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中津藩奥平家墓所(東海寺に眠る人々⑦)

 今日は、清光院にある奥平家墓所をご案内します。

c0187004_18220758.jpg 清光院は、目黒川を挟んで、東海寺の南側にあります。

清光院も江戸時代には東海寺の塔頭でした。

 江戸時代の初期には本坊の東側にありましたが、後に現在地に移転しました。

 明治になって独立しました。

c0187004_18221353.jpg 奥平家墓所は、清光院の墓域の最奥部にあります。

 奥平家墓所には、中津藩奥平家の初代から明治以降までの歴代当主のお墓がそろっていて、これだけの大名墓がそろっているのは東京では珍しいです。

 品川区の史跡に指定されていますが当然のことと思います。

 

奥平家は、徳川譜代の名門大名です。

中津藩奥平家の初代は奥平家昌は、奥平信昌の長男として生まれました。

父奥平信昌は、天下無敵の武田の騎馬軍団を織田信長が鉄炮で打破った長篠の戦いで武功をあげて奥平家隆盛の基礎を築きました。

 長篠の戦いは武田勝頼が三河に攻め入って、長篠城を包囲している中で起きた戦いです。

 武田勝頼は1万5千の軍勢で500人が守る長篠城を攻めました。

長篠城は、孤立した中で徳川家康に助けを求め、この要請に応じて織田信長と徳川家康の連合軍が救出に向かい、3千の鉄炮で武田騎馬軍団を打ち破りました。

 この時に長篠城を死守したのが奥平貞昌でした。

 この功績から織田信長から信の一字を拝領し奥平信昌と名のるようになり、徳川家康の長女亀姫が正室として娶りました。

c0187004_18222133.jpg 中津藩奥平家は、この奥平信昌の子供家昌から始まる家柄であるため、譜代名門と言われました。


 その家昌のお墓は最前列の東側にあり大きなお墓でなのでよ目立ちます。

奥平家昌は、信昌と徳川家康の長女亀姫(加納御前)との間に生まれた長男です。

元服の時、家康から偏諱を受けて家昌と名乗りました。

長じて、父の奥平信昌とは別家をたて、宇都宮藩10万石を賜りました。

奥平家昌の戒名は『六通院殿天眼道高大禅定門』です。

奥平家の墓所には数多くの墓碑がありますが、そのうち奥平昌鹿(まさか)と奥平昌高を紹介します。

c0187004_18222645.jpg奥平家が中津に入ったのは江戸時代中期の享保年間(享保2年)でした。それ以降から幕末まで、九州の中津藩の藩主でした。

この中津藩出身の有名人の一人に前野良沢がいます。

前野良沢は、「解体新書」を出版したことで有名です。

歴史の教科書では、「解体新書」は杉田玄白が出版したとなっていますが、杉田玄白は、オランダ語がよくわからず、実際に翻訳したのは前野良沢だと言われています。

この前野良沢保護し支援したのが、中津藩3代藩主奥平昌鹿(まさか)です。

c0187004_18290628.jpg前野良沢は、中津藩の藩医でしたが、蘭学に興味をもち、蘭学を学び始めます。

良沢が長崎遊学を願い出ると昌鹿は快く許可しました。

また、良沢が「ブラクテーキ」という高価な医書を入手したいが貧乏であるため入手できないでいると、昌鹿は、それを購入して下賜しました。

また、前野良沢は、「蘭化」という号を持っています。これは「オランダ語の化けけ物」という意味ですが、これをつけたのも、昌鹿が良沢を「オランダ語の化け物」と言っていたことによるものです。

これらのエピソードは、吉村昭著「冬の鷹」にも描かれています。

3代藩主の昌鹿を上回るほど、オランダに傾倒した藩主が5代藩主の奥平昌高です。

c0187004_18223059.jpg「蘭癖大名」の一人として知られています。

奥平昌高は薩摩藩主の島津重豪の次男として薩摩藩江戸藩邸で生まれました。

島津重豪は大変な蘭学好きでした。

実父も蘭学好き、養家先も蘭学好きですので、昌高も蘭学に非常に興味をもちました。

中津藩江戸中屋敷に総ガラス張りの「オランダ屋敷」と呼ばれる建物を造り、そこに出島に舶来したオランダ製品を陳列したりしたといいます。

また、オランダ語を勉強し、オランダ商館長と親交を結ぶようになり、商館長ヘンドリック・ズーフからフレデリック・ヘンドリックというオランダ名までもらっています。

また、オランダ商館付医師シーボルトとの交流は深くて、シーボルトの「江戸参府紀行」に出てくる人物で最も多いのは、奥平昌高の名前だそうです。


今日で2016年のブログの投稿納めとさせていただきます。
この一年、ブログを愛読頂きありがとうございました。良いお年をお迎えください。

 


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by wheatbaku | 2016-12-30 18:12 | 大江戸散歩 | Trackback
堀田正盛(東海寺に眠る人々⑥)

今日は堀田正盛たちが眠る東海寺について書いていきます。

東海寺は、寛永15年に将軍家光が沢庵のために建立した寺ですが、明治になってからは衰退してしまい、現在は江戸時代に数多くあった塔頭の一つであった玄性院が、東海寺の名前を継いでいます。

その東海寺には、堀田正盛など堀田家の墓や丹波篠山藩青山家の墓があります。

 まず、東海寺の歴史について書いていきます。

c0187004_10062221.jpg 東海寺は、臨済宗に属し京都大徳寺の末として朱印寺領500石を拝領し、歴代の将軍や諸大名の帰依をうけていました。

お寺の広さは4万8千坪もあったといい広大なお寺でした。.

東海寺は、寛永15年(1638)に、3代将軍徳川家光が、沢庵和尚のために建立したものです。

 家光が、品川は景色もよいし、自分もときどき鷹狩に行く場所であるから、品川で良い場所を選んで住まいを建てるように沢庵にすすめたのだそうです。

 家光は、事前に沢庵と供に品川に下見に来ているそうです。

寛永14年、家光は、長徳寺ほか三力寺の境内地全部と、北品川稲荷社(現在の品川神社)の境内の一部を収公し、その跡地約4万8千坪を沢庵に下げ渡しました。

 翌年寛永15年に東海寺が完成しました。

東海寺は、はじめは寺というより、山門も本堂もない普通の屋敷風に造られていたため、沢庵屋敷とも呼ばれたそうです。

c0187004_10065049.jpg 東海寺が創建されてまもなくは広大な境内は空地のままになっていましたが、東海寺創建の翌年の寛永16年に境内の一郭に、時の老中堀田正盛が塔頭臨川院を建立しました。

臨川院はのち玄性院と改称しました。(これが現在の東海寺です。)

この後沢庵に帰依している大名らによって、境内に塔頭が次々と建立されました。

塔頭というのは、末寺の中の一つの形態ですが、一般の末寺とは異なり、大寺の山内に本寺を中心として、これに密接して建立されている寺院のことをいいます。

 束海寺の塔頭の数は.最盛期には17ヵ院ありました。

 この塔頭も、現在は春雨庵(現在は春雨寺)、清光院、髙源院(現在は世田谷区烏山に移転)、そして玄性院(現在の東海寺)の四つが残るだけとなりました。

創建当時は東海寺には本堂も山門も有りませんでした。

c0187004_10064526.jpg山門や本堂が建立されたのは、東海寺が元禄7年に火災で焼失した後のことでした。

 東海寺には、沢庵の死んだ後、大覚寺から紫衣以上の高僧が一年ずつ東海寺に輪番とし派遣され、大徳寺派の関東触頭として関東の大徳寺派寺院を管掌しました。

 しかし、明治維新になって東海寺が品川県の県庁に指定されたことや将軍や諸大名の庇護を失って衰退したことによって、境内の建物は次々に壊され、広大な敷地は他の用地に変わっていきました。

東海道線は昔の東海寺の境内を通過したいますし、山手通りも昔の東海寺の境内を通っています。

本堂があった場所は、現在は品川区立の小中一貫校の品川学園となっています。

現在の東海寺は、もとの塔頭玄性院が引き継いだものです。

玄性院は、寛永16年に老中堀田正盛が建立したものです。

 そのため、ここには堀田正盛のお墓がありますので、堀田正盛について書いていきます。

c0187004_10065870.jpg 堀田正盛は、家光が寵愛・信頼した老中です。

堀田正盛は、旗本堀田正吉の長子と生まれました。

堀田正吉堀田正盛は春日局の義理の孫にあたります。

 そのため、13歳の時に家光の近習として取り立てられ可愛がられました。

33歳の時に老中格となり、若くして松平信綱などとともに家光を支え、川越藩主、松本藩主、佐倉藩の藩主を歴任しました。

そして、家光がなくなった慶安4年4月20日に殉死しました。
 享年44歳の若さでした。

 堀田正盛の出世は継祖母が春日局であったことを考慮に入れても異常な早さで、家光と正盛は男色関係にあったという説が有力です。

そのために殉死したと言われています。

正盛の遺体は、家光が亡くなった時に殉死した阿部重次たちと共に寛永寺の現龍院に葬られています。そのため、東海寺にあるお墓は供養墓のようです。
お墓正面には「臨川院殿前拾遣賀州大守心穏宗卜大居士」と刻まれています。
 塔頭の最初の名前「臨川院」は、堀田正盛の戒名からとった名前なんですね。

堀田正盛のお墓の隣の区画に近江宮川藩9代藩主の堀田正養(まさやす)戒名本光院のお墓があります。

c0187004_10070340.jpg堀田正盛の後を継いだのは、長子の堀田正信です。

堀田正信は、老中松平信綱ら幕閣を批判する上申書を提出し、無断で帰国してしまいました。

このため、幕府は、堀田正信が狂ったとして、佐倉藩堀田家を改易とし、正信は飯田藩へお預けとしました。

その後、正信の子供正休の代に、堀田家は吉井藩主とし手再興された後近江宮川藩に移封され、明治維新を迎えました。堀田正養は近江宮川藩の最後の藩主です。
 墓碑正面には「本光院殿瑞嶽宗峻大居士」と刻まれています。

 堀田家というと佐倉藩堀田家が有名です。

 幕末の老中堀田正睦が有名です。

 この堀田家は、堀田正盛の次男堀田正俊から始まる家柄です。
 堀田宗家はあくまでも近江宮川藩藩主であった堀田家です。

堀田家の北側には、丹波篠山藩の青山家の墓地があります。

c0187004_10070833.jpg青山家の墓地は、青山家の墓」と刻まれた墓碑を中心に整備されていますが、右奥に4代藩主の忠裕の墓碑が独立しています。

青山忠裕は文化元年(1804)に37歳の若さで老中となっています。

 その後、老中を30年以上勤め、相馬大作事件の裁判や、桑名藩・忍藩・白河藩の三方領知替えなどを処理しています。



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by wheatbaku | 2016-12-28 09:44 | 大江戸散歩 | Trackback
江戸検、合格祝賀会、開催!

昨日、江戸検1級合格をお祝いする獏塾の合格祝賀会が開催されました。

今年の江戸検では、獏塾から10名の塾生が1級に合格しました。

この人たちをお祝いしようと、40名近くの塾生が集まってくれましたが、喜びのあふれる盛大な会になりました。

この祝賀会には、江戸文化歴史検定協会の宇南山理事さんが来賓としてご出席いただきました。

c0187004_07560916.jpg宇南山さんからは、江戸検が12回目を迎え干支が一回りすることになるというお話のほか、仲間と一緒に学ぶことは素晴らしいことなのでこれけからも応援し合って江戸検を受検してほしいというお話がありました。
 宇南山理事さんお忙しいところご臨席いただきありがとうございました。

その後、昨年合格者の本郷の主殿さんの発声で乾杯し、しばらく歓談した後、合格者の喜びの声を聞かせてもらいました。

合格者の皆さんは、江戸検との関わり合い、江戸検合格の秘訣など、話してもらいましたが、喜びがあふれる内容でした。

 聞いている人たちも大変参考になるという顔つきで聞いているのが印象的でした。

 合格の秘訣は、人それぞれですが、博覧強記を20回読んだ人や毎日10時間~11時間勉強した人や飲みたい酒を我慢した例などが話されました。

 やっぱり、相当の努力をしていますね。

 下写真は合格者の皆さんですが、うれしそうな顔をしていますよね。

 合格者の皆さん、おめでとうございます。

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 祝賀会は、合格者をお祝いする会ですので、合格者が喜んでいるのは当然だと思いますが、合格者だけでなく、今年苦杯を飲んだ人たちも、一緒に喜んでくれました。

 さらに、それだけでなく、やっぱりもっと頑張ろうという気持ちにほとんどの人がなってくれたようです。

 帰りがけに、「もう年初からがんばります」「みんなから元気をもらいましたので、これからも頑張ります」「本気になろうと思いました」といった心強い言葉が多く聞かれました。

大変うれしいことです。

獏塾の皆さん、来年もぜひ頑張ってください。

最後は、参加者全員で記念撮影をしました。

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by wheatbaku | 2016-12-26 07:53 | Trackback
賀茂真淵(東海寺に眠る人々⑤)

 東海寺に眠る人々の5回目は賀茂真淵です。


c0187004_08590679.jpg 賀茂真淵のお墓は、沢庵の東側にあります。

 東を向いた鳥居が建てられていますので、容易に見つけられます。

 

 賀茂真淵は、国学の大家です。

 国学というのは、中国の書物を研究する漢学に対して、古事記・日本書紀・万葉集などの日本の古典を研究する学問です。

c0187004_08591373.jpg 江戸時代の初期の契沖を祖とし,荷田春満 (かだのあずままろ) ,賀茂真淵を経て本居宣長によって完成され、平田篤胤が発展させました。

 これらの人々のうち、荷田春満・賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤を四大人(しうし)と言います。

 賀茂真淵はこのように国学の大家であるため、お墓は神式のお墓になっています。

c0187004_08591939.jpg 賀茂真淵は、元禄10年遠江国敷智(ふち)郡浜松庄伊場村(今の浜松市中区東伊場)に生まれました。

生家は賀茂神社の神職岡部家の分家で,岡部家は京の賀茂神社の摂社の神職を始祖とするとされています。

賀茂真淵は従兄の岡部政長の養子となりますが、妻と死別したため実家にもどり,享保10年浜松の脇本陣梅谷家の養子になりました。


享保18年に京都に上り荷田春満を先生として国学を学びました。

しかし、師匠の春満が死去したため、一旦浜松へ戻った後、江戸に出て、国学の研究と弟子の育成に専念しました。

真淵は、特に『万葉集』の研究に力をそそぎ、その研究は、『万葉解』『万葉考』にまとめられています。

 その他に真淵は、『語意考』『歌意考』『国意考』『文意考』『書意考』のいわゆる『五意考』などがあります。


賀茂真淵が教えた弟子は300人を超えると言われています。

有名な門人として、8代将軍徳川吉宗の次男で御三卿の一人田安宗武や楫取魚彦、加藤千蔭、村田春海らがいます。

そのほか、塙保己一、平賀源内なども賀茂真淵に教えを乞うています。

弟子の中で特に有名なのが本居宣長です。

本居宣長が、宝暦13年、伊勢神宮の旅の途中伊勢松阪の旅籠に宿泊していた真淵を訪れ、生涯一度限りの教えを受けた話は、「松阪の一夜(ひとよ)」」として大変有名です。

第二次世界大戦終結までは、小学校の国語教科書に載っていて、戦前の人々には有名な話でした。


 賀茂真淵、明和6年(1769)73歳でなくなりました。
 






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by wheatbaku | 2016-12-24 08:52 | 大江戸散歩 | Trackback
江戸検、結果発表

 昨日、江戸検協会のホームページに今年の江戸検の結果が公表されました。

 今回は、江戸検1級に21人の方が合格されたようです。

合格された皆様 おめでとうございます。

c0187004_14043178.jpg 私が主宰している「獏塾」でも今年大勢の人が1級を受検しました。

 受検者の皆さんは、絶対合格するという意気込みで頑張っていましたので,江戸検当日は、昨年の合格者と一緒に明治大学の試験会場に応援に行きました。(右写真)

 その甲斐もあったのか、昨日から続々と1級合格しましたという連絡が入っていきました。 

 大変おめでたいことで、お祝い申し上げるとともにこの間の皆さんの努力に対して敬意を表します。

昨日時点で7人から合格の連絡がありました。

まだ、有望な見込みのある方がいますので、獏塾では10人くらいの合格者になるのではないかと大いに期待しています。

今週日曜日は、祝賀会を予定していますので、大いに盛り上がるだろうと思って、今から楽しみにしています。

合格された皆さん、本当におめでとうございます。



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by wheatbaku | 2016-12-22 14:08 | Trackback
渋川春海(東海寺に眠る人々④)

今日は、大山墓地に眠る渋川春海について書きます。

大山墓地内の沢庵のお墓からあまり離れていない線路に近いところに渋川春海のお墓があります。

c0187004_09593865.jpg(右写真の左から2番目の墓碑が渋川春海の墓ですが、後ろ側に東海道新幹線の線路が写っています)

渋川春海は、江戸時代における天文学上の大人物ですが、意外と質素なお墓です。 戒名は「大虚院透雲紹徹居士」と彫られています。

渋川春海は、日本人の手により作られた最初の暦「貞享暦」を作りました。

また、「八十八夜」や「二百十夜」を定めたことも有名です。

 しかし、渋川春海の伝記を探しましたが、渋川春海の伝記はありませんでした。
c0187004_10070856.jpg その中で新潮選書『江戸の天才数学者』(鳴海風著)の中で、吉田光由や関孝和らとともに書いてあります。

また、2011年の本屋大賞を受賞した「天地明察」は、渋川春海が主人公の小説です。

この小説は、映画化され、岡田准一が渋川春海を演じていました。

この「天地明察」はもちろん時代小説ですが、渋川春海の生涯もわかります。

伝記がない中で、作者の冲方丁が渋川春海の生涯をよく書いたと感心しました。

『江戸の天才数学者』や『天地明察』も参考にして渋川春海の生涯について書いてみます。

渋川春海は、もともとは、囲碁棋士で、安井算哲と名のっていました。

そうした環境下ですが、渋川春海は暦に興味を持ちました。

当時の日本では、中国製の暦「宣明暦」を使用していました。

宣明暦は、800年以上も使われたため間違いが生じていました。

何が違っているかというと、日食とか月食が起こる日が違っていました。

c0187004_10060613.jpg当時は、旧暦でしたので、日食は新月の時つまり一日に起き、月食か満月つまり15日に起きるはずでしたが、その日食や月食がずれて起きたわけです。

これは暦学者や朝廷にとって大問題でした。

渋川春海は、中国の経度と日本の経度が違っているため、中国では正しい授時暦が日本では間違えを起すことに気がついたのです。

さらに『天地明察』には、渋川春海は、太陽・地球・月の軌道が正円ではなく楕円形であることにも気がついたと書いてあります。

 こうした研究を積み重ねて、渋川春海は、中国の元の暦であった授時暦を基にした上で、さらに改訂し日本にあった暦をつくりました。

c0187004_10031082.jpgこの暦を渋川春海は大和暦と呼んでいました。

渋川春海が作った暦への改暦が宣下されたのが貞享元年(1684)1029日で、実際に使用され始めたのが貞享2年であるため、その時の年号をとって貞享暦と呼ばれました。


この貞享改暦により、平安時代の貞観4年(862)から800年以上にわたって使用されてきた宣明暦は廃止となりました。

この改暦の功により、幕府は渋川春海を天文方に任命しました。

その後、天文方は渋川春海の子孫が継いでいきました。
 こうした渋川家を継いで、いわゆる旧暦と呼ばれる太陰太陽暦の最高傑作と呼ばれる天保暦を作ったのが、渋川景佑(かげすけ)です。
 この渋川景佑は高橋至時の次男として生まれ、渋川家に養子に入り渋川家を継いだのでした。高橋至時は、有名な伊能忠敬の先生です。


渋川春海は、もとは囲碁士で、安井算哲といっていました。

囲碁の家元には四家(囲碁家元:本因坊家、井上家、安井家、林家の四家)あり、安井家はその一つでした。

渋川春海は、初代安井算哲の長男として生まれましたが、彼が生まれる前に父は養子をもらっていて、その名を算知といいました。安井算知は実力抜群でした。

そのため、安井算哲が義兄算知をたてるときには保井を名のり、囲碁の仕事でない場合つまり暦に関係する仕事の場合には、渋川という姓を使用しました。
 安井から保井には延宝5年(1677)に改めて、さらに、
元禄15年(1702)64歳の時に渋川に改姓しました。

渋川という姓は、安井家の先祖が河内国渋川郡を領していたことに由来するそうです。
 また、春海という名前は
  雁鳴きて 菊の花咲く 秋あれど 春の海べに すみよしの浜 
 という歌からとったものだそうです。


 なお、「天地明察」には、和算家の関孝和が重要人物として登場します。

江戸時代初期の和算家は、確かに改暦問題に関心をもったようで、関孝和の著書にも『授時発明』など改暦に関するものがあるようです。

しかし、和算家の興味はあくまでも数学のほうに興味をもっていたと『江戸の天才数学者」に書いてあります。



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by wheatbaku | 2016-12-21 09:55 | 大江戸散歩 | Trackback
沢庵②(東海寺に眠る人々③)

今日は、沢庵に関連する事項として紫衣事件と沢庵漬けについて書いてみます。

紫衣事件については高校の日本史の教科書にも出てくる有名な事項です。

しかし、事件の全貌についてわかりやすく書いたものが私がみた限りでは少ないように思います。
 そうした中で、『国史大辞典』の説明がわかりやすいように思いますので、『国史大辞典』の説明をもとに書いていこうと思います。

紫衣は紫色の法衣や袈裟(けさ)をいい、もともと宗派を問わず高徳の僧が朝廷から賜ったものです。

c0187004_21125940.jpg寛永4年(1627)7月、幕府は禅僧で元和元年(1615)以後に紫衣勅許を受けた者に対し、これを取り消すなど、五ヵ条からなる禁令を出しました。

これより以前、慶長18年(1613)には特に大徳寺・妙心寺・知恩寺・知恩院・浄華院・泉涌寺・粟生光明寺・金戒寺の住持職について『勅許紫衣法度』を出し、勅許以前に幕府に申し出ることを定めました。
 ついで元和元年の『禁中井公家諸法度』と『諸宗本山本寺諸法度』が出され、朝廷の勅許は慎重に行わるべきことを規定しました。

しかし実際にはこの後も幕府に告知することなく勅許される者が続いたので、寛永4年7月、土井利勝・板倉重宗・金地院崇伝が会して五ヵ条の制禁を出しました。

 これは、元和元年以降の五山十刹に出世入院した者の綸旨を無効とし、浄土宗の上人号も取り消しということが主な内容になります。

この禁令により大きな影響を蒙ったのは、大徳寺と妙心寺でした。

大徳寺では、硬軟両派に分れ争い、硬派は北派と呼ばれ、軟派が南派と呼ばれました。

両寺でははじめ強硬論つまり大徳寺では北派が優勢で、翌年の寛永5年春、大徳寺で北派に属する沢庵宗彭・玉室宗珀・江月宗玩は、連名で抗議書を所司代に提出しました。

この起草は沢庵が行ない、辞句の激しい抗議文でした。

この抗議書を読んだ幕府も妥協策を考え、既成の事実をある程度まで認める代りに、詫状を提出させることとしました。

妙心寺では、幕府の命令に従い、七名が連署で詫状を出しました。

大徳寺も南派=軟派が屈服して連署の詫状を提出して大勢は幕府の意向に従いました。
 しかし沢庵たちは屈服せずなお抗議したので、幕府は沢庵らを江戸に呼んで詰問することにしました。沢庵らは寛永6年江戸に下りました。

幕府では崇伝が厳罰を、天海が軽い処罰を主張しましたが、大徳寺と妙心寺の4名が配流となりました。

妙心寺束源慧等は陸奥津軽、同単伝は出羽由利、大徳寺沢庵は出羽上山土岐氏に、同王室は陸奥棚倉内藤氏に預け置かれ、江月は許されました。

これが紫衣事件です。

紫衣事件はこの4名の流罪だけで終わったわけではありません。

紫衣事件により、朝廷では、後水尾天皇が6月に譲位の内意を近臣に伝え、11月に明正天皇に譲位してしまい、江戸時代初期の朝幕対立の最大事件とされています。

『国史大辞典』には、
 紫衣事件は、朝廷の寺社に関する権能を収奪しようとはかった幕府の積極的な動きの一環として把えられるとともに、五山の外に独立していた大徳・妙心両寺を圧迫しようとした崇伝の策謀によるものと推測されている

と書かれています。

上山に流された沢庵は3年後赦された後、徳川家光の帰依を得て、身近に仕え、ついには東海寺の開山となるほどでした。
 この間の沢庵の
努力の結果、紫衣勅許についての制限は、寛永18年に緩和されて、京都所司代の承認を経て勅許することが認められました。

 これは、沢庵の功績であり、家光に擦り寄ったと批判していた大徳寺や妙心寺の僧たちも、沢庵の功績を高く評価したそうです。

次いで「沢庵漬け」について書きます。

c0187004_21124787.jpg沢庵和尚がこの漬物を考案したから「沢庵漬け」の名がついた。
 また、東海寺にある沢庵のお墓は、丸い石を置いただけで、大根を押すために置すための丸い石とよく似ているので、沢庵漬とよぶようになったと『国史大辞典』に書いてあります。
 水上勉の『沢庵』でも、東海寺を訪ねた家光が珍しいものを所望した際に、沢庵が貯え漬けの香の物を出したところ、「これは貯え漬けでなく、沢庵漬けだ」と言ったことが発祥だと書いています。

 しかし、『たべもの語源辞典』では、 「大根の糠漬けは、沢庵が生まれる以前からあったもので、沢庵が発明したという説は間違いである。」 と書いてあります。
 さらに、京都の辛漬(からづけ)や九州の百本漬は「沢庵(じゃくあん)」ともよばれ、それが、「沢庵(じゃくあん)」という文字のよみ方から「たくあん」となったと書いてあります。



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by wheatbaku | 2016-12-18 20:43 | 大江戸散歩 | Trackback
沢庵①(東海寺に眠る人々②)

 東海寺に眠る人々の2回目は、沢庵です。

c0187004_21121018.jpg 東海寺の墓地は、大山墓地と呼ばれています。

 江戸時代には、本坊の裏側にありましたが、現在は、東海道線と山手線に挟まれた三角形の形をしています。

 山手通りからの入口には案内板があります。(右写真)

c0187004_21121942.jpg この大山墓地に沢庵は眠っています。

 入口には、「史跡沢庵墓」と刻まれた石柱が建っています。(右2番目写真)

 石柱脇の石段を登っていくと左手に「開山沢庵和尚の碑」(右三番目写真)がありますが、多くの人が気がつくことはないかもしれません。

c0187004_21123071.jpg その先に、沢庵のお墓があります。

 その周辺は囲いがされています。(右四番目写真)

そのため、沢庵の墓碑に近づくことはできないので、離れたところから見ます。

 離れたところからみても、大変質素なお墓です。(右五番目写真)

 「江戸から気ままに江戸散歩」でご案内した時も参加者の皆さんが異口同音に「質素だ」といっていました。

沢庵和尚は言うまでもありませんが、将軍家光も帰依した天下の高僧です。その高僧のお墓がこんな質素なので驚いたと思います。

 こういう質素なお墓になっているには理由があるようです。

 沢庵は、亡くなったら遺骸は後ろの山に埋めて土をかけるだけにしろと言い残したそうです。つまり、お墓はつくるなということだと思います。

 それだけでなく、お経もあげるな、位牌もつくるなとも言い残したそうです。 

 従って、これほど質素なお墓でも沢庵からすれば沢庵の意思には反していることになります。

  

 沢庵の生涯を『沢庵』(水上勉著、中公文庫)や『沢庵和尚年賦』(荻須純道著 思文閣出版刊)を参考に書いていきます。

 水上勉は作家ですが、この『沢庵』は小説ではなく沢庵の伝記です。

 沢庵は、但馬国出石(現兵庫県豊岡市)の生まれで、父は出石城主山名宗詮(そうせん)の家臣の秋庭綱典といいました。

10歳で出石の浄土宗唱念寺に入り、その後、東福寺派宗鏡(すきょう)寺塔頭(たっちゅう)勝福寺の希先(きせん)に学び、さらに、希先死亡後、京都から招かれた大徳寺派の董甫宗仲(くんぽそうちゅう)、の下で修業しました。

c0187004_21124001.jpg董甫宗仲が京都に帰るのに随って大徳寺に入り、大徳寺では三玄院の春屋宗園に師事し、宗彭(そうほう)と改名しました。

その後、堺で文西洞仁の門下に入りましたが文西が亡くなった後は、堺で一凍紹滴に師事し、後に一凍紹滴とともに南宗(なんしゅう)寺に移り、32歳になった慶長9年(1604)、一凍紹滴から沢庵という法号を授かりました。

そして、慶長12年(160737歳で大徳寺153世の住持となりました。

しかし、大徳寺住持は3日間で辞任してしまったそうです。

その後、戦禍に焼けた南宗寺や荒廃した宗鏡寺を再興しました。

寛永年間になると、沢庵の身に大きな苦難が襲いかかりました。紫衣事件です。

c0187004_21125940.jpg紫衣事件については次回、詳しく書きますが、紫衣事件で幕府の対応に鋭く抗議したため、寛永657歳の時にに紫衣事件で沢庵は出羽国上山に流がされることになりました。

出羽国上山に流された沢庵は、配流先で上山藩主の土岐頼行から厚い保護を受けたということは前回の土岐頼行の中で書いた通りです。

寛永9年、沢庵60歳の年に、大御所徳川秀忠が亡くなったことにと、天海、柳生但馬守宗矩などの尽力により、紫衣事件に連座した者たちは許され、沢庵も江戸に戻り、神田広徳寺に入りました。その後、駒込の堀丹後守直寄の屋敷に住み、寛永11年(1634)に大徳寺に戻りました。

その年、徳川家光が上洛した際に、天海、堀丹後守直寄、柳生但馬守宗矩の強い勧めにより、沢庵は二条城で家光に拝謁しました。

この頃より家光は深く沢庵に帰依するようになりました。


 寛永12年には、幕命により江戸に下ることになりました。

c0187004_21124787.jpg江戸城に登り、家光の問に対する応対が全て家光の意に叶ったものであり、ますます帰依をうけることになりました。

この後、京都や但馬に帰ることもありましたが、寛永14年に、幕命により江戸に下りました。

この時、家光は、沢庵のために新しい館を造っていましたが、沢庵はそこに入らず麻布の柳生但馬守の屋敷に住んでいました。

沢庵はその庵を「検束庵」と名付けたそうです。まさに「検束された」という意味を込めているそうです。


 寛永16年(1639)、67歳の時、江戸に戻ると、家光によって創建された萬松山東海寺に初代住職として入ることとなりました。

 翌年には、東海寺境内に、老中堀田正盛により塔頭臨川院(後に玄性院と改称する。現在の東海寺の名称を継いでいる)、寛永18年に酒井忠勝が長松院、寛永20年に細川光尚が妙解院、正保元年には小出吉親が雲龍院を創建するなど、続々と塔頭が創建されました。


 そして、正保2年(164673歳でなくなりました。

 亡くなる際の遺誡は次のようなものでした。

 全身を後山にうずめて、ただ土を掩い去れ、経を誦することなかれ。

斎を設くることなかれ。道俗の弔 を受くることなかれ。

衆僧著衣喫飯なお平日の如くせよ。

且つ塔を立てる像を安じ牌を立つることなかれ。

真を掛くることなかれ。

諡号を求ることなかれ。

この遺誡は、私には、名誉を捨てるたけでなく、沢庵という名僧の存在さえ無視しろといっているように思えます。驚くべき遺誡です。


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by wheatbaku | 2016-12-15 21:06 | 大江戸散歩 | Trackback
土岐頼行ほか土岐三代(東海寺に眠る人々①)
 先日は、「駅から気ままに江戸散歩」で、東海寺をご案内してきました。
 東海寺は、寛永15年に、3代将軍家光が沢庵和尚のために創建したお寺です。
 翌年の寛永16年に堀田正盛が境内に塔頭臨川院を建立したのを最初に次々と塔頭が建立され最盛期には17の塔頭がありました。
 明治になると大きな変革の波に洗われ、東海寺は、江戸時代の塔頭玄性院(元臨川院)が引き継ぐことになり、その他の塔頭も廃寺となったり、独立した寺院となりました。
 東海寺の塔頭で現在残っているものは、東海寺、春雨寺、清光院、髙源院となっています。
 これらの寺院には、多くの有名人が眠っています。
 そこで、これら東海寺に眠る代表的な有名人を順にご紹介していきます。

 最初は、春雨寺に眠る土岐頼行はじめ土岐家三代を紹介します。
c0187004_13280314.jpg 春雨寺は、JR大崎駅南口から徒歩12分余り、京浜急行新馬場駅北口から徒歩11分余りの場所にあります。 道路に面した部分はマンション風になっているので、注意深く見ていないと通り過ぎてしまいそうです。(右写真参照)
 現在は春雨寺ですが、江戸時代には東海寺の塔頭で、春雨庵でした。
 沢庵和尚が、紫衣事件により処罰され、出羽国上山藩に流された際の上山藩の藩主土岐頼行により建立されたものです。
 
 土岐頼行は沢庵を預かれと幕府から命じられると天下の名僧がやってくると大変喜んだそうです。
c0187004_13280717.jpg そして、沢庵のために、上ノ山に春雨庵という庵を新築し、手厚く保護するとともに深く帰依しました。
 春雨庵は、正保元年に、東海寺の塔頭として現在地に移されたと言われています。 
 その春雨庵が、明治になって東海寺から独立し春雨寺となったものです。
 マンションの裏側の墓地に、土岐家の墓所があります。
 (右写真は、土岐家墓所の全体写真です。)

 土岐家墓所の正面が、土岐頼行のお墓です。
c0187004_13282079.jpg 土岐頼行は、土岐山城守定義の長子として下総国相馬郡守屋に生まれ、摂津高月藩主を経た後、寛永5年出羽国上山藩主となり2万5千石を領することとなった翌年、沢庵預かりました。
 沢庵が上山についたのは寛永6年8月15日でした。
 頼行は、上山城外の松山に庵を建築し、沢庵の住まいとしました。
 沢庵は、これを春雨庵と名付けて、静かなたたずまいを楽しんだといいます。

ちる花を をしむ涙か 入相の 声もうるほう 春雨の空

という沢庵の和歌も残されています。

 沢庵は、寛永9年、罪が許され、江戸に帰ることができました。
 この時、沢庵は

 御意なれば参りたく庵おもへども むさしきたなし 江戸はいやいや

と歌ったといいます。
 沢庵は上山を立ち、7月27日に江戸に入りました。
 この時、土岐頼行は江戸在府中で江戸におり、沢庵をときどき訪問しましたが、寛永10年、上山へ帰国することになりました。
沢庵は別れを惜しみ、そのとき頼行に贈った書翰には次のようにあったと『沢庵和尚年賦』(荻須純道著 思文閣出版刊)にあります。

 最上の上の山に年を四とせくらし、太守の情いふかたなし。彼所を漸くはなれぬれば、また太守在府にて、折々参りかよひし。此頃国へくだりたまへば、老は後に逢むたのみさへなく、此別を限りとおもひて、のちにはあはむ瀬もあらぬ老はただこの別こそ身のかぎりなれ
  
 沢庵は後に逢わん瀬もない老人は、ただこの別れこそ身の限りだと切々な思いをこめているそうです。

 この手紙でわかるように、沢庵と頼行との親交は大変深いものだったようです。

 土岐頼行は、木下利当・加藤泰興・久世広之とともに、江戸時代前期の大名槍術家として注目されると『国史大辞典』に書かれています。

 『国史大辞典』によれば、沢庵が流された頃、槍術家松本定好が上山に来て、頼行の庇護を受けました。ある時松本定好が沢庵に一流を創始したいと構想を述べたところ、沢庵は、その願に応じ槍術伝書九巻を作り、松本定好に一指という法号を与えました。
c0187004_13281696.jpg そここで定好は一指流を開き、土岐頼行は定好に就いてこれを学び、印可を得、さらに工夫を重ね、定好の容認を得て自得記流と名付け、これを土岐家の家伝とし、この流儀は以後歴代藩主によって継承され、頼行の孫頼稔の移封後は上州沼田藩に行われ幕末に至ったそうです。

 土岐頼行のお墓の向かって左側にあるのが、初代の土岐定政のお墓です。(右写真)
 土岐頼行の時に上山藩主であった土岐家は、室町時代に美濃国の守護を勤めた名門土岐家の一族明智氏の出身といわれています。
 明智光秀と同族ということになります。
 土岐定政は、父定明が戦いで死んだ後母方の実家菅沼氏を頼り三河に落ち延び成長した後、徳川家康の家臣となりました。
 明智光秀と同族であることを憚って、菅沼藤蔵と名のったそうです。
c0187004_13281125.jpg 主要な合戦の多くに参戦して武功を挙げ、家康が関東に移されると、下総相馬郡守谷に1万石を与えられ大名となりました。
 文禄2年には従五位下山城守となった時、没落した土岐家の家名を再興することが許されることになり土岐氏を名のるようになりました。

 頼行の向かって右側は、5代目の土岐頼稔のお墓です。(右写真)
 土岐頼稔は、奏者番・寺社奉行・大坂城代・京都所司代などを歴任し、ついに寛保2年、老中となり、その年、上野国沼田へ移封されました。
 土岐家は、それ以後12代120年余り沼田藩主として続き、明治を迎えました。






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by wheatbaku | 2016-12-13 13:16 | 大江戸散歩 | Trackback
品川御殿山を散歩してきました

昨日は、毎日文化センターの「駅から気ままに江戸散歩」で、品川の東海寺と御殿山周辺を散歩してきました。

快晴でしたが、風が強く、そのため寒い一日で、参加された皆さんは大変だったと思います。お疲れさまでした。

昨日は、大崎駅に集合してから次のコースを歩いてきました。

大崎駅 ⇒ 春雨寺【土岐家墓所】 ⇒ 官営品川硝子製造所跡 ⇒ 東海寺大山墓地【沢庵・渋川春海・島倉千代子・賀茂真淵の墓】 ⇒ 東海寺【堀田正盛などの墓】⇒ 清光院【奥平家墓所】 ⇒ イギリス公使館跡 ⇒ 台場土取場跡 ⇒ 品川御殿跡 ⇒ 品川駅


春雨寺

c0187004_13450392.jpg春雨寺は、沢庵が紫衣事件で出羽国上山(かみのやま)藩に流された際に、上山藩主土岐頼行が、沢庵のために、上ノ山に建てたものです。

のちに品川に東海寺が建立されると、土岐頼行は、東海寺の塔頭として春雨庵を新たに壮健されました。

マンション奥の墓地に、土岐家初代土岐定政、3代土岐頼行、5代土岐頼稔の墓があり、土岐頼行を中心に3代の藩主について説明しました。


沢庵墓  

c0187004_13450808.jpg 沢庵のお墓は、東海寺大山墓地にあります。

 お墓が、あまりにも質素なので、参加者の皆さんは驚いていました。

 沢庵は、死ぬ前に、お墓をつくらなくてもよいと言い残したそうですので、質素なのもうなずけることなど説明しました。

  

島倉千代子さんのお墓

 大山墓地には、沢庵のほか、渋川春海や賀茂真淵などのお墓があり、そちらも案内しました。
c0187004_13451401.jpg その大山墓地の一画に、島倉千代子さんのお墓がありますので、ご案内しました。

 黒御影石で作られていて、ピアノの形をしています。

 島倉千代子さんのお墓はいつもお花が一杯ですが、昨日もお花が一杯手向けられていました。 近所の方がお参りにきていましたが、しばしばお参りにくるとおっしゃっていました。


東海寺

東海寺は、3代将軍家光が沢庵のために寛永15年に創建し臨済宗のお寺です。

c0187004_13452026.jpg 48千坪もの境内がありました。

当初は、本堂等がなく沢庵屋敷と呼ばれていて、本堂等が建設されたのは、元禄時代のことです。

 境内には数多くの塔頭が建てられ、江戸時代後期には16ヵ院ありあました。

現在の東海寺は、塔頭の一つ玄性院が継いだものです。

東海寺には堀田正盛のお墓もあるので、そちらも案内しました。


清光院

c0187004_13452681.jpg清光院では、奥平家の墓所を案内しました

清光院は、江戸時代は東海寺の塔頭でしたが、明治になって独立しました。

中津藩奥平家墓所には初代から歴代の藩主が眠っています。

ずらっと墓碑がならんでいて壮観でした。

参加者の皆さんも驚いていました。


台場土取場跡

ペリー来航に驚いた幕府は江戸湾の防備を強化するため、台場を築造しました。

c0187004_13453012.jpgその台場築造のための土砂は御殿山から取りました。

その土取場は、現在でも、よく見ると御殿山の地形として残ったいます。

その、一部が、現在は、東京マリオネットホテルの庭園に見ることができます。

紅葉はほぼ散り終わっていましたが、紅葉をながめながら、お台場建設のため、土砂を取っている姿を想像してもらいました。

散歩が終わった後は、恒例の懇親会でした。

寒い日の散歩でしたので、終わった後のお酒が大変おいしかったです。

ただ、写真を撮り忘れていまいました。


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by wheatbaku | 2016-12-11 12:41 | 大江戸散歩 | Trackback
  

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