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佐藤尚中の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人⑨)

佐藤尚中の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人⑨)

谷中霊園に眠る幕末の有名人の第9回は、佐藤尚中(たかなか)です。

 前回佐藤泰然についてかきましたが、佐藤尚中は、佐藤泰然の養子で、東京の順天堂(現在の順天堂大学)の創設者です。

佐藤尚中のお墓は、谷中霊園の甲9号1側にあります。駐在所わきの十字路を西に入った場所です。

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佐藤尚中は、「しょうちゅう」とも呼ばれますが、正式には「たかなか」です。号は舜海または笠翁と言いました。

谷中霊園には、お墓のほかに、顕彰碑が、駐在所の南側に建てられています。

有栖川宮熾仁親王が書いた篆額には「故大学大博士佐藤尚中の碑」と刻まれています。

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佐藤尚中は下総国小見川藩医山口甫僊(ほせん)の次男として生まれ、16歳で江戸に出て儒学を「江戸繁昌記」で有名な寺門静軒に学び、医学は安藤文澤に入門しました。

しかし、安藤文澤の勧めで佐藤泰然に弟子入りしました。

たまたま喧嘩をして大けがした人がいて、安藤文澤に治療を頼んだが運悪く文澤が留守でした。そこで佐藤尚中(当時は山口舜海)は、裁縫用の針で傷口を24針縫い合わせましたが、大変落ち着いて処置したことを聞いた文澤が、我が門下においておくには惜しいと考え佐藤泰然の下で学ぶことを勧めたと言われています。

こうした佐藤尚中ですから、佐藤泰然のもとで学ぶなかで、たちまち頭角を現しました。

嘉永6年(1853)、泰然の養子となって佐藤姓に改め、佐倉藩医にもなりました。

長崎に行っていた佐藤泰然の実子松本良順からポンペの情報を得て万延元年(1860)に長崎に遊学し、ポンペに学んで、文久2(1862)に佐倉藩に帰りました。

慶応2年、佐倉に佐倉養生所を開設しましたが、これは、松本良順が長崎で開設した長崎養生所(現在の長崎大学医学部)を身近で見ていた経験が活かされています。

しかし明治2(1869)、佐倉藩の医学改革を進めている最中、明治新政府から医学教育の改革のため大学東校(現在の東大医学部)の大学大博士になることを要請されて上京しました。

明治5年に私立病院博愛舎を日本橋に開設し、明治6年いっさいの官職を辞して東京順天堂を下谷練塀町に開設しました。

練塀町の医院は狭くて大勢の患者を収容できないため、明治8年に湯島(現在の順天堂大学付属順天堂医院の所在地)に移転しました。

しかし開院直後に結核に冒され、ドイツ留学中の養子佐藤進を呼び返して順天堂の運営を任せ、佐藤尚中は根岸の自宅で病気療養し、病が落ちつくと順天堂医院で診療をしていましたが、明治15年7月23日、ついに病にかてず56歳の若さで亡くなりました。

 順天堂大学の付属病院は、多くの人が順天堂病院と呼びますが、現在も正式には「順天堂医院」と名乗っています。 下写真をご覧ください。

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by wheatbaku | 2017-11-29 14:20 | 『幕末』 | Trackback
佐藤泰然の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人⑧)

佐藤泰然の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人⑧)

谷中霊園に眠る有名人の8回目は佐藤泰然です。

佐藤泰然は、順天堂(現在の順天堂大学)の創始者です。
 佐藤泰然のお墓は、谷中霊園の最北部にあります。日暮里駅北口からお参りするのが便利です。

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佐藤泰然は、出羽国遊佐の郷士の佐藤藤佐(とうすけ)の子として武蔵国稲毛(川崎市)に生まれ、江戸で育ちました。

幼いころの名前は田辺昇太郎。長じて旗本伊奈家に仕えて庄右衛門と改めました。本名は信圭(のぶかど)と言いました。
 谷中霊園のお墓には、佐藤泰然ではなく、本名の佐藤信佳が刻まれています。

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天保元年(1830)27歳で蘭学を志し、蘭方医足立長雋(ちょうしゅん)に学び、高野長英にも学びました。


天保6(1835)年、長崎に遊学、末永甚左衛門に寄宿して、楢林栄建や大石良逸などに学びました。長崎へ留学する際に、姓を和田(母方の姓)、名を泰然と改称しています。
 天保9年江戸に戻って、日本橋の薬研堀で医者を開業し和田塾と名付けました。

天保14年、和田塾を女婿となった林洞海に任せ、下総国佐倉藩藩主堀田正睦に招かれ佐倉に移り、医院と学塾を設けて順天堂と称しました。この佐倉に移住する際に姓を和田から佐藤(父方の姓)に改めました。

嘉永2(1849)年に、佐倉藩内での種痘の実施を指導し。その後、佐倉藩の藩医にもなりました。

嘉永年間(184854)に順天堂で行った治療の記録は『順天堂実験』(関寛斎記録)にあるとのことで、帝王切開、卵巣腫瘍摘出、乳癌切除などのさまざまな手術が行われました。

安政6(1859)に家督を養子の佐藤尚中に譲った後、しばらく江戸の林洞海のもとに滞在した後、佐藤泰然は横浜に住み、ヘボンなどと交際しました。

明治元年に起きた箱館戦争では、五男の林董、甥の山内堤雲など佐藤泰然の関係者が官軍と戦いました。また、榎本武揚は、佐藤泰然の孫娘と結婚しています。

箱館戦争も終了し、榎本武揚も赦されたのを見届け、佐藤泰然は明治5年4月10日に肺炎で亡くなりました。69歳でした。

佐藤泰然が設立した佐倉の順天堂はのちに順天堂医院となり、現在は順天堂大学に発展しています。



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by wheatbaku | 2017-11-27 08:11 | 『幕末』 | Trackback
獏塾散歩(浜離宮・浅草寺散歩)開催されました。
獏塾散歩(浜離宮・浅草寺散歩)開催されました。

昨日は、獏塾の皆さんと浜離宮と浅草寺を散歩してきました。

獏塾は江戸検1級合格をめざすグループですが、11月3日の江戸検が終わりましたので、みんな頑張ったご褒美として獏塾散歩が企画されました。

 昨日は、午前中はかなりの雨がふっていましたが、散歩はじめるころには雨もすっかりあがり、浜離宮では、すっかり秋晴れとなった青空のもと心地よい散歩となりました。

(下写真は、浜離宮で説明を受ける参加者の皆さんですが、背景の空は雲一つない青空でした。)

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参加された皆さんは、合格された方が多かったせいもありますが、皆さん、一息ついたという感じでのんびりと秋の散歩を楽しんでいました。 ご参加いただいた皆さんお疲れ様でした。 

今回の案内は、バードタイムさん、小金井三社祭さん、幕張の静山さんの三人が案内役でしたので、私ものんびりと説明をききながら散歩を楽しませてもらいました。

 バードタイムさん、小金井三社祭さん、幕張の静山さん、ありがとうございました。

 下写真は、集合場所の旧新橋停車場前で、本日の予定を聞く参加者の皆さんです。

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昨日の主な散歩ポイントをご紹介しておきます。

浜離宮に入るとまもなく三百年の松と呼ばれる大きな松があります。

この松は、宝永6年(1709)に徳川家宣が6代将軍となった年に植えられたと伝えられていて、植えられてからおよそ300年たつため「三百年の松」と呼ばれれています。都内では最大級の黒松です。案内は幕張の静山さん

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浜離宮には、 新銭座鴨場と庚申堂鴨場という二つの鴨場があります。

庚申堂鴨場は10代将軍家治が作ったもので、安永7年(1778)に作られました。新銭座鴨場は寛政3年(1791)に11代将軍家斉がつくりました。

11代将軍家斉は、鷹狩が大好きでしたので、ここを大いに活用しました。浜離宮には248回も来園し、そのほとんどが鷹狩りのためだったそうです。

下写真は庚申堂鴨場です。庚申堂鴨場というの、この鴨場の北東側に庚申堂があったことに由来します。案内は幕張の静山さん

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 将軍が浜離宮に来た際に上陸する場所がお挙がり場です。
 14代将軍家茂は、3回上洛していますが、3回とも京都から江戸に帰るのは船を利用しました。その際に、このお上がり場を利用しました。

また、15代将軍慶喜が、鳥羽伏見の戦いで敗れて江戸に戻った際にも、ここから上陸しています。案内はバードタイムさん

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浜離宮を楽しんだ後、水上バスを利用して隅田川を遡り、周辺の景色を楽しみながら浅草に向かいました。

吾妻橋のたもとでの参加者全員の集合写真です。

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浅草寺の二天門は、もともとは浅草にあった東照宮の随身門でしたが、明治以降四天王のうちの二天がお祀りされたため、二天門と呼ばれるようになりました。

国の重要文化財に指定されています。案内はバードタイムさん

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浅草神社には、浅草の観音様をお祀りした土師中知、檜前浜成・武成兄弟がご祭神です。その後、徳川家康もお祀りされたため、江戸時代には三社権現と呼ばれました。

そのため、浅草神社のお祭りが三社祭と称されます。案内はバードタイムさん

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本堂の西側には、淡島堂があります。紀州の淡島明神を勧請したもので、毎年2月8日には針供養が行なわれます。また、太平洋戦争中に浅草の観音様を戦火から守った天水桶も残されています。案内は小金井三社祭さん

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秋の空はつるべ落としを言われますが、4時半を過ぎると、もう薄暗くなります。

その中で、小金井三社祭さんが案内しているのは、本堂前にある「迷い子のみちしるべ」です。

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散歩の後は、恒例の懇親会です。

天候にも恵まれた心地よい散歩の後、そして、江戸検が終わった後の解放感で、今回も大いに盛り上がりました。

気がつけば8時30分過ぎ、3時間を超える宴会となりました。

そこで、最後に記念写真をパシャ! そして御開きです。

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ご参加の皆さん、お疲れ様でした。



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by wheatbaku | 2017-11-24 12:01 | Trackback
雲井龍雄の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人⑦)

雲井龍雄の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人⑦)

 谷中霊園に眠る幕末の有名人の第7回は雲井龍雄のお墓です。

 雲井龍雄は、知る人ぞ知るというレベルの人物であったと思っていましたが、今年の江戸検のお題テキスト「疾走!幕末・維新」の中で取り上げられましたので、江戸検を受検された方は、その名前を覚えたことだろうと思います。

雲井龍雄は米沢藩士で本名は小島守善といい、雲井龍雄は変名ですが、本名より変名の雲井龍雄の方が有名です。

雲井龍雄のお墓は、谷中霊園の中央を通る桜通り沿いの天王寺五重塔跡と霊園管理事務所のちょうど中間あたりにあり、上部に「龍雄雲井君之墓」と刻まれています。(下写真)

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雲井龍雄は、弘化元年(1844)米沢藩士中島総右衛門の次男として生まれ、文久元年(1861)に小島家の養子となりました。

慶応元年(1865)には、江戸に遊学して安井息軒の三計塾に学びました。三計塾は江戸で有名な塾でした。土佐藩の谷干城、紀州藩の陸奥宗光、長州藩の品川弥二郎などが学んだことがあります。雲井龍雄はそこで塾頭を勤めています。

慶応3年(1867)探索方として京都に出張し、薩長土諸藩の動向を探索しました。この中で、薩摩藩への憤激を強めていったようです。

王政復古の大号令の後、明治新政府が慶応4年に定めた貢士にもなっています。

 慶応4 年、新政府軍の会津征討の動きに憤激して米沢に帰ったが、米沢藩は越後で新政府軍と戦っていたため、「討薩ノ檄」を作成して奥羽越列藩同盟の奮起を促しました。

しかし、米沢藩が降伏したため、抗戦派であった雲井龍雄は米沢に謹慎を命じられました。

明治2年に謹慎が赦された後に、東京に出て集議院の寄宿生となりますが、すぐに辞任し、「帰順部曲点検所」を組織し、戊辰戦争で敗れた人々の救済を行いつつ新政府に嘆願を続けます。

しかし、「帰順部曲点検所」は、不平士族との溜り場となり、政府転覆を企てていると疑われたため、雲井龍雄は謹慎を命じられ米沢に護送されました。

雲井龍雄は、謹慎中も自分の考えを訴え続けたため、東京に護送され明治2年12月28日に梟首刑となり、小塚原の回向院に埋葬されました。

その後、明治16年に、谷中天王寺に改葬されました。谷中霊園にあるお墓は供養塔ではなく本当のお墓のようです。

雲井龍雄を主人公とした藤沢周平の「雲奔る」という小説があります。

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藤沢周平は山形県出身であり、藤沢のあとがきには、「私の郷里から、明治維新・・・に、志士として積極的にかかわった人が二人いる。一人は清河八郎であり、一人が雲井龍雄である。(中略)龍雄に対する長い間の一種の気がかりのようなもの、それがこの小説を書かせたことになろうか」と書いてあります。

雲井龍雄の生き様が克明かつ淡々と描かれた小説です。


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by wheatbaku | 2017-11-22 10:02 | 『幕末』 | Trackback
大原重徳の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人⑥)

大原重徳の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人⑥)

しばらく、江戸検関係の記事を書いてきたため、谷中霊園に眠る有名人が阿部正弘で中断していましたが、今日から、続きを書いていきます。

今日は、大原重徳(しげとみ)のお墓について書いていきます。

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大原重徳のお墓は、徳川慶喜の墓地の西側にあります。

大変大きなお墓ですし、墓所の入口(南側)には、台東区教育委員会の説明板が設置されています。(下写真)

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大原重徳は、享和元年(1801)10月16日、大原重尹の五男として生まれました。

孝明天皇から重用され、安政元年(1854)4月勅命により、内裏炎上後の造営を差配しました。

安政5年(1858)2月5日、時の老中堀田正睦が日米修好通商条約の勅許を求めて上洛しました。これに対して条約に反対する88人の公卿が3月12日突如参内しました。これが八十八卿列参奏上と言われるものですが、この八十八卿列参奏上に大原重徳も参加していました。

文久2年(1862)朝廷が島津久光の公武合体の建言をいれ、幕府に勅使を派遣することになった際に、大原重徳が勅使に任ぜられ、島津久光とともに江戸に赴き幕府に徳川慶喜を将軍後見職、松平慶永を政治総裁職に就任させるよう要求し、7月に徳川慶喜が将軍後見職、9月に松平春嶽が政治総裁職に就任ました。

 勅使として江戸にいる際に、長州藩世子毛利定広が持参した勅書の中に島津久光を批判する文字があったため、薩長の対立を避けるためこれを削除し、勅書を改文しました。

このことにより、のちに処罰されることになります。

大原重徳は、8月帰京復命し、12月には、新設の国事御用掛に任命されましたが、翌年、勅書を改文した罪により辞官落飾しました。

元治元年(1864) 1月許されて、還俗して出仕しました。

第2次長州征伐戦後の慶応2年(1866)8月、親幕派の関白二条斉敬,朝彦親王の追放するため、中御門経之とともに二十二卿列参奏上を主導しましたが失敗しまたも閉門とされました。

慶応3年(1867)12月の王政復古の大号令で、新政府の参与に任命されました。

それ以降、笠松裁判所総督、刑法官知事、議定(ぎじょう)、上局議長、集議院長官などを歴任し、維新の功により賞典禄1000石を永世下賜されました。

明治3年に退官し、麝香間祗候(じゃこうのましこう)となりました。

麝香の間祗候というのは、維新に功労のあった人などに与えられた資格で、麝香間に祗候し、天皇の相手などをした名誉職です。

明治12年4月1日、79歳で死去しました。


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by wheatbaku | 2017-11-20 09:25 | 『幕末』 | Trackback
箕作阮甫(津山藩の洋学④)

箕作阮甫(津山藩の洋学④)

今日は、津山藩の洋学の4回目で、箕作阮甫(みのつくりげんぽ)について書きます。

前回まで書いてきた宇田川家三代は、江戸詰の津山藩医でしたが、今回書いていく箕作阮甫は、津山で生まれました。

津山藩藩医箕作貞固の三男として生まれ、父貞固が早くなくなり、兄も亡くなったため、箕作阮甫は12歳で家督を継ぎ、京都で吉益文輔に漢方医学を学び、文政5(1822)藩医となりました。

翌年江戸に出府し,宇田川玄真について蘭学を修め、天保4年(1833)には、宇田川榕庵の『植物啓原』の序文を書くほどまでになりました。

天保10年(1839)蛮社の獄で自殺した小関三英の後任として、幕府天文方蕃書和解御用を命ぜられ、外交文書の翻訳に当たりました。

嘉永6年(1653)のペリー来航の際には、フィルモア大統領の親書を杉田成卿、宇田川興斎とともに翻訳しました。

また、ペリー来航後まもなくの嘉永6年7月にロシアのブチャーチンが長崎に来航した際には、川路聖謨の従者として長崎に出張し対露交渉に活躍しました。ついで10月にプチャーチンが下田に来航した際にも、川路聖謨に随行して下田に出張しています。

安政2年(1855)4月に家督を養子の秋坪に隠居しましたが、安政3年に蕃書調所が創立され、教授として召出され、頭取の古賀謹一郎を助けることになります。

安政5年(1858)、お玉ヶ池種痘所が開設されますが、このお玉ヶ池種痘所の設立は、伊東玄朴、大槻俊斎、戸塚静海などともに箕作阮甫も中心人物となってできたものです。

お玉ヶ池種痘所は、川路聖謨の屋敷に開設されたのですが、箕作阮甫は、プチャーチンの応接のため、川路聖謨に従って、長崎や下田に出張しており、こうした関係も大きく影響していると考えられています。

文久2年(1862)、幕臣に取り立てられましたが、津山藩出身の洋学者で幕臣になったのは箕作阮甫が最初でした。

幕臣に取り立てられた翌年の文久3年6月17日になくなり、江戸白山の浄土寺に葬られましたが、現在は多摩霊園に改葬されています。


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by wheatbaku | 2017-11-17 10:49 | Trackback
宇田川榕庵(津山藩の洋学③)

宇田川榕庵(津山藩の洋学③)

今日は、津山藩の洋学の3回目で、宇田川榕庵について書きます。

この宇田川榕庵が、今回の江戸検で出題された人物です.
宇田川榕庵の「榕庵」は、「榕菴」とも書き、「榕菴」の割合が多いようにも思いますが、江戸検の問題では「宇田川榕庵」となっていますので、ここでは「宇田川榕庵」として書いていきます。

宇田川榕庵は、大垣藩医江沢養樹の子供として生まれました。

14歳で宇田川玄真の養子となり、文化14年(1817)津山藩医となりました。

江戸のマルチ学者ともいわれる宇田川榕庵の著述書は、数多くありますので、代表的なものだけを紹介していきます

『哥非乙(こうひい)説』 

この本は、文化13年(1816)つまり、宇田川榕庵が津山藩医になる前年に書いたコーヒーの産地、効用を説いたものです。宇田川榕庵はわずか19歳のときでした。

Coffeeの日本語表記である「珈琲」は、宇田川榕菴が考案し蘭和対訳辞典で使用したのが最初であると言われています。この辞書は、現在早稲田大学の図書館に「博物語彙」という資料名で所蔵されているそうです。

『西説菩多尼訶経(ぼたにかきょう)』と『植物啓原』 

宇田川榕庵はショメルの百科事典を読んで、西洋には実用的な本草学とは別に、植物自体の構造や生理を探求する植物学があることを知り、日本初の植物学書『西説菩多尼訶経(ぼたにかきょう)』(経文形式)を文政5年(1822)に出版しました。

「菩多尼訶(ぼたにか)」というのは、ラテン語で植物学を意味するbotanica からとったものです。「経」となっているのは、お経のように折り本形式となっていることからつけた名前です。

そして天保5年(1834)に本格的な植物学書『植学啓原』を出版しました。

こうした植物学についての書物の中で、現在も使われている雌花、雄花、花柱、葯、柱頭などの訳語が作られています。

『舎密開宗(せいみかいそう)』

天保5年(1834)に、宇田川榕庵は、宇田川玄真を手伝って薬学書『遠西医方名物考』の補巻を刊行します。

『遠西医方名物考補遺』巻79は「元素編」には元素のことが書かれています。

この「元素」も榕菴の作った言葉で、そのほかに、酸素、窒素、水素、炭素、分析、気化、酸化、酸、アルカリ、中和、塩、酸化物など今日も使われている化学の基礎的用語が宇田川榕庵によって作られました。

 その3年後の天保8年(1837)からは、日本で最初の本格的な化学書『舎密開宗』の出版を始めました。「舎密」とはオランダ語の「セーミ」に当て字をしたもので、セーミとは化学のことです。『開宗』とは「ひらく」という意味です。

 『舎密開宗』は初篇から六篇18巻を刊行した後、外篇3巻まで刊行されます。

この『舎密開宗』の刊行は、榕菴が亡くなったために途中で中断してしまいますが、宇田川榕庵によって日本の近代化学が始まっているのです。

以上が代表的な書物ですが、こうした実績のほか、宇田川榕庵は、文政8年(1825)に養父宇田川玄真とともに日本ではじめて現在の化粧せっけんに近い品石鹸を製造しています。

宇田川玄真と宇田川榕庵が作った石鹸は、薬用と使用されたようです。

また、宇田川榕庵はシーボルトとも親交がありました。

シーボルトが、文政9年(1826)にオランダ商館長の江戸参府に従って江戸に滞在した際に、宇田川榕庵は、本石町の長崎屋を訪ね、シーボルトと交流しました。

シーボルトが贈った顕微鏡が、現在も早稲田大学図書館に残されているようです。

宇田川榕庵には実子はなく、大垣藩医飯沼慾斎(よくさい)の子興斎を養子に迎え、弘化3年(1846 622日に49歳の若さで亡くなりました。

宇田川玄真の弟子で江戸で蘭学塾を開いて緒方洪庵や川本幸民などを育てた坪井信道は、緒方洪庵に「残念千万」と、その死を悼んでいます。



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by wheatbaku | 2017-11-15 11:36 | 『幕末』 | Trackback
宇田川玄真(津山藩の洋学②)

 宇田川玄真(津山藩の洋学②)

 今日は、津山藩の洋学の2回目として宇田川玄真について書きます。

 宇田川玄真は、伊勢の安岡家に生まれ、江戸で、大槻玄沢・宇田川玄随・桂川甫周などについて蘭学を学びました。

杉田玄白からはその才能を見込まれ婿養子になります。

しかし、放蕩をくりかえし身を持ち崩したために杉田玄白から勘当され離縁されます。

この苦境の宇田川玄真を救ったのが稲村三伯です。

宇田川玄真は、稲村三伯が編纂していた日本初の蘭日辞書『ハルマ和解』にも従事し、『ハルマ和解』の完成に貢献しました。

寛政9(1797)に宇田川玄随が亡くなりましたが、跡継ぎがなかったため、宇田川家の家名断絶が危惧されました。そこで、大槻玄沢らの斡旋により宇田川家を継ぐことになり、榛斎と号しました。

宇田川家を継いだ宇田川玄真は、宇田川玄随の「西説内科撰要」を完成させました。

そして、宇田川玄真は、日本の解剖学の基礎を築いた『医範提綱』を刊行しました。これは、解剖学の基礎を書いたもので、図が銅版画がきれいなものでした。

また、日本初の西洋薬学書『和蘭薬鏡』を著して、西洋薬物の製法・処方を初めて明らかにしたものです。このほか、最初の西洋小児科学書「小児諸病鋻法治療全書」、最初の西洋眼科書「泰西眼科全書」を刊行しました。

宇田川玄真は、幕府天文方の蕃書和解御用にも出仕し、幕府によるフランス人ショメルの「日用百科全書」を和訳した『厚生新編』の翻訳作業に従事しました。

 宇田川玄真は、のちに宇田川玄真の養子となる宇田川榕庵、坪井信道、箕作阮甫、緒方洪庵など多くの蘭学者を直接育成しました。


 膵臓(すいぞう)の「膵」やリンパ腺の「腺」という和製漢字をつくったことでも知られています。

「膵」という字は,江戸時代に宇田川玄真によって造られた和製漢字で,『医範提綱』に初めて載せられたものだそうです。

東洋医学には「膵臓」という概念はなくて、いわゆる五臓六腑に入っていませんでした。そこで、宇田川玄真は、原語のpancreas(pankreas)から、「膵」という字を考案しました。萃は「集まる」という意味で,月(にくづき)と合わせて「膵」は「肉の集合したもの」という意味を表し、原語と同じように,「すべてが肉からなる」ということを表したものだそうです。

 こうした功績から宇田川玄真は「蘭学中期の大立者」とも「江戸蘭学界中興の祖」とも称されました。

 宇田川玄随からの津山藩の洋学の伝統は「御家光之御筋」と「草創之著述」ですが、宇田川玄真も「草創之著述」をなして、「御家光之御筋」をたてたのでした。


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by wheatbaku | 2017-11-13 11:46 | 『幕末』 | Trackback
宇田川玄真(津山藩の洋学②)

 宇田川玄真(津山藩の洋学②)

 今日は、津山藩の洋学の2回目として宇田川玄真について書きます。

 宇田川玄真は、伊勢の安岡家に生まれ、江戸で、大槻玄沢・宇田川玄随・桂川甫周などについて蘭学を学びました。

杉田玄白からはその才能を見込まれ婿養子になります。

しかし、放蕩をくりかえし身を持ち崩したために杉田玄白から勘当され離縁されます。

この苦境の宇田川玄真を救ったのが稲村三伯です。

宇田川玄真は、稲村三伯が編纂していた日本初の蘭日辞書『ハルマ和解』にも従事し、『ハルマ和解』の完成に貢献しました。

寛政9(1797)に宇田川玄随が亡くなりましたが、跡継ぎがなかったため、宇田川家の家名断絶が危惧されました。そこで、大槻玄沢らの斡旋により宇田川を継ぐことになりました。榛斎と号しました。

宇田川家を継いだ宇田川玄真は、宇田川玄随の「西説内科撰要」を完成させました。

そして、宇田川玄真は、日本の解剖学の基礎を築いた『医範提綱』を刊行しました。

これは、解剖学の基礎を書いたもので、図が銅版画がきれいなものでした。

また、日本初の西洋薬学書『和蘭薬鏡』を著して、西洋薬物の製法・処方を初めて明らかにしたものです。

このほか、最初の西洋小児科学書「小児諸病鋻法治療全書」、最初の西洋眼科書「泰西眼科全書」を刊行しました。

また、宇田川玄真は、幕府天文方の蕃書和解御用にも出仕し、幕府によるフランス人ショメルの「日用百科全書」を和訳した『厚生新編』の翻訳作業に従事しました。

 また、宇田川玄真は、のちに宇田川玄真の養子となる宇田川榕庵、坪井信道、箕作阮甫・緒方洪庵など多くの蘭学者を直接育成しました。

そのため、「蘭学中期の大立者」とも「江戸蘭学界中興の祖」とも称されました。

 膵臓(すいぞう)の「膵」やリンパ腺の「腺」という和製漢字をつくったことでも知られています。

「膵」という字は,江戸時代に宇田川玄真によって造られた和製漢字で,『医範提綱』に初めて載せられたものだそうです。

東洋医学には「膵臓」という概念はなくて、いわゆる五臓六腑に入っていませんでした。そこで、宇田川玄真は、原語のpancreas(pankreas)から、「膵」という字を考案しました。萃は「集まる」という意味で,月(にくづき)と合わせて「膵」は「肉の集合したもの」という意味を表し、原語と同じように,「すべてが肉からなる」ということを表したものだそうです。

 宇田川玄随からの津山藩の洋学の伝統は「御家光之御筋」と「草創之著述」ですが、宇田川玄真も「草創之著述」をなして、「御家光之御筋」をたてたのでした。


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by wheatbaku | 2017-11-13 11:46 | 『幕末』 | Trackback
「~山手線一周~駅から気ままに江戸散歩⑥」巣鴨駅編

「~山手線一周~駅から気ままに江戸散歩⑥」巣鴨駅編

 

昨日は、毎日文化センターの江戸散歩講座「~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩」がありました。
 この江戸散歩は、山手線の各駅をスタート地点として、駅周辺の江戸にゆかりの史跡を訪ね歩くもので、この秋は、第2ステージに入っています。昨日は、巣鴨駅を出発して西巣鴨から飛鳥山まで散歩してきました。

晴天の下、参加された受講者の皆さんと楽しく散歩できました。

下写真は、飛鳥山公園にある飛鳥山碑での説明の様子です。

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昨日のコースは、次の通り、西巣鴨の寺町を中心に飛鳥山までご案内しました。

 巣鴨駅 ⇒ 眞性寺(六地蔵) ⇒ 高岩寺(とげぬき地蔵) ⇒ 庚申塚 ⇒ 西方寺(万治高尾の墓)⇒ 盛雲寺(新門辰五郎の墓)⇒ 妙行寺(お岩さんの墓、浅野家の墓)⇒ 善養寺(閻魔像、尾形乾山の墓) ⇒ 都電で移動 ⇒ 渋沢史料館 ⇒ 船津伝次平顕彰碑 ⇒ 飛鳥山碑 ⇒ 佐久間象山の桜賦の詩碑 ⇒ 王子駅

眞性寺(六地蔵) 

 江戸六地蔵で有名な眞性寺では、菊まつりが開催されていて、大勢の参拝客でにぎわっていました。

六地蔵は巣鴨の眞性寺、品川の品川寺、吉原の東禅寺、新宿の大宗寺、深川に二つ霊巌寺と永代寺に建立されました。

眞性寺のお地蔵様は正徳4年(1714)に4番目に建立されました。300年以上たっているにことなります。建立は4番目ですが、江戸六地蔵参りという巡礼がありますが、それでは参拝順序は3番目になります。

以下、西巣鴨の寺町での主な案内場所をご紹介します。

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西方寺〔高尾大夫の墓〕

高尾太夫は、吉原の三浦屋に代々伝わる太夫の名前で、高尾太夫は11代続いたともいわれています。西方寺に眠っているのは、高尾太夫の中でも最も知られている2代目の高尾太夫で、万治高尾とか仙台高尾とか呼ばれています。

万治高尾のお墓は、お地蔵様が彫られたお墓で、高尾の戒名「転誉妙身信女」はほどんど読み取れません。

西方寺は、昭和2年に浅草から西巣鴨に移転してきていますが、改葬した際に、女性の人骨と木製の櫛がでてきたそうです。

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盛雲寺(新門辰五郎の墓)

新門辰五郎は、町火消十番組の頭として大変有名です。

錺職人の子として下谷に生まれましたが、輪王寺宮に仕える町田仁右衛門の養子になり、本名は町田辰五郎といいますが、輪王寺宮が浅草寺の伝法院に隠居した際に伝法院に新しくできた門(新門という)の門番も勤めたことから、新門辰五郎と呼ばれるようになりました。

新門辰五郎は、幕末には、子分300人を連れて京都に行き、15代将軍徳川慶喜の警備の任につきました。鳥羽伏見の戦に旧幕府軍が敗れた際には、大坂城に放置されていた家康以来の大金扇の馬印を持って子分と共に陸路東海道を江戸に着いたことで有名です。

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妙行寺(お岩さんの墓)

妙行寺は、寛永元年に赤坂に創建され、江戸時代には四谷鮫ヶ橋にありましたが、明治40年現在地へ移転しました。

東海道四谷怪談で有名なお岩さんは、実在の人物で、寛永13年2月22日になくなり、妙行寺に葬られました。

お岩さんが出てくる「東海道四谷怪談」を鶴屋南北が書いたのは、お岩さんがなくなって約200年もの後です。

実在のお岩さんは、御家人の田宮又左衛門の娘で、旦那さんは田宮伊右衛門といいました。

妙行寺の説明によると、夫の田宮伊右衛門は、隣家の娘とねんごろになりお岩さんを虐待していて、お岩さんが36歳でなくなった2年後に伊右衛門も亡くなってしまい、最初、お岩さんの法名は「得証妙念」という簡単なものでしたが、田宮家には「災い」がたえなかったため、「得證院妙念日正大姉」と改めました。それからは、田宮家にも災いがなくなったといいます。

そうしたことから、現在も、お岩さんに塔婆を捧げ熱心に祈れば願い事が叶うということから多くの塔婆が捧げられています。

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妙行寺(浅野家の墓)

妙行寺には、赤穂藩浅野家の関係者のお墓もあります。

中央が、赤穂藩浅野家3代藩主浅野長直の奥方高光院殿の墓で、浅野内匠頭長矩のお祖母さんになります。左手が浅野内匠頭の正室瑤泉院の供養塔、右手が浅野内匠頭の弟浅野大学の奥方蓮光院殿のお墓です。

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善養寺(尾形乾山の墓)

 善養寺は、江戸三大閻魔のひとつとされる高さ約3メートルの木造閻魔王坐像(豊島区登録有形文化財)が本堂に鎮座しています。江戸三大閻魔は、善養寺と新宿御苑前の太宗寺、杉並区の華徳院です。

本堂の裏に、尾形乾山のお墓があります。

尾形乾山は、京都の呉服商雁金屋の3男として生まれました。兄は有名な尾形光琳です。

尾形乾山は、京都の御室仁和寺の門前に居を構え野々村仁清のもとで陶芸を学び、鳴滝で窯を開き、この地が京都の西北、乾の方角に位置するところから作品に「乾山」の銘を記しました。この時期の乾山の作品は兄光琳が絵付し、乾山が作陶するという合作が主体で,この時代の作品が鳴滝乾山と呼ばれています。

享保年間の中頃に江戸へ下向し入谷に住んで作陶し、この時期の作品は入谷乾山と呼ばれています。

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 以上、西巣鴨の寺々のご案内でした。



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by wheatbaku | 2017-11-12 13:22 | 山手線一周駅から江戸散歩 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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