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長岡藩主牧野氏(北越戦争レポート③)

長岡藩主牧野氏(北越戦争レポート③)

長岡藩の藩主は、牧野氏です。今日は、牧野氏について書いていきます。

 牧野氏が長岡藩主になったのは、元和4年(1618)のことで、牧野忠成が長岡藩初代藩主として入封しました。それ以降廃藩置県まで、約250年間、牧野氏は長岡藩を統治しました。

 250年間にわたって、同じ領地を治めていた大名は、御三家や外様大名はともかく譜代大名ではあまりいないのではないでしょうか。すぐに思い当たるところでは、彦根藩井伊家ぐらいでしょうか。

 

 牧野氏は、元々は三河国牛久保城を拠点とした家系です。

 牧野氏は、東三河の有力豪族で、戦国時代には、西三河の松平氏と競いあうほどでした。

 しかし、桶狭間の戦いの後、徳川家康が台頭するようになり、徳川家康の家来となり、天下統一に貢献します。

 そのため、長岡藩では初代牧野忠成の父牧野康成を家康17神将の一人としています。

 牧野康成は、家康の関東入封に際に上州大胡城主となり、その子牧野忠成が、元和4年(1618)越後国長峰から長岡に入封しました。それ以降、13代にわたって長岡を治めました。下写真は、牧野家の家紋「丸に三つ柏」です。

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 大名となった牧野氏は幕末には五家ありました。

長岡藩7万4千石、笠間藩8万石、丹後田辺藩3万5千石、小諸藩1万5千石、三根山藩1万1千石です。

 この五家の本家が長岡藩牧野氏でした。

 笠間藩初代牧野成貞は、忠成の甥にあたります。牧野成貞は5代将軍綱吉の側用人として有名です。

 丹後田辺藩は忠成の従弟の牧野親成が藩祖です。小諸藩は忠成の次男康成、三根山藩は忠成の四男定成を藩祖とします。

一族で大名が五家もある家はあまり多くありません。それだけ牧野氏一族が栄えたということになります。

 長岡藩牧野氏には、暗君はいなかったようですが、3代忠辰(ただとき)は、特に名君として尊敬されています。

 5代将軍綱吉の代に、越後国高田藩松平光長が取り潰されました。その際の高田城受取の大役を無事に果たしています。

 この忠辰は、華美な風を否定、質素倹約の藩政を行いました。それを象徴するのが「十分杯(じゅうぶんはい)」です。

「十分杯」とは八分目までなら普通に使えますが、並々注ぐと底の穴から1滴残らず流れ出てしまう酒器です。

「物事は八分目くらいの余裕をもって行動すれば万事うまくいくもの」と説いて自らを戒め、家来をも戒めたと伝えられています。

 この十分杯は、長岡市郷土史料館に展示されています(下記写真)。なお、郷土史料館は、写真撮影OKでした。

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 牧野氏は、江戸時代中期までは、幕閣となった藩主はいませんが、江戸時代後期になると、3代にわたり幕府の老中を輩出します。

 9代藩主の牧野忠精が享和元年(1801)、10代藩主の牧野忠雅は天保14年(1843)、11代藩主牧野忠恭は、文久3年に老中に就任しました。

10代藩主牧野忠雅は、ペリー来航した時には、海防掛の老中でしたので、開国問題で苦労したことだと思いますが、阿部正弘のほうがクローズアップされていますね。

河井継之助が仕えたのが11代藩主牧野忠恭です。というより河井継之助を抜擢したのが牧野忠恭です。

牧野忠恭は、文久2年(1862)に京都所司代を勤めています。天誅の嵐が吹きまくる中での京都所司代でしたので、苦労したと思います。河井継之助は、この時、忠恭に京都所司代を辞任するよう進言しました。そうしたら、忠恭は、文久3年に老中に栄転となってしまいました。そこで、河井継之助は、老中の辞任も、進言しています。その進言に従って、牧野忠恭は慶応3年に老中を辞任しています。

長岡藩牧野家の菩提寺は、江戸では三田の斉海寺です。斉海寺には、これまで何回もお邪魔したことがありますが、長岡藩牧野家のお墓は長岡に改葬されていますということで、機会があったら長岡でお参りしたいと思っていました。

その斉海寺から改葬された牧野家の墓碑に、長岡市郷土史料館のある悠久山公園にある蒼柴神社(下写真)でお目にかかることができました。 

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蒼柴神社は、9代藩主牧野忠精が、天明元年(1781)、現在地に蒼柴神社を建立し、蒼柴神社一帯の地を悠久山と名づけたそうです。

蒼柴神社は、そもそも、3代藩主牧野忠辰が、神道を深く信じため、没後、京都の吉田家から蒼柴明神の神号を贈られました。そこで、忠辰と忠辰が崇拝した事代主命(ことしろのぬしのみこと)を、城内に社を建てて祀ったのが始まりだそうです。

 時代が下がり、忠精が、忠辰(ただとき)の50回忌の際に、現在地に蒼柴神社を移し、日光東照宮を模して権現造りの社殿を完成させたものです。現在の社殿は、その当時の社殿が残されています。

 社殿に向かって右側に、長岡藩主牧野氏歴代の墓碑群があり、2代藩主忠成から11代藩主忠恭までの間の17基の墓碑(下写真)が建っています。この墓碑群は、昭和58年に移されました。

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蒼柴神社の宮司さんのお話では、神社にお墓があるのは違和感があるかもしれませんが、蒼柴神社の御祭神は3代藩主牧野忠辰公で、牧野家と縁が深いので安置してあります。三田の斉海寺から改葬されたお殿様のお遺骨は菩提寺の栄凉寺に埋葬されています」というお話でした。

そこで、長岡駅近くの栄凉寺にお参りしました。(ちなみに栄凉寺には河井継之助のお墓もあります。)下記写真が歴代藩主の墓碑ですが、合祀墓となっていますが、改葬された歴代藩主のお遺骨は、合祀墓の下に埋葬されているそうです。

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最後に、現在の牧野家御当主は17代目の牧野忠昌様ですが、牧野忠昌様は、ご自宅を東京から長岡に移され、現在、長岡にお住まいだそうです。
 


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by wheatbaku | 2017-06-29 10:41 | 『幕末』 | Trackback
長岡城(北越戦争レポート②)

長岡城(北越戦争レポート②)

河井継之助ゆかりの地長岡について今日から詳しく書いていきますが、最初は、長岡城について書きます。

 新幹線で長岡駅に降り立って、長岡市内を歩いても、天守はもちろん、石垣や堀もまったくありません。そのため、現在の姿からは長岡が城下町だったということは想像できません。

 しかし、よく見ると長岡駅大手口を出た駅前広場には、「長岡城本丸跡」という石柱が建てられています。(下写真)長岡駅そのものが長岡城の本丸なんですね。

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さらに長岡駅から歩いて3分ほどの距離にあるアオーレ長岡の敷地内には と刻まれた 「長岡城址」と刻まれた石碑があり、「長岡城二の丸跡」と刻まれた石柱もあり、駅前が二の丸であったことがわかります。(下写真)

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現在の姿からは想像できませんが、長岡駅周辺には、確かに長岡藩7万4千石のシンボル長岡城があったのです。 

 長岡には、江戸時代初めには城はありませんでした。

長岡に城を築いたのは堀直寄でした。

その築城にあたって、一匹の白狐が大きな役割を果たしたそうです。

『長岡藩』(稲川明雄著)には次のように書かれています。

長岡城建設責任者の普請奉行が、ある早春の朝、雪におおわれていた築城予定の平潟原に行くと、一匹の白狐があらわれ、一本の長い苧をくわえ、やがて、その苧を引きずりながら、はねまわっていました、普請奉行が、その苧のあとをたどってみると、それは城の縄張りになっていたそうです。そこで、普請奉行は、これをもとに設計図を描き、城の築城工事にかかったそうです。

長岡城は別名苧引形兜城といいますが、この名前は、そのときの白狐の啓示に感謝したものだと伝えられているそうです。

この時の白狐を祀った城内稲荷神社が、二の丸跡を示す石碑の脇に鎮座しています。

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長岡城には、本丸、二の丸、三の丸、曲輪、詰の丸があり、城は1キロメートル四方の広さがあり、石高に似あわず規模の大きな城でした

長岡城は、本丸の西側に二ノ丸があり、さらにその西側に大手門がありました。この大手門のさらに西を信濃川が流れていました。

天守はありませんでしたが、それに替わる「三階櫓」がそびえたっていました。「御三階櫓」は、本丸の西北角にあり、八方正面と呼ばれ、どこからみても正面にみえる櫓でした。下写真は「牧野家史料館」に展示されていた復元模型です。

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 現在、長岡城の面影がないのは、『長岡藩』(稲川明雄著)によれば、戊辰戦争の影響のようです。 

北越戊辰戦争の際に、新政府軍の攻撃により落城し、それを長岡藩側が奪還し、さらに新政府軍により落城するという、三度にわたる戦いでほとんどの建物が焼失してしまいました。

そして、焼け残った二つの隅櫓と二つの城門は近郊の豪農に売り払われているそうです。

戊辰戦争後、長岡藩士とその家族が食べるものがなく、長岡城の城跡は、開墾され、田畑に変えりました。また一部は学校や役所の用地となりました。

このように農地などに利用されていた城跡に、明治31年、北越鉄道が横断することになり、本丸跡に長岡駅ができて、それを中心に市街地が形成されることになりました。

 なるほど、だから、長岡には城下町の面影がないんですね。


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by wheatbaku | 2017-06-27 11:07 | 『幕末』 | Trackback
河井継之助ゆかりの地長岡に行ってきました(北越戦争レポート①)

河井継之助ゆかりの地長岡に行ってきました(北越戦争レポート①)

 先週木曜日と金曜日、河井継之助ゆかりの地長岡を旅行してきました。

 河井継之助と北越戦争を中心に訪ねてきましたが、大変収穫の多い旅行でした。そこで、これからはしばらく長岡のお話を書いていきたいと思います。

 今日はとり急ぎ主な訪問地について概略レポートします。下の写真は、慈眼寺会見の間に飾られていた河井継之助の肖像画です。

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 長岡には新幹線で行きました。長岡駅は長岡城の本丸があった場所に建設されたものですが、三尺玉のモニュメントがお出迎えしてくれました。

 長岡の花火は全国的に有名で100万人以上の人が観に来るそうです。長岡は昭和20年8月1日の空襲で多くの人が亡くなりました。
 その人たちを慰霊するために花火が打ち上げられるそうです。
 そのため、打ち上げ日は毎年8月2日3日と決まっているそうです。

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 河井継之助を知るためにまず訪ねたのが河井継之助記念館です。
 河井継之助が住んでいた屋敷跡に建てられたもので、長岡駅から徒歩5分程度で交通も至便です。河井継之助の功績をしるのに役立つ展示がされていまて、ガトリング砲は大変精巧に復元されていました。

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 長岡郷土史料館は、長岡駅からバスで15分程の悠久山公園の中にあります。

 悠久山公園は広大な公園で、史料館は奥まったところにあり、バス亭からですと20分弱かかります。自然豊かな登り坂を登っていくのでちょっとしたハイキング気分でした。最も近い駐車場からも登り坂で10分です。

 史料館の建物は城を模した立派な建物です。長岡の偉人の展示や最上階からの見晴らしがすばらしいです。ハイキング気分で歩く価値があります。

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 河井継之助ゆかりの地で絶対はずすことができないのが小千谷の慈眼寺です。慈眼寺には河井継之助と新政府軍軍監の岩村精一郎との会談いわゆる小千谷会談が行われた会見の間が残されています。中越地震で甚大な被害を受けたそうですが、見事に復元されていました。

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 小千谷会談は、新政府軍から30分で切り上げられてしまいました。しかし、なんとしても戦いを避けたい河井継之助は、慈眼寺の近くの料亭「東忠」に留まり、なんとか再会談できるよう試みました。
 その「東忠」は現在も営業をしています。小千谷会談の後、河井継之助が留まって
いたという部屋も残されています。「東忠」は食事もできますので、ここでお昼ご飯を食べました。

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 河井継之助の戦争回避のための努力も空しく終り、河井継之助と長岡藩には戦いの道しか残されていませんでした。

 会談が決裂したため、長岡摂田屋の光福寺に戻った河井継之助は新政府軍との闘いを宣言しました。光福寺は、その後、長岡軍の本営となりました。

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 長岡藩と新政府軍の最初の戦いが起きたのが榎峠でした。
 榎峠は、小千谷と長岡藩領の境にある峠です。
 小千谷側に陣取っている新政府軍の進入を防ぐためには絶対抑えなければならない要衝の地です。ここを河井継之助はまず攻撃し占領しました。
 この榎峠の麓の国道脇に「榎峠古戦場パーク」と名付けられた史跡が造られています。現在は榎峠の麓を国道が通っていて、車があっといまに通り過ぎていきますが、江戸時代、三国街道は山の中を通り、榎峠は険阻な峠道だったそうです。

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 信濃川にかかる「越の大橋」の西のたもと(つまり榎峠の対岸)に河井継之助の名を一気に高めた司馬遼太郎の「峠」の碑があります。
 碑文を読んで後ろを振り返ると激戦地榎峠や朝日山が見渡せました。

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 榎峠や朝日山の戦いで敗北した新政府軍は、榎峠からの長岡藩領への進入を断念します。
 それに代わって計画されたのが、信濃川を渡河して直接長岡城を攻めるという奇襲作戦です。
 河井継之助は、まさか信濃川を渡河してくるとは考えていなかったため、信濃川の防衛に兵力を割きませんでした(割けなかったというのが本当でしょう)。
 そのため、信濃川を渡河してきた新政府軍に長岡城を攻め落とされました。
 新政府軍が渡河した際に、城下に危機到来を知らせた西福寺の鐘が「維新の晩鐘」と名付けられて残されていました。

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 長岡城から退却した河井継之助は何度か反撃を試みます。そしてついに7月25日に長岡城を奪還します。

 その際の河井継之助の作戦は、長岡城の北東に大きく広がる「八丁沖」という大湿地帯を強行突破するという奇襲作戦でした。

 長岡藩兵は見事にこの難行をやりとげ、新政府軍から長岡城を奪い返しました。

 長岡藩勢が上陸した場所は、八丁沖古戦場パークと名付けられ、記念碑がたてられています。

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 河井継之助は長岡城を奪還した後、新政府軍の反攻状況を視察中に銃撃により負傷し戦場で指揮をとることができなくなりました。そのため、物量で勝る新政府軍からの攻撃を長く支えることができず、7月29日に長岡城は再度新政府軍の手に渡ります。

 そして、負傷した河井継之助は、怪我の治療を拒否し、ついに会津への逃避行の途中、只見でなくなります。
 継之助の遺骨は一旦会津若松に埋葬され、翌年、長岡の菩提寺「栄凉寺」に埋葬されました。
 下記写真が、河井継之助のお墓ですが、生き生きしたお
花が供えられているのが印象的でした。

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 次回から、河井継之助ゆかりの地長岡について詳しくレポートします。




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by wheatbaku | 2017-06-25 11:29 | 『幕末』 | Trackback
墨染の難

近藤勇、狙撃される(墨染の難)

油小路の変で、伊東甲子太郎を暗殺し高台寺党の3人を殺害した新選組ですが、逆に高台寺党の生き残りメンバーから、局長の近藤勇が、狙撃されるという事件がおきました。

 今日は、その近藤勇が狙撃された「墨染の難」について書きます。

 油小路での新選組の襲撃を逃れた高台寺党の鈴木三樹三郎たちは、京都烏丸の薩摩藩邸に保護され、11月21日に伏見の薩摩藩邸に移りました。

 12月9日の王政復古の大号令により、辞官納地を命じられた徳川慶喜は、幕臣や会津藩の強い怒りにより戦いが起こることを懸念し、12月12日に大坂に下ることにしました。

 その時に、新選組も、京都を離れることになりました。

 本来であれば、大坂まで下るところですが、伏見奉行所に駐屯を命じられました。

 以後、伏見奉行所が新選組の屯所となりました。

そして18日、近藤勇は若年寄永井尚志らと軍議のため二条城に入りました。

軍議を終えて二条城を出た近藤勇は十数人の隊士を連れて屯所に向かいました。

その途中、伏見街道を馬に乗って南下していた近藤勇一行が、現在の墨染(すみぞめ)付近にさしかかったところ、突然、空家の中から狙撃されました。

 時刻は午後4時ごろとも7時ともいわれています。

 近藤勇が狙撃されたと言われている場所近くに藤森神社があります。(下写真)

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狙撃したのは、高台寺党の生き残りの富山弥兵衛でした。

近藤勇は右肩を撃たれましたが、なんとか、馬からの転落を食い止めました。

そして、高台寺党の3人が、新選組に斬りこみをかけたので、近藤の馬のそばにいた隊士が、馬の尻をたたき、近藤を避難させました。

近藤の乗った馬は、少し離れた伏見奉行所に飛び込みました。こうして、近藤は命拾いをしました。

 襲撃した高台寺党は、少人数でしたが、無事に逃げ切り、薩摩藩邸に逃げ込みました。

 近藤勇は、命は助かったものの、傷の治療のため、大坂に下ることになり、以後の新選組の指揮は土方歳三がとりました。

 そのため、近藤勇は鳥羽伏見の戦いでは戦っておらず、新選組は土方歳三の指揮下で戦いました。

近藤勇が襲撃されたのは、伊東甲子太郎の暗殺からちょうどひと月たった日でした。

伏見の薩摩藩邸に身を寄せて復讐の機会をじっとうかがっていた高台寺党の残党の執念の前に、さすがの近藤勇も痛い目にあうことになりました。



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by wheatbaku | 2017-06-21 21:18 | 『幕末』 | Trackback
獏塾ゼミが開催されました。

昨日、獏塾ゼミが開催されました。

 獏塾は、江戸検合格をめざした勉強グループですが、現在は、『江戸博覧強記』の勉強をやっています。

 昨日も大勢の塾生のみなさんが受講してくれました。

 ご参加いただいた皆さんありがとうございました。

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 『江戸博覧強記』の勉強は、昨日で3回目になりますが、今回も引き続き信州健児さんが講義をしてくれました。

 昨日は、過去問を素材にして学問や旅行を中心に講義してくれましたが、講義がわかりやすいと大変好評でした。

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 続いて、浜之無学さんによる模擬試験です。

 出題された問題は、『江戸博覧強記』からの出題ですが、どこを注意したらよいかがわかる問題が多く、よい模擬試験でした。 問題解説も絶妙でした。

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 今回で、とりあえず信州健児さんと浜之無学さんによる『江戸博覧強記』の勉強は、一区切りとなります。過去3回の講義では、お二人には大変熱心に取り組んでいただきましたが、大変役立つ内容でした。本当にありがとうございました。

 次回からは、蝦夷っ子さんによる今年のお題「幕末・維新」の勉強会が始まります。

 それを前にして、蝦夷っ子さんが独自に年表を作成してくれましたので、その利用方法の説明もありました。すごい!年表で役立ちそうです。

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 最後は、昨年の合格者お二人による合格体験談の発表です。

 まずは、“粋メン修行中の江戸っ子五代目さん”です。

“粋メン修行中の江戸っ子五代目さん” さんは一昨年60点台でしが、昨年は一気に合格となりました。その要因をいくつか教えてくれました。

講座・展覧会・史跡散歩など、本以外での知識吸収が効果的だったようです。

また、基礎知識を徹底して勉強したことの大切も話してくれました。

そして、最後に「気力」「体力」「実行力」が最も大切だと強調したのが印象的でした。

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続いての合格体験発表は、“小金井三社祭さん”です。"小金井三社祭さん"は、1回目の受検で見事合格を勝ち取りました。しかし、2年間の十分な準備期間を経てからの受検でした。

その“小金井三社祭さん”がまず強調したのは、基礎知識の習得です。年号等は確実に覚えたとのことでした。

さらにインターネットを利用して江戸検に参考となる情報を収集し、それをプリントアウトして、利用したそうですが、その枚数は総数230枚を超えたそうです。

さらに直前は、記憶用にカードを作成したのが有効だったと話してくれました。

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お二人、貴重な体験談ありがとうございました。

講座の後は情報交換のため懇親会です。

「今年こそ合格します」という強い発言もあり、熱意の感じられる懇親会でした。

今回も大勢の参加者でしたので、2枚にわけて、写真をアップしておきます。

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by wheatbaku | 2017-06-19 07:20 | Trackback
油小路の変(『幕末』)

油小路の変


 伊東甲子太郎の暗殺は、油小路の変と言われます。

しかし、油小路の変の変は、これで終わりではありませんでした。
 伊東甲子太郎の暗殺は油小路の変の第一幕でした。
 この後、第二幕がありました。

近藤勇は伊東甲子太郎を暗殺するだけでなく、伊東甲子太郎の死体を油小路七条に放置し、高台寺党の面々をおびきだし、殲滅しようとしました。

そこで、近藤勇は、死体を駕龍で油小路七条の辻に運んで路上に放置し、町役人に命じてその遺体が油小路七条の辻にあることを月真院に急報させました。
 下写真が、現在の油小路七条の交差点です。
 縦が南北に通る油小路です。道幅がまり広くないことがわかると思います。多くの車が通行しているのが七条通りです。

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一方で、沖田総司、永倉新八、原田左之助に20人程の隊士を率いて待ち伏せるよう指示しました。

伊東甲子太郎が殺害されたという連絡は、月真院の高台寺党に町役人によってもたらされました。

 土佐浪士と口論の末に、斬られ、遺骸は七条油小路に放置されたままであるから、引き取りに来て欲しいという内容でした。

 この時月真院にいた高台寺党の隊士は7人だけでした。

 藤堂平助、そして伊東甲子太郎の弟の鈴木三樹三郎、篠原泰之進、服部武雄、加納鵬雄、富山弥兵衛、毛内有之進の7人です。

 7人は、ただちに、油小路に飛んで行きました。ところが、あたりには人影はなく、伊東甲子太郎の死体だけが放置されていました。
 高台寺党の面々は、駕籠に収容しようとした時に、20人と超える新選組隊士から一斉に襲撃されました。

 新選組は、鎖帷子で万全に防護していました。それに対して、高台寺党側は、普段の服装でした。
 多勢に無勢。しかも、新選組は、完全武装。高台寺党に勝ち目はありませんでした。


 乱戦のなかで討ち死にした者は、藤堂平助、服部武雄、毛内有之進の3人。

 残る鈴木三樹三郎、加納道之助、富山弥兵衛、篠原泰之進の4人はからくも脱出しました。

 そして、新選組は、襲撃は土佐藩士のしわざとみせて、残りの高台寺党の人々をおびき出すために死骸を4日間そのまま放置しておきました。

 しかし、ついに残りのメンバーが現れなかったため、5日目に収容して光縁寺に葬りました。その後、伊東甲子太郎たちの遺骨は泉涌寺塔頭戒光寺に改葬されました。





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by wheatbaku | 2017-06-17 20:21 | 『幕末』 | Trackback
伊東甲子太郎暗殺(『幕末』)

伊東甲子太郎暗殺

 慶応3年11月15日、宿泊先の近江屋で襲撃された坂本龍馬は即死し、中岡慎太郎は重傷を負いましたが、翌々日17日に亡くなりました。

 二人の葬儀は、海援隊士、陸援隊士、土佐藩士、薩摩藩士等が大勢参列し18日に行われ、二人は京都東山霊山に埋葬されたといわれています。下記写真は、霊山の坂本龍馬と中岡慎太郎のお墓です。

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 当初、二人の暗殺者と強く疑われたのは新選組ですが、坂本龍馬と中岡慎太郎の葬儀が行われた18日に、かつての同志伊東甲子太郎を暗殺しています。

伊東甲子太郎は、元治元年、同じ北辰一刀流の藤堂平助の仲介で新選組に加盟しましたが、慶応3年3月19日に、孝明天皇陵の御陵衛士を拝命し新選組から独立しました。伊東甲子太郎は、仲間と共に高台寺月真院に拠点を移し高台寺党と呼ばれていました。下記写真は御陵衛士が屯所を置いた高台寺月真院です。門前に御陵衛士屯所跡と石碑に刻まれています。

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この伊東甲子太郎を11月18日、近藤勇は資金の用立て・国事の相談があるとの口実で七条の醒ヶ井木津屋橋上るの妾宅に伊東を招きました。

そこで、近藤勇のほか、土方歳三たちもいて、一緒になって宴会が開かれました。

酒好きの伊東甲子太郎はついつい酒を呑んでいきます。

そして、午後10時過ぎに、近藤勇の妾宅を出て、木津屋橋を東に入った通りで、新選組隊士の大石鍬次郎が待ち伏せて槍を突き出して伊東甲子太郎を刺しましました。

伊東甲子太郎は深手を負いましたが、よろよろと近くの尼寺本光寺までたどりつきましたが、本光寺前で絶命したといいます。

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本光寺は、京都駅からそれほど遠くないところにあります。

以前訪ねた時には、本光寺は無住のお寺となっていて、近くの床屋さんがカギを管理されていて、お願いしたら、中に入れてくださいました。

山門を入るとすぐに右手に「南妙法蓮華経」と刻まれた石碑があります。

伊東甲子太郎は、新選組に襲われ致命傷を負った際に、この石碑に腰かけたと言われています。

この石碑は、当時は、門前にありましたが、その後、お寺の敷地を拡げたので門の内側に置かれることになったようです。

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この伊東甲子太郎ですが、中村彰彦氏は『新選組全史 戊辰箱館編』で、坂本龍馬と中岡慎太郎が襲撃される前の11月13日に、坂本龍馬と中岡慎太郎を藤堂平助とともにわざわざ近江屋を訪ねて「新選組と見廻組がおふたりをねらっているらしい。このような町屋にいては危険きわまりないから、至急土佐藩邸に移って身を守ってくだされ」と言ったが、中岡慎太郎は「親切な注意はありがたい」といったものの坂本りょうまは何も言わなかったと書いています。

大変興味を覚えましたので付記しておきます。

赤印が、本光寺です。




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by wheatbaku | 2017-06-15 11:34 | 『幕末』 | Trackback
坂本龍馬が暗殺された近江屋(『幕末』)

坂本龍馬が暗殺された近江屋

  江戸東京博物館の「没後150年 坂本龍馬」展に展示されているものの中に、井口家寄贈という物が数多くあります。

 図録でみると「坂本龍馬の紋服」や「絵画・書跡貼交屏風」などがそうです。

 重要文化財の「坂本龍馬の紋服」は、坂本龍馬の着ていた黒地羽二重の紋服で、坂本家の家紋入ったもので、坂本龍馬の体格を知ることのできる遺品です。

 同じく重要文化財の「絵画・書跡貼交屏風」は、坂本龍馬暗殺が暗殺された近江屋の二階の部屋にあったもので、左下の猫図のあたりに多量の血痕が見られるものです。

 これらは、昭和15年に井口家から京都国立博物館に寄贈されたものだそうです。

 この井口家というのは、聞きなれないと思う方が多いと思いますが、井口家は坂本龍馬が暗殺された醤油商近江屋のことです。

 近江屋を経営していたのが井口家で、当主は代々井口新助を名のっていました。

近江屋は土佐藩の御用達でもあったことから土佐藩士とのつながりが深く、土佐藩邸に坂本龍馬暗殺を知らせたのも井口新助です。
 ちなみに土佐藩邸は、近江屋からあまり遠くない高瀬川沿いにありました。

井口家から京都国立博物館に寄贈された坂本龍馬関係のものは、近江屋に伝来したものです。

 その坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された近江屋跡は、現在は回転ずし「かっぱ寿司」になっています。

c0187004_22104741.jpg

 お店の前の「坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地碑」がないと見つけるのが大変です。

多くの人は、それがあるのにも気が付かずに通り過ぎているのだと思います。(下記写真が「坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地碑」と京都市の立てた説明板です)

c0187004_22105246.jpg

 ここで、坂本龍馬と中岡慎太郎が、慶応3年11月15日、暗殺されました。

 その時の様子は、過去にブログに書いていますので、下記記事をご覧ください。

 龍馬襲撃 (龍馬暗殺犯は誰②) 

 今年(平成29年)3月に訪れた時は「かっぱ寿司」でしたが、この記事を書いた時には、お店が「サークルK」でした。(下記写真) 変化の激しさにびっくりしました。

c0187004_22105693.jpg

 この近江屋に坂本龍馬がいつ投宿したのかというのは明確ではないようです。
 しかし、慶応3年10月18日付で土佐藩士望月清平に出して坂本龍馬の手紙が残されています。

 その内容は後記ですが、概略次のように書かれています。

 

昨夜薩摩の吉井友実が、まだ土佐藩邸に入ることができないようだが、「四条ポンド町位」(実は近江屋)では危なくて仕方がないので薩摩藩邸に来いと言ってきた。しかし過去に脱藩したことがり、土佐藩邸に入るわけにはいかない。ました、薩摩藩邸に入ったらイヤミになる。万が一の場合には主従一戦を交えて土佐藩邸に逃げ込む決心をした。

 龍馬の手紙の原文は次の通りです。少し理解しやすくなるように付記した部分があります。

然ニ小弟宿の事、色々たずね候得ども何分無レ之候所、昨夜(薩摩)藩邸吉井幸輔より、こと伝(ことづて)在之候ニ、未(いまだ)屋鋪(土佐屋敷)ニ入事あたハざるよし。四條ポント町(四条先斗町)位ニ居てハ、用心あしく候。其故ハ此三十日計(ばかり)後(あ)ト、幕吏ら龍馬の京ニ入りしと謬伝(びゆうでん)して、邸江(土佐藩邸へ)もたずね来りし。されバ二本松薩邸(薩摩藩邸)ニ早々入候よふとの事なり。小弟(龍馬)思ふニ、御国表の不都合(土佐国脱藩罪)の上、又、小弟さへ屋鋪(土佐屋敷)ニハ入ルあたハず。又、二本松(薩摩藩)邸ニ身をひそめ候ハ、実ニいやミで候得バ、萬一の時も存レ之候時ハ、主従共ニ此所ニ一戦の上、屋鋪(土佐藩邸)ニ引取申べしと決心仕居申候。

 このように一戦を覚悟したものの、その後で、望月清平へ、より安全な場所を探してほしいと頼んでいます。

 これを見ると、坂本龍馬は幕府から襲撃される恐れを十分予測していましたが、土佐藩を脱藩したことから、すんなりと土佐藩邸に入れず、苦慮していたようです。

 そのため、いざとなったら、一戦を交えて、土佐藩邸に逃げ込もうとも考えていたようです。

 しかし、実際に慶応3年11月15日に暗殺団に襲撃された際には、土佐藩邸に逃げ込む余裕はなく、近江屋で中岡慎太郎とともに暗殺されてしまいました。


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by wheatbaku | 2017-06-12 22:02 | 『幕末』 | Trackback
坂本龍馬が授与された目録は薙刀の目録だった

坂本龍馬が授与された目録は薙刀の目録だった

 現在、江戸東京博物館で「没後150年 坂本龍馬」展が開催されています。

 6月18日までですので、閉幕まであと一週間残すだけとなりました。

 そこで、先日、坂本龍馬展に行ってきました。

c0187004_21303261.jpg

 龍馬は手紙魔とも言われていますので、手紙の割合が多かったのですが、龍馬の愛用した刀「銘吉行」や坂本龍馬が暗殺された近江屋の部屋に架けられていた血染の掛軸(梅椿図)など貴重なものが展示されていました。

 展示物の中で、私が特に注目したのが「北辰一刀流長刀兵法目録」です。これは、高知県の龍馬歴史館が所蔵していて、高知県外では初めての公開だそうです。

 坂本龍馬が剣術修行のため江戸遊学した際に、北辰一刀流の始祖千葉周作の弟千葉定吉の道場、俗に桶町道場に入門しました。

 展示されていたのは、千葉定吉から授与された北辰一刀流の兵法目録です。

 現物は、写真撮影が禁止されていますが、下記ホームページの中ほどに写真が掲載されています。
  江戸東京博物館ホームページ『没後150年 坂本龍馬』展

 目録の内容を文字で書いていきますと次のようになります。

北辰一刀流長刀兵法目録

 北辰一刀流長刀兵法稽古執心浅からず、組数相済み、その上勝利の働きこれ有るにより、家伝始めの書この一巻これを差し進め候。なお師伝を疑わず、切瑳琢磨を以てすれば必勝の実相叶い有るべく候。仍(よっ)て件(くだん)の如(ごとし)

 その次に、家伝北辰流開祖千葉之介常胤以下代々の名前が書かれています。

そして、歴代の後に、北辰一刀流開祖千葉周作成政、千葉定吉政道、千葉重太郎一胤と書かれています。千葉定吉は周作の弟で、坂本龍馬の先生です。千葉重太郎は定吉の子で、坂本龍馬の友達でもあります。

さらに、その後に、千葉佐那女、千葉里幾女、千葉幾久女と女性の名前が3人書かれています。この3人は千葉定吉の娘です。その冒頭の千葉佐那女が長女です。千葉佐那女は坂本龍馬の恋人と言われている女性です。

 私が注目したのは、その説明書きのタイトルです。

 タイトルは「北辰一刀流長刀兵法目録」と書いてありましたが、その「長刀」に「なぎなた」とフリガナがふってありました。

 坂本龍馬は、北辰一刀流の免許皆伝の剣客として取り上げられることもありますが、目録として残されているのは「長刀」だけだということは以前から承知していました。

 そこで、「長刀」というのは、どういう剣術なのかとかねて疑問に思っていました。

 その疑問が解消しました。なるほど「ナギナタ=薙刀」だったんだと思いました。

 そこで、江戸東京博物館の学芸員の方に確認の電話をしました。

 その回答は「説明書きにフリガナをつけるかどうかは、それぞれの博物館の判断です。江戸東京博物館の説明書きは、京都国立博物館が作成した図録に基づいて江戸東京博物館で作成したもので、図録の英字版に「naginata」と書かれているので、それに基づいてフリガワナをふりました。「なぎなた」とは、女性の剣法と言われているナギナタ=薙刀と考えていただいて結構です」というものでした。

 そこで、坂本龍馬関係の本を探してみました。すると『坂本龍馬事典』に、同じように薙刀の目録であると書いてありました。

 『坂本龍馬事典』に収録されている「北辰一刀流とその免許状」(土居春夫著)によれば、千葉周作の弟子塚田五右衛門という人が、教わった型を書き留め、兄弟子にあたる山田官司文次の校訂を得て、嘉永6年(1853)に書物にした「北辰一刀流剣術全書」が国立国会図書館に所蔵されていて、そこに書かれている薙刀の型と坂本龍馬が与えられた目録の型名を対照してみると、語句に多少の相違はあっても、目録と『全書』の薙刀の型がほぼ一致したと書いてあります。

 つまり、坂本龍馬が千葉定吉から与えられた「北辰一刀流長刀兵法目録」は薙刀の目録ということです。

 坂本龍馬ファンには、ちょっとガッカリする結論かもしれませんが、現在わかっている資料でみる限りは、坂本龍馬は北辰一刀流の剣客ではなさそうですね。

 しかし、土佐の小栗流和術の免許皆伝は受けているので、剣客であることにまちがいはありません。

[6月11日追記]
 岩波新書『坂本龍馬』(松浦玲著)を読んでいたら、P13に「北辰一刀流長刀兵法目録」とあり、フリガナが「なぎなた」とされているのを見つけました。




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by wheatbaku | 2017-06-10 21:25 | 『幕末』 | Trackback
第4回「幕末・維新これは覚えてね!」模試正解

第4回「幕末・維新これは覚えてね!」模試正解

 今日は、先日出題した第4回「幕末・維新これは覚えてね!」模擬試験の正解を発表します。

 これまでは、江戸検のお題のテキストが出版されていませんでしたので、テキストによらず、出題してきましたが、テキストが10日発売されるとのことですので、テキスト等も参考に、内容を確認してください。

 なお、参照図書で『江戸時代年表』と表記してあるものは『見る、読む、調べる江戸時代年表』(山本博文編)のことです。

1  ④村田蔵六

村田蔵六は、周防国鋳銭司(すぜんじ)村医村田孝益の長男として生まれ、広瀬淡窓の咸宜園や緒方洪庵の適塾で学びました。適塾では嘉永2年に塾頭を勤めています。嘉永6年に宇和島藩に招かれた後、幕府の蕃書調所教授方手伝、講武所教授を経て、万延元年長州藩に仕えました。慶応元年に藩内の俗論派が一掃されると軍政用掛となり、軍制改革に取り組みました。

慶応元年12月、藩主毛利敬親の命により村田蔵六から大村益次郎と改名しています。

慶応2年の第2次長州征伐では、石州口参謀として目覚ましい成果を挙げました。

司馬遼太郎の「花神」の主人公であり、大河ドラマにも取り上げられました。

参照:「開国と攘夷」P394、『江戸時代年表』P193、「江戸時代人名控」


2、 ②武市瑞山  

武市瑞山は通称半平太と呼ばれ、土佐勤皇党の首領でした。文久2年には吉田東洋を暗殺させ、藩論を尊王攘夷に変えた後、藩主山内豊範とともに上京し、さらに勅使姉小路公知に従って江戸に下向しました。しかし、八月十八日の政変で京都で尊王攘夷派が力を失うと、前藩主山内容堂の命令により、帰国を命じられ、帰国するとともに投獄されました。投獄されたものの拷問に屈せず1年半の間戦い続けましたが、ついに慶応元年に切腹を命じられました。切腹の際には三文字に腹を斬ったと言われています。

 参照:『江戸時代年表』P247

3、 ①坂本龍馬  

薩長同盟の仲介を担ったのが坂本龍馬であることはよく知られてことですので、正解はそれほど難しくはなかったと思います。しかし、坂本龍馬が薩摩藩名義で武器購入を購入する案を考えたとする説が流布されていることから、問題文に長州藩が「薩摩藩名義で武器を購入し、その武器を長州が受け取る仕組みを考えました」となっているため、ちょっと迷った方もあると思います。

 武器購入の仕組みを長州側が考えたという説は人物叢書「高杉晋作」(梅溪昇著)P263に書いてありますし、中公文庫「『開国・維新』P272にも書かれています。さらに中公新書『坂本龍馬』(池田敬正著)P119にも書かれていますので、それを参考に問題文を作成しました。

 なお『江戸時代年表』P246に、正解が書かれています。

 なお、問題文では、「薩長同盟」という語句を使用していますが、ちくま新書『幕末史』で佐々木克先生は、薩長同盟という語句について、P208に次のように書いていますのでご参考に付記しておきます。ご参照ください。

この薩摩と長州の約束を、諸書では薩長同盟または薩長盟約と呼ぶのが一般的である。以前は同盟がおおく用いられたが、倒幕をめざした軍事同盟を連想することから、近年は盟約のほうが用いられるようになった。薩長同盟、盟約ともに当時の史料にでる言葉ではなく、後にネーミングされたものである。従って同盟より盟約のほうがよいと思い拙著では盟約を用いてきた。しかし、木戸と龍馬が誓約といっていることを尊重して、本書(『幕末史』)からは誓約を用いることにしたい。

 私は「薩長同盟」という語句に慣れていますが、確かに「薩長盟約」と書いた本もかなりあります。江戸検のお題のテキストを見て、今後「薩長同盟」にするか「薩長盟約」にするか判断しようと思っています。

4、 ④筑前で、三条実美たちの護衛をしていた。 

この問題は、中岡慎太郎が三条実美たち五卿の身近で活動していたことを知ってほしいと思い出題しました。

 薩長同盟が結ばれたのは慶応2年正月21日です。中公新書『中岡慎太郎』(宮地佐一郎著)P172によれば、中岡慎太郎は、慶応元年1122日、五卿の応接係となり大宰府来訪者の応接の役目につかされ、1225日、下関に出て、京都の西郷隆盛と薩長同盟を締結するために出発する桂小五郎を見送りました。この際に中岡慎太郎は桂小五郎たちを先導案内すべきでしたが、五卿応接係の公務があり、京都に向かうことができなかったようです。

選択肢①「坂本龍馬と協力して海援隊で活動していた」、坂本龍馬と緊密な連絡をとっていましたが、海援隊で一緒に活動していませんので、間違いです。

選択肢②「脱藩の罪を許され,土佐藩より陸援隊の隊長に任命されていた」のは慶応3年のことです。

選択肢③「長州藩に行き、忠勇隊の幹部となっていた」のは禁門の変の前後のことです。

 参照:『江戸時代人名控』P249

5、 ③桂小五郎 

薩長同盟の締結にあたって、坂本龍馬が重要な役割を果たしたということは、よく知られていることですし、また、江戸検では、トップクラスの重要事項です。

 そこで、薩長同盟締結の経緯、条項などはよく勉強しておいてください。

 この問題は、いわゆる坂本龍馬の裏書を問題としています。

 薩長同盟締結の当事者は、薩摩側が小松帯刀、西郷隆盛、長州側が桂小五郎です。薩長同盟は、同盟と言いながら、各条項が文書で決められたわけではありません。口約束でした。そこで桂小五郎が、仲介を果たした坂本龍馬に内容確認を求めた手紙に対して、朱書きで確認した内容が問題文です。

 こうした経緯が分っていれば、裏書の内容を初めて読んだとしても簡単な問題です。

 下記裏書中の「小」は小松帯刀、「西」は西郷隆盛、「龍」はいうまでもなく坂本龍馬です。もうおわかりだと思いますが、「老兄」とは桂小五郎です。 

「表に御記被成候六条は西両氏および老兄等も御同席にて談論せし所にて、毛も相違無之候。後来といへども決して変わり候事無之は、神明の知る所に御座候。丙寅二月五日 坂本龍」

6、 ①高杉晋作からもらった。

坂本龍馬が寺田屋で伏見奉行所の捕り方に応戦した際のピストルは、高杉晋作からもらったものです。高杉晋作は文久元年に幕府の千歳丸に乗って上海に渡航しています。ここで2丁のピストルを購入しています。そのうちの一つを坂本龍馬に贈ったのです。参照:中公新書『坂本龍馬』P132

高杉晋作がいつ坂本龍馬にピストルを贈ったのかについては、いろいろな本を読みましたが、研究書の類には、いつかということを書いたものはありませんでした。司馬遼太郎の「竜馬がゆく」では、坂本龍馬が高杉晋作と初めて会ったとき(慶応元年)に、高杉晋作が贈ったと描かれています。

坂本龍馬が寺田屋で襲撃された時の様子は以前書いた次のブログをご覧ください。⇒ 寺田屋騒動~龍馬寺田屋で襲撃される


下記写真は、伏見の寺田屋に展示されていた龍馬が持っていたピストルの模型です。

c0187004_11310049.jpg

7、 ④塩浸温泉  

寺田屋で捕吏から逃れた坂本龍馬は、伏見の薩摩藩邸に匿われます。負傷していた坂本龍馬は小松帯刀と西郷隆盛から薩摩に身を隠し、怪我の治療も行うように勧められ薩摩に向かいました、薩摩では温泉につかり霧島山に登ってのんびりと過ごしました。この時の逗留した温泉は霧島温泉と思われがちですが、最も長く逗留したのは「塩浸(しおひたし)温泉」でした。

 選択肢を「霧島温泉」にしようと思いましたが、『江戸時代年表』249には、正確に「塩浸温泉」と書いてありますので、「塩浸温泉」を選択肢としました。

 この時、龍馬が姉の乙女に送った霧島登山の絵入り手紙は大変有名です。

8、 ②萩口

 この問題は多くの人が正解がわかったのではないかと思います。

 芸州口、大島口、石州口、小倉口の四方面から幕府軍が攻め寄せてきました。

 芸州口は広島方面、大島口は瀬戸内海の大島付近、石州口は石見国との境付近、小倉口は関門海峡方面を指します。

当初、幕府は、萩方面からの攻撃も検討したようですが、萩方面担当が予定されていた薩摩藩が出兵拒否したため、萩口からの攻撃は実施されませんでした。

 第2次長州征伐は、慶応2年6月7日に、幕府軍艦が大島を攻撃したことにより始まります。大島を攻撃した幕府軍は、そのまま大島を占領しますが、これに対して6月12日高杉晋作が丙寅丸に乗って夜間幕府海軍に奇襲攻撃を仕掛け幕府海軍を敗走させ、翌日、第2奇兵隊などの長州側は大島を奪還しました。

 参照:『オールカラーでわかりやすい幕末・明治維新』(西東社刊)

9④小倉城

第2次長州征伐では、軍制改革に成功した長州藩が、幕府軍を圧倒していきます。芸州口こそ一進一退の攻防が続いたものの、それ以外の石州口、大島口、小倉口では、幕府軍が敗退していきました。

 大村益次郎(村田蔵六)に指導された石州口では、長州藩は益田を攻め落とし、さらに浜田を攻撃しました。浜田藩は自ら城を焼き退去しました。

 大島口では、長州藩は初戦敗退したもので、すぐに第2奇兵隊等が上陸し幕府軍を撤退させています。

 小倉口では、高杉晋作に指導され、奇兵隊を中心とした長州軍が3度の渡海攻撃を仕掛けて、小倉藩を圧倒していきます。

7月30日には肥後藩をはじめとした九州諸藩の軍勢は自分の藩に引き上げてしまいます。そこで、8月1日に、小倉藩自ら小倉城に火をつけて撤退をしました。

10、 ③勝海舟 

 この問題は簡単だったと思います。まさに基礎的知識です。

 勝海舟は、元治元年に軍艦奉行を罷免されていました。それが、慶応2年5月、急遽、呼び出されて軍艦奉行に復職し、ただちに大坂行を命じられました。

さらに、8月には休戦交渉のため広島行を命じられ、9月2日、当時長州藩の勢力範囲下であった厳島の大願寺で、長州の広沢真臣や井上馨等の長州代表団と交渉し、休戦しました。

 その時の様子は、中公文庫『氷川清話』P5459に書かれています、

 参照:『江戸時代年表』P248


 


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by wheatbaku | 2017-06-08 10:44 | 『幕末』 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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