栄閑院に眠る杉田玄白(『蘭学事始』⑦)

栄閑院に眠る杉田玄白(『蘭学事始』⑦)

 今日は大晦日です。
 今年1年間、このブログをお読みいただきありがとうございました。
 心より感謝申し上げます。
 良い年をお迎えください。


 今年最後の記事として、今日は、杉田玄白について書いていきます。


杉田玄白は、『解体新書』の出版したことで大変有名ですが、「玄白」は通称です。本名は「翼(よく)」と言います。『解体新書』の各巻の巻頭に、杉田玄白翼と書いてあるのは、本名が「翼」であるためです。また、

号は鷧斎・九幸と言いました。栄閑院にある杉田玄白のお墓には「九幸杉田先生之墓」と刻まれています。下がお墓の写真です。

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 杉田玄白は、若狭国小浜藩酒井家の藩医杉田甫仙の子として、牛込矢来町の小浜藩下屋敷に生まれました。しかし、その際に、大変な難産であったため、母親が亡くなってしまいました。

蘭方外科を幕府医官西玄哲に学び、19歳で小浜藩酒井家の藩医となりました。

また同じ藩の医師小杉玄適を通じ、山脇東洋の人体解剖に強い刺激を受けています。

明和3年には、前野良沢に誘われて、江戸参府のオランダ商館長に随行してきていた西善三郎を訪ね、オランダ語の勉強方法に尋ねました。

この質に対して、西善三郎は、オランダ語を習得するのは大変困難なことだと答えました。これを聞いた杉田玄白は、あっさりオランダ語をあきらめます。一方、前野良沢は、この回答にもめげすオランダ語の研究をめざしていきます。

明和8年、中川淳庵の紹介で、オランダ医書『ターヘル・アナトミア』を入手しました。

この時に、杉田玄白は、『ターヘル・アナトミア』を購入するお金がなく、藩上層部に相談すると快く購入してくれたそうです。

中津藩では、前野良沢を理解し庇護してくれた奥平昌鹿という殿様がいましたが、小浜藩にも、杉田玄白を理解する重臣たちがいたのです。

そして、『ターヘル・アナトミア』を入手した直後に、幸運なことに、前野良沢、中川淳庵らと江戸の骨が原の刑場で死刑囚の死体の腑分け(解剖)を実見することができました。

その実見の結果『ターヘル・アナトミア』が大変精緻であることを知り、前野良沢や中川淳庵とともに翻訳することを決意して翌日から翻訳に着手しました。

その翻訳の苦労は、すでに書いた通りです。

そんな苦労があるなかで、杉田玄白は、「人はいつ死ぬかわからない。ゆっくりやっていると、私は、草葉の陰から翻訳の完成を見ることになる」と言って翻訳を急いでいました。 

そのため、桂川甫周からは「草葉の陰」というあだ名まで付けられました。

そして、3年半の苦労の結果、安永3年にようやく、『解体新書』が完成しました。

完成以前に、杉田玄白は、『解体新書』の発刊が幕府から咎められるのではないかと危惧し、まずは絵図を中心にした解体新書の抜粋である『解体約図』を出版し幕府と世間の様子を探っています。

また、完成した『解体新書』を桂川甫周の父桂川甫川を通じて幕府にも献上するなどして、『解体新書』出版によって罰せられないように用意周到な対策を講じています。

こうした苦労の上に完成した『解体新書』を出版したことにより、杉田玄白の名声は一挙に高まり、小浜藩酒井家の評価も高くなったほか、名声を聞き患者が大勢押しかけるようになり、さらに彼が開いた学塾天真楼にも多くの入門希望者が集まりました。

天真楼からは、大槻玄沢、杉田伯元、宇田川玄真ら多数の門人が育っていき、彼らはその後の蘭学の興隆に大きな役割を果たしました。

杉田玄白が結婚したのは、『ターヘル・アナトミア』を翻訳中の安永2年41歳の時でした。

晩婚であり、生まれた男子が虚弱であったため、一関藩の医師建部清庵(たけべせいあん)の5男由甫を養子に迎え、伯元と改名させて家を継がせました。

正妻死後に結婚した女性との間に生まれた実子立卿(りゅうけい)には西洋流眼科で独立させ、その孫には成卿(せいけい)がいます。

杉田玄白は、文化14417日に亡くなりましたが、85歳の長寿でした。
 『解体新書』の出版に関わった仲間たちはすでに亡くなっていて、「草葉の陰」というあだ名をつけた桂川甫周もすでに亡くなっていました。

杉田玄白のお墓は、東京都港区虎ノ門にある栄閑院にあります。

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東京都史跡に指定されています。
 杉田玄白のお墓は本堂の脇にあります。杉田玄白のお墓に書いてある「九幸杉田先生之墓」が旧字であるため、入り口には下写真のような説明がされています。(ただし、これは以前に撮った写真であるので、現在も掲示されているかは未確認です)

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# by wheatbaku | 2017-12-31 11:50 | Trackback
前野良沢を庇護した奥平昌鹿(『蘭学事始』⑥)

前野良沢を庇護した奥平昌鹿(『蘭学事始』⑥)

今日は、前野良沢を庇護した中津藩奥平家の家第3代藩主奥平昌鹿(まさか)について書いていきます。
 下写真は、品川の清光院にある奥平昌鹿のお墓です。

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奥平家は、伝承では上野国甘楽郡奥平郷(群馬県高崎市吉井町下奥平)に居住し奥平を称したことに始まり、室町時代前期ごろに奥平から三河国設楽郡作手(愛知県新城市)に移住したといわれ、戦国期には山家三方衆とよばれました。

 6代信昌は、織田徳川連合軍が武田軍を破った天正3年(15755月の長篠の戦いの際に、武田勝頼の猛攻を受けた長篠城を守りきり、織田信長から信の字を拝領し貞昌から信昌に改名し、徳川家康の長女亀姫と縁組をしました。

 江戸時代になり、奥平信昌は美濃国加納10万石を領し、それと同時に信昌の長男家昌は、宇都宮10万石を領しました。この信昌が中津藩奥平家の藩祖とされています。

加納藩は信昌の子供の代で世嗣がなく廃絶となりますが、宇都宮藩の奥平家は、古河、山形、宮津と転封を繰り返した後、享保2年(1717)に、豊前国中津10万石に転封となり、以後、明治の廃藩置県まで中津を領有しました。


奥平昌鹿(まさか)は、中津藩第3代藩主で、中津藩奥平家としては7代目となります。

奥平昌鹿は、延享元年(1744)に、第2代藩主奥平昌敦の長男として生まれました。

国学を賀茂真淵にまなび、和歌にもすぐれた歌集があります。

藩政においても善政を敷いて、備前岡山藩の池田治政,薩摩鹿児島藩の島津重豪とならぶ名君と称されました。

しかし、安永9年に惜しくも37歳の若さでなくなりました。

奥平昌鹿は蘭学に強い関心を寄せていました。

昌鹿が蘭学に興味をもったのは、昌鹿の母が骨折した際に、オランダ商館長に付き添って江戸に来ていた吉雄耕牛が蘭方医術により治療したことがきっかけのようです。

この奥平昌鹿が、前野良沢を庇護支援しました。

前野良沢は、中津藩の藩医でしたが、オランダ語の研究に没頭したため、藩医の仕事が疎かになることもありました。

 そうしたことを告げ口する家臣に向かって、奥平昌鹿は、「彼はオランダ人の化け物だから好きにさせておけ」と言ってかばってくれたそうです。

 また、長崎遊学の際に入手した『ターヘル・アナトミア』やボイセンが書いたオランダの内科書『プラクテーキ』などの高額なオランダ書も買い与えてくれました。

 こうした理解ある殿様を上司にもった前野良沢は大変幸せだったと思います。

 ですから、奥平昌鹿の温かい配慮を慮って「蘭化」と号したのだろうと思います。

 杉田玄白は『蘭学事始』の中で、「良沢は、自ら蘭化と称したが、これは、昔、昌鹿侯から賜った名前だそうである。これは、昌鹿侯が常に良沢は和蘭人の化物だと戯れて言ったことから出たものである。昌鹿侯の寵愛はこれほどまでであった。」(現代語訳は私なりの訳文です)と書いています。

 前野良沢を庇護した奥平昌鹿のお墓は、品川の清光院にあります。

 清光院は、江戸時代は有名な東海寺の塔頭でしたが、明治以降、独立したお寺となっています。

 京浜急行の「新馬場」駅北口から徒歩5分の教理に西を向いています。下写真は、清光院の入口の写真です。

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 清光院には、大きな中津藩奥平家の墓域があり、その中に奥平昌鹿の墓があります。奥平家墓域は品川区の史跡に指定されています。

 この中津藩奥平家の墓域には、藩祖奥平家昌(戒名:六通院殿天眼道高大禅定門)以降の歴代藩主のお墓が並んでいます。(下写真が奥平家昌のお墓です)

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 これだけの大名墓が並んでいるのはあまり多くありません。

 拝観可能なものは、増上寺の将軍家墓地、寛永寺の福山藩阿部家墓所、巣鴨の本妙寺の関宿藩久世家墓所ぐらいではないでしょうか。

 そうした中で、大変貴重な大名墓群です。

 

奥平昌鹿のお墓は、奥平家墓域の奥まった所にあり、「興隆院殿渓道本大居士」と刻まれています。(最上段写真)




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# by wheatbaku | 2017-12-29 11:52 | Trackback
慶安寺の前野良沢のお墓(『蘭学事始』⑤)

 慶安寺の前野良沢のお墓(『蘭学事始』⑤)

 『蘭学事始』の第5回は、『解体新書』の中心人物、前野良沢について書きます。

 『ターヘル・アナトミア』を翻訳し『解体新書』を発刊したのは杉田玄白と思っている人が大変多いのですが、杉田玄白が翻訳したわけではありません。

 実際の翻訳作業は前野良沢が行ないました。従って、前野良沢がいなければ『解体新書』の出版はありませんでした。そこで、今日は前野良沢の生涯について書いていきます。(下写真は、前野良沢のお墓のある杉並区の慶安寺です。)

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前野良沢は、享保8年(1723)筑前藩士谷口新介の子として江戸に生まれました。

(いみな)は熹(よみす)、通称を良沢、号は楽山または蘭化と称しました。別号蘭化は、前野良沢が勤めていた中津藩奥平家の藩主奥平昌鹿が「和蘭の化け物」と呼んだことによると言われています。

幼い時に、父を亡くし母に去られ孤児となり、淀藩医の伯父宮田全沢に育てられました。 やがて中津藩医前野東元の養子となり、吉益東洞(とうどう)流医学を修めました。
一方、オランダ語の勉強を始め、明和6年(1769)、青木昆陽の手ほどきを受け、翌明和7年には、長崎へ遊学しオランダ通詞吉雄幸左衛門(耕牛)・楢林栄左衛門などについて、オランダ語を学び、解剖書『ターヘル・アナトミア』などを手に入れて江戸に帰りました。

明和8年3月4日の骨が原で腑分けを実見した翌日から、前野良沢・杉田玄白・中川淳庵は築地中津藩奥平家中屋敷内の前野良沢宅で『ターヘル・アナトミア』の翻訳を開始しました。

この3人の中でオランダ語の知識があり、年齢が最も上の前野良沢が盟主に推され、翻訳を進めていきました。

翻訳作業開始後3年半後、安永3年(17748月に、苦闘の末に『解体新書』全5冊が出版されました。

しかし、なぜか『解体新書』には、前野良沢の名前がありませんでした。

これが、正月のNHK時代劇『風雲児たち~蘭学革命篇~』のメインテーマでもあるようです。

前野良沢が自分の名を出すことを断った理由について、最も有名なものが、かつて太宰府で自分の功名を決して求めないことを誓ったためであることといわれています。

しかし、潔癖で学者肌の良沢が訳書の出来ばえを不満としたためであるというのが前野良沢や杉田玄白に関する本を多く書いている東大名誉教授であった小川鼎三先生の考えです。

前野良沢は、『ターヘル・アナトミア』の翻訳終了後は、杉田玄白とは疎遠となり、オランダ語学研究とオランダ書翻訳に専念しました。

多くの著作がありますが、それらは出版はされず、写本として残されています。

良沢は人と交際をするのがきらいで、多くの弟子を取るということもありませんでしたが、その中でも大槻玄沢,江馬蘭斎(らんさい)が有名です。

大槻玄沢は、のちの蘭学隆盛を導いいた人物であり、江馬蘭斎は大垣藩の藩医で、女性詩人江馬細香の父親です。

また、意外なことに寛政の三奇人の一人,高山彦九郎と非常に親しく付き合っています。

『風雲児たち~蘭学革命篇~』にも高山彦九郎はでてくるようです。

前野良沢は、享和3年(1803)10月17日に亡くなりました。

そして、当時下谷池ノ端七軒町に会った慶安寺に埋葬されました。

慶安寺は、大正2年に杉並区梅里に移転しました。

東京メトロ「新高円寺」から徒歩3分の寺町の一画にあります。(最上段写真参照)

慶安寺の本堂裏手の墓所の中に、前野良沢のお墓があります。(下写真)

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お墓の正面右側が前野良沢の戒名「楽山堂蘭化天風居士」、中央が奥様珉子(たまこ)で「静寿院蘭室妙桂大姉」、左側が長男良庵で「葆光堂蘭溪天秀居士」、右手脇に長女富士子の戒名「保春院現成妙身大姉」が刻まれています。

長女富士子は、『ターヘル・アナトミア』翻訳作業中に亡くなりました。そして、長男良庵と妻珉子も前野良沢より先に亡くなってしまいました。

3人とも『風雲児たち~蘭学革命篇~』に出てくるようです。

前野良沢のお墓に12月21日に御参りさせていただきました。

御住職のお話では、『風雲児たち~蘭学革命篇~』で前野良沢の奥様珉子(たまこ)を演じる長野里美さんがお参りに来られたとのことでした。

また、ご子孫もいらっしゃるとのことでした。

前野良沢の生涯を、杉田玄白の生涯と対比させっつ描いた名作が『冬の鷹』(吉村昭著)です。

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小説ですが、『蘭学事始』について丁寧に考証されています。前回読んだ時大変感激した小説で、今回改めて読みなおし、やっぱり感激しました。『蘭学事始』をよく知るには、この本を読むことをお勧めします。




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# by wheatbaku | 2017-12-27 11:26 | Trackback
築地「蘭学事始の地」記念碑(蘭学事始④)

 築地「蘭学事始の地」記念碑(蘭学事始④)

 『蘭学事始』の第4回は、『ターヘル・アナトミア』の翻訳の苦労について書いていきます。

 明和434日、骨が原での腑分けを見た帰り、前野良沢、杉田玄白、中川淳庵は、『ターヘル・アナトミア』の翻訳を決意します。

 『蘭学事始』によると、前野良沢、杉田玄白、中川淳庵は、帰り道が同じ方向ですので、一緒に帰りました。

 途中で語り合いながら、杉田玄白は「何とかしてこのターヘル・アナトミアの一部を新たに翻訳すれば、身体内外のことがわかり、今後の治療に役立つだろう、何とかして通訳たちの手をかりず、読んでいきたい」と言いました。

前野良沢は、「自分は年来蘭書を読みたいと思っていたが、同じ考えの友人がなく、それを嘆いていた。皆さんが読みたいという強く希望されるなら、自分は先年長崎へもゆき、蘭語も少々は知っているから、一緒に何とか読もうではないか」といいます。

それを聞いて、杉田玄白と中川淳庵も即座に賛成し、皆で力を合わせて、是非頑張って読んでいこうと答えました。

これを聞いて前野良沢は、それでは早速明日からやろうと提案し、翌日から、前野良沢の自宅があった築地の中津藩奥平家中屋敷に集まって、翻訳を開始しました。

三人が集まった中津藩奥平家中屋敷は、現在の築地の聖路加国際病院にありました。

それを記念した記念碑「蘭学事始の地」の碑聖路加国際病院前の「聖路加病院前」交差点の中の小広場にたっています。(下写真)

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オランダ語の翻訳というのは、当時、まったく、日本の誰もやったことがなく、大変困難な仕事でした。

というのは、オランダ語を読める人が日本にはいませんでした。長崎にはオランダ通詞がいましたが、彼らは、オランダ語を文字で学んだのではなく、オランダ人が話す言葉を耳で聞いて覚えていったのでした。

そのため、杉田玄白は、蘭学事始に「いわば艪も舵もない船で大海に乗り出したようなもので、茫洋として頼るべき根拠が何もなく、ただあきれて居るだけです。」と書いています。

こうした状態でしたので、『ターヘル・アナトミア』の翻訳は、はじめから身体の内部のことはとてもわかりにくいので、本の冒頭部分にある身体の前面と後面の全体図の翻訳から開始しようと定めました。

しかし、翻訳は簡単なものではありませんでした。

「眉は、目の上にはえた毛である」という翻訳にも苦労して、長い春の一日かけてもはっきりせず、日暮れまで考えつめ、お互いににらみ合って、僅か1.2寸ばかりの文章、一行も翻訳できませんでした。

 杉田玄白の書いた『蘭学事始』には、「鼻」の話も書かれています。

 この話を特に有名にしたのは、菊池寛の短編小説『蘭学事始』です。
 岩波文庫の「恩讐の彼方に・忠直卿行状記 他八篇 」の中に収められています。
 (下写真) これには、次のように書かれています。

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眉から目と下って鼻のところへ来たときに、四人は、鼻とはフルヘッヘンドせしものなりという一句に、突き当ってしまっていた。

 むろん、完全な辞書はなかった。ただ、良沢が、長崎から持ち帰った小冊に、フルヘッヘンドの訳注があった。それは、「木の枝を断ちたるあと、フルヘッヘンドをなし、庭を掃除すれば、その塵土聚(あつま)りて、フルヘッヘンドをなす」という文句だった。

 4人は、その訳注を、引き合しても、容易には解しかねた。

「フルヘッヘンド! フルヘッヘンド!」

 4人は、折々その言葉を口ずさみながら、巳の刻から申の刻まで考えぬいた。四人は目を見合せたまま、一語も交えずに考えぬいた。申の刻を過ぎた頃に、玄白が躍り上るようにして、その膝頭を叩いた。

「解(げ)せ申した。解(げ)せ申した。方々、かようでござる。木の枝を断ち申したるあと、癒え申せば堆(たか)くなるでござろう。塵土聚(あつ)まれば、これも堆(たか)くなるでござろう。されば、鼻は面中にありて、堆起するものでござれば、フルヘッヘンドは、堆(たか)しということでござろうぞ」といった。

 4人は、手を打って欣(よろこ)びあった。玄白の目には涙が光った。彼の欣びは、連城の玉を獲とるよりも勝(まさ)っていた。

 さすが菊地寛です。短文ですが劇的に書いてあります。

この「鼻」の話は、菊地寛の『蘭学事始』で取り上げられ、広く広がったそうです。

しかし、現在では、『解体新書』には、フルへッヘンドという語句がないことから、杉田玄白の記憶違いではないかと考えられています。

 こうした『ターヘル・アナトミア』の翻訳作業の困難さはみなもと太郎著『風雲児たち~蘭学革命篇~』にも、わかりやく描かれています。

 お正月元旦のNHK時代劇『風雲児たち~蘭学革命篇~』でも、おそらく描かれるだろうと思います。




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# by wheatbaku | 2017-12-25 13:38 | Trackback
小塚原回向院の「観臓記念碑」(『蘭学事始』③)

小塚原回向院の「観臓記念碑」(『蘭学事始』③)

『蘭学事始』の3回目は、小塚原回向院について書きます。

小塚原回向院は、JR[南千住駅から徒歩3分の場所にあります。

小塚原回向院には、吉田松陰、橋本左内、関鉄之助ら、罪人として処罰された人たちのお墓があることでも有名です。

回向院が建つ地は小塚原の仕置場と呼ばれた場所です。 寛文7年(1667)刑死者の菩提を弔うため現在の両国にある回向院のご住職が町奉行所に願い出て、この地に常行堂(じょうぎょうどう)を創建したのが始まりです。その後、両国の回向院より独立し、豊国山回向院、通称小塚原回向院として独立しました。

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前野良沢、杉田玄白らが、ターヘル・アナトミアを翻訳するきっかけとなったのが、骨が原の刑場で行われる腑分けを見たことです。

それを記念した「観臓記念碑」が小塚原回向院に設置されています。

大正11年に奨進医会により『解体新書』の表紙を模した青銅板を入れた記念碑が製作されました。

しかし、それが戦災で大破しましたので、昭和3434日に、日本医史学会・日本医学会・日本医師会によって青銅板だけが移され再設置され、さらに、昭和49年に、新たに作られた本堂の壁面に移されました。(下写真)

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 これまでは、戦後再設置された日を注目していませんでしたが、腑分けが行われたのが明和834日ですので、その腑分けが行われた日と同じ日に設置されたことになります。(もっとも、新暦と旧暦の差がありますが・・・・)

 骨が原での腑分けの場面は、『蘭学事始』の中で最も有名な箇所の一つですので『蘭学事始』にそって詳しく書いておきます。

杉田玄白は、明和8年、中川淳庵の紹介により、江戸参府のため日本橋の長崎屋に滞在していたオランダ人から、ターヘル・アナトミアを手に入れました。

その解剖図を見て、ぜひ、腑分けを見てみたいと思っていました。(そこで、その旨を、杉田玄白は、奉行所に願いを出していたものと思われます。)

すると、明和8年3月3日の夜、時の町奉行曲淵甲斐守殿の家来得能万兵衛という男から手紙がきて、明日、千住骨ケ原で解剖を行うから、希望するなら見に来るようにと知らせがありました。そこで、同じ小浜藩医の中川淳庵に連絡し、さらに前野良沢にも知らせました。

前野良沢には、日本橋でであった辻駕籠に手紙を託したそうです。

非常にあわただしい情報伝達でしたが、翌朝、無事、前野良沢・杉田玄白・中川淳庵は、待ち合わせ場所である浅草三谷町(山谷)の茶店で、落ち合うことができました。

この時、前野良沢が蘭書を一冊懐中からとり出し、開き示しながら、「これはターヘル・アナトミアというオランダの解剖書で、先年長崎へ行った時に手に入れたものです。」と言いました。

それを見ると、杉田玄白がつい最近手に入れた蘭書とまさに同じ書物で同版でした。

二人は、これは奇遇だと、互いに手を打って感激し合いました。

そこから参加者が連れ立って骨ケ原の解剖の場に到着しました。

解剖は、虎松というものが担当することになっていましたが、たまたま虎松は急に病気になり、その祖父だという年齢90歳の老人が代わりに解剖しました。

彼は解剖しながら、それぞれの場所をさして肺だとか肝臓だとか、腎臓だとか教えて切り分けたものを教えてくれました。

 前野良沢と杉田玄白は手にしているオランダ書の図に照らし合せて、その図に少しも違いがないことを感激しながら確認しました。

そして、オランダの解剖書の正確さに驚き感動しました。

解剖が終わった後、ついでに刑場に野ざらしになっている骨を拾ってみると、その骨もオランダの解剖書と同じなので、ますます驚ろきました。

この驚き・感激が、オランダ解剖書の翻訳につながることになります。

そのお話は次回とします。


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# by wheatbaku | 2017-12-23 12:14 | Trackback
『蘭学事始』(蘭学事始②)

 『蘭学事始』(蘭学事始②)


 今日は、『風雲児たち~蘭学革命篇~』の基となっている杉田玄白の『蘭学事始』について書きます。

『蘭学事始』は、非常に有名です。多くの方が、学校で習った記憶があると思います。

 『蘭学事始』は、杉田玄白が、前野良沢、中川淳庵らと一緒にオランダの解剖書『ターヘル・アナトミア』を翻訳し、『解体新書』を出版するまでの苦心談を中心に蘭学が発展する経緯を書いたものです。

 『蘭学事始』は、岩波文庫や講談社学術文庫などから出版されていますが、私は、講談社学術文庫を読みました。

 片桐一男さんの現代語訳もわかりやすいものでした。さらに、原文も同時に掲載されていますが、原文のほうも、併せて読めますので、時間と興味がある方はご一読ください。

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  私たちが『蘭学事始』を読めるのは福澤諭吉のお蔭といっていいようです。
『蘭学事始』は、実は、江戸時代に刊行されたものはありません。

 『蘭学事始』は、杉田玄白が書いた自筆草稿を弟子の大槻玄沢に示し、訂正を依頼しました。

大槻玄沢は、杉田玄白から聞いたことを自分の知っていることも加えて、杉田玄白に確認しながら整備しました。

この本は出版されませんでしたので、写本として広がりました。

しかし、幕末になると、写本の存在もはっきりしなくなります。

明治になって、その失われた写本をたまたま見つけたのが神田孝平という人でした。

この神田孝平は福沢諭吉の友達でした。福澤諭吉は、早速それを書き写しました。

そして、古写本をもとに、杉田玄白の子孫の杉田廉卿(れんけい)とも協議して、福沢諭吉が、明治2年に出版しました。

それが、現在、私たちが読むことができる『蘭学事始』です。
 

ところで、『蘭学事始』という書名は、福澤諭吉が考案したという説もあるようです。
 中公新書『解体新書』(小川鼎三著)に書いてあります。

神田耕平が見つけた写本には「和蘭事始」と題名が書いてあったそうです。

もともと、杉田玄白は書名を書いていなかったと考えられています。
 そのため、大槻玄沢が『蘭東事始』と題して玄白に進呈したとも言われていますが、江戸時代には『蘭東事始』『和蘭事始』の書名で写本のまま伝わりました。

 そして、古写本をもとに、福沢諭吉が、明治2年に刊行する時に、『和蘭事始』を『蘭学事始』の書名に改めました。

それから、『蘭学事始』の名が一般的となったようです。
 私たちが慣れ親しんでいる『蘭学事始』という書名は、杉田玄白でなく、福澤諭吉がつけたものだったのです。



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# by wheatbaku | 2017-12-21 07:30 | Trackback
風雲児たち~蘭学革命篇~ (蘭学事始①)

風雲児たち~蘭学革命篇~ (蘭学事始①)

 来年の正月元旦の夜7時20分〜8時49分に「風雲児たち~蘭学革命篇~」という番組がNHKで放映されます。

 この番組は「蘭学事始」をテーマに取り上げた時代劇で三谷幸喜さんが脚本を書いています。

 この番組を大変楽しみにしていますので、今日からは、「蘭学事始」について書いていこうと思います。

 まず、今日は、「風雲児たち~蘭学革命篇~」について書いていきます。

 NHKの公式ホームページ には、次のように書かれています。

 公式ホームページは「風雲児たち~蘭学革命篇~ | NHK 正月時代劇 - NHKオンライン」で検索してください。

 今度のお題は前野良沢と杉田玄白による〝蘭学事始〟。史上初の西洋医学書の和訳に一心同体で取り組んだ二人は、鎖国ど真ん中の江戸中期に革命的な翻訳を成し遂げます。しかし、刊行された「解体新書」になぜか良沢の名は載らず、名声は玄白だけのものとなりました。二人の間にいったい何が起きたのか…。

 みなもと太郎さんの大河歴史ギャグ漫画を原作に、笑いとサスペンスに満ちた新しい三谷流歴史ドラマが誕生します。

 このキャッチコピーに書いてある通り、原作はみなもと太郎さんの漫画「風雲児たち」です。

 私は、あまり漫画を読みませんが、このブログを書くために、原作(下写真)を読んでみました。

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 ストーリーは、前野良沢が長崎から江戸に帰ってくるところから始まり、解体新書が完成するまでが書かれています。

 漫画での主人公は、ターヘルアナトミアを翻訳した前野良沢・杉田玄白・中川淳庵、彼らの友人平賀源内、そして、解体新書の絵を描いた小田野武助(直武)です。

 その他、高山彦九郎、林子平なども登場しますが、ターヘルアナトの翻訳作業とは直接関係はないように思います。

 原作の「冒険者」はギャグ漫画ですので、いたるところに大げさなギャグが散らばまれていますが、内容は大変勉強になる内容です。

 この漫画を読めば、ターヘルアナトミアの翻訳が、大変な作業だというのがよくわかります。

また、小田野武助(直武)が、表紙や図を書くようになった経緯もよくわかります。

漫画ですので、比較的容易に読むことができます。しかし、漫画でも、結構、オランダ語の翻訳がいかに大変であったがよくわかって勉強になりますので、江戸に興味のある方は一読して損はないと思います。


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# by wheatbaku | 2017-12-19 07:31 | Trackback
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ご愛読ありがとうございます

ブログ開設9年になります。



 

 明日をもちまして、ブログを書き始めてちょうど9年となります。


 ブログを書き始めたのは、江戸検1級の合格通知が到着した2008年12月19日でした。

 当初は、ともかく、できるところまでやってみよう程度で始めましたので、9年も続くとは思っていませんでした。 


 ブログを訪問していただいた方も累計で95万人を超えていて、年明け後早い時期に100万人になろうとしています。

 この間、ご愛読いただき本当ありがとうございました。


 これからも、頑張って記事を書いていきますので、引き続きご愛読のほどよろしくお願いします。



 明日からは、「蘭学事始」について書いていきます。
 どうぞよろしくお願いします。






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# by wheatbaku | 2017-12-18 10:19 | Trackback
覚王院義観の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人⑭)

覚王院義観の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人⑭)

 谷中霊園に眠る幕末の有名人の第14回は覚王院義観について書いておきます。

 覚王院義観については、私は「彰義隊」(吉村昭著)でその存在を知りました。

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 この小説は、輪王寺宮公現親王(のちの北白川宮能久親王)が主人公ですが、覚王院義観は、輪王寺宮公現親王のそばに仕えていたため重要な人物として登場しています。

 覚王院義観は、寛永寺の執当でしたが、新政府軍の対応に怒り、彰義隊を支援し、徹底して新政府軍に抵抗した人物でした。

覚王院義観は、現在の埼玉県朝霞市で金子栄蔵の子として生まれました。幼いころから優秀で、10歳になる天保3年(1832)、寛永寺の大慈院住職尭覚の授戒で得度し、尭運という名をもらいました。

 その後、真如院住職義厳の弟子となり、義観の法名を授かりました。

 26歳の時、義厳が凌雲院の住職となったため、覚王院義観が真如院の住職となりました。

 慶応3年3月に輪王寺宮慈性法親王から「覚王院」の院室号を賜り、同時に東叡山寛永寺執当職に任ぜられました。

 この執当職は、寛永寺の座主である輪王寺宮が居住する御本坊に詰め、寛永寺のことはもちろん、全国の天台宗全寺院から、幕府や諸大名等との交渉に至るまで、およそ座主が僧侶として関係する寺務一切を代行する重要な役でした。

 覚王院義観のお墓は、谷中霊園の中にあります。覚王院義観が住職であった真如院の墓地の中にあります。

 お墓の表面には、輪王寺宮公現親王から贈られた「寂静心院」の号が刻まれています。

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慶応4年(1868)、鳥羽伏見の戦いに破れ、江戸に逃げ帰った15代将軍徳川慶喜は、恭順の姿勢を示し、東叡山寛永寺の大慈院に入って蟄居謹慎しました。 

東叡山寛永寺の輪王寺宮公現法親王(後の北白川宮能久親王)が、覚王院義観、龍王院尭忍の両執当を従えて、慶喜の助命嘆願のため、2月21日に、京都に向かいました。

輪王寺宮の一行は、3月7日に駿府に入り、東征大総督有栖川宮熾仁親王宮に面会し、慶喜の謝罪状を提出し助命を嘆願しました。

しかし、有栖川宮熾仁親王は輪王寺宮からの嘆願をまったくとりあわずすぐに江戸にかえるよう言います。

「彰義隊」では、有栖川宮熾仁親王が非常に冷たい態度で対応したと書いてあります。

こうした有栖川宮熾仁親王と新政府軍の対応に対して覚王院義観は大いに怒りました。

そのため、浅草本願寺に屯集していた彰義隊が、慶喜の護衛を名として寛永寺に入ると、覚王院義観はこれを援助するだけでなく煽動し、東征軍への反抗姿勢を顕にしました。

また、覚王院義観の後援を得た彰義隊は徳川家にとって良い影響を与えないと考えた山岡鉄舟は、覚王院義観を訪ねます(勝海舟の指示で訪問したともいいます)が、覚王院義観は山岡鉄舟の必死の説得にも耳を貸そうとしませんでした。

新政府側は、戦争を避けるために、輪王寺宮の江戸城への登城を要請したり、覚王院義観や龍王院尭忍を召喚しようともしたが、その都度、覚王院義観が拒否したと言われています。

この覚王院義観の態度が、上野戦争を起したとも言われています。

いろいろな策を講じましたが、ついに新政府側は彰義隊の討伐を決断し、5月15日、寛永寺に立て籠もる彰義隊を攻撃しました。

主戦場となった黒門口はお昼過ぎには新政府軍に突破され、彰義隊は一日で敗北しました。

そこで、輪王寺宮公現親王は、谷中口から脱出し、覚王院義観は、輪王寺宮とは別に寛永寺を脱出しました。

輪王寺宮は、谷中から尾久に抜け、さらに浅草の東光院、市谷の自性院に隠れた後、品川沖の「長鯨丸」に乗って、平潟まで渡り、さらに会津若松に至りました。

一方、覚王院義観は、輪王寺宮一行の後を追い、「覚王院義観戊辰日記」という史料によれば、土浦、水戸、棚倉を経て6月2日に会津に入り、6月6日に輪王寺宮一行に合流しました。

その後、輪王寺宮公現親王は、奥羽諸藩の要請により、白石城に入って奥羽越列藩同盟の盟主となりました。

しかし、奥羽越列藩同盟参加の諸藩は新政府軍に降伏していき、ついに9月11日には仙台藩が降伏に決し、9月22日には会津藩が降伏しました。

 そうした情勢のなか、仙台に滞在中の輪王寺宮は、9月24日に鎮撫総督府に謝罪文を提出しました。

覚王院義観はその当時、奥羽列藩同盟の主唱者である米沢藩の降伏の阻止と輪王寺宮の立石寺への移座などのために米沢に出張中でしたが、仙台に戻った時には、すでに執当職を解任され、総督府から蟄居が命じられました。

 輪王寺宮は、東京に護送される時、伊達家に対して、義観と尭忍の庇護を懇請するとともに、義観には「寂静心院」の号を贈りました。

覚王院義観も東京に送られ獄舎に収監された後、本郷壹岐坂上松平美作守の屋敷に預けられました。

そこで、覚王院義観は、明治2年2月26日、亡くなりました。

「彰義隊」(吉村昭著)では、新政府軍への抵抗は、あくまでも覚王院義観の判断であって輪王寺宮はあずかりしらないことと主張し、提供される食事を丁寧に断り、そのまま亡くなったと書いてあります。享年47歳でした。

 覚王院義観のお墓は、寛永寺の墓地の中にある「真如院墓地」の中にあります。

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「真如院墓地」は、谷中霊園の乙8号4側・5側に南側、徳川慶喜の墓所の北側にありますが、少しわかりにくい場所にあります。

 上写真の「真如院谷中墓地」が目印となりますので、この目印を丹念に探してください。

「 谷中霊園に眠る幕末の有名人」は、今回の覚王院義観で、一区切りとさせていただきます。








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# by wheatbaku | 2017-12-14 15:55 | 『幕末』 | Trackback
村田経芳の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人⑬)

村田経芳の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人⑬)

 谷中霊園に眠る幕末有名人の13回目は村田経芳のお墓です。

 御存知の方は少ないかもしれませんが、今日は村田経芳について書いていきます。

 村田経芳は、幕末から明治に活躍した薩摩藩出身の軍人で、日本陸軍が初めて採用した国産銃「村田銃」を発明しました。

 村田経芳のお墓は、霊園管理事務所の向かい側の通りを東にみ、通りの南側の乙7号1側にあります。下写真の左側に村田経芳は眠っています。

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薩摩藩士村田蘭斎の長男として生まれました。

村田経芳は、若い頃から小銃の研究に取り組んでいて、安政5年(1858)に藩主島津斉彬のシャープ施条銃の模造に携わりました。

戊辰戦争には小隊長として出征し,鳥羽伏見から東北各地に転戦し、長岡城の攻防戦にも参戦しています。

そして、明治4年、陸軍に入り大尉となりました。

明治維新後の陸軍には、外国から輸入した多種多様な銃が配備されており、これらの補給や訓練に困難が生じていました。

そのため、陸軍は、こうした状況を打開するため小銃の統一と国産化を目指しました。

そこで、戊辰戦争勃発前から小銃研究をしていた経験と豊富な知識、さらに村田経芳は抜群の射撃明神でしたので、その射撃の腕前を見込まれ、小銃の研究に従事しました。

明治政府は、明治8年に、村田経芳に、射撃技術と兵器研究のためのヨーロッパ派遣を命じました。

村田経芳は、約10ヶ月後留学を終えて明治1111月帰国しました。

その時には西南戦争が勃発しており、村田経芳も西南戦争に従軍しました。

こうした西南戦争への従軍の経験とヨーロッパで学んだ知識を活かし手研究を重ね、ついに、明治13年、村田経芳は、フランス製シャスポー銃に改良を加え「村田銃」を発明しました。

村田経芳はその後も銃の改良を重ね、明治18年式が開発され、このモデルから「村田銃」と命名されました。

その後、連発式の明治22年式を開発し、一連の村田銃は、陸軍に配備され日清戦争での主力小銃となりました。

村田経芳は29年陸軍中将となり男爵を授けられ、大正10年83歳でなくなりなしまた。

なお、射撃の名手であった村田経芳は、ヨーロッパに渡った際にもヨーロッパ各地の射的競技に出場して優勝したといわれています。


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# by wheatbaku | 2017-12-12 12:06 | 『幕末』 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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