変化朝顔 (朝顔③  江戸の花)
 江戸の朝顔ブームの第2回目は嘉永・安政期(1848年から1860年)です。 
 このブームを支えた人の代表が、成田屋留次郎鍋島直孝です。

c0187004_19302295.jpg この時期も、朝顔の中心は入谷です。その入谷朝顔界の重鎮が成田屋留次郎です。
成田屋留次郎は、本名は山崎留次郎。8代目団十郎の大ファンだったので、成田屋を名乗ったと言われています。
 成田屋留次郎は、浅草の植木屋の次男として生まれ、その後、入谷に住み、植木屋を本業として、朝顔栽培に趣味として取り組んでいたといいます。そして、明治24年に81歳でなくなりました。

 成田屋留次郎は、朝顔の栽培に熱心に取り組んだため、いろいろなエピソードがあります。
 当時、入谷には、大坂のような奇品が多くはなかったので、大阪へ行き珍花を集めたというエピソードや引き出し付きの箱に寒天を流しこみ、珍花奇葉を入れこれを見本として客に売り歩いたというエピソードもあるそうです。

  「団十郎」 という花があります。上の写真が「団十郎」ですが、花の色が団十郎が好んだ団十郎茶に近いことから、この名が付けられました。この花は成田屋留次郎が売り出していた花だった言われています。そして、現在でも茶色の花は「団十郎」と呼ばれることが多く、人気が高いそうです。

 嘉永・安政期ブームのもう一人の中心人物が、北町奉行をつとめた鍋島直孝です。号は 「杏葉館(きょうようかん)」 と言います。
 鍋島直孝は、佐賀藩9代藩主・鍋島斉直の五男として生まれました。佐賀藩の幕末の名君と言われる鍋島閑叟(直正)の兄にあたります。 
c0187004_19175376.jpg 鍋島直孝は、旗本の大身で五千石を領し、有名な『遠山の金さん』こと遠山景元の2代後に、北町奉行となっています。 
 なお、佐賀藩の大名の子直孝がなぜ、旗本かと言いいますと、直孝は佐賀藩の支藩である佐賀鹿島藩の分家である旗本の鍋島家を継いだからです。

 この鍋島直孝が、朝顔栽培で名を成し、 「朝顔三十六花撰」 という本の序文を書いています。
 「朝顔三十六花撰」は、和歌の三十六歌仙にちなんで書名としたもので、江戸期の最高の珍花奇葉を集めたものです。

 江戸の変化朝顔の中で最も変わっているものと言われるのが、「朝顔三十六花撰」に取り上げられている右の朝顔です。
 極紅色の花の中心部からつるが出て、そこに葉とつぼみがあります。外側の花が咲き終わった後、これらのつぼみがふくらんで花が咲くという、びっくりする花が載せられています。

 「朝顔三十六花撰」には、鍋島直孝が栽培したものも2つ取り上げられています。 
 その2つの朝顔を下に載せましたが、図譜の右下と左下に「杏葉館」と書かれているのがわかりますでしょうか。
 それにしても、これらも私たちが普通考える朝顔とは全く違う変わり咲きの朝顔ですね。

c0187004_9411496.jpgc0187004_1003891.jpg 



 今回も、九州大学の「アサガオホームページ」さんから写真をご提供いただきました。
  「アサガオホームページ」さんは内容がすごく充実していて大変参考になります。ありがとうございました。
 
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# by wheatbaku | 2009-07-06 00:38 | 江戸の花と木 | Trackback
変化朝顔  (朝顔② 江戸の花)
c0187004_12554888.jpg この花は何だと思いますか? 
 実は、これは朝顔の花なんです。
 「変化朝顔」 とか「変わり咲き朝顔」とか言われています。
 朝顔はほとんどの人が漏斗型の花をイメージすると思いますが、変化朝顔は、写真のように、普通の朝顔のイメージとはかけ離れたものです。
 この変化朝顔が、江戸時代後期に大ブームになりました。
 今日の話題は、そのお話です。


 江戸時代になると、朝顔の栽培は、かなり普及したようです。
 加賀千代女の「朝顔につるべとられてもらい水」という有名な俳句がよまれたのは江戸中期の宝暦13年(1763年)のことです。

 そして、江戸後期になると、1回目の文化・文政期、そして2回目の嘉永・安政期という2回のブームを迎え、武士から庶民まで広く親しまれるようになりました。 
  
c0187004_13352731.jpg 第1回目の文化・文政期のブームは下谷(現在の御徒町駅東側)が中心地でした。
 明暦の大火、明和の大火と共に江戸三大大火の一つといわれる文化の大火(丙寅の大火)のあと、下谷付近が空地となり、そこで朝顔栽培をするようになったのが始まりと言われています。
 ここで、丸咲きの原種に近い朝顔の中から、葉も花の形も変化に富んだ、いわゆる変化朝顔(変わり咲き朝顔)がつくり出され、育成されるようになりました。


c0187004_13355023.jpg 「江戸名所花暦」には、朝顔の栽培の広がりについて次のように書いてあります。 
 『牽牛花(あさがお)  下谷御徒町辺
 朝顔は往古(むかし)より珍賞するといへども、異花奇葉(いかきよう)の出来たりしは、文化丙寅(文化3年1806)の災後に下谷辺空地の多くありけるに、植木屋朝顔を作りて種々異様の花を咲かせたり。おひおひひろまり、文政はじめのころは、下谷、浅草、深川辺所々(ふかがわへんしょしょ)にても もつぱらつくり、朝顔屋敷など号(なづ)けて見物群集せしなり。』


c0187004_1336842.jpg この中で、異花奇葉(いかきよう)と書かれているのが、変化朝顔・変わり咲き朝顔と呼ばれているものです。
 変化朝顔は、主に大輪の花の色や模様を鑑賞する大輪朝顔に対して、とても朝顔とは思えないような奇態をしめす花や葉を鑑賞する突然変異系統の朝顔です。


c0187004_13362487.jpg 変化朝顔は、数多くありますが、その一例がここにあげた写真です。
 いずれも、その変化ぶりに驚かされます。
 江戸の人たちは、こうした変化朝顔に熱中したのでした。

 やがて、天保年間になると、朝顔の中心は、下谷から入谷に移りました。
 入谷では、植木屋たちが朝顔園に朝顔の植木鉢を並べて見物させ販売もしたのでした。

 

 今日の変化朝顔の写真は、すべて「アサガオホームページ」さんのご提供です。
 「アサガオホームページ」では、このほかたくさんの変化朝顔を見ることができます。



 

 
 
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# by wheatbaku | 2009-07-03 06:02 | 江戸の花と木 | Trackback
朝顔① (江戸の花)
 入谷の朝顔まつりが来週の月曜日から始まりますが、朝顔は江戸時代の人たちが、日本の伝統的な園芸植物に仕立て上げた花です。そこで、今日から「朝顔」について、書いていきます。

 朝顔は、ヒルガオ科の植物です。
c0187004_1235086.jpg 日本人に大変なじみのある植物ですので、日本原産の植物と思っている人が多いかもしれませんが、熱帯アジアの原産と言われ、日本へは奈良時代に中国から渡来した植物です。
 最初は 牽牛子(けんごし)と言われ、下剤など薬用に使われていました。
 古代の中国では朝顔は高価な薬で牛と取引されたほどのものだったそうで、「牽牛(けんぎゅう)」にその名残があります。
 今でも漢方では種子を下剤や利尿剤に使っています。
 
 奈良時代に渡来した朝顔ですが、文学でかなり取り上げられています。
 万葉集には、秋の七草として山上憶良(やまのうえのおくら)が歌った歌に
   秋の野に 咲きたる花を 指折り(おゆびおり)
   かき数ふれば 七種(ななくさ)の花
     萩の花 尾花(おばな)葛花(くずはな) 撫子(なでしこ)の花 女郎花(おみなえし)
     また藤袴 朝貌(あさがお)の花
があります。しかし、この歌のなかの「朝顔」は桔梗と言われています。

 平安時代以降の有名な文学には、「朝顔」はかなり紹介されています。それだけ身近だったのでしょう。なお、平安以降の「朝顔」は、現代の朝顔だと言われています。

c0187004_926456.jpgまず、源氏物語です。
 源氏物語では、20帖が 「朝顔」 となっています。
 そこには、光源氏のいとこで、源氏の求愛を拒み続けて友達関係で終わった「朝顔の君」が登場します。
枕草子では、65段で、
 「草の花は 撫子(なでしこ)、唐のはさらなり、大和のも、いとめでたし。女郎花。桔梗。朝顔。刈萱(かるかや)。菊。壺すみれ。」と書かれています。

方丈記では、
 「あるじとすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。あるいは露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。あるいは花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども夕べを待つことなし。」と無常観を象徴する花として使われています。

c0187004_9262879.jpg 徒然草では、139段に
 「家にありたき木は、松・桜。--- 中略 ---  
  草は、山吹・藤・杜若・撫子。池には、蓮。秋の草は、荻・薄・桔梗・萩・女郎花・藤袴・紫苑・吾木香(われもこう)・刈萱・竜胆・菊。黄菊も。蔦・葛・朝顔。いづれも、いと高からず、さゝやかなる、墻(かき)に繁からぬ、よし。 --- 後略 --- 」
と書かれています。


 このように、室町時代まで、数々の文学に取り上げられていた朝顔が、庶民にひろがるのは江戸時代に入ってです。
 そして、江戸時代後期には大ブームとなります。その動きは、次回に書きます。
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# by wheatbaku | 2009-07-02 06:20 | 江戸の花と木 | Trackback
入谷の鬼子母神(きしもじん)
  入谷の「真源寺(しんげんじ)」 をご存知ですか?
 「真源寺」と言ってもピンとこないと思いますが、 「入谷の鬼子母神」と言えば、あぁそうかとおわかりになると思います。

 c0187004_18132454.jpg真源寺は、東京メトロ「入谷」駅から歩いて2分です。
 JR鴬谷駅南口からは約5分かかります。
 真源寺(しんげんじ)は、日融が万治2年(1659)に開山した法華宗本門流の寺院です。鬼子母神を祀っていて、江戸三大鬼子母神の一つ「入谷の鬼子母神」として、有名なお寺です。

 鬼子母神(きしもじん)とは 
 鬼子母神は鬼神 般闍迦(はんしか)の妻でインド仏教上の女神のひとりです。
 性質凶暴で子供を奪い取っては食べてしまう悪神であったので、釈迦は鬼子母神の末子を隠し、子を失う悲しみを実感させ改心させたといます。
 以後、「小児の神」として児女を守る善神となり、安産・子育の守護神として信仰されるようになりました。
 入谷鬼子母神では、子育の善神になったという由来からつののない「鬼」の字を使っています。

「恐れ入谷の鬼子母神」の後は何? 
c0187004_18135268.jpg 
 「おそれ入谷の鬼子母神」という狂歌の中の洒落も有名です。
 これは、大田南畝(蜀山人)の狂歌で、
  「恐れ入谷の鬼子母神、どうで有馬の水天宮、志やれの内のお祖師様」 
 と続きます。

 さらにこれが変化して、だれが作ったか、
  「恐れ入谷の鬼子母神、びっくり下谷の広徳寺、そうで有馬の水天宮、
 志やれの内のお祖師様、うそを築地の御門跡」
 
 
  というのもあるそうです。

朝顔まつりは7月6日~8日
c0187004_20221846.jpg 7月の七夕の前後に真源寺の境内を中心にして開かれる朝顔まつりが有名で、入谷の名物であるだけでなく、東京下町の夏の訪れを伝える行事として、全国的にも知られています。

 朝顔まつりのポスターが真源寺や商店街に貼ってありました。
 今年の朝顔まつりは、7月6日から8日まで、つまり来週の月曜日から水曜日まで開かれます。
 下の地図のように、上野から一駅の入谷駅が最寄り駅ですので、お時間のある方は行かれたいかがでしょうか。



この「朝顔まつり」に関係して、次回から数回にわたり、「朝顔」について書いていきます。

青印が入谷鬼子母神です。 

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# by wheatbaku | 2009-07-01 06:12 | お寺めぐり | Trackback
梅の実 (江戸の歳時記)
 梅の実のなる季節になりましたので、今日は、梅の実のお話です。

 c0187004_17262510.jpg梅は、バラ科サクラ属の植物で、アンズやスモモと近縁です。
 梅は、中国原産で、 奈良時代以前に、遣唐使が、中国から日本に持ち帰ったものといわれています。
 中国では国花にもなっています。
 
 渡来以来、花を観賞する目的で植えられ、「万葉集」では梅の花を詠んだ歌が110首以上あります。万葉集では、花と言えば梅の花を指しました。

 実の利用を目的とする梅は、「実梅(みうめ)」と呼ばれ、江戸時代から本格的に栽培が始まりました。現在では、花を観賞するのが目的の「花梅」は約300種類、「実梅」は約100種類もの品種があるそうです。

 梅は、アジアの一部で栽培される果実で、生食はせずすべて加工して利用されています。
 梅は、日本では、梅干しに加工され、おにぎりやお弁当など日本食に切っても切れない関係にあります。
 しかし、世界的に見ると、梅を食べる人は少数派で、欧米人はほとんど食べていないとのことです。


c0187004_11571988.jpg 江戸時代の有名作家である曲亭(滝沢)馬琴は、庭に植えた梅の実を採って、梅干しを作る様子を「馬琴日記」に記しています。 
文政10年(1827)6月3日 
 丙午 快晴 夕方より少し風立つ 薄曇
 1  昼前 宗伯、神田須田町 池田やへ罷越(まかりこし)、梅2斗5升(45リットル)紫蘇5わ買い取り、池田や こぞうに荷(かつが)せ、昼飯前に帰宅
 1  其の後、予(よ)、并(ならび)に宗伯手伝い、庭の梅、野梅・豊後梅等の実、これを採る。ぶんご3升5合(6.3リットル)・野梅2升(3.6リットル)あった。野梅の枝、庇(ひさし)へかかり候分、ことごとくこれを結ぶ。
 紅梅9、青軸2、鴬宿梅2の実もこれをとる。
 1  右の梅、惣(すべて)合せ3斗5升、お百これを着け畢(おわる)。むらこれを手伝。物置の薪過半とり出し、縁脇下へおく、予もこれを手伝い畢(おわる)

  注 宗伯:馬琴の長男  お百;馬琴の妻   むら:女中か(?)

 これを見ると、馬琴は3斗5升(63リットル)の梅の実を漬物にしています。すごい量です。 

 この日記にでてくる「豊後」「野梅」「紅梅」「青軸」「鴬宿梅」は、すべて梅の品種名で、現在も栽培されています。
c0187004_17265230.jpg 特に豊後梅は江戸時代から有名です。
 「本朝食鑑」にも「豊後産の梅がすぐれており、肥前の産がこれに次ぐ。豊後の梅の木は大きく、(中略)実は極めて大きく、丸く肥え、生のうちは青紅であるが、熟せば黄紅になる。近ごろ諸州でもこの豊後の梅の樹の枝を挿し接ぎしたり根を移したりして子を採っているので、その他の地でもこれを豊後梅というのである。一株に一・二升から七・八升取れる。」と書かれています。

 豊後梅は、その名のとおり豊後(今の大分県)発祥とされています。

 また、江戸時代には、豊後杵築藩主松平家から毎年将軍家に大梅の砂糖漬が献上されており、そのおいしいこと、果実の大きいこと、更に花の優美なことで非常に珍重されました。
 こうしたことから、「豊後梅」は「大分県の県の花」や「杵築市の市の木」となっています。

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# by wheatbaku | 2009-06-30 05:43 | 江戸の歳時記 | Trackback
かわせみ  (江戸の鳥3)
 前回は、現代ではあまり馴染みのない「クイナ」(江戸時代ではメジャーですが)を取り上げましたので、今回はよく知られている 「カワセミ」 を取り上げます。
 カワセミは、 俳諧歳時記栞草では、夏之部にのっています。

 c0187004_14331926.jpgカワセミはカワセミ科の鳥です。  
 全長約17センチメートルで、スズメより少し大きいくらいです。
 頭部は暗緑色、背中は美しい空色をしています。
 くちばしは太く、長さは約4センチメートルにもなります。
 尾は短く、足は赤い。川や池沼のそばにすみ、川魚、カエル、昆虫などを食べます。
 土手や崖に横穴を掘って営巣します。

 羽色が鮮やかで、翡翠(ひすい)のような体色から、飛ぶ宝石ともいわれ、その美しさは昔から注目されていました。

 c0187004_10382474.jpg和漢三才図会では、 「鴗(かわせび)は各地の水辺にいる。大きさは燕くらい。くちばしは尖って長く、足は紅で短い。背毛は翠色に碧を帯びている。 本性、よく水上で魚を取る。」と書かれています。

 また、冒頭で書いたように、俳諧歳時記栞草では、夏之部に載っています。
 「大きさ燕の如く、くちばし尖りて長し。足紅にして短し。背の色、翠色、碧を帯ぶ。」と書かれています。
 そして、「この鳥、魚を害する故に、鴗(かわせび)天狗、水狗、魚虎、魚師 等の名あるなり」とも書かれています。

 カワセミは、俳諧歳時記栞草に書かれている通り、魚を捕るのが上手です。
c0187004_10385725.jpg 川や池沼などの近くの木の枝に静かにとまっていて、水中の獲物をとったり、水面をかすめて一直線に速く飛んだりしています。
 餌をとるときは水辺の石や枝の上から、獲物をめがけて、一気に水中に飛び込んで、魚や水生昆虫をくちばしでとらえます。
 時には空中でホバリング(滞空飛行)しながら飛び込むこともあります。
 捕獲後は再び石や枝に戻って獲物をくわえ直し、頭から呑みこみます。大きな獲物は、数回叩きつけ、殺してから呑みこみます。

 カワセミは、留鳥[りゅうちょう、年間を通して同じ場所に生息し、季節による移動をしない鳥]です。従って、季節に関係なく、川や池や沼の近くで見ることができます。
 最近は、都心でも水の浄化が進んできたので、カワセミも都心に戻ってきているということです。 そのため、都心でも見ることができるようです。
 明治神宮、新宿御苑、石神井公園、練馬区の光が丘公園の池などで、カワセミが見られるようです。 
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# by wheatbaku | 2009-06-29 00:20 | 江戸の鳥 | Trackback
クイナ   (江戸の鳥2)
 昨日までで江戸六地蔵めぐりのお話が終わりました。今日は、鳥の話をしたいと思います。

クイナという鳥がいるのをご存じですか?
 ヤンバルクイナは多くの人が知っていると思いますが、その名前に使われているクイナですが、クイナという鳥はあまり知られていないと思います。

c0187004_10464097.jpg クイナは、クイナ科の鳥で、全長30センチメートルぐらい。体形はシギに似ています。

 クイナの語源は、①クヒナキ(喰い鳴き)の義、②鳴きはじめにクヒクヒと聞こえ、ナは鳴きの略という説などいろいろあります。

 クイナが、一般になじみが薄いのは、非常に人見知りの行動をするからです。水辺で葦の間をひっそりと歩いていて。警戒心がつよく、なかなか人前に姿を現さないからです。
 日本では、北海道で繁殖し、10月ころ本州以南に渡ってきます。だからフユクイナとも言いいます。

c0187004_21304899.gif 現代では、あまりなじみのないクイナですが、江戸時代には、いろいろな本に出て来ます。

 東都歳時記   5月の景物に次のように書かれています。  
 「秧鶏(くひな)  (立夏より40日頃より) 橋場、佃島、寺島、根岸、標芽が原(しめぢがはら)辺(あたり) (少しく曇りたる日よし。5月中頃より8月始の頃までなり))

 江戸名所花暦  夏の部に次のように書かれています。
 「水鶏(くいな) 
 ・標茅が原(しめじがはら)    玉姫稲荷の辺り(あたり)、 この社は山城国稲荷山のいなりを移せしなり。王子村岸稲荷と神縁ありと言ひ伝ふ。御玉姫いなりといふもゆえあることなり、正慶二年新田義貞朝臣、鎌倉の高時を追討のみぎり、弘法大師直筆の像を襟掛にしたまひしを、瑠璃(るり)の玉塔にこめて当所におさめまつり給ふゆえに、御玉ひめの稲荷と称すよし
 ・佃島 さつきのころ 船をうかめて、よもすがら聞く人あれども、雨のよくふる時節なればいとうかるべし。」
といった具合です。
 なお、2つの本に出てくる 「標茅が原(しめじがはら)」 は玉姫稲荷のあたりと書かれています。現在の玉姫稲荷神社のあるところは、東京都台東区清川2-13-20ですので、隅田川にほど近い所です。江戸時代は、湿地だったのだろうと思います。

c0187004_10465999.jpg クイナは古来かなり文学に取り上げられています。
 しかし、文学に取り上げられたクイナは、実はヒクイナのことだと言われています。

 ヒクイナは、全長22センチメートルくらいで、右の佐久間長夫氏撮影の写真のように赤っぽい茶色の体で胸と足が赤いのが特徴です。
 日本には夏鳥として渡来、繁殖するのでナツクイナともいいます。
 沼沢地にすみ、繁殖期にはキョッキョッとなき、鳴き声は詩歌などに「門の戸を敲く」と形容されます。

 クイナ(実はヒクイナ)は、江戸時代だけでなく、それ以前でも、文学にいろいろ取り上げられています。
  
主なものは次の通りです。c0187004_21211078.gif 源氏物語の明石には、 
   「くひなのうちたたきたるは、たが門さしてとあはれにおぼゆ」とあります。
  更級日記では、     
    「たたくとも 誰かくひなの 暮れぬるに 山路を深く 尋ねては来む」とうたわれています
  徒然草には、       
    「五月あやめふくころ早苗とるころ、水鶏のたたくなど心ぼそからぬかは」と書かれています。 

 このように、古くから文学に取り上げられてきたため、東都歳時記や江戸名所花暦にも取り上げられたものと思います。
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# by wheatbaku | 2009-06-26 06:01 | 江戸の鳥 | Trackback
永代寺    (江戸六地蔵の6)
 江戸六地蔵めぐりもいよいよ最後となりました。6番目は、深川の「永代寺」 です。
 永代寺は、以前に「御府内八十八ヶ所巡り」で案内しましたが、東京メトロ東西線「門前仲町」駅から歩いて2分です。
  
 c0187004_21392117.jpg永代寺の地蔵菩薩像は、深川地蔵坊正元の勧進によって江戸六地蔵の最後の一体が、享保5年(1720年)7月に造立されました。
 しかし、明治元年の廃仏毀釈の中で壊されてしまいました。
 そのため、現在、永代寺の地蔵菩薩像はありません。
 
c0187004_22335523.jpg






  江戸六地蔵の代わりというわけではありませんが、本堂のすぐ脇に地蔵堂があり、子育地蔵尊と取持地蔵尊がいらしゃったので、そちらのお参りもしました




 永代寺は寛永4年(1627)に富岡八幡宮別当永代寺として、長盛上人によって永代島(現在の永代橋の東側一帯)に創建されました。当寺の永代島は、隅田川河口にあった6万坪の砂州で、長盛上人が開発し、永代寺を建立しました。
c0187004_22381672.jpg  江戸時代、永代寺の庭園は、普段は一般の人には公開されていませんでしたが、毎年3月21日からの7日間は「山開き」と称し庭園が公開され、その様子は江戸名所図会にも描かれております。
 江戸時代には、出開帳(でがいちょう お寺が秘蔵の仏像などを、境内から他所に出張して公開すること)の会場として盛んに利用されるなど、江戸で大変有名なお寺でした。
 しかし、明治元年(1868)の神仏分離令を契機に行なわれた廃仏毀釈により廃寺となってしまいました。
 明治29年(1869)に、永代寺の塔頭(たっちゅう、大きなお寺の中にある小さなお寺)であった吉祥院が永代寺の名称を継いで現在に至っています。

         
永代寺はこんなに広い。  
 現在の富岡八幡宮、深川不動堂、深川公園すべてが、江戸時代には、永代寺の寺域でした。江戸時代の永代寺は非常に大きなお寺であったことがわかると思います。

c0187004_154721.jpg 富岡八幡宮は,寛永4年(1627)に創建された江戸最大の八幡宮です。「深川の八幡さま」と親しまれています。毎年8月15日を中心に行われる祭礼は、江戸時代から、赤坂の日枝神社の山王祭、神田明神の神田祭と並ぶ「江戸三大祭」の一に数えられています。
 また、江戸勧進相撲発祥の神社としても知られており、歴代横綱の名を刻した横綱力士碑があります。
 
c0187004_15472560.jpg 深川不動堂は、成田山新勝寺の東京別院です。 成田不動の「出開帳」は永代寺で江戸時代を通じて12回開かれました。これが深川不動堂の始まりです。
 永代寺が廃寺となった後、、明治3年(1870年)に現在の場所に「深川不動堂」として存続することが認められました。現在の本堂は明治15年(1882年)に完成していますが、隣地に新本堂を建設中です。
c0187004_15474692.jpg 
 さらに、深川公園も、永代寺の寺域でした。深川公園は、明治6年(1873年)太政官布達によって定められた日本最初の公園の1つです。
 深川公園は永代寺をはさんで、東と西にありますが、西の深川公園には、下の写真の「富岡八幡宮別当永代寺跡」の碑が建てられています。


江戸六地蔵と街道の関係に関心のある方は、もう少しお読みください。

千葉街道はどこですか? 
c0187004_22433564.jpg 永代寺のご住職に、江戸六地蔵は街道沿いに建立されたと言われていて、永代寺の場合は千葉街道と一般に言われていますが、千葉街道はどこでしょうかと尋ねました。
 ご住職は、「街道とは関係ないと思います。正元さんは、深川正元坊という名がついているように、深川に小さな庵をもって、そこに住んでいたのではないでしょうか。その場所というのは、永代寺の境内の中ではないかと推測しています。そこで、お世話になった永代寺に地蔵菩薩像を建立したのではないでしょうか。正元さんはあれだけ大きな地蔵菩薩像を6体も建立するのだからすごい人だったと思っています。」と話してくれました。正元さんとさん付けで言われているのが印象的でした。

 江戸六地蔵は、それぞれ六街道沿いに建てられ、5番霊巌寺は水戸街道、6番永代寺は千葉街道と言われています。しかし、本当にそうなのか前から疑問に思っていました。

 ①千葉街道は、江戸時代に、竪川(たてかわ)に沿って作られた街道ですので、深川・本所地区を通過しています。でも、永代寺より、霊巌寺の方が近くなります。
 ②水戸街道が深川を通っていたかについて調べました。江戸検定1級合格の皆さんからも、「文政11年の須原屋茂兵衛版の絵図によると、水戸道口は浅草真崎より新宿へ出るとある」というご意見や「水戸街道は、現在の三ツ目通りではないかと思う」というご意見等をいただきました。
  しかし、水戸街道が深川・本所地区を通っていたという確認はとれませせんでした。
 ③そして、霊巌寺と永代寺のご住職は、お二人とも街道とは直接関係はないと言われました。

 これらの話を総合すると、5番霊巌寺は水戸街道の入り口、6番永代寺は千葉街道の入り口といった明確な根拠はないように思います。
 深川の霊巌寺と永代寺は、街道沿いのお寺として選ばれたというより、地蔵坊正元が住みお世話になっていた深川にあるお寺として選ばれたのではないのでしょうか。
 それがいつしか、水戸街道沿い、千葉街道沿いと呼ばれるようになったのではないでしょうか。
 私は、そんな風に推測してみました。
 

 ☆今日は、江戸六地蔵シリーズの最後で、非常に長くなってしまいました。最後までお読みいただきありがとうございました。また、江戸検定1級合格の皆さんご協力ありがとうございました。
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# by wheatbaku | 2009-06-25 06:09 | 江戸六地蔵 | Trackback
霊厳寺(れいがんじ)  (江戸六地蔵の5)
 江戸六地蔵めぐりの5回目は、深川の「霊巌寺」 です。
 
c0187004_1520990.jpg  霊巌寺は、東京メトロ「清澄白河」駅から5分です。
  現在、霊厳寺のある町名は「白河」と呼ばれています。
 元々は、霊岸寺の門前だったので「深川霊岸町」といいましたが、霊岸寺が白河藩主だった松平定信の菩提寺であったため、昭和45年に白河町と名づけたそうです。
 従って、「白河」という町名は、つい最近につけられた名前になります。その町名と隣の清澄を一緒にしたのが「清澄白河」という駅名です。

 六地蔵菩薩像は、門を入って、参道中程の左手に鎮座しています。
 六地蔵の5番目として、享保2年(1717年)4月に建立されています。
 像の高さは、2.73メートルで、今までお参りしてきた六地蔵像とほとんどかわりませんが、台座が低いため、見上げる感じではなく、身近に感じられます。仏身には、金箔がかすかに残っているそうです。


c0187004_15152871.jpg 霊厳寺は、寛永元年(1624)に、雄誉霊巌上人が霊巌島(現在の東京都中央区新川)に霊厳寺を創建したのが始まりです。
 その当時、霊巌島の辺りは湿地帯で、そこを埋め立てて霊巌寺を建てました。
 霊厳寺は、明暦3年(1657)のいわゆる振袖火事によって焼失し、現在の深川の地に移転しました。元の創建の地は霊巌島という霊厳由来の地名が残されました。(現在の交差点の名前は、「霊岸島」)
 霊巌上人は、のち浄土宗総本山の知恩院32世に就任しています。


c0187004_15161147.jpg 霊巌寺には、松平定信の墓所(左の写真)があります。
 松平定信は、御三卿の田安宗武の7男で8代将軍徳川吉宗の孫にあたります。c0187004_15163246.jpg 
 白河藩主の松平(久松)定邦の養子となり、天明3年(1783年)に白河藩主となります。折からの天明の大飢饉にも、領内から餓死者を出さず、名君と言われました。
 そして、天明7年(1787)、老中首座に就任し、吉宗の享保の改革を手本とした寛政の改革を行いました。
 その松平定信の墓(右の写真)は、本堂のすぐ脇の塀に囲まれた区画の中にあります。

 松平定信の墓だけ独立してありますので、その他の桑名藩藩主の墓はどうなのか、ご住職に尋ねました。なお、松平(久松)家は文政6年に白河から桑名に転封しています。
 ご住職のお話は、「桑名藩の歴代藩主の墓もあります。また、桑名藩松平家のほか、高田藩榊原家、膳所藩本多家の菩提寺でもあります」とのことでした。


水戸街道はどこですか? 
 この写真は、霊巌寺の門前から撮ったものです。門前の道を少し右手にいけば、深川江戸資料館があります。しかし、街道という雰囲気ではありません。
c0187004_15154692.jpg ご住職に、霊巌寺は水戸街道沿いにあると多くの本などに紹介されていますが、水戸街道はどこを通っていたのでしょうかと質問しました。
 それに対して次のように教えてくれました。
 「霊巌寺では、水戸街道ではなく、千葉街道と伝わっているけれども、街道が、お寺のそばを通っていたわけではないと思います。
 他の4ヶ寺は、明らかに街道の入り口ですが、霊巌寺と永代寺の2ヶ寺に地蔵菩薩像が安置されたのは、水戸街道や千葉街道がそばを通っているということではなく、、正元坊が深川に住んでいて、深川では霊巌寺と永代寺の2ヶ寺が参詣者が非常に多かったため、大勢の人が参詣する霊巌寺と永代寺の2ヶ寺に寄進したのではないでしょうか」
というお話でした。
 前からの疑問が氷解した気持ちがしました。



江戸名所図会に書かれた「霊巌寺」 
 浄土宗関東18壇林の1室にて、広壮の梵刹ない。本尊は阿弥陀如来。開山は霊厳和尚たり。台旨によりて寺産を附せらる。寮舎僧坊甍を連ねて巍然(ぎぜん)たり。
 正元坊が造立せし銅像の地蔵尊は、大江戸六地蔵の一員にして、総門の内正面に対ふ(むかう)‐‐‐後略‐‐‐
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# by wheatbaku | 2009-06-24 06:38 | 江戸六地蔵 | Trackback
眞性寺(しんしょうじ)  (江戸六地蔵の4)
 江戸六地蔵めぐりの4回目は、巣鴨の「眞性寺(しんしょうじ)」 です。
 眞性寺は、JR「巣鴨」から歩いて5分です。
 c0187004_1434265.jpg
 眞性寺の地蔵菩薩像は、中仙道の入り口として、4番目に作られたものです。眞性寺の地蔵尊が完成したのは正徳4年9月(1714年)です。
 建立は4番目ですが、参拝順序は3番目になります。
 高さ2.68メートル、蓮花台座を含めると3.45メートルあります。 

 「門を入ると、境内の正面、本堂の左手に、地蔵菩薩像が、鎮座しています」と書きたいのですが、実は、地蔵菩薩像は、現在は修理のため、京都に移っているため、残念ながら22年4月まで拝むことができません。
 今回の地蔵菩薩像の写真も、「巣鴨百選」さんに提供してもらいました。

 c0187004_1563168.jpg
 京都に移った江戸六地蔵の地蔵菩薩像の代わりに、「身代わり地蔵尊」が本堂の前に鎮座しています。
 そこで、今回はそちらにお参りしました。
 地蔵菩薩像は、関東大震災の時の破損の修理など一部分の修理は過去にありますが、本格的な修理は初めてだそうです。
 既に、六地蔵様は、お参りしたことがありますが、戻られたら、再度お参りしようと思います。
 お寺のお話では、来年4月24日には、戻られた最初の法要を行う予定とのことでした。



c0187004_1435425.jpg 眞性寺の開基は不明ですが、聖武天皇の勅願で、行基菩薩が開いたものと伝えられています。そして、江戸初期の元和元年(1615)に祐遍法印により中興されました。
 江戸六地蔵の第4番の他にも御府内八十八箇所、九品仏、三十箇所弁財天にも数えられ、眞性寺への巡礼が巣鴨発展の基になったとも言われているそうです。
 また江戸幕府8代将軍徳川吉宗もたびたびこの寺に立ち寄ったとされています。


c0187004_15034.jpg 眞性寺の目の前が旧中仙道です。
 現在は巣鴨地蔵通りとなっています。
 巣鴨地蔵通りは、眞性寺の「江戸六地蔵様」と高岩寺の「とげぬき地蔵様」という2つの有名なお地蔵様があることから、巣鴨地蔵通りと名前がつけられたということです。

c0187004_14474854.jpg今では、高岩寺のとげぬき地蔵の方が有名なような気もしますが、高岩寺は,慶長元年(1596)に湯島に開創され、その後下谷に移った大変古いお寺ですが、明治24年に下谷から巣鴨に移転してきたものです。ですから、巣鴨では、江戸六地蔵のほうが古いのです。おばあちゃんの原宿といわれる通り、大勢の方の参拝でにぎわっていました。


 芭蕉の句碑
c0187004_14562379.jpg 眞性寺の門を入って左手に芭蕉の句碑があります。
そこには
 「志ら露も古保連ぬ萩のう禰里哉」(白露もこぼれぬ萩のうねりかな)
とあります。
 碑の裏面によると、これは寛政5年(1793)、芭蕉の百年忌に採荼庵梅人(さいとあんばいじん)とその社中により建てられ、芭門十哲の1人、杉山杉風の「萩植てひとり見習ふ山路かな」の句も裏面に刻まれているとのことですが、裏は確認できませんでした。


江戸名所図会に書かれた「眞性寺」 c0187004_14481870.jpg
  眞性寺は「江戸名所図会」にも描かれています。 絵だけで文はありませんが、絵の上部に「巣鴨真性寺 江戸六地蔵の一員なり」と付記されています。 
  境内には江戸六地蔵尊の姿も見えます。 絵の一番下の部分の道が中山道です。

  これも、「巣鴨百選」さんの提供です。

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# by wheatbaku | 2009-06-23 06:20 | 江戸六地蔵 | Trackback
  

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