榊原高尾のお墓


 今日から、雑司が谷散歩でご案内した各寺院に眠る有名人について順にかいていきます。今日は、まず南池袋の本立寺に眠る「榊原高尾」について書きます。

本立寺は、池袋駅から徒歩10分ほどの南池袋公園の東側にあります。

c0187004_10265382.jpg 本立寺は、江戸時代初期の元和4年(1618)創立し、その後、法明寺の末寺となり、法明寺の御住職の隠居所として使われていました。

7代目住職日意が姫路城主榊原家の宝延寿院(6代政邦の母と思われる)の帰依をうけて以来、榊原家の奥方たちの菩提所となりました。

そうしたことがら、本堂の裏側に榊原家の墓所があります。

榊原家は、徳川家康の四天王の一人、榊原康政を藩祖とする譜代名門です。

c0187004_10270096.jpg榊原康政は徳川家康が関東に入府した際に、上野国館林で10万石の城主となりました。

その後、榊原家は、陸奥国白河、播磨国姫路、越後国村上と転封を繰り返したあと、宝永元年、再び姫路藩主となった後、寛保元年に越後国高田に転封となり、越後高田藩の藩主として明治維新を迎えました。

榊原家の藩主の多くのお墓は深川の霊厳寺にあり、本明寺には正室や側室が眠っています。

榊原家の墓所には、大きな墓誌が建てられています。(右下写真参照)

c0187004_10270414.jpgこの中に、「蓮昌院殿清心妙華日持法尼」と刻まれている女性がいます。

この女性が「榊原高尾」です。

吉原の遊女屋三浦屋の高尾太夫は、何人もいたといわれていて、それぞれ通称で呼ばれています。

最も有名な高尾太夫が、仙台藩主伊達綱宗が身請けしました仙台高尾です。

「榊原高尾」は、姫路藩8代藩主榊原政岑が身請けしたため「榊原高尾」と呼ばれます。

榊原政岑は、姫路藩榊原家の分家に生まれましたが、姫路藩榊原家7代藩主政祐が跡継ぎがないまま亡くなったため、榊原宗家を継承することとなりました。

 榊原政岑が藩主となったのは享保17年で、8代将軍徳川吉宗が享保の改革を行っていた時代です。
 政岑は、吉宗が出した倹約令を無視し、吉原で遊びまわり、高尾太夫を2500両(諸説あるようですが、『御江戸吉原ものしり帖』によります)で身請けしました。

こうした姿勢は、尾張藩主徳川宗春の行いと同じく享保の改革に対する抵抗と見なされました。

そのため、藩祖榊原康政の功績に免じて家名断絶とまでは処分されなかったものの、政岑は隠居し家督は嫡男の政永が継ぐこととされ、さらに越後高田に懲罰的な国替えを命じられました。

『藩物語 高田藩』(村山和夫著)によれば、政岑は寛保2年5月に罪人を護送する「青乗物」で高田に入りました。

そして、政岑は寛保3年2月17日に31歳で亡くなりました。高田に移された9か月後のことでした。

政岑の墓は高田の林泉寺にあるそうです。墓は罪人として青い網がかぶせられていて、公式にお参りすることが禁じられました。

9代政永が赦免を願い出ましたが、幕府から許されることはなく、明治まで青い網がかぶせられていたといいます。

c0187004_10272276.jpg榊原家の墓所の近くに榊原高尾のお墓があります。(右写真)

墓碑の表には「蓮昌院殿清心妙華日持法尼」と刻まれています。

榊原高尾は、新潮文庫『お江戸吉原ものしり帖』(北村鮭彦著)によれば、19歳の時に身請けされ、姫路城の西丸に住んでいて西丸方様と呼ばれていたが、政岑が隠居となると江戸に戻り、上野池の端の榊原家下屋敷に住み、政岑の死後は、落飾し菩提を弔いつつ過ごし、天明9年(1789年)1月19日、67歳で死亡したといいます。

 なお、上野池の端の榊原家下屋敷は、明治になると桐野利秋の屋敷となり、さらに岩崎弥太郎が入手し、明治29年に岩崎彌太郎の長男で三菱第3代社長の久彌の本邸が造られました。
 そして、現在、「旧岩崎邸庭園」となっています。




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# by wheatbaku | 2017-01-19 10:18 | Trackback
獏塾公開講座の定員増します。

獏塾公開講座の定員増やします。


2月12日(日)に開講する江戸検「獏塾」公開講座ですが、お申込みをいただく方が多く、既に定員の36名を超すお申込みがありました。


講座の詳細は下記をご覧ください。 
江戸検「獏塾」公開講座のご案内


 そこで、急遽、定員を45名まで増加することにしました。

 ご関心のある方、至急お申し込みください。

 [定員を超えるお申し込みがあったため、申込受け付けを締め切りました。多数のお申込みありがとうございました。1月17日]





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# by wheatbaku | 2017-01-16 12:21 | Trackback
雑司が谷散歩

 先週土曜日に、毎日文化センターの「駅から気ままに江戸散歩」で、雑司が谷七福神めぐりを中心に雑司ヶ谷を散歩してきました。

 今年の一番の寒波襲来ということで寒さが厳しい中、所々で暖をとりながら、楽しく散歩してきました。

 七福神めぐりを経験している人はあまり多くいませんでした。
 そのため、500円の色紙を購入した人は半数ぐらいの方だったのですが、色紙を買わなかった人も、各札所では、スタンプを押していました。

c0187004_11023180.jpg そのため、「やっぱり色紙を買ったほうがよかった」という声も聞かれました。

 右写真は、中野ビル前に鎮座する布袋様でスタンプを押している参加者の皆さんです。

 雑司が谷七福神について、すでに書いていますので、今日は、それ以外の主な案内ポイントを紹介します。

 散歩ルートは次の通りです。

【ルート】 池袋駅 ⇒ 本立寺【榊原家墓所】 ⇒ 仙行寺(福禄寿) ⇒ 中野ビル(布袋) ⇒ 法明寺 ⇒  観静院(弁財天) ⇒ 雑司が谷鬼子母神堂(大黒天) ⇒ 本納寺【井上家墓所】⇒ 大鳥神社(恵比寿) ⇒ 清立院(毘沙門天) ⇒ 菊池寛旧居跡 ⇒ 清土鬼子母神(吉祥天) ⇒ 護国寺駅

本立寺

 本立寺は、7代目住職の時以来、姫路藩榊原家の奥方たちの菩提寺となりました。

榊原家の墓所の中には、榊原政岑が身請けした通称「榊原高尾」が眠っています。

c0187004_11023613.jpg榊原政岑は、姫路藩榊原家の分家に生まれ、榊原宗家を継承しましたが、徳川吉宗が出した倹約令を無視して、吉原で派手に遊びまわり、高尾太夫を高額で身請けしました。

このため、吉宗の怒りを買い、政岑の隠居と越後高田への国替えを命じられました。

政岑は、高田に移された9か月後に31歳で亡くなりました。

高尾太夫は、政岑死亡後は江戸の上野池の端の榊原家下屋敷(現在の旧岩崎邸庭園)で菩提を弔いつつ過ごし、67歳で死亡したといいます。

法明寺

法明寺は平安時代の弘仁元年(西暦810年)に創建されたお寺で創建以来1200年がたつという古いお寺です。もとは真言宗のお寺で威光寺として創建されました。

鎌倉時代に、日蓮宗に改宗、威光山法明寺と寺号を改めました。

c0187004_11024057.jpg法明寺の山門を入るとすぐ右手に「蕣(あさがお)塚」があります。


法明寺の蕣塚は、酒井泡一作の朝顔の絵とともに「蕣やくりから龍の やさすがた 富久」と刻まれています。富久とは、雑司が谷にあった「藪そば」の主人の俳号です。

鬼子母神堂

 鬼子母神(きしもじん)とは、インドの神様で、人間の子供たちをとって食べる怖い神様でしたが、お釈迦様によって改悛し安産・子育ての神様となりました。

c0187004_11024787.jpg ここにお祀りする鬼子母神の像は清土(文京区目白台)辺りより掘りだしたもので、その後、現在地に祀られました。

 鬼子母神堂の本堂は、本殿が寛文4年(1664年)加賀藩主前田利常の娘で、広島藩主浅野光晟に嫁いだ満姫(自昌院殿英心日妙大姉)の寄進により建立され、その後 拝殿と幣殿(相の間)は元禄13年(1700)に建立されました。

 鬼子母神堂は、平成28年、国の重要文化財に指定されました。

本納寺     

慶安3年(1650)、威光山法明寺の御住職によって創建されました。

c0187004_11040090.jpgここには、浜松藩井上家の墓所があり、4代までの藩主のお墓があります。

その中に、井上正就のお墓があります。

井上正就は、2代将軍秀忠の信任が厚く遠江国横須賀藩主となり老中まで栄達しました。

しかし、老中在任中に江戸城中において,目付豊島正次に殺害されました。

これは,江戸城での最初の刃傷事件です。

原因は豊島信満が話をまとめた正就の嫡子・正利の縁組が破談とされたことを恨んだためといわれている。豊島信満もその場で自害しました。

 寒い中、散歩にご参加いただいた皆さんありがとうござました。




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# by wheatbaku | 2017-01-15 20:55 | 大江戸散歩 | Trackback
江戸検「獏塾」公開講座のご案内

江戸検「獏塾」公開講座のご案内

 江戸検合格をめざす皆さん、今年は江戸検の準備はもう始められたでしょうか?

今年のお題は「幕末・維新を駆け抜けた人々」で、「戊辰戦争」が中心テーマです。

c0187004_09130462.jpg

 

しかし、「幕末・維新」に関係するテーマは難しいという人がかなりいます。

そこで、いくらかでもお題の勉強に役立つようにと江戸検向けの公開講座を企画しました。

幕末・維新は自信がないという方、ぜひご参加ください。

また、私は、江戸検合格をめざす人たちをメンバーとした江戸検勉強グループ「獏塾」を主宰しています。

陰様で、獏塾では、昨年の江戸検で11名の方が合格しました。

 その経験から、1級合格必勝法の一端もお話します。

 この講座は、もともとは獏塾生向けに検討していたものですが、多くの方に獏塾を知っていただきたいと考え、公開講座としました。

獏塾生以外の方のご参加、大歓迎ですので、気軽にご参加ください。

 

【獏塾公開講座】

テーマ  「たった90分でわかる戊辰戦争」

開催日   2月12日(日) 午後1時45分から3時45分 

受付開始  午後1時30分

場所    新橋レンガ通りホール 貸し会議室

      港区新橋2-14-4マルイト新橋レンガ通りビル 4

      地図はこちら ⇒ 地図・アクセス

参加費   1000円(当日受付時に徴収します)

定員    36名

懇親会   講義終了後、会場近くの居酒屋で希望者により開催
      します。
(費用3千円程度)

      懇親会にもぜひご参加ください。

    

     

申し込みは、下記の「公開講座申込」をクリックしていただくと別ウィンドウが開きますので、必要事項を記入してお申し込みください。 
大勢のご参加お待ちしております。どうぞよろしくお願いします。

[定員を超えるお申し込みがあったため、受付を締め切りました。多数のお申込みありがとうございました。]

 




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# by wheatbaku | 2017-01-12 10:03 | Trackback
雑司が谷七福神(七福神めぐり)

先週、雑司が谷七福神もお参りしてきましたので、今日は、雑司が谷七福神のご案内をします。

雑司が谷七福神は、副都心線開通をきっかけに雑司ヶ谷の町おこしのために2010年『雑司が谷七福神の会』を結成したことにはじまり、2011年初詣より『七福神巡り』がスタートしました。

 

c0187004_10174437.jpg 色紙は1枚500円で、雑司が谷鬼子母神堂や雑司が谷案内処で買うことができます。

 しかし、この2ヶ所は七福神めぐりのちょうど中間点なので、ここで買うと七福神めぐりのコースとしては不便です。

 私は、池袋駅からスタートしましたので、仙行院で購入しました。ここでも少数であれば売ってくれるようです

 色紙は、それぞれの札所に設置してあるスタンプを各自が押していきます。

 御朱印のように寺社が押してくれないので簡易といえば簡易、味気ないといえば味気ない気もします。

 それでは、お参りした順にご案内していきます。

仙行寺(福禄寿)

c0187004_10101260.jpg 仙行寺は池袋駅からは5分程度ですので、七福神めぐりのスタートとしました。
 色紙はここで購入しました。
 仙行寺は、もともと江戸時代初期に創立された善行院と隣接の仙応院が明治41年に合併して仙行寺と改称したお寺だそうです。
 もとは小石川・白山にありましたが、合併と同時に池袋に移転してきました。

中野ピル(布袋尊)

c0187004_10101708.jpg 布袋様は、神社やお寺でなく、民間企業の中野ビルの前に鎮座しています。

中野家は大阪城の石材を供給していた小豆島の出身だそうです。

7代目が布袋尊を護持し、皇居の二重橋や国会議事堂等の石造建築を手掛けたそうです。

布袋尊像は戦火を被ったが.今は池袋復興のシンボルとしでお祀りされています。

観静院(弁財天)

c0187004_10102103.jpg観静院は法明寺の塔頭です。

観静院のある辺りは昔は一面の梅林で、梅林の中に天神堂があり、加藤清正が文禄~慶長の役の時御神体を守護神としたといわれています。

その後、法明寺塔頭として元禄初期に創立され、天神堂を吸収して現在に至っているそうです。

雑司ヶ谷鬼子母神(大黒天)

c0187004_10102591.jpg雑司が谷鬼子母神は、天正6年に、清土(文京区目白台)から出土した鬼子母神像を祀るため、里人たちが稲荷の杜に堂を建てたのが始まりと言われています。

現在の本殿は寛文4年(1664)に、前田利常の息女で安芸藩主浅野家に嫁した自昌院殿の寄進により建立されたもので、国の重要文化財です。

大黒天は、境内の大黒堂に祀られています。
 七福神の説明書には、大黒天は鬼子母神の夫神に当たると書かれています。

大鳥神社(恵比寿神)

c0187004_10102815.jpg大鳥神社は、正徳2年(1712年)、出雲松江藩主松平出羽守の嫡子が疱瘡にかかって際に鷺大明神により救われ、鬼子母神堂境内に勧請したのが始まりと伝えられています

慶応4年神仏分離令により、鬼子母神境内からわかれ、鷺大明神は大鳥神社と改称しました。

恵比寿様は、江戸時代に鬼子母神堂境内に鎮座していた頃、恵比寿神が合祀されていたことから、雑司が谷七福神の会が創設された際に大鳥大鳥神社に鎮座されました。

清立院(毘沙門天)

c0187004_10103261.jpg清立院は、770年前、真言宗・清龍寺として創立されました。

その後に村を疫痢から救った雲水が日蓮聖人像を寺に残したことから日蓮宗清立院と改められました。

木彫毘沙門天像は豊島区指定文化財です。


清土(せいど)出現所(清土鬼子母神)

c0187004_10103585.jpg雑司ヶ谷鬼子母神堂に祀られている鬼子母神尊像は清土(せいど)と呼ばれる地区から出土したと言い伝えられています。

清土出現所という名はこれに由来する名前です。

地元の人たちは親しみをこめて清土(せいど)鬼子母神と呼んでいるそうです。

吉祥天は鬼子母神の娘神です。



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# by wheatbaku | 2017-01-10 10:04 | 七福神めぐり | Trackback
板垣退助(東海寺に眠る人々⑧)

 年末に書いていた「東海寺に眠る人々」ですが、板垣退助について年内に書ききれませんでしたので、今日書きます。

 板垣退助のお墓は、品川神社の社殿の裏側にあると諸々の案内に書いてあります。 そして、実際に社殿(右下写真)の裏側にあります。

c0187004_11182936.jpg 神社の境内にお墓があるので不思議に思う方いると思いますが、板垣退助のお墓は、実は、東海寺の塔頭であった高源院にありました。

 その高源院が世田谷区烏山に移転した際に、板垣退助のお墓は、埋葬地に残されました。

 その後、高源院の旧境内が開発されていき、お墓の南側からのお参りする道がなくなり、品川神社の社殿の裏側からお参りするようになったようです。

 品川神社の社殿の裏側の道は整備されていて、板垣退助のお墓は、社殿そばにありますので、品川神社をお参りする際には、寄られるとよいかと思います。

板垣退助は、天保8年(1837)、土佐藩馬廻役乾栄六正成の長男として城下中島町に生まれました。馬廻役は上士となります。

 以下、絲屋寿雄著『史伝板垣退助』(清水書院刊)を参考に、板垣退助の生涯を簡略に書いておきます。

 

c0187004_11183405.jpg安政7年(1860)父がなくなり家督を相続し、文久2年(1862)には山内容堂の御側用役となります。
 このころから攘夷論を唱え始めたが、武市半平太らの急進的な土佐勤王党とは対立し、慶応元年(1865)には後藤象二郎らとともに藩庁の大監察として武市半平太らを処刑しました。

慶応3年(18675月、江戸からの帰藩の途中に京都で、中岡慎太郎の仲介で西郷隆盛と会見して薩土討幕同盟を確約し、帰藩後、参政に昇進し大隊司令も兼任し兵制改革にとりかかっています。

 慶応年正月鳥羽伏見の戦いが起きて戊辰戦争が始まると、板垣退助は大隊司令として軍夫まで含めると1045人の土佐藩兵迅衝隊(じんしょうたい)を率いて13日に高知を出発し、川之江、丸亀、高松諸藩を追討した後、28日に京都に到着しました。

そしてただちに東山道先鋒総督府参謀となり、600の藩兵を率いて出陣しました。大垣、信州下諏訪を通り、甲府では甲陽鎮撫隊を撃破し、江戸に入りました。

板垣退助は、大垣を出たのち、乾姓から先祖の姓板垣に復し、以後板垣退助と名乗りました。

板垣退助は、武田信玄の重臣であった板垣信方の子孫であるといわれており、甲州を鎮撫するには、板垣信方の子孫であることをはっきりさせたほうが得策だと考えたようです。

江戸に到着し、江戸城が無血開城された後も、宇都宮はじめ北関東の旧幕府軍を掃討した後、会津戦争の際、白河口の参謀として会津藩を追討して明治元年11月に帰藩しました。

明治2年には、家老に列し,高知藩大参事として藩政改革を推進し、明治4年新政府の参議に任ぜられたが、明治年に西郷隆盛らと征韓論に敗れて参議を辞しました。

翌年の明治8年、後藤象二郎らと愛国公党を組織して民撰議院設立建白書を政府に提出しました。その直後、一旦参議に復帰しますがすぐに辞職し、自由民権運動に乗り出しました。
 以後、板垣退助は自由民権運動に挺身することになり、明治14年自由党総理に推されました。

c0187004_11184135.jpgその翌年の明治15年4月には遊説中の岐阜で、凶変にあった。

この時、「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだといわれています。

板垣退助のお墓の脇に、この言葉を佐藤栄作元首相の字で刻んだ碑が建てられています。

 板垣退助は華族制度に批判的でした。そのため、明治20年伯爵に叙せられた際にも、再三固辞しましたが許されず、7月に叙爵することになりました。

その年8月には国会開設され、言論自由、民力休養、海軍拡張、条約改正などに関する意見書を天皇に上奏した後、高知に帰りました。

明治23年、後藤象二郎や河野広中(こうのひろなか)に説得されて上京し、明治23年9月に立憲自由党を結党し、翌年には党名を改名した自由党の総理となりました。

明治29年第2次伊藤内閣の内務大臣となり、明治31年には、最初の政党内閣である憲政党の大隈(隈板)内閣の内務大臣となりましたが、3か月後には辞職してしまいました。

 その後は、政治活動から身を引いて社会問題に専念しました。

そして、大正8年83歳で永眠しました。

板垣退助死去の報が伝わると、芝公園にあった板垣邸には弔問客がひきもきらず訪れ、時の首相原敬や大隈重信など朝野の名士が続々と詰めかけたといいます。

c0187004_11184428.jpg板垣退助は、明治40年「一代華族論」を公表して華族制度を批判していたこともありの意志が不変なことを示した。子息鉾太郎は,父の遺志を守って伯爵相続を辞退しました

 遺骸は、高源院に埋葬されました。

 戒名は「邦光院殿賢徳道圓大居士」です。



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# by wheatbaku | 2017-01-08 11:06 | 大江戸散歩 | Trackback
江戸三社に初詣

昨日4日は、午後から、私にとっての江戸三社すなわち神田明神、湯島天神、日枝神社に初詣に行ってきました。

この三社は江戸と江戸検に関係の深い神社ですので、年初に初詣するのが、私にとって恒例行事ですが、昨年は、獏塾から11名もの江戸検1級合格者がでたことから、今年はとりわけ思い入りの深い初詣です。

神田明神は江戸検当日、受検者の皆さんの合格祈願をしておいたので、神田明神に、まずお礼参りしました。

c0187004_12034012.jpgしかし、御茶ノ水から行きましたが、湯島聖堂前の交差点を曲がって驚きました。

神田明神前の道路が車は通行止めとなって、車道に参拝客がずらっーと並んでいました。

湯島聖堂側から参道を望むと、参道は参拝客でぎっしりでした。(右上写真)

こんなに初詣客が大勢いるのには驚きました。

c0187004_12034618.jpg当然のことながら拝殿前も一杯です。

例年、1月4日は仕事初めで、多くの会社関係の初詣客が多いのですが、こんなに一杯の初詣客には驚きました。

多くの初詣客に驚いた参拝客の人たちからは、「なんで神田明神は商売繁盛の神様なのから」「あっ、恵比寿様の像があるから、商売繁盛の御利益があるんだ」などというほほえましい会話が聞こえてきました。私は「これは実は大黒様なんですよね。」なんて心の中で呟きながら、順番がくるまでゆっくり待ちました。 神田明神の大黒様についてはこちらをお読みください ⇒ 神田明神のえびす・だいこく
 神田明神では、江戸検の合格御礼と今年の合格祈願をしてきました。

c0187004_12035218.jpg次に湯島天神まで歩いてお参りしました。

こちらも大勢の初詣客です。

こちらは合格祈願をする受験生と一緒の初詣客が大勢お参りしていました。

湯島天神では木札に名前を入れてもらえるサービスがあります。

私もお願いしましたが、ここでも多く人が順番待ちをしていました。
 湯島天神は有名な受検の神様ですので、ここでも江戸検の合格御礼と今年の合格祈願をしてきました。


最後は、日枝神社ですが、明るいうちに行けるものと思っていましたが、日枝神社について時には、もう夕暮れ時でした。

c0187004_12035724.jpgこちらも大勢の初詣客でした。

石段のある表門から向かいましたが、もう石段から初詣客が並んでいました。

 楼門前も当然、列ができていました。(右写真)

c0187004_12040456.jpgさらに、境内に入るまでは、混乱を避けるため、入場規制が敷かれていて、しばらく待った後、一団となって境内に入りました。

そこでもしばらく待っていましたが、入場規制が敷かれたために、逆にゆっくりお願いはできました。
 拝殿は、右上写真のようにライトアップされていました。

とにかく、今年の江戸三社の初詣は、参拝客が大勢で驚きました。

しかし、家族のことや江戸のことなど様々はお願いをすることができ、こころ良い一日となりました。




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# by wheatbaku | 2017-01-05 11:50 | 神社参拝 | Trackback
鳥羽伏見の戦い勃発(戊辰戦争)

 鳥羽伏見の戦いは、慶応4年1月3日の夕方、一発の砲声で勃発しました。

 150年前の今日、鳥羽伏見の戦いが始まったのです。

 旧幕府軍は、慶応4年1月2日に大坂城を進発しました。

老中格の大多喜藩主大河内正質(おおこうちまさただ)を総督とし、淀に本営を置き、そこで宿営しました。

翌3日、旧幕府軍は、淀からの進軍ルートは二つに分れました。

一方は、淀小橋を渡り左折して鳥羽街道を北上しました。率いるのは大目付滝川具挙でした。

一方、淀小橋から右折し淀堤を通り、伏見に向かいました。こちらは幕府陸軍奉行の竹中重固(たけなかしげかた)を指揮しました。

伏見では、伏見奉行所を本営として、会津藩兵や新撰組が集結しました。

これに対して、薩摩藩側は、御香宮を本営として、伏見奉行所を三方から包囲する体制を敷きました。

鳥羽伏見の戦いは、鳥羽街道で勃発しました。

鳥羽街道を守護する薩摩藩兵に対して、大目付の滝川具挙が「通せ」と要求しますが、薩摩藩側は「通せない」と拒否し、押し問答が続きました。

そして、ついに3日夕方には、業を旧幕府軍は、強行突破する態勢をとりました。

これに対して、薩摩藩は、砲口を開き、旧幕府軍に向け発砲し、ついに戦端が開かれました。

滝川具挙が乗馬していた馬が砲声に驚き、滝川具挙を振り落して、淀方面に逃げ去ったと言われています。

一方、伏見方面でも、鳥羽での砲声が聞こえると、薩摩藩側は、伏見奉行所に向けて一斉に砲撃を開始しました。

こうして、鳥羽伏見の戦いが始まりました。

鳥羽伏見の戦いは、戊辰戦争のきっかけとなった戦いで、重要な戦いですので、戦いの詳細は、今後、時期を改めて詳しく書こうと思います。


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# by wheatbaku | 2017-01-03 19:28 | 戊辰戦争 | Trackback
討薩の表(戊辰戦争)

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新年あけましておめでとうございます。



c0187004_08045719.jpg 今年の元旦は快晴でした。

 初日の出が、全国的に見られたようですが、私の地元、埼玉県鴻巣市でも、きれいに見ることができました。
 初日の出を拝み清々しい気持ちで新年を迎えることができました。

本年もどうぞよろしくお願いします。


今年は、明治維新150年です。そこで、今夜9時からNHKBSで「江戸城無血開城」が放映されます。

 明治維新150年は、つまり、戊辰戦争から150年目でもあります。

 そのため、今年の江戸検のお題は「戊辰戦争」です。

 戊辰戦争は、慶応4年(1868)正月3日に始まった鳥羽伏見の戦いからスタートしました。

 150年後の我々は、のんびりお正月を楽しんでいますが、150年前は、大坂城と京都御所は正月気分どころではなかったと思います。

 前年の12月25日に江戸で起きた薩摩藩邸焼討事件の興奮がそのまま持ち込まれた大坂城の旧幕府軍は強硬論が沸騰します。

 そこで、徳川慶喜は、正月元旦、上京を触れだします。

 そして、次のような薩摩を弾劾する「討薩の表」が、元旦に準備されました。

 臣慶喜、謹んで去月(慶応3年12月)9日以来の御事体を恐察たてまつり僕えば、一々朝廷の御真意にこれなく、全く松平修理大夫(島津茂久)奸臣ども陰謀より出で候は、天下の共に知るところ、殊に江戸・長崎・野州・相州処々乱妨及び劫盗侯儀も、全く同家家来の唱道により、東西響応し、皇国を乱り侯所業別紙の通りにて、天人共に憎むところに御座侯あいだ、前文の奸臣どもお引渡し下されたく、万一御採用相成らず候わば、止むを得ず洙戮を加え申すべく候。

 内容は「12月9日の王政復古の大号令以来の薩摩藩の振舞いは、朝廷の真意とは考えられず、島津家の奸臣どもの陰謀だということは天下の知るところである。特に浪人どもを集め江戸で押込み強盗を働くことも島津家の家来が引き起こしたもので、天も人も共に憎むところであるから奸臣の引渡しを要求する。万一朝廷からその御沙汰かなかったらやむ得ず洙戮を加える」というものです。

 別紙には具体的な罪状を列挙していました。
 徳川慶喜は「君側の奸を除く」とい
う名目で薩摩藩と戦う意思を表明したのです。
 慶応4年の元旦は、大阪城では、お屠蘇気分など一切なくて、薩摩との戦争に城内が高揚していたのではないでしょうか。
 そして、2日には1万5千人の旧幕府軍が京をめざして行動を開始します。


 




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# by wheatbaku | 2017-01-01 08:07 | Trackback
中津藩奥平家墓所(東海寺に眠る人々⑦)

 今日は、清光院にある奥平家墓所をご案内します。

c0187004_18220758.jpg 清光院は、目黒川を挟んで、東海寺の南側にあります。

清光院も江戸時代には東海寺の塔頭でした。

 江戸時代の初期には本坊の東側にありましたが、後に現在地に移転しました。

 明治になって独立しました。

c0187004_18221353.jpg 奥平家墓所は、清光院の墓域の最奥部にあります。

 奥平家墓所には、中津藩奥平家の初代から明治以降までの歴代当主のお墓がそろっていて、これだけの大名墓がそろっているのは東京では珍しいです。

 品川区の史跡に指定されていますが当然のことと思います。

 

奥平家は、徳川譜代の名門大名です。

中津藩奥平家の初代は奥平家昌は、奥平信昌の長男として生まれました。

父奥平信昌は、天下無敵の武田の騎馬軍団を織田信長が鉄炮で打破った長篠の戦いで武功をあげて奥平家隆盛の基礎を築きました。

 長篠の戦いは武田勝頼が三河に攻め入って、長篠城を包囲している中で起きた戦いです。

 武田勝頼は1万5千の軍勢で500人が守る長篠城を攻めました。

長篠城は、孤立した中で徳川家康に助けを求め、この要請に応じて織田信長と徳川家康の連合軍が救出に向かい、3千の鉄炮で武田騎馬軍団を打ち破りました。

 この時に長篠城を死守したのが奥平貞昌でした。

 この功績から織田信長から信の一字を拝領し奥平信昌と名のるようになり、徳川家康の長女亀姫が正室として娶りました。

c0187004_18222133.jpg 中津藩奥平家は、この奥平信昌の子供家昌から始まる家柄であるため、譜代名門と言われました。


 その家昌のお墓は最前列の東側にあり大きなお墓でなのでよ目立ちます。

奥平家昌は、信昌と徳川家康の長女亀姫(加納御前)との間に生まれた長男です。

元服の時、家康から偏諱を受けて家昌と名乗りました。

長じて、父の奥平信昌とは別家をたて、宇都宮藩10万石を賜りました。

奥平家昌の戒名は『六通院殿天眼道高大禅定門』です。

奥平家の墓所には数多くの墓碑がありますが、そのうち奥平昌鹿(まさか)と奥平昌高を紹介します。

c0187004_18222645.jpg奥平家が中津に入ったのは江戸時代中期の享保年間(享保2年)でした。それ以降から幕末まで、九州の中津藩の藩主でした。

この中津藩出身の有名人の一人に前野良沢がいます。

前野良沢は、「解体新書」を出版したことで有名です。

歴史の教科書では、「解体新書」は杉田玄白が出版したとなっていますが、杉田玄白は、オランダ語がよくわからず、実際に翻訳したのは前野良沢だと言われています。

この前野良沢保護し支援したのが、中津藩3代藩主奥平昌鹿(まさか)です。

c0187004_18290628.jpg前野良沢は、中津藩の藩医でしたが、蘭学に興味をもち、蘭学を学び始めます。

良沢が長崎遊学を願い出ると昌鹿は快く許可しました。

また、良沢が「ブラクテーキ」という高価な医書を入手したいが貧乏であるため入手できないでいると、昌鹿は、それを購入して下賜しました。

また、前野良沢は、「蘭化」という号を持っています。これは「オランダ語の化けけ物」という意味ですが、これをつけたのも、昌鹿が良沢を「オランダ語の化け物」と言っていたことによるものです。

これらのエピソードは、吉村昭著「冬の鷹」にも描かれています。

3代藩主の昌鹿を上回るほど、オランダに傾倒した藩主が5代藩主の奥平昌高です。

c0187004_18223059.jpg「蘭癖大名」の一人として知られています。

奥平昌高は薩摩藩主の島津重豪の次男として薩摩藩江戸藩邸で生まれました。

島津重豪は大変な蘭学好きでした。

実父も蘭学好き、養家先も蘭学好きですので、昌高も蘭学に非常に興味をもちました。

中津藩江戸中屋敷に総ガラス張りの「オランダ屋敷」と呼ばれる建物を造り、そこに出島に舶来したオランダ製品を陳列したりしたといいます。

また、オランダ語を勉強し、オランダ商館長と親交を結ぶようになり、商館長ヘンドリック・ズーフからフレデリック・ヘンドリックというオランダ名までもらっています。

また、オランダ商館付医師シーボルトとの交流は深くて、シーボルトの「江戸参府紀行」に出てくる人物で最も多いのは、奥平昌高の名前だそうです。


今日で2016年のブログの投稿納めとさせていただきます。
この一年、ブログを愛読頂きありがとうございました。良いお年をお迎えください。

 


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# by wheatbaku | 2016-12-30 18:12 | 大江戸散歩 | Trackback
  

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