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 伊藤忠兵衛(幕末・維新を乗り切った商人たち①)

 伊藤忠兵衛(幕末・維新を乗り切った商人たち①)

今年の江戸検のお題『疾走!幕末・維新』は政治史だけでなく社会文化史も対象となっていることから、お題テキストでも、政治史以外の分野についても、かなりのボリュームが割かれています。

 そのため、お題テキストでは、いろいろな分野での知識を吸収することができ、江戸検を受検しない立場でも大変勉強になります。

 それを一つ一つ書いていくわけにはいきませんが、私は特に幕末・維新を乗り切った商人たちに興味をもちました。

 そこで、江戸検本番が近付いていることもありますので、谷中霊園に眠る幕末有名人をちょっと中断して「幕末・維新を乗り切った商人たち」について触れていこうと思います。

 お題テキストに書かれている商人たちを中心に書いていきますが、それ以外の商人についても書いていこうと思います。

 まずは、伊藤忠兵衛について書きます。

 伊藤忠兵衛は、巨大総合商社「伊藤忠商事」と「丸紅」の創業者です。

 伊藤忠兵衛は、天保13年(1842)に近江国豊郷の「紅長」という太物問屋の次男坊として生まれました。

 安政5年、伊藤忠兵衛15歳の時に、近江の麻布(まふ;あさぬの)を持って、「持ち下り」商いを始めました。 伊藤忠商事では、これを伊藤忠商事の創業としています。

ところで、「持ち下り」とは、お題テキストには、「商品をもって定期的に他国を回る商売」と書いてありますが、「行商」または「出張販売」といったほうがわかりやすいと思います。

 最初は、泉州や紀州での出張販売でしたが、だんだんと距離をのばし、九州まで出張販売に出ています。

 こうして25歳になった慶応2年、第2次長州征伐が起こりました。この時、伊藤忠兵衛は、戦いがある時こそ、商品の需要があり、飛ぶように売れるだろうと考え、危険を帰りみず、下関に出かけていきました。長州では、戦いを嫌って商人たちが商売を控えていたため、伊藤忠兵衛の商品は飛ぶように売れ1500両も売り上げました。

 翌年、長州征伐の終わった下関に再び向かいました。長州には多くの商人たちが商売にやってきたため、競争相手が増えました。しかし、長州の人たちは、長州征伐の際に危険をかえりみず長州にやってきた伊藤忠兵衛を高く信用していたため、伊藤忠兵衛の商いは順調に進み、前年を上回る売り上げを確保したそうです。

 近江商人は「三方良し」を心得としています。つまり「売り手良し、買い手良し、世間良し」ですが、伊藤忠兵衛の長州での商売は、「伊藤忠兵衛良し、長州の人々良し、そして長州の評判良し」ということで、まさに「三方良し」ということでした。

 こうして、商売で成功した伊藤忠兵衛は、明治5年、大坂に「紅忠」という太物の店を開きます。

 この「紅忠」から発展して、現在の伊藤忠商事と丸紅につながっています。

 ただし、伊藤忠商事と丸紅に至る歴史は複雑ですので、それは省略させてもらいます。


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by wheatbaku | 2017-10-23 20:17 | Trackback
阿部正弘の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人⑤)

阿部正弘の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人⑤)

 谷中霊園に眠る幕末有名人の5回目は阿部正弘です。

 阿部正弘は、福山藩阿部家の墓所の中にあります。

 福山藩阿部家の墓所は、長いこと公開されていませんでしたが、近年は、一般の人もお参りできるようなったようです。

 阿部家の墓所には、歴代藩主や奥方のお墓が整然と並んでいて壮観です。(下写真)

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 福山藩主阿部家は、阿部正勝を藩祖とした譜代の名門で、嫡子正次は、岩槻藩85千石を領有し、島原の乱の時の大坂城代を勤め、その子重次は、3代将軍家光に寵愛され、六人衆(若年寄)の一人となり、家光がなくなった際には家光に殉死しました。

 その後、阿部家は、6代正邦の時に、岩槻から丹後宮津,下野宇都宮を経て、宝永7年に備後福山に移封され、以後幕末・維新を迎えました。

7代阿部正福(まさよし)が大坂城代に就任したのをきっかけに、幕府要職に復帰し,8代正右(まさすけ),9代正倫(まさとも),10代正精(まさきよ),12代正弘と歴代藩主が代々老中となっています。

 阿部正弘のお墓は阿部家墓所の正面に対して垂直に並んでいる墓碑の列の左手最奥にあります。墓碑の表面には、「良徳院殿高誉信義節道大居士」と戒名が刻まれています。(下写真)

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 墓碑の脇には、「備後福山城主侍従伊勢守従四位下阿部朝臣正弘墓」と刻まれています。(下写真)

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阿部正弘は、天保の改革に失敗した水野忠邦の後を受け、26歳の若さで老中首座となりました。

ペリー来航に直面し、幕政改革に取り組み、川路聖謨、永井尚志、岩瀬忠震など開明派の若手抜擢、海軍伝習所や講武所の設置、品川台場築造や伊豆韮山反射炉の建設、蕃書調所の設立などを実施しました。これらの改革は安政の改革と称されることもあります。

また、従来譜代大名だけ運営されていた幕政に、徳川斉昭に代表される親藩、松平春嶽に代表される御家門、島津斉彬ら外様大名を幕政に参加させようとしました。

このことが、井伊直弼を筆頭とする溜之間詰の譜代大名の反感を招くことになり、安政210月、老中に復帰した堀田正睦に老中首座を譲りました。


首座を譲った後も老中職にとどまりましたが、安政467日、39歳でなくなりました。

〔10月21日追記〕

阿部正弘の幕政改革に取り組んでいるなか、国許の福山でも藩政の改革にも取り組んでいて、その中核として、学制改革を行っています。

福山藩の藩校は弘道館といいました。その弘道館は狭くて不便であったため、新たに藩校を開設することにしました。

 ここでは、学校と武芸場を隣接して設け文武一体の教育環境により、文武を兼ね備えた家臣の育成することにしました。

 こうして新たに設立された藩校は「誠之館」と命名され、江戸の「誠之館」は嘉永6年、福山の「誠之館」は安政元年に完成しました。

 「誠之館」では、洋学、医術、兵学も講じられ、諸武芸場では、槍術、剣術、弓術、馬術、さらに砲術の練習場が置かれました。

 阿部正弘が創立した「誠之館」は、現在も、その名が東京と福山に残されています。

 東京は、文京区立誠之小学校として残っています。誠之小学校は、江戸の誠之館が福山藩丸山中屋敷に設立されたことにちなみます。

福山では、広島県立福山誠之館高校の校名として残されています。
 なお、弘道館というと水戸藩の弘道館が有名ですが、そのほか、多くの藩でも藩校に弘道館という名前をつけています。

弘道館という名前のある藩校は、水戸藩、福山藩のほか、彦根藩、佐賀藩、谷田部藩などにあります。 


阿部家の墓所には12代藩主の阿部正弘(良徳院)のほか、歴代藩主のお墓が並んでいて、老中となった8代正右(まさすけ、西閣院)、9代正倫(まさとも、煕徳院)、10代正精(まさきよ、謙徳院)のお墓も並んでいます。(最下段写真参照)

 これだけ歴代藩主の墓が並んでいる大名墓地は東京では貴重なものになっています。

8代正右(まさすけ、西閣院)

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9代正倫(まさとも、煕徳院)

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10代正精(まさきよ、謙徳院)

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by wheatbaku | 2017-10-20 12:50 | Trackback
伊達宗城の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人④)

伊達宗城の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人④)

 谷中霊園に眠る幕末有名人の4回目は伊達宗城です。

伊達宗城の墓所には鍵がかけられていた中に入ることはできません。しかしお墓は非常に大きなお墓で、柵の外からも表面に「従四位下勲一等伊達宗城侯之墓」と刻まれているのがわかります。

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伊達宗城は、宇和島藩主で、松平春嶽、島津斉彬、山内容堂とともに幕末四賢侯の一人に数えられています。

宇和島藩は、伊達政宗の長子で秀吉の養子となった秀宗を藩祖とする家柄です。

伊達宗城は旗本山口直勝の子として江戸に生まれ、宇和島藩主伊達宗紀(むねただ)の養子となりました。

山口直勝の父山口直清は宇和島藩5代藩主伊達村候の次男で山口家に養子に入りました。

従って、宗城は父の従兄弟である7代宗紀の養子となりました。

天保15年(1844年)に家督を継ぐと藩政改革に努めて殖産興業に力を注ぎました。

また蛮社の獄で捕えられ小伝馬町牢屋敷に入獄していたもの脱獄して幕府から追われていた高野長英を招聘し蘭書の翻訳や蘭学教授を託しました。

また、長州出身の村田蔵六(後の大村益次郎)を招いて洋式軍備の充実を図りました。

しかし、将軍継嗣問題で、松平春嶽や島津斉彬らとともに一橋慶喜を推したため、井伊直弼から睨まれ安政の大獄が吹き荒れるなかで病気を理由に隠居しました。

その後、文久312月に、一橋慶喜、松平慶永、松平容保、山内豊信らとともに参与に任命され、参与会議が開催されるようになり、中央で活躍するようになりました。

慶応3年5月に設置された四侯会議のメンバーにも選ばれましたが、四侯会議が瓦解してしまいました。

慶応3年の王政復古後、新政府の議定に就任し、明治新政府では外国事務総督などを勤め新政府発足当初の外交責任者を務めました。

[10月19日追記]
 宇和島にはシーボルトの娘楠本いねも縁があります。
 楠本いねは、シーボルトと長崎円山の遊女屋其扇との間に生まれました。
 シーボルトが国外追放された時に、その養育はシーボルトの弟子で宇和島出身の二宮敬作に託されました。
 そのため、いねは宇和島で育ちました。
 楠本いねは、最初は、シーボルトを日本語になぞらえて失本(しいもと)と名乗っていましたが、伊達宗城が「失本では、本を失うとなり縁起が悪い。先祖は誰か」と聞くと、いねが「楠本正成です」と答えました。そこで伊達宗城が「それでは楠本となのりなさい」と改名させたそうです。
『シリーズ藩物語 宇和島藩』宇神幸男著に書いてあります。



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by wheatbaku | 2017-10-18 09:45 | 『幕末』 | Trackback
五反田駅から池田山散歩

五反田駅から池田山散歩

昨日は、毎日文化センターの「~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩」があり、五反田駅から池田山や東五反田を散歩してきまました。

 この散歩は、30駅ある山手線の各駅を出発地点として、駅周辺の江戸史跡を散歩しようという企画で昨年から開始したものですが、今年の春季は事情により中断していたので、久しぶりの開催ということになりました。

 昨日は、事前の天気予報では、曇り一時雨ということで、雨に降られるのを覚悟していましたが、結果的に、雨に降られずにすみました。

 参加された皆さんの日頃の行いが良かったのではないかと思って、参加者の皆さんに感謝しています。

さて、昨日歩いたコースは次のコースです。

五反田駅 ⇒ 薬師寺東京別院 ⇒ ねむのきの庭 ⇒ 池田山公園 ⇒ 定光寺【福澤諭吉の墓】⇒  隆崇院【伊東深水の天井絵】 ⇒ 清岸寺【清岸寺の桜】 ⇒ 月窓院【坂東三津五郎の墓】 ⇒ 光取寺【陣幕久五郎の墓】 ⇒ 三田用水の跡 ⇒ 本立寺【柳家金語楼の墓】 ⇒ 清泉女子大学【伊達家下屋敷跡】 ⇒ 五反田駅

五反田周辺には江戸史跡はあまりないという印象が強いのですが、結構あるものです。

この中から今日は主な案内場所をご紹介しておきます。

ねむの木の庭

「ねむの木の庭」は、皇后陛下のご実家旧正田邸の跡地に整備された公園で、平成16年に開園しました。園名は皇后陛下の高校生時代(聖心女子学院高等科)に作られた詩「ねむの木の子守歌」からつけられたものです。

公園中央にはシンボルツリーの「ねむの木」が植えられています。下の写真中央がねむの木です。

 ねむの木の庭には、皇后陛下ゆかりの樹木や、お歌の中で詠まれた樹木・草花を多数植えられていて、有名なプリンセス・ミチコも植えられています。

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池田山公園

池田山公園は、岡山藩主池田家の下屋敷の一部を利用した公園です。

 下屋敷は寛文8(1668)年に造られ、27,300坪余という広大な敷地がありました。大崎村にあったことから「大崎屋敷」とも呼ばれ、このあたりは、池田家の下屋敷がある山ということで、いつしか「池田山」と呼ばれるようになりました

明治になってからも、敷地の多くが池田侯爵邸として使用され、昭和初めまで池田家ゆかりの人が住んでいましたが、その後、住宅分譲地として売り出され、「池田山」は都内有数の高級住宅地となっています。

現在、池田山公園となっている場所は、下屋敷の奥庭だったといわれ、品川区が購入し、昭和60年に公園として開園しました。

 もう少しすると紅葉が大変きれいになると思われます。

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常光寺

定光寺は元和元年(1615)に創建され、明治43年に現在地に移転しました。

現在、福澤諭吉のお墓は麻布山善福寺にありますが、昭和52年までは定光寺にありました。

福澤諭吉は、朝の散歩を日課にしていましたが、その時に、周囲が閑静で眺望が良いのを気に入ってこの地を自分の墓地として選んでいたといいます。

福澤諭吉が亡くなったのは、明治34年の23日でした。そして、28日、福澤諭吉の柩は、三田の自宅から菩提寺の善福寺に運ばれ、そこで葬儀が行われ、葬儀が終えると、柩と葬送は再び出発し現在の定光寺の墓地に埋葬されました。
 福澤諭吉のお墓の跡に「福澤諭吉先生永眠之地記念碑」が建てられています。

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隆崇院

隆崇院は、3代将軍家光の次男で甲府宰相とよばれた徳川綱重の正室が亡くなった後、追善供養のため、寛文9年(1669)に増上寺山内の山下谷に創建されたお寺で、隆崇院というお寺の名前は、綱重の奥方の院号です。

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 隆崇院の本堂(上写真)は昭和37年に造られ、その天井に日本画の巨匠伊東深水、子息万耀、および一門の画家によって描かれた鮮やかな彩色の花の絵があります。

天井の中央に深水の「牡丹唐獅子図」(下写真)が描かれていて、その周囲に大小各20面の花の絵を配置されています。

この絵は、伊東深水の奥様の7回忌の追善供養のため作成されたもので、昭和42年に完成しました。

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清岸寺

清岸寺は、この付近の寺では、唯一戦災を免れたお寺です。そのため、江戸時代に造られた本堂と山門が残されています。下写真の本堂は天保12年(1841)建立されたものです。 

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山門脇の桜は、芝増上寺36世の祐天上人(16371718)のお手植えと伝えられる桜で、推定の樹齢は250年~300年というサクラとしては23区内で最古と言われる古木です。(下写真)

祐天上人(1637-1718)は、目黒区祐天寺の地名や駅名ともなっている江戸時代中期の増上寺の名僧です。

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 この後、月窓寺で、歌舞伎役者の坂東三津五郎のお墓参り、光取寺で、江戸時代最後の横綱で、深川の富岡八幡宮の横綱力士碑を建てた陣幕久五郎のお墓参りをし、本立寺では落語家の柳家金語楼のお墓を参りしました。

 さらに、白金では、三田用水路の貴重な遺構を見て、清泉女子大学では、仙台藩下屋敷と島津侯爵邸の説明をして、無事、雨に降られずに終了となりました。


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by wheatbaku | 2017-10-15 16:45 | Trackback
渋沢栄一の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人③)

渋沢栄一の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人③)

 谷中霊園に眠る幕末有名人の3回目は渋沢栄一のお墓です。

渋沢栄一お墓は、松平斉民のお墓の近くにありますが、大きな墓域の中にあります。

渋沢栄一のお墓は、周囲を塀に囲まれていて、墓域の中には入れませんでしたが、数年前から下写真のように塀もなくなって誰でもお参りできるようになりました。

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近代日本経済の父と呼ばれる渋沢栄一は、現在の埼玉県深谷市の豪農の家に生まれ、昭和6年91歳で亡くなりました。「青淵」と号していましたが、墓碑の上部に「青淵」と刻まれています。

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渋沢栄一は、若い頃は、攘夷思想の持ち主で、文久3年24歳の時には、従兄の尾高淳忠や渋沢成一郎とともに高崎城乗っ取り・横浜焼討を実行しようとしましたが、最終的には、その計画を断念しました。

その後、嫌疑をかけられた幕府の追及から逃れるため、一橋家に仕え、歩兵隊の創設や領地の財政改革などの仕事をしていました。

渋沢栄一とともに一橋家に仕えたのが、のちに彰義隊頭取となる従兄の渋沢成一郎です。

慶応2年に一橋慶喜が将軍を継ぐとともに、渋沢栄一は幕臣となりました。

 幕府の行く末に不安を感じていた渋沢栄一は慶喜が将軍となるについては反対していたようです。

 幕臣を辞めようと考えていた渋沢栄一に人生の転機が訪れました。

慶応3年徳川慶喜の弟徳川昭武に随行してパリ万博に行くこととなりました。

渋沢栄一は、庶務会計掛ととして、パリに滞在し、各所を視察するとともにヨーロッパ各国を巡る徳川昭武一行に同行し、スイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスなど各国を見てまわりました。

この時の渋沢栄一の経験が、のちの近代日本経済の勃興に大きな役割をはたしました。

幕府崩壊に伴い帰国した渋沢栄一は、徳川家と共に静岡に移住しました。

その後、明治2年新政府の大隈重信から要請をうけて大蔵省に入り,井上馨と共に財政制度確立に努めましたが、当時の大蔵卿大久保利通と意見が合わないこともあり大蔵省を辞職しました。

辞職と同時に第一国立銀行を創業に関与し頭取に就任しました。

それ以後財界のリーダーとして、王子製紙、大阪紡績、東京海上、日本郵船、日本鉄道などを多くの企業の創立に関与しました。

 また東京商法会議所(東京商工会議所の前身)などを設立するなど財界活動にも熱心でした。

 また渋沢栄一は社会福祉事業や国際親善にも熱心で、明治7年に身寄りのない子供や老人を養う施設の「東京市養育院」の院長となり亡くなるまで院長を勤めました。

こうした永年の功績により、三井三菱のなどの財閥当主が男爵に留まるなかで、大正9年には、子爵を授けられました。

また、昭和に入って、日米関係が悪化するなかで、人形による日米友好を図るために努力しました。

こうして、渋沢栄一は、天寿を全うし、昭和6年91歳で亡くなりました。


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by wheatbaku | 2017-10-11 13:00 | 『幕末』 | Trackback
松平斉民の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人②)

 松平斉民の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人②)

谷中霊園に眠る幕末有名人の2回目は松平斉民のお墓です。

 松平斉民といっても御存知の方は少ないと思います。それこそ「知る人ぞ知る」という人物かもしれません。

松平斉民は現在の岡山県にあった津山藩藩主です。号は確堂といいます。

明治維新期には、徳川宗家16代徳川家達の後見人を勤めた重要人物で、彰義隊を公認した人物として有名です。

 松平斉民のお墓は、徳川慶喜の墓所のすぐ近くにあります。

 周りを圧するほどの大きな墓碑が非常に目立ちます。

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 津山藩は結城秀康を藩祖とする越前松平家の宗家筋の家柄で、譜代の名門です。

徳川家康の次男結城秀康は越前で67万石を領していました。しかし、2代目忠直が乱行したため改易となり、忠直の弟の松平忠昌が藩主となりました。忠直の長男光長が越後高田藩26万石となりました。しかし、松平光長も、5代将軍綱吉の代の越後騒動のため改易となり配流されました。

その後、光長は許され、結城秀康の曾孫である武蔵川越藩の松平宣富が養子となり、宣富が津山を領することになり、名門松平家が津山藩10万石藩主として復活しました。

これが津山藩松平家です。

ちなみに松平春嶽(慶永)が越前福井藩主として有名ですが、松平春嶽(慶永)が継いだ福井松平家は、忠直改易後に福井に入封した忠昌の子孫です。

 松平斉民の墓碑には「文定院殿成譽寂然確堂大居士」と刻まれていて、号の「確堂」が法名の中に入っています。下段写真参照

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松平斉民は11代将軍徳川家斉の16男として生まれ、文化14年(1817)津山藩7代藩主松平斉孝の養子となり、天保2年(1831)に藩主となり、藩政改革に力を入れました。

嘉永6年(1853)のペリー来航時の際には、明確な開国論の意見上申しているとのことで、大変注目していいと思います。

しかし、斉民は、安政2(1855)に、「勝手向き不如意」を理由に先代藩主の四男慶倫に家督を譲って隠居し、確堂と号しました。

その後も家斉の子供であるということとその人柄から徳川家では重きをなしていました。

そうしたことも大きな理由だと思われますが、松平確堂は、江戸城無血開城後の53日に新政府より、徳川宗家を相続した亀之助(家達)の後見人を命じられました。

また、加来耕三「上野彰義隊」によれば、彰義隊の渋沢成一郎を謁見し公認したのは松平確堂であると次のように書かれています。

松平確堂は、若年寄川勝広運(ひろかず)の名前で彰義隊の渋沢成一郎を呼出します。

渋沢成一郎は100人程の彰義隊士を率いてと江戸城に登城し川勝広運と面会します。その席に、松平確堂が現れ謁見し「あっぱれな武士である」と述べたそうです。

その後、渋沢成一郎に「奥右筆格渋沢成一郎 彰義隊頭取仰付られる。席高之儀は之迄之通り、相心得えるべし」とされ、彰義隊は徳川家の公認団体となりました。

これにより、彰義隊が江戸市中取締をおおっぴらにできるようになりました。



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by wheatbaku | 2017-10-09 11:41 | 『幕末』 | Trackback
徳川慶喜の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人①)

徳川慶喜の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人①)

 今日からは、谷中霊園に眠る幕末の有名人のお墓をご案内します。

 最初は、多くの人が訪ね、霊園の中でも案内板の整備されている徳川慶喜のお墓からご案内します。

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 谷中霊園は都立の霊園で、寛永寺の墓地とは異なりますので、徳川慶喜のお墓は、正式には寛永寺の墓地内にあります。

徳川慶喜のお墓は神式のお墓です。

正面中央の二つの墓のうち、左側が徳川慶喜のもので、右側は正室の徳川美賀子のお墓です。

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徳川慶喜は、大正21122日に亡くなりました。77歳でした。

幕末・維新の重要人物の中で最後に亡くなったといってもよく、 徳川慶喜が亡くなった時には、既に、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、岩倉具視など、徳川慶喜の人生を大きく変えた人たちはなく、勝海舟や明治天皇さえも亡くなっていました。

 徳川慶喜は、寛永寺大慈院で謹慎したあと、江戸城開城の日に水戸に移り、さらに、水戸から駿府に移り謹慎しました。

明治29月に謹慎が解除されましたが、その後も静岡に住み続けました。

そして、ようやく明治30年に東京に転居し、翌年31年(1898)に明治天皇に拝謁し 明治35年には公爵となりました。

そして大正2年に77歳でなくなりました。

徳川慶喜が、何と思って静岡に留まり、徳川慶喜を朝敵にした新政府の重要人物の死を聞いて何を思ったのだろうとふと感じることがあります。

慶喜のお墓の後ろに側室(中根幸、新村信)のお墓もあります。

徳川慶喜は十男十一女の子沢山ですが、多くの子供の母親が新村信と中根幸の二人です。

中根幸は、中根芳三郎の娘として生まれ、成田信十郎の養女となって側室となりました。

新村信は、旗本松平勘十郎の娘に生まれ、新村猛雄の養女となって側室となりました。広辞苑の編者新村出は、新村信の義理の弟になります。

二人とも多くの子供たちを生んでいますが、生前の役職は側女中で、子供を生んだからといっても、女中以上の扱いを受けることはなく、子供たちからも「幸」とか「信」とか呼び捨てにされたといいます。

 さて、最近のニュースですが、2017年9月25日に徳川慶喜の曾孫である徳川慶朝さんが亡くなられました。徳川慶朝さんは写真家として活躍されていましたが、独身で、養子もとらなかったと言われています。徳川慶喜家が今後どうなるのか気になるところです。

徳川慶喜の墓の手前には、勝精(くわし)夫妻のお墓もあります。
 勝精は、徳川慶喜の十男で母親は新村信です。勝海舟は長男小鹿が若くして亡くなったため、徳川慶喜にお願いして、十男の精を養子にもらいました。そして小鹿の子供つまり勝海舟からすれば孫娘となる伊代子と結婚させました。

勝海舟のお墓は洗足池近くにありますので、勝精は、養父のそばでなく、実父母のそばに眠っていることになります。

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by wheatbaku | 2017-10-06 11:28 | 『幕末』 | Trackback
五稜郭開城(箱館戦争史跡めぐり⑭)

五稜郭開城(箱館戦争史跡めぐり⑭)

慶応4年5月11日の新政府軍の旧幕府軍への総攻撃により、旧幕府軍の劣勢が明らかにとなり、残るは、五稜郭、千代ヶ岡陣地、弁天台場だけとなりました。

 5月12日、新政府軍から降伏勧告の使者が箱館病院にやってきました。

 箱館病院長の高松陵雲は、新政府軍の意向を受けて、五稜郭にいる榎本武揚と松平太郎に手紙を書きました。

 これに対して榎本武揚は、降伏はしない旨の回答を高松陵雲に返してきました。

 それとともに、榎本武揚がオランダに留学した際に入手した「海律全書」2冊を、将来に役立つ書物であり戦火で灰にするのは惜しまれるからと言って、黒田清隆に届けるよう伝えてきました。

 「海律全書」とは、万国公法であると言われています。

幕末で「万国公法」と言う場合は、坂本龍馬も学んでいて「いろは丸」事件の際にの利用し、慶応4年には西周が発行した「万国公法」を指すことが多いようです。

この場合の「万国公法」は北京にいた米国人宣教師マーチンがアメリカの国際法学者ホイートンの「Element of International Low(エレメンツ・オブ・インターナショナル・ロウ)」(江戸検のお題テキストでは「国際法入門」となっている)を1864年に中国語訳し「万国公法」の名で刊行したものを指してします。

 「海律全書」も『万国公法』とよく言われるので、ホイートンの「Element of International Low(エレメンツ・オブ・インターナショナル・ロウ)」を原著とするのかどうか調べました。

 すると大山柏著「戊辰役戦史」には、「海律とは、仏国オルトーンン著「海上万国公法」のことである」と書いてあるので、「海律全書」と「万国公法」は別の本のようです。

 日本の将来を考えて「海律全書」を戦火に焼失させまいとする榎本武揚に感激した黒田清隆は、酒五樽を届け感謝の意を表しました。

 黒田清隆が贈りかえしたものは、酒五樽とまぐろ5本と書いてある本もあります。

 法律書のお礼に贈ったものが酒というのが薩摩出身の黒田清隆らしいといえば黒田清隆らしいと思いました(余談ながら・・)

 贈られてきた酒を前にして榎本武揚側は、毒入りではないかと疑い、手を出しかねていましたが、額兵隊の星恂太郎が無造作に柄杓ですくって呑み始めたのにつられて他の人たちも呑み始めたそうです。

 

 12日に続いて新政府軍側からの降伏勧告は続きます。

13日には弁天台場へ新政府軍から榎本武揚への取次依頼があり、さらに翌14日には再び弁天台場へ新政府軍軍監田島圭蔵がやってきて榎本武揚への取次を依頼したため、榎本武揚は田島と千代ヶ岡陣地付近で会い、榎本武揚は降伏を拒否しました。

15日には千代ヶ岡陣地の中島三郎助へ降伏勧告がされましたが、中島三郎助はそれを拒否しました。

こうした連日にわたり新政府軍からの降伏の勧告が行なわれる中で、ついに15日には、弁天台場にこもる永井尚志や新選組が降伏しました。

しかし、16日には、あくまでも降伏を拒否した千代ヶ岡陣地の中島三郎助が二人の子供とともに戦死しました。

いよいよ五稜郭だけが残ることとなり、五稜郭から脱走する兵士も続出する状態となりました。

榎本武揚は自分が責任をとって自決する覚悟を固め、秘かに自室で切腹しようとしますが、部下に止められ、ついに榎本武揚自信が軍門に下り、残る将兵の助命を嘆願することを決意します。

そこで、17日には、総裁榎本武揚、副総裁松平太郎が、五稜郭近くの亀田八幡宮まで出向いて、新政府側の黒田清隆らと降伏交渉が行なわれました。

 会談では降伏条件が決められた後、酒盛りが行なわれるほど和やかな交渉でした。

 交渉が行なわれた亀田八幡宮の拝殿は、現在も残されています。

 交渉は、当時の本殿で行われたそうですが、新しい本殿が建築され、旧拝殿  として残されています。拝殿の羽目板には当時の銃弾の跡も残されています。

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 旧拝殿の前には、「箱館戦争降伏式之地」記念碑が有志によって建立されています。題字は榎本武揚の曾孫・榎本隆充氏の揮毫です。上の写真の手前の記念碑です。

 こうして、降伏条件が決定し、翌5月18日、総裁榎本武揚、副総裁松平太郎、陸軍奉行大鳥圭介、海軍奉行荒井郁之介が新政府軍の軍門に下り、五稜郭は開城しました。

 以上で、箱館戦争ゆかりの史跡めぐりは終了させていただきます。
 
 




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by wheatbaku | 2017-10-03 12:07 | 『幕末』 | Trackback
上野散歩が開催されました 

上野散歩が開催されました 

 昨日は、文京学院大学主催「疾走!幕末・維新」講座の第3回目で上野散歩があり、上野公園から谷中霊園まで散歩してきました。

 今回のご案内コースは次のように、上野公園での上野戦争ゆかりの地のご案内と谷中霊園での幕末・維新の有名人のお墓参りです。

〈上野公園内〉

黒門 = 西郷隆盛銅像 = 彰義隊の墓 =(秋色桜)= (時わすれじの塔) =(時の鐘)= 小松宮彰仁親王銅像 = 寛永寺根本中堂跡 = ボードワン博士像 = (旧東京音楽学校奏楽堂)= 【休 憩】 =(京成電鉄博物館動物園駅跡)=(黒田記念館)=(小泉八雲記念碑) = 徳川綱吉霊廟勅額門 = 寛永寺本堂および大慈院 

〈谷中霊園及び寛永寺霊園内の幕末・維新有名人のお墓参り〉

(徳川慶喜)=(松平斉民)=(渋沢栄一)=(阿部正弘)=(伊達宗城) =(覚王院義観)=(雲井龍雄)=(天王寺五重塔跡)

 時々曇りましたが晴の天気で暑くもなくて快適に散歩ができました。

 ご参加いただいた皆さんも大変喜んでいただいたようです。

ご参加いただいた皆様ありがとうございました。

 いろいろな場所をご案内しましたが、今日は、上野戦争に関係する場所だけをご紹介します。


黒門
 まず、ご案内したのは黒門の跡です。

 黒門は上野戦争の際には、薩摩藩を中心とした新政府軍が攻撃し、彰義隊との間に激戦がくりひろげられました。

 黒門は、上野公園には現存していませんが、明治40年に荒川区にある円通寺に移築されていますので、円通寺にいけば、黒門を見ることができます。

 最近、黒門があった近くに黒門をイメージした壁泉が設置されました。

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西郷隆盛の銅像
西郷隆盛は、上野戦争当時は、黒門口から攻める新政府軍の現地総指揮官でした。

その西郷隆盛は、明治22年に大日本帝国憲法発布により、西郷隆盛の名誉が回復し、正三位の追贈が決定したことから、西郷隆盛の銅像建立しようという運動が行なわれ、、その中心となったのは、西郷隆盛の親友の吉井友実でした。

銅像は明治30年に完成し、明治31年に除幕式が行われています。

除幕式には、時の総理大臣山県有朋のほか、弟の西郷従道、従兄弟の大山巌、勝海舟、さらにはアーネスト・サトウも参列し盛大にお祝いされました。

西郷隆盛の銅像は、二人により作られています。西郷隆盛は高村光雲、犬のほうは後藤貞行が作成したもので、皇居外苑の楠正成像と同じ組み合わせです。

なお、西郷隆盛の銅像は西郷さんが散歩している姿ではなく、兎狩りをしている姿で、大山巌が発案したと言われています。

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彰義隊の墓
 上野戦争が終了したあと、上野戦争で亡くなった新政府軍兵士はその日のうちに収容されましたが、彰義隊の遺体は、上野に放置されたままでした。

これを見かねた円通寺の住職仏磨和尚と侠客三河屋幸三郎によって、上野山王台(現在の西郷隆盛銅像がある高台)で荼毘(だび)にふされ、遺骨は円通寺に埋葬されました。 円通寺によれば彰義隊の遺体は266体あったそうです。

 彰義隊の墓のうち、大きな墓石は明治14年になって建立されたもので、政府をはばかって「戦死之墓」とだけ刻まれています。字は山岡鉄舟が揮毫したものです。

大きな墓石の前に小さな墓石がたっています。これには「慶応戊辰五月十五日 彰義隊戦死之墓 発願回向主沙門 松国」と刻まれています。

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小松宮彰仁親王宮銅像
 小松宮彰仁親王は、京都仁和寺に入って純仁法親王と称していましたが、慶応3年に還俗し仁和寺宮嘉彰親王となりました。

慶応41月の鳥羽・伏見の戦いでは、征討大将軍に就任し、天皇から錦の御旗と節刀を受け、淀の戦場にまで進みました。

その後、戊辰戦争、佐賀の乱や西南戦争にも従軍し、明治15年に小松宮彰仁親王と改称しました。

西南戦争の負傷者救護団体として、博愛社が創立されるとその総長に就任し、博愛社が日本赤十字社と改名すると、総裁として赤十字活動の発展に貢献しました。

 銅像は明治45年に日本赤十字社により建てられたもので、作者は靖国神社大村益次郎の銅像を製作した大熊氏廣です。

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根本中堂跡
上野公園の噴水池のある場所には、根本中堂が建っていました。

根本中堂は、寛永寺の中心となる建物で、わかりやくいえば本堂です。

根本中堂内には御本尊の薬師如来像が安置してありました。

根本中堂が建てられたのは、5代将軍綱吉の元禄11(1698)のことです。

 しかし、将軍家と江戸っ子の信仰を集めていた根本中堂は、上野戦争により、焼失してしまいました。

台東区史には、鳥取藩士と土佐藩士によって燃やされたという明治時代の新聞の記事が記載されています。

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ボードワン博士銅像
 ボードワン博士の銅像は、噴水池手前の林の中にひっそりと設置されています。

ボードワン(ボードイン、ボードウィンとも呼ばれる)はオランダの軍医で、文久2年に長崎に来日し、長崎の養生所・医学所で治療と医学教育を行いました。

上野戦争で荒廃した寛永寺の境内に、現在の東大医学部付属病院の建設計画が進められた際に、ボードワン博士は恵まれた自然を壊されないために公園づくりを政府に提言しました。

これにより、日本初の洋式公園として上野公園が誕生することになりました。

 また、上野戦争を指揮した大村益次郎が京都で襲撃され重傷を負った際に、右足切断という大手術を行ったのがボードワン博士でした。

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by wheatbaku | 2017-10-01 14:55 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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