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お玉ヶ池種痘所は東大医学部の源流(種痘⑦ 江戸の大変)

 お玉ヶ池種痘所は再建された後、発展し現在の東大医学部に発展していきます。

c0187004_10432672.jpg お玉ヶ池種痘所跡近くの岩本町三丁目交差点角には、「お玉ヶ池種痘所記念」と刻まれた石碑が設置されています。(右写真参照) この記念碑は東大医学部創立100周年記念に際して昭和33年に建てられたものです。

 しかし、お玉ヶ池種痘所が東大医学部の源流であることが意外にも知られていないので、再建後のお玉ヶ池種痘所の発展について書いていきます。 


 安政6年に下谷和泉橋通りに再建されたお玉ヶ池種痘所は、万延元年10月に正式に幕府直轄の種痘所となりました。

そして、初代頭取に大槻俊斎が就任しました。

種痘所は、文久元年10月に西洋医学所と改称しました。種痘以外に西洋医学の教育を行い始めていたことが背景にあるようです。

 頭取の大槻俊斎は文久2年正月から体調をくずし4月9日になくなりました。胃癌だったようです。

大槻俊斎のあとの頭取と候補となったのが大坂の緒方洪庵でした。しかし緒方洪庵は健康を理由に再三の要請にも固辞しました。

そこで、次に長州藩医の青木周輔が候補となりました。しかし青木周輔も老齢を理由に固辞しました。

そのため、再び緒方洪庵に白羽の矢があてられ、ついに緒方洪庵は、文久2年閏8月に 2代頭取に就任しました。

緒方洪庵は、討ち死にするかもしれないという悲壮な覚悟をもって江戸に下りました。

その覚悟が悪いほうにあたり、緒方洪庵は文久3年6月10日に突然死去しました。

緒方洪庵が亡くなる前の文久3年2月に西洋医学所は医学所と改称されています。

文久3年7月には緒方洪庵死去後の3代目頭取に松本良順が就任しました。

松本良順は、順天堂の創始者佐藤泰然の次男で松本良甫の養子となっていました。

長崎のポンぺのもとで西洋医学を学んできていました。

慶応4年、新政府軍が江戸城に入城し幕府が瓦解すると、頭取の松本良順は奥羽に脱走しました。そこで林洞海が頭取となりました。

これ以降は、新政府のもとで、お玉ヶ池種痘所は、目まぐるしく変遷をしていきますので、東京大学医学部の年譜をもとに年表風に歴史を書いておきます。

慶応4年3月に海陸軍病院と改称されました。

明治2年2月に医学校兼病院と改称した後、 12月には、 大学東校と改称

 明治4年 7月に東校と改称され、文部省の所管となります。

明治7年 5月に 東京医学校と改称し、10月には長与専斎が校長となり、本郷への移転を建議します。

 明治9年11月に、本郷に校舎病院の建築が完成し, 移転をしました。

明治10年 4月に、総合大学としての東京大学創立されます。

 以上でお玉ヶ池種痘所が東大医学部の源流となっていることがおわかりいただけたことだろうと思います。





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by wheatbaku | 2016-09-29 10:34 | Trackback
お玉ヶ池種痘所の再建と浜口梧陵(種痘⑥ 江戸の大変)

 お玉ヶ池種痘所は、江戸の蘭方医たちの努力により安政5年5月7日にようやく開設されました。

 開設後、種痘を順調に行っていたお玉ヶ池種痘所ですが、開設後半年あまりたった11月15日に起きた神田界隈の火災によって類焼してしまいました。

一日といえども体むわけにはいかない種痘事業なので、神田川の北岸にある和泉橋通の伊東玄朴宅と下谷練塀小路の大槻俊斎宅を仮種痘所として種痘を再開しました。

種痘所の再建は急務でしたが、半年前に種痘所建設のために多額の資金を提供した蘭方医たちには、再建のための資金を調達する余力はありませんでした。

そこで、種痘所開設の発起人の一人である三宅艮斎は銚子の豪商浜口梧陵に助力をあおぎました。

浜口梧陵は、ヤマサ醤油の7代目浜口義兵衛のことです。

浜口梧陵は、紀州有田郡広村の浜口家の分家に生まれ、12歳の時に銚子で醤油製造を営む本家浜口義兵衛の養子となり、銚子にうつって醸造業に専念していました。
 ここで、浜口梧陵は
、三宅艮斎と出会いました。

三宅艮斎は、肥前国に生まれ、4歳のときに長崎に留学して、蘭方医楢林栄建(楢林宗建の父)についてオランダ医学をおさめました。その後、江戸の薬研堀で父英庵の後を継いで医者となりました。

しかしこのころはいわゆる天保の改革によって江戸は不景気のどん底にあったので、伝手をえて銚子に移って開業医となりました。

ここで、浜口梧陵と三宅艮斎が知り合い、親交を深めました。

 弘化2年4月三宅艮斎が佐藤泰然の推薦によって佐倉藩医となって銚子をはなれたのちも親交はつづいていました。
 
 三宅艮斎と浜口梧陵はこのような関係にありました。 
 そこで、三宅艮斎から要請を受けた浜口梧陵はよろこんで承知して、梧陵は三百両を寄附しました。
 これが誘い水となって、他の有志からの寄附があつまり種痘所再建のめどがたち、和泉橋通付近に適当な地所を探し求めたところ、大御番内甲王殿頭組白井謙太郎屋敷地240坪と、小普請組初鹿野河内守組山本嘉兵衛屋敷地170坪を借用して建築にかかり、安政6年9月に竣工しました。(『伊東玄朴』から)

c0187004_11574282.jpg 建物は建ちましたが、そこで使用する図書や器械類が不足していたので、浜口梧陵は図書や器械の購入費としてさらに四百両を追加寄附しました。
 右写真は、台東区教育委員会が設置した「伊東玄朴邸跡。種痘所跡」の説明板です。秋葉原駅の北東方向の歩道脇に設置されています。

 本来なら再建にあたっても焼失前の地をもとめるのが普通ですが、そうではなく、別の場所で再建されています。
 これには次のような事情がありました。

このとき伊東玄朴たち蘭方医はすでに奥医師に取りたてられていたが、それを推進した中心人物は井伊直弼でした。
 そこで、井伊大老によって勘定奉行を罷免された川路聖謨の拝領地を再び借り受けようとは伊東玄朴は考えなかったのだろうといわれています。
 また、再建しようとした時には、お玉ヶ池種痘所のあった土地は、川路聖謨が失脚していたため、すでに川路聖謨の拝領地ではなかったという事情もあるようです。

 なお、浜口梧陵は、安政元年に起きた安政南海地震により紀伊国日高郡が大津波におそわれたときに、梧陵は自らの稲村に火を放って村人に津波の来襲を知らせて救いました。

 この実話をもとに創作された物語が「稲むらの火」で、戦前の小学校5年の国語の教科書に掲載されていました。
 このことは、お題のテキスト『天下大変 江戸の災害と復興』にも書かれています。



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by wheatbaku | 2016-09-26 10:15 | 江戸の大変 | Trackback
お玉ヶ池種痘所の開設(種痘⑤ 江戸の大変)

今日は、お玉ヶ池種痘所について書きます。

前回書いたように、安政4年になってくると蘭方医を敵視してきた医学館勢力も衰えてきて、ようやく蘭方医たちも少し自由に動けるようになってきました。

 そして、各地の除痘館での種痘の実績も上がってきました。

 こうした中で、安政4年8月に下谷練塀小路の大槻俊才の家に、蘭方医10人程が集まって種痘所の開設について協議しました。

 その協議に参加した人々は次のような人々です。

 佐賀藩医伊藤玄朴、越前丸岡藩医戸塚静海・竹内玄同、

 小倉藩医林洞海、箕作阮甫、佐倉藩医三宅艮斎、斉藤源蔵

 この人たちが協議した結果、早急に種痘所の建設を幕府にお願いし、そのために種痘所の用地として勘定奉行であった川路聖謨の拝領屋敷を借り受けることにきまりました。

 川路聖謨は、阿部正弘に登用された開明派の幕臣で、ペリー来航直後長崎に来航したロシアのプチャーチンと筒井政憲ととも交渉した人物です。

 このプチャ―チンとの交渉に同行していたのが箕作阮甫です。

 川路聖謨の拝領屋敷を借用することになったのは、箕作阮甫が大きく関わっていると考えらえています。

 川路聖謨は当時3か所に拝領屋敷がありましたが、神田お玉ヶ池にある地所は400坪あって一番広い御屋敷だったため、ここを借り受けることになりました。

c0187004_09575144.jpg 蘭方医たちの依頼を受けて、川路聖謨は幕府に自分の屋敷内に種痘所の設立したい旨の内意伺書という申請書を提出しました。

 川路聖謨から提出された申請書は、安政5年正月、老中堀田正睦により許可されました。

 川路聖謨から連絡を許可がおりたという連絡を受けた伊藤玄朴は、ただちに種痘所建設のための寄付金を募集しました。

 これに応じた江戸の蘭方医は83名にもなりした。

 寄付金は合計で580両余りにもなったそうです。

そして、ついに安政5年5月7日にお玉ヶ池種痘所が開所しました。

右上写真は、お玉が池にある「お玉ヶ池種痘所跡」の碑です。

最後に、発起人の中に名前のある神崎屋源蔵についてちょっと触れておきます。

 8月に協議の参加した人のなかに一人だけ蘭方医でない人がいます。それが斎藤源蔵です。

 斉藤源蔵は日本橋堀留町で長崎屋と薬種商を営む商人です。

この神崎屋源蔵は、大変義侠心いに富んだ人物で、多くの蘭方医たちを支援していました。

その代表が高野長英です。神崎屋源蔵は高野長英と同じ奥州水沢の出身であったことから、高野長英が江戸に出た時に最初に草鞋を脱いだのが神崎屋源蔵の家でした。

その後も、高野長英をことあるごとに支援をしてきました。

 高野長英のほか、大槻俊斎も神崎屋源蔵の世話になっています。

 お玉が池種痘所の開設が準備された時には、神崎屋源蔵は2代目となっていましたが、先代の教えを引継いで2代目も蘭方医支援を惜しまず、種痘所建設にも多大な貢献をしました。

 


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by wheatbaku | 2016-09-22 09:58 | Trackback
笠原良策、雪の栃ノ木峠を越えて福井へ伝苗(種痘④ 江戸の大変)

長崎で成功し佐賀で成功した楢林宗建による牛痘苗は、佐賀藩主鍋島閑叟によって江戸にいる佐賀藩藩医伊藤玄朴に送られました。

伊藤玄朴は、嘉永2年11月11日、鍋島閑叟の長女貢姫に種痘を行い成功しました。これが江戸で初めての種痘でした。

こうして、長崎、佐賀、京都、大坂、江戸で成功した牛痘接種は、日本全国に広がっていきました。

『天下大変』には書かれていませんが、福井の笠原良策は、京都の日野鼎哉が牛痘苗を入手するのに大きな役割を果たしました、

笠原良策は、福井の町医ですが、牛痘接種の必要を知り,藩主松平春嶽に牛痘苗の輸入を上申。その必要性を認識した松平春嶽が入手の手助けをしました。
 それを知った日野鼎哉が長崎の穎川四郎左衛門に協力を要請しました。
 その要請を受けた穎川四郎左衛門は、楢林宗建が種痘に成功すると孫に種痘を受け、その牛痘苗を日野鼎哉に送ってきました。

笠原良策は、牛痘苗が日野鼎哉の所に届き、接種が成功した時期に、日野鼎哉を訪れました。
 その後、京都での種痘の成功、大坂の緒方洪庵への分苗を見届けた後、いよいよ福井に牛痘苗を運ぶことになりました。

当時は、種痘を施した子供の膿を7日後に他の子供に植え付けるという作業を繰り返さなければならず、発痘しなかった場合のために複数の子供と両親が必要でした。

良策は京都から福井までの旅程一週間を考慮し、京から二人、福井から二人の幼児を雇い、幼児の両親を含め、総勢10数名で、嘉永2年11月19日に京都を出発しました。

c0187004_14310148.jpg もう既に雪の季節なっており、大津・米原を通り、激しく雪の降る中を一行は進みました。

 最大の難所は栃ノ木峠で、積雪は6,7尺(約2m)もあり、困難を極めました。

京都を発って七日目の25日に無事福井城下に到着し、笠原良策の決死の雪中行は終わりました、

到着した日には早速種痘を開始し、嘉永4年10月に除痘館が完成し福井でも種痘が広がっていきました。
この笠原良策の苦心・奮闘は吉村昭著「雪の花」に描かれています。機会を見つけて改めて内容をご紹介します。

 これまで述べたように、各地に除痘館が設立され、種痘が広がっていきましたが、江戸では、種痘の広がりには大きな障害がありました。

江戸では、多紀氏を中心とした医学館を本拠とする漢方医の勢力が非常に強く、蘭方医を敵対視していました。

天保の改革の一環の株仲間の解散により、書物屋仲間が解散させられ、新刊書はすべて幕府の検閲を受けることになりました。

そのため、暦書・天文書・蘭書の翻訳は天文方が検閲し、医学書は医学館が検閲を行うこととなりました。

このように医学書の検閲をしているのが漢方医の本拠である医学館ですので、蘭方医が書いた書物がなかなか発刊されないといういやがらせがおきました。

その後、弘化2年にはオランダ医書が天文方に移管されすべての西欧翻訳書は天文方の所管とはなりましたが、それ以後もかなりの妨害があったようです。

このように、蘭方医は漢方医から敵視されていたため、人々のためになると思われた種痘も容易に普及させることができませんでした。

しかし、安政4年、医学館の総帥多紀楽真院元堅が死亡し、さらに医学館幹部も死亡したため、医学館の支配力は急速に弱まりました。

こうした状況下で、蘭方医たちは、安政4年に種痘所の設立の協議を始めました。

いよいよ、お玉が池種痘所が設立されるようになるわけですが、お玉が池種痘所については次回書こうと思います。


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by wheatbaku | 2016-09-20 09:36 | Trackback
大坂の緒方洪庵、分苗を受ける(種痘③ 江戸の大変)

 今日は、大坂の緒方洪庵への分苗について書きます。

 「天下大変 江戸の災害と復興」では、京都の日野鼎哉から大坂の緒方洪庵に種痘が比較的簡単に分苗されたように書いてありますが、実際は簡単ではなかったようです。

 嘉永2年11月1日に京都の除痘館を、緒方洪庵は日野鼎哉の弟日野葛民、さらに小林安石という医師とともに訪れます。

 一行は、一人の幼児を伴なっていました。

 京都の日野鼎哉が成功した痘苗を接種したもらうためです。

 しかし、この日、三人の願いは拒否されました。

 それは、京都の除痘館で使用されていた痘苗は、もともと、越前藩の医師笠井良策が、藩主松平慶永の許可・支援を受けて入手しようと取り組んでいたもので、その意向を知った日野鼎哉が協力して長崎の穎川四郎左衛門から入手したものです。

 従って、越前藩の笠井良策にとっては、痘苗は越前藩が所有するもので、笠井良策の個人のものではないので安易に分苗できないという考えだったようです。

 痘苗の入手を切望していた緒方洪庵たちは大変困惑しました。

 そこで、話し合いが行われました。
 その結果、痘苗がなくなるのを防ぐためには、多くの痘苗を各地に分苗しておく必要があり、京都だけではなく大坂にも分苗しておくことも大事だということになったようです。


 こうして、「越前侯御用」の牛痘苗を京都除痘館から大坂に分苗するということになりました。

 嘉永2年11月6日、笠原良策は日野鼎哉とともに牛痘苗を腕に接種した子供を連れて京都を出立して大坂に向いました。
 そして、翌11月7日、古手町の種痘所で伝苗が行なわれました。

 こうして、大坂にも種痘が分苗され、大坂にも除痘館が設立され、種痘が普及するようになりました。

 緒方洪庵は、備中足守藩の出身ですが、嘉永3年正月、備中足守藩主木下利恭の命により、郷里の足守で牛痘種痘を普及させるべく帰郷し、足守にも除痘館を開いています。



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by wheatbaku | 2016-09-16 11:10 | 江戸の大変 | Trackback
京都の日野鼎哉に分苗(種痘② 江戸の大変)

 楢林宗建によって成功した種痘は、すぐに各地に伝播していきます。

 お題のテキスト『天下大変』では、京都の日野鼎哉の件が書いてあります。

 そこで、今日は京都へどのようにして種痘が伝わったか書いていきます。

実は京坂への牛痘苗の導入については、いくつかの説があるようです。

長崎でモーニッケ痘勁の接種成功をみた楢林宗建が急飛脚で京都の日野鼎哉、大坂の緒方洪庵、江戸の戸塚静海に送ったという説。

また、藩主鍋島直正が参勤のため嘉永2年9月22日に佐賀を出発して、途中京都で分苗し、29日に江戸に着いて伊東玄朴、大石良英らに分苗したという説。

そして第三が、9月16日には長崎通詞穎川四郎左衛門から京都の日野鼎哉に送られていて、これを緒方洪庵が分けてもらったという説

テキストには、このうちの第3説が書いてあります。

 そこで、このテキストの説に沿って説明します。

 9月16日に京都の日野鼎哉の所に長崎の穎川四郎左衛門が送って来た痘痴は越前藩松平家の依頼によるものだそうです。

越前藩の笠原良策は弘化3年に藩に痘苗取り寄せの請願書を出し、これが取り上げられなかったので、嘉永元年12月に再度の請願書を提出しました。

藩主松平慶永春嶽はこれを採用して幕府に請願し、この要請により老中阿部正弘が長崎奉行大屋遠江守に牛痘苗取り寄せを命じていました。

このことが日野鼎哉の耳に門人の桐山元中から入り、嘉永2年6月にモーニッケ痘苗が長崎に到来して成功したとき、日野鼎哉がよく知っていた通詞の穎川のところに、日野鼎哉や桐山元中から、福井藩の笠原良策が藩主を介して幕府に請願し長崎奉行に下命があったことを報らせ、日野もこれを待望していると書いた手紙が着いていたと考えられているようです。

穎川はモーニッケ痘苗の分与を受けて二人の孫に接種し、この痘痴8粒をびんに納めて9月6日に京都の日野に向け発送し、9月16日に日野の手に渡ったのでした。
 9月19日、日野鼎哉はただちに孫たちに接種しました。
 しかし、3日たっても効果はありませんでした。
 そこで最後の一粒を桐山元中の子供源三郎に接種したところ、これが見事に成功しました。

そして、10月16日には、京都新町通三条上ル頭町に日野鼎哉が除痘館を開きました。
 この日、鼎哉の弟子たちを中心に総勢22名の医師がかけつけたそうです。



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by wheatbaku | 2016-09-14 11:03 | 江戸の大変 | Trackback
楢林宗建 初めて種痘に成功(種痘① 江戸の大変)

今日から種痘について書いていきます。

江戸件のお題テキスト「天下大変 江戸の災害と復興」には、種痘の歴史について書いてあります。

これだけでも十分とも言えますが、このブログでは、もう少し詳しく書いていきたいと思います。

「天下大変」に書いてある通りに、イギリスのジェンナーが発見した種痘を日本で初めて成功させたのは、長崎の楢林宗建とオランダ商館医モーニッケです。

楢林宗建は蘭方外科医、楢林家六代目の医師です。

楢林宗建は五代栄哲の次男で、兄は栄建といいました。

文政10年、栄哲が隠居して、兄栄建は家財一式を譲り受けて医業をつぎ、次男宗建が家禄をついで佐賀藩医となりました。

佐賀藩医となった楢林宗建は、やがて藩主鍋島閑叟(斉正、明治以降直正)の御側医格にあげられました。

兄栄建はオランダ商館の出入り医師でしたが、兄が辞任して京都へ出たため、変わりに宗建がオランダ商館の出入り医師となりました。

嘉永2年6月、長崎に入港したオランダ船でバタビアの医事局長ボッシュから痘苗が届けられました。

楢林宗建は、自分の子供建三郎にオランダ商館で種痘を受けさせることにしました。

建三郎は生後5か月、10か月、また15か月だったとも言われています。

6月下旬、楢林宗建は建三郎のほかにオランダ通詞加福善十郎の子供、同じオランダ通詞志築清太郎の子供、合計3人の子供に対してオランダ商館で商館医モーニッケが接種しました。

 オランダ通詞の二人の子供への接種は成功しませんでしたが、健三郎への接種が成功しました。

 これが日本で初めて種痘の成功です。

 種痘が成功したとの報告を受けた佐賀藩主鍋島閑叟は侍医大石良英を長崎へ派遣して、牛痘接種の顛末を調べさせ、その復命を受けて、宗建にただちに種痘を受けた子を連れて佐賀へ出るように命じました。

 8月4日、楢林宗建は建三郎をつれて佐賀へ向かい、8月6日、鍋島閑叟に拝謁し種痘の顛末を伝えました。

鍋島閑叟は大変喜び、「その功は偉大だ」と、宗建をほめたそうです。

 この時、閑叟は侍医の大石良英などを呼び、宗建持参の痘苗をただちに子供にうえ、領内にひろめよと命じました。

その際に、「まず医師の子供からはじめなければ、みなが疑うおそれがある。その含みで行えよ」と閑叟がわざわざ注意したそうです。

 8月8日、楢林宗建が大石良英の家で、良英の3人の子供にうえました。

3人への接種が成功したため、その子の痘苗を御側役その他の子数人にうえつぎ、これも成功しました。

そこで、8月22日に、閑叟の世子、当時4歳の淳一郎(後の直大)にも接種させることになりました。

鍋島閑叟は、藩内に種痘を広めるため、みずからの子供に接種させたのです。

 命令を受けた宗建は、城内で侍医立会のもとに淳一郎に接種しました。

これも無事に成功しました。

これにより、楢林宗建は銀十枚と時服を賜わったそうです。


 


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by wheatbaku | 2016-09-12 23:04 | 江戸の大変 | Trackback
天明の打ちこわしにより松平定信老中に就任(江戸の大変)

 


田沼意次は、天明6年8月に辞職しますが、それ以降も実質的に田沼政権は継続していましたが、天明の打ちこわしが起きたことにより、ようやく松平定信政権が誕生します。


 天明6年12月15日 御三家より大老井伊直幸らに対し、定信老中推薦の意見書を提出されます。

これに対して、天明7年2月2月28日 御三家に対して、老中より正式に定信老中の件、拒絶の回答ありました。

 つまり、田沼意次が辞職しても松平定信政権にすぐには誕生しませんでした。

 この時の幕閣は、大老井伊直幸で、老中首座は水野忠友でした。

 こうした政治バランスの中で、江戸で打ちこわしが起こります。

 この打ちこわしにより、政治バランスが大きく変化します。 


 打ちこわしが収まった5月24日に御側御用取次の本郷泰行が解任されます。

 さらに28日には同じく御側御用取次田沼意致(おきむね)が解任され、29日に御側御用取次横田準松(のりよし)も解任されます。

 天明の打ちこわしに関して正しい情報を将軍に伝えなかったというのが解任理由だそうです。 

解任された3人の御側御用取次はいずれも田沼意次派の人物でした。ちなみに田沼意致は田沼意次の甥です。

これら田沼派の将軍側近の人々がすべて解任されたこと、とくに横田準松が解任されたことが田沼派にとって大きな痛手だったようです。


そして、6月19日に松平定信が老中にようやく就任しました。

 そして、9月1日には、大老の井伊直幸が解任されました。

さらに、天明8年3月28日に水野忠友が老中を解任されました。

 4月3日には田沼派であった老中松平康福が、老中を解任され、翌日4日には、定信派の松平信明が老中に就任しました。

こうして、松平定信政権が発足することなります。


 杉田玄白は『後見草』に「賤しきたとへに雨降て地かたまるといへるか如く、若今度の騒動なくは、御政事は改るましきなと申人も侍りき」と書いていて、天明の打ちこわしがなければ、政権の変動はなかったという噂があると言っています。






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by wheatbaku | 2016-09-05 09:57 | Trackback
天明の打ちこわし(江戸の大変)

前回、印旛沼干拓工事が天明6年8月24日に中止決定し、8月27日に田沼意次が辞職願いが受理されたと書きました。

 その間に、非常に重要なことが起きています。

それは10代将軍家治の死去です。

 「江戸時代年表」(小学館刊)には9月8日将軍家治没と書いてありますが、こちらは幕府が正式に触れだした家治の死去の日のようです。

 実際は、8月25日になくなっていたのです。

 田沼意次の辞職は、「重要政策が行き詰まり、立ち往生という深刻な事態に、将軍の危篤と死去という重大事が重なるか、政策上の失敗、医師の推薦の誤りの政治責任をとらされた、というのが真相だったのではないか。政治的行きづまりのなかでの政変、と言うべきだろう」 と「田沼意次」(ミネルヴァ書房刊)に書かれています。

 将軍家治は非常に田沼意次を信頼していました。ですから、家治の死去ということは田沼意次にとって最大の後ろ盾がなくなったということを意味しています。

 そのため、田沼意次の政治が行き詰まりを見せた中で、家治が死んでしまったことにより、27日の意次の辞職願がやすやすと承認されたことになったのではないでしょうか。

このように自然災害の外、政治面でも「大変」が起きた天明6年ですが、この年の収穫は全国で例年の三分の一となりました。

そのため、当然のように、天明8年にかけて全国的に米価高となりました。

 江戸でも米価が暴騰するようになり、5月には正月の値段の2.5倍にまで跳ね上がったようです。

 そうした中で、ついに天明7年5月18日 本所深川で打ちこわしが起きます。

その打ちこわしは江戸中に広がり、20日には、赤坂・四谷・青山、21日には芝高輪・新橋・日本橋と拡大していきます。

 24日までに米屋980軒が被害を受け、さらに酒屋・油屋・質屋等8千軒余も被害を受けました。

この打ちこわしが起きた一要因として、田沼意次を罷免した後、政治的な空白が生じていたことがあげられています。

 この打ちこわしは大変激しいもので、町奉行所だけでは取り締まることができませんでした。

 『天明の江戸打ちこわし』(片倉比佐子著 新日本新書)によると「当時の町奉行は北町奉行所が月番で曲淵甲斐守景漸(かげつぐ)でした。次々と入る打ちこわしの情報を受けて、町奉行自身出馬したが、その様子は嘲笑を交えて記されている。西河岸辺では『奉行とて何のはばかることがあるか』とののしられ、すごすごと引き取った(滝沢馬琴)、(中略)。昌平橋外では、町奉行の手勢200人が、湯島の方から降りてきた一隊と筋違橋内から出てきた一隊とにはさまれ、多勢であったのに散々に打ち叩かれ、『与力以下役人死人怪我人多し』などと記されている。捕らえようとする同心が逆に簀巻きにされたり、十手を奪われたりとの話もある」といった状態でした。

そのため、5月23日、打ちこわしに対して町奉行だけでは手がまわりかねるので御先手の十組が新たに選ばれて、市中を巡回し、町奉行を手伝うこととなりました。

 『飢饉』荒川秀俊著によれば、出動したのは、次の10人です。

 先手筒頭長谷川平蔵・松平庄右衛門・安部平吉・柴田三右衛門・河野勝左衛門・奥村忠太郎・安藤又兵衛・小野治郎右衛門・武藤庄兵衛・鈴木弾正少弼

 命じられた御先手組には、有名な長谷川平蔵つまり鬼平も含まれています。

 御先手組は、市中をまわって、無頼の徒がいたら召捕らえて、町奉行役宅へ渡すように、手にあまったら切り捨ててもくるしくはないと命じられていたようです。

 このようしてようやく混乱を治まった後、江戸を三日間無政府状態におとし入れた責任をとらされて、月番の江戸町奉行曲淵甲斐守景漸は、天明7年6月1日、西丸留守居に転出させられました。


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by wheatbaku | 2016-09-02 09:13 | 江戸の大変 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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