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西郷隆盛・勝海舟会見之地跡

 獏塾江戸散歩のレポート4回目は、西郷南洲と勝海舟会見之地についてです。

 この石碑は、田町駅前の三菱自動車本社前に設置されています。
  (右下写真参照)

 慶応3年3月15日の江戸城総攻撃を前にした西郷隆盛と勝海舟の会見は3月13日と3月14日の二日にわたって行われています。

c0187004_10302567.jpg このうち、田町駅前の石碑に関係する会見は3月14日に行われたものです。

 それでは、3月13日の会見はどこで行われたかというと薩摩藩の高輪藩邸で行われたと言われています。

 薩摩藩は、江戸に数多くの藩邸をもっていました。
 先日紹介した上屋敷のほか、現在の日比谷公園東側に装束屋敷と呼ばれた屋敷、渋谷に下屋敷、そして白金の現在八芳園となっている場所にも屋敷がありました。

c0187004_10302192.jpg そうした数多くある屋敷の一つとして高輪にも屋敷がありました。

 現在は、SHINAGAWA GOOS(シナガワ グース)となっていて、品川駅をおりると目の前にあります。

 一方、14日に両雄が会見した田町の屋敷は、蔵屋敷であったとようです。

 西郷隆盛と勝海舟は、過去に一度会見したことがあります。

 しかし、その後、二人は合う機会がなくて、3月13日の会見が4年ぶりの会見でした。

 そこで、二人は、いわゆる「久闊を叙す」程度の話し合いと清寛院宮(和宮)の様子が話題になる程度だったようです。

 江戸城総攻撃が目の前に迫っているのに、この程度の話し合いで終わるなんて不思議ですね。

 そして、本格的な会談は、3月14日に行われました。

 この時には、新政府軍側が示した次の降伏条件に対する旧幕府側の回答がありました。

1.徳川慶喜は備前藩に御預けとすること。

2.江戸城を明け渡すこと。

3.軍艦を残らず引き渡すこと。

4.武器は一切引き渡すこと。

5.城内の家臣は向島に移すこと。

6.徳川慶喜の暴挙を助けた者を取り調べて処罰すること。

7.暴挙に出る者がいて手に余れば官軍が鎮圧すること。

これに対して勝海舟が示した旧幕府側の回答は次のような内容です。

1、徳川慶喜は隠居し故郷の水戸で謹慎したい。
2、江戸城を明け渡し、田安家にお預けとしたい。

3、軍艦や武器は残らずまとめて、寛典の処分が下された後に、ふさわしい数を残して、その余は引き渡す。

4、城内居住の者は、城外に移る。
5、慶喜の暴挙を助けた者も寛典に処して、死罪にはしないこと。

6、士民鎮定が行き届くようにする。万一暴挙があれば改めて願い出るので官軍をもって鎮圧していただきたい。

 第一の徳川慶喜を備前に預けるととう条件に対して、旧幕府側の対案は、慶喜を水戸に預けるという案で、大幅な譲歩を迫るものでした。

 また、第3の武器の引き渡しについても、大幅な譲歩を迫るものでした。

 こうした新政府軍側に大幅な譲歩を迫る内容でありながら、西郷隆盛は、提案を検討することを約束し、その場で15日の江戸城総攻撃を中止することを決断します。

 京都を発つ時には、「断固、徳川慶喜の首を取る」といっていた西郷隆盛が、勝海舟との会見を非常に寛大な判断をしています。

 こうした考えにいたる背景の一つには、イギリスのパークス公使が、万国公法を取り出して、徳川慶喜の首をとることに強く反対したからだと言われています。




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by wheatbaku | 2017-01-31 10:15 | Trackback
薩摩藩上屋敷跡

 獏塾江戸散歩のレポート3回目です。

 江戸検の今年のお題は戊辰戦争です。先日の獏塾江戸散歩では、この江戸検のお題に直結している薩摩藩上屋敷と西郷南洲と勝海舟の会見之場所跡も案内しました。

 そこで、今日は「薩摩藩上屋敷跡」を紹介します。

 現在、NEC本社の北の歩道脇に下のような石碑が設置されています。

c0187004_19302195.jpg この石碑はかなり有名なのでご存知の方も多いと思います。

 しかし、薩摩藩上屋敷は、石碑が設置されている場所辺りが上屋敷の南の端で、江戸時代の切絵図を見ると、NECの本社の大部分は鳥取新田藩の屋敷だったように思います。

c0187004_19402591.jpgNECの北側にある三井住友信託銀行やセレスティンホテル、さらに戸板女子短大辺りが、薩摩藩邸の中心部分です。 右写真の右端がNEC本社、左側ビルがセレスティンホテル、その間のビルが三井住友信託銀行芝営業部が入っているビルです。

現在は三井住友信託銀行やセレスティンホテルの間に説明板が設置されています。(右下写真)

 

 江戸の薩摩藩上屋敷は、2万1785坪もある広大な屋敷でした。

c0187004_19400163.jpg この屋敷が慶応3年12月25日に、旧幕府側の庄内藩等の軍勢により焼き討ちされた事件が、薩摩藩邸焼討事件です。

 薩摩藩邸が焼討されたのは理由があります。

 慶応31014日に大政奉還が行われました。しかし、薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通らは武力倒幕を計画していました。

 そこで、江戸で騒乱を起し、幕府を挑発しようとしました。

 そのために、江戸の薩摩藩邸に、西郷隆盛は、益満久之助と伊牟田尚平を送り、下総出身の相楽総三を中心に浪人を集めました。

 その数は、最大で500人にも上ったと言われています。

 浪人たちは、商家への強盗を働き「御用盗」と呼ばれました。それだけでなく、下野出流山満願寺を拠点に騒動を起したり、甲府城の乗っ取りを計画したり、模の荻野山中藩の大久保教義の陣を襲撃したりして、関東一円で騒動を起しました。

 こうした騒動の震源地が江戸の薩摩藩邸であったことから、江戸の市中取り締まりを命じられていた庄内藩はじめ、旧幕府の主戦派は苦々しく見ていました。

 そうした中、12月23日に江戸城二ノ丸が炎上することになり、これも薩摩藩の仕業だという噂がひろがり、さらに庄内藩の赤羽橋屯所に鉄砲が撃ち込まれ町人が負傷するという事件がおき、ついに庄内藩が、幕府に武力行使も辞さない強硬手段を強く申し入れをしました。

 そして、ついに「薩摩藩邸に犯人の引渡しを求めた上で、従わなければ討ち入れ」と命じられ、12月25日、庄内藩と上山藩、鯖江藩、岩槻藩の三藩の約千人の軍勢が薩摩藩御を包囲しました。

この際、東・北・西の三方は厳重に包囲したものの、南側は包囲を緩やかにしていたと言われています。

25日午前6時から、薩摩藩との交渉が開始されましたが、交渉は決裂し、銃撃戦が開始されました。

庄内藩側は大砲も用意していて、薩摩藩邸を砲撃しました。これにより、薩摩藩邸は燃え始まりました。また、薩摩藩邸の浪人たちも屋敷に火をつけたともいわれています。

当時、薩摩藩邸にいた浪人たちは総勢200人程度といわれていて、多勢に無勢ですので、浪人たちは薩摩藩邸の西側の三田通り側に血路を開き、三田通りを南下して品川方面に逃げ出しました。

そして、品川から船にのり、相楽総三や伊牟田尚平たちは、薩摩藩の輸送船翔鳳丸に乗り込むことができました。




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by wheatbaku | 2017-01-27 19:28 | Trackback
東京港醸造

 先週土曜日の獏塾江戸散歩のレポートの2回目です。

 先週の獏塾江戸散歩の大きな目的の一つが「酒蔵見学」でした。

 見学した酒蔵は「東京港醸造」さんです。

 「東京港醸造」さんは、港区芝4丁目7番10号にあります。
 路地にありますので、お邪魔する時には事前に場所を確認しておいた方がよいと思います。下記地図も参照にしてください。

c0187004_20101298.jpg「東京港醸造」さんは、2011年、港区芝という都心での酒蔵を開業し、昨年(2016年)7月に念願の清酒製造免許を取得し、23区内で二つしかない清酒製造の酒蔵だそうです。

 獏塾江戸散歩でガイド役を勤めてくれたヤマトヤおじさんは東京港醸造の社長齊藤俊一様と親交があるため、今回の企画が実現しました。
 当日は、斎藤社長さんが直々にお店とお酒について説明してくださいました。(右下写真の左端が齊藤社長さんです)

c0187004_08591261.jpg 「東京港醸造」さんは、もとは「若松屋」という薩摩藩の御用達の造り酒屋でした。

若松屋は、信州出身の林金三郎に始まります。

林金三郎は酒造りに通じた齊藤重三郎を連れて江戸に出てきた飯田藩主堀家の下屋敷がある芝の地で造り酒屋を開業しました。

 この林金三郎は、水野忠邦の「天保の改革」を支えた後藤三右衛門光亨の兄でした。

 引化元年、後藤三右衛門光亨が贈収賄の罪で斬首に処された余波を受けた林金三郎は、一緒に江戸に出た齊藤重三郎に若松屋の一切を任せ、自身は紀州家の薦めにより深川油壺にあった紀州屋敷の蔵元に職を転じたのです。

こうしたことから、若松屋は齊藤家によって営業が続けられることになり、現在にいたっています

その頃の若松屋を贔屓にしたのは、近所に屋敷を構えていた薩摩藩で、薩摩藩の出入り商人として認められた若松屋は芋焼酎や濁り酒を製造しこれを薩摩藩屋敷に収めていました。 

当時の若松屋は二十三軒間口の大屋敷だったそうで、居酒屋部分と酒蔵部分、それに特別な要人を接待するための奥座敷が設けられており、時には、西郷隆盛も利用していたそうです。

c0187004_08592098.jpgそうしたことから、飲み代の代わりに、若松屋に残したとされる西郷隆盛の書が残されていて、店内にはそのレプリカが展示されています。(右写真)

また、勝海舟や山岡鉄舟、高橋泥舟それに坂本龍馬など幕末史を彩る蒼々たる面々の名が伝えられていて、彼らが飲み代の代わりに書き残していった書は、現在でも若松屋に大切に保管されているそうです。

「東京港醸造」さんの清酒の銘柄は「江戸開城」ですが、西郷隆盛と勝海舟の会見の場に近く、東京港醸造さん自体が西郷隆盛や勝海舟と縁があることから名付けた名前のようです。

ちなみ「東京港醸造」さんは、「とうきょう みなと じょうぞう」と呼ぶそうです。

c0187004_08592521.jpg試飲させたいだいたのが「純米吟醸原酒江戸開城」でした。
 齊藤社長さんのご説明では、
製品スペックをホームページに開示するほどのがこだわりだそうです。(右写真は商品を説明する齊藤社長さん)

それによると原料米:兵庫県産 山田錦 精米歩合60%28年度)

アルコール分:15.4%だそうです。

1本4000円だそうです。

c0187004_08593186.jpgこれを思い切り試飲させていただきましたが、右写真をご覧ください。すっかり空っぽです。

ともかくおいしいお酒でした。

私も日本酒は大好きですが、久しぶりにおいしいお酒でした。

参加者の皆さんも異口同音でした。女性のみなさんたちも「すっきりしていておいしい」といっていましたから間違いないと思います。

 一緒に写っているのは甘酒ですが、吟醸酒の方が人気が高くて、甘酒は栓をあけませんでした。
 甘酒は一本1500円だそうです。

結局、大多数の人が、72mℓの大吟醸を買っていました。

齊藤社長さん、大瀬で押しかけたにもかかわらず親切に御対応いただき大変ありがとうございました。

赤印が「東京港醸造」です。




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by wheatbaku | 2017-01-25 08:49 | Trackback
獏塾江戸散歩が開催されました。

 昨日、獏塾江戸散歩が行なわれ、高輪から田町まで散歩してきましたので、今日はその様子をアップします。

獏塾江戸散歩は、獏塾の塾生が案内してくれる江戸散歩です。

昨日は、加州そうせい公さんが資料を作成してくれて、地元田町で生まれ育ったヤマトヤおじさんが案内してくれました。

昨日は、快晴でした。しかし、風が強めで前半は少し苦労しましたが、後半は風もおさまってきて、楽しい散歩となりました。

加州そうせい公さんとヤマトヤおじさんありがとうございました。
参加された塾生の皆さんお疲れ様でした。

 昨日のコースは、都営地下鉄「泉岳寺駅」に集合し次のコースで散歩してきました。

【ルート】「高輪大木戸跡」②「願生寺」③「御田八幡神社」④「元和のキリシタン殉教碑」⑤「札の辻」⑥「港郷土資料館(見学と休憩)」⑦「西郷・海舟会見の地」⑧「本芝公園(雑魚場・芝浜)」⑨「酒蔵見学」⑩「西応寺」⑪「七曲り」⑫「薩摩藩邸跡(芝さつまの道)」⑬「水野家屋敷跡」


 それでは、主な散策地点を紹介していきます。
「高輪大木戸跡」

c0187004_18560921.jpg 高輪大木戸跡は、泉岳寺駅のA4出口そばにあります。

 高輪大木戸は、天和3年、芝口門(札の辻)にあった高札場がここに移され、さらに、宝永7年(1710)芝口門が新橋に移されるとともに、新たに道幅約6間の東海道の両側に石垣を築き木戸を設けて江戸の南の出入り口として治安維持と交通規制の役割を担った大木戸です。

「願生寺」

c0187004_18561221.jpg 高輪大木戸から見ると第一京浜を挟んだ西側から少し品川駅寄りに「願生寺」というお寺があります。

 この願生寺の境内に「牛供養塔」があります。

 この辺りは、江戸時代は「車町」または「牛町」と呼ばれた町で、牛車を扱う人たちが住んだまちです。

 それを知る唯一の資料として残されたものが「牛供養塔」です。

 牛供養塔は車町の牛屋7家によって、牛供養のため元文3年(1738)に建立されたのが初めで、現在のものは文政11年(1828)に建立されたものです。


「元和のキリシタン殉教碑」

c0187004_18561553.jpg「元和のキリシタン殉教碑」は、住友不動産三田ツインビルの裏側にあります。

 しっかり整備されているのですが、意外と知られていないようです。

「元和のキリシタン殉教碑」は、徳川家光が元和9年(1623124日、イエズス会のデ・アンジェリス神父、フランシスコ会のガルベス神父、ジョアン原主水をはじめとする50人のキリシタンを処刑した刑場の跡です。

江戸時代の切絵図では、ここは智福寺となっていますが、寺が建立される以前は処刑場で、そこに寺を建てることで罪人が浮かばれると考えたそうです。

「西郷南洲・勝海舟会見の地」

c0187004_18561957.jpg慶応4年(18683月15日の新政府軍による江戸城総攻撃の前日の14日勝海舟と西郷隆盛が会見し、江戸城の無血開城が決定された場所です。

西郷隆盛と勝海舟の会見は、3月13日と3月14日の2回行われています。

3月13日は、現在はSHINAGAWA GOOS(シナガワ グース)となっている薩摩藩の高輪の屋敷で行われ、3月14日の会見が田町にある薩摩藩の蔵屋敷で行われました。

13日は、両雄が久闊を叙す程度の話し合いで終わり、本格的な交渉は3月14日に行われ、江戸城総攻撃が中止されました。

「本芝公園(雑魚場・芝浜)」

c0187004_18562231.jpg現在本芝公園のある場所は昭和39年頃まで漁船の入る入江になっており、昭和45年に運河を埋め立てて造られました。

魚市場本芝組の雑魚場(ざこば)として江戸前の魚介類が豊富に揚がり浅草海苔の生産地としても有名でした。

古典落語の中でも屈指の人情噺として知られる「芝浜」の舞台にもなっています。

ヤマトヤおじさんの説明では、オリンピックの頃には、まだ漁船が停泊していたそうです。地元で生まれ育った人ならではの説明がありました。

「薩摩藩邸跡(薩摩小路)(芝さつまの道)」

c0187004_18563527.jpg薩摩藩の上屋敷は約2万2千坪(2万1785坪)もありました。

現在の三井住友信託銀行とセレスティンホテルの間に、その薩摩藩上屋敷の説明板が設置されています。

この薩摩藩上屋敷には、天璋院篤姫も、13代将軍家定に輿入れするために江戸に出てきた際に、一時期滞在していたこともあります。

また、慶応31225日に起きた薩摩藩邸焼討事件の現場でもあります。

薩摩藩の挑発にのった旧幕府は、庄内藩を中心とした軍勢で薩摩藩邸を焼討し、これが鳥羽・伏見戦争を引き起こすきっかけとなりました。

最後はお楽しみの懇親会、すでに日本酒の試飲会で一杯呑んでいますが、まだまだ呑み足らない参加者が参加してくれました。

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by wheatbaku | 2017-01-22 18:37 | 大江戸散歩 | Trackback
榊原高尾のお墓


 今日から、雑司が谷散歩でご案内した各寺院に眠る有名人について順にかいていきます。今日は、まず南池袋の本立寺に眠る「榊原高尾」について書きます。

本立寺は、池袋駅から徒歩10分ほどの南池袋公園の東側にあります。

c0187004_10265382.jpg 本立寺は、江戸時代初期の元和4年(1618)創立し、その後、法明寺の末寺となり、法明寺の御住職の隠居所として使われていました。

7代目住職日意が姫路城主榊原家の宝延寿院(6代政邦の母と思われる)の帰依をうけて以来、榊原家の奥方たちの菩提所となりました。

そうしたことがら、本堂の裏側に榊原家の墓所があります。

榊原家は、徳川家康の四天王の一人、榊原康政を藩祖とする譜代名門です。

c0187004_10270096.jpg榊原康政は徳川家康が関東に入府した際に、上野国館林で10万石の城主となりました。

その後、榊原家は、陸奥国白河、播磨国姫路、越後国村上と転封を繰り返したあと、宝永元年、再び姫路藩主となった後、寛保元年に越後国高田に転封となり、越後高田藩の藩主として明治維新を迎えました。

榊原家の藩主の多くのお墓は深川の霊厳寺にあり、本明寺には正室や側室が眠っています。

榊原家の墓所には、大きな墓誌が建てられています。(右下写真参照)

c0187004_10270414.jpgこの中に、「蓮昌院殿清心妙華日持法尼」と刻まれている女性がいます。

この女性が「榊原高尾」です。

吉原の遊女屋三浦屋の高尾太夫は、何人もいたといわれていて、それぞれ通称で呼ばれています。

最も有名な高尾太夫が、仙台藩主伊達綱宗が身請けしました仙台高尾です。

「榊原高尾」は、姫路藩8代藩主榊原政岑が身請けしたため「榊原高尾」と呼ばれます。

榊原政岑は、姫路藩榊原家の分家に生まれましたが、姫路藩榊原家7代藩主政祐が跡継ぎがないまま亡くなったため、榊原宗家を継承することとなりました。

 榊原政岑が藩主となったのは享保17年で、8代将軍徳川吉宗が享保の改革を行っていた時代です。
 政岑は、吉宗が出した倹約令を無視し、吉原で遊びまわり、高尾太夫を2500両(諸説あるようですが、『御江戸吉原ものしり帖』によります)で身請けしました。

こうした姿勢は、尾張藩主徳川宗春の行いと同じく享保の改革に対する抵抗と見なされました。

そのため、藩祖榊原康政の功績に免じて家名断絶とまでは処分されなかったものの、政岑は隠居し家督は嫡男の政永が継ぐこととされ、さらに越後高田に懲罰的な国替えを命じられました。

『藩物語 高田藩』(村山和夫著)によれば、政岑は寛保2年5月に罪人を護送する「青乗物」で高田に入りました。

そして、政岑は寛保3年2月17日に31歳で亡くなりました。高田に移された9か月後のことでした。

政岑の墓は高田の林泉寺にあるそうです。墓は罪人として青い網がかぶせられていて、公式にお参りすることが禁じられました。

9代政永が赦免を願い出ましたが、幕府から許されることはなく、明治まで青い網がかぶせられていたといいます。

c0187004_10272276.jpg榊原家の墓所の近くに榊原高尾のお墓があります。(右写真)

墓碑の表には「蓮昌院殿清心妙華日持法尼」と刻まれています。

榊原高尾は、新潮文庫『お江戸吉原ものしり帖』(北村鮭彦著)によれば、19歳の時に身請けされ、姫路城の西丸に住んでいて西丸方様と呼ばれていたが、政岑が隠居となると江戸に戻り、上野池の端の榊原家下屋敷に住み、政岑の死後は、落飾し菩提を弔いつつ過ごし、天明9年(1789年)1月19日、67歳で死亡したといいます。

 なお、上野池の端の榊原家下屋敷は、明治になると桐野利秋の屋敷となり、さらに岩崎弥太郎が入手し、明治29年に岩崎彌太郎の長男で三菱第3代社長の久彌の本邸が造られました。
 そして、現在、「旧岩崎邸庭園」となっています。




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by wheatbaku | 2017-01-19 10:18 | Trackback
獏塾公開講座の定員増します。

獏塾公開講座の定員増やします。


2月12日(日)に開講する江戸検「獏塾」公開講座ですが、お申込みをいただく方が多く、既に定員の36名を超すお申込みがありました。


講座の詳細は下記をご覧ください。 
江戸検「獏塾」公開講座のご案内


 そこで、急遽、定員を45名まで増加することにしました。

 ご関心のある方、至急お申し込みください。

 [定員を超えるお申し込みがあったため、申込受け付けを締め切りました。多数のお申込みありがとうございました。1月17日]





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by wheatbaku | 2017-01-16 12:21 | Trackback
雑司が谷散歩

 先週土曜日に、毎日文化センターの「駅から気ままに江戸散歩」で、雑司が谷七福神めぐりを中心に雑司ヶ谷を散歩してきました。

 今年の一番の寒波襲来ということで寒さが厳しい中、所々で暖をとりながら、楽しく散歩してきました。

 七福神めぐりを経験している人はあまり多くいませんでした。
 そのため、500円の色紙を購入した人は半数ぐらいの方だったのですが、色紙を買わなかった人も、各札所では、スタンプを押していました。

c0187004_11023180.jpg そのため、「やっぱり色紙を買ったほうがよかった」という声も聞かれました。

 右写真は、中野ビル前に鎮座する布袋様でスタンプを押している参加者の皆さんです。

 雑司が谷七福神について、すでに書いていますので、今日は、それ以外の主な案内ポイントを紹介します。

 散歩ルートは次の通りです。

【ルート】 池袋駅 ⇒ 本立寺【榊原家墓所】 ⇒ 仙行寺(福禄寿) ⇒ 中野ビル(布袋) ⇒ 法明寺 ⇒  観静院(弁財天) ⇒ 雑司が谷鬼子母神堂(大黒天) ⇒ 本納寺【井上家墓所】⇒ 大鳥神社(恵比寿) ⇒ 清立院(毘沙門天) ⇒ 菊池寛旧居跡 ⇒ 清土鬼子母神(吉祥天) ⇒ 護国寺駅

本立寺

 本立寺は、7代目住職の時以来、姫路藩榊原家の奥方たちの菩提寺となりました。

榊原家の墓所の中には、榊原政岑が身請けした通称「榊原高尾」が眠っています。

c0187004_11023613.jpg榊原政岑は、姫路藩榊原家の分家に生まれ、榊原宗家を継承しましたが、徳川吉宗が出した倹約令を無視して、吉原で派手に遊びまわり、高尾太夫を高額で身請けしました。

このため、吉宗の怒りを買い、政岑の隠居と越後高田への国替えを命じられました。

政岑は、高田に移された9か月後に31歳で亡くなりました。

高尾太夫は、政岑死亡後は江戸の上野池の端の榊原家下屋敷(現在の旧岩崎邸庭園)で菩提を弔いつつ過ごし、67歳で死亡したといいます。

法明寺

法明寺は平安時代の弘仁元年(西暦810年)に創建されたお寺で創建以来1200年がたつという古いお寺です。もとは真言宗のお寺で威光寺として創建されました。

鎌倉時代に、日蓮宗に改宗、威光山法明寺と寺号を改めました。

c0187004_11024057.jpg法明寺の山門を入るとすぐ右手に「蕣(あさがお)塚」があります。


法明寺の蕣塚は、酒井泡一作の朝顔の絵とともに「蕣やくりから龍の やさすがた 富久」と刻まれています。富久とは、雑司が谷にあった「藪そば」の主人の俳号です。

鬼子母神堂

 鬼子母神(きしもじん)とは、インドの神様で、人間の子供たちをとって食べる怖い神様でしたが、お釈迦様によって改悛し安産・子育ての神様となりました。

c0187004_11024787.jpg ここにお祀りする鬼子母神の像は清土(文京区目白台)辺りより掘りだしたもので、その後、現在地に祀られました。

 鬼子母神堂の本堂は、本殿が寛文4年(1664年)加賀藩主前田利常の娘で、広島藩主浅野光晟に嫁いだ満姫(自昌院殿英心日妙大姉)の寄進により建立され、その後 拝殿と幣殿(相の間)は元禄13年(1700)に建立されました。

 鬼子母神堂は、平成28年、国の重要文化財に指定されました。

本納寺     

慶安3年(1650)、威光山法明寺の御住職によって創建されました。

c0187004_11040090.jpgここには、浜松藩井上家の墓所があり、4代までの藩主のお墓があります。

その中に、井上正就のお墓があります。

井上正就は、2代将軍秀忠の信任が厚く遠江国横須賀藩主となり老中まで栄達しました。

しかし、老中在任中に江戸城中において,目付豊島正次に殺害されました。

これは,江戸城での最初の刃傷事件です。

原因は豊島信満が話をまとめた正就の嫡子・正利の縁組が破談とされたことを恨んだためといわれている。豊島信満もその場で自害しました。

 寒い中、散歩にご参加いただいた皆さんありがとうござました。




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by wheatbaku | 2017-01-15 20:55 | 大江戸散歩 | Trackback
江戸検「獏塾」公開講座のご案内

江戸検「獏塾」公開講座のご案内

 江戸検合格をめざす皆さん、今年は江戸検の準備はもう始められたでしょうか?

今年のお題は「幕末・維新を駆け抜けた人々」で、「戊辰戦争」が中心テーマです。

c0187004_09130462.jpg

 

しかし、「幕末・維新」に関係するテーマは難しいという人がかなりいます。

そこで、いくらかでもお題の勉強に役立つようにと江戸検向けの公開講座を企画しました。

幕末・維新は自信がないという方、ぜひご参加ください。

また、私は、江戸検合格をめざす人たちをメンバーとした江戸検勉強グループ「獏塾」を主宰しています。

陰様で、獏塾では、昨年の江戸検で11名の方が合格しました。

 その経験から、1級合格必勝法の一端もお話します。

 この講座は、もともとは獏塾生向けに検討していたものですが、多くの方に獏塾を知っていただきたいと考え、公開講座としました。

獏塾生以外の方のご参加、大歓迎ですので、気軽にご参加ください。

 

【獏塾公開講座】

テーマ  「たった90分でわかる戊辰戦争」

開催日   2月12日(日) 午後1時45分から3時45分 

受付開始  午後1時30分

場所    新橋レンガ通りホール 貸し会議室

      港区新橋2-14-4マルイト新橋レンガ通りビル 4

      地図はこちら ⇒ 地図・アクセス

参加費   1000円(当日受付時に徴収します)

定員    36名

懇親会   講義終了後、会場近くの居酒屋で希望者により開催
      します。
(費用3千円程度)

      懇親会にもぜひご参加ください。

    

     

申し込みは、下記の「公開講座申込」をクリックしていただくと別ウィンドウが開きますので、必要事項を記入してお申し込みください。 
大勢のご参加お待ちしております。どうぞよろしくお願いします。

[定員を超えるお申し込みがあったため、受付を締め切りました。多数のお申込みありがとうございました。]

 




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by wheatbaku | 2017-01-12 10:03 | Trackback
雑司が谷七福神(七福神めぐり)

先週、雑司が谷七福神もお参りしてきましたので、今日は、雑司が谷七福神のご案内をします。

雑司が谷七福神は、副都心線開通をきっかけに雑司ヶ谷の町おこしのために2010年『雑司が谷七福神の会』を結成したことにはじまり、2011年初詣より『七福神巡り』がスタートしました。

 

c0187004_10174437.jpg 色紙は1枚500円で、雑司が谷鬼子母神堂や雑司が谷案内処で買うことができます。

 しかし、この2ヶ所は七福神めぐりのちょうど中間点なので、ここで買うと七福神めぐりのコースとしては不便です。

 私は、池袋駅からスタートしましたので、仙行院で購入しました。ここでも少数であれば売ってくれるようです

 色紙は、それぞれの札所に設置してあるスタンプを各自が押していきます。

 御朱印のように寺社が押してくれないので簡易といえば簡易、味気ないといえば味気ない気もします。

 それでは、お参りした順にご案内していきます。

仙行寺(福禄寿)

c0187004_10101260.jpg 仙行寺は池袋駅からは5分程度ですので、七福神めぐりのスタートとしました。
 色紙はここで購入しました。
 仙行寺は、もともと江戸時代初期に創立された善行院と隣接の仙応院が明治41年に合併して仙行寺と改称したお寺だそうです。
 もとは小石川・白山にありましたが、合併と同時に池袋に移転してきました。

中野ピル(布袋尊)

c0187004_10101708.jpg 布袋様は、神社やお寺でなく、民間企業の中野ビルの前に鎮座しています。

中野家は大阪城の石材を供給していた小豆島の出身だそうです。

7代目が布袋尊を護持し、皇居の二重橋や国会議事堂等の石造建築を手掛けたそうです。

布袋尊像は戦火を被ったが.今は池袋復興のシンボルとしでお祀りされています。

観静院(弁財天)

c0187004_10102103.jpg観静院は法明寺の塔頭です。

観静院のある辺りは昔は一面の梅林で、梅林の中に天神堂があり、加藤清正が文禄~慶長の役の時御神体を守護神としたといわれています。

その後、法明寺塔頭として元禄初期に創立され、天神堂を吸収して現在に至っているそうです。

雑司ヶ谷鬼子母神(大黒天)

c0187004_10102591.jpg雑司が谷鬼子母神は、天正6年に、清土(文京区目白台)から出土した鬼子母神像を祀るため、里人たちが稲荷の杜に堂を建てたのが始まりと言われています。

現在の本殿は寛文4年(1664)に、前田利常の息女で安芸藩主浅野家に嫁した自昌院殿の寄進により建立されたもので、国の重要文化財です。

大黒天は、境内の大黒堂に祀られています。
 七福神の説明書には、大黒天は鬼子母神の夫神に当たると書かれています。

大鳥神社(恵比寿神)

c0187004_10102815.jpg大鳥神社は、正徳2年(1712年)、出雲松江藩主松平出羽守の嫡子が疱瘡にかかって際に鷺大明神により救われ、鬼子母神堂境内に勧請したのが始まりと伝えられています

慶応4年神仏分離令により、鬼子母神境内からわかれ、鷺大明神は大鳥神社と改称しました。

恵比寿様は、江戸時代に鬼子母神堂境内に鎮座していた頃、恵比寿神が合祀されていたことから、雑司が谷七福神の会が創設された際に大鳥大鳥神社に鎮座されました。

清立院(毘沙門天)

c0187004_10103261.jpg清立院は、770年前、真言宗・清龍寺として創立されました。

その後に村を疫痢から救った雲水が日蓮聖人像を寺に残したことから日蓮宗清立院と改められました。

木彫毘沙門天像は豊島区指定文化財です。


清土(せいど)出現所(清土鬼子母神)

c0187004_10103585.jpg雑司ヶ谷鬼子母神堂に祀られている鬼子母神尊像は清土(せいど)と呼ばれる地区から出土したと言い伝えられています。

清土出現所という名はこれに由来する名前です。

地元の人たちは親しみをこめて清土(せいど)鬼子母神と呼んでいるそうです。

吉祥天は鬼子母神の娘神です。



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by wheatbaku | 2017-01-10 10:04 | 七福神めぐり | Trackback
板垣退助(東海寺に眠る人々⑧)

 年末に書いていた「東海寺に眠る人々」ですが、板垣退助について年内に書ききれませんでしたので、今日書きます。

 板垣退助のお墓は、品川神社の社殿の裏側にあると諸々の案内に書いてあります。 そして、実際に社殿(右下写真)の裏側にあります。

c0187004_11182936.jpg 神社の境内にお墓があるので不思議に思う方いると思いますが、板垣退助のお墓は、実は、東海寺の塔頭であった高源院にありました。

 その高源院が世田谷区烏山に移転した際に、板垣退助のお墓は、埋葬地に残されました。

 その後、高源院の旧境内が開発されていき、お墓の南側からのお参りする道がなくなり、品川神社の社殿の裏側からお参りするようになったようです。

 品川神社の社殿の裏側の道は整備されていて、板垣退助のお墓は、社殿そばにありますので、品川神社をお参りする際には、寄られるとよいかと思います。

板垣退助は、天保8年(1837)、土佐藩馬廻役乾栄六正成の長男として城下中島町に生まれました。馬廻役は上士となります。

 以下、絲屋寿雄著『史伝板垣退助』(清水書院刊)を参考に、板垣退助の生涯を簡略に書いておきます。

 

c0187004_11183405.jpg安政7年(1860)父がなくなり家督を相続し、文久2年(1862)には山内容堂の御側用役となります。
 このころから攘夷論を唱え始めたが、武市半平太らの急進的な土佐勤王党とは対立し、慶応元年(1865)には後藤象二郎らとともに藩庁の大監察として武市半平太らを処刑しました。

慶応3年(18675月、江戸からの帰藩の途中に京都で、中岡慎太郎の仲介で西郷隆盛と会見して薩土討幕同盟を確約し、帰藩後、参政に昇進し大隊司令も兼任し兵制改革にとりかかっています。

 慶応年正月鳥羽伏見の戦いが起きて戊辰戦争が始まると、板垣退助は大隊司令として軍夫まで含めると1045人の土佐藩兵迅衝隊(じんしょうたい)を率いて13日に高知を出発し、川之江、丸亀、高松諸藩を追討した後、28日に京都に到着しました。

そしてただちに東山道先鋒総督府参謀となり、600の藩兵を率いて出陣しました。大垣、信州下諏訪を通り、甲府では甲陽鎮撫隊を撃破し、江戸に入りました。

板垣退助は、大垣を出たのち、乾姓から先祖の姓板垣に復し、以後板垣退助と名乗りました。

板垣退助は、武田信玄の重臣であった板垣信方の子孫であるといわれており、甲州を鎮撫するには、板垣信方の子孫であることをはっきりさせたほうが得策だと考えたようです。

江戸に到着し、江戸城が無血開城された後も、宇都宮はじめ北関東の旧幕府軍を掃討した後、会津戦争の際、白河口の参謀として会津藩を追討して明治元年11月に帰藩しました。

明治2年には、家老に列し,高知藩大参事として藩政改革を推進し、明治4年新政府の参議に任ぜられたが、明治年に西郷隆盛らと征韓論に敗れて参議を辞しました。

翌年の明治8年、後藤象二郎らと愛国公党を組織して民撰議院設立建白書を政府に提出しました。その直後、一旦参議に復帰しますがすぐに辞職し、自由民権運動に乗り出しました。
 以後、板垣退助は自由民権運動に挺身することになり、明治14年自由党総理に推されました。

c0187004_11184135.jpgその翌年の明治15年4月には遊説中の岐阜で、凶変にあった。

この時、「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだといわれています。

板垣退助のお墓の脇に、この言葉を佐藤栄作元首相の字で刻んだ碑が建てられています。

 板垣退助は華族制度に批判的でした。そのため、明治20年伯爵に叙せられた際にも、再三固辞しましたが許されず、7月に叙爵することになりました。

その年8月には国会開設され、言論自由、民力休養、海軍拡張、条約改正などに関する意見書を天皇に上奏した後、高知に帰りました。

明治23年、後藤象二郎や河野広中(こうのひろなか)に説得されて上京し、明治23年9月に立憲自由党を結党し、翌年には党名を改名した自由党の総理となりました。

明治29年第2次伊藤内閣の内務大臣となり、明治31年には、最初の政党内閣である憲政党の大隈(隈板)内閣の内務大臣となりましたが、3か月後には辞職してしまいました。

 その後は、政治活動から身を引いて社会問題に専念しました。

そして、大正8年83歳で永眠しました。

板垣退助死去の報が伝わると、芝公園にあった板垣邸には弔問客がひきもきらず訪れ、時の首相原敬や大隈重信など朝野の名士が続々と詰めかけたといいます。

c0187004_11184428.jpg板垣退助は、明治40年「一代華族論」を公表して華族制度を批判していたこともありの意志が不変なことを示した。子息鉾太郎は,父の遺志を守って伯爵相続を辞退しました

 遺骸は、高源院に埋葬されました。

 戒名は「邦光院殿賢徳道圓大居士」です。



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by wheatbaku | 2017-01-08 11:06 | 大江戸散歩 | Trackback
  

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