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文政の大火と神田佐久間町(江戸の十大大火⑨ 江戸の大変)

江戸の十大大、今日は「文政の大火」について書いていきます。

文政の大火は、文政12年3月21日 神田佐久間町から出火した火事です。

そのため「佐久間町火事」とも呼ばれます。

佐久間町は、現在の秋葉原駅の東側の神田川の北側一帯で、現在も、神田佐久間町1丁目~4丁目の名前が残されています。

武江年表には、次のように書かれています。

三月二十一日(陽歴四月二四日)、北風烈しく、已の刻過、神田佐久間町弐丁目河岸の材木小屋より火出て、神田川を飛て東神田武家・町屋一円に焼、夫より東は両国橋際・浜町辺武家方より永代橋手前迄、西は須田町通り西側残り、東側より今川橋向本銀町・本町河岸・御堀端通・数奇屋橋外迄、南は新橋・塩留迄を限りとし、其間の町々は本町・石町・大伝馬町・小伝馬町・馬喰町・横山町辺一円・堺町・葺屋町両座芝居・牢屋敷辺・小網町・八丁堀・霊巌島・鉄炮洲・築地武家方・西門跡より先、海手に至り佃島迄、木挽町芝居・京橋・新橋辺町屋類焼に及び、翌二十二日朝鎮火す。武家方類焼夥しく、南北凡一里余、東西二十余町。焼死・溺死の輩千九百余人と聞り。御救の小屋九ヶ所を建て、類焼の貧民を救せらる

これによると、出火した日は、北風が強くて、佐久間町2丁目で発生した火事は、神田川を飛び越えて、東神田から京橋・新橋あたりまで延焼し、東側は、 両国橋の西際から八丁堀から築地を焼失させ、佃島まで延焼しています。

21日の午前10時ごろに発生した火事は、翌日で燃え続け、朝にようやく鎮火したようです。

この文政の大火は、第9回の江戸検1級の第100問目で記述問題として出題されています。

第100問 文政12年(1829)年3月に中村座や市村座を焼いた「文政の大火」は、その年の干支から「己丑の大火」とも呼ばれました。これに対し、その5年後の天保5年(18342月に中村座や市村座を焼いた火事は、「(  )火事」と呼ばれます。(  )に入る干支を漢字2字で書いてください。

 この正解は「甲午」なのですが、甲午火事も大きな火事でした。

 江戸検のテキスト「天下大変 江戸の災害と復興」の「江戸時代のおもな大火」の中にも「甲午火事」として書かれています。

 この火事は、「武江年表」には、

二月七日(陽暦三月十六日)、北風烈しく、昼八時、神田佐久間町二丁目琴師の家より出火して、即時に神田川を越て東神田お玉が池の辺へ移り、一円に焼広がり、東は両国矢の倉(旧名なり)辺にいたる。西は神田お玉が池より今川橋向・本銀町・石町・本町・室町迄東側一円、伝馬町牢屋敷・油町・塩町・堺町・葺屋町両座の芝居・住吉町・難波町・大坂町・小網町辺。この間に挟りたる町は、少しも残る所なし。日本橋より先は、通り町筋東側・八丁堀・霊巌島の辺・新川・新堀・永代橋際迄、鉄畑洲・築地門跡より海手まで、木挽町芝居・佃島等悉く焼亡す。方域、去ル丑年三月の火事に大やうたがはず。

このように、甲午火事も、文政の大火と同じように神田佐久間町から出火しています。

こうしたことから、「またも火元は佐久間町」とも言われ、佐久間町でなく「悪魔町」と呼ばれることもあったそうです。

こうした汚名をそそぐため、佐久間町では防火に力をいれ、何がなんでも火はださないと消防訓練に努め、関東大震災のときには、周辺地区大部分が、地震後に発生した火事により焼失するなかで、佐久間町町民は町内からは火を出さず、町を守り抜いたそうです。

c0187004_09212609.jpgそれを記念した「防火守護地」碑が秋葉原駅東にある和泉小学校校庭の前に建てられています。

防火守護地の碑文には次のように刻まれています。

この付近一帯は大正十二年九月一日関東大震災のときに町の人が一致協力して努めたので出火をまぬがれました その町名は次の通りであります

佐久間町二丁目三丁目四丁目 平河町 練塀町 和泉町 東神田 佐久間町一丁目の一部 松永町の一部 御徒町一丁目の一部

昭和四三年四月二四日佐久間小学校 地元有志 秋葉原東部連合町





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by wheatbaku | 2016-10-31 09:15 | 江戸の大変 | Trackback
丙寅の大火と芝車町(江戸の十大大火⑧ 江戸の大変)

 江戸の十大大火、今日は文化3年3月4日に起きた大火です。

この大火は、この年の干支が丙寅(へいいん:ひのえとら)であったことから丙寅の大火とよばれています。また、芝車町から出火したことから車町火事とも言います。また芝車町は牛町とも呼ばれたことから牛町火事ともいいます。

 この火事は明暦の大火・明和の大火とともに江戸三大火の一つに数えられています。

文化3年3月4日四ツ刻過ぎ、芝車町の材木屋付近から出火しました。

その日は、南西の風が強く吹いていて、火はたちまち札ノ辻へ延焼し、芝、京橋、日本橋を焼いて、神田川を越えた火事は、浅草門外から浅草辺りまで延焼していきました。

そして、翌日の5日は大雨となり、さしもの大火も昼四つ時(午前10時ころ)には鎮火しました。

類焼した長さは、「武江年表」によれば、長さ2里半といいいますから10キロほどの街並みが燃えたことになります。

焼死溺死した人が1200人と「武江年表」と書いてあります。

この火事に、オランダ商館長のヘンドリック・ドゥーフが遭遇しています。

ヘンドリック・ドゥーフは、蘭和辞典の「ドゥーフハルマ」(長崎ハルマとも呼ばれる)の著者です。

さて、火元となった「車町」(通称牛町)について説明しておきます。

c0187004_14102338.jpg「車町」は、高輪にありました。泉岳寺の近くです。

 寛永11年の増上寺の安国殿を建立するなどの際に、資材の輸送のため、江戸にはなかった牛車が大量に必要となり、幕府が京都四条車町の牛屋を江戸に呼び、材木や石類の運搬に当たらせました。

工事終了後、褒美として、高輪での定住を認め、牛車を使っての荷物運搬の独占権も与えました。

この人たちが居住した場所が「車町」です。

歌川広重の名所江戸百景の中の「高輪うしまち」(右上写真)は、車町を描いたもので、手前に大きな車輪が描かれていて、いかにも頑丈そうな車だということがわかりますし、犬も描かれてるのが広重らしいと思います。

 遠景は、高輪と品川の海ですが、よく見るとお台場が描かれています。


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by wheatbaku | 2016-10-27 14:08 | 江戸の大変 | Trackback
桜田火事(江戸の十大火事⑦ 江戸の大変)

 江戸の十大大火について書いていますが、今日は、桜田火事です。

 桜田火事は、寛政6年正月10日に麹町から出火した火事ですが、十大大火の中で、書く材料がないのが、この桜田火事です。

 いろいろな本で調べましたが、桜田火事について書いてある本はありませんでした。

 唯一、書かれていたのが「武江年表」だけでした。

 そこで、「武江年表」の桜田火事についての記述を書いておきます。

寛政六年 甲寅(1794)

 正月十日未申刻、椛町五丁目秋田屋何某といへる酒屋より出火、烈風にて山王御社・永田馬場・霞が関・虎御門外・桜田辺諸侯藩邸数字類焼、幸橋御門焼、愛宕下・日蔭町・新橋・芝新銭座、仙台・会津家等一円、焼亡せり。

 これを読むと、麹町5丁目の秋田屋という酒屋から出火し、永田町、虎ノ門、新橋あたりに燃え広がっているようです。

 桜田門外の大名の屋敷を中心に焼失していることから、桜田火事と呼ばれているのではないでしょうか。

 今日は、簡単な記事ですみません。


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by wheatbaku | 2016-10-26 18:01 | Trackback
目黒行人坂の火事と大円寺(江戸の十大大火⑥ 江戸の大変)
江戸の十大大火ですが、今日は「目黒行人坂の火事」について書きます。

「目黒行人坂の火事」は、明暦の大火、文化の大火と共に江戸三大大火の一つでもある、大きな火事です。


「目黒行人坂の火事」は明和9年2月29日に発生した火事で、火元は目黒行人坂の大円寺です。(右下写真が現在の大円寺です)

c0187004_07021162.jpg午後1時頃に出火した火事は南西からの風にあおられ、江戸市中を焼き尽くし、千住方面まで燃えていきました。

実は目黒行人坂の延焼方向を見て、いつも思うことがあります。

江戸時代は、目黒は江戸からみれば片田舎です。百姓家や寺社は所々にあったと思いますが、家が密集しているわけではなかったと思います。

そして、目黒より江戸に近い白金も、同じように家が密集している地域ではなかったと思います。

そうした人家の少ない田舎でおきた火事がどうして江戸市中に延焼していったか、また、なぜ、江戸市中に延焼する前に防ぐことができずに三大大火の一つに数えられるほどの大火になかったのかと不思議に思います。

さて、そんな疑問は別にして、この大火は、テキスト「天下大変 江戸の災害と復興」に書いてある通り、真秀という坊主による放火によるものです。

この真秀を捕らえたのが鬼平長谷川平蔵宣為の父である火付盗賊改の長谷川宣雄で、真秀は小塚原で火罪に処されました。


 目黒行人坂は、目黒駅西口から目黒のお不動様に向かう途中にある坂です。目黒駅から歩いていくと下り坂となります。

この坂の途中に大円寺があります。

行人坂という名前は、大円寺を拠点にする修験道の行者が、この坂道を往来したことによるそうです。


c0187004_07020293.jpg大円寺は、寺伝では、寛永元年(1624)に、出羽湯殿山の修験僧大海法印が大日如来を本尊として道場を開いたのが始まりといわれます。

 門を入った正面にある本堂には、江戸城裏鬼門にあたる為徳川家康をモデルにしたという三面大黒天が祀られていて、大黒天を祭る山手七福神の一つとなっていて、こちらの方がなじみがあるかもしれません。

c0187004_07015849.jpg この本堂へ向かう左手に五百羅漢の石像がびっしりと建てられています。この石像は、目目黒行人坂の大火の犠牲者供養のために天明頃につくられたものと「新編武蔵風土記稿」に書いてあるようです。


 この大円寺は、八百屋お七とも縁のあるお寺です。

 八百屋お七は、天和2年におきた大火の際に避難したお寺にいる寺小姓と恋に落ちて、その寺小姓と会いたいがため放火したといわれています。

c0187004_07091257.jpg その寺小姓(大円寺では吉三と書かれている)の関連史跡がいくつか大円寺にあります。

 その一つが「行人坂敷石造道供養碑」です。

 目黒区教育委員会の説明板には次のように書いてあります。

この供養碑は、高さ164cm。碑の上部に種子(梵字)キリーク(阿弥陀)サ(観音)サク(勢至)が刻まれています。 下部の碑文によって、この坂を利用する念仏行者たちが悪路に苦しむ人々を救うため、目黒不動尊龍泉寺や浅草観音(浅草寺)に参詣し、通りがかりの人々から報謝を受け、これを資金として行人坂に敷石の道を造り、この成就と往来の安全とを供養祈願したことがわかります。施主は西運で元禄16年(1703)の紀年があり、江戸と目黒の社寺を結ぶ重要な参詣路であった行人坂開発の歴史を知るうえに貴重な歴史資料です


 大円寺境内にあるお寺が立てた説明板には、西運というお坊さんが寺小姓吉三が出家後に名乗った名前だと書いてあります。(右下写真)

c0187004_07015372.jpg 江戸時代本郷の八百屋の娘お七は天和二年(1682)の火事の際、自宅を焼かれしばらくの間、駒込の円林寺に仮住いしており、その時に寺小姓 の吉三に恋したという。お七は十六才、吉三が十八才でした。

 恋いこがれたお七は吉三会いたい一心で翌年自分の家に放火 したために、江戸市中を引廻しの上、鈴ヶ森の処刑場で火刑 に処せられた。

c0187004_07020740.jpg 一方の主人公「寺小姓吉三」はお七の処刑後、僧となり名を「西運」と改め諸国を行脚、後に大円寺の下の明王院(現雅叙園)に入ってお七の菩提を弔うため、往復十里(約四十キロメートル)の道のりを浅草観音まで夜から明け方にかけて鉦を叩き念仏を唱え遠隔夜日参り一万日の行を二十七年と五ヶ月かけて成し遂げ、お七が夢枕にたって成仏したことを告げられたことから「お七地蔵尊」を造った。また西運は多くの江戸市民から浄財の寄進を受け、これを基金に行人坂敷石の道 を造り、目黒川 に石の太鼓橋 を架け社会事業の数々を行なった。


 この説明板が設置されているのは本堂西側の阿弥陀堂の前です。(右上写真)

 その阿弥陀堂には、西運が作ったという「お七地蔵」が祀られています。
 このお七地蔵を拝観するには許可が必要です。






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by wheatbaku | 2016-10-24 06:57 | Trackback
小石川馬場火事と護持院ヶ原(江戸の十大大火⑤ 江戸の大変)

 江戸の十大大火の一つ「小石川馬場火事」について書きます。

 小石川馬場火事は、享保2年1月22日に小石川馬場近くから出火した火事です。

 名前の由来となった小石川馬場というあまりなじみがない場所なので小石川馬場がどこにあったのか調べました。

 小石川馬場は、名前の通り小石川にありました。下の図が万延2年の江戸切絵図「小石川谷中本郷絵図」の一部を拡大したものです。

 緑色の部分が小石川馬場と書かれています。
 絵図の上部に白山権現というのがあります。これが現在の白山神社ですので、小石川馬場は、
現在で言うと、白山下交差点の少し南東側辺りだと思います。

c0187004_10015589.jpg

『武江年表』享保2年正月22日の項には、

「小石川馬場脇井出某殿より出火、湯しま・護持院の荘厳、神田橋御門内・鍛冶橋御門まで諸侯の藩邸数宇、通町・八丁堀・築地まで武家・町屋とも夥しく焼亡あり」

と書かれています。白山下から神田・日本橋に延焼し、八丁堀や築地まで燃えていったようです。

 この火事で燃えた大きな寺院に護持院があります。

護持院は、元禄元年(1688)、5代将軍徳川綱吉が柳原にあった知足院を移し、隆光を開山として、護持院と改称したことに始まるお寺です。

この大寺院が焼失し、さらに江戸城にも火がおよぶかもしれない状況だったことから、大火の後、護持院は大塚の護国寺に移され、その跡は、広大な火除地とされました。

『武江年表』(ちくま学芸文庫)享保2年正月22日の項には

「災後、護持院を小日向の末に移され、その跡幷雉子橋外武家屋敷跡、畾地(らいち)となれり。」と書いてあります。

そして、この『武江年表』(ちくま学芸文庫)の校訂をした今井金吾の補訂として「畾地とは空地の意にして、世俗これを護持院ヶ原と呼べり。」と書いてあります。

護持院ヶ原は、広大な原っぱで、江戸名所図会によれば、冬から春にかけては、将軍家の猟場として使用されましたが、夏から秋にかけては、江戸の市民に開放され、市民の憩いの場とされていたようです。

この護持院ヶ原で思い出すのが、森鷗外の「護持院原の敵討」です。
c0187004_10014561.jpg 新潮文庫にも収録されている短編ですが、印象深いので良く覚えている小説です。

これは天保年間に姫路藩酒井家の大金奉行であった山本三右衛門が藩邸の小使いに殺害され、これを三右衛門の息子・娘が敵討を志し、それに加勢する三右衛門の実弟が九州まで探し歩いた末に、江戸の護持院ヶ原で見事討ち取る話です。

敵討ちの旅の途中で、息子が脱落する場面があり、そうした事態にもめげす江戸に残された娘のりよが、叔父からの「敵見つかる」の知らせを受け、護持院ヶ原で見事敵討ちをする場面が印象的でした。

この小説を森鷗外が実話に基づいて書いたものかどうか調べましたが確証はとれませんでした。

しかし。鷗外は、この小説の最後に

「この敵討のあった時、屋代太郎弘賢(ひろかた)は七十八歳で、九郎右衛門、りよに賞美の歌を贈った。

『又もあらじ 魂祭(たままつ)るてふ 折に逢ひて 父兄の仇討し たぐひは』」 

と書いています。

 確かに屋代太郎弘賢は実在の人物で和学講談所の会頭まで勤めた人物ですので、鷗外は護持院ヶ原での敵討に関する何らかの資料を持っていて、この小説を書いたものだろうと思っています。

 護持院ヶ原は、明治以降は文教地域になりました。

まず、幕末の文久2年蕃書調所が洋学調所と改称して護持院ヶ原に移り、翌3年開成所と改め、明治2年大学南校となりました。さらに6年開成学校、7年東京開成学校と改め、明治10年東京医学校と統合し東京大学が創立されました。 

c0187004_10370463.jpg さらに、広大な敷地には、東京大学のほか東京外国語大学、学習院、一橋大学の前身となる東京外国語学校、華族学校、東京商業学校などの学校が次々の開設され、これらの大学の発祥の地になっています。 
 学士会館の入り口近くに「我が国大学発祥の地」の説明板(右上写真左)と「東京大学発祥の地」の石碑(右上写真右)が設置されています。




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by wheatbaku | 2016-10-20 09:53 | 江戸の大変 | Trackback
水戸様火事(江戸の十大大火④ 江戸の大変)

江戸の十大大火、今日は「水戸様火事」についてです。

「水戸様火事」は元禄16年11月29日に、水戸藩徳川家の小石川の上屋敷から出火した火事です。

 「水戸様火事」というのは、水戸藩邸が出火元による呼び名だろうと思います。

 元禄16年11月23日に元禄地震が江戸を襲いました。

 そして、その後の余震は連日続きました。

そうした中、11月29日の午後7時ごろ大きな震動がありました。

そのころ小石川の水戸藩上屋敷から出火しました。

火事は東に進み湯島聖堂や神田明神を焼いた。そして本郷に広がり加賀藩前田家上屋敷(現在の東大本郷キャンパス)から駒込近辺までを延焼しました。

ここで風向きが北西に変ったので、猛火は進路を変えて不忍池のほとりにあった寺院を燃やした後、谷中から上野の寛永寺に迫り、西側の子院が炎上しました。

不忍池付近の火は池之端から湯島天神に接近し、さらに現在の秋葉原・御徒町一帯を火の海にしました。

 午後10時ごろから季節風がいっそう強くなり、浅草橋も焼失し、両国橋も焼け落ちてしまいました。

 火災はさらに隅田川を越えて本所・深川に広がり、回向院・霊厳寺などの寺社が灰になりました。
 この水戸様火事が鎮火したのは翌12月1日の早朝でした。

 焼失した大名・旗本屋敷は275、寺社は75にのぼりました。

火災の間にも地震が5,6回あり、人々は。地震火事”とも呼びました。

 水戸様火事は地震と火災の複合災害であったと言われています。


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by wheatbaku | 2016-10-17 10:16 | 江戸の大変 | Trackback
勅額火事(江戸の十大火事③ 江戸の大変)

江戸の十大大火のお話ですが、今日は勅額火事について書いていきます。

勅額火事は、元禄11年9月6日に起きた火事です。

勅額とは上野の東叡山寛永寺の根本中堂の正面に掲げられた額をいいます。

 寛永寺全体の本堂にあたる根本中堂は、将軍綱吉が、柳沢吉保を普請の総奉行に命じ、工事御手伝いを島津綱貴に命じて建立させました。

 高さ30.8メートルの根本中堂は、元禄11年7月に完成し、根本中堂の落成式は9月3日に盛大におこなわれました。

なお、根本中堂建設の余った材木で隅田川下流に永代橋が架けられました。

根本中堂は完成しましたが、東山天皇御宸筆の勅額が間にあいませんでした。

c0187004_10352241.jpg勅額が江戸に着いたのは9月6日でした。

勅額は大きな横額で、黒塗りの上に金で「瑠璃殿」の三文字を草書で入れ、縁は雲の模様でした。

その勅額は、現在も寛永寺の根本中堂に掲げられています。(右上写真)

その日の午前10時近く、数寄屋橋門外の南鍋町から火が出た火事が千住まで延焼する大火となりました。

勅額が江戸に到着した日に起きた火事であるため、勅額火事または中堂火事と呼ばれています。

南鍋町で出火した火事は、激しい南風が吹いていたため、数寄屋橋門内から鍛冶橋門内に広がり、吉良上野介義央の屋敷をはじめ多くの大名屋敷を焼失させました。

その中には、呉服橋門内にあった熊本藩細川家の上屋敷も焼失しました。

この時、熊本藩主細川綱利は神田橋外にあった護持院の防火を命じられて出動していました。護持院は無事でしたが、留守中、自分の屋敷は焼失してしまいました。

また、南町奉行所も炎上し、柳沢吉保の常盤橋門内の屋敷も焼失しました。

柳沢吉保はいったん屋敷にもどったが、夜になって寛永寺にまで火事が延焼したと聞いたので、江戸城に出仕しました。

 上野にあった林羅山以来の林家の別荘や旧孔子廟・墓地なども焼失しました。

余談ですが、のちに、林家の土地は寛永寺領になり林家には牛込に代地が与えられました。また、湯島天神下の新井白石の屋敷も焼失しました。

寛永寺では、黒門と仁王門が焼け、つぎに本坊が表門と御成門を残してすべて焼け、厳有院(四代将軍家綱)の霊廟も焼けました。

当時の寛永寺の防火担当は秋田藩藩主佐竹義処でした。

佐竹義処のまさに合戦さながらの活躍で、完成したばかりの根本中堂の焼失は免れました。

しかし、佐竹家では、上屋敷はじめ屋敷四か所を焼失しまったそうです。

この時の佐竹義処の活躍ぶりを、寛永寺の防火のため出動していた水戸藩の徳川綱条は褒め称えたと記録が残されています。
c0187004_10353513.jpg この時、焼失を免れた根本中堂は、その後の多くの火災にも焼失することなく幕末まで残されました。 しかし、慶応4年の上野戦争で焼失してしまい、現在は、明治12年に川越喜多院の本地堂が移築され再建されています。(右上写真)

この火事で、浅草の三十三間堂も焼けてしまいました。この後、三十三間堂は、深川に再建されました。

火事は、千住の掃部宿まで延焼し、ようやく鎮火しました。



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by wheatbaku | 2016-10-14 10:22 | 江戸の大変 | Trackback
八百屋お七のお墓(江戸の十大大火② 江戸の大変)

 今日は、八百屋お七のお墓について書きます。

 八百屋お七のお墓は、駒込の円乗寺にあります。

 都営地下鉄「白山」駅から徒歩3分の至近距離にあります。
 右下写真は、円乗寺の本堂です。

八百屋お七については、有名な話ですが、井原西鶴の『好色五人女』に書かれている内容をはじめ、諸説があります。その中で、最も事実に近いのだろうと言われているのが『天和笑委集(てんなしょういしゅう)』です。 

c0187004_09531675.jpg それによると、お七の生家は本郷の森川宿(現在の東大正門向かい側の北側辺り)の八百屋でした。父は市左衛門(『好色五人女』では八兵衛となっている)といい、加賀金沢藩前田家に野菜を納めるほどの大きな八百屋だったようです。

 天和の火事で、森川宿に住んでいた八百屋の市左衛門の一家も焼け出されました。そのため、市左衛門は女房や娘のお七と一緒に、駒込の円乗寺(『好色五人女』では吉祥寺となっている)に避難しました。

菩提寺と書いたものもありますが、円乗寺の市原ご住職によると、円乗寺はお七の家の菩提寺ではないとのことであり、円乗寺が駒込に移転する前はお七の家と近い本郷にあったので、お七一家は円乗寺に避難したのではないだろうかということです。

この時にお七は円乗寺の寺小姓、生田庄之助(『好色五人女』では小野川吉三郎、文京区教育委員会の案内板では「佐兵衛」となっている)と恋仲になりました。

 やがて自宅が再建され、お七は家に戻りましたが、恋仲になった生田庄之助に会いたい一心で、天和3年3月2日、付け火をします。付け火はすぐに発見され、消し止められました。お七は付け火の道具を持ってさまよっていたため、すぐに捕えられました。

 火事はボヤで済みましたが、江戸時代は放火は大罪です。放火の罪で捕らえられたお七は、天和3年3月29日、鈴ヶ森で火あぶりの刑にされました。

 この時、お七は16歳でした。江戸時代は、罪に問われるのは15歳以上であり、15歳未満であれば無罪となります。町奉行の甲斐庄(かいしょう)正親は、なんとかお七を助けてやりたいと思い、「14歳だろう」と問います。しかし、お七は正直に16歳ですと答えたため、鈴ヶ森の刑場で火あぶりの刑に処せられてしまったという話が伝えらえています。

 ただし、実際に八百屋お七を捕まえたのは、火付改役(ひつけあらためやく:後の火付盗賊改役)の中山勘解由(なかやまかげゆ)です。

c0187004_09533921.jpg このお七の放火は、さまざまな創作物で取り上げられ、大変有名になりました。そのうち最も有名なものが、井原西鶴が書いた小説『好色五人女』です。 

また、歌舞伎・浄瑠璃にも数多くの作品があります。代表的なものとして「八百屋お七歌祭文」「伊達娘恋緋鹿子(だてむすめこいのひがのこ)」「松竹梅雪曙」があげられます。さらに、「お七」という落語にもなっています。

その八百屋お七のお墓が、円乗寺参道西側にあります。
 昔は屋根がなかったそうですが、現在は屋根が造られています。
 (右上写真参照)

 お墓は3基あります。中央は、円乗寺の住職が供養のために建てたものです。
c0187004_09554962.jpg 中央のお墓が丸く削られていますが、これは、一時期、お七のお墓を削った石粉をもっていると御利益があるという噂がひろまり、墓石が削られてしまったと市原ご住職が話されていました。

 右側は、寛政年間に歌舞伎役者の岩井半四郎が建立したお墓です。岩井半四郎がお七を演じた縁で、建立したものです。

 墓碑正面に「妙栄禅定尼」とお七の戒名が刻まれています。墓碑右脇に建立時期が刻まれていますが、寛政という文字は読み取れましたが、建立した年は不明でした。

 左側のお墓は、まだ新しいもので、近所の有志がお七の270回忌法要のために建てたものです。



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by wheatbaku | 2016-10-12 09:47 | Trackback
お七火事(江戸十大火事①  江戸の大変)

 十大大火という言葉あるごとく江戸は火災の多い町で、しばしば大火が発生しています。江戸検お題テキスト「天下大変 江戸の災害と復興」の第一章の「大火」では、最も大きな被害があった明暦の大火について説明してあります。

 しかし、その他の大火は、表1ページに説明さているだけです。

 そこで、これから、江戸の十大大火について、順に説明していきます。

 まず、江戸の十大大火とは『江戸学事典』では、次の10個の火事が十大大火だとしてあります。

 1、明暦の大火 2、お七火事 3、勅額火事 4、水戸様火事 5、小石川馬場火事 

6、目黒行人坂の火事 7、桜田火事  8、丙寅の大火(車町火事、牛町火事)

 9、文政の大火(佐久間町火事) 10、地震火事

 

 これらについて、順に説明していきます。

 「明暦の大火」については、「天下大変」に十分説明されているので、ここでは、「お七火事」から説明していきますので、今日は、まず「お七火事」について説明します。

 「お七火事」と呼ばれている火事は、天和2年12月28日に起きた火事です。

 「お七火事」の火元は駒込大円寺です。駒込大円寺は、慶長2年い創立された曹洞宗のお寺です。

 午前11時過ぎに、境内の塔頭から出火したと言われていて本堂や庫裏は無事でしたが、隣の同心屋敷に火が移り、一気に本郷まで燃え広がりました。

 本郷の加賀藩前田家上屋敷や支藩の富山藩・大聖寺藩の上屋敷を焼失させました。

 その火は神田から浅草橋まで広がり、隅田川を飛び越えて本所から深川まで延焼し、富岡八幡宮焼失させた後、海にあたり、ようやく鎮火しました。

 この火事で松尾芭蕉の芭蕉庵が焼失しています。

 深川の芭蕉庵は、芭蕉の弟子の杉山杉風の生簀(いけす)屋敷座興庵の一隅にありました。

 松尾芭蕉自身は、近くの六間堀にまで逃れ、川の中から頭をだして助かりました。

「武江年表」にも「深川の芭蕉庵、急火にかこまれ、翁も湖にひたり烟中をのがれしというは此時の事なるべし」と書いてあります。 

これがいわゆる「お七火事」と呼ばれる大火です。

「お七火事」というと八百屋お七が放火した火事と思われることが多いのですが、「お七火事」と八百屋お七が放火した火事とは別の火事ですので、そちらについても書いておきます。

八百屋お七の放火事件が起きたのは天和3年3月2日です。

お七の父は市左衛門といい、本郷の森川宿で大きな八百屋を営んでいました。

お七は自宅近くの軒板の隙間に綿くずを藁に包み火をつけました。

しかし、これはボヤ程度で済んでいます。

従って、八百屋お七が起した放火は大火とはなりませんでした。

しかし、放火犯は重罪です。そのため八百屋お七は火罪となりました。

うら若い美女が火罪になるというので、江戸で大評判となりました。

これが井原西鶴の「好色5人女」に取り上げられたり、歌舞伎にも取り上げられました。
 歌舞伎の演目としては河竹黙阿弥の「松竹梅雪曙」が有名です。





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by wheatbaku | 2016-10-10 12:19 | 江戸の大変 | Trackback
品川宿散歩

土曜日は、毎日文化センターの講座で、旧東海道の品川宿を散歩してきました。

天気予報では、弱雨ということだったので、雨を覚悟していましたが、最終的には、雨に降られずラッキーでした。

品川宿散歩は次のように案内しました。

品川駅 ⇒ 八ッ山橋 ⇒ 問答河岸跡 ⇒ 土蔵相模跡 ⇒ 利田(かがた)神社 ⇒ 台場小学校 ⇒ 品川神社 ⇒ 品川交流館(休憩) ⇒ 品川宿本陣跡(聖蹟公園) ⇒ 荏原神社 ⇒ 問屋場・貫目改所跡 ⇒ 品川寺(ほんせんじ)⇒ 青物横丁駅

c0187004_20134601.jpg品川駅前に「品川駅創業之碑」という石碑があるのを御存知ですか?  日本初の鉄道は、明治5年の1014日の新橋駅 - 横浜駅間ですが、実は、それより4か月早い明治5612日)に品川駅と横浜駅間で仮開業しました。

 そのため、品川駅は実質的に日本初の駅なのです。

 「土蔵相模」は品川でも有数の規模を誇った旅籠で、屋号は「相模屋」だが、正面が土蔵のようななまこ壁で飾られていたことから通称「土蔵相模」と呼ばれました。

c0187004_20140393.jpg土蔵相模が、幕末史上で有名な二つの大事件つまり桜田門外の変の際に水戸浪士たちが惜別の酒宴を開いたことと御殿山のイギリス公使館焼き討ち事件の際に高杉晋作たちの集合場所となっていることで有名です。

明治になって「土蔵相模屋」という貸座敷になり、さらに「さがみホテル」となり、建物は昭和初期まであったが、現在ではマンションになっています。1階のファミリーマートが目印です。

 品川神社は、北品川宿の鎮守で、源頼朝が安房国の洲崎神社から洲崎明神を勧請したのに始まり、その後、お稲荷様と天王様もお祀りしました。

c0187004_20142794.jpg徳川家康が関ヶ原の合戦へ出陣の祭に戦勝祈願し、戦勝後、仮面(天下一嘗の面)・神輿(葵神輿、品川区教育委員会の資料では家光が奉納したとなっている)が奉納されたといいます。

6月の品川神社例大祭は「北の天王祭」と呼ばれ53段の階段を神輿が下ります。
 ただし、以前は明治時代に奉納された千貫神輿ともよばれる大神輿が石段を下ったが、最近は中神輿が階段を下り渡御しているそうです。

荏原神社は南品川宿の鎮守です。

現在は目黒川の北側にありますが、これは昭和3年に目黒川の川筋が変更されたもので、江戸時代には、目黒川の南側にありました。

c0187004_20150808.jpg『江戸名所図会』では、は貴船明神社(きふねみょうじんしゃ)となっていて、明治8年に、荏原神社と改称されたものです。

 品川神社の例大祭が北の天王祭と呼ばれたのに対して、荏原神社の6月の例大祭は、南の天王祭と呼ばれ、勇壮な神輿の海中渡御で有名でした。

現在の社殿は弘化元年(1844年)のもので、170年を超えたものです。

品川寺「ほんせんじ」は、真言宗醍醐派の別格本山で、平安時代初期の創立です。

太田道灌が伽藍を建立し「大円寺」と称したが、江戸時代初期の承応元年に再興された際に「品川寺」と改めたといいます。

c0187004_20153795.jpgご本尊は水月観音像といい、弘法大師(空海)が東国巡行中にこの地の領主品河氏に与え、同氏の滅亡後は草堂に安置されていたもので、絶対秘仏で、現住職も見たことがないそうです。

境内入口にある大きなお地蔵様は、宝永5年(1708)に江戸深川の地蔵坊正元が、浄財を集めて、江戸の入口6か所に造立した江戸六地蔵のうちの一つです。

 品川宿散歩にご参加いただいた皆様、お疲れ様でした。

 皆様のお蔭で雨にもたたれず、楽しい散歩となりました。

ありがとうございました。


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by wheatbaku | 2016-10-03 20:11 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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