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河井継之助の藩政改革(北越戦争レポート⑥)

河井継之助の藩政改革(主に禄高改正)(北越戦争レポート⑥)

長岡レポートの6回目は、河井継之助(つぎのすけ)が行なった藩政改革について書きます。

 河井継之助(つぎのすけ)が行なった藩政改革のうち、私が一番注目したのが、禄高改正です。詳しくは後で述べますが、これは画期的なことだと思っていました。そうしましたら、思いがけず江戸検お題のテキスト『疾走!幕末・維新』に河井継之助(つぎのすけ)の行った藩政改革のなかでこのことが取り上げられています。

 そこで、禄高改正を中心に藩政改革について、取り上げることにします。

河井継之助(つぎのすけ)がどのように藩政改革を進めたのかについて具体的に紹介した資料は見当たらないと『決定版河井継之助』の中で稲川館長さんは書いています。

そこで、河井継之助(つぎのすけ)記念館には河井継之助(つぎのすけ)が行なった藩政改革についてまとめた資料が展示されていましたので、それに基づいて説明します。

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その展示資料では河井継之助(つぎのすけ)が行なった藩政改革を8つにまとめていました。

つまり、①軍制改革と禄高改を行う。②賄賂の慣習をやめさせる。③贅沢を一掃する。④免税制度の不正をやめさせる。⑤河税を廃止する。⑥造士寮を創設する。⑦賭博を禁止する。⑧遊郭を廃止する。の8項目です。

 河井継之助(つぎのすけ)は慶応元年10月に郡奉行となっています。

 この時代に行った藩政改革は、②賄賂の慣習をやめさせる。(慶応元年10月実施)、③贅沢を一掃する。(慶応元年10月実施)④免税制度の不正をやめさせる。(時期は不明)だと思われます。

そして河井継之助(つぎのすけ)は、慶応2年11月に町奉行を兼務することになりました。

その時代に実施された主に民政面での改革が、⑤河税を廃止する。(慶応3年12月実施)、⑥造士寮(人材育成機関)を創設する。(慶応310月実施)、⑦賭博を禁止する。(時期不明)、⑧遊郭を廃止する。〈慶応3年12月実施〉です。

 こうした藩政改革を踏まえて、大政奉還から王政復古の大号令そして鳥羽伏見の戦いでの旧幕府軍の敗北という激動する時代に対処するために行われたのが、①軍制改革と禄高改正です。

 このうちの禄高改正は、慶応4年3月1日に発表されています。

 禄高改正と軍制改革については、それについて詳しく書いてある『河井継之助の真実』(外川淳著)を参考に書いていきます。

禄高の改正は大改革でした。藩士の禄高を百石前後に統一しようというものです。

河井継之助(つぎのすけ)は長岡藩の軍制を根本から変えるために、まず藩士の禄高の百石に統一しようと考えました。

 江戸時代の武士は、禄高を主君から与えられる見返りとして、軍役にもとづいて平時には家臣を扶養し、戦時には一定数の家臣を連れて合戦に出陣する義務を負っていました。ところが、泰平の時代が続き、武士が実際に軍役を負担することがなくなり、さらに生活が困窮するにつれて、軍役の負担は形骸化していきます。

河井継之助(つぎのすけ)は、軍役が形骸化している以上、上級家臣に必要以上の禄高を与えることは無駄と判断し、藩士の基本給を百石に統一しようとしました。

また、戦国時代までは、上級武士は家来を引き連れて戦いましたが、近代的軍隊では、上級武士も一兵卒として戦わねばならません。

そこで、河井継之助(つぎのすけ)は、「上級武士でも戦場では一兵卒として戦う」という意識を一人一人に植えつけるため、藩士の禄高を百石に統一しようとしたとも考えられています。

しかし、百石への統一という改革は急激な改革であり、藩内の反発も予想されるため、実際の慶応4年3月1日の禄高改正では、2千石の稲垣家は5百石、20石の下級武士は50石というふうに柔軟に対応しています。

「疾走!幕末・維新」では、藩主への権力を集中するために行ったと書いています。

その通りですが、私は、さらに進んで、武士の役割をも否定し封建体制を崩壊させてしまうという側面もある画期的な改革だと思います。

 続いて河井継之助(つぎのすけ)が実施した軍制改革について書きます。

 河井継之助(つぎのすけ)は、身分別に士分を銃士隊、足軽以下を銃率隊という定員36名とする小隊を基礎単位としました。そして8小隊で1大隊を構成しようとしました。河井継之助(つぎのすけ)は小隊を32個編成しようとしましたので、総数で4大隊・総定員約1100名の軍隊を編成しようとしたことになります。 

 しかし、実際の軍勢は千名ぐらいと言われているようです。

また、兵器では、ミニエー銃(前装式のライフル銃)を各小隊に配備しました。

すでに、日本には後装式ライフル銃や連発銃も輸入されていましたので、最新鋭ではありませんでしたが、当時としては一定の評価ができる軍備といえると思います。

戊辰戦争当時の東北諸藩の中には、戦国時代さながらの軍装で出陣した藩もあるなかで、たとえ千名であっても、新政府軍に対抗できる小銃を保有し、近代戦の訓練を受けた兵士でしたので、長岡藩はかなりの戦力を保持していたということになります。



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by wheatbaku | 2017-07-06 08:47 | 『幕末』 | Trackback
ガトリング砲(北越戦争レポート⑤)

ガトリング砲(北越戦争レポート⑤)

 河井継之助記念館を入ると、まず目に入ってくるのが、ガトリング砲です。ガトリング砲といえば即座に河井継之助の名前があがるほど河井継之助とガトリング砲は大変有名です。そこで、今日はガトリング砲について書きます。

ガトリング砲とは、複数の銃身を束ねた連発砲です。のちの機関銃の原型と言われています。

 記念館に展示されているガトリング砲は、中心軸を中心に6本の銃身を束ねてあり、右脇にあるハンドルをまわして銃身を旋回させると弾丸が連続発射する仕組みです。下写真は河井継之助記念館に展示されていたガトリング砲です。

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下写真がハンドル部分の拡大写真です。黒いハンドルを回すと銃身が回転し弾丸を発射する仕組みになっています。


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1861型では1分間に最大200発の発射が可能でした。そのため、宣伝文句で「一挺で一個連隊に匹敵する」と言われました

ガトリング砲は、1862年にアメリカの医師リチャード・ジョーダン・ガトリングによって開発された兵器です。

アメリカでは、南北戦争の最中でした。南北戦争は1865年に終了し、アメリカでの販売が難しくなります。

そこで、日本への売り込みが行われました。日本ではちょうど衣臭くなってきた時期でした。

日本には3台のガトリング砲が、ファーブルブラント商会によって輸入されました。そのうち2台を河井継之助は購入しました。

ガトリング砲は大変高価でして、河井継之助はこれを1台3千両(河井継之助記念館の説明によります。ほかの書物には5千両と書いてあるものもあります)で購入しました。

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 河井継之助は、鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗北すると、長岡藩兵を率いて江戸に急いで戻りました。

 そして、藩士のほとんどを長岡に帰した後、長岡藩の江戸藩邸および備品等を処分します。

 こうして工面した資金をもとに横浜で武器を購入しました。

それを、河井継之助は、横浜で船に積み込み、新潟港まで輸送し、長岡城に運び込みました。

このガトリング砲が威力を発揮したのが、慶応4年5月19日に新政府軍により長岡城が攻撃された時です。

この時、ガトリング砲を河井継之助は自身で操作して、慶応4年5月19日の長岡城攻防戦で使用し、新政府軍を苦しめました。

 こうした河井継之助とガトリング砲の活躍にもかかわらず、多勢に無勢で、長岡城は落城という憂き目にあっています。

 ガトリング砲は当時、日本には3門しかなかったと言われています。

 そのうち、2門が河井継之助が購入しましたので、残り1門がどうしたかということが疑問として残ります。

 これについて司馬遼太郎は「峠」で次のように、薩摩藩が購入し藩軍艦尾「春日」に載せたと書いています。

この砲は、継之助かスネルから買ったガットリング砲で、日本に三門しかないというもので、いわば世界的にまだめずらしい新兵器であった。日本に三門しかないうちの二門を継之助はおさえたが、あとの一門は薩摩藩に買われてしまった。薩摩藩はそれを藩冪艦の春日の艦尾にのせた。その艦尾砲の主任士官が東郷平八郎という青年であり、宮古湾海戦でこの砲が威力を発揮したが、むろん、この場合の継之助とはなんのかかわりもない。「機関砲」という名は、継之助がつけた。

なお、新政府軍の軍艦「甲鉄」にもガトリング砲が載せられていたようですが、このガトリング砲は『図説幕末維新の銃砲大全』によれば1685型という型式で、これは河井継之助が購入したものとは型式が違っているようです。

 


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by wheatbaku | 2017-07-03 23:17 | 『幕末』 | Trackback
河井継之助記念館(北越戦争レポート④)

河井継之助記念館(北越戦争レポート④)

長岡についての記事、今日は、「河井継之助記念館」について書いていきます。

 河井継之助記念館は、長岡駅から徒歩9分の場所にあり、長岡駅から歩いていきました。

 河井継之助記念は、平成18年に長岡市制100周年記念の一環として、河井継之助が住んでいた屋敷跡に開設されました。

 外観は記念館風ではなく、個人の住宅の雰囲気です。これは、記念館は、河井継之助屋敷跡にあった個人のお宅をそのまま利用して開設したそうですから、その見えるのですね。

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 河井継之助記念館は、河井継之助に関する資料が展示されていて、河井継之助の一生や北越戦争の動きなどが、わかりやすく解説されています。

 河井継之助を知るには、まずここを訪ねるのがよいと思います。

 館内の展示は、一部の物を除いては撮影禁止ですが、河井継之助の銅像はOKとのことでしたので、写真を撮らせていただきました。
銅像は「風雲 蒼龍窟 河井継之助像」と名付けられていて長岡在住の彫刻家峰村哲也氏が制作したものです。

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 河井継之助記念館は、河井継之助ゆかりの地を知る上で欠かせない場所ですので、ここを訪ねましたが、訪問の目的はもう一つありました。

 それは、記念館の館長の稲川明雄様にお会いするためです。

 稲川館長さんは、このブログの記事を書く上でお世話になっている『長岡藩』の著者ですし、河井継之助に関する著書も多数あります。

 そこで、河井継之助に関して、いろいろご教示いただこうと思ってお邪魔させていただきました。

入館早々に稲川館長さんにお会いしたい旨お願いしましたら、来客中とのことで、用事が済まされた後にお会いすることができ、まず持参した著書「決定版河井継之助」にサインをしていただきました。

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 稲川館長さんからは、いろいろご教示いただきましたが、話題の中心は、河井継之助の名前の呼び方です。

 河井継之助は、多くの場合、「つぐのすけ」と呼ばれます。しかし、「つぎのすけ」とも呼ぶ場合もあります。

 そこで、その点をお尋ねしました。稲川館長さんのお答えは明快でした。一言で「『つぎのすけ』です」とのことでした。

 稲川館長さんのお話では、元々は『つぎのすけ』ですが、越後弁では、『ぎ』という語尾が上がる発音が明確にならず、『ぐ』という語尾の下がる発音に似た発音になりやすいそうです。そのため『つぎのすけ』が誤って『つぐのすけ』と聞きとられたのだろうとのことでした。

 

 河井継之助を一気に全国区の有名人に押し上げたのは司馬遼太郎の「峠」でしょう。

 その司馬遼太郎のエピソードを稲川館長さんがしてくださいました。

「司馬さんは、『峠』を書く前に『英雄児』という短編で河井継之助について書いています。その短編の原稿には『つぐのすけ』とフリガナが振られていました。しかし、『峠』では、印刷された本では、最初だけ「つぎのすけ」とフリガナがふられているだけですが、残された原稿を見ると、原稿ではすべての『継之助』に『つぎのすけ』とフリガナが振られています。すべてに『つぎのすけ』とフリガナがふられていることに司馬さんの思いが込められているように思います」

 稲川館長さんのおっしゃられたことは、司馬遼太郎は初期の『英雄児』を書く時、河井継之助という人物の正しい名前も知らなかったことに対する悔い(もしくは申し訳なさ)が、『峠』を書く時にはそうさせたのではないかということだと思います。

 そうだとすれば、司馬遼太郎もすごい人だと思いました。

 稲川館長さんには事前の予約なしにお邪魔したにもかかわらず長時間に亘り貴重なお話を伺うことができました。稲川館長さんは、毎日出勤されているわけではないとのことで、お会いできて大変幸運でした。

 稲川館長さんに、写真を一枚とお願いしましたら、快く承諾してくださいました。

 稲川館長さん、本当にありがとうございました。心よりお礼申し上げます。

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 河井継之助の呼び名について、稲川館長さんのお話を裏付ける展示が河井継之助記念館にありました。

河井継之助は、慶応元年から藩政改革を行いましたが、その一環として慶応2年もしくは3年に遊郭を廃止しました。

 その際に、つぎのような狂歌が長岡に流行ったそうです。

「河井(可愛い)河井(可愛い)と今朝までおもひても 今では愛想も継(尽き)之助」

 この最後の句にご注意ください。

 「愛想が継(尽き)之助」となっています。これは「愛想がつく」と「つぎのすけ」とをかけた言葉です。

 もし、「つぐのすけ」であれば、掛け言葉になりません。

 やはり、長岡の人たちは「つぎのすけ」と当時から呼んでいたのに違いありません。

 なお、江戸検お題参考図書「幕末・維新」P176に前述の狂歌が書かれていますので、江戸検を受検される皆さんはご確認ください。

 その後も、長岡市内の観光案内や史跡説明板で、河井継之助のフリガナを意識して見てみると、長岡では、すべて「つぎのすけ」でした。

また、家に帰り、早速、司馬遼太郎の『峠』も確認しました。確かに最初に「つぎのすけ」とフリガナが振ってありました。

 これからは「つぐのすけ」ではなく「つぎのすけ」と呼ぶことにします

 


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by wheatbaku | 2017-07-01 21:49 | 『幕末』 | Trackback
  

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