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「ぼうず志ゃも」(江戸の味)

昨日は、江戸検1級2期合格者の集い「伴四郎会」で、両国の「ぼうず志ゃも」に行ってきました。

「ぼうず志ゃも」は、両国駅から5分のところにあります。

c0187004_15405025.jpg現在は、回向院の西側の静かな通りに面しています。

通りに面しているといっても、周りは住宅も立ち並ぶ地域にたつ日本家屋ですので、なにげなく見過ごしてしますかもしれないという立たずまいの落ち着いた門構えです。

しかし、「ぼうず志ゃも」の創業は天和年間だそうですので、創業以来300年を超える老舗のなかの老舗です。

現在は、落ち着いた街並みですが、創業時から変わらすに現在の場所にあったとすれば、江戸時代は、回向院は、隅田川を向いていましたので、江戸時代には、回向院の門前にあったことになります。さぞかし盛り場の中だったろうと想像したりします。

「ぼうず志ゃも」というちょと変わったお店の名は、創業者が、舟頭衆のけんかの仲裁をするために、坊主頭となっていたこと由来しているそうです。

「ぼうず志ゃも」の名物は、店名の通り、しゃもなべです。

 しゃもなべの名店はほかにもありますが、しゃも鍋の提供を始めたのは、当c0187004_15411611.jpg店が最初だそうです。

昨日は、コースでお願いしましたが、メインはやはりしゃも鍋です。

名物のしょも鍋は、千葉県で飼育されているしゃもを使い、ぼうず志ゃも独自の味噌や割下を使用しているそうです。白滝・葱も加わっています。

すべて、仲居さんが作ってくれました。

お肉はやわらかく味も抜群でした。

参加者は、「ぼうず志ゃも」で会食ができるのを楽しみにしていたメンバーばかりですので、大好評で、人形町の某有名店より、おいしいという感想もありました。

しゃも鍋を食べながら、参加者の近況報告もありました。
c0187004_15413327.jpg メンバーは、江戸検1級に合格した後、各人とも様々な分野で活躍しているので、話題は豊富です。

史跡案内の話、古文書の話、大学やカルチャーセンターでの講座の話、街道歩きの話、話はつきません。

伴四郎会の面々は、江戸検合格後も、一心不乱に江戸の追及をしています。

そのため、誰かが疑問があって質問しても、すぐに誰か答えてくれるというのが、この伴四郎会の強みです。私も大変助かっています。

歓談の中では、昨日も様々な疑問が出ていましたが、すぐに解決してしまいました。

江戸の話題は尽きませんが、予定時間も大幅に超過したため、記念写真を撮って御開きとしました。

取り締り役のM御大さん・幹事役のTさん大変お世話になりました。ありがとうございました。

そして、ご参加の皆さん、楽しい時間ありがとうございました。

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 「ぼうず志ゃも」は赤印です。






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by wheatbaku | 2016-11-30 15:37 | 江戸の味 | Trackback
夏目漱石(雑司ケ谷霊園に眠る有名人⑦)

雑司ケ谷霊園に眠る有名人の第7回は夏目漱石です。

c0187004_23353359.jpg夏目漱石のお墓は1‐14‐1 にあります。

漱石のお墓は大変大きい墓碑で、よく見るとイスの形をしています。 

夏目漱石は大正5129日に49歳で亡くなりました。

大正5年というのは西暦でいうと1916年です。今年は2016年ですから、今年は没後100年ということになります。

夏目漱石が生まれたのは、慶応3年(1867)です。つまり、明治になる前年に生まれました。

そのため、明治の年数が、そのまま漱石の年齢となります。

慶応3年は西暦でいうと1867年ですので、来年が生誕150年ということになります。

c0187004_23353878.jpgそうしたことがあって、先日NHKで「漱石の妻」というドラマが放映されたのだと思います。

これからも、漱石記念イベントがつづくことになりそうです。
 (右写真は早稲田の漱石公園入口にある漱石の銅像です。)

実は、慶応3年に誕生した人物は、漱石のほか、錚々たるメンバーがいます。

幸田露伴、正岡子規、尾崎紅葉は、すべて慶応3年生まれです。

こうした人たちも来年は生誕150年となるので、この人たちの記念イベントも続々あるものと思います。

夏目漱石は、明治の大文豪ですので、多くの本が出版されていますが、その中で『文豪・夏目漱石』(江戸東京博物館・東北大学編、朝日新聞社刊)を参考に、漱石についてかいていきたいと思います。

夏目漱石が生まれたのは、現在の早稲田です。

c0187004_23500168.jpg東京メトロ「早稲田駅」の2番出口の道路を挟んだ東側にある小倉酒店の隣が漱石の生家があった場所です。

右写真の中央の道路が「夏目坂」です。
 その左手にあるのが小倉酒店です。

生家跡にも、「夏目漱石誕生之地」と刻まれた石碑が建っています。(右下写真)

17歳のとき、大学予備門(のちに第一高等中学校と改称)に入学し、23歳のとき、東京帝国大学英文学科へ入学します。

26歳のとき同大学同学科を卒業した後は、東京高等師範学校の英語嘱託をへて、明治28年(1895)松山の愛媛県尋常中学校に英語科教師として赴任し教鞭をふるう。松山時代に、貴族院書記官長中根重一の長女中根鏡子と見合いをし、翌年、熊本県の第五高等学校講師として赴任してから、結婚し、熊本で新婚生活をはじめます。

c0187004_23500599.jpg33歳のとき、漱石は文部省から英文学研究のため英国留学を命じられます。しかし、ロンドン滞在中、神経衰弱となり文部省から帰国を命じられ、明治36年(1903)に急遽帰国しました。

帰国後、漱石は 小泉八雲の後任として東京帝国大学英文科講師となります。

しかし、漱石の硬い講義は生徒に不評で、「八雲留任運動」が起こるなどしたため、漱石は神経衰弱を再発させてしまいます。

そのような中、『ホトトギス』を発行していた高浜虚子から小説を書くようにすすめられて38歳のとき書いたのが「吾輩は猫である」です。

そして、明治40年(190740歳のとき、一切の教職を辞し朝日新聞社へ入社し、本格的に職業作家としての道を歩み始めます。

c0187004_23551248.jpgこの頃、漱石は早稲田南町に引っ越しますが。これが終の棲家となります。

この家は、のちに「漱石山房」と呼ばれ、多くの若い文学者たちが集まりました。

漱石の住まいだったところは、現在漱石公園となっています。
 (右上写真)

c0187004_23354295.jpgそこには、漱石生誕150年を期して漱石山房記念館が建設中です。
 (右写真が、完成模型図です。漱石公園内の道草庵に中に展示されています)

来年9月に開館する予定だそうです

漱石は43歳のとき、「門」の執筆中胃潰瘍を患い、転地療養のため修善寺温泉へ赴くが、そこで大量に吐血し、危篤状態に陥ります。これが俗に「修善寺の大患」と呼ばれ大変有名な事件です。

その後、容態が回復し東京へ戻りますが、以後、漱石は胃潰瘍が何回か再発し、ついに胃潰瘍で命を落とすことになります。

『文豪・夏目漱石』によれば、なくなる20日ほど前の1121日に辰野金吾の子供の結婚披露宴で漱石の大好物のピーナツが出ました。

いつもはピーナツを食べるのをうるさく禁止していた奥さんと席が離れたのを幸いにピーナツを食べすぎて翌日から体調をくずし、ついに大正5年(1916)12 月9日「明暗」執筆途中に胃潰瘍により亡くなりました。49歳でした。

「漱石の妻」に描かれていた奥さんも一緒にこのお墓に眠っています。

鏡子夫人は、よく悪妻といわれます。「漱石の孫」の中でも、夏目房之介氏は「鏡子夫人は『悪妻』のレッテルを貼られていると父などから聞いていた」と書いています。

しかし、『文豪・夏目漱石』や『漱石の孫』によると必ずしも「悪妻」ではなかったようです。

『文豪・夏目漱石』によれば、ロンドン留学から帰った時期は漱石自身も強度の精神衰弱となり家庭内暴力を振るったため、妊娠中であった鏡子は一旦実家に帰りますが、漱石が精神病だと医者から聞かされた鏡子夫人は、病気なのであれば看病のため一生添え遂げようと決心し家に戻ったそうです。

これは「漱石の妻」にも描かれていましたね。

また、『漱石の孫』には「鏡子夫人は、漱石とちがって、長命だった。亡くなったのは僕が中学生になってからだから、祖母の人となりよくおぼえている。僕や従弟たちは「おばあちゃま」とよんで親しんだ。(中略)にこにこして、物にあまり動じない人のようにおぼえている」と書いてあります。

孫たちにはよいお祖母さんだったようで、悪妻というイメージはないようです。
 「漱石の妻」を見て、鏡子夫人のイメージが変わった人もいるかもしれません。




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by wheatbaku | 2016-11-28 23:32 | 大江戸散歩 | Trackback
千葉定吉・重太郎(雑司ケ谷霊園に眠る有名人⑥)

雑司ケ谷霊園に眠る有名人の第6回は、千葉定吉・重太郎父子です。

c0187004_18411817.jpg千葉定吉・重太郎は、管理事務所の東側の一画1-西6-5 に眠っています。

 写真の左側が千葉定吉の墓碑で、右側が千葉重太郎の墓碑です。

千葉定吉は、北辰一刀流の創始者千葉周作の実弟です。

当然、北辰一刀流の剣術家です。

定吉の剣の腕は高く評価され、嘉永6年に鳥取藩の江戸詰の藩士として召し抱えられています。



北辰一刀流といえば、千葉周作のお玉ヶ池の玄武館道場が有名ですが、千葉定吉は京橋の桶町に道場を開き、「桶町千葉」と呼ばれました。

桶町の千葉道場は、現在の鍜治橋交差点近くにありました。

現在は、「千葉定吉道場跡」と書かれた中央区教育委員会の史跡説明板が立っていますので、「桶町千葉」がどのあたりにあったのかわかります。

 しかし、昔は、説明板がありませんでした。

「桶町千葉」で剣術を習った最も有名な人物は坂本龍馬ですが、NHKの大河ドラマ「龍馬伝」が放映されたのは平成22年でした。

私が江戸の史跡案内を始めたのが、この頃からです。

c0187004_18452941.jpgこの年に、江戸での坂本龍馬に関連する史跡の一つとして桶町の千葉道場跡を案内した時には、史跡説明板がなくて、案内するのに苦労したことがあります。

「龍馬伝」放映をきっかけに、この説明板が設置されたものだと思います。

右上写真が説明板ですが、正面の道路が鍛冶橋通りで、左に行くと鍛冶橋交差点、右に行くと京橋交差点です。二つの交差点のちょうど中ほどにあります。


説明板に書かれている地図(下の写真)では、五郎兵衛町の北側に千葉定吉と確かに書かれています。これが「桶町千葉」です。

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c0187004_18415797.jpg説明板の向かい側の「ヒューリック京橋ビル」(右写真)辺りに、「桶町千葉」があったと思われます。


千葉定吉の隣に眠る千葉重太郎は、千葉定吉の長男です。

「桶町千葉」で剣術を習った最も有名な人物は前述したように坂本龍馬です。

坂本龍馬は、嘉永6年(1853)江戸に上り、土佐藩邸から近かった桶町千葉に入門しました。

桶町千葉で坂本龍馬が剣術指南を受けたのは主に重太郎であったと考えられています。

千葉重太郎も父親同様に鳥取藩に仕官しています。


坂本龍馬は、最初、暗殺しようとして勝海舟を訪れたが、逆に説得され、勝海舟の弟子となったという話は有名ですが、このとき、千葉重太郎も龍馬と一緒に勝海舟を訪ねてします。

 大河ドラマ「龍馬伝」にも、その場面がありましたが、司馬遼太郎の名作『竜馬がゆく』にも描かれています。


私が持っている文春文庫『竜馬が行く』では第3巻に「勝海舟」という章があります。

c0187004_18521459.jpg勝海舟を暗殺すると言い出したのは千葉重太郎です。
 千葉重太郎と坂本龍馬が赤坂氷川下の勝海舟の屋敷を訪ねます。
 勝海舟は二人が暗殺のために訪ねてきたことを最初から承知していて、二人の機先を制した後、世界の情勢と日本が置かれている状況を説明します。
 それを聞いても千葉重太郎は勝を斬ろうとしますが、坂本龍馬がその出鼻をくじいて海舟に弟子入りするという流れとなっています。
 これほどまで龍馬と関係がある千葉定吉と重太郎ですが、案外名前は知られていないようなのがちょっぴり残念ですね。






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by wheatbaku | 2016-11-26 18:31 | 大江戸散歩 | Trackback
小栗上野介夫人道子と遺児国子(雑司ヶ谷霊園に眠る有名人⑤)

c0187004_10512334.jpg 雑司ケ谷霊園に眠る有名人の第5回は、小栗上野介一族のお話です。

 「小栗家累代之墓」には、小栗上野介忠順のほか、小栗上野介の夫人と遺児も眠っています。

今日は、その人々について書いていきます。

c0187004_10512790.jpg「小栗家累代之墓」の墓碑の裏面には、小栗上野介のほか、その道子夫人、遺児国子、その夫貞夫の名前が刻まれています。(右写真をご覧ください)

この人たちは、小栗上野介の斬首に伴い波乱万丈の生涯をおくりますが、それについて「小栗忠順のすべて」(村上泰賢編 新人物往来社刊)や東禅寺のホームページを参考に書いていきます。

c0187004_10514746.jpg 小栗上野介は、慶応4年閏45日に新政府軍に捕えられ、取り調べもなく、翌日の4月6日権田村の川原で斬首されました。

 小栗上野介は、道子夫人と別れる際に、万が一の場合には会津に逃れるように指示し、道子夫人を村役人百姓代の中島三左衛門に託しました。

中島三左衛門は村人たち30人余りで護衛隊を作り、会津をめざしました。

 この時に、道子夫人のほかに、上野介の母くに、養子又一の許婚鉞子(よきこ)も一緒に会津をめざしました。

会津までの脱出のコースは、東禅寺のホームページによれば、

権田―六合村―地蔵峠―秋山郷―十日町―六日町―新潟―水原―津川―会津若松 となっています。

 高崎市の東善寺には、会津までの逃避行の道順を書いた地図が掲示されていました。(下写真)

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現在の群馬県と新潟県の県境に横たわる山を越える険しく狭い山道を脱出していきました。

c0187004_10513431.jpg妊娠8か月で身重な道子夫人は、山駕籠に乗ったり、あるいは駕籠に乗せることができず草刈籠の中にいれて村人がそれを背負って山道を進んだこともあったそうです。
(右写真は、東善寺に展示されている道子夫人も乗ったという山駕籠です)

 こうした険しい山道を伝わってようやく新潟にたどりつきました。

 新潟は、小栗上野介の父忠高が新潟奉行を勤めていて、ここで亡くなった土地でした。

 小栗忠高の墓は、市内の法音寺にありました。そこで、小栗上野介の母の国子は亡くなった夫の墓参りをすることができました。

 しかし、新潟も安住の地ではないため、2泊しただけで、会津に向かいました。

会津に入った道子夫人たちは、会津藩若年寄横山主税常忠の家族に迎えられ、困難を極めた脱出行も無事終わりました。

横山主税は、閏4月29日に道子夫人たちが到着したときは、白河城に出撃していましたが、5月1日に戦死し、会津城下にも新政府軍が迫ってきたため道子夫人は横山家を出て、南原の野戦病院に移動し、無事女の子を出産しました。
 道子夫人は生まれた女児を国子と名づけました。

 道子夫人と国子は、会津戦争が終わった後、翌年の明治2年春会津をたって東京へ出て、さらに静岡まで移動しました。

道子夫人らを静岡まで送り届けて権田村へ戻った中島三左衛門は、権田村を管理していた高崎藩に帰村届を出しました。

その際に、問われるままに、道子夫人の脱出の顛末、静岡で小栗家を再興したことなどを報告しました。

これを聞いた高崎藩の役人は非常に感嘆し、「汝等は小栗上野介の家臣でなく、領地の村役人に過ぎないのに、身命を賭して小栗上野介のために尽くした赤誠は、代々禄を食んだ家臣でも遠く及ばない」と激賞し、苗字帯刀を許し、姓を中島から「誉田(ごんだ)」と改めるよう申し渡されたそうです。

 道子夫人らはまもなく東京へ出て、三井家大番頭の三野村利左衛門の保護を受け、三野村が明治10年55歳で死んだ後も三野村家の保護は継続しました。

 三野村利左衛門は、若い頃、小栗家の中間として働いていたことがあり、両替屋を開いた後も小栗上野介からを助けたもらったことがあり旧恩を感じていました。

c0187004_10515006.jpg 小栗上野介と三野村利左衛門の生涯を描いた小説が集英社文庫の『日本大変 小説小栗上野介と三野村利左衛門」(高橋義夫著)です。

 三野村利左衛門は、死ぬまで昔使えた小栗上野介への恩を忘れなかったそうですが、この小説の後半には、小栗上野介の遺族を保護する三野村利左衛門の忠義がよく描かれていて、一読の価値があると思います。

 明治19年に道子夫人が亡くなると、遺児国子は大隈重信・綾子夫妻が保護して育てられました。

 大隈重信夫人綾子は小栗上野介の従妹で、幼い頃に小栗家で育てられていたことがあります。
c0187004_07554139.jpg 
その頃の恩返しだったのでしょう。
右写真は、早稲田大学キャンパス内の大隈庭園にある大隈綾子の銅像です。

 遺児国子は、大隈重信夫妻の配慮もあり、政治家・ジャーナリスト・小説家として活躍した矢野龍溪の実弟貞夫と結ばれることとなります。

 二人の間には又一が生まれ、小栗家は現在まで存続しています。

 小栗国子は、昭和4年に60歳でなくなりました。

 その一生について、高橋義夫は『日本大変』で次のように書いています。

 

 旧幕の名勘定奉行小栗上野介の悲劇の子として生まれ、数奇の運命をたどった国子の身の上は、同時代の心ある人々が案じ、いつも誰かしらが折に触れて救助の手をさしのべて来たのである。非命に斃れた父の忠順と、苦労を重ねた母道子夫人の分まで、人に愛された一生だった。

 その小栗国子、会津まで決死の脱出行をやり遂げ国子を生んだ道子夫人、さらに国子と結婚し小栗家の墓を建立した小栗貞夫は、現在は、静かに雑司ケ谷霊園に静かに眠っています。



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by wheatbaku | 2016-11-24 10:36 | Trackback
小栗上野介忠順(雑司ケ谷霊園に眠る有名人④)

雑司ケ谷霊園に眠る有名人の4回目は、小栗上野介忠順です。

小栗上野介忠順のお墓は、1-4B-5 にあります。

管理事務所の北側の一画です。

c0187004_09190200.jpg小栗上野介忠順の遺骨が埋葬されたお墓は、群馬県高崎市倉渕町権田の東禅寺にあります。(最下段写真が東禅寺の小栗上野介のお墓です。)

雑司ケ谷霊園にあるお墓は「小栗家累代之墓」とされています。
c0187004_09190691.jpg 台石に大正元年九月小栗貞夫建之刻まれています(実際は右から左に刻まれています。右写真参照)

小栗貞夫は、小栗上野介が斬首された後に生まれた一人娘国子の夫です、つまり小栗上野介の養子ということになります。

c0187004_09261319.jpg小栗上野介について、東禅寺住職の村上泰賢氏が書かれた『小栗上野介 忘れられた悲劇の幕臣』や『小栗忠順のすべて』などを参考に書いてみます。

小栗上野介は、父がなくなった29歳の時に跡目相続をした3年後の安政7年に目付となり

日米修好通商条約批准のため米艦ポーハタン号で渡米し、地球を一周して帰国しました。

その直後、外国奉行に就任した後、勘定奉行、町奉行など、旗本が勤めることのできる要職をほとんど経験し、幕府の財政再建や横須賀造船所の建設などの業績を上げています。

 

小栗上野介は、対薩長に対しては、一貫して強硬姿勢をとっていました。(右下写真は東禅寺にある小栗上野介の銅像)

c0187004_09191254.jpgそのため。鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗れた後、薩長への主戦論を唱えましたが、徳川慶喜は、恭順姿勢を崩さず、徹底抗戦を唱える小栗上野介は勘定奉行を罷免されます。

そのため、小栗上野介は、領地である上野国群馬郡権田村に引きこもります。

慶応4年閏4月、薩長軍の追討令に対して武装解除に応じ、自身の養子をその証人として差し出したが逮捕され、慶応4年閏46日、斬首されました。

幕府の要人だった人物が新政府軍に斬首されたという例はあまり多くないように思います。小栗上野介のほかには近藤勇が有名です。

 近藤勇は、坂本龍馬が新撰組に暗殺されたと思っていた土佐藩が強硬に斬首を主張したという説があり、当時としては、相応の斬首理由があったものと思われます。

 しかし、小栗上野介の斬首の理由は、しっかりした根拠はないと言われています。

c0187004_09191790.jpg 星亮一は、『小栗上野介』で「この理不尽な行為は、薩長最高幹部が背後で糸を引いたことは間違いなかった。誰が誰とは断定できないが闇の刺客の手で忠順は抹殺されたのである」と書いています。

 そのため、小栗上野介が斬首された権田村の川原に建立されている石碑には「罪なくして此処に斬らる」と刻まれています。

 (過去の記事 「小栗上野介終焉の地を訪ねる」 をご参照ください)

 小栗上野介の首は首実検のため高崎に送られ、遺体だけが東禅寺に運ばれ埋葬されました。

c0187004_09192585.jpg その後、首も権田村の村人たちの手で高崎のお寺から取り戻され東禅寺に埋葬されました。(右写真参照)

 小栗上野介の墓の隣には、小栗上野介の養子又一のお墓もあります。 

 小栗又一は、小栗上野介が斬首された翌日の閏47日に、出頭していた高崎藩で斬首されました。

小栗上野介が斬首された時、妻の小栗通子は、妊娠8カ月の身重でした。

小栗上野介から会津に逃げるよう指示されていた通子は、無事、会津へ逃げ延び、会津で一子を生みます。

その子が、国子です。成長した国子の夫が小栗家の墓を建立した小栗貞夫です。

小栗上野介の遺族の逃避行等については次回書きます。

 


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by wheatbaku | 2016-11-22 09:02 | 大江戸散歩 | Trackback
小泉八雲(雑司ケ谷霊園に眠る有名人③)

雑司ケ谷霊園に眠る有名人の3回目は小泉八雲です。

 小泉八雲は、岩瀬忠震のお墓からあまり遠くない1-1-8にあります。

 小泉八雲の生涯を『神々の国 ラフカディオ・ハーンの生涯』(工藤美代子著 集英社刊)を参考に紹介します。

c0187004_23173463.jpg 小泉八雲は、明治29年に帰化し小泉八雲となりました。それ以前はラフカディオ・ハーンといいます。

ラフカディオ・ハーンはアイルランド人の父とギリシャ人の母の子供としてギリシアのレフカダ島で生まれました。レフカダ島からラフカディオというミドルネームが付いたと言われています。

 アイルランドで幼年期を過ごし、19歳で渡米しアメリカでジャーナリストとして活躍しました。

明治23年来日し、来日後に松江中学(正しくは島根県尋常中学校)の教師の仕事を紹介してもらい、松江に赴任し英語教師として教鞭を執るようになりました。

c0187004_23182883.jpg その年の年末に小泉セツと結婚しました。

小泉セツは、ハーンの世話をしてくれる女性だったそうです。
 セツは18歳年下でした。
 セツのお墓は小泉八雲の向かって左隣にあります。(右上写真)

小泉八雲は、松江を大分気に入ったようです。

松江ではハーンではなくヘレンと呼ばれていたそうです。

二人の新居は「小泉八雲旧居」として松江市に残されているようです。

明治2411月に、八雲は松江を去り、熊本に移ります。冬の寒さが堪えがたいというのがその大きな理由だそうです。

1115日家を去る時には、自宅の前には約200名に生徒がかけつけたと「神々の国」(工藤美代子著)に書かれています。

熊本の第五高等学校にでは3年教鞭をとりました。

校長は、弘道館柔道の創始者として有名な嘉納治五郎でした。

ここで、「この学校の漢文の老先生で、みんなからひとしく尊敬されている人」と書いた元会津藩士秋月悌次郎と出会います。

この秋月悌次郎を評して小泉八雲が「神のような人」といった言葉は、秋月悌次郎を語る時は、必ず引用される有名な言葉です。

こうした出会いがあった熊本でしたが、八雲にとっては熊本は松江と比べて好ましい土地ではなかったようです。さらに同僚との確執もあって、第五高等学校を辞めて、神戸の英字新聞社に勤めました。

そして、明治2944歳の時に日本に帰化し小泉八雲と名のります。

 小泉はセツ夫人の家の苗字で、八雲は「八雲たつ 出雲八重垣妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」という日本最古の和歌といわれる素戔嗚尊の和歌からとったものです。

 『神々の国』(工藤美代子著)によれば、小泉八雲自信が、手紙の中で「八雲とは八つの雲という意味で、日本語の現存する和歌の中で最も古い歌の最初の部分から取り入れた名です」と書いているそうです。

神戸の出版社に勤務している時に、東京帝国大学の英文学の講師に迎えらました。

c0187004_23194913.jpg東京での新居は市谷富久町に構えました。
 ちょうど自証院というお寺の近くでした。

 自証院は、尾張藩主徳川光友が夫人の千代姫の母の自証院を供養するために建立したお寺です。自証院は、現在も残されていています。(右上写真)

 自証院と道路を挟んだ西側に成女学園があります。

c0187004_23201172.jpg その正門脇に小泉八雲旧居跡と刻まれた石碑と新宿区教育委員会の説明板が建てられています。(右写真) 

 小泉八雲をこの自証院の木立が生い茂る雰囲気をこよなく愛し、よく境内を散歩したそうです。

しかし、この自証院の住職がかわり、木立が切り払われていくと、八雲は雰囲気が壊されていくのに耐えかねて、西大久保に転居します。

西大久保の屋敷は、もとは板倉子爵の屋敷だったそうです。ここが終焉の地となります。

c0187004_23202507.jpgこの場所は、現在は、小泉八雲記念公園となっています。

小泉八雲記念公園は、平成5年につくられたもので、小泉八雲の縁で友好都市となっているギリシアのレフカダ町の助言を得たものでギリシア風の公園となっています。

公園内には、小泉八雲の銅像が設置されています。(右下写真)

c0187004_23312411.jpg 東京帝国大学では7年務めたあと、明治36年に東京帝大をやめています。

 東京帝大での待遇等が厳しくなりやる気がなくなったことが大きな理由のようです。

 八雲が辞める際には、学生たちから留任運動が起きたそうです。

 八雲のあと、講師となったのが夏目漱石です。

 浪人になった小泉八雲は明治37年早稲田大学に迎えられ教鞭をとり始めました。

しかし、その年、明治37926日狭心症でなくなりました。

最後の言葉は、日本語で「ああ、病気のために・・・」だったそうです。54歳でした。
 葬式は旧宅近くの市谷の自証院で仏式で行われました。
 そして、八雲が生前好んで散策した雑司ケ谷にある雑司ケ谷霊園に埋葬されました。

八雲は青山墓地はひどくにぎやかであまり好まず、雑司ケ谷のほうが「場所も淋しく形勝の地でもある」というので、決めたそうです。

 今年の江戸検の問題に次のような問題が出題されました。

【5】安政元年(1854)の安政南海地震の際、紀伊国広村の濱口梧陵は津波の襲来を察知して、村人を高台に避難誘導しました。このとき、梧陵が村人の注意をひくためにとった手段は、次のうちどれでしょう?

い)稲むらに火を放った  ろ)鉄砲を乱射した 

 は)寺の鐘を乱打した  に)花火を打ち上げた

 これは、正解は、もちろん い)です。

 この話は「いなむらの火」として大変有名です。

 この「いなむらの火」の元になった小説が『天下大変 江戸の災害と復興』に書かれている通り、小泉八雲の『Living God(生神)』です。

 この『Living God』は、『いなむらの火』というサイトによれば、小泉八雲が明治29年(18966月に起こった三陸大津波の三ヶ月後に書き上げ、明治30年(1897)に出版された『Gleanings in Buddha-Fields(仏の畑の落穂)』の冒頭の作品として発表されたものだそうです。



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by wheatbaku | 2016-11-19 23:10 | 大江戸散歩 | Trackback
岩瀬忠震(雑司ケ谷霊園に眠る有名人②)

雑司ヶ谷霊園に眠る有名人の2回目は岩瀬忠震です。

c0187004_10335859.jpg岩瀬忠震のお墓は、永井荷風の斜め向かい側にあります。
 雑司ヶ谷霊園の区画で言えば1種1号8側です。

岩瀬忠震の墓所入口には右写真のような「岩瀬肥後守墓道」と刻まれた案内石柱が建てられていますので、これが目印になります。

岩瀬忠震は、幕末好きの人ぐらいしか知らないだろうと思っていましたが、先日の雑司ヶ谷霊園散歩の際には、永井荷風より人気があり、予想外の人気ぶりに驚きました。

岩瀬忠震の墓所には、三つの墓碑があります。
c0187004_10340558.jpg 岩瀬忠震の墓と養父岩瀬忠正の墓、そして岩瀬家の墓です。

墓所正面にある「従五位下肥後守爽恢岩瀬府君之墓」と刻まれている墓碑が岩瀬忠震のお墓です。

この墓碑銘のうちの「爽恢」は、岩瀬忠震の諡(おくりな)です。

これは松岡氏によれば、永井尚志が付けたものだろうとのことです。

「府君」とは一般名詞のようで、辞書によれば、「1、亡祖父・亡父を敬っていう語。2、 尊者・長者を敬っていう語」だそうです。

岩瀬忠震については、中公新書の「岩瀬忠震」(松岡英夫著)が名著だと思います。

「岩瀬忠震」(松岡英夫著)を参考に、岩瀬忠震の生涯について書いていきます。

c0187004_10442242.jpg岩瀬忠震は、文政元年(1810)、旗本設楽貞丈の3男として生まれました。

母は林述斎(林大学頭)の娘で、おじに鳥居耀蔵、林復斎、従兄弟に堀利煕がいます。

天保11年(184023歳の時、岩瀬忠正の婿養子となり、岩瀬家(家禄800石)の家督を継ぎました。

天保14年(1843)昌平校大試験に乙科及第、嘉永2年(1849)部屋住のまま両番士,甲府徽典館学頭,昌平校教授を歴任し、嘉永6年、徒頭となり、翌年の安政元年122日、永井尚志,大久保忠寛らと前後して目付に登用されました。

ペリーの再来航が116日ですので、ペリー再来航後、阿部正弘が急遽若手秀才を登用した中の一人として登用されました。

 目付に登用され、海防掛、軍制改正用掛、蕃書翻訳用掛、外国貿易取調掛を兼務しました。

安政2年(1855)には、日露和親条約修正のためのロシアのプャーチンとの交渉に加わりました。

安政3年(18568月にアメリカからハリスが来日し、安政412月より下田奉行井上清直とともに全権に任ぜられて日米修好通商条約の草案の審議に当たりました。

草案合意後、条約勅許を得るために安政5年老中堀田正睦に従って上洛しましたが、朝廷から条約調印の承認を得られず江戸に帰りました。

4月に江戸帰着早々、井伊直弼が大老に就任しました。

井伊大老からの指示は、勅許を得るまで引き延ばしを交渉しろというものでしたが、即時調印すべきとの考えから「ハリスが引き伸ばし交渉に応じなかった場合には、調印してもよいか」と質した(実際に質したのは井上清直のようです)うえで、「その場合には調印しても致し方ない」との言質をとったうえで、ハリスとの交渉に臨みました。

ハリスは当然引き伸ばしに応じなかったため、安政4619日、井上清直と共に全権として条約に調印しました。

そして、その年7月、新設の外国奉行に就任、引き続き日蘭、日露、日英、日仏の各修好通商条約の交渉にあたり調印しました。まさに対外交渉の第一線で活躍したのでした。

c0187004_10341745.jpgしかし、岩瀬忠震は、将軍継嗣問題で一橋慶喜の擁立をめざす一橋派の中心人物として行動したため、大老井伊直弼に忌まれ、五か国条約調印直後の95日、井伊直弼により作事奉行に左遷され、翌安政68月作事奉行罷免・永蟄居に処せられ,江戸向島に隠棲し、文久元年716日なくなりました。44歳でした。

岩瀬忠震の死については、川崎柴山、栗本鋤雲は憂憤による死であると書いています。

東武スカイツリーライン東向島駅から徒歩10分の所に白鬚神社があります。東向島駅からですと有名な向島百花園の前を通っていきます。向島百花園は紅葉の盛りでした。(右上写真)

c0187004_10342658.jpg白髭神社は社伝によれば平安時代前期に創建された古い神社です。
 隅田川七福神の一つ寿老人が祀られていることで有名です。

その境内に「岩瀬鴎所君之墓碑」があります。(右下写真)

岩瀬忠震の用人であった白野夏雲が建立したもので、撰文は永井尚志が書いています。

c0187004_10343502.jpg墓碑と書かれていますが、撰文の後半には次のように書かれていますし、岩瀬忠震は小石川の蓮花寺に埋葬され、その後雑司ヶ谷霊園に改葬されていますので、墓碑ではなく顕彰碑といってよいと思います。

「文久元年七月、天、其の寿と奪い、病を以て卒す。享年四十有四。諡を爽 と曰い、白山蓮花寺先 の次に葬る。君、元設楽(しだら)氏。岩瀬忠正養いて嗣子と為し、其の長女を配す。後、津田氏を娶す。三男皆早卒。六女あり、其の三は人に適(とつ)ぐ」

この顕彰碑は、白鬚神社の宮司さんのお話では、「来歴がはっきりしないが、白鬚神社に建てられたものではなく、近くに岩瀬忠震が隠棲した岐雲園があるので、岐雲園もしくはその近くに建立され、のちに白鬚神社に移転されたのではないだろうかと考えています」ということでした。

「岩瀬忠震」(松岡英夫著)を読んで知ったことがいろいろありました。

岩瀬忠震の業績として、日米修好通商条約の締結、そして一橋慶喜の擁立を図ったことはよく知られていることですが、その他、次のようなことがあるそうです。

 ①品川台場の築造に参加

 ②軍艦製造

 ③講武所・蕃書調所・長崎海軍伝習所の設立

 ④香港渡航を企画

 ⑤日米通商条約の批准をワシントンで行うと提案したこと。

こうしてみてみると、幕末に徳川幕府が行った政策のほとんどに参画していることがわかります。

その中で、特に驚くことは、自ら海外に渡航しようとしていることです。

ワシントンでの日米通商条約の批准には、正使新見正興、副使村垣範正、目付小栗忠順が派遣されていますが、岩瀬忠震自身が渡米するつもりだったようです。

しかし、左遷・免職となったため、派遣するメンバーが変わり、上記メンバーとなったそうです。

岩瀬忠震が活躍したのは、目付に登用された安政元年から、作事奉行に左遷される安政6年までの丸5年間だけです。
 しかし、その業績は目を見張るものがあります。

まさに岩瀬忠震は「幕末を駆け抜けた秀逸」といってよいのではないでしょうか。



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by wheatbaku | 2016-11-17 10:21 | 大江戸散歩 | Trackback
永井荷風(雑司ケ谷霊園に眠る有名人①)

 今日から雑司ヶ谷霊園でご案内した有名人を紹介していきます。

 まず、霊園では、目指す人がどこに眠っているのか探すのが大変ですが、雑司ヶ谷霊園では管理事務所に、霊園案内図がありますので、それを入手してからお参りすると良いと思います。 


 今日は、永井荷風のご紹介をします。

c0187004_10483656.jpg 永井荷風は、1-1-7に南面して眠っています。

 永井荷風は、明治から昭和を生きた小説家で、明治12年12月3日に永井久一郎の長男として生まれました。

 成人して、アメリカで過ごし銀行勤めをしていたこともあります。
 その後、フランスを経由し帰国しました。

 この経験から、「あめりか物語」「ふらんす物語」を書いています。


 明治43年、31歳の時に、慶応大学の教授に就任し、「三田文学」を創刊しています。

 その後は、慶応大学で教鞭をとりながら、小説を書いていきます。

 しかし、大正5年には、慶応大学を辞職します。
 そして、新宿区余丁町の自宅の6畳間を断腸亭と名付けます。 胃が弱いことと庭に植えた秋海棠の別名断腸花からつけた名前です。ここから「断腸亭日乗」という作品が生まれます。


 永井荷風は、散歩と江戸を愛しました。荒川放水路辺りを散歩しているときに見つけたのが玉の井です。東武線「東向島駅」は昭和62年まで「玉の井」という駅名でした。

このあたりに私娼街があり、そこにしばしば足を運びました。
 そこでの経験をもとに書いた小説が、昭和12年、朝日新聞に連載されました。これが『濹東綺譚』です。

東京大空襲で自宅を焼失した後、各地を転居したのち、千葉県市川市に住みます。

当初は仮住まいでしたが、結局、市川市が終焉の地となり、昭和34年に自宅で亡くなりました。79歳でした。

この間、昭和27年には、文化勲章を受章しています。


 永井荷風が訪れた寺に三ノ輪の浄閑寺があります。

c0187004_10483017.jpg 浄閑寺は、吉原で亡くなった遊女が投げ込まれるように埋葬されたことから、投込み寺とも呼ばれています。

 そうした境遇で亡くなった多くの遊女たちを慰霊するため本堂裏手に「新吉原総霊塔」が建立されています。(右が新吉原総霊塔)

 この浄閑寺を何度も訪ねていた永井荷風は、死んだら浄閑寺に埋葬して欲しいと願っていました。

 本当かしらと思うかもしれませんが、荷風の『断腸亭日乗』昭和12年6月22日に次のように記載されています。


「今日の朝30年ぶりにて浄閑寺を訪いし時ほど心嬉しき事はなかりき。近鄰のさまは変りたれど寺の門と堂宇との震災に焼けざりしはかさねがさね嬉しきかぎりなり。余死するの時、後人もし余が墓など建てむと思わば、この浄閑寺の塋域(えいき)娼妓の墓乱れ倒れたる間を選びて一片の石を建てよ。石の高さ五尺を超ゆるべからず、名は荷風散人墓の五字を以て足れりとすべし」


c0187004_10484163.jpg しかし、永井荷風の願いは叶うことができず、浄閑寺ではなく、雑司ヶ谷霊園の父の長井久一郎の墓の隣に埋葬されました。

 父久一郎は 「禾原(かげん)」と号していたため、墓碑名は「禾原先生」となっています。
 ただし、現在の墓碑は号が読み取れない状態になっています。

 右上写真は、父の墓碑とならぶ永井荷風の墓碑

 なお、荷風は本名壮吉といいますが、墓碑の裏面には本名が書かれています。


 浄閑寺に眠りたいという荷風の願いは叶えられませんでした。
c0187004_10484923.jpg しかし、その願いに応えようと荷風没後4周年の昭和38年、谷崎潤一郎たち永井荷風を慕う後輩たちの手によって、「新吉原総霊塔」の向かい側に、「われは明治の兒ならずや」の一句を含む詩碑が造られました。
(右写真)
 さらにその奥に小さな花畳型の筆塚が建てられました。(右下写真)
 墓はありませんが、荷風の願いは叶ったことになるでしょう。


 永井荷風の文学碑は横幅が大きな石碑です。そこには次のように刻まれています。

今の世のわかき人々

われにな問ひそ今の世と

また来る時代の藝術を。

われは明治の兒ならずや。

その文化歴史となりて葬られし時

わが青春の夢もまた消えにけり。

 (以下略)


また、文学碑の最後には次のように刻まれています。

c0187004_10485312.jpg 明治・大正・昭和三代にわたり詩人・小説家・文明批評家として荷風永井壮吉が日本藝林に遺した業績は故人歿後益々光を加へその高風亦ようやく弘く世人の仰ぐところとなった 谷崎潤一郎を初めとする吾等後輩42人故人追慕の情に堪へず故人が生前「娼妓の墓亂れ倒れ」(故人の昭和12年〔1937622日の日記中の言葉)てゐるのを悦んで屢く杖を曳いたこの境内を選び故人ゆかりの品を埋めて荷風碑を建てた

 荷風死去4周年の命日  昭和38年(1963430 荷風碑建立委員会


c0187004_10485837.jpg 永井荷風が通った店として有名な店に浅草の「アリゾナキッチン」があります。

 以前、お店を訪ねたことがありますので、その際の写真を掲載しておきます。

 もう数年も前のことなので、現在は違っているかもしれませんが・・
【インターネットで検索していましたら2016年10月3日にアリゾナキッチン閉店という記事がありました。訪ねてみようと思われる方は、現在も営業しているかどうか、訪問前に確認されたほうが良いと思います。2016年11月17日追記】


c0187004_10490364.jpg アリゾナキッチンの創業は昭和24年でした。
 永井荷風はその年の7月12日に初めて訪ね、以後永井荷風は、しばしば市川市の自宅から通い、肉料理二品とビールを注文したそうです。

店内には、ある日の永井荷風の写真が飾られていました。






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by wheatbaku | 2016-11-15 10:43 | 大江戸散歩 | Trackback
雑司ヶ谷霊園・護国寺散歩に行ってきました

 土曜日には、毎日文化センターの「山手線一周~駅から気ままに江戸散歩」で、雑司ヶ谷霊園と護国寺を案内してきました。

 「山手線一周」と詠っているので大塚駅周辺の江戸散歩をしたかったのですが、大塚駅周辺には江戸の史跡がほとんどないため、都電荒川線にのって雑司ヶ谷霊園と護国寺での史跡散歩ということにしました。

 雑司ヶ谷霊園も護国寺(右下写真は護国寺本堂)も、有名な人が大勢眠っていますので、その中でも超有名な人たちのお墓をご案内してきました。

c0187004_21085532.jpg ご案内した有名人は次の人々です。

 雑司ヶ谷霊園では、永井荷風・岩瀬忠震・小泉八雲・東条英機・ 小栗上野介・千葉定吉・小川笙船・夏目漱石・ジョン万次郎

 護国寺では、大隈重信・松平不昧・三条実美・大倉喜八郎・山県有朋・安田善次郎

 その有名人のお墓のほかに、雑司ヶ谷旧宣教師館と護国寺のご案内もさせてもらいました。

 昨日は、絶好のお散歩日和で、雑司ヶ谷霊園も護国寺も、公園を散歩しているような気持ちで散歩できました。

 ご参加いただいた皆さんお疲れ様でした。

c0187004_20495288.jpg ご案内の詳細は、次回からアップしていきますが、いくつかご案内の様子を紹介します。

 小泉八雲は、旧名はラフカディオ=ハーンで、明治23年来日、松江中学の英語教師となり、その後、五高,東京帝大や東京専門学校(現早大)で教えました。

松江時代に結婚した奥さんの姓と出雲に縁のある「八雲」から、小泉八雲と名のりました。


c0187004_20522518.jpg 夏目漱石は、今年、没後100年になり、先月はNHKで「漱石の妻」が放映されました。また、豊島区でも夏目漱石関連のイベントも最近おこなれたりして注目されている漱石のお墓は大きなお墓で、イスの形をしています。



c0187004_20511577.jpg 護国寺では、三条実美、山縣有朋、大隈重信など、明治政府で活躍した人々が眠っています。その中で、大隈重信は本堂の右手に大きな敷地を占めています。

 墓所の前面には大きな鳥居があります。



 



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by wheatbaku | 2016-11-13 20:02 | 大江戸散歩 | Trackback
江戸検の応援に行ってきました!

 
 c0187004_21220016.jpg本日11月3日は、江戸検の試験日でした。

 江戸検は江戸楽アカデミーの講座を受講していただいた皆さんが受検されるので、試験会場の明治大学に応援に行ってきました。

c0187004_21211343.jpg 10時50分から説明開始でしたが、御茶ノ水に早めに行って、神田明神に合格祈願をしてから会場に行きました。

 神田明神は、少し早い時間だったので、参拝客があまり多くなく、ゆっくり合格祈願ができました。

 受検者の奮闘を応援しているような青空が印象的でした。

c0187004_21213000.jpg 明治大学では、事前に作成しておいた横断幕を掲げて応援をしてきました。

 これには、昨年、合格した人たちにも協力いただきました。

 会場入口で応援させてもらいましたので、多くの人から声をかけていただきました。

 「応援で元気をもらいました」というお礼の言葉もありうれしく思いました。

 江戸検終了後の皆さんからは、「今年のお題は、超難問はあまりなくてよかった」とか、「過去問がかなり出題されて助かった」といった感想が聞かれました。

 試験結果は、悲喜こもごもですが、「自己採点してみたら合格ラインの80点を超えました」という連絡が複数の人たちからありましたので、今年も知り合いから合格者が出そうです。

 応援に行った甲斐があったと喜んでいます。

 この間、江戸検の勉強に奮闘されていた受検者の皆さん、本当にお疲れ様でした。

 しばらくはゆっくりお休みください。



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by wheatbaku | 2016-11-03 21:29 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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