太郎稲荷神社   (江戸屋敷にあった神社16)
江戸屋敷にあった神社、今回は、太郎稲荷神社です。

c0187004_18342754.jpg 太郎稲荷神社は、柳川藩立花家の屋敷にあった神社です。 

 柳川藩立花家の江戸屋敷は、上屋敷が下谷徒町、中屋敷が浅草鳥越、下屋敷が浅草末(下谷)にありました。
 中屋敷にあったのが、「西町太郎稲荷神社」(右の写真)で、下屋敷にあったのが「太郎稲荷神社」 (下の写真)です。

西町太郎稲荷神社
 西町太郎稲荷神社は、東京メトロ日比谷線「仲御徒町」駅から歩いて5分です。神社の鳥居の脇に由来を書いた案内板があります。それには、「当町は江戸時代の万治年間(1658~61)、九州地区後柳川藩10万9千6百石の太守立花左近将監が江戸中屋敷として設けた跡地であって、当太郎稲荷は立花左近将監の母堂みほ姫の守り本尊として、同邸内の現在地に建立されたものです」と書かれています。
 
太郎稲荷神社
c0187004_18384563.jpg 太郎稲荷神社は東京メトロ「入谷」駅から歩いて5分のところにあります。
 神社の鳥居の脇にある旧光月町の由来板の中に「太郎稲荷神社は新堀川沿いにある立花家の下屋敷にあった。生い茂る樹木の奥に社殿があり、参拝する人でにぎわっていた」と書かれています。 

柳川藩立花家 
 立花氏は、九州の戦国大名大友氏の一門と言われます。豊臣秀吉の九州平定の際に、大友氏の先陣として活躍した立花宗茂は、その功により、筑後柳川13万石の城主となりました。 その後、関ヶ原の戦いの際に西軍に味方した立花宗茂は、柳川を追われ、かわって柳川に田中吉政が入封しました。しかし、田中家が改易されると、20年後の元和6年(1620年)、再び立花宗茂が城主となり、以後、明治維新まで、立花家が柳川を治めました。

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 明治維新の際に多くの大名が東京に移り住む中で、立花家は、柳川に留まり、第2次大戦後には、16代当主の 立花和雄氏が、立花家の別邸を利用し、料亭・旅館「御花」を始めました。そして現在も「御花」は、立花家17代宗艦氏三兄弟により経営されているとのことです。
 右の写真は、その「御花」の庭園「松濤園」です。


 青印が「西町太郎稲荷神社」  、緑印が「太郎稲荷神社」 です。拡大してご覧ください。

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# by wheatbaku | 2009-06-10 06:02 | 江戸屋敷にあった神社 | Trackback
後楽園に残る神田上水の跡
 神田上水は、関口の大洗堰で取水された後、小石川の水戸屋敷を通り、水道橋下流で神田川を懸樋で越えて通水されていました。
 大洗堰と懸樋は既に紹介しましたので、今回は、後楽園内に残る「神田上水跡」をご案内します。

c0187004_22471073.jpg 小石川後楽園は、いううまでもなく、水戸徳川家の上屋敷にあった庭園です。
 江戸時代3代将軍家光の頃の寛永6年(1629年)に水戸徳川家の初代頼房が、江戸の中屋敷(後に上屋敷となりますが、当時は中屋敷でした)の庭として造り、2代藩主の光圀の代に完成した庭園です。
 神田上水が、後楽園を通っていますので、後楽園もその水を庭園に利用していたと思います。



c0187004_2252102.jpg  神田上水は、後楽園の北の部分を西から東にかけてが流れており、 「神田上水跡」 が、現在も後楽園内の北の部分に残っています。
 水路の幅は、2メートル程度ありますが、現在は水は流れていません。「神田上水の跡」という木の案内板が流れの脇に立てられています。
 この案内板がないと、見過ごしてしまいそうです。



c0187004_9404966.jpg 神田上水跡のそばには、「八ッ橋」が設けられていました。しかし、八ッ橋のそばのかきつばたは、盛りを過ぎていました。

 c0187004_22523828.jpg 一方、上水跡の南側は花しょうぶ園になっています。花しょうぶのほうは、今が盛りでした。
 花しょうぶまつりが開かれており、ガイドツアーも実施されており、大勢の人でにぎわっていました。
 ただし、花しょうぶまつりは、6月7日までですので、もう終了ですが、花しょうぶの花自体は、しばらくはみることができると思いますので、ごらんになりたい方は早めにいかれたほうがよいと思います。
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# by wheatbaku | 2009-06-09 06:49 | 江戸のしくみ | Trackback
「大人のブログ探訪」に紹介されました
 昨日書いたように「日経BPネット」の「セカンドステージ」の 「大人のブログ探訪」 に、「気ままに江戸♪ 散歩・味・読書の記録」が紹介されました。
 昨日の記事では、冒頭に少し書きましたら、もっと大きく書いたほうがよいというアドバイスを早速いただいたので、今日は、「大人のブログ探訪」をタイトルに入れて書きます。

 日経BPネットは、「日経ビジネス」などの情報誌を発行している日経BP社の総合ニュースサイトです。
 その中の「セカンドステージ」は、団塊の世代を中心に,45歳以上を対象とした「おとな」向けの生活設計サイトだそうです。。
 その中に「大人のブログ探訪」というコーナーがあります。そこにご紹介いただいたという次第です。

  日経BPネット  ⇒      「大人のブログ探訪」 
 
 いままで紹介されているブログを拝見すると、すばらしいブログですので、そこに紹介されたということで非常にうれしく思っています。

 筆者の原様は、江戸文化歴史検定についても、大変詳しく、おそらく挑戦の経験があるのではないかと思います。
 私も、昨年、幸いにも江戸文化歴史検定1級に合格しましたが、これから3級、2級、1級のそれぞれの合格をめざす方の応援になればと思いながら江戸の紹介をしてきています。

 このブログにより、読まれる方の江戸についての知識が深まることに多少でもお役にたつよう、さらには、多くの人が江戸文化歴史検定に合格するよう願いながら、これからも「気ままに江戸」を紹介していきたいと思います。
 これからもどうぞよろしくお願いします。

 明日は、 「後楽園に残る神田上水の跡」 というタイトルで書く予定です。
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# by wheatbaku | 2009-06-08 12:04 | Trackback
あじさい   (江戸の花)
 うれしい話がありました。
 このブログが、日経BP社が運営している日経BPネットのセカンドステージの
「大人のブログ探訪」(リンク済み)
というコーナーで紹介されました。
 原様 ご紹介いただきありがとうございました。 
 また、このブログを読んでいただいている皆様のお陰です。 ありがとうございました。
 これからもご愛読ください。
 

 さて、梅雨空の下で鮮やかに「あじさい」 が咲く季節になりました。

c0187004_15105179.jpg  「あじさい」は、西洋から入ってきた園芸植物のイメージが強いのですが、日本原産の植物です。
 しかし、現在出回っている品種のほとんどは、江戸時代末期から明治時代に日本からヨーロッパに渡り、日本産のがくあじさいが品種改良されてきた西洋あじさいです。
 右の写真が、日本自生の「がくあじさい」です。
 

  「あじさい」という名前も日本語です。
 c0187004_15111595.jpg 大槻文彦が著した大言海には、「あじさい」は「あぢさゐ」とあり、「あぢさあい」つまり「集(あぢ)と眞藍(さあゐ)」の略であると書いてあります。
 「集(あぢ)」と漢字で書けばすぐわかるように「あつまる」という意味で、「眞藍(さあゐ)」は真っ青という意味です。こう書くと、まさにあじさいという名前は、花の様子を的確に表した名前だと言えます。
 そうすると「あじさい」はカタカナではなくひらがなで書いたほうが良いということになります。また、別名は「よひらの花」とも言います。

 
 あじさいと江戸の関係では、シーボルトを取り上げないわけにはいきません。
 ドイツ人であるシーボルトはオランダ商館の医師として1823年(文政6年)に日本にやってきました。そのシーボルトはドイツに帰国後、「日本植物誌」という本を著し、あじさいもその中で紹介し、Hydrangea Otaksa と命名しました。このOtaksaは、シーボルトが愛した女性楠本滝、つまり「お滝さん」の名前だといわれています。
 しかし、実際にはシーボルトより前にあじさいの学名をつけた人がいたため、シーボルトがつけた学名は、現在は採用されていません。 シーボルトより先に学名をつけた人は、1775年(安永4年)にオランダ商館の医師として長崎にきたスウェーデン人のツンベルクと言われています。でも、シーボルトの話のほうが有名ですね。
 このシーボルトの縁から、長崎市の花は「あじさい」となっています。
 
 c0187004_214138.jpg 
 東都歳時記や江戸名所花暦には「あじさい」の名所が載っていませんでしたので、江戸のあじさいの名所がどこかわかりせん。現代では、鎌倉の明月院(あじさい寺といわれている)が非常に有名ですが、東京では、白山神社でしょう。
 白山神社は、東京メトロ「白山」駅や「本駒込」駅が最寄駅ですが、6月6日から14日(日)まで、文京区あじさい祭りが開かれています。
 あじさいは約3000株あるということで、大勢の人でにぎわっていました。
 ほとんどの人は、イベントの行われている社殿の前であじさいをながめていました。

 
c0187004_19504275.jpg しかし、社殿裏の富士塚にもあじさいがいっぱいあります。
 江戸好きの方は、社殿の裏に回って、富士塚のあじさいも見ていただいたほうがよいと思います。
 富士塚が開放されるのはこの時期だけですので、貴重な富士塚に登れるのも、この期間だけということになります。
 左の写真は富士塚に登る途中に咲いているあじさいです。
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# by wheatbaku | 2009-06-07 06:10 | 江戸の花と木 | Trackback
亀住稲荷神社  (江戸屋敷にあった神社15)
  江戸屋敷にあった神社ですが、今回は、外神田の 「亀住稲荷(かめずみいなり)神社」 をお参りしました。
 「亀住稲荷神社」はJR御徒町駅から4分、東京メトロ「末広町」からも4分のところにあります。
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 亀住稲荷神社は、豊前小倉藩の中屋敷内にあった稲荷と神田八軒町にあった稲荷を一緒に祀った神社です。

 江戸時代は、この地域には、 豊前小倉藩小笠原家の中屋敷がありました。嘉永4年の江戸切絵図には小笠原左京太夫と載っています。
 
小倉藩小笠原家
 小倉藩小笠原家は、戦国時代に、武田信玄と戦った信濃守護の小笠原長時の血を引いた家です。
 もともと、小笠原氏は八幡太郎源義家の弟、新羅三郎義光の系統の名門で、甲斐国巨摩郡小笠原(現在山梨県南アルプス市)が出身地と言われています。
 室町時代には、信濃守護として信濃に進出し土着しました。しかし、武田信玄に敗れ、信濃から追われましたが、後に、徳川家康に仕えて、有力譜代大名になっていきます。
 
 そして、寛永9年、細川忠興が肥後に転封した後に、小笠原忠真が播磨国明石藩より小倉に入封し、小倉城主として15万石を領しました。
 忠真は徳川家康の曾孫(母が徳川信康の娘)であり、以後、小笠原氏は西国譜代大名の筆頭として九州の玄関口を押さえる九州探題の任を受け外様大名の監視を行っていきました。

  こうした役割を小倉藩は負っていたため、幕末の長州征伐では幕府側の九州側の先鋒として長州藩と戦いました。しかし、慶応元年(1865年)の第二次戦争の際には奇兵隊により門司が制圧された後、小倉城に火を放ち、撤退するという悲劇を味わいました。


c0187004_22232092.jpg 亀住という地名は江戸時代にはありません。千代田区の資料によると、神田亀住町は、明治2年に合併してできた町のようです。その名前は、末永く生活できる場であってほしいという願いを込めて名付けられたといいます。
 明治44年の町名変更で、町名はいったん亀住町となり、昭和22年にふたたび神田亀住町に戻されますが、昭和39年の住居表示の実施で、現在の外神田五丁目になりました。
 こうして亀住町という町名はなくなりましたが、亀住町会と書かれた木札が社殿に掛けられているのを見ると、亀住町は、亀住稲荷神社とともに、現在も活きているようです。



 青印が亀住稲荷神社です。

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# by wheatbaku | 2009-06-06 07:01 | 江戸屋敷にあった神社 | Trackback
冷や水売り  (江戸の歳時記)
c0187004_22575036.jpg 4回にわたり江戸の水事情について書きましたが、今日も水に関するお話です。
 
 江戸は、水道が整備されていましたので、右の写真のような井戸で水をくみ上げていましたが、夏には冷えた水を売る商売がありました。それが「冷や水売り」です。
  現代では、ミネラルウォーターなどを買って水分補給しますが、江戸時代も同じであったということになります。

 「冷や水売り」は、5月(もちろん旧暦です)になると商売を始めました。「東都歳時記」の5月の項には「この月より 冷や水、心太(ところてん)、白玉餅 売りありく」と書いてあります。
 なお、「東都歳時記」とは、江戸後期の天保9年(1838)に刊行された、絵入りで年中行事を記るした本です。

 c0187004_21374630.jpg 「冷や水売り」がどんな商売かについて、江戸時代の百科事典である「守貞漫稿」が次のように説明しています。
 「夏月、清冷の泉を汲み、白糖と寒晒粉(かんざらしこ)の団(団子)とを加へ、一椀4文に売る。求めに応じて8文・12文にも売るは、糖を多く加ふなり。売り詞、“ひやつこい ひやつこい”と云ふ」

 冷や水は一椀4文で売られていたようです。1文はがどのくらいかについてはいろいろな説がありますが、25円とする説が計算しやすいと思いますので、1文25円とすると、4文は100円ということになります。
現代でも、ミネラルウォーターが100円程度ですので、現代と同じくらいの値段だったのですね。
 でも、砂糖を多くしようとすると200円や300円分を支払わなければなりません。

 また、冷水に入れる白玉についても、「守貞謾稿」は、 「白玉は、寒晒粉(白玉粉)を水をもってこれを練り、これを丸めて湯烹(ゆに)にしたるをいふ。白糖をかけてこれを食す。あるひは冷水にこれを加ふ。また汁粉にもこれを加ふといへども、路上売りは冷水に用ふるを専らとして、夏月にこれを売る」と書いています。
 白玉もほとんど夏に売られていたようです。


c0187004_2145853.jpg 冷や水を入れる容器は、現代であれば、コップですが、江戸時代の「冷や水売り」は、真鍮や錫のお椀を使ったといいます。真鍮や錫は金属ですので、口当たりがひんやりして、余計冷たく感じるからです。
 しかし、冷や水といっても、冷やす設備があるわけではないので、冷たい水をくんできても、時間がたてばぬるま湯になってしまいます。
 だから 「ぬるま湯を 辻々で売る 暑いこと」 という川柳もできることになります。
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# by wheatbaku | 2009-06-05 05:28 | 江戸の歳時記 | Trackback
大洗堰と懸樋    神田上水の史跡
 先日書いたように、神田上水は井の頭池を主な水源として、善福寺川と妙正寺川を合わせて、神田川を流れ、目白の関口で取水し、現在の水道橋近くの懸樋(かけひ)で神田川を越えて、暗渠で江戸城内に入りました。さらに、神田や日本橋にも給水しました。

その神田上水の史跡、関口大洗堰懸樋の2つをご案内します。

関口大洗堰 c0187004_20381817.jpg
  神田上水は、現在の文京区関口に堰を設けて、水を取り入れていました。その堰は、昭和12年の神田川改修の際に取り壊されてしまいました。
 その由来を書いた碑が大洗堰の近くの江戸川公園の一角にあります。
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その碑の裏には、取水口の石柱が保存されています。(横に懸っているのが石柱です)


c0187004_2113940.jpg 江戸名所図会に「大洗堰 目白の崖下(がいか)にあり、承応年間、厳命により、当国多磨群牟礼村井の頭の池水をして、江戸大城の下に通ぜせむ。その頃この地に堰(いぜき)を築かせられ、その上水の余水を分けられる」と書かれていますが、今はその面影はまったくありません。
 この写真は、大滝橋からみた神田川(江戸川橋方面を撮っています)です。写真の中央あたりに大洗堰がありました。


 懸樋(かけひ)  
 神田上水は現在の水道橋の少し下流で神田川を横断しましたが,ここに架かっていたのが,いわゆる「懸樋」で,江戸名所図会や広重の絵にも画かれています。
c0187004_2230835.jpg  懸樋とは、道路や水路または凹地の上部をまたいで水路を通したものを言います。
 御茶ノ水の順天堂大学の近くに水道歴史館がありますが、そこにある懸樋の模型を見ると当時の様子がよくわかります。

c0187004_2047754.jpg 
 水道橋から御茶ノ水に向かった外堀通り沿いの懸樋があった場所に碑があり、「神田上水懸樋跡 江戸時代、神田川に木製の樋を架け、神田上水の水を通し、神田、日本橋方面に給水していました。 中略  この樋は懸樋と呼ばれ、この辺りに架けられていました」と書かれています。


c0187004_21114025.jpg 現在の神田川には、当然のことながら、その様子を示すものはありません。
 水道橋からみた神田川(御茶ノ水方面を撮っています)ですが、この写真の中ほどの一寸奥に懸樋があったようです。
 
 なお、江戸名所図会では、「水道橋 小川町より小石川への出口、神田川の流れに渡す。この橋の少し下の方に、神田上水の懸樋あり、ゆえに号(な)とす」と水道橋の名前の由来が懸樋にあると書かれています。
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# by wheatbaku | 2009-06-04 05:40 | 江戸のしくみ | Trackback
四谷大木戸と分水   玉川上水③
 玉川上水は四谷大木戸が一つのゴールになっていますし、多くの分水があります。今日はそのお話です。

c0187004_21422193.jpg  玉川上水は、四谷大木戸までは、開渠で、四谷大木戸から江戸へは、水道管を地下に埋設し通水しました。
 従って、玉川上水の水は、四谷大木戸から先にも通水されますが、地上から見られる玉川上水は四谷が終点になります。
 開渠の終点である四谷大木戸には、水番所が置かれ、水量の管理やごみの除去などを行っていました。
 水番所のあった所は、現在新宿区の四谷区民センターになっていますが、その一角に、右の写真の玉川上水の由来を記した「水道碑記(すいどうのいしぶみのき)」が建てられています。

 c0187004_21442122.jpg 
 区民センターをよくみると、一部に水道局新宿営業所が入っていて、大きな看板がでています。玉川上水は、明治34年に近代的な水道の整備とともに、使われなくなりましたが、昔の水番所のあったところに、都の水道局新宿営業所があることを見ると、玉川上水が現在も生き続けていると思わずにはいられません。

玉川上水の分水
 玉川上水は、多くの分水を持っています
 青山上水は、玉川上水の四谷大木戸の近くにある吐口から取水し、四谷、麹町、赤坂、青山、麻布方面へ給水しました。作られたのは万治3年(1660)年です。
 三田上水は、寛文4(1664)年に、下北沢で分水し、大崎、高輪、三田、芝方面へ給水し、最後は目黒川に落としていました。 
 千川上水は、元禄9(1696)年、上保谷で玉川上水を分水させ、巣鴨から本郷、湯島、さらには浅草あたりまで届いていました。
 玉川上水を分水した3つの上水のほか、中川からの水を水源とする亀有上水があり、神田上水と玉川上水をあわせて6つの上水で江戸市中の水需要をを賄っていました。
 しかし、亀有、青山、三田、千川の四上水は8代将軍吉宗の時代の享保7(1722)年に突然廃止されてしまいます。その理由はいくつかの説がありますが、はっきりしたことはわかっていないようです。


 牛枠って何? 
 玉川上水とは直接関係はありませんが、羽村の取水堰の公園に牛枠という珍しいものが展示されていましので、写真に撮っておきました。興味のある方は、お読み下さい。

 牛枠とは、洪水時に水の勢いを弱め、堤防の破壊を防いだりるするために、河川に設置される構造物です。
 牛枠の説明版(下の写真)がありましたので、それを書き上げました。
 「牛枠(川倉水制)c0187004_21402850.jpg
 治水の技術の一つが、水の勢いを弱め、堤防が壊れるのを防ぐ「川倉」です。かたちが馬の背中に似ていることから「川鞍(かわくら)」と名づけられ、のちに「川倉」と呼ぶようになったこの仕組みには、さまざまな種類がありますが、最も一般的なものは「牛枠(うしわく)と言われています。
「牛枠」は、堤防に植えた河畔林を切り出し組み立てます。木材だけでは水中に浮き上がるため、水の勢いに負けないよう、川床の玉石をつめた蛇籠(じゃかご)で固定します。堤防を強化する林が同時に治水の材料を提供する優れた知恵によるものです。以下略」

 説明板の図を見て上の写真の牛枠を見るとが同じ仕組みであることがわかると思います。

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# by wheatbaku | 2009-06-03 08:20 | 江戸のしくみ | Trackback
江戸の人はすごい!  玉川上水②  
 玉川上水の2回目です。玉川上水は、江戸の人の驚くべきパワーにより完成されました。今日はそのお話です。

c0187004_19382787.jpg 玉川上水は、開削工事の総奉行に知恵伊豆と呼ばれた老中松平伊豆守信綱、奉行に町奉行の神尾備前守、そして水道奉行に関東郡代として名高い伊奈忠治(没後は忠克)が就くという幕府側の豪華布陣の上で、玉川兄弟が工事を請負ったと言われています。
 幕府は玉川兄弟に6000両の資金を与えて工事を行わせましたが、途中でお金が足りなくなり、玉川兄弟は自分たちの資産を売って工事の費用に充てて上水を完成させたと言われています。
 こうして工事が進められた玉川上水は、羽村から四谷大木戸まで43キロメートルありますが、承応2年(1653)4月4日着工し、、同年11月15日に完成したと「上水記」にかかれています。
 これが事実とすれば、43キロを248日間(承応2年は閏6月があった)の工事で完成させたことになり、1キロメートルの工事を約6日間で進めたことになります。これは、驚異的なことです。
 埼玉県北部で利根川から荒川に導水するための人口水路である武蔵水路は、14.5キロメートルありますが、1963年に着工して68年に完成するまで5年かかっています。
 土木技術が進んでいる現代でも、これだけかかる導水工事を、人海戦術に頼るしかなかった江戸時代に248日間で成し遂げた、玉川兄弟の偉大さを考えざるをえません。
 


c0187004_22404879.jpg また、玉川上水は羽村から四谷までの43キロメートルを、高低差のみで水を運ぶしくみ「自然流下式」により水が流れました。
 しかし、羽村と四谷の高低差は、わずかに92メートルしかありません。100メートル進むごとに21センチメートル下がる計算になります。
 これしか高低差がない土地でスムーズに水が流れる工事をすることもまたすごい技術力だと思います。 
 また、このような難工事のためには、しっかりとした測量技術が必要です。
 玉川上水の測量では、夜、蝋燭を持った人が並び、その明かりを見て高さや直線を測ったという話が羽村には伝えられていると訪問した羽村のお世話になった人が教えてくれました。
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# by wheatbaku | 2009-06-02 05:27 | 江戸のしくみ | Trackback
江戸の水道   玉川上水①
 昨日、以前お世話になった人を羽村に訪問しました。羽村は「玉川上水」の取水場所ですので、それを見ずに帰る訳にはいきません。そんなことで、雨模様の中、玉川上水の最上部である羽村の取水堰(下の写真)に行ってきました。
 そこで、玉川上水を中心に江戸の水道について数回に亘って記します。

c0187004_1941116.jpg 神田上水 
 江戸ッ子の条件はいろいろありますが、「金の鯱(しゃちほこ)をにらんで、水道の水を産湯に浴びて・・」と江戸城の近くで生まれ、水道の水を産湯に使うことが第一の条件とされていました。それほど、江戸っ子にとっては、水道が大切でしたし、自慢でもありました。
 もともと江戸は水事情が非常に悪い土地でした。当時の技術では深い井戸が掘れず、海に近い湿地を埋め立てた土地が多かったため、井戸を掘っても塩分の強い水が出るなどしました。
 そこで、江戸では飲料水の確保のため、徳川家康が江戸に入った天正18年には、早々と神田上水の元となる小石川上水が大久保藤五郎忠行によって開発されたと言われています。
 神田上水は井の頭池を主な水源として、善福寺川と妙正寺川を合わせて、神田川を流れ、目白の関口で取水し、神田川を現在の水道橋近くの懸樋(かけひ)で越えて、暗渠で江戸城内に入りました。さらに、神田や日本橋にも給水しました。
 大久保忠行は、水道を開発した功績により主水の名を与えられましたが、通常は「もんど」と呼ぶところをあえて「もんと」と濁らずに名乗ったというおやじギャグのような話が残ってます。

c0187004_2218297.jpg 玉川上水
 その後、江戸の人口は増え続け水が不足してきたため、新たな水道が必要になりました。
 そこで、江戸の水源を確保するために、多摩川から水を取り入れた玉川上水が掘られました。
 玉川兄弟が工事を請負い、4代将軍家綱の承応2年(1653)に工事が始まり、承応3年(1654)には虎ノ門まで完成しました。この兄弟の名前は、庄右衛門・清右衛門と言います。玉川兄弟については、多摩地方の出身という説と江戸の町人とする説があります。町人だった2人は、玉川上水の完成後に、玉川の姓を賜わり、上水の管理の仕事も任されました。
 この玉川兄弟の銅像が取水堰近くにあります。取水堰を向いて銅像は建っていますが、立っているのが兄庄右衛門、座っているのが弟清右衛門です。昭和33年(1958)に建設されたものです。
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# by wheatbaku | 2009-06-01 06:30 | 江戸のしくみ | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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