊守を名のっていますので、この屋敷が大岡越前守忠相の屋敷と考えてよいと思います。

そこに豊川稲荷が邸内社として鎮座していたようです。

c0187004_14493602.jpg その豊川稲荷が明治9年に赤坂一ツ木にあった大岡家から奉納され、明治20年に現在地に移り豊川の豊川稲荷の直属別院となりました。

これが、現在の豊川稲荷東京別院です。
 こうした経緯があるため、現在の豊川稲荷には、大岡越前守忠相の廟が建立されたいます。(右上写真参照)






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by wheatbaku | 2016-07-20 14:35 | 江戸の大変 | Trackback
駿河台定火消屋敷(定火消屋敷⑧ 江戸の大変)
今日は、駿河台の定火消屋敷を紹介します。

 駿河台の定火消屋敷跡は、現在はニコライ堂となっています。
 ニコライ堂は大変有名ですので、多くの人がご存じでしょうが、ニコライ堂が建っている場所に、江戸時代は、定火消屋敷があったのです。
 ニコライ堂はJR御茶ノ水駅聖橋口出口から徒歩2分の場所にあります。
 c0187004_10501892.jpgニコライ堂は、正式名称は「復活大聖堂」と言います。
 ニコライ堂とは、この大聖堂の建設に大きな役割を果たしたロシア人の聖ニコライの名にちなむものです。

 聖ニコライは、文久元年(1861)にロシア軍艦アメリカ号(一説にはアムール号)にのって函館に到着しました。
 函館には安政5年(1858)8月の日露修好通商条約により、駐日ロシア領事館が開設されていました。また領事とともに司祭が着任し救主復活聖堂という教会が建設されていました。
 復活には16世紀に日本に存在したけれど滅ぼされたキリスト教が再び姿を見せたという意味が込められているそうです。
 聖ニコライは函館に到着するとさまざまな日本人から日本について学びました。この中には後に同志社大学の創立者となる新島襄もいたそうです。

 しかし、一方では聖ニコライを切り捨てようとした人物がいます。
 その人物は、昨年の大河ドラマ「龍馬伝」にも出てきた澤邊琢磨(山本数馬)です。澤邊琢磨は坂本龍馬のいとこで、武市半平太の弟子でもあります。
 江戸で懐中時計を盗んだ疑いをかけられ江戸を脱出して函館にいました。
 澤邊琢磨は、日本に異教の害毒を流しこむニコライを斬ろうとしてニコライに面談します。
 澤邊琢磨はニコライにするどく詰問しました。
 「あなたの信じる宗教は邪法であり、あなたは我が国を窺(うかが)っているのではないか」
 これに対してニコライは平然として問い返しました。「それでは、あなたはハリストス教のことをよく識っていますか」
 澤邊琢磨が答えます。「識りません」
 それに対してニコライは次のように言いました。「まだ識らないハリストス教を、憎むべき邪法と決めつけられますか。もし識らないのであれば、これを研究した後で正邪を決めればよいのではないですか」
 澤邊琢磨は答えに窮しました。しばらく沈黙した後、意を決して「その通りです。これからハリストス教を聞きます」と答えたと云います。
 澤邊琢磨は明治元年5月30日に酒井篤礼と浦野大蔵とともに洗礼を受けます。明治7年には渡辺琢磨が司祭に叙聖されました。

 聖ニコライは、函館はじめ北海道・東北の布教を後任に任せ、明治5年1月に上京し築地の借家で活動を開始し、9月には神田駿河台に移転し、ここが聖ハリストス教会の本拠地となりました。
c0187004_10504550.jpg  ニコライ堂は、明治17年に起工し明治18年に竣工しました。
 大聖堂の原案はロシアのミハイル・シュチ―ルポフ工学博士、設計はイギリスのジョサイア・コンドルが行い、清水組が施工しました。
 建築面積は約800平方メートル、ドームの高さ35メートルあります。日本で初めての本格的なビザンティン様式の教会建築といわれています。
 昭和37年に国の重要文化財に指定されました。




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by wheatbaku | 2016-07-19 07:55 | 江戸の大変 | Trackback
御茶ノ水定火消屋敷(定火消屋敷⑦ 江戸の大変)

定火消屋敷の第4番目は、御茶ノ水の定火消屋敷です。

 御茶ノ水の定火消屋敷跡は、現在、順天堂医院になっています。 

c0187004_21371442.jpg 順天堂医院は、順天堂病院と思われがちですが、順天堂医院と名乗っています。(正式には順天堂大学医学部付属順天堂医院と言います。)

 順天堂医院と名乗っていることに歴史を大切にしているように感じられます。

 順天堂医院は江戸時代後期天保年間に開設された医療機関です。

 順天堂医院を開設したのは佐藤泰然です。

佐藤泰然は、名は信圭(のぶかど)と言います。泰然は通称です。

佐藤藤佐(とうすけ)の子供と生まれ、蘭方医を目指し、足立長雋、高野長英に師事しました。

父親の佐藤藤佐というのはおもしろい名前ですね。名前が漢字で回文となっています。

庄内藩と長岡藩と川越藩の三方領知替が持ち上がった時に、庄内藩の領民が反対運動を起して、三方領知替を撤回させました。

c0187004_21453754.jpgこれ描いた藤沢周平の「義民が駈ける」に、佐藤藤佐は、登場します。

「駕籠訴」の章で、「その他の訴願については、一切佐藤藤佐の指図を仰ぐと決めたのであった。藤佐は遊佐郷升川村の出身で、経理課、公事師として大名、旗本の間に顔が広い人物であり、坂田の本間家とも繋がっている。」と紹介されています。

 佐藤泰然は長崎で蘭学を学んだ後、天保9年(1838)、江戸の両国薬研堀に蘭学塾「和田塾」を開きました。和田姓は母方の姓だそうです。そして、この年が順天堂創立の年とされています。

東日本橋駅近くの薬研堀不動院には、「順天堂発祥之地碑」があり、次のように刻まれています。

 順天堂の創始者佐藤泰然は、長崎遊学でオランダ語と西洋医術を学び、天保9年(1838)江戸に帰り薬研堀に居をかまえ蘭学方塾を開設しました。

 天保14年(1843)、佐倉藩主堀田正睦の招きで江戸から佐倉に移住し、佐倉本町に「順天堂」開設します。「順天」とは、中国古書にある「天の道に順」から取ったようです。

安政6年(1859)泰然は隠居し、養子佐藤尚中が2代目当主となります。

c0187004_21373586.jpg明治6年に、佐藤尚中が、下谷練堀町に病院を開き、明治8年には、湯島に順天堂を新築完成します。

 これが現在の御茶ノ水の順天堂医院の始まりです。

 そして、昭和21年には順天堂医科大学となり、昭和26年に順天堂大学となり現在に続いています。

 2011年に訪問した際には、医院玄関には、2013年が創立175周年になるというポスターが貼られていました。

 創立は和田塾が開塾した1838年と書かれています。(写真は2011年当時に写したものです。)



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by wheatbaku | 2016-07-18 08:33 | 江戸の大変 | Trackback
半蔵御門外定火消屋敷(定火消屋敷⑥ 江戸の大変)


 今日は、半蔵御門外の定火消屋敷についてご案内します。

 半蔵御門外の定火消屋敷は、半蔵門を出るとすぐの場所にありました。

c0187004_10052821.jpg 現在は、「グランドアーク半蔵門」という近代的なホテルが建っています。

 東京メトロ半蔵門線「半蔵門」駅1番出口から徒歩2分です。

 国立劇場の北隣になります。

以前は、半蔵門会館という警察共済の建物があり、私も利用したことがありますが、1999年に建て替えられて、現在はホテルの運営は帝国ホテルがしています。

 グランドアーク半蔵門の住所は千代田区隼町11号です。

隼町という町名は、徳川家康が関東に入国した頃、ここに鷹匠屋敷が設けられたためつけられた町名です。

 右上の写真は、お堀端から撮ったものですが、反対側を見ると半蔵門があります。(右下写真)

c0187004_10055431.jpg 半蔵門は、服部半蔵が守っていたからとか、服部半蔵の組下の伊賀同心が警護していたので、その名前があるというように服部半蔵との関係で説明されることが多くあります。

 また、別には、山王祭に出る象の張りぼてが半分しか通らなかったから「半象門」だという説もあります。しかし、これは江戸っ子のユーモアのようです。

【安井息軒の屋敷跡】 

 半蔵門の交差点の北側に、「ふくおか会館」があります。これは会館内に福岡県東京事務所もありますが、ホテルとして利用できるようです。

c0187004_10062584.jpgこの「ふくおか会館」のある場所に、幕末の大儒学者である安井息軒の屋敷がありました。

 安井息軒は慶応元年(1865)ここに居を定め、西に富獄を望み、南に金杉あたりの海を眺めることができたので海獄楼と名付けたと言われています。

 しかし、明治元年に海獄楼は類焼し、安井息軒は武蔵国足立郡領家村(現在の川口市領家)に移りました。

 安井息軒は、日向国宮崎郡清武(現在の宮崎県宮崎市)で漢学者安井滄洲の次男として生まれました。幼少の頃天然痘に罹り、顔面の疱瘡痕で片目が潰れた容貌だったそうです。

 しかし、学問に対する情熱は人一倍のものがあり、21歳で大坂に遊学し、兄の死により一旦故郷に帰った後、26歳で江戸に出て昌平坂学問所で古賀侗庵に学び、のち松崎慊堂(まつざきこうどう)に入門します。

 昌平坂学問所では、日向生まれの田舎者で、痘痕があり片眼で背の低い息軒は、馬鹿にされました。

 こうした時期に詠んだ歌が、向学の気概を詠んだ

  「今は音を忍ぶが岡のほととぎす いつか雲井のよそに名乗らむ」 という歌です。

 安井息軒は、28歳で藩主の侍講となり、翌年藩主のお伴をして帰国しました。

 そして、29歳の時に、結婚しますが、これについては次のようなエピソードがあるそうです。

 父滄洲は帰国した息軒に嫁を取ろうとしました。そこで、滄洲の夫人の里方の川添家の娘はどうかと考えました。

 川添家には2人の娘がいましたが、姉の豊は十人並みの器量で明るい性格で、妹の佐代は控えめな性格だったが「岡の小町」と噂されるような美人でした。

 年齢と容貌を考えて、滄洲は妹の佐代はもともと無理だと考えて姉の豊に人を立てて申し入れましたが、豊からは断られます。
c0187004_10063100.jpg しかし妹の佐代が姉の豊が断ったことを聞いて「貰ってくださるならわたくしは嫁にいきたい」と申し出ました。 この申し出は思いもよらなかったことです。この返事に滄洲は意外でしたが息子の息軒にとってはさらに意外でした。

 このエピソードをクライマックスとして安井息軒とその妻佐代の一生を描いたのが、森鴎外の「安井夫人」です。

 「鷗外の武士道小説」の中に収められていますが、短編小説で短時間で読めますのでご興味がありましたらどうぞお読みください。

 さて、安井息軒は35歳の時に、藩主のお伴をして江戸に出た後、天保9年、39歳の時に家族と共に江戸へ下ります。

 そして、私塾「三計塾」を開きます。

これは、安井息軒の「一日の計は朝にあり。一年の計は春にあり。一生の計は少壮の時にあり。」という「三計の教え」から名づけられた名前です。

 この塾からは、谷千城、陸奥宗光を初めとした大勢の逸材が育っていきました。

 そして、幕末・維新の混乱期を生き抜き、安井息軒は明治9年、77才で東京で没しました。

 麹町の「海嶽楼」について、森鴎外は「安井夫人」の中で次のように書いています。

 

 『住まいは65のとき下谷徒士町に移り、67歳のとき一時藩の上邸(かみやしき)に入って、麹町一丁目半蔵門外の濠端の家を買って移った。策士雲井龍雄と月見をした「海嶽楼」は、この家のニ階である。』


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by wheatbaku | 2016-07-15 10:01 | Trackback
赤坂溜池定火消屋敷(定火消屋敷⑤ 江戸の大変)

今日は、赤坂溜池の定火消屋敷について紹介します。

 赤坂溜池の定火消屋敷跡は、名前の通り溜池の近くにありました。

c0187004_08272868.jpg現在は、駐日アメリカ大使の公邸になっています。

大使公邸は、大使館に隣接している建物で、アメリカ大使館のある場所にあったわけではありませんのでご注意ください。

 右写真は、ホテルオークラから見た公邸です。(ただし、写真は以前撮影したもので、直近のものではありません)

【アメリカ大使館の歴史】

アメリカ大使館のホームページによるとアメリカ大使館の歴史は次のようになっています。

 アメリカ大使館は、安政3年、初代米国総領事としてタウンゼント・ハリスが着任し、下田柿崎の玉泉寺に臨時の領事館を開かれたのが最初です。

 安政6年7月、ハリスは下田より江戸に入り、幕府より貸与された麻布の善福寺に公使館と住居を移します。

 文久3年4月、公使館が置かれていた麻布善福寺の庫裏より出火し、建物は消失したため、公使館は、横浜関内の外国人居留地に移転します。

 明治7年、横浜の居留地より、築地(現 中央区明石町)の外国人居留地に公使館と住居を移します。

 明治23年、公使館は築地から現在の場所、赤坂に移転します。

 大正12年、米国公使館や大使館として使われていた古い木造建築物は、関東大震災とその後の火災で倒壊したため、仮事務所を旧帝国ホテルに開設しました。

 昭和6年、3階建ての白亜の大使館、大使公邸、職員宿舎2棟が、現在の場所に完成します。

 昭和51年には現在の新大使館ビルが完成します。

 アメリカ大使館には、このような歴史があります。 

【霊南坂】 

 アメリカ大使館の脇は、霊南坂です。

c0187004_08275585.jpg現在は高輪にある東禅寺は、幕末にイギリス公使館がおかれ、尊王攘夷派の志士たちが襲撃した事件が起きたことで有名です。

この東禅寺は、慶長15年(1610)に日向飫肥藩主伊東祐慶(すけのり)が建立したお寺です。

東禅寺の開山に迎えられたのが、日向出身の臨済宗の嶺南和尚です。

 東禅寺は、当初は嶺南庵と呼ばれ溜池付近にありました。

そのため、嶺南和尚にちなみ、近くにあった坂が霊南坂と呼ばれるようになったといいます。

赤印がアメリカ大使公邸 青印がアメリカ大使館 ピンクが霊南坂です。



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by wheatbaku | 2016-07-14 08:23 | 江戸の大変 | Trackback
  

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