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印旛沼干拓と天明3年大洪水 (江戸の大変)

 日曜日の江戸楽アカデミーでは「水害」飢饉」「疫病」について説明しました。
 お題の参考図書「天下大変 江戸の災害と復興」の「第3章 水害」の中では、江戸の三大洪水について触れられています。
 しかし、その一つ天明3年の大洪水で田沼意次が進めていた印旛沼干拓が不首尾に終わったことについては参考図書には触れられていません。


 そこで、天明3年の大洪水で、
印旛沼干拓が不首尾に終わり、このことも田沼政権にとって大きな影響を及ぼしたと思われますので、ブログで少し説明しておこうと思います。

 新田開発が盛んになったのは、8代将軍吉宗の時代からです。

 吉宗の時代に開発された主な新田は、武蔵野新田、飯沼新田、見沼新田、紫雲寺潟新田の四つです。

 このうち武蔵野新田以外の三新田は、湖や沼を干拓して開発した新田いわゆる湖沼干拓新田です。

 印旛沼の干拓も、新田開発が盛んな吉宗の時代に、計画されました。

 印旛沼の干拓工事は、享保9年に千葉郡平戸村の染谷源右衛門のが幕府に対して出願し、幕府がこれを許可し6千両の補助金も与えて、源右衛門らを請負人としてエ事にとりかかりました。
 しかし、この工事は予想外な難工事で、工事を請け負った源右衛門たちも破産するという状態となり、ついに中止されてしまいました。


 このように一旦は不成功に終わった
印旛沼の干拓事業が、田沼意次政権で開始されました。
 印旛沼の干拓事業は、利根川と接続している部分を閉切り、反対側に掘割を造って水を江戸湾に流して干拓しようというものです。

天明2年7月に勘定奉行所で実施と決定され、工事のため現地役所が設けられ、ここに幕府勘定所から派遣された多数の普請役が詰め、工事の指導監督にあたりました。

作業は順調にすすみ。利根川の閉切り工事をはじめ、その全工程の三分の二ほど終った段階の天明6年7月に参考図書にも大きく取り上げられている「天明6年の大洪水」が起きました。

天明6年の大洪水は、参考図書にも書かれていますが、『徳川実紀』に「すべて慶長のむかし府を開かれしより後、関東の国々水害かうぶることありし中にも、これまでは寛保二年をもて大水と称せしが、こたびはなほそれに十倍せりといへり」という大洪水でした。

この天明6年の大洪水は、天明三年の浅間山の大噴火によって、利根川の川底が高くなっていて、水はけを悪くしていたため起きたものです。

この大洪水により、三分の二ほど出来上がっていた印旛沼干拓工事が「元の木阿弥」となってしまいました。

三分の二ほど出来上がっていた印旛沼干拓工事がすべて破壊されたため、ついに8月24日、幕府は印旛沼干拓の中止を決定することになりました。

そして8月27日、田沼意次は病気を理由に老中を辞職しました。辞職とはいうものの罷免されたと同じことのようです。




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by wheatbaku | 2016-08-31 09:34 | 江戸の大変 | Trackback
江戸楽アカデミー講義終了!

 しばらく、江戸楽アカデミーの準備のためブログの更新をお休みしていました。

 江戸楽アカデミーの講義があることをご存じの方からいくつも「ブログが更新されていないのでさぞお忙しいことでしょう!」とメールをいただきご心配をいただきました。

 その江戸楽アカデミーも昨日無事終了しました。

c0187004_11354254.jpg 今回のテーマは「今年のお題『天下大変~江戸の災害と復興~』参考図書 読み込み講座」ということで、江戸検の今年のお題のテキストを読むこむ3回連続講座でした。

 昨日は第3回で最終回となりました。

 3回にわたり受講いただいた皆様、ありがとうございました。

 3回ともなるともう全員の顔も覚えることができ、心安く講義をすることができましたし、受講されている皆さんももうすでに隣同士顔なじみとなっていてあちこちで休憩時間には会話がはずんでいたのが印象的でした。

c0187004_11362017.jpg 今回は、テキストの第4章の「水害」、第5章「凶作と飢饉」第6章「疫病」について説明させていただきました。

 今回は、全項目を網羅して説明をしたため、時間がタイトとなったので、重要な項目を指摘しつつも、天明3年の大洪水、利根川東遷、宝暦治水工事、天明飢饉、大塩平八郎の乱、種痘の普及、梅毒、コレラなどにポイントを絞った内容にしました。

 今回の内容も専門分野外のことが多くて、準備も大変でしたが、受講者の皆さんは、今回も大変熱心に聞いていただいて、大変気持ちよく講義をさせていただきました。
 受講者の皆さん、本当にありがとうございました。

 江戸検を受検される皆さんは、これからが本番になります。

 これからしっかりそして楽しく勉強されて、できれば江戸検に合格されることを願いながら講義を終了しました。

 講義終了後は、恒例の懇親会です。

c0187004_11364353.jpg 受講者の皆さんのほかにも昨年の合格者の方も参加していただき、今回も40名近くの参加者となり、盛大な懇親会となりました。

 江戸検が近づいているので江戸検対策の話の割合が多かったように思いますが、お互いに情報交換をされて、和気あいあいの懇親会でした。

 懇親会に参加いただいた皆さん、ありがとうございました。

c0187004_11370480.jpg やっぱり一次会だけでは飲みたりないというメンバーが残って、二次会となりました。

 二次会の方は、酒好きが多く、もうお酒もかなり入っているため、もう話題もいろいろ、宴会も延々でしたが、9時近くなったので、お開きとさせてもらいました。



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by wheatbaku | 2016-08-29 11:30 | Trackback
火消道具(町火消 江戸の大変)

消防博物館には火消道具も展示されています。

今日は、その火消道具について説明します。

 まずすぐ分るのが龍吐水です。
 現在の手押しポンプに相当するものです。龍が水を吐くように見えるところからその名がついたといわれます。

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 一説には享保年間にオランダから渡来したとも言われています。

 一説には長崎で発明されたとも言われています。

 宝暦年間に14人の名主により龍吐水の採用についての意見を聞いたうえで明和元年に町火消13組に支給された。

 しかし、放水能力は低く15.6メートルほどでした。

 実際の消火活動にはほとんど役立ちませんでしたが、消し口を取った纏持ちへの援護放水では大いに火消たちの士気を鼓舞したそうです。

 鳶口は長短二種類の鳶口が展示されています。

 長い鳶口は長さが六尺九寸あります。短い方は頭がもつもので一尺九寸となっています。

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 玄蕃桶は、龍吐水などに水を運ぶた に使われた桶で、二人で担ぎ上げる構造になっていす。

 明和年間に大名火消役であった有馬玄蕃頭が考案したから、この名前がついたと言われています。

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 水鉄砲は、現在は子供の玩具としてありますが、江戸時代の水鉄砲も同じ構造です。

 幕府は、細い路地等では龍吐水より水鉄砲のほうが効果があると考え、文政13年に各火消に常備させています。

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 大刺股は展示コーナーの上部に架けられているのですぐには気が付かないかもしれません。

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 刺股はもともとは捕り物用の道具ですが、火消道具としての刺股は家を壊すために使用されました。

 そのため、捕り物用のものよりはるかに大きくて柄の長さは三間ありました。なかにはそれよりも長い四間くらいまでのものがあったそうです。
 下記写真は、大刺股の頭部です。

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by wheatbaku | 2016-08-19 11:01 | 江戸の大変 | Trackback
馬廉に黒筋の入った纏(町火消  江戸の大変)

今日は、纏のお話の続きです。

64本ある町火消の纏の中には。馬簾に黒筋が入った纏があります。
 その纏についてご紹介します。

c0187004_09293658.jpg黒筋一本が入った纏は東叡山寛永寺を守る印で、「わ組」と「る組」の馬簾についています。

「わ組」は、湯島から寛永寺の西側地域を受け持ち地域とする火消で八番組に属しています。

「る組」は寛永寺の東側地域を受け持ち地域とする火消で十番組に属しています。

両方とも寛永寺に最も近い組です。

c0187004_09301828.jpg右上写真の真ん中にある馬廉に黒筋が1本入った纏が、「わ組」の纏で「蛇の目に打ち出の小槌」という名前がついています。
 ちなみに左手前の纏は、昨日紹介した四谷地区を担当する「く組」の纏です。
 

右の写真が「る組」の纏で、こちらは「る組」の纏だとすぐにわかると思います。
 馬廉に黒筋が1本入っているのがはっきりとわかりますし、馬廉の上部に黒筋が入っていることもわかります。



c0187004_09343192.jpg2本黒筋が入ったものは湯島聖堂の消火を担当する組の印です。

馬簾に2本の黒筋が入った纏は「か組」の纏だけです。

「か組」は、佐久間町、湯島町など湯島聖堂周辺を受け持ち地域とする火消で八番組に属しています。

右写真真ん中の纏が「か組」の纏です。
 2本の黒筋は1本が太くもう1本は細い黒筋であることがわかります。
 「か組」の纏は「籠唐人笠に駒」と名付けられていますが、籠で唐人笠を形どっていて、その下に将棋の駒がついています。駒には八番組と書かれています。

消防博物館に並んでいる纏を見分けるのは至難の業です。

しかし、江戸っ子は、すべての纏を見分けたそうです。

生命財産を守ってくれる火消ですから、それは当然だったのでしょう。


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by wheatbaku | 2016-08-16 09:26 | Trackback
纏(まとい) (町火消 江戸の大変)

今日は、纏をご紹介します。

纏の各部の説明をします。

c0187004_11050042.jpg纏は、陀志(だし)と柄と馬簾(ばれん)からなっています。陀志は纏の頭の部分でどの角度からも見られるように立体的になっています。

陀志の下についている細長い帯状の部分は馬簾(ばれん)と呼ばれています。馬簾は、48本ついていて、木綿を二重にしたものに和紙を張りつけ胡粉をぬり付けてあります。

それぞれの大きさは、陀志は二尺(約60センチ)、柄は、径3寸で長さは5尺、馬簾の長さは二尺九寸(約83センチ)あります。纏全体の重さは六貫(約22キロ)です。

長さはともかく22キロもの重さのものを持って走り、そしてそれを火事場で振り回すのですから纏持ちは大変ですね。

c0187004_11052270.jpg消防博物館に展示されている「い組」の纏は現物の大きさです。

その隣に、いろは48組と本所深川16組の纏が展示されていますが、こちらの2分の一の大きさだそうです。

それでは、消防博物館の展示を利用させてもらって特徴的な纏を紹介していきます。

c0187004_11054366.jpg右写真は、「い組」「よ組」「は組」の纏です。

「い組」の纏は、有名は大岡越前守が考案したと伝えられるもので、陀志の上部はけしの実をあらわしていて「けし」です。その下の部分が「升」で「ます」を表します。両方あわせて、「けします」を表すと言われています。

「よ組」は担当地域が鎌倉町・鍛冶町・須田町等神田地区を担当してします。そこで神田の「田」を形取った デザインとなっています。

 これも大岡越前守が授けたと言われています。

「は組」の纏は、二つ車の紋所です。

c0187004_11060672.jpg右写真は、「も組」「め組」「す組」の纏です。

「も組」は銀座周辺を担当していることから、分銅を模した纏となっています。

「め組」は、「め組の喧嘩」で有名ですが、「籠鼓銅(かごつづみどう)」と呼ばれています。


c0187004_11071271.jpg 消防博物館がある四谷地区の消火担当していた火消は「く組」です。

この「く組」の纏も説明を聞くと理解しやすい纏です。

右の写真が「く組」の纏ですが、何が特徴かわかりますか?

四谷の文字がデザインされているのが特徴です。





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by wheatbaku | 2016-08-15 10:28 | Trackback
町家の防火施設(町火消⑥ 江戸の大変)

消防博物館のジオラマは、町火消の消火活動の外にも、江戸時代の防火施設もわかるようになっています。

今日は、防火施設について説明します。

まず目立つのが火の見櫓です。

c0187004_11142363.jpg町方の火の見櫓は黒渋塗りの櫓で、定火消の火の見櫓と同じような形をしていますが、下部まで囲われていません。

ジオラマの火の見櫓も真っ黒に塗られています。

定火消の火の見櫓の高さは三丈(約9.1メートル)でしたが、町方の火の見櫓の高さは二丈五尺(約7.6メートル)が限度とされていたと言われています。定火消より低いといっても、町火消の火の見櫓もかなり高く造られています。

こうした火の見櫓が建てられない町では、自身番屋に梯子状の火の見櫓を立てました。

c0187004_11150945.jpgこれが「枠火の見」と呼ばれています。

火の見の上には半鐘が吊り下げられています。

ジオラマでは、半鐘が鳴らされていますが、町火消の半鐘は、たとえ火事を発見しても定火消の太鼓が鳴らない限り半鐘を鳴らすことができなかったと言われています。

自身番には、纏、鳶口、竜吐水・玄蕃桶など消防道具が備え付けられていて、出火の際には町役人や火消人足が集合しました。

江戸では、防火対策として土蔵の建設が奨励されました。

c0187004_11165194.jpgジオラマでは、土蔵の扉の目塗りをしている様子も描かれています。

火事の時には、火が土蔵の中に入らないように土蔵の扉の目塗りをします。

目塗りをするための土は用心土と呼ばれ、土蔵の戸口に箱や石囲いに入れておき、火事の際に、土蔵の戸の隙間へ詰めるものです。

日本橋大伝馬町の木綿問屋長谷川の防火野のための「掟」には、「用心土を普段から点検していくこと」や「大火になって目塗りした場合には支配人が点検すること」が定められていました。

江戸の町の通りの両側には、井戸や水溜桶が設置されていました。

ジオラマでも、町家の前に、井戸や水溜桶が並んでいます。

c0187004_11180516.jpg右写真の商家の左にあるのが井戸で右側にあるのが水溜桶だと思われます。

承応4年に、「一町のうち両側に消火用の井戸を八つ掘ること。60間より長い町には両側に井戸を10個掘る」という触が出ています。

これは承応2年に玉川上水が完成し翌年江戸市中に通水され、玉川上水を消火用に利用できるようになったからのようです。

ですから「上水が通じていない町は、以前からの水溜桶のほか一町の両側に水溜を八つ堀り、一か月に一度は水を入れ替え水を切らさぬようにする。」という触も出されました。

c0187004_11191766.jpgジオラマでは、屋根の上に、天水桶が設置されています。

慶安元年の触には「町々の水溜桶・手桶・天水桶に水を入れ、梯子を用意しておくこと」と書かれていて、天水桶も重要な防火施設でした。

ジオラマではこの天水桶から水を汲んで、火事から避難する町民に水をかけている様子が描かれています。

 本日掲載した写真についても消防博物館の御許可を得ております。


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by wheatbaku | 2016-08-12 11:08 | 江戸の大変 | Trackback
町火消の消火活動(町火消⑤ 江戸の大変)

 

今日は、町火消の消火活動の様子を、四谷にある消防博物館のジオラマを見ながら説明したいと思います。



c0187004_10215063.jpg消防博物館は、四谷消防署に併設されていますが、東京メトロの四谷三丁目駅に直結しているため、非常に交通至便な場所にあります。

その5階が江戸時代の消防について解説した展示となっています。

その5階入り口正面に、大きなジオラマが造られています。

このジオラマは、非常に精巧に作られていて、江戸の消防活動がよくわかります。

ジオラマ向かって左から主な場面をご案内します。
 なお、ジオラマ写真のブログ掲載については消防博物館の御許可をいただいています。


c0187004_10222206.jpg現在の消火活動は、放水をしたりして火を消しますが、江戸時代の消火活動は放水能力が低いため、火の延焼を食い止めるため、建物等を壊していくといわゆる「破壊消防」でした。

このジオラマは、まさに火消人足たちが大店の商家を壊している場面です。

詳しく見てみましょう

c0187004_10224164.jpgこれは、五人がかりで大刺又で柱を突き倒そうとしています。

大刺又は、柄の長さが三間(約5.5メートル)、鉄製の開きは七寸五分(約23センチ)ありました。

隣では、大きな木槌を振り上げて、壁を壊そうとしています。


c0187004_10225831.jpg

さらに、大鋸をもって柱を切ろうとしている姿もあります。

大鋸は二人で挽いて柱を切るものです。三尺一寸もありました。

大きすぎて弘化2年には廃止されたそうです。



c0187004_10233797.jpgこちらは、消し口に纏を立てた町火消の様子です。

屋根の最も高い所に纏が立てられています。

その纏から梯まで屋根の上の瓦が一直線に剥がされていますが、これは炎がせまってどうしても纏をおろさざるをえなくなった際の逃げ道を確保するためだそうです。

 確かに瓦の上ではすべりやすいですからね。

c0187004_10242335.jpg消し口は、消火活動の最前線です。ここで火を食い止めるという場所です。

この消し口の目印として、最初に消し口に到達した組の纏持ちが屋根の上に纏を高くあげました。この纏から、この火消組は「は組」だということがわかります。

消し口は、消火活動の最前線にあります。

ジオラマでは、纏が立っている場所より先で破壊活動が行われていますが、実際とはちょっと違って作成されているそうです。

c0187004_10245392.jpg 消火活動に急行する火消の隊列もあります。

 先頭を纏持が走っています。この纏は「い組」の纏です。

 その纏持の後ろには鳶口を持った人足が続き、その後には龍吐水をもって人足、さらに玄蕃桶を持った人足が続いています。


 消防博物館のジオラマはこのように精巧にできていて町火消の活動が具体的によくわかります。
 機会があったら消防博物館でご覧になってみてください。






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by wheatbaku | 2016-08-11 10:17 | Trackback
町火消、大組に再編成(町火消④ 江戸の大変)

 享保5年に発足した「いろは四十七組」の過去10年間の活動を反省して、町奉行所は、火消組合を享保15年に、一番組から十番組までの大組に再編成しました。

 そして、火消人足の数を一町30人から15人に半減しました。

 火消人足の半減は、表向きは土蔵造りや塗家が増えたことが理由となっていますが、火消人足を抱えておくための費用負担の問題もあったように思われます。

 また、火消の活動も変更されました。

火元の風下にあたる町の火消には飛火に備えて白身の町を守らせ、代わりに大組内の風上、風脇の町々から消火にあたる人員を集めるというもので、これにより、多くの人数を火元の消火にあたらせることが可能となりました。

 また、同じ時期に、本所・深川地区の16組も北・中・南の三つの大組に編成されました。

 この10組の大組も、元文3年(1738)には、四は死に、七は質に通じると嫌われたため、四番組は五番組に、七番組は六番組に合併され、大組は八組となりました。

 四がなくなるのはわかりますが、七がなくなって九が残るのが現在の感覚とはちょっと違うように気が個人的にはしますが、縁起をかつぎたいという江戸の町火消人足の気持ちも理解できます。

『江戸三火消図鑑』(岩崎美術社刊)には大組の担当地域が詳しく書かれています。

 それを私なりにわかりやすいようにまとめてみると次のようになります。

一番組 日本橋北から神田川南まで、東側は隅田川まで

 い・は・に・よ・万 の五組

二番組 日本橋南から浜松町まで、東は隅田川まで

 ろ・め・も・せ・す・百・千 の七組

三番組 芝金杉から高輪、白金、目黒

 て・あ・さ・き・ゆ・み の六組

五番組 麹町、四谷、赤坂、青山、広尾

 く・や・ま・け・ふ・こ・え・し・ゑ の九組

六番組 牛込、小石川、市ヶ谷、早稲田

 な・む・う・ゐ・の・お の六組

八番組 浅草門外 外神田、湯島、本郷、下谷、池の端

 は・わ・か・た の四組

九番組

 駒込・巣鴨・千駄木・谷中

 れ・そ・つ・ね の四組

十番組 浅草、今戸、山谷、三ノ輪

 と・ち・り・ね・る・を の六組





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by wheatbaku | 2016-08-09 09:24 | 江戸の大変 | Trackback
いろは四十七組(町火消③ 江戸の大変)

 今日からは、いよいよ本格的に町火消について書いていきます。

  

 享保3年の町火消組織化は消防効率が悪いため、大岡越前守忠相は享保5年再編に着手しました。

 そして、隅田川より西の町々をおおよそ20町ごとに四十七の小組に分けて、いろは四十七文字を組の名前にあてました。

 そして本所・深川は十六組に分けられました。

 ところで、いろは四十七組といいますが、現在の私たちは、いろは四十七文字を正確に言うのは難しいと思います。

 そこで、いろは四十七文字を書いておきます。

いろは四十七文字は次の47文字です。

 いろはにほへと ちりぬるを

 わかよたれそ  つねならむ

 うゐのおくやま  けふこえて

 あさきゆめみし  ゑひもせす

これを覚えやすいよう四十七文字のかなをすべて1度ずつ用いてつくられた七五調の歌がいろは歌です。

私は、いろはがわからなくなった場合には、いろは歌で思い出しています。

 色は匂(にほ)へど 散りぬるを

 我世誰(わがよたれ)ぞ 常ならむ

 有為(うゐ)の奥山 今日(けふ)越えて

 浅き夢見じ  酔()ひもせず

上記のいろは47文字と比較するとピッタリ読み込まれていることがわかると思います。

それでは、四十七組の名前は、どのようにつけられたのでしょうか?

これについて説明したものは私が読んだ参考図書には書いてありませんでした。

しかし、『江戸三火消図鑑』(岩崎美術社刊)に掲載されている嘉永4年の「町火消配置図」を見ると、私なりに名前の付け方が想像できましたので、私の推測を書いてみます。

c0187004_22571355.jpg

 いろは四十七組のスタートは、江戸の中心、日本橋の北地区を担当する組が「い組」、日本橋の南地区を担当する組が「ろ組」、つまり日本橋が起点となっています。

 次いで、「は組」は、日本橋の東北にあたる大伝馬町・小伝馬町を担当する組の名前としてつけられていて、さらにその先の横山町・馬喰町を担当する組の名前が「に組」、浅草橋を超えた地区を担当する組が「ほ組」、「へ組」がなくて、さらに駒形が「と組」、浅草が「ち組」というように奥州街道に沿って北上します。

そして、今戸を担当する「り組」まで行くと、今戸の西方にある三ノ輪から東神田まで御成道に沿って南下してきます。

東神田からは、中山道に沿ってまた北西に北上していきます。

このようにして、江戸城を中心に、左まわりに順に組の名前が付けられているように思います。

「町火消配置図」に書かれている町名を基準に各組の担当地区を代表する町名を書くと次のようになります。

い―本町・室町 ろ―日本橋通り は―大伝馬町・人形町 

に―横山町・馬喰町 ほ―蔵前 へ―無 と―田原町・駒形 

ち―浅草寺周辺 り―今戸 ぬ―三ノ輪 る―上野・寛永寺周辺 

を―浅草寺町 
わ―下谷・湯島天神周辺 か―外神田 

よ―東神田 た―本郷 れ―根津・千駄木 そ―駒込  

つ―染井 ね―巣鴨 な―小石川 ら―無 む―伝通院周辺 

う―小日向 ゐ―神楽坂 の―早稲田 お―市ヶ谷 
く―四谷 や―麹町 
ま―赤坂 け―鮫ヶ橋 ふ―青山 
こ―渋谷 えー麻布竜土町 て―白金

あ―古川 さ―伊皿子 き―白金猿町 ゆ―高輪 め―芝 
み―金杉 
し―六本木  ゑ―西久保 ひ―無 も―銀座 
せ―中橋 す―木挽町・築地

 そして、組名として、「へ」「ら」「ひ」の替りに「百」「千」「万」が用いられたとされています。

百組の担当地区は「八丁堀」、千組は中橋(現在の八重洲)、万組は元飯田町(現在の飯田橋・九段)が担当地区となっています。

 これをみると、「へ」「ら」「ひ」という組名を使用しないようにして、44カ所の担当地区と組名を決めた後、「百」「千」「万」を最後に付け加えたということのように思われます。




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by wheatbaku | 2016-08-08 06:45 | Trackback
町火消の本格的組織化(町火消② 江戸の大変)

従来の町火消が、大きく変わるのは徳川吉宗が8代将軍に就任した享保年間になってです。

享保5年(1721)にいろは47組が発足することになるわけですが、いろは47組発足には前段階があります。
享保3年の町火消の組織化について、お題テキスト「天下大変」にもそのことが書かれていますが、
「江戸の火消」(黒木喬著)には、より詳しく書かれていますので、「江戸の火消」に基づいて説明します。

享保2年(1717)に南町奉行に任命された大岡越前守忠相が、享保3年(1718)9月、町名主に対して防火の策についての諮問をしました。

大岡越前守忠相の諮問に答えて、名主は次のような答申をしたと「江戸の火事」に書いてあります。

町では間数を見はからって四斗樽に水を入れておきます。

表店・裏店の者には家主から水寵を渡しておいて、町内はもちろん隣町の出火の場合もかけつけるように致します。

私どもも火の用心の巡回をしますが、万一失火があり、町内の人数では防ぎかねる場合は、四、五町ぐらいで、あらかじめ申しあわせておき、報知の鳴物を作り、かけつけるようにします。(*ここの部分がテキストに書かれています)

かけつけ人数は当番の札で一町に5人ときめ、ただちに出向きます。

風の日は当番五人に月行事がくわわって町内をまわり、火の用心を申しつけます。

火事場に火消役のご出馬があれば、以前からじゃまになるとおしかりを受けていますので、町人はすぐ屋根からおります

これは、奉行所から一方的に命令するよりも、町名主からの答申を得て、町火消の組織化について町人から自主的に協力をさせた方がよいと考えたようです。

その答申を受けて、享保3年10月、各町の名主に次の7箇条のことを言い渡しました。
 お題テキストには、この一部が載っています。

一、町方の出火の場合、町人が消しているところに定火消がきても、そのまま町人に消させるから争論などしないように。町奉行所の与力・同心が立ちあう。

一、風がはげしく町方で出火の場合、風上二町・風脇左右二町ずつ計六町、一町につき30人ずつかけつけて消すこと。小さな家屋は引き倒して消火する。ありあわせの梯子・鳶口・斧・細引などは手近に保管し、出火のさいに持ち出すこと。新しく道具を作る必要はない。風がはげしい日は商売を休み在宅しているのだからかけつけが遅れたら吟味の上、きびしく申しつける。

一、風がない場合は商売に出る者もいるから30人そろわなくともよい。しかし、5、6人以上も減っていたら、吟味の上、きびしく申しつける。

一、火が消えかかっても火消衆がきたら、その人数も屋根にあげて、一緒に消火すること。争いはせず消防第一と心がけ、何かあったら後で奉行所に訴えること。

一、町方が掛けた梯子を火消衆がのぼり・おりしても文句をいうな。急で梯子のない場合、火消衆が掛けた梯子を町方がのぼり・おりすることもある。この件については火消役と話しあいがついている。

一、水の于や井戸が不足している場所については火消役と話しあっているが、争わずにお互いに汲むようにすること。

一、世話役として名主・月行事はかならずくること。がまんできないことがあっても火事場では争わないこと。

 前期の通知の2か月後の享保3年12月に次のような触が出されました。

一、火事のさいの組合がきまった。地図に朱引したとおりである。

火元へは規定どおり6町の人数は一町30人を下まわることなく(30人以上は自由)出動させること。それ以外の町は30人以上は出さぬこと。

風下で組合以外の町は人足を出さず、その町のなかで風筋の悪いところに集まって防ぐこと。

組合のほか火元に集まることは無用である。

一、跡火消は火元より二、三町(約218~327メートル)手前に通行の邪魔にならぬよう集合して、役人の指示を受けること。

 これによって、実質的な火消組合が発足し活動を始めました。
 しかし、問題点もあったため、享保5年に火消組合の再編成が行われます。
 これが「いろは四十七組」の発足ですが、これについては次回書きます。




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by wheatbaku | 2016-08-04 09:28 | 江戸の大変 | Trackback
  

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