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松前城攻略と開陽沈没(箱館戦争史跡めぐり⑧)

松前城攻略と開陽沈没(箱館戦争史跡めぐり⑧)

箱館と五稜郭を占領した旧幕府軍は、土方歳三を総指揮者とした700名の部隊が、松前城攻撃に向かいました。大鳥圭介は五稜郭に残りました。

土方歳三が率いた部隊は、彰義隊、額兵隊、陸軍隊などでした。

松前城攻撃に向かう部隊に新選組は含まれていません。しかし、攻撃軍の指揮は土方歳三がとりました。

もうすでに、土方歳三は、新選組の指揮者にとどまらず、旧幕府軍の重要な幹部になっていたのです。

11月5日、土方歳三ひきいる旧幕府軍は、松前城を攻撃します。

 この攻撃には、海からも回天と蟠龍が砲撃を加えました

 両艦の砲撃などにより城内では火災が生じ、その中を旧幕府軍がなだれ込み、松前城は陥落しました。

 松前藩兵は、江差にむけて落ちていきました。

この戦いで松前城下では火事が盛んとなり、城下の4分の3が焼失しました。

さらに15日には、旧幕府軍に備えて急造された館城も、松岡四郎次郎率いる一聯隊約200名の攻撃を受けて落城しました。

この戦いでは、左手に俎板、右手に大刀をふりかざして、今弁慶さながら奮戦、戦死した松前法華寺住職の三上超順の名が伝えられています。

五稜郭タワーの歴史回廊にもジオラマで三上超順の門前で奮戦する姿が描かれています。

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1119日、松前藩主松前徳広は、蝦夷地を離れ、津軽まで逃れ、弘前の薬王院に入りました。まもなく、松前徳広は肺結核が悪化し25歳の若さで病死しました。

こうした陸軍の速攻と奮闘によって松前攻略に成功しましたが、旧幕府軍には海で悲劇が起こりました。

陸軍の江差攻撃の応援のため江差沖に碇泊中の開陽が、15日夜暴風雨に襲われて座礁し、数日後に沈没してしまったのです。

開陽はオランダで建造された軍艦で、当時世界でも最新鋭の軍艦で、開陽の進水式はオランダで話題になったほどです。

当然のことながら日本でも最新鋭で、榎本武揚および同行の旧幕府軍全員が最も頼りにしていた軍艦です。

これがあっけなく沈没してしまいました。

しかも開陽の救援に向かった神速丸も座礁し沈没してしまいました。旧幕府軍にとっては大きな痛手でした。

この開陽沈没はあまりにも衝撃的であったため、江差攻略を指揮していた土方歳三が、沈没する開陽を眺めながらそばにある松の木を殴りつけたという逸話が残っています。

下写真は、五稜郭タワーの歴史回廊のジオラマですが、土方歳三がこぶしを松にたたきつけている場面を描いています。

この時の松は、現在も江差町郷土資料館の前に「土方歳三嘆きの松」として現存しているそうです。

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by wheatbaku | 2017-08-29 21:57 | 『幕末』 | Trackback
文京学院大学で「疾走!幕末・維新」講義しました。

文京学院大学で「疾走!幕末・維新」講義しました。

昨日は、文京学院大学生涯学習センターで、「疾走!幕末・維新 薩摩編」という講座があり幕末・維新についてお話してきました。

 江戸検の今年のお題が「疾走!幕末・維新」ですので、それとタイアップした講座で、座学が2回、史跡散歩が1回の合計3回の連続講座で、昨日が第1回でした。

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 講座を受講された方は30人でしたが、会場でお顔を拝見すると知っている人が半数以上いましたので、ほっとしました。

 また、6年ぶりに元気な姿を拝見できた方もいて、大変うれしく思いました。

 

 タイトルは「幕末・維新」となっていますが、講座内容は戊辰戦争に限りお話をすることになっていて、座学が2回ですので、鳥羽伏見の戦い、江戸城無血開城、上野戦争を第1回で、北越戦争、会津戦争、箱館戦争を第2回で講義するという組み立てにしました。

 昨日は、第1回目ですので、鳥羽伏見の戦い、江戸城無血開城、上野戦争について解説しました。

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 この講座のお話は、昨年の暮にいただいた話でした。

そこで、それ以来戊辰戦争ゆかりの地、鳥羽伏見、桑名、長岡、白河、会津、仙台、函館を訪ねて史跡を見てきました。

 そこで、私自身は、現地の様子を頭に浮かぶことができますが、これを受講される人たちにどう伝えられる苦労しましたが、現地の写真や地図を利用して、説明しました。

 講座終了後の感想では、現地の様子が理解できたというご意見もありましたので、ほっとしています。

 鳥羽伏見の戦いは、戦いの経緯のほか、勝敗を決定づけた錦の御旗がどのように作成されて戦場に登場したのかということにも触れて説明しました。

 また、江戸城無血開城については、西郷隆盛の当初の厳しい態度と旧幕府側の徳川慶喜助命嘆願の動きについて説明しました。

 上野戦争については、史跡散歩が上野であるので、その散歩を前提に江戸時代の切絵図も利用して説明しました。

 受講された皆さんの半分は知り合いの方でしたので、熱心に聞いてくれましたが、初めての方も非常に熱心に聞いてくださり、帰りがけに「1時間半が短く感じられました」とわざわざお礼をいってくださった方もありました。

 講義を聞いていただいた皆様、ありがとうございました。




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by wheatbaku | 2017-08-27 11:29 | Trackback
五稜郭入城(箱館戦争史跡めぐり⑦)

五稜郭入城(箱館戦争史跡めぐり⑦)

今日は、旧幕府軍の五稜郭入城について書いていきます。

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10月20日に鷲ノ木沖に到着した榎本艦隊は、人見勝太郎を使者として箱館府に派遣し、翌日21日に全部隊が上陸しました。

この時期の箱館はすでに新政府に接収されていました。

慶応4年閏4月、最後の箱館奉行杉浦誠は、旧幕府の指示で、新たに箱館府知事に任命された新政府の清水谷公考に、五稜郭にある箱館奉行所を引き渡していました。

旧幕府軍は、この清水谷公考あてに嘆願書を提出するために使者を派遣したのです。

 人見勝太郎を派遣した後、旧幕府軍は、本隊と分隊に分れ、本隊は大鳥圭介が指揮し伝習隊・遊撃隊・新撰組が、大沼の西を通って五稜郭への本道を進み、海沿いの道を通って五稜郭へ向かう分隊は土方歳三が額兵隊などを指揮して進軍しました。

 10月22日の夜、旧幕府軍の本隊と新政府軍は、峠下村(亀田郡七飯町)で戦闘状態に入ります。

新政府軍が人見隊を夜襲したのが箱館戦争の始まりです。

しかし、新政府軍の夜襲は失敗し、旧幕府軍の追撃を受けることになりました。

大鳥圭介は、10月24日、部隊を2つに分けて、大野村(同郡大野町)と七重村(七飯町)に進軍します。

大野村には大鳥率いる伝習士官隊と伝習歩兵隊が向かい、七重村には人見勝太郎が指揮する遊撃隊・新撰組・工兵隊が進みました。

大野村の新政府軍は五稜郭へ引揚命令があったため、大鳥圭介隊は楽勝でした。

一方、七重村では両軍が激突し、数に勝る新政府軍が優勢で旧幕府軍は苦戦を強いられますが、斬りこみによる白兵戦で形勢を逆転し、新政府軍は敗退しました。

 敗戦の報せを受けた清水谷知事は、25日青森への撤退することにします。

諸藩の兵も外国船に高い乗船料を払って、次々に箱館港から脱出しました。

七重村に集結した旧幕府軍の大鳥圭介隊は、五稜郭を攻めるに慎重に対応し、25日は、五稜郭近くまで前進しただけです。

そして、10月26日、いよいよ総攻撃にかかり、五稜郭に向かいましたが、五稜郭はもぬけのからで、無血入城することができました。

一方、海沿いの道を進んだ土方歳三が指揮する額兵隊等の部隊は、新政府軍の抵抗はなく、25日には湯の川まで到着しており、26日、土方歳三が五稜郭に入城しました。
 鷲ノ木沖で舵の修理をしていた開陽は11月1日箱館に入港し、榎本武揚も五稜郭に入城しました。

 五稜郭タワーの歴史回廊には、五稜郭入城時のジオラマが展示されています。

 上段の写真と下の写真が、そのジオラマです。

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by wheatbaku | 2017-08-25 19:47 | 『幕末』 | Trackback(1)
8月の獏塾ゼミが開催されました。

8月の獏塾ゼミが開催されました。

日曜日に 獏塾ゼミが開催されました。

獏塾ゼミは、江戸検1級合格をめざして勉強しているグループ「獏塾」で、塾生同志で勉強しましょうということで開催していますが、4月から6月までは『江戸博覧強記』について勉強し、7月と8月は今年のお題の「幕末・維新」について勉強しました。

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先日の獏塾ゼミは、今年の最後のゼミですが、蝦夷っ子さん(下写真)を講師にして「幕末・維新」の2回目で「徳川慶喜の将軍就任から戊辰戦争終了まで」について勉強しました。

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蝦夷っ子さんは、お題のテキストからの重要項目をピックアップした資料のほか、独自に作成した年表や地図を資料として懇切に説明してくれました。

いつもの通り、わかりやすい説明で、よかったです。

それは私だけの感想でなく、参加者の皆さんもそう感じたようです。2回の講義で「幕末・維新」について理解がふかまったと大変好評でした。

 中嶋さん、豊富な資料の作成と講義ありがとうございました。

 続いて、本郷の主殿さん(下写真)担当の模擬試験出題と解説です。

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 今回の模擬試験は、「幕末・維新」関連が半分、過去問が半分でした。

 「幕末・維新」では太田垣蓮月について出題され、多くの参加者が苦心したようです。

しかし、主殿さんの解説で理解が深まったようで、帰りがけに大分話題となっていました。

 また、過去問を題材に、書き誤りやすい漢字や難読文字などの記述問題についても解説してもらいました。

 問題を解くうえで大変参考になるお話しでした。

 本郷の主殿さん、注意すべき点の指摘、ありがとうございました。

 ゼミの最後は、キネマっ子さん(下写真)の合格体験談です。

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 キネマっ子さんは、一点深堀の名人で、あることに注目すると徹底して究明するので、日頃からおもしろい話題を提供してくれるのですが、合格体験談もユニークで面白かったです。

 六弥太格子のハンカチを利用したり、歴史上の人物の系図を作成したり、独自の履歴書を作成するなどというのはユニークな勉強方法を紹介してくれました。

 しかし、最後の2カ月間は、『江戸博覧強記』などの受検勉強まっしぐらだったということが付け加えられて、さすが合格者だと思いました。

 キネマっ子さん、おもしろいお話し一杯ありがとうございました。

 この後、懇親会がいつもどおり開催されました。私は、ちょっと事情があって懇親会は出席できませんでしたが、いつもどおり大変盛り上がったようです。

 獏塾ゼミにご参加の皆さん、大変お疲れ様でした。


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by wheatbaku | 2017-08-22 10:55 | Trackback
榎本艦隊、蝦夷地上陸(箱館戦争史跡めぐり⑥)

榎本艦隊、蝦夷地上陸(箱館戦争史跡めぐり⑥)

 箱館戦争史跡めぐりですが、今までは史跡を順に紹介してきましたし、これからも史跡を紹介していく予定です。 

しかし、箱館戦争の経緯を先に書いておいたほうがよいと思いました。

そこで、これからは何回かに分けて箱館戦争の経緯を書いていきます。

 箱館戦争は、榎本艦隊が、明治元年10月に蝦夷地に上陸したことから始まります。

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 榎本武揚は開陽、回天、蟠龍、千代田形の4隻の軍艦と美嘉保や咸臨など4隻の運送船、総計8隻で、慶応4年8月19日、品川沖を出港しました。

 この時、若年寄永井尚志、陸軍奉行並松平太郎らの要人が同乗しました。

そのほか彰義隊から分かれて振武軍を結成した渋沢成一郎、遊撃隊の伊庭八郎、さらに高田藩の神木隊も同乗していました。

 しかし、出航直後の暴風雨に遭遇し、美嘉保丸は銚子沖の暗礁に乗りあげ破船しました。この船に乗っていた伊庭八郎は上陸した後箱館に向かいました。

また、破損した咸臨丸は清水港に入港して新政府軍に拿捕されています。

旗艦開陽も梶を失って3日間漂流後26日仙台についています。

しかし、9月15日に仙台藩が降伏しました。

そのため、仙台に集まっていた老中板倉勝静と小笠原長行、京都所司代松平定敬などの要職経験者、土方歳三が率いる新選組、彰義隊、さらに仙台藩の額兵隊なども榎本武揚艦隊に合流しました。

そのため、榎本軍は総勢で3千名近くになりました。

榎本艦隊は、10月12日に石巻を出航しました。

途中宮古湾を経由したあと、10月20日に蝦夷地鷲ノ木の沖に到着しました。

榎本艦隊が直接箱館港に向かわなかったのは、一つには箱館港は開港されていて外国船も入港してところで戦闘が起こるのを避けたこと、さらに箱館港入口には弁天岬台場があり、そこからの砲撃を避けたためと言われています。

10月21日には、全軍は蝦夷地に上陸しました。

五稜郭タワーには、「五稜郭歴史回廊」というコーナーがあり、箱館戦争を中心として箱館の歴史がわかるようにジオラマが展示されています。

榎本軍が蝦夷地に上陸した様子も表現されています。

最上段の写真と下の写真は、そのジオラマを撮影したものです。

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by wheatbaku | 2017-08-18 21:55 | Trackback
千代ケ岡陣屋(箱館戦争史跡めぐり⑤)

 千代ケ岡陣屋(箱館戦争史跡めぐり⑤)

 箱館戦争史跡めぐりの5回目は「千代ケ岡陣屋跡」を紹介します。

 函館駅から五稜郭にむかう市電の「「千代台(ちよがだい)」電停の近くにある千代台公園の陸上競技場近くに説明板が設置されています。(下写真参照)

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 昔は鶴が飛来する岡だったので、江戸中期に八代松前藩主の室自正院文子が「千世の岡」と名づけた所とされ、「干代ヶ岡」や「千代ヶ台」と呼ばれましたが、「千代ヶ岱(ちよがたい)」とも呼ばれたそうです。

 現在の説明板では、上記の写真でお分かりになると思いますが、「千代ケ岡陣屋跡」となっています。

千代ヶ岡陣屋は、幕府直轄時代の文化5年に蝦夷地出兵を命じられた仙台藩が陣屋を設営したのが最初になります。

その後、蝦夷地が再び幕府直轄となった安政2年に津軽藩が陣屋を設営しました。そのために津軽陣屋ともいわれたようです。

周囲には約3.6mの土塁が築かれ、その周りには約12メートルの堀が掘られていてき、そのなかに本陣や兵舎など建物がありました。

五稜郭を占領した榎本武揚軍は大砲を備えて陣営とし、中島三郎助らが守り、そして、ここで最期を遂げました。

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中島三郎助は、浦賀奉行所与力でした。嘉永6年、浦賀沖に突如現れた黒船に最初に乗り込みアメリカ側と交渉した経歴があります。その後、長崎海軍伝習所の第一期生となり、3年後には軍艦操練所教授方となりました。

江戸城無血開城後、榎本武揚と共に蝦夷地にやってきました。

そして、中島三郎助は箱館奉行並として千代ヶ岡陣屋の守備につきました。

明治2年5月11日の新政府軍の総攻撃により箱館市内の大部分が制圧されると、新政府軍は、中島三郎助に降伏勧告をしましたが、中島はそれを拒絶して戦闘を続け、516日に長男恒太郎や次男英次郎と共に戦死しました。

「ほととぎす われも血を吐く 思い哉」という辞世の句を残しています。

 陸上競技場近くの函館税務署の入口の緑地帯には、中島三郎助父子最後之地の石碑が建てられています。

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 毎年5月の箱館五稜郭祭では碑前祭が行われるそうです。

千代台公園の隣は中島町という町名で、中島小学校という小学校もありますが、これは中島三郎助に由来する町名です。

中島小学校のある場所が千代ケ岡陣屋の本陣があった場所だそうです。

明治時代には陣屋付近一帯が函館重砲兵連隊の陣地となり、第二次世界大戦後まで兵営所でしたが、戦後、競技場や野球場のある運動公園となったそうです。

町名も干代ヶ岱町だったが昭和43年千代台となったため、市電の電停も「千代台」となっています。



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by wheatbaku | 2017-08-16 20:20 | 『幕末』 | Trackback
弁天岬台場(弁天台場)  (箱館戦争史跡めぐり④)

弁天岬台場(弁天台場)  (箱館戦争史跡めぐり④)

箱館戦争史跡めぐりの4回目には、弁天岬台場(もしくは弁天台場ともいうようです)について書いていきます。

 弁天岬台場は、現在の函館ドックの場所にありましたが、明治29年に港湾改良工事のため解体されました。

そのため、弁天岬台場そのものは残されていません。

函館市電「函館どつく前」電停のすぐそばの児童公園に「弁天岬台場跡」の説明板が設置されています。(下写真参照)

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 箱館奉行は安政元年12月9日、外国船に備える砲台などが整っていないとして、矢不来、押付、山背泊、弁天岬、立待岬、築島、沖の口番所の七か所をあげて、台場の修築ないし新築の必要を老中へ上申しました。

しかし、幕府は一挙に取りかかるのは無理と判断し、最も重要と思われる弁天岬、築島から築造することになりましたが、実際に着工できたのは弁天岬台場だけでした。

 弁天岬は港内第一の要地であるため、海岸の暗礁の上に、三方面に対応した台場を造れば、函館港と市中の防衛になると考えられました。

 台場の設計は五稜郭と同じ武田斐三郎が担当し、台場の建設費用は10万両の計画で、安政3年から工事が始まり、土や石は箱館山のものを使い、重要部分は備前御影石を大坂から運んで、文久3年に完成しました。

台場の形状は不等辺六角形をしていて、周囲は390間余(約710メートル)あり、高さ約37尺(約11.2メートル)ありました。

台場には、15個の大砲が据え付けられ、山背泊からと合わせて十字射撃できるという構想でした。大砲のうち数門はロシアのディアナ号に備えつけられた大砲を贈られたものでした。

 箱館戦争では、榎本武揚艦隊は、明治元年10月20日に蝦夷地鷲ノ木に錨をおろし、翌日上陸しますが、直接、箱館に向かわなかった大きな理由の一つに箱館港には弁天岬台場があり、そこからの砲撃を避けることがあったようです。

 榎本武揚軍が五稜郭に入城してからは、新選組など守備しました。

新政府軍が総攻撃をかけてきた明治2年5月15日に弁天岬台場は海上と箱館山側から攻撃されて台場に立て籠もっていた新選組さらに箱館奉行であった永井尚志らは降伏しました。

 このため、新選組にとって最後の拠点でした。そこで近くの児童公園の弁天台場の説明板の脇には「新選組最期の地」と書かれた標柱が建てられていました。(下写真参照)

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弁天台場には、明治20年まで陸軍省函館砲隊が入り、明治29年港湾改良で壊され、跡地に函館ドックができました。

この時の港湾改良を記念した石碑「函館港改良工事記念碑」が防波堤そばに設置されています。石碑の石は、弁天台場の土塁石垣に使用されていた備前産の御影石を再利用したものです。(写真右手が記念碑です)

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by wheatbaku | 2017-08-14 19:00 | 『幕末』 | Trackback
箱館奉行所(箱館戦争史跡めぐり③)

 箱館奉行所(箱館戦争史跡めぐり③)

前回、五稜郭は箱館奉行所を守るための堡塁だとかきました。

 今日は、五稜郭が守っている箱館奉行所についてご案内します。

 下写真が、箱館奉行所です。

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 箱館奉行所は、実は二度にわたって設置されています。

 まず、最初は、ロシアが南下政策をとるなかで、ロシア船が蝦夷地近海に頻繁に表れるようになりました。

 そのした中で、幕府は、寛政11年(1799)に松前藩が統治していた東蝦夷地を直轄地にしました。

そして、享和2年(1802)には蝦夷奉行(同じ年に箱館奉行と改称)を設置しました。

さらに、享和3年には箱館の港を見おろす現在の元町公園に奉行所が建てられました。

元町公園には、元箱館奉行所跡と書かれた標柱が建てられています。(下記写真参照)

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 その後、ロシアとの関係が落ち着いたことから、蝦夷地の直轄管理体制が解かれ、箱館奉行所も廃止されました。

 しかし、安政元年の日米和親条約により、安政2年に箱館が開港されることになり、箱館奉行所が再び設置されました。

 その際の箱館奉行所は、元の箱館奉行所の設置場所、現在の元町公園がある場所に設置されました。

奉行所からは、箱館の港と町を一望できましたが、箱館港に出入りする外国の軍艦からは、格好の標的になる不用心な場所に奉行所は建っていました。

そこで、安全な場所へ箱館奉行所を移転することとなり、亀田村に移転することになりました。

亀田村は、箱館港から約3km離れていて、当時の大砲の射程距離から外れていました。また、亀田川から水を引くことができました。

ここが、現在の五稜郭のある場所です。

五稜郭が万延元年年(1860)にできあがり、翌元治元年(1861)に箱館奉行所も完成し、当時の箱館奉行小出秀実が移転しました。

現在の箱館奉行所には奉行の執務室である表座敷が復元されていて、床の間には掛け軸は最後の箱館奉行杉浦兵庫頭誠の書が架かられていました。(下写真)

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 その後、箱館戦争の際には、旧幕府軍の榎本政権の本拠地となりました。

 その箱館戦争が明治2年に終了した後、開拓使が設置され、新政府による北海道の統治が始まりましたが、五稜郭を役所として利用することはありませんでした。

そして、明治4年には、札幌に新築する開拓使本庁舎の材料とするために、旧箱館奉行所と付属建物の大部分が解体されました。

そして、その後、箱館奉行所の姿はありませんでしたが、平成22年に、元の姿に忠実に復元されました。

ただ、旧奉行所が元の大きさのままに復元された訳ではなく、奉行所の主要部分を中心として、元の奉行所の3分の一の大きさで復元されています。

 復元された奉行所には大広間や奉行の執務室であった表座敷が再現されています。

 大広間は72畳もの広さがあるそうです。

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by wheatbaku | 2017-08-12 15:41 | 『幕末』 | Trackback
五稜郭(箱館戦争史跡めぐり②)

 五稜郭(箱館戦争史跡めぐり②)

 今日から、箱館戦争史跡めぐりについて書いていきます。

 まず、最初は「五稜郭」です。

 五稜郭は、星型をした西洋式城郭として大変有名です。

 城郭というイメージが強いですが、天守はありませんでした。

 中央にあるのは箱館奉行所でした。

 五稜郭は、箱館奉行を防御するために造られたのです。

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 安政元年(1854)3月3日に締結された日米和親条約によって、下田と箱館が開港されることになり、下田は即日開港され、箱館は翌年の安政2年3月から開港されることになりました。

安政元年6月に幕府は松前藩から箱館とその周辺の地を上知させ、箱館奉行をおきました。

箱館奉行には竹内保徳そして堀利煕を任命しました。

 安政元年12月、箱館奉行から、奉行所を箱館より北の亀田村に奉行所を移転しそれを守る土塁を建築したいとの伺書が出され、移転することが決定しました。

 それから、約1年を経て、奉行所を守る土塁は西洋式土塁とすることとなりました。

 これにより、五角形の星型をした五稜郭が築城されることになりました。

 亀田村が選ばれたのは、海から3キロあまり離れていて、設計当初は艦砲射撃の対象にならなかったことと亀田川があり水利の便が良かったことが主な理由です。

 建設工事は、安政4年(1856)に掘割工事が始まり、建物の建築は文久元年(1861)に始まり、完成したのは元治元年(1864)のことです。その後も、付帯工事が行なわれ、すべての工事が完成したのは、慶応2年(1866)です。

 五稜郭は、星型をしていますが、正面入口に一つ、三角形の部分があります。

 下写真の手前部分です。赤い屋根の建物が見える地点一帯です。

 これは、半月堡と呼ばれています。当初の設計図では、星型の外側5か所に設置する計画だったそうですが、費用の面で、正面入口にだけ築造されたそうです。

 当初の設計図どおりであれば、五稜郭は、星形の外に5つの突起部分があるという一層複雑な形となったはずです。

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 この五稜郭を設計したのは、武田菱三郎です。

武田菱三郎は、伊予国大洲藩士の次男として生まれました。18歳の時に大坂の緒方洪庵の適塾に入門しました。その後、江戸に出て佐久間象山のもとで砲術をまなび、象山の推挙で幕府に出仕しました。

安政元年には、堀利熙に従って蝦夷地巡察旅行に加わりました。樺太まで渡りました。

この時に、箱館奉行所が設置され、旅行が終わるとともに箱館詰となります。

安政3年には,箱館港防備のための弁天崎台場,安政4年からは箱館奉行所としての五稜郭の設計や監督を行いました

その一方で、安政3年に語学,航海,築城などを教える諸術調所が開かれると諸術調所教授となり、製鉄。造兵、築城、航海、捕鯨などという多方面の分野にわたって指導しました。

ここでは、幕臣とか陪臣とかの身分を問わずに教育する方針でしたので、希望者が各地から集まって来ました。

御用船亀田丸を指揮してロシアのニコラエフスクまで交易に出掛けるなど実践を重んじた教育を行ない、前島密、井上勝、山尾庸三など明治になってから活躍する人々を育てあげました。

そして、元治元年(1864)開成所教授となり、箱館を去りました。

五稜郭の正面入り口を入ると、武田菱三郎の顕彰碑が建てられています。

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by wheatbaku | 2017-08-10 11:56 | 『幕末』 | Trackback
箱館戦争史跡を訪ねてきました。(箱館戦争史跡めぐり①)

箱館戦争史跡を訪ねてきました。(箱館戦争史跡めぐり①)

 先週は、箱館戦争の史跡を訪ねて、1泊2日で函館に行ってきました。

 私は埼玉県に住んでいるため、函館まで飛行機で行く方法のほか、北海道新幹線を利用する方法もあります。旅行会社に聞いたら、新幹線のほうがよいでしょうということなので、北海道新幹線で行ってきました。

 大宮を7時前に出発して函館駅には11時30分に到着しました。(下記写真が函館駅です)

 青函トンネルは25分で通過しました。函館は本当に近いと実感しました。

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 函館でも、箱館戦争関連の史跡を訪ねてきましましたので、これから順にレポートしていきますが、今日は最初ですので、どんなところを訪ねたのか概略をご案内します。

五稜郭

 五稜郭は、箱館戦争を語る際にははずことができませんので、まず、最初に訪ねたのが五稜郭です。

 五稜郭は、星型の西洋式城郭として有名ですが、五稜郭のそばにたっている五稜郭タワーの展望台からは、五稜郭が一望に眺められます。まさに五角形であることが一目瞭然です。

 下写真は展望台から写した五稜郭です。

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箱館奉行所

 五稜郭は、箱館奉行所を防御するために築造されたもののようです。

 箱館戦争の際には、ここが榎本政権の本拠地となった場所です。

 箱館奉行所は、明治になって取り壊されてしまいましたが、平成22年に再建されました。

 念密な検討を加えて昔の姿を復元しているそうです。

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弁天台場跡

 弁天台場は弁天岬台場とも呼ばれて、箱館港を守るために築造されました。

 箱館戦争の際には、ここに永井尚志や新選組が籠城して新政府軍と交戦しました。

 現在は、埋め立てられていて、面影はまったく残っていませんが、近くの児童公園に弁天岬台場の説明板が設置されていました。

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千代ケ岡陣屋跡

 千代ケ岡陣屋は幕末には津軽藩の陣屋として使用されていました。

 箱館戦争の際には、中島三郎助たちが立てこもり、ここを守備しました。

 新政府軍からの最後の攻撃の際に、降伏を勧められましたが、中島三郎助はそれを拒否して、ここで息子たちとともに討死しました。

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一本木関門

 箱館戦争の花形スターは、榎本武揚の外、土方歳三でしょう。

 その土方歳三が亡くなったとされているのが、一本木関門です。

 現在は、総合福祉センターの中庭に「土方歳三最期之地」と刻まれた石碑が建てられています。その脇には一本木関門の模型が作られています。

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碧血碑(へっけつひ)

箱館戦争で亡くなった新政府軍の兵士たちは、護国神社に祀られました。

しかし、旧幕府軍の兵士は、新政府軍の命令により、放置されましたし、その後も、護国神社に祀られることはありませんでした。

 そこで、榎本武揚を筆頭に箱館戦争生き残りの人たちの協賛をえて、箱館戦争で亡くなった人たちを慰霊するために建てられたのが「碧血碑(へっけつひ)」です。

 箱館山の山中にあるため、訪ねるのが一苦労でしたが、苦労した甲斐がありました。

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 その他に訪ねた史跡もありますが、これから順にご案内していきます。



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by wheatbaku | 2017-08-06 17:29 | 『幕末』 | Trackback
  

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