長岡城落城(北越戦争レポート⑪)



長岡城落城(北越戦争レポート⑪)



今日は、長岡城の落城について書きます。


 榎峠と朝日山を奪取した長岡藩に対して、新政府軍は即座に反撃を行うことができませんでした。

 この攻防戦が行なわれた時期は、新暦でいえば6月でちょうど梅雨時にあたります。

 通常の年であっても、雨が多く川が増水する時期ですが、慶応4年の梅雨は、例年よりも雨量が多かったそうです。そのため、信濃川の水量が増していて、新政府軍は、容易に攻撃をしかけることができませんでした。

 一方、長岡藩にとっては、増水した信濃川が、新政府軍の西からの攻撃を防ぐ外堀の役割を果たしていました。

 そのため、両軍とも、信濃川を渡河しての大規模な戦闘は行われず、信濃川を挟んで砲撃戦が展開されていました。

 そのため、しばらくの間、持久戦の様相をみせていました。


 そうした中で、河井継之助(つぎのすけ)は、5月19日の深夜、長岡城下南郊の前島村(長岡市前島町)から強行渡河して小千谷を攻略するという奇襲作戦を考え、19日には約600名の奇襲部隊が前島村への集結を完丁していました。

 一方、新政府軍の山県有朋も、信濃川を強行渡河して長岡城を直接攻撃する奇襲作戦を立案します。

 新政府軍は、高田に集結した後、山道軍と海道軍と分かれて、山道軍が長岡へ向かいました。そして海道軍は海岸沿いに柏崎をめざしていました。海道軍は閏427日に鯨波で桑名藩と戦った後、出雲崎に駐屯しています。

 山県有朋は、この海道軍に依拠して、19日の早朝を期し、信濃川を強行渡河して長岡城西方の中島に上陸し一気に長岡城を攻略する作戦を立案しました。


 そこで、山県有朋は出雲崎にいた海道軍の軍監三好軍太郎に相談しました。長州藩士であった三好軍太郎は大賛成でした。しかし、薩摩側には、梅雨で増水した信濃川を渡河するのは無謀だという消極論もありました。新政府軍側の薩長の内輪もめがあったようです。


 河井継之助(つぎのすけ)と山県有朋が立案した奇襲作戦は奇しくも同日である29日決行でした。しかし、先に実行したのは、新政府軍側でした。

 新政府軍は、19日早朝に攻撃を開始しました。

 長州藩兵を先鋒とする新政府軍は、激流渦巻く信濃川を渡って、対岸の中島周辺に上陸しました。当日は、朝霧が濃く立ち込め、新政府軍の行動を隠蔽したことから、抵抗を受けることなく、信濃川を渡河しました。

 長岡市中島1丁目には、「西軍上陸の地」と名付けられた史跡が残されています。(下写真)

 教育委員会の説明板には「慶応4年(1868)の5月19日早朝、戦機を失うことをおそれて、西軍は洪水の信濃川を強行渡河して、長岡城を攻撃する策を立て、ここ中島に上陸した。長岡軍は必死に防戦したが、総退却し、ついに長岡城は落城した。長岡城最大の悲劇となった落城発端地点である」と書いてありました。

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また、長岡市渡里町にある西福寺には「維新の暁鐘」と呼ばれる梵鐘が残されています。

この鐘は、長岡城が落城した519日の早朝、新政府軍の侵攻を城下に知らせるため、一藩士が鐘楼にかけのぼり、この鐘を乱打したといわれています。(下写真)

しかし、長岡藩側は、梅雨による信濃川の増水に頼っていて、信濃川を渡河して長岡城が直接ねらわれるとは全く思っていませんでした。そこで、榎峠・朝日山などの藩境に軍勢を集中していて、長岡城下には、軍勢が配置されていませんでした。城下に配置されていたのは老人兵や少年兵が多かったそうです。

 そのため、防御力はあまりなく、やすやすと防衛ラインを突破されていきました。

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河井継之助(つぎのすけ)は、新政府軍側の奇襲攻撃の知らせを受けると、みずから摂田屋の本陣から馬で城下に向かい、新政府軍を前にして、ガトリング砲を大手門の前に配置し、みずから射撃手となって敵をなぎ倒そうとしたものの、左肩に銃撃をうけ城中に退かざるをえませんでした。

このため、長岡藩首脳部は城の死守を断念し、藩王の牧野忠訓と前藩主の忠恭は、会津を目指して栃尾方面へ脱出し、河井継之助(つぎのすけ)も城に火をかけ栃尾へ向かいました。





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# by wheatbaku | 2017-07-21 17:29 | 『幕末』 | Trackback
榎峠・朝日山の戦い(北越戦争レポート⑩)

 榎峠・朝日山の戦い(北越戦争レポート⑩)

 今日は、北越戦争でおける長岡藩と新政府軍の最初の戦い「榎峠・朝日山の戦い」について書きます。

小千谷会談に失敗したため、河井継之助(つぎのすけ)はついに新政府軍との開戦を決意しました。

河井継之助(つぎのすけ)は、5月3日、長岡城の南にある摂田屋村の光福寺に諸隊隊長を集めて、開戦を決意したと演説しました。 下が光福寺です。

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そして、5月4日に、それまで明確な回答を与えていなかった奥羽列藩同盟に参加しました。ただし、河井継之助記念館の稲川館長が書いている「長岡城燃ゆ」によれば、『仙台戊辰史』などによると長岡藩が奥羽越列藩同盟に加わったのは慶応4年5月4日になっているが、長岡藩側の記録には奥羽越列藩同盟に加わったことについて触れた資料は一切ないとのことです。

これにより、長岡藩外で戦っていた会津藩や桑名藩、衝鋒隊などの部隊を、長岡藩内に迎えいれました。55日には、会津藩兵が、摂田屋の本陣に到着します。

長岡では、6日から9日まで暴風雨が続いたため、長岡藩と同盟軍が軍事行動を起こしたのは10日のことでした。

5月9日に長岡城で河井継之助(つぎのすけ)は、同盟諸藩らとの戦略協議を行ない、戦略的要所である榎峠を攻撃することにしました。

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 長岡城から南に下ると小千谷との境に、榎峠および朝日山という軍事的な要衝があります。

河井継之助(つぎのすけ)は、小千谷会談の前に意図的に、榎峠から長岡藩兵を引き上げていました。そのため、5月3日に、すでに新政府軍が押さえていました。

長岡城の西側は信濃川が流れています。榎峠は長岡城から見て信濃川の手前にあり、新政府軍の本営が置かれた小千谷は信濃川を挟んで対岸にありました。

そのため、河井継之助(つぎのすけ)は信濃川で分断されている榎峠・朝日山の新政府軍を攻撃し占領したのち、小千谷を攻撃しようとしました。

榎峠は、三国街道の難所として有名な場所で、峠の下は断崖となって信濃川に落ち込んでいました。下写真は榎峠古戦場パークの写真です。写真の右側を走るが現在の三国街道ですが、江戸時代には、左手の山の上を三国街道が通っていました。

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長岡城下を進発した会津・桑名藩兵と旧幕臣の古屋佐久左衛門率いる衝鉾隊は、摂田屋村の同盟軍本営で長岡藩兵と合流し、榎峠をめざします。

榎峠を守る新政府軍は上田藩の1小隊と尾張藩の1小隊でしたが、同盟軍は、三国街道を南下する隊と山地を迂回する隊とに分かれて進撃しました。長岡藩軍事掛の萩原要人が率いる街道部隊は、榎峠を攻撃。同じく長岡藩軍事掛の川島億二郎の迂回部隊は、榎峠の新政府軍を背後から攻めました。

長岡藩兵および同盟軍は榎峠を占領しました。

翌11日、新政府軍は小千谷からの反撃を開始しますが、会津藩の佐川官兵衛らの働きもあり、同盟軍はこれを撃退し、さらに榎峠の南東にある朝日山を占領しました

開戦時、柏崎から小千谷に向かっていた山県有朋は、榎峠の銃声を耳にし、急ぎ小千谷の本営に駆けつけました。しかし、岩村精一郎ら現地幹部は給仕をはべらせて呑気に食事をしている有様たったため、激怒した山県有朋は、彼らの膳を蹴り上げて怒鳴りつけ、岩村精一郎から指揮権を剥奪したとも言われています。

 山県有朋は、自分と同じく奇兵隊出身の時山直八とともに前線を視察し朝日山が重要という点で一致しました。
 下写真は、越の大橋から撮った榎峠方面の写真ですが、奥側に少し高く見える山が朝日山です。

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しかし、時山直八が奇兵隊だけで戦うことを主張したのに対して、山県有朋は全軍で戦うべきだと主張し、援兵を連れてくるため、いったん小千谷に引き上げました。

 5月13日(司馬遼太郎の「峠」では5月12日としてありますが、ここでは河井継之助記念館の稲川館長の13日説をとっておきます)早朝、濃霧が立ち込める中、戦機到来と判断した時山は、山県有朋が援軍をつれて帰るのを待たずに、手元にいる奇兵隊200余名だけで、朝日山攻撃を開始しました。

朝日山を守っていたのは桑名藩雷神隊の隊長立見鑑三郎(尚文)などの部隊です。

立見鑑三郎は、際立った指揮ぶりで新政府軍を迎え撃ち、新政府軍の時山直八も雷神隊の銃弾に倒れ戦死しました。 

この際、時山直八の部下は時山の首だけを持ちかえったそうです。

朝日山をめぐる攻防戦は、同盟軍側の完全勝利に終わりました。後に陸軍元帥までのぼった山県有朋も大きな衝撃を受けた戦いでした。

この時に詠んだ山県有朋の短歌がそれを如実に表しています。

 仇(あだ=敵)守る 峠のかがり 影ふけて 夏も身にしむ 越の山風


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# by wheatbaku | 2017-07-19 21:02 | 『幕末』 | Trackback
獏塾ゼミ開催されました。

獏塾ゼミ開催されました。



 昨日、江戸検勉強グループ獏塾主催の勉強会「獏塾ゼミ」が開かれました。

 今回は体験受講の人たちも参加していただき、50名のもの人が参加してくれました。

 ご参加いただいた皆さん、お疲れ様でした。

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今回は、今年のお題のテキスト「疾走!幕末・維新」をもとに勉強しました。

レポーターは、昨年1級に合格した蝦夷っ子さん(下写真)でした。

蝦夷っ子さんはお題のテキストが出版される前から、「幕末・維新」について中公文庫『開国と攘夷』などを読んで準備し、膨大な資料をつくってくれました。これだけも大変です。

そのなかで、ペリー来航から王政復古までを解説してくれました。

資料は膨大なものですが、基礎的な知識をおさえてコンパクトに説明をされ、わかりやすい内容でした。

これで、ペリー来航から王政復古までの基本的な流れは理解されたと思います。

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講義の後は、幕末・維新に関しての模擬試験を、東中野の一賢人さん(下写真)が出題・解説をしてくれました。

出題された問題の中で、土方歳三の生家で販売していた石田散薬についての出題が興味深いものでした。石田散薬は服用するときは燗酒で服用する用法だったそうです。勉強になりました。

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最後は、昨年合格した幕張の静山さんとバードタイムさんのお二人が合格体験を話してくれました。

幕張の静山さん(下写真)は4回目のチャレンジで昨年1級に合格しました。

強調していたのは、過去問の100%正解をめざすということでした。

そして、最後は忍耐力がどれだけ続くかだと語って、話を終了されました。

苦しい時にいかに頑張るかということで合否が決まると言うことだと思います。

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続いて2人目の合格体験談は、バードタイムさん(下写真)でした。

バードタイムさんは、1昨年は60点台でしたが、昨年一気に合格ラインを突破しました。

バードタイムさんは、一昨年不合格となった要因分析をして昨年取り組んだとのことで、非常に科学的だなと思いました。

その中で強調されていたのが、幕張の静山さんと同様に徹底して過去問をやるということでした。

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お題の解説、模擬試験、そして、合格体験を聞いて、塾生の皆さんも、気持ちを引き締めて取り組もうと考えた人が多かったようです。

ゼミの後は、いつもの懇親会です。

今回は、体験受講の方がいらっしゃったので、その方々に自己紹介をしていただきました。

 合格に近い人、今年初めて1級を受検する予定の人、とさまざまでしたが、全員、ゼミが大変やくにたったと褒めていただきました。

 体験受講いただいた皆さん、ありがとうございました。

 今回も一枚に撮りきれな人が参加してくれましたので、最後の記念写真は3名です。みんな頑張ろうという雰囲気があらわれています。

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# by wheatbaku | 2017-07-17 11:28 | Trackback
河井継之助が休息した「東忠」(北越戦争レポート⑨)

河井継之助が休息した「東忠」(北越戦争レポート⑨)

 河井継之助(つぎのすけ)は、小千谷会談で岩村精一郎から冷たくされても、すぐにあきらめたわけではないようです。

 

 司馬遼太郎の「峠」によれば、慈眼寺でも、また宿に戻っても、繰り返し再会談を申し込んでいます。しかし、その度に拒絶されています。

 実際は、「峠」に描かれたほど繰り返されたかは疑問のようですが、河井継之助(つぎのすけ)は再会談の申し入れをしているようです。
『決定 河井継之助』では、「翌朝、本陣前まで行くが、相手にしてもらえずそのまま帰った」と書かれています。

 『河井継之助の真実』では「新政府軍として出兵している加賀・尾張・松代などの諸藩の重役に嘆願書受の仲介の労を取ってほしいと交渉。だか、河井の願いを拒絶している。河井は、慈眼寺の山門の周辺を深夜までウロウロしていたという」と書いてあります。

 新政府軍としては、小千谷の北方に迫る会津藩を中心とした奥羽列藩同盟軍との戦いに気がとられたという面があると思います。

 また、新政府軍に参加した諸藩としては、恭順を示している立場であり、あまり長岡藩に肩をもつと、あらぬ疑いをかけられるという心配もあったものと思われます。
 こうした河井継之助(つぎのすけ)の再会談の申し入れも拒絶され、ついに談判は不調となります。

 小千谷会談の後、新政府軍との工作を続けるため、河井継之助(つぎのすけ)が休息・待機したのが慈眼寺近くの料亭「東忠」です。

 この料亭「東忠」が現在も小千谷に残されています。しかも気軽に食事を楽しめましたので、ランチを食べてきました。

 東忠は1730年頃(享保ごろ)に創業されたと伝えられる歴史のある料亭です。

 新潟県出身の田中角栄もしばしば利用したと言われています。
 下の写真が、本館全景ですが、国の有形文化財に登録された建物です。

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以前は、「一見さん、お断り」という格式の高い料亭だったそうです。 

 しかし、こうしたことから経営不振となり、昨年の秋に、一旦営業をやめたそうですが、今年の5月から営業を再開したとのことです。

以前の経営方針をすっかり変えて、だれでも気軽に楽しめるお店をめざして「居食亭(いしょくてい) 東忠」に名称を変更して営業をしています。

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その通り、ランチは千円台で、ずいぶん安いと感じました。ランチは4週類ありましたが、私は「継之助御膳」を頼みました。

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「継之助御膳」には河井継之助(つぎのすけ)が書した「桜飯」がついてきました。

「桜飯」と呼ばれるものは、刻んだ味噌漬けの大根をご飯のうえにのせたご飯ですが、味噌漬けの大根がまるで桜の花弁のようだったので桜飯と呼ばれ、河井継之助(つぎのすけ)が大変好んだと伝わっているそうです。

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「桜飯」には、味噌漬けの大根を炊きこんだご飯もあるようです。

河井継之助をしのびながら、ゆっくり味わっていただきました。

 食事の後、河井継之助(つぎのすけ)が談判の継続を望んで待機していたと言われる「梅の間」を見させてもらいました。

 3階の大変眺望のよい場所にありました。

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 河井継之助(つぎのすけ)は、この部屋で、どんな気持ちで時を過ごしたんだろうと思うと、明るく差し込んでいた日の光が、一瞬、曇ったように感じました。



 


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# by wheatbaku | 2017-07-13 15:01 | 『幕末』 | Trackback
慈眼寺(北越戦争レポート⑧)

 慈眼寺(北越戦争レポート⑧)

 河井継之助(つぎのすけ)と岩村精一郎の会見いわゆる小千谷会談が行われたのが慈眼寺です。

 慈眼寺には、会見の間以外にも見所がありますので、今日は、それをご紹介します。

 慈眼寺は、JR上越線小千谷駅からだと小千谷駅と小千谷市の中心街の間には信濃河が流れているため、かなりの距離があります。 

 私は、行きはタクシーで行き、帰りは歩いてみましたが、徒歩だと30分弱かかりましたので、タクシーで往復するのがよいと思います。

さて、慈眼寺は、正式には船岡山観音院慈眼寺慈眼寺と呼ばれ、寺伝によれば、天武天皇の白鳳年間薩明大徳によって、国家鎮護の道場として創建されたといわれています。

小千谷市でも指折の古いお寺だそうですが、小千谷どころか新潟県でも屈指の歴史を誇るお寺ではないでしょうか。

そんな歴史を誇る慈眼寺には、弘法大師ゆかりの観音様が鎮座されています

境内にある船岡観音堂のご本尊の聖観世音御菩薩です。

下写真が、観音堂です。

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この観音様は、平安時代の大同年中たまたま教えを弘めにこの地にやってこられた弘法大師が、衆生済度を念じて、一刀三礼、これを彫刻したものと伝えられています。

中越地震までは、住職一代に一度だけ御開帳していたそうですが、現在は常時開帳されています。下写真が観音堂内の写真です。

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 この観音様は、江戸で出開帳されています。

 元禄4年(1691)には、ご本尊様の出開張したところ、参拝の善男善女が押しかけて引きも切らず、ついに開帳が60日に及んだといいます。

この評判を聞いて5代将軍徳川綱吉も、わざわざ参詣して、供養料に和歌一首を書いた扇子を添えて奉納されました。

この扇子は、いまも寺宝として、この寺に残っているそうです。

本堂内の会見の間の次の間に、この扇子の写真が掲示されていました。(下写真)

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 慈眼寺の山門も見事なものでした。

江戸時代以前のものと思う風格がある山門ですがで、明治25年に建築されたものです。平成27年に国の有形文化財に登録されました。

河井継之助が訪れた際には一回り小さい山門があったようです。

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本堂の前には、岩村河井会見記念碑が建てられています。

この石碑は、慶応4年5月2日、慈眼寺で、河井継之助(つぎのすけ)と岩村精一郎が会見し談判した史実を記念して、昭和14年(1939年)、慈眼寺住職船岡芳快師の発願によって建てられたもので、碑文は徳富蘇峰の撰、篆額と書は、小千谷市出身の島田博の筆だそうです。

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# by wheatbaku | 2017-07-11 20:50 | 『幕末』 | Trackback
小千谷会談(北越戦争レポート⑦)

小千谷会談(北越戦争レポート⑦)

今日から、いよいよ北越戦争について書いていきます。

 河井継之助(つぎのすけ)は、軍制改革を行い軍備の充実を図ってきました。しかし、これは新政府軍と戦うためではなく、中立を維持するためだったと言われています。

 しかし、5月2日に行われた河井継之助(つぎのすけ)と岩村精一郎との会談(これが小千谷会談と呼ばれています)が決裂したことにより、長岡藩は、新政府軍に抗戦せざるをえないこととなります。

 今日は、この有名な小千谷会談について書いていきます。

 下写真は、河井継之助(つぎのすけ)と岩村精一郎の会談が行われた小千谷慈眼寺の会見の間です。

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 新政府軍では、北陸道鎮撫総督兼鎮撫使に任じられた高倉永砧が、閏4月25日、薩長に加賀・富山・長府の諸藩兵を加えて海路を越後高田に向かい、5月8日に高田に到着しました。総督軍には、薩摩の黒田清隆と長州の山県有朋が参謀として参加していました。

また、北関東から越後に入った旧幕府軍の衝鉾隊を追撃してきた土佐藩の岩村精一郎が率いる尾張・信濃の兵も、越後高田周辺に集合しました。

 

慶応4年3月15日、北陸道鎮撫総督は、越後11藩の重臣を高田に集合させました。

その際に長岡藩に対して会津攻めに出兵するか3万両の軍用金を献納するよう求めました。

長岡藩の藩論は新政府への恭順か抗戦かで二分されました。

しかし、長岡藩はいまだ新政府側、列藩同盟側のいずれにつくのか、態度を明らかにしませんでした。

河井継之助(つぎのすけ)は自分の立場は明らかにしないで、一方では恭順派の重臣を退け、一方で主戦派の暴発を抑えていました。
 下写真は、慈眼寺の会見の間に掲げられていた河井継之助(つぎのすけ)の肖像画です。

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閏4月19日、高田に集結した新政府軍は、柏崎から新潟をめざして海岸線を進む海道軍と十日町から小千谷をめざす山道軍に分れ進攻を開始しました。この山道軍を率いていた軍監が土佐藩士の岩村精一郎でした。

閏4月26日に河井継之助(つぎのすけ)が軍事総督に任命されました、

閏4月27日、山道軍は、当時、会津藩の飛び地であった小千谷を占領しました。

 慶応4年5月2日の早朝、河井継之助(つぎのすけ)は、軍目付の二見虎三郎と従僕2人を従え、小千谷にある北陸道鎮撫総督の本営に向かいました。

 この時、越後に駐留していた会津藩は、長岡藩が新政府へ恭順することを恐れ、会談の妨害を図って新政府軍を攻撃しました。

この時、長岡藩も一緒に攻撃していると見せるため長岡藩旗を戦場に持ちこみ、長岡藩が作戦に参加しているかのように見せかけたともいわれています。

戦いが間近に迫る殺伐とした状況の中で、小千谷に到着した継之助は、本営近くの慈眼寺に案内されました。

下写真が、慈眼寺の本堂です。

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現在も小千谷の慈眼寺の本堂には、会見の間が残されています。それが冒頭の写真です。しかし、ここは中越地震で壊滅的な被害を受けました。それが多くの善意により復興されたそうです。その感謝をこめて、本堂の会見の間は拝観料をとらずに公開しているそうです。

会談場所の本堂の会見の間には、継之助ひとりが通されました。

 新政府側で会談に臨んだのは、土佐藩の軍監岩村精一郎です。

 下写真は、会見の間に掲げられていた岩村精一郎の写真です。

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この岩村精一郎に同席したのが薩摩藩の淵辺直右衛門、さらに長州藩の杉山荘一郎と白井小助です。

  まず継之助は、出兵・献金の求めに従わなかったことを謝罪し、藩論が割れていることや会津・桑名・米沢など列藩同盟の諸藩が長岡城下にきてに新政府へ抵抗すべきであると迫っていて戦争になる恐れがある。しかししばらく猶予をもらえれば、会津等の諸藩を説得できる。だから進軍は見合わせて欲しい」と訴えました。

そして、藩主名の嘆願書を提示し、大総督府への取り次ぎを懇願しました。

 しかし、岩村精一郎はまったく取り合おうとしませんでした。

河井継之助は、繰り返し嘆願をしましたが、岩村精一郎は、河井継之助(つぎのすけ)の申し出を拒否し、わずか30分ほどで席を蹴ってしまいました。

小千谷会談の時、河井継之助(つぎのすけ)は42歳でした。それに対して軍監岩村精一郎は、親子ほども年齢の離れた、血気にはやる24歳の青年でした。
 経験の浅い岩村精一郎の対応がよくなかったといわれています。

 のちに岩村精一郎は、河井継之助(つぎのすけ)を「よくいる門閥出身の馬鹿家老の一人が戦争停止を嘆願するために来たと思いこんで、ほとんど頭ごなしに河井継之助(つぎのすけ)の要望をとりあわなかった」と回想しています。

 また、品川弥二郎は「会談に岩村のような小僧を出さずに、北越政府軍参謀であった黒田清隆か山県有朋を河井と合せたら戦争をせずに済んだかもしれぬ」と言っています。

 新政府軍側でも、悔いののこる会談結果だったのでしょう。



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# by wheatbaku | 2017-07-09 11:46 | 『幕末』 | Trackback
河井継之助の藩政改革(北越戦争レポート⑥)

河井継之助の藩政改革(主に禄高改正)(北越戦争レポート⑥)

長岡レポートの6回目は、河井継之助(つぎのすけ)が行なった藩政改革について書きます。

 河井継之助(つぎのすけ)が行なった藩政改革のうち、私が一番注目したのが、禄高改正です。詳しくは後で述べますが、これは画期的なことだと思っていました。そうしましたら、思いがけず江戸検お題のテキスト『疾走!幕末・維新』に河井継之助(つぎのすけ)の行った藩政改革のなかでこのことが取り上げられています。

 そこで、禄高改正を中心に藩政改革について、取り上げることにします。

河井継之助(つぎのすけ)がどのように藩政改革を進めたのかについて具体的に紹介した資料は見当たらないと『決定版河井継之助』の中で稲川館長さんは書いています。

そこで、河井継之助(つぎのすけ)記念館には河井継之助(つぎのすけ)が行なった藩政改革についてまとめた資料が展示されていましたので、それに基づいて説明します。

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その展示資料では河井継之助(つぎのすけ)が行なった藩政改革を8つにまとめていました。

つまり、①軍制改革と禄高改を行う。②賄賂の慣習をやめさせる。③贅沢を一掃する。④免税制度の不正をやめさせる。⑤河税を廃止する。⑥造士寮を創設する。⑦賭博を禁止する。⑧遊郭を廃止する。の8項目です。

 河井継之助(つぎのすけ)は慶応元年10月に郡奉行となっています。

 この時代に行った藩政改革は、②賄賂の慣習をやめさせる。(慶応元年10月実施)、③贅沢を一掃する。(慶応元年10月実施)④免税制度の不正をやめさせる。(時期は不明)だと思われます。

そして河井継之助(つぎのすけ)は、慶応2年11月に町奉行を兼務することになりました。

その時代に実施された主に民政面での改革が、⑤河税を廃止する。(慶応3年12月実施)、⑥造士寮(人材育成機関)を創設する。(慶応310月実施)、⑦賭博を禁止する。(時期不明)、⑧遊郭を廃止する。〈慶応3年12月実施〉です。

 こうした藩政改革を踏まえて、大政奉還から王政復古の大号令そして鳥羽伏見の戦いでの旧幕府軍の敗北という激動する時代に対処するために行われたのが、①軍制改革と禄高改正です。

 このうちの禄高改正は、慶応4年3月1日に発表されています。

 禄高改正と軍制改革については、それについて詳しく書いてある『河井継之助の真実』(外川淳著)を参考に書いていきます。

禄高の改正は大改革でした。藩士の禄高を百石前後に統一しようというものです。

河井継之助(つぎのすけ)は長岡藩の軍制を根本から変えるために、まず藩士の禄高の百石に統一しようと考えました。

 江戸時代の武士は、禄高を主君から与えられる見返りとして、軍役にもとづいて平時には家臣を扶養し、戦時には一定数の家臣を連れて合戦に出陣する義務を負っていました。ところが、泰平の時代が続き、武士が実際に軍役を負担することがなくなり、さらに生活が困窮するにつれて、軍役の負担は形骸化していきます。

河井継之助(つぎのすけ)は、軍役が形骸化している以上、上級家臣に必要以上の禄高を与えることは無駄と判断し、藩士の基本給を百石に統一しようとしました。

また、戦国時代までは、上級武士は家来を引き連れて戦いましたが、近代的軍隊では、上級武士も一兵卒として戦わねばならません。

そこで、河井継之助(つぎのすけ)は、「上級武士でも戦場では一兵卒として戦う」という意識を一人一人に植えつけるため、藩士の禄高を百石に統一しようとしたとも考えられています。

しかし、百石への統一という改革は急激な改革であり、藩内の反発も予想されるため、実際の慶応4年3月1日の禄高改正では、2千石の稲垣家は5百石、20石の下級武士は50石というふうに柔軟に対応しています。

「疾走!幕末・維新」では、藩主への権力を集中するために行ったと書いています。

その通りですが、私は、さらに進んで、武士の役割をも否定し封建体制を崩壊させてしまうという側面もある画期的な改革だと思います。

 続いて河井継之助(つぎのすけ)が実施した軍制改革について書きます。

 河井継之助(つぎのすけ)は、身分別に士分を銃士隊、足軽以下を銃率隊という定員36名とする小隊を基礎単位としました。そして8小隊で1大隊を構成しようとしました。河井継之助(つぎのすけ)は小隊を32個編成しようとしましたので、総数で4大隊・総定員約1100名の軍隊を編成しようとしたことになります。 

 しかし、実際の軍勢は千名ぐらいと言われているようです。

また、兵器では、ミニエー銃(前装式のライフル銃)を各小隊に配備しました。

すでに、日本には後装式ライフル銃や連発銃も輸入されていましたので、最新鋭ではありませんでしたが、当時としては一定の評価ができる軍備といえると思います。

戊辰戦争当時の東北諸藩の中には、戦国時代さながらの軍装で出陣した藩もあるなかで、たとえ千名であっても、新政府軍に対抗できる小銃を保有し、近代戦の訓練を受けた兵士でしたので、長岡藩はかなりの戦力を保持していたということになります。



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# by wheatbaku | 2017-07-06 08:47 | 『幕末』 | Trackback
ガトリング砲(北越戦争レポート⑤)

ガトリング砲(北越戦争レポート⑤)

 河井継之助記念館を入ると、まず目に入ってくるのが、ガトリング砲です。ガトリング砲といえば即座に河井継之助の名前があがるほど河井継之助とガトリング砲は大変有名です。そこで、今日はガトリング砲について書きます。

ガトリング砲とは、複数の銃身を束ねた連発砲です。のちの機関銃の原型と言われています。

 記念館に展示されているガトリング砲は、中心軸を中心に6本の銃身を束ねてあり、右脇にあるハンドルをまわして銃身を旋回させると弾丸が連続発射する仕組みです。下写真は河井継之助記念館に展示されていたガトリング砲です。

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下写真がハンドル部分の拡大写真です。黒いハンドルを回すと銃身が回転し弾丸を発射する仕組みになっています。


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1861型では1分間に最大200発の発射が可能でした。そのため、宣伝文句で「一挺で一個連隊に匹敵する」と言われました

ガトリング砲は、1862年にアメリカの医師リチャード・ジョーダン・ガトリングによって開発された兵器です。

アメリカでは、南北戦争の最中でした。南北戦争は1865年に終了し、アメリカでの販売が難しくなります。

そこで、日本への売り込みが行われました。日本ではちょうど衣臭くなってきた時期でした。

日本には3台のガトリング砲が、ファーブルブラント商会によって輸入されました。そのうち2台を河井継之助は購入しました。

ガトリング砲は大変高価でして、河井継之助はこれを1台3千両(河井継之助記念館の説明によります。ほかの書物には5千両と書いてあるものもあります)で購入しました。

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 河井継之助は、鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗北すると、長岡藩兵を率いて江戸に急いで戻りました。

 そして、藩士のほとんどを長岡に帰した後、長岡藩の江戸藩邸および備品等を処分します。

 こうして工面した資金をもとに横浜で武器を購入しました。

それを、河井継之助は、横浜で船に積み込み、新潟港まで輸送し、長岡城に運び込みました。

このガトリング砲が威力を発揮したのが、慶応4年5月19日に新政府軍により長岡城が攻撃された時です。

この時、ガトリング砲を河井継之助は自身で操作して、慶応4年5月19日の長岡城攻防戦で使用し、新政府軍を苦しめました。

 こうした河井継之助とガトリング砲の活躍にもかかわらず、多勢に無勢で、長岡城は落城という憂き目にあっています。

 ガトリング砲は当時、日本には3門しかなかったと言われています。

 そのうち、2門が河井継之助が購入しましたので、残り1門がどうしたかということが疑問として残ります。

 これについて司馬遼太郎は「峠」で次のように、薩摩藩が購入し藩軍艦尾「春日」に載せたと書いています。

この砲は、継之助かスネルから買ったガットリング砲で、日本に三門しかないというもので、いわば世界的にまだめずらしい新兵器であった。日本に三門しかないうちの二門を継之助はおさえたが、あとの一門は薩摩藩に買われてしまった。薩摩藩はそれを藩冪艦の春日の艦尾にのせた。その艦尾砲の主任士官が東郷平八郎という青年であり、宮古湾海戦でこの砲が威力を発揮したが、むろん、この場合の継之助とはなんのかかわりもない。「機関砲」という名は、継之助がつけた。

なお、新政府軍の軍艦「甲鉄」にもガトリング砲が載せられていたようですが、このガトリング砲は『図説幕末維新の銃砲大全』によれば1685型という型式で、これは河井継之助が購入したものとは型式が違っているようです。

 


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# by wheatbaku | 2017-07-03 23:17 | 『幕末』 | Trackback
河井継之助記念館(北越戦争レポート④)

河井継之助記念館(北越戦争レポート④)

長岡についての記事、今日は、「河井継之助記念館」について書いていきます。

 河井継之助記念館は、長岡駅から徒歩9分の場所にあり、長岡駅から歩いていきました。

 河井継之助記念は、平成18年に長岡市制100周年記念の一環として、河井継之助が住んでいた屋敷跡に開設されました。

 外観は記念館風ではなく、個人の住宅の雰囲気です。これは、記念館は、河井継之助屋敷跡にあった個人のお宅をそのまま利用して開設したそうですから、その見えるのですね。

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 河井継之助記念館は、河井継之助に関する資料が展示されていて、河井継之助の一生や北越戦争の動きなどが、わかりやすく解説されています。

 河井継之助を知るには、まずここを訪ねるのがよいと思います。

 館内の展示は、一部の物を除いては撮影禁止ですが、河井継之助の銅像はOKとのことでしたので、写真を撮らせていただきました。
銅像は「風雲 蒼龍窟 河井継之助像」と名付けられていて長岡在住の彫刻家峰村哲也氏が制作したものです。

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 河井継之助記念館は、河井継之助ゆかりの地を知る上で欠かせない場所ですので、ここを訪ねましたが、訪問の目的はもう一つありました。

 それは、記念館の館長の稲川明雄様にお会いするためです。

 稲川館長さんは、このブログの記事を書く上でお世話になっている『長岡藩』の著者ですし、河井継之助に関する著書も多数あります。

 そこで、河井継之助に関して、いろいろご教示いただこうと思ってお邪魔させていただきました。

入館早々に稲川館長さんにお会いしたい旨お願いしましたら、来客中とのことで、用事が済まされた後にお会いすることができ、まず持参した著書「決定版河井継之助」にサインをしていただきました。

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 稲川館長さんからは、いろいろご教示いただきましたが、話題の中心は、河井継之助の名前の呼び方です。

 河井継之助は、多くの場合、「つぐのすけ」と呼ばれます。しかし、「つぎのすけ」とも呼ぶ場合もあります。

 そこで、その点をお尋ねしました。稲川館長さんのお答えは明快でした。一言で「『つぎのすけ』です」とのことでした。

 稲川館長さんのお話では、元々は『つぎのすけ』ですが、越後弁では、『ぎ』という語尾が上がる発音が明確にならず、『ぐ』という語尾の下がる発音に似た発音になりやすいそうです。そのため『つぎのすけ』が誤って『つぐのすけ』と聞きとられたのだろうとのことでした。

 

 河井継之助を一気に全国区の有名人に押し上げたのは司馬遼太郎の「峠」でしょう。

 その司馬遼太郎のエピソードを稲川館長さんがしてくださいました。

「司馬さんは、『峠』を書く前に『英雄児』という短編で河井継之助について書いています。その短編の原稿には『つぐのすけ』とフリガナが振られていました。しかし、『峠』では、印刷された本では、最初だけ「つぎのすけ」とフリガナがふられているだけですが、残された原稿を見ると、原稿ではすべての『継之助』に『つぎのすけ』とフリガナが振られています。すべてに『つぎのすけ』とフリガナがふられていることに司馬さんの思いが込められているように思います」

 稲川館長さんのおっしゃられたことは、司馬遼太郎は初期の『英雄児』を書く時、河井継之助という人物の正しい名前も知らなかったことに対する悔い(もしくは申し訳なさ)が、『峠』を書く時にはそうさせたのではないかということだと思います。

 そうだとすれば、司馬遼太郎もすごい人だと思いました。

 稲川館長さんには事前の予約なしにお邪魔したにもかかわらず長時間に亘り貴重なお話を伺うことができました。稲川館長さんは、毎日出勤されているわけではないとのことで、お会いできて大変幸運でした。

 稲川館長さんに、写真を一枚とお願いしましたら、快く承諾してくださいました。

 稲川館長さん、本当にありがとうございました。心よりお礼申し上げます。

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 河井継之助の呼び名について、稲川館長さんのお話を裏付ける展示が河井継之助記念館にありました。

河井継之助は、慶応元年から藩政改革を行いましたが、その一環として慶応2年もしくは3年に遊郭を廃止しました。

 その際に、つぎのような狂歌が長岡に流行ったそうです。

「河井(可愛い)河井(可愛い)と今朝までおもひても 今では愛想も継(尽き)之助」

 この最後の句にご注意ください。

 「愛想が継(尽き)之助」となっています。これは「愛想がつく」と「つぎのすけ」とをかけた言葉です。

 もし、「つぐのすけ」であれば、掛け言葉になりません。

 やはり、長岡の人たちは「つぎのすけ」と当時から呼んでいたのに違いありません。

 なお、江戸検お題参考図書「幕末・維新」P176に前述の狂歌が書かれていますので、江戸検を受検される皆さんはご確認ください。

 その後も、長岡市内の観光案内や史跡説明板で、河井継之助のフリガナを意識して見てみると、長岡では、すべて「つぎのすけ」でした。

また、家に帰り、早速、司馬遼太郎の『峠』も確認しました。確かに最初に「つぎのすけ」とフリガナが振ってありました。

 これからは「つぐのすけ」ではなく「つぎのすけ」と呼ぶことにします

 


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# by wheatbaku | 2017-07-01 21:49 | 『幕末』 | Trackback
長岡藩主牧野氏(北越戦争レポート③)

長岡藩主牧野氏(北越戦争レポート③)

長岡藩の藩主は、牧野氏です。今日は、牧野氏について書いていきます。

 牧野氏が長岡藩主になったのは、元和4年(1618)のことで、牧野忠成が長岡藩初代藩主として入封しました。それ以降廃藩置県まで、約250年間、牧野氏は長岡藩を統治しました。

 250年間にわたって、同じ領地を治めていた大名は、御三家や外様大名はともかく譜代大名ではあまりいないのではないでしょうか。すぐに思い当たるところでは、彦根藩井伊家ぐらいでしょうか。

 

 牧野氏は、元々は三河国牛久保城を拠点とした家系です。

 牧野氏は、東三河の有力豪族で、戦国時代には、西三河の松平氏と競いあうほどでした。

 しかし、桶狭間の戦いの後、徳川家康が台頭するようになり、徳川家康の家来となり、天下統一に貢献します。

 そのため、長岡藩では初代牧野忠成の父牧野康成を家康17神将の一人としています。

 牧野康成は、家康の関東入封に際に上州大胡城主となり、その子牧野忠成が、元和4年(1618)越後国長峰から長岡に入封しました。それ以降、13代にわたって長岡を治めました。下写真は、牧野家の家紋「丸に三つ柏」です。

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 大名となった牧野氏は幕末には五家ありました。

長岡藩7万4千石、笠間藩8万石、丹後田辺藩3万5千石、小諸藩1万5千石、三根山藩1万1千石です。

 この五家の本家が長岡藩牧野氏でした。

 笠間藩初代牧野成貞は、忠成の甥にあたります。牧野成貞は5代将軍綱吉の側用人として有名です。

 丹後田辺藩は忠成の従弟の牧野親成が藩祖です。小諸藩は忠成の次男康成、三根山藩は忠成の四男定成を藩祖とします。

一族で大名が五家もある家はあまり多くありません。それだけ牧野氏一族が栄えたということになります。

 長岡藩牧野氏には、暗君はいなかったようですが、3代忠辰(ただとき)は、特に名君として尊敬されています。

 5代将軍綱吉の代に、越後国高田藩松平光長が取り潰されました。その際の高田城受取の大役を無事に果たしています。

 この忠辰は、華美な風を否定、質素倹約の藩政を行いました。それを象徴するのが「十分杯(じゅうぶんはい)」です。

「十分杯」とは八分目までなら普通に使えますが、並々注ぐと底の穴から1滴残らず流れ出てしまう酒器です。

「物事は八分目くらいの余裕をもって行動すれば万事うまくいくもの」と説いて自らを戒め、家来をも戒めたと伝えられています。

 この十分杯は、長岡市郷土史料館に展示されています(下記写真)。なお、郷土史料館は、写真撮影OKでした。

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 牧野氏は、江戸時代中期までは、幕閣となった藩主はいませんが、江戸時代後期になると、3代にわたり幕府の老中を輩出します。

 9代藩主の牧野忠精が享和元年(1801)、10代藩主の牧野忠雅は天保14年(1843)、11代藩主牧野忠恭は、文久3年に老中に就任しました。

10代藩主牧野忠雅は、ペリー来航した時には、海防掛の老中でしたので、開国問題で苦労したことだと思いますが、阿部正弘のほうがクローズアップされていますね。

河井継之助が仕えたのが11代藩主牧野忠恭です。というより河井継之助を抜擢したのが牧野忠恭です。

牧野忠恭は、文久2年(1862)に京都所司代を勤めています。天誅の嵐が吹きまくる中での京都所司代でしたので、苦労したと思います。河井継之助は、この時、忠恭に京都所司代を辞任するよう進言しました。そうしたら、忠恭は、文久3年に老中に栄転となってしまいました。そこで、河井継之助は、老中の辞任も、進言しています。その進言に従って、牧野忠恭は慶応3年に老中を辞任しています。

長岡藩牧野家の菩提寺は、江戸では三田の斉海寺です。斉海寺には、これまで何回もお邪魔したことがありますが、長岡藩牧野家のお墓は長岡に改葬されていますということで、機会があったら長岡でお参りしたいと思っていました。

その斉海寺から改葬された牧野家の墓碑に、長岡市郷土史料館のある悠久山公園にある蒼柴神社(下写真)でお目にかかることができました。 

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蒼柴神社は、9代藩主牧野忠精が、天明元年(1781)、現在地に蒼柴神社を建立し、蒼柴神社一帯の地を悠久山と名づけたそうです。

蒼柴神社は、そもそも、3代藩主牧野忠辰が、神道を深く信じため、没後、京都の吉田家から蒼柴明神の神号を贈られました。そこで、忠辰と忠辰が崇拝した事代主命(ことしろのぬしのみこと)を、城内に社を建てて祀ったのが始まりだそうです。

 時代が下がり、忠精が、忠辰(ただとき)の50回忌の際に、現在地に蒼柴神社を移し、日光東照宮を模して権現造りの社殿を完成させたものです。現在の社殿は、その当時の社殿が残されています。

 社殿に向かって右側に、長岡藩主牧野氏歴代の墓碑群があり、2代藩主忠成から11代藩主忠恭までの間の17基の墓碑(下写真)が建っています。この墓碑群は、昭和58年に移されました。

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蒼柴神社の宮司さんのお話では、神社にお墓があるのは違和感があるかもしれませんが、蒼柴神社の御祭神は3代藩主牧野忠辰公で、牧野家と縁が深いので安置してあります。三田の斉海寺から改葬されたお殿様のお遺骨は菩提寺の栄凉寺に埋葬されています」というお話でした。

そこで、長岡駅近くの栄凉寺にお参りしました。(ちなみに栄凉寺には河井継之助のお墓もあります。)下記写真が歴代藩主の墓碑ですが、合祀墓となっていますが、改葬された歴代藩主のお遺骨は、合祀墓の下に埋葬されているそうです。

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最後に、現在の牧野家御当主は17代目の牧野忠昌様ですが、牧野忠昌様は、ご自宅を東京から長岡に移され、現在、長岡にお住まいだそうです。
 


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# by wheatbaku | 2017-06-29 10:41 | 『幕末』 | Trackback
  

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