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第3回「幕末・維新 これは覚えてね!」模試正解

第3回「幕末・維新 これは覚えてね!」模試正解


 今日は、第3回「幕末・維新 これは覚えてね!」模擬試験の正解をアップします。

 今回10問だと思っていましたら、第5問が重複しているとメールでご指摘をうけました。どれかカットしようとも思いましたが、カットすべき問題もなかったので、11問のままにしておきました。

1、①天狗党 

 天狗党の乱は、水戸藩の尊王攘夷派のうちの劇派(急進派)が起こした事件です。

天狗党という名前は天保の頃から水戸藩改革派の武士が天狗とよばれたことに由来します。

文久4年3月に藤田東湖の子藤田小四郎らが筑波山に挙兵しました。これに農民ら約1000人が加わり、下野、下総、常陸各地で戦闘が行われました。水戸藩や幕府の追討を受けた天狗党は武田耕雲斎をリーダーとして中山道を西上しましたが、ついには、加賀藩に降伏し、翌年、多くの人が斬罪となりました。

参照:『オールカラーでわかりやすい幕末・明治維新』P105、
    『カラー版徹底図解 幕末・維新』P84

 

2、②近藤は斬り込んだが土方は現場にいなかった

尊王攘夷派が京都を焼き討ちするという情報をつかんだ新選組は、不逞浪士の探索を始めようとするものの、浪士たちがどこにいるかはわかりませんでした。

そこで、祇園会所に集まった新撰組は、祇園周辺をしらみつぶしで探していくことにし、近藤勇をリーダーとする組と土方歳三をリーダーとする組に分け、近藤組は鴨川の西側を探索しながら北上し、土方歳三の組は鴨川の東側を探索していきました。

池田屋に尊攘派志士が集合しているのを探知したのは近藤組でした。近藤勇は、土方歳三の組を待つ選択肢もありましたが、集合している志士たちがいなくなるのをおそれ、近藤は土方をまたずに単独で池田屋に斬りこみました。

参照:『オールカラーでわかりやすい幕末・明治維新』P106、
   『カラー版徹底図解 幕末・維新』P86

3、④池田屋に行ったが早すぎたので対馬藩邸に行った。

桂小五郎は、『逃げの小五郎』と呼ばれていました。その代表例として語られるのが、池田屋事件で難を逃れたことです。

 池田屋事件では、桂小五郎は、池田屋に行ったものの早すぎたので近くの対馬藩邸にいったので難を逃れたと言われていますが、これは桂小五郎の回想録『桂小五郎京都変動ノ際動静』に書かれているようです。

 翻刻されているものがないか探しましたが、翻刻されたものはなさそうですので、『カラー版徹底図解 幕末・維新』P86でご確認ください。

 なお、中公新書『幕末史』(佐々木克著)P149に、木戸は屋根伝いに逃げて難を逃れたと書いてありますが、これは当時の長州藩京都留守居役乃美織江の藩への報告書に基づいた説だと思われます。

4、②宮部鼎三(ていぞう)

宮部鼎三は、山鹿流兵法を学んだ肥後藩兵法師範で、江戸で吉田松陰と知り合い松陰の東北周遊にも同行しました。肥後勤王党の中心人物で、京都で活動し、八月十八日の政変で長州へ退去した後、京都に潜入して活動する中で、池田屋事件に遭遇しました。

選択肢①吉田稔麿(としまろ)は松下村塾の塾生で松門四天王の一人です。    

③望月亀弥太は土佐藩脱藩浪士、④北添佶磨(きつま)は土佐出身者、二人とも坂本龍馬の仲間です。

参照:『カラー版徹底図解 幕末・維新』P86

5、④高杉晋作は慎重論で久坂玄瑞が進発論 

 禁門の変の経緯について今週のブログに書き、本件についても触れましたので、ブログを読まれた方は、正解がお分かりだと思います。

久坂玄瑞は、上京すべきだという進発論でしたが、高杉晋作は、一貫して慎重論でした。

参照:中公文庫『開国と攘夷』(小西四郎著)P363、
    中公新書『幕末の長州』(田中彰著)P120


5、③天龍寺

これもブログに書きましたので正解はお分かりだと思います。

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 ブログには書きませんでしたが、天龍寺には多くの塔頭があり、その中の一つ弘源寺には、禁門の変の際に駐在した長州藩士が傷つけた刀傷があちこちの柱に残されているそうです。

3月に訪ねた時には、残念ながら非公開でしたので、山門だけ写真に撮ってきました。(右上写真)
参照:『オールカラーでわかりやすい幕末・明治維新』P112、
  『カラー版徹底図解 幕末・維新』P113



6②鷹司家 

これもブログに書いた通りです。

堺町御門から乱入しようとした久坂玄瑞は、越前兵に阻まれ、右に折れて、鷹司邸の裏門から屋敷に入り、参内しようとする前関白鷹司輔煕に嘆願の儀があるので参内のお供にとお願いしたが叶わず、敵との砲撃が始まる中で、銃撃で左膝を負傷し、鷹司邸で自刃をした様子が『花冠の志士』(古川薫著)にビビットに描かれています。

 参照:『オールカラーでわかりやすい幕末・明治維新』P112

7、④西郷隆盛

 これはもう基礎知識中の基礎知識です。西郷隆盛は、沖永良部島への流罪を許されて鹿児島に戻るとすぐに上京し薩摩藩の京都派遣軍司令官ともいうべき軍賦役を命じられ、禁門の変では、薩摩藩兵を指揮し、長州藩追討に大きな働きをしました。その働きを認められて参謀に任命されたものだと思われます。

参照:『カラー版徹底図解 幕末・維新』P98

8、①英米仏蘭 

四か国連合艦隊の下関砲撃は基礎的な知識でもあり、重要事項でもあります。

 しかし、四か国とはどこかと問われると答えられなく困ることがありませんか。

 そういうこともありはしないかと考えて出題しました。

 答えられなかった方は、これは基礎知識ですので、しっかり覚えておいてください。ロシアが含まれていないということがポイントです。

参照:『カラー版徹底図解 幕末・維新』P96 

9、③魔王のようだ

 直接の典拠とした『カラー版徹底図解 幕末・維新』P96に、問題文と同様に書いてあります。さらに、講談社文庫『高杉晋作』(池波彰一郎著)や人物文庫『高杉晋作』(三好徹著)を見ると『魔王のように傲然としていた』と書いてありますので、選択肢は「魔王のようだ」としました。

 しかし、岩波文庫『一外交官が見た明治維新』では、「使者は艦上に足を踏み入れた時には悪魔のように傲然としていた」と書いてあり、微妙にニュアンスが違っていることを付記しておきます。

10、①功山寺

長州藩は、一貫して討幕派であったような印象を持っている人もいると思いますが、長州藩の藩論が一貫して倒幕論であったわけではありません。

 特に、第一次長州征伐と四か国連合艦隊の攻撃を受けた時には、藩政は俗に「俗論派」と呼ばれる幕府に恭順を示す人たちが主導権を握っていました。

 これに対して、高杉晋作は、俗論派から藩政を奪還するため、約50人の少数で決起しました。これが「功山寺挙兵」と呼ばれます。

当時、功山寺には長州に下っていた五卿が潜居していました。

現在の功山寺境内には馬上姿の晋作の銅像があるそうです。

選択肢②了円寺は、功山寺で決起した高杉晋作たちが、新地会所襲撃後にたてこもった寺です。③桜山神社は、高杉晋作の発議により創建された殉国の志士の神霊を祀る招魂場です。④東行庵には、高杉晋作の墓があります。

参照:『オールカラーでわかりやすい幕末・明治維新』P119、
    『カラー版徹底図解 幕末・維新』P98


以 上








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by wheatbaku | 2017-04-28 22:40 | 『幕末』 | Trackback
禁門の変②(『幕末』)

 今日は、禁門の変の2回目です。

 

 伏見、山崎、天龍寺に陣を敷いた長州藩兵は、京都を南から西にかけて包囲する態勢をしきました。

 これに対して、反長州の陣営では、会津藩兵が約1500名、一橋慶喜配下の兵が約800名、薩摩藩が約500名で、その他の藩は当初は様子見でした。

京都守護職松平容保は、一貫して、長州討つべしという強硬論でしたが、薩摩藩は、当初、会津藩と長州藩の私闘だとして、禁裏守衛総督の一橋慶喜からの要請を拒否していました。現実的は軍勢を保有していませんでしたので、要請を受けようもなかったという理由もあったかもしれません。しかし、小松帯刀と西郷隆盛は、情勢の展開では朝廷は討伐を命じるかもしれないと考え、急遽、国許へ藩兵を送るよう要請しました。

一橋慶喜は、諸藩の態度がはっきりしないことから、明確な討伐方針を出しかねていました。

7月16日に小松帯刀・西郷隆盛が要請していた薩摩藩兵450名が京都に到着しました。

 また、有力諸藩が会合し、長州征討の方向で、一橋慶喜や朝廷に働きかけました。

これにより、7月17日、朝議は、長州勢の退去と、もしその勧告に従わなければ追討すると決定されます。しかし、長州藩はこの朝議に従おうとしませんでした。

 以上は『幕末政治と薩摩藩』(佐々木克著)を基に書きましたが、禁門の変当日の7月18日の動きについては『京都の歴史』(京都市編)が詳しいので、以下は、それに基づいて書いていきます。

幕府側では、開戦体制を整え、主力部隊は伏見方面に大垣・彦根藩兵を配置し、山崎・八幡方面には、宮津・津藩兵など起用して戦線をつくり、天竜寺方面の配備には薩摩・膳所・福井・小田原の各藩をつかせ、山崎・天竜寺間の間隙部分には小浜藩兵を置いて、扇形陣をしいたのである。

肝心の御所には中立売門に筑前藩、蛤御門に会津藩、台所門前に桑名藩、堺町御門に福井藩、乾門に薩摩藩という強兵を配置しました。

この洛中洛外に配備した諸藩兵の総数は、正確な数は不明のようですが、6万とも7万ともいわれます。

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 これに対して長州側の兵力は2千ともいわれていて、数の上では圧倒的に不利であるため、長州側では、7月17日、急濾軍議を男山で開きました。
 右写真は、男山の石清水八幡宮です。

久坂玄瑞は、世子毛利元徳が3000の兵を率いてくるので、それを待つため一旦大坂までしりぞくことを主張したといわれていますが、真木和泉・来島又兵衛は、断固決戦を主張し、無暴な進撃論を主張した為、軍議はついに強硬論に押し切られ進撃と決まりました。

この間の軍議の様子は、古川薫著『花冠の志士』では、来島と久坂が激論をかわし、最後には来島が「我々だけでも戦う」といって席をけり帰って行く気勢に引きずられて進撃やむなしとなる様子が書かれています。

 7月19日早暁、戦端は福原越後の指揮する長州勢と伏見方面で開かれました。禁門の変の開始です。

伏見を出発した福原越後の軍は、藤森のあたりで大垣藩兵と衝突しました。

福原軍は、待ち構えていた大垣藩兵に猛烈な銃撃をあび、軍勢は総崩れとなって、四散してしまい、福原越後も負傷し、ようやく山崎に逃げました。

福原勢は、一旦は体制をたて直し、竹田街道から入京しようとしたが果たさず退却し、伏見方面の戦いはあっけなく終わりました。

 しかし、天竜寺に駐屯していた国司信濃隊は精兵700人といわれ、巧みに警備陣をすり抜け、間道を通って一条戻橋に達し、そこから中立売・蛤・下立売の諸門に向かって進撃し、午前7時頃、御所に達しました。右下写真が蛤御門です。

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 中立売門に達した一隊は、そこを守備していた筑前兵を襲い、これを四散させました。
 中立売門が破られたため、蛤御門・下立売門を守衛していた会津・桑名の藩兵も支えきれず、しだいに後退していき、長州勢は中立売門内より進入して宜秋門に迫ろうとしていました。 まさに危機一発の時、乾門を守備していた薩摩兵の援軍が到着、猛烈な激戦となりました。更に天竜寺に向かおうとしていた薩摩隊も烏丸通に引っ返して、砲四門の一斉射撃を浴せながら、長州勢に立ち向かいました。

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 それに対して、長州勢も砲撃を行ない、蛤御門付近は修羅場と化しました。蛤御門には当時の激戦を物語る弾痕が無数に残されています。右写真はその一部です。

 この戦闘の中で、来島又兵衛は銃撃により戦死しました。

現在も京都御所の蛤御門を100mほど入ると大きな椋(むく)の木があります。

この付近で来島又兵衛が戦死したと説明板に書かれています。右写真が椋の木です。

来島又兵衛の戦死により、さしもの長州勢も強勢が弱まり、ついに烏丸通より退却していきました。

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 蛤御門の戦いが終わりかけた頃、益田右衛門介・久坂玄瑞の山崎隊が松原通から柳馬場通を通って北上してきて、堺町御門(右写真)を目指しました。
 しかし、ここを守る越前福井藩の兵たちは堅固で突破できませんでした。

 そこで長州兵は堺町御門近くにある鷹司邸に入り込んで立てこもり応戦しはじめました。越前藩側もまた大砲による直接射撃によって砲撃戦をかわし、ついには白兵戦となり、鷹司邸は打ち破られてしまいました。

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 鷹司邸はこのとき火を発し、ことごとく焼亡してしまいました。
 右写真が鷹司邸跡です。大きなシイの木が目印です。

 この戦いで久坂玄瑞・入江九一・寺島忠三郎も戦死しました。

 久坂玄瑞は、高杉晋作とともに松門の龍虎と呼ばれ、入江九一は、松門の四天王の一人に数えられた俊逸でした。

久坂玄瑞は鷹司邸での戦いで銃撃を受け負傷したため、潔く自刃しました。この時、入江九一も一緒に自刃すると言いましたが、久坂玄瑞の逃げろという説得に応じ鷹司邸を脱出をしましたが、屋敷の外で、会津藩兵との闘いで亡くなりしました。この後、寺島忠三郎も鷹司邸で久坂玄瑞と一緒に自刃しました。

 鷹司邸を脱出した真木和泉は、天王山に退いたが、21日、新選組を先頭に会津兵が追撃するなかで、同志16人とともに自刃しました。



 



 


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by wheatbaku | 2017-04-27 09:40 | 『幕末』 | Trackback
禁門の変①(『幕末』)

 八月十八日の政変で、京都を追われた長州藩は失地回復して京都へ再進出を果たそうとします。その中で起きるのが禁門の変です。
 今日から数回にわたり禁門の変について書いていきます。

 元治元年になると、天皇を再び手中にするため、京都に進出しようという進発論が強くなりました。

 この時、強く京都進出を主張したのは、久坂玄瑞、遊撃軍総督来島又兵衛、久留米水天宮神官真木和泉らです。

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 遊撃軍は、奇兵隊につづいて結成された諸隊九隊の一つで、三田尻で三条実美らの警護にあたっていました。

 進発論の主唱者は、三条実美に従った浪士のリーダーである真木和泉で、真木和泉は「出師三策」を書いて、世子毛利定広が軍勢を率いて上京すべきであると主張しました。

 しかし、京都進出については、桂小五郎(後の木戸孝允)は反対し、周布政之助や高杉晋作は、慎重論で、長州藩内でも意見対立があり、藩論は一致しませんでした。


 

元治元年正月24日、高杉晋作は、頑強な進発論を唱える来島又兵衛の説得を命じられましたが、来島は納得しませんでした。

説得に失敗し高杉晋作は、京都に脱走してしまい、帰国すると3月29日に野山獄入りを命じられます。

5月には、高杉晋作が入獄していた野山獄に泥酔した周布政之助が馬で乗り付け抜刀して叫び声をあげて去っていくという事件もありました。


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 こうした中で、6月5日の池田屋事件で多くの尊攘派の志士が新選組に藩士を殺されたとの情報が伝わりました。

 6月12日、事件の第一報が山口に届きます。この情報を聞いて、進発論者は激高し、即時進発を声高に叫ぶ状況となりました。

慎重派の周布政之助、高杉晋作の影響力が弱まるなか、福原越後、益田右衛門介、国司信濃の三家老らに率いられた長州藩兵が次々と進発していきます。


福原越後(50)は長州藩の支藩徳山藩の藩主毛利広鎮の六男として生まれ、藩命で永代家老福原家の家督を継ぎ、国家老として、藩主毛利敬親の補佐役を務めていました。

益田右衛門介(32)は、永代家老の益田家に生まれ、安政4年に家老となりました。

国司信濃は、上級家臣団の寄組高州元忠の次男でしたが、寄組国司家を継ぎ、文久3年家老となりました。寄組の国司家は、当人の能力次第で一代家老ともなる家格で、若くして実力で家老職に就き、当時23歳の若さでした。

禁門の変後、この三人は、第一次長州征伐が実施される中で、禁門の変の責任を負い切腹することになります。

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 まず、6月15日、来島又兵衛に率いられた遊撃軍が京都に向かいました。
翌16日には、福原越後に率いられた藩兵と久坂玄瑞や真木和泉に率いられた諸隊が三田尻を出発し24日に伏見に入りました。

6月26日には、国司信濃が山口を出発し、7月6日は益田右衛門介が山口を出発しました。

京に入った長州藩は、三方から京都を包囲しました。

伏見の長州藩藩邸には福原越後が6月24日に兵を率いて入り、6月26日には潜伏していた100名以上の志士たちが嵯峨天龍寺に入り、27日には来島又兵衛の部隊が天龍寺に入り、その後7月には国司信濃も天龍寺に入りました。山崎には久坂玄瑞や真木和泉、前田右衛門介が陣を敷きました。

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長州藩が、兵を率いて上京してきている中で、伏見や山崎に陣を敷いて、さらに天龍寺まで兵を進めることがちょっと不思議に思っていましたが、こうした陣を構えられた理由を中公文庫「開国・維新」(松本健一著)が書いてくれていますので、紹介しておきます。

真木和泉が率いた部隊は「清側義軍」と称しました。福原越後は、清側義軍は、三条実美に近い尊攘激派の集団で藩主の冤罪を晴らすため過激な行動にでるかもしれないので、伏見にいて鎮撫にあたると説明しました。また、天龍寺には、八月十八日の政変後も京都に残った尊攘派の志士たちが天龍寺にたてこもっているから、これを鎮撫すると称して、来島又兵衛の遊撃隊を天竜寺に送り込みました。こうして、京都を三方から包囲する態勢が整いました。

右上の写真最上段が伏見の長州藩邸跡、二段目及び三段目写真が天龍寺と有名な曹源池です。天龍寺はユネスコの世界文化遺産に登録されています。四段目の写真が阪急大山崎の駅から見た天王山です。





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by wheatbaku | 2017-04-25 10:44 | 『幕末』 | Trackback
第3回「幕末・維新 これは覚えてね!」模擬試験

第3回「幕末・維新 これは覚えてね!」模擬試験

今日は、第3回「幕末・維新 これは覚えてね!」模擬試験を出題します。

 今回は、文久4年(元治元年)に起きた事件についての問題を出題します。

 元治元年は、寺田屋事件、禁門の変、第一次長州征伐など、大事件が次々と起きています。


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 現在、禁門の変までの経緯を書いていますが、今後もあと数回続ける予定です。

これらの記事を読んでいくと、正解がわかる問題もあります。

右写真は、禁門の変の現場、蛤御門です。

正解は、今週末にアップします。

1、文久4年3月、水戸藩の尊皇攘夷派が筑波山で挙兵しました。幕府の追撃をうけると、一橋慶喜に助けを求めるため京都をめざして行軍を開始しました。しかし、慶喜が追討軍を差し向けたことを知ると12月に加賀藩に投降しました。

 この尊攘派グループは何とよばれたでしょう?

①天狗党  ②天誅組  ③精忠組  ④赤報隊

2、池田屋事件は、祇園祭の宵宮の日に、新撰組が、尊王攘夷派の志士が集まっていた池田屋を襲撃し、多数の志士を殺傷した事件です。池田屋襲撃の際の新選組局長近藤勇と副長土方歳三の行動で正しいのはどれでしょう? 

 ①近藤は表から、土方は裏から斬り込んだ。  

②近藤は斬り込んだが土方は現場にいなかった。

 ③近藤・土方が一緒に表から斬り込んだ。  

④土方だけが斬りこみ近藤は現場にいなかった。

3、池田屋事件の際に、桂小五郎は自分自身がどう行動したと書いているでしょう?

ちなみに桂小五郎は、江戸三大道場の一つ練兵館の塾頭を勤めたことがある剣豪です。

 ①長州藩邸にとどまり池田屋にいかなかった。   

②斬りこまれたら屋根を伝って対馬藩の屋敷に逃げた。  

③近藤勇と斬り合ったのち逃げ延びた。

④池田屋に行ったが早すぎたので対馬藩邸に行った。

4、池田屋に集合した尊王攘夷派のリーダー格だった人物は誰でしょう? 肥後藩士で吉田松陰の親友でした。

①吉田稔麿(としまろ)  ②宮部鼎三(ていぞう)  

③望月亀弥太       ④北添佶磨(きつま)

5、禁門の変を前に、長州藩が上京すべきか留まるべきか藩論が割れました。高杉晋作と久坂玄瑞の意見はどうでしたか?

①二人とも上京に積極的な進発論  

②二人とも上京に対して慎重論  

③高杉晋作進発論で久坂玄瑞は慎重論 

④高杉晋作は慎重論で久坂玄瑞が進発論 

5、禁門の変は別名蛤御門の変と呼ばれます。それは蛤御門で長州藩と会津藩の激闘がくりひろげたからです。長州藩は洛西の有名なお寺を拠点として京都市内を通り抜けて蛤御門を攻めかかりました。それでは、蛤御門を攻撃した長州藩が拠点としたお寺はどこでしょう?ユネスコ世界文化遺産に登録されている有名なお寺です。

 ①龍安寺  ②仁和寺  ③天龍寺  ④西芳寺(苔寺)

6、禁門の変で、長州藩の敗北が明らかになり、久坂玄瑞が自刃した屋敷はどこでしょうか? 五摂家の一つです。

 ①近衛家  ②鷹司家  ③九条家  ④一条家

7、禁門の変により、長州藩は朝敵となります。幕府はこれを機会に長州追討する征長軍を組織します。征長軍の総督は尾張藩の徳川慶勝がなりました。それでは参謀にはだれがなったでしょう?

 ①一橋慶喜  ②松平容保  ③勝海舟  ④西郷隆盛

8、攘夷を決行した長州藩への報復として、下関を砲撃した四か国連合艦隊の四か国とはどこでしょうか? 

①英米仏蘭  ②英米仏露  ③米露英蘭  ④米露仏蘭 

9、高杉晋作は、下関戦争の講和交渉の際、白装束に陣羽織、黒い烏帽子といういでたちで交渉に臨みました。

この様子をみて、イギリス側の通訳として交渉に臨んだアーネストサトウはどのような感想を述べているでしょう?

①閻魔のようだ。 ②仁王のようだ。 
③魔王のようだ。 ④鬼のようだ。

10、高杉晋作が決起した事件は、集合場所になった場所の名前から「〇〇〇挙兵」と呼ばれますが、〇〇〇に入る名前は次のどれでしょう?

①功山寺   ②了円寺   ③桜山神社   ④東行庵

以 上



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by wheatbaku | 2017-04-23 12:58 | 『幕末』 | Trackback
妙法院(七卿落ちの現場)

八月十八日の政変の政変で、堺町御門の警備を解かれた長州藩と朝廷を追われた七卿は妙法院へ移動しました。

その妙法院が、幕末の「七卿落ち」の舞台となりました。

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妙法院は通常非公開なため、拝観できるのは特別公開の時だけですので、2017年冬の非公開文化財特別公開で、公開されましたので、2月末に拝観してきました。少し、時間がたちますが、『七卿落ち』に合せて妙法院を紹介します。



妙法院は、東大路七条にあります。

京都国立博物館から東大路通を挟んで東側にあります。

妙法院の近辺には、国立博物館、三十三間堂、智積院など有名な観光スポットがあります。しかし、妙法院は通常非公開なため、あまり名前が知られていないように思います。

 

妙法院は、延暦寺の別院として比叡山上に建てられ、江戸時代初期に現在地に移されたといわれています。

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代々皇室から住職を迎えた門跡寺院で、梶井門跡,青蓮院門跡と並ぶ天台宗三門跡の一つです。

右写真は、唐門と呼ばれている勅使門です。桜町天皇下賜と伝わっているそうです。

さすが門跡寺院ですね。

近世の妙法院は、方広寺、三十三間堂(蓮華王院)、新日吉社を兼帯する大寺院で、現在も三十三間堂の本坊です。

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右写真は庫裏です。

妙法院の庫裏は国宝に指定されています。

桃山時代に作られた国内最大級の建物です。

豊臣秀吉が方広寺大仏殿の「千僧供養」を行った際に、台所として使用されたと伝えられています。

内部のうち、土間・板間部分は天井板が張られていなくて、梁などの構造材をそのまま見えますが、豪壮な造りになっています。

三条実美たち七卿が、一旦長州へ下り再起をきすことを決めた場所が宸殿です。

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その旧宸殿は、明治5年に撤去され、現在の宸殿は明治31年に再現されたものです。

宸殿に掲示されていた説明板では、8月18日の夕方、長州藩士寺島忠三郎らが使者となって、妙法院の寺侍山田筑後守成就と会見し、七卿たちが妙法院へ来ることが知らされたそうです。

妙法院での大評定は、長州藩士たち2600人に守られて始まりました。そして、長州落ちが決定し、19日早朝雨の中出発したそうです。

なお、当時の門跡は稠宮(さわのみや;のちの有栖川宮威仁親王)だったそうです。
 なお、妙法院の内部は写真撮影禁止です。上の寝殿の写真は、妙法院のお許しを得て、パンフレットから転載したものです。



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by wheatbaku | 2017-04-21 10:20 | Trackback
「獏塾ゼミ」を開催しました。

昨日、江戸検勉強グループ『獏塾』主催の『獏塾ゼミ』が開催されました。

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『江戸博覧強記』の大切さはわかるが、それを勉強をするのが大変だという声が強いので、今回からは、3回連続で『江戸博覧強記』を勉強することとして、昨日は、その第一回でした。


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 ゼミの講師は、一昨年一級に合格している信州健児さんがやってくれました。

 信州健児さんは、事前に重要語句集を配布してくれていて、それを事前勉強してくるようになっていました。

 講義は、『江戸博覧強記』のなかで、過去に出題された項目を中心に解説がされました。

 ご自分では記憶をするのに苦労したとのことで、その経験をもとに絵や図を利用した説明でわかりやすい説明でした。

  


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 講義のあとは、『江戸博覧強記』からの模擬試験のです

 出題者は浜之無学さんです。

 浜之無学さんは、模擬試験のプロで、数多くの模擬試験を出題してくれていますが、今回もしっかり30問出題してくれました。

 講義で説明のない部分からの出題もありましたので、皆さんにとっては難しい問題もあったのではないでしょうか。

 ちなみ、私は25問正解だったので、ちょっと不満足でした。

 講義の後は、昨年の一級合格者お二人の合格体験談の発表がありました。

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 蝦夷っ子さんは、分析力がすごく、多くの分析資料を作成して江戸検に臨んでいます。

 昨日は、その一端をみせてくれました。

 その資料はすごいものでした。
 それと、受かろうとする真剣さも大事だという話も図書館で勉強している受験生の例をひいて説明してくれました。

 

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 もう一人は浜之無学さんでした。

 浜之無学さんは、前述のごとく、受検生の段階から、模擬試験を出題してくれていましたが、その模擬試験を作成する過程ですごく勉強できたと語ってくれました。

そして模擬試験の作成方法も話してくれました。

また、仲間と勉強していたことが良かったとも話してくれました。

二人のあまりの努力ぶりに、みんな圧倒されていました。

最初は、ハード派の二人でしたの、みんなびっくりしていました。

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ゼミの後は、大事な酒を呑みながらの情報交換会です。

 今回も30人程が参加してくれました。

 今回は、今年の江戸検に臨む抱負も肩ってもらいました。

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 「今年こそは合格しようと思っていて朝4時におきて勉強している」という人がいる一方で「いやいやまだだから」とか「合格体験談を聞いてしょげ返りました」といった話もありました。

しかし、全員の江戸検に対する熱意が感じられ情報交換会も盛り上がりました。

あいかわらず楽しそうなみんなの顔の写真を2枚アップしておきます。

今回からは塾生の手作りのゼミというスタイルの形にしましたが、準備段階から講師の信州健児さんや浜之無学さんも熱心でしたし、当日もみんなが積極的に協力をしてくれたので、そうして面でも一体感がましたように思います。

 講師の信州健児さん、浜之無学さん、合格体験を話してくれた蝦夷っ子さん、浜之無学さん、お疲れ様でした。

 そして、ご参加いただいた皆さん、ありがとうございました。



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by wheatbaku | 2017-04-17 14:46 | Trackback
八月十八日の政変③(『幕末』)

今日は、八月十八日の政変の3回目ですが、八月十八日の政変の当日の動きを書いていきます。

八月十八日の政変について、いろいろ本で調べましたが、『京都守護職日誌』(菊地明編、新人物往来社刊)が一番詳しそうなので、それを中心に、18日の動きを書いていきます。

8月16日に、中川宮が参内し、孝明天皇に言上しますが、この時、孝明天皇は同意しませんでした。

しかし、その夜、孝明天皇から密使が遣わされ、政変も致し方ないので、会津藩に申付けるようにとの旨が届けられ、中川宮から松平容保に伝えらえます。

翌日17日深夜遅く(11時30分頃)、中川宮が御所に参内します。

そして、二条斉敬(なりゆき)右大臣、近衛忠煕前関白、徳大寺実則(さねつね)内大臣、近衛忠煕左大将、さらに松平容保に参内するよう11時50分頃に通知が発せられます。

 松平容保は兵を率いてすぐに参内します。

 この時、京都所司代(稲葉正邦)も参内したようです。

その直後に、米沢藩上杉弾正大弼、岡山藩松平備前守等へ兵があるものは兵を率いて即時参内するよう命令が出て、諸藩主は続々と参内します。

 会津藩は多数の軍勢を保持していましたので、その兵力と薩摩藩の兵を合せて、御所の各門が閉じられました。

 全ての門が閉じられた後、8月18日の夜明けに合図の砲声が会津藩の準備していた大砲から響きました。

会津藩と薩摩藩により御所の警備が行なわれている中で、参内した諸大名に対して「大和行幸」の延期(実際には中止)が発表されました。

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また、三条実美ら長州系公卿の参内・外出・他人との面会禁止の勅命が発せられました。さらに、国事参政・寄人を廃止し、長州藩の堺町門警備(右写真)も解かれました。


政変に気が付いた長州藩士たちは、堺町門に駆けつけ押し問答となりましたが、警備罷免の勅命が出されていたため、一旦、長州藩邸に集まりました。

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その後、長州藩邸に駆けつけた東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)らとともに、長州藩士は、関白鷹司忠熙の邸に移りました。

関白鷹司忠熙は、お召があって参内し、その後、鷹司邸に、三条実美と沢宣嘉が合流し、長州系公卿7名が揃いました。

鷹司邸に長州藩士と公卿が集まっているとの情報が御所に伝わり、三条実美等に解散の命令が出されました。

これにより、ついに七卿と長州藩は退去することを決め、妙法院へ入りました。妙法院は、2月の文化財特別公開で、拝観してきましたので、次回は、妙法院について紹介します。

この八月十八日の政変の時に、新選組も会津藩の命令を受けて御所に出動しています。夜明けの頃に出動しました。

『島田魁日記』には「8月18日、長州人引揚の節、当組南門を守る。その節、伝奏より新選組の隊名下さる」と書いてありますが、『京都守護職日誌』の解説では、「現実に彼らが新選組と称したのは後日のことであり、その節の功によりと解釈すべきである」と書いてあります。これによると、新選組と名のるのは、八月十八日の政変当日ではなく、その後(日は特定できず)のことのようです。

 


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by wheatbaku | 2017-04-12 09:20 | 『幕末』 | Trackback
八月十八日の政変②(『幕末』)

八月十八日の政変の2回目です。

八月十八日の政変は、前回書いたように、薩摩藩が会津藩に働きかけて、事がスタートしました。

薩摩藩から働きかけられた会津藩がどう動いたのかがわかる本があります。

 それが『京都守護職始末』ですc0187004_00003832.jpg

 今日は、『京都守護職始末』に基づいて、八月十八日の政変の直前の状況を書いていきます。

 8月13日、薩摩藩士の高崎佐太郎(後の正風)が。会津藩の秋月悌次郎の住居を訪れ

「近来叡旨として発表せられたものの多くは偽勅で、奸臣どもの所為から出たことは、兄らも知るところのごとくである。聖上もこのことを御気づかれ、しばしば中川宮に謀り賜うても、兵力をもった武臣で君側を清める任に当るものがないことを嘆いていられると聞く。わか輩、これをきいて、袖手傍観しているにしのびない。思ふに、この任に当れるのは会津と薩摩の二藩のほかにはない。願わくば、ともに当路の奸臣を除いて、叡慮を安じたいものである」 と語りました。

「その意気昂然たるものがあった」と書いてありますから、高崎佐太郎の語る勢いは非常に盛んだったようです。

秋月悌次郎たちも、その気持はもともと持っていましたが、藩主松平容保の了解もえずに勝手に協力を承諾するわけにいかないので、すぐに会津藩本陣のある黒谷に急いで、そのことを松平容保に報告しました。

 松平容保も同じ考えなので、薩摩藩と提携し尊攘派を排除する計画を準備することを許し、まず秋月悌次郎と高崎佐太郎に中川宮をたずねさせて、事の経緯を説明させました。

すると中川宮は大変喜んで、自分の身をなげうって孝明天皇が安心するようにしようと約束してくれました。

c0187004_23311147.jpg これほどの大事を決行するには、さらに、同じ考えの人の協力をえる必要があるので、天皇の信任が深い近衛前関白親子(近衛忠煕前関白と近衛忠房)と二条斉敬右大臣の賛同が必要なので、薩藩藩が近衛親子を説得することを約束し、二条右大臣の方を会津藩が説得することに手はずをきめました。

 会津藩では、大野重英を二条邸につかわしいろいろ説得した結果、二条右大臣も賛同しました。そして、近衛親子は薩摩藩が説得し賛同を得ました。

 こうした宮中工作の一方で、会津藩は軍勢の準備も怠りなくおこないました。

 会津藩の在京部隊は1千人規模でした。そして、8月はちょうど会津藩の在京部隊の交代時期にあたっていました。

 そこで、京都勤務が終わり帰国途上の部隊を引き留めることにより、在京部隊の数を通常の2倍の2千名にしようとしました。

 そこで、8月13日に大和行幸の警備強化を名目として、帰国途中の会津藩兵を呼び戻したのでした。

ちょうど8月12日に新選組の芹沢鴨が大和屋を焼討していて政情が騒然としていたので、この命令が本当はクーデターのための召喚命令だと気が付く人はいなかったようです。

この召喚により武力が2倍となりクーデターの実施が容易になりました。

 このことについても『京都守護職始末』に書かれています。

わが公の上京以来、旗下の守衛兵(藩ではこれを本隊と言っている)半数のほか、薄制で一陣を在府常備の兵員と決めてあった。一陣の将は、家老がこれに当って、陣将と称んでいるが、一陣は四隊が集まったものである。各隊にはそれぞれ隊長があって、それを番頭とよぶ。毎年八月を交代の時期とし、会津からくる新しい一陣は、八日に京師に着く。国へかえる一陣は、十一日に京師を出発する。

 親征の勅が下ったので、使いを走らせて、帰りはじめたものを途中から呼び返したので、その兵が京師に着くと、わが兵は二陣、すなわち八隊という多数になる。

「天皇の側近の協力も得られた」「軍勢も揃えた」「さぁ、いよいよ、クーデターの実行だ」となります。

8月17日の夜に中川宮が動いてクーデターが始まります。それについては次回書きます。





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by wheatbaku | 2017-04-10 07:50 | 『幕末』 | Trackback
八月十八日の政変①(『幕末』)

月十八日の政変について今日から2回に亘って書きます。

今日は、「月十八日の政変」の直前の状況について書きます。


姉小路公知が暗殺された翌日、御所の御門九門の警備が強化されました。

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その主なな門の警備担当は次のようでした。
 乾門-薩摩藩(右写真)、堺町門―長州(右下写真)、蛤門―水戸

しかし、姉小路公知暗殺の容疑者として「人斬り・田中新兵衛」が逮捕されたことから、薩摩藩の関与が疑われました。

そのため,日には薩摩藩は乾門の警備の任を解かれてしまい、京都における薩摩藩の信頼も失墜してしまいました。


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 一方、尊王攘夷派は、68日に、尊攘派の長老である真木和泉が久留米から上洛したことから、非常にその動きを活発化させました。

 そして、孝明天皇の大和行幸を計画しました。これは表向きは、神武天皇陵と春日大社を参拝し攘夷祈願をするという名目ですが、実は、これを機に倒幕親征の軍を起そうという目論見もあったようです。

 そして、8月12日に、ついに大和行幸を実施することが決定されました。

 さて、これ以降が八月十八日の政変に直接関係する部分です。

前述したような尊王攘夷派の横暴を黙認できないと考えた薩摩藩が、姉小路公知の暗殺により失った地位の挽回を狙って会津藩に提携を申込みました。そして、会津藩は早速松平容保に報告し、その同意を得て、薩摩藩との提携に合意をしました。

 これにより、尊王攘夷派の追い落としの中心勢力が揃いました。そして、宮中の公武合体派の中心人物中川宮を巻き込んで賛同を得、孝明天皇に建言します。孝明天皇はこの計画に同意し、政変が実行されました。

 これが、いままでの私の認識でした。

つまり、八月十八日の政変は、薩摩藩が計画し会津藩に呼びかけ、それから孝明天皇の同意を得て実行されたというものです。

 しかし、実は、八月十八日の政変は、孝明天皇その人が願っていたもののようです。
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 例えば、岩波新書「幕末・維新」(井上勝生著)P119には次のように書かれています。

平公家を加えた激派が朝廷の実権をにぎり、天皇の権威を踏みにじる勢いになっていた。

天皇は、「下威、盛んに、中途の執り計りのみにて、偽勅の申し立て」があると、薩摩藩の島津久光に訴え、「有名無実の在位」、「悲嘆至極」と激怒していた。朝廷の秩序を乱した激派が天皇の逆鱗にふれたのである。天皇が、激派追放(「姦人掃除」)を要請する「内勅」を、久光に密かに送るのは五月末のことであった。(中略)薩摩藩は上京の要請は受けなかったが、京都藩邸で激派追放の計画を用意した。計画は、政変の五日前、京都守護職に任じていた会津藩に伝えられてから、急速に具体化する。

読んでお分かりになると思いますが、孝明天皇が、三条実美らを排除したいと考え島津久光に働きかけていたということから政変が計画されたということです。

 

 この孝明天皇から島津久光に手紙が届いてから政変にいたる事情について、中公新書『幕末史』(佐々木克著)は詳しく書いていますので、それを要約します。

詳しく知りたい方は『幕末史』P108以降をお読みください。

 5月末日に書かれた、久光に宛てた天皇の手紙には、「朕が望む攘夷はおこなわれず、偽勅さえ出され、悲嘆の極みだ。朕と真実合体して『姦人を掃除』するために、急いで上京してほしい」と記されていました。この手紙のなかの『姦人』とは三条実美などの攘夷強硬論者たちです。

 しかし、島津久光は、朝廷内外に協力者がいなければ、自分一人の力では、何事もできないという考えから上京しませんでした。

また、イギリス艦隊が鹿児島に向かうとの情報も届いて上京する余裕などなかったという切迫した状況にあったという事情もありました。

 久光が上京を控えている中で、あまりにも尊攘強硬論者の横暴がひどいことから、鷹司関白と議奏の三条実美、広幡忠礼、長谷信篤、徳大寺実則に「自分も退位するから、その方も辞職せよ]と天皇の言葉が書面で伝えられました。この天皇の怒ゲの言葉は、すぐに外部にも広がった。薩摩藩邸の村山斉助が薩摩に下り、7月末には久光はじめ薩摩の首脳部に、天皇の激怒したことが伝えられたため、ここでついに薩摩首脳部は、天皇が求める「姦人掃除」に動くことを決断しました。

島津久光と薩摩藩首脳部の指示をうけた村山斉助が、京都に帰着したのが、813日の午前中(あるいは十二日の夜。)たったようです。

13日のうちに、京都の薩摩藩邸の高崎左太郎が会津藩士秋月悌次郎に、久光の指示を丁寧に告げて相談しました。秋月は、ただちに藩主松平容保に高崎の話を伝えたところ、容保は中川宮朝彦親王が同意なら協力しようといったそうです。

 高崎佐太郎が中川宮朝彦親王に話したところ、親王も積極的でした。

16日に、中川宮が参内して孝明天皇に計画の詳細を告げようとしたが、天皇に面会できる時間が十分にはなかったため概略の話だけして退出しました。

その日の夜、天皇から政変の実行を決断した旨の手紙が届きました。

17日は、二条斉敬、徳大寺公純、近衛忠熙も同意しました。

こうして、818日を迎えることになります。18日の動きについては次回書きます。


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by wheatbaku | 2017-04-07 15:07 | Trackback
姉小路公知暗殺(『幕末』)

姉小路公知暗殺


 今日からは、八月十八日の変から禁門の変までを中心に書いていきます。

 今日は、姉小路公知の暗殺事件から書いていきます。

文久3年5月20日の夜、尊王攘夷を唱える過激派公家として知られた姉小路公知が暗殺されました。


 暗殺された場所から、朔平門外の変とも猿ヶ辻の変とも呼ばれています。
 朔平門は京都御所の北側にある門です。(右下写真)

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 姉小路公知は、三条実美とともに、当時の朝廷を牛耳った公卿で、尊王攘夷派の代表格でした。

二人とも小柄ですが、三条実美は色白で柔弱なタイプであるのに、姉小路公知の方は対照的に色黒で精悍だったため、三条実美は白小豆、姉小路公知が赤小豆と言われていたようです。

 

 平凡社東洋文庫『京都守護職始末』には次のように書かれています。

姉小路少将は少壮で、頭がよく、弁舌か立ち、学習院に出る堂上は数人あったが、彼におよぶものは少なかった。集・てくる浮浪の徒も多く。三条実美卿に次いで、名声曖々としていた

また、『京都守護職始末』には襲撃の様子は次のように書いてあります。

5月20日の夜、御所の宣秋門を出て、御所の北側にある朔平門外にさしかかったところ、突然三人の賊があらわれて、姉小路公知を刺した。

 そして、襲った賊は刀と下駄をのこして去ったが、その刀をしらべると、薩摩の鍛冶がきたえたものであり、刀装も薩摩藩士が多く佩用するもので、柄頭(つかがしら)に藤原の二字と、縁(ふち)に鎮英の一に子が金で嵌め込んであった。下駄もまた、薩摩藩士が好んではくものであった。

 探索した結果、薩摩藩の田中新兵衛が容疑者として逮捕されました。
 田中新兵衛は薩摩藩士。もともとは船頭の子ともいわれています。安政の大獄に協力した島田左近を暗殺したとも言われる俗に「人斬り」と呼ばれる一人です。

 その田中新兵衛は町奉行所で、尋問中に自刃してしまいました。

 その様子は、『京都守護職日誌(第一巻)』では、次のように書かれています。

奉行所では田中新兵衛を尋問するにあたって、定法どおりに刀を預かろうとしたが拒絶され、なおも役人が申し入れると、脇差を抜いて自刃してしまった

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 田中新兵衛はどうして自刃したのかについては二つの説があるようです。

 田中新兵衛が持っていた刀が現場に残されていたことが決定的な証拠となるので、それを突き付けられて覚悟の死を遂げたという解釈もなりたちます。

その一方で、明治になってからなの史談会における田中新兵衛は刀を盗まれたと言っていたという証言もあるので、田中新兵衛は刀を盗まれたことを恥じて自刃したということも考えれらるようです。
 しかし、田中新兵衛が自刃してしまったので、姉小路公知暗殺の真犯人は結果的にわかりませんでした。

ところで、尊攘激派の姉小路公知が暗殺されたことについて、『京都守護職日誌(第一巻)』に、束久世通禧は明治28年に史談会の席でが次のように語った書いてあります。

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 将軍が軍艦で巡見すると云ふことで、姉小路少将は大樹(将軍)に随従して和田岬の方に検分に参ったのであります。其時勝麟太郎、今の勝安芳氏は無謀の攘夷は出来ぬと云ふ事で、姉小路に説いたと見えて、其の時帰って来てから鋭峰が挫けた都合で、轟武兵衛な   り武市半平太などは、姉小路様は幕府に寵絡されたとか云ひましたが、(中略)其れから鋭鋒が鈍った。

これによると、姉小路公知は、勝海舟の説得により、攘夷論の舌鋒が鈍ったので、武市瑞山たちは幕府に籠絡されたと怒っていたということのようです。

こうしたことから、姉小路公知が開国論に転向したと疑われたので襲撃されたのだという説もあると『京都守護職日誌(第一巻)』に書かれています。

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姉小路公知が襲われたところは、猿が辻とも言われています。

猿が辻は、京都御所の東北部分にあります。

京都御所の東北角は鬼門とされ、鬼門除けのため、築地塀の角が欠かれています。(右2段目。3段目の写真参照)
 そして欠いた部分に日吉山王社の神のお使いの猿を祀られています。

この猿が夜な夜なぬけだしては通行人にいたずらするため、金網で封じ込めたと伝えられています。


なかなか写真にとりにくいのですが、猿がいるのがわかりますでしょうか。


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暗殺された姉小路公知のお墓は、京都御所の東にある清浄華院にあります。

 清浄華院は、知恩院や知恩寺、金戒光明寺とならぶ浄土宗京都四カ本山の一つとして、長い歴史と格式を誇っています





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by wheatbaku | 2017-04-05 22:29 | 『幕末』 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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