伏見の戦い(鳥羽伏見の戦い② 『幕末』)

伏見の戦い(鳥羽伏見の戦い②)
 

 今日は、鳥羽伏見の戦いの2回目ですが、伏見での戦いについて書きます。

 淀を本営とした旧幕府軍は、正月3日、鳥羽街道と伏見街道とに分かれて入京しようとしました。

 京坂淀駅を降りて、線路に沿って南に行くと淀城が見えてきます。

線路を背にして西に向かうと納所交差点があります。

この交差点近くに淀小橋跡の石柱があります。(下写真)c0187004_19361999.jpg

江戸時代の淀城は、淀川の中洲に築かれた城です。そのため、淀城には、北側に淀小橋が架けられていました。ちなみに南にある橋が淀大橋でした。

 淀小橋を淀城側から渡り、真っ直ぐ進むと鳥羽街道です。淀小橋を渡って右折し北上すると伏見にいきます。


 旧幕府軍は、会津藩を先鋒として、伏見に向かいました。
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 旧幕府軍の拠点は、伏見奉行所でした。ここには、土方歳三が指揮する新選組も駐屯していました。

 伏見奉行所は、北側には道路を隔てて御香宮があり、南は堀川の水路を経て宇治川に接しています。

正面は西側にあり、北向きに大きな門が、東側に裏門がついていたようです。


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 現在は、京都市営桃陵(とうりょう) 団地となっていて、面影はまったく残っていません。
 団地入り口に石柱が立てられているだけです。
 しかし、西南角の石垣をみると江戸時代の奉行所の名残りかなという印象をもちました。



 旧幕府軍に対して、新政府軍は御香宮を拠点としていました。

御香宮は、平安時代に、この境内から「香」の良い水が湧き出たので、清和天皇よりその奇瑞によって「御香宮」の名を賜ったという歴史をもつ古い神社ですが、伏見奉行所とは、わずかな門前町を挟んで北側にありました。

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 右写真は、御香宮神社の山門です。

新政府軍は薩摩藩兵を主力として、南の伏見奉行所に向けて砲列を並べていました。
こう書いておくと、非常に平面的ですが、実際に現地を訪ねてみると、御香宮のほうが高くなっているのがわかります。

 この高低差は、薩摩藩側からは、駆け降りることになり、大砲を撃ちおろすことになりますから実戦の際に、薩摩藩側に有利に働いたと思います。

 

 旧幕府軍は指揮者は竹中重固(しげかた)です。竹中のご先祖は、かの有名な竹中半兵衛でした。この時、竹中重固は陸軍奉行でした。

 新政府軍は、伏見街道に急増の竹矢来の軍門を敷いて、旧幕府軍の進軍を妨げていました。

 これに対して、旧幕府軍は、嘆願のため京に向かっているので、通してほしいと要求しましたが、新政府軍は、朝廷の許可がないということで、通過されませんでした。

 新政府軍はのらりくらりの対応に業をにやしていた時、鳥羽方面から砲声が聞こえてきました。「鳥羽の一発の砲声」です。

 これをきっかけに、旧幕府軍は、奉行所の門を開いて押し出します。これに対して、薩摩藩の大砲と鉄砲が一気に火を放ちます。

 銃火器で劣る旧幕府軍は、劣勢を強いられます。

 新選組の隊士たちも剣技を発揮できずに押し戻されてしまいます。

 激しい砲撃と銃撃が続くなかで、銃をもたない新選組は、その実力を発揮できませんでした。

 そうした中、土方歳三の決断で、永倉新八に斬りこみを命じます。

永倉新八以下の新選組が、奉行所の塀を乗り越えて、薩摩側に攻撃しますが、銃撃にあい、奉行所内に引き返さざるをえませんでした。

 

 会津藩は、伏見の東本願寺にも陣を構えました。

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 右写真は、現在の東本願寺です。
 こちらに対峙した新政府軍は長州藩でした。
 会津藩軍勢は、佐川官兵衛が率いました。勇猛な佐川官兵衛が会津藩別選隊を率いて突撃しますが、こちらでも長州藩の銃火の前に死傷者を重ねるばかりでした。

 伏見での戦いは午後5時ごろに始まりましたが、夜半になり、薩摩藩の砲撃が、奉行所の弾薬庫に命中し、大爆発を起します。


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 こうして各所から火の手があがった伏見奉行所に新政府軍が突撃し、ついに真夜中には、旧幕府軍は、伏見奉行所を放棄して、淀方面に撤退していきました。
 

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 鳥羽伏見の戦いの際に残されて弾痕が、伏見の有名料亭「魚三楼(うおさぶろう)」の玄関脇の格子に残されています。

 右上写真が、魚三楼(うおさぶろう)」全体の写真で、右写真が弾痕です。
 はっきり残っていてびっくりしました。





 


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# by wheatbaku | 2017-05-17 19:30 | 『幕末』 | Trackback
テレビ番組「旅ずきんちゃん」の紹介

テレビ番組「旅ずきんちゃん」の紹介

今日は、私が番組作成に協力させていただいたテレビ番組を紹介します。

毎週日曜日の夜11時30分からTBS系列で全国放送されている『旅ずきんちゃん』という番組があります。

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女性タレントが様々な企画の旅をするというバラエティ番組ですが、番組では、一人の男性タレントが「ハカセ」が作成したしおりをもとに三人の女性タレントを案内します。

今度の日曜日5月21日の「浅草寺の秘密に迫る旅」では、私が「浅草寺ハカセ」としてしおりを作らせていただきました。

日頃、見慣れている雷門や本堂の隠れた秘密はもちろんですが、そのほかの浅草寺の隠れた見所や秘密をご案内します。

実際のご案内は、東貴博さんで、東さんが浜口京子さん(女子レスリング選手)、中村静香さん(女優)、みちょぱさん(モデル)の御三人をご案内していただいています。

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 私は、時々、静止画像でディープ(?)な解説を「ハカセ」としてやらせていただけると思います。(多分)

東さんは、江戸文化歴史検定2級を持っている浅草育ちですので、東さんの説明は楽しめると思います。

今度の日曜日(5/21)の深夜11時30分です。ぜひご覧ください。

下記公式ホームページには予告動画も配信されていますのでご覧ください。
  ⇒ 
『旅ずきんちゃん』

また、この番組でご案内した見どころを散歩する『知っているようで知らない浅草寺ご案内』も、毎日文化センター主催で予定しています。

よろしかったらご参加ください。

お申し込みは下記からどうぞ 
 ⇒ 
『知っているようで知らない浅草寺ご案内』




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# by wheatbaku | 2017-05-15 10:33 | Trackback
小枝橋(鳥羽伏見の戦い① 『幕末』)

小枝橋(鳥羽伏見の戦い①)

 今日は、鳥羽伏見の戦いについて書きますが、戦いが勃発した小枝橋の戦いを中心に書いていきます。


 慶応3年12月25日に起きた江戸の薩摩藩邸焼討事件の報は、軍艦に乗って上坂してきた大目付滝川具挙によってもたらされました。


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その報告を聞いた大坂城内の旧幕府軍は強硬論が沸騰します。

 ここが、歴史の転換点でした。
 いままで公議政体派が進めていたように軽装で上洛し議定に任命されるのを待つ平和雄路線か、それとも大勢の軍勢をもって上京するかの決断が徳川慶喜は求められました。

 徳川慶喜は、強硬論に押され、ついに、正月元旦、多くの軍勢による上京を触れだします。

 そして、次のような薩摩を弾劾する「討薩の表」が、元旦に準備されました。

 臣慶喜、謹んで去月(慶応3年12月)9日以来の御事体を恐察たてまつり僕えば、一々朝廷の御真意にこれなく、全く松平修理大夫(島津茂久)奸臣ども陰謀より出で候は、天下の共に知るところ、殊に江戸・長崎・野州・相州処々乱妨及び劫盗侯儀も、全く同家家来の唱道により、東西響応し、皇国を乱り侯所業別紙の通りにて、天人共に憎むところに御座侯あいだ、前文の奸臣どもお引渡し下されたく、万一御採用相成らず候わば、止むを得ず洙戮を加え申すべく候。

 内容は「12月9日の王政復古の大号令以来の薩摩藩の振舞いは、朝廷の真意とは考えられず、島津家の奸臣どもの陰謀だということは天下の知るところである。特に浪人どもを集め江戸で押込み強盗を働くことも島津家の家来が引き起こしたもので、天も人も共に憎むところであるから奸臣の引渡しを要求する。万一朝廷からその御沙汰かなかったらやむ得ず洙戮を加える」というものですで、別紙には具体的な罪状を列挙していました。

 徳川慶喜は「君側の奸を除く」という名目で薩摩藩と戦う意思を表明したのです。

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 そして、2日には1万5千人の旧幕府軍が京をめざして行動を開始します。

老中格の大多喜藩主大河内正質(おおこうちまさただ)を総督とし、淀に本営を置き、そこで宿営しました。

翌3日、旧幕府軍は、淀からの進軍ルートは二つに分れました。

一方は、淀小橋を渡り左折して鳥羽街道を北上しました。率いるのは大目付滝川具挙でした。もう一方は、伏見に向かいました。

鳥羽伏見の戦いは、鳥羽街道の小枝橋で勃発しました。

小枝橋は、鳥羽街道が、鴨川を越えるための橋ですが、現在の小枝橋は、江戸時代の小枝橋より少し北側に移動しています。(右2段目の写真)

江戸時代に小枝橋が架かっていたたもと近くに「鳥羽伏見の戦い 勃発の地」の石碑と説明板が設置されています。(最上段の写真)


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 薩摩藩を主力とする新政府軍は、小枝橋の東側に主力が布陣します。

江戸時代の小枝橋の300mほど東側に城南宮(右写真)がありますが、城南宮の説明板には、城南宮が本営となり、参道に大砲が布陣されたと書いてあります。

鳥羽街道を守護する薩摩藩兵に対して、大目付の滝川具挙が「通せ」と要求しますが、薩摩藩側は「通せない」と拒否し、押し問答が続きました。

薩摩藩側は、「朝廷に問い合わせている」と答えたようですが、もともと通すつもりがありませんので、らちがいきません。


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 しびれをきらした旧幕府軍は、ついに3日夕方には、強行突破する態勢をとりました。

これに対して、薩摩藩は、砲口を開き、旧幕府軍に向け発砲し、ついに戦端が開かれました。

 大目付滝川具挙が乗っていた馬が大砲に驚き、鳥羽街道を淀に向かった走りさっていきました。

 大目付が逃げ去るようではいかがなものなんでしょうね。

 右上写真は、勃発の地の碑がある場所から南の鳥羽街道を写した写真です。

道幅は昔をあまり変わってないのだろうと思います。

 この鳥羽街道を旧幕府軍は、2列縦隊で進んでいました。


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 この軍勢を横から攻撃できるように薩摩藩側は、鳥羽街道脇の田畑の中に竹の茂った岡にも大砲を構えていました。

 勃発の地の碑の近くに「鳥羽離宮跡公園」がありますが、その公園の中の秋の山という小高い岡の上に「鳥羽伏見戦跡碑」の石碑がたっています。(右写真)
 この場所に大砲も敷かれていたのではないかと思われます。




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   真横から大砲を撃ちだされては、旧幕府軍もひとたまりもなかったと思います。

岡の麓にはライオンズクラブの立てた「鳥羽伏見の戦い勃発の地 小枝橋」の碑(右写真)がありました。

 こうして、旧幕府軍は敗北することになりますが、 鳥羽での砲声が鳴り響いたのを聞いた西郷隆盛は「鳥羽一発の砲声は、百万の味方を得たるより嬉しかりけり」と喜んだとと言います。




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# by wheatbaku | 2017-05-13 11:53 | 『幕末』 | Trackback
公議政体派の巻き返し(『幕末』)

公議政体派の巻き返し(『幕末』) 


 今日は、王政復古の大号令が発せられた以降の公議政体派の巻き返しについて書いていきます。

 12月9日の王政復古の大号令つまり討幕派の宮中クーデターが成功したからといって、岩倉具視や大久保利通ら討幕派の思惑どおりに進んだわけではありません。

 当然、旧幕府側には、大いなる不満がありました。

 たびたび引用している『京都守護職始末』によれば、「会津藩士や桑名藩士らも旗下(はたもと)連と和同して、おのおの切歯扼腕し、機会を待ち構えている有様であった」と書いています。

 こうした状況を危惧して、12月12日に、徳川慶勝、松平春嶽が二条城にやってきて、速やかに旗下連や会津・桑名勢を大坂城にうつし、禍を未然に防ぐことを勧めたので、徳川慶喜も、これに同意して、大坂城に移りました。

 一方、公卿側ですが、クーデターの中心人物の岩倉具視は、孤立し始めていました。

 そもそも岩倉具視以外の公卿の議定・参与たとえば中山忠能などは、小御所会議の決定に心から納得していたわけではなかったようです。

 また、山内容堂、徳川慶勝、松平春嶽たちは、武力倒幕には断固反対で、徳川慶喜擁護の工作を進めていました。

こうした状況下で、公卿の間でも諸藩の間でも、岩倉や大久保・西郷らの孤立が深まり、岩倉具視も動揺し始め、13日には大久保利通に次の二つの策を示して意見を聞きました。

①土佐と芸州の動向如何にかかわらず、薩長の兵をもって天皇を守り、勅命に従わない  者を討伐し、勝敗を天に任せるか。

②徳川慶勝・松平春嶽のあっせんによって、徳川慶喜がもし辞官・納地を受諾すれば、これを議定に補し、他の公武合体派の公卿・諸侯もまた議定・参与に登用し、既往をとがめず、「氷炭相容レ正邪相合シテ皇国ヲ維持」するか。

 大久保利通は西郷隆盛らと相談し、当分は尾張・越前のあっせんのなりゆきを見て、それが成功しないなら断然第一策にでようと答えたといいます。

 16日には、徳川慶喜は、イギリス・フランス・アメリカ・オランダ・プロシア・イタリア6か国の公使を引見しました。

これは、外交権が徳川家にあることを承認させることが目的でしたが、その席で各国は徳川家の正統性を承認しました。

 こうした外交面での勝利は、朝廷に対する重要な勝利でした。

 18日になると、山内容堂と松平春嶽は、徳川慶喜に、軽装で上洛し、辞官・納地の願を出すように勧めます。

 これに対して、21日に徳川慶喜は、軽装上洛はよいが、辞官・納地は部下の反対をおさえられないから朝廷から呼ばれたかたちにして欲しいと要望します。

これについて松平春嶽・山内容堂は、徳川慶喜の希望を了承し、23日の三職会議でもそれを認めさせました。

 また、辞官・納地についても、松平春嶽や山内容堂の尽力により、徳川家も他の諸藩と同列に、政府経費を献上することに決定しました。

徳川慶喜は、このことを喜び、老中たちと相談のうえ、上洛することを決定し、28日に朝廷への請け書をだました。

これにより、慶喜が上京参内して辞官の命令を受諾することを正式に回答し、そして、「朝廷経費を石高に応じて全国諸藩に割り当てて欲しい、そうすれば徳川慶喜もよろこんでその割当て額をさしだしたい」と願い出て、朝廷はその願いをいれるとともに、慶喜を議定に任命するということになるはずでした。

そうすれば、朝幕間の全面的な和解が成立し、山内容堂たちが主張する公議政体の名のもとに、天皇を名目的な最高君主とし、その下で慶喜が実権をにぎる体制ができるはずでした。

 しかし、歴史はそうなりませんでした。

 江戸で、薩摩藩邸の焼討事件がおきたのです。

 この報告が28日大坂城に届くと、大阪城内は強硬論で沸騰します。

 それに押されて、ついに徳川慶喜も大軍を京都に送り出すことを了承することになりました。

 これにより、鳥羽伏見の戦いが始まることになります。
 鳥羽伏見の戦いは次回書きます。



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# by wheatbaku | 2017-05-10 21:13 | 『幕末』 | Trackback
王政復古の大号令と小御所会議(『幕末』)

今日からは、京都に残る鳥羽伏見の戦いの史跡を訪ねていきますが、今日は、鳥羽伏見の戦いの前段階ともいうべき王政復古の大号令について書いていきます。

王政復古の大号令は、慶応3年12月9日に発せられました。

これは討幕派の仕かけた宮廷内クーデターです。

これを考えたのは岩倉具視と大久保利通、さらに西郷隆盛だと言われています。

大久保らは当初、12月8日に決行する予定でした。しかし事前に計画を打ち明けていた土佐の後藤象二郎から山内容堂が上京中なので、10日に延期してほしいと要請され、やむなく1日延期して9日に決行することとしました。

その前夜、岩倉具視は自邸に薩摩・土佐・安芸・尾張・越前5藩の重臣を招いて、王政復古の断行を告げて協力を求めました。

こうして五藩兵は御所各門の警備にあたりました。

 12月8日夕方から開催された朝議は、夜を徹して翌朝にかけて行われ、長州藩主毛利敬親・定広父子の官位を元に戻し入京を許可すること、岩倉具視や前関白九条尚忠らの蟄居を解くことと還俗が命じられ、九州にある三条実美ら五卿の官位の復位と入京を許すことなどが決められました。

 こうして8日から夜を徹して行われた朝議が終わった後、薩摩藩兵3千人はじめ諸藩が御所の各門を固めました。そして、参内を許された者以外の参内が禁止されました。二条摂政や中川宮は参内禁止されました。

 そうした中、赦免されたばかりの岩倉具視が参内して王政復古の断行を上奏しました。

 その後、王政復古の大号令が発せられました。

 その内容は次のとおりです。

1、将軍職辞職を勅許。

2、摂政・関白の廃止。

3、幕府の廃止。

4、総裁・議定・参与の新設。

5、京都守護職・京都所司代の廃止。

任命された人々は次の人々です。

総裁:有栖川宮熾仁親王

議定:公卿から仁和寺宮嘉彰親王・山階宮晃親王・中山忠能・正親町三条実愛・中御門経之、大名から松平春嶽・徳川慶勝・浅野茂勲・山内容堂・島津忠義

参与:公卿から岩倉具視・大原重徳・万里小路博房・長谷信篤・橋本実梁、

武家からは、薩摩藩の西郷隆盛・大久保利通ら3名、土佐藩の後藤象二郎・福岡孝弟ら3名、さらに越前藩と尾張藩と芸州藩の藩士3名

 王政復古の大号令が出された場所ですが。中公文庫『開国・攘夷』(小西四郎著)、中公新書『幕末史』(佐々木克著)、岩波新書『西郷隆盛』(猪飼隆明著)では、「小御所」と書かれています。
 しかし、中公文庫『明治維新』(井上清著)では、「学問所」と書かれています。
 京都御所では、王政復古の大号令は、「学問所(がくもんじょ)」で発せられたとしています。

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「学問所」は、京都御所で小御所の北側にあります。(右写真参照) 

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「学問所」の前にある説明板(右下写真)では、ここで王政復古の大号令が発せられたと次のように書かれています。

 慶長18年に清涼殿から独立した御殿で、御読書始や和歌の会などの学芸のほか、対面にも用いられた。慶応3年、ここで明治天皇が親王・諸臣を引見され勅諭を下して王政復古の大号令を発せられた。上段・中断・下段を含む6室からなる総疂式の建物である。

 


王政復古の大号令が発せられた129日の午後6時頃から、小御所で新政府最初の会議である三職会議が開かれました。

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 小御所会議が開かれた当時の小御所は、昭和29年鴨川の花火によって焼失してしまい。昭和33年に再建されたものです。
 小御所は、江戸時代は武家との対面や儀式の場と使用された建物です。
 内部は、上段・中段・下段の3室があり、そのまわりに広い板敷(廂)がついていました。

 小御所会議の様子については、中公文庫『明治維新』(井上清著)に詳しく書かれています


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 小御所は、上段・中段・下段の3室に分かれていて、上段の間には明治天皇がすわり、中段の間の東最上位に有栖川宮親王が座り、以下に議定と参予の公卿たちが座り、中段の間の西側に5人の義定の大名が座りました。

さらに下段には薩摩藩の大久保利通・岩下方平、土佐藩の後藤象二郎ら参予に任命される予定の五藩の藩士たちが座りました。なお、この会議には西郷隆盛は参加していませんでした。

 この会議の場で、山内容堂は、徳川慶喜の出席が許されていないことを非難しました。山内容堂は少し酒気を帯びていたと書いてあるものもあります。

これに対し岩倉具視が反論し激論が交わされました。

この議論の最中、山内容堂が「二、三の公卿が幼沖なる天子を擁して権力を私するものではないか」と発言し、すかさず、岩倉具視が「今日のことはすべて天皇の意思から出ていることで、幼い天子とは不敬であろう」と失言を責めたといわれています。

この会議での議題は徳川慶喜の辞官納地でした。

辞官納地とは、徳川慶喜が内大臣を辞任し徳川家の400万石の領地を朝廷に返納することです。

山内容堂や松平春嶽は、辞官納地に強く反対し、両者譲らず、大激論が続いたため、遂に中山忠能が休憩を宣言しました。

この休憩中に、薩摩藩の岩下方平は、会議に参加していなかった西郷隆盛に相談しました。

すると、西郷隆盛は、「短刀一本あれば片がつくことではないか、このことを岩倉具視と大久保利通に伝えてくれ」といいました。これは「いざとなれば、山内容堂を刺せ!」という意味でした。

その旨、岩倉具視に伝えると、岩倉具視は、まだ山内容堂が反対するのであれば刺し殺す覚悟を固めます。

この岩倉の覚悟は芸州の浅野茂勲を介して土佐藩の後藤象二郎に伝えられ、さらに山内容堂にまで伝えられました。

再開された会議では山内容堂は反対論を控えたため反対する者がなく、徳川慶喜に辞官納地を命じることが決定されました。

翌10日、徳川慶勝と松平春嶽が二条城に向かい、小御所会議の決定を徳川慶喜に伝えました。

徳川慶喜は、決定をすべて承諾しましたが、二条城内の旗本や会津藩の強硬派は激昂して全員が今にも討って出そうな勢いでした。

このままでは、戦闘が開始されることを危惧した徳川慶喜は。12日に旧幕府軍を引き連れて大坂城に下りました。



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# by wheatbaku | 2017-05-08 14:10 | 『幕末』 | Trackback
蛤御門の旧名を知っていますか?(『幕末』)

 禁門の変での激戦地は蛤御門です。
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 そのため禁門の変は蛤御門の変とも呼ばれます。

 この蛤御門は、江戸時代初期には、蛤御門とは呼ばれていませんでした。

 京都御苑の蛤御門を訪ねてみると、蛤御門の近くに説明板が立っていて次のように書かれています。

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 「この門は新在家門といわれていましたが、江戸時代の大火で、それまで閉ざされていた門が初めて開かれたため、『焼けて口開く蛤にたとえて、蛤御門と呼ばれるようになったと言われています』

 つまり、蛤御門は、もともとは『新在家門』と呼ばれていました。

 それでは、新在家とは何かと調べました。新在家とは、本来は一般名称のようです。つまり、古くからある集落に対して、新しくできた集落をさす言葉のようです。

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 しかし、ここでは、地名と思われますので、新在家という地名があるか調べました。しかし、蛤御門周辺にありませんでした。そこで、京都市歴史資料館に問い合わせました。そ資料館の答では、新在家とは、蛤御門周辺にあった地名で、現在は地名としては残っていないとのことでした。

 つまり、蛤御門の旧名「新在家門」とは新在家にある門という名前だったようです。

 新在家という地名が京都御所の蛤御門周辺の地名だということがわかったうえで、『京都守護職始末』を読んでみると、蛤御門での戦いで、長州藩がどのように攻めたのかがよくわかります。『京都守護職始末』では、次のように書いてあります。

「さて、嵯峨兵の一部の児玉、来島の率いる賊兵は、烏丸通蛤門と下立売門との問に集合して、公卿の八条邸の南の塀柵を破って乱入し、新在家を北にのぼり、わが蛤門の守備の兵に砲撃を加えた。わが隊長一瀬伝五郎らは士卒を督して、これと戦った。」

ここの部分を下記の内裏図を見ながら説明します。

 図の中央にあるのが蛤御門です。右端近くに「八条殿」と書かれた屋敷があります。これが上記の八条邸ですが、その右側に道路があります。この道路には、多少の柵が設けられていたと思われますが、その柵を乗り越えた来島又兵衛の一隊が御所内に入りこみ。八条邸の前を通って蛤御門に向かいました。

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 このように長州藩兵は南から攻めてきたため、会津藩の大砲が西に向かっていたので、大慌てで、会津藩の大砲は、急遽南に向けられて、長州藩兵を砲撃した様子が『京都守護職始末』に次のように書かれています。

 はじめ、わが衛兵たちは、敵が門外から来るものと予想して、大砲二門を門の外に引き出し、烏丸通を東に向って蛤門を攻める敵を待ってぃたが、賊兵が新在家から攻めてきたので、いそいで大砲を門内に引き入れ、南に向って砲撃を開始した。

賊兵は、遂に敵することができないで公卿の石山邸に入っで、そこからわが兵を砲撃した(石山邸には、前夜から賊兵か潜伏していたということである)。わが兵はこれと戦って、死傷者が数多く出た。来島らは、必死に兵を鼓舞して奮励せしめたが、勢いが振るわない。そのうち、桑名の兵士もわが軍に加わって、共に進み、遂に来島を仆(たお)した。賊衆は瓦解して敗走した。

長州藩兵は、石山邸(上の地図で、八条邸の左に石山殿とある屋敷)に入り込み、反撃を試みました。しかし、会津藩には、桑名藩の応援も加わり、ついに来島又兵衛は倒れされて、長州藩兵は、敗退することになります。

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来島又兵衛が亡くなった場所の目印として、「清水谷家の椋」(右写真)が残されています。

その根元にある説明板には、次のように書かれています。(右下写真)

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この大きなムクの木は、このあたりが清水谷家という公家の邸であったことから「清水谷家の椋」と呼ばれています。樹齢約300年といわれ。苑内でも数少ないムクの大木です。元治元年の禁門の変の時、長州藩士で遊撃隊総督だった来島又兵衛がこの付近で討死したとも伝えられています。

上の御所の地図を見ると蛤御門の右上に「清水谷殿」と書かれた屋敷があります。

来島又兵衛は、この清水谷家の近くで銃撃され倒れたようですね。

最後の蛤御門の話題を二つ書いておきます。

上の地図に書かれている蛤御門の絵をよく見てください。

蛤御門が左を向いています。左は南側です。現在の蛤御門は西を向いていますが、江戸時代には南を向いていたことがわかります。

それと、蛤御門が門を開いた火事ですが、諸説あるようですが、宝永の大火の際に門を開けたという説が有力です。

蛤御門が開けられたのは天明の大火だというふうに書いてあるものもありますが、天明の大火以前に、蛤御門と書かれた史料もあるので、天明の大火以前から蛤御門と呼ばれていたと考えるのが至当というのが京都市立歴史資料館の説明でした。


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# by wheatbaku | 2017-05-04 15:30 | 『幕末』 | Trackback
禁門の変③(『幕末』)

 

 禁門の変で最も活躍したのは会津藩です。

 しかし、前回までは、会津藩にはあまり触れていませんでした。そこで、今日は、『京都守護職始末』に基づき、会津藩の動きを追ってみます。

 『京都守護職始末』は詳しく書かれていますが、ここでは要約して書いていきます。

 

 長州の福原越後たちが6月24日に伏見藩邸に入ったことから、会津藩は九条河原に軍を敷きました。
 当時、松平容保は病床にありましたが、6月27日、兵を率いて病気を押して参内します。孝明天皇は大変喜んで、天皇の近くで守護するようにとの詔があって、御所近くの凝華洞(ぎょうかどう)を兵営とするようにとお言葉がありました。

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凝華洞は、江戸時代に後西天皇が退位後の仙洞御所とした場所と伝えられています。元仙洞御所であった場所を仮の宿舎としたのですから、孝明天皇は病気の松平容保を気づかうとともに大変信頼していたことということだと思います。

現在、京都御苑には、凝華洞があった場所が小高い丘となっており、そこに凝華洞跡を示す標柱と説明板が建てられています。
 下写真の右の大きな松が目印です。松の根本付近に右上の説明板があります。しかし、どれだけの人が気が付くことでしょうか。

下写真の左手奥に写っているのが、京都御所の建礼門です。

 

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月6日、禁裏守衛総督の一橋慶喜は諸藩の人々を集めて対応を協議したものの、一橋慶喜の態度もはっきりせす、断固追討すべしと主張したのは、会津藩と桑名藩だけという状況でした。

しかし、7月11日になり、薩摩藩兵数百人、京都に到着したのを受けて、西郷隆盛は、諸藩の重臣を集めて、「諸藩が長州に対して寛大な処分に賛成するのであれば、わが薩摩藩はたとえ一藩であっても、長州にあたる」と意気軒高に述べたので、諸藩も長州追討に同意しました。

こうした状況でも一橋慶喜は長州藩京都留守居役乃実織江に撤兵するよう諭しました。7月18日のことでした。

しかし、長州藩は、君側の奸松平容保を討つとの文書を提出してきました。

当時、京都に駐留していた会津藩の軍勢は1500人ほどでした。その半分を伏見の長州勢に備えて、竹田街道の九条河原に配置しました。

残りの軍勢の半分で蛤御門を守らせました。

蛤御門を守っていた会津藩は、長州藩が蛤御門の外から攻撃してくるものと考え大砲を門外に出して備えていました。しかし、長州勢は、蛤御門の南にある公卿の邸の塀を乗り越え、北側に向かって攻めてきました。

そこで、会津藩は急遽大砲を南に向けて砲撃を開始しました。

長州勢からの砲撃も激しく多くの死傷者がでました。

しかし、桑名藩も加わり攻撃したため、来島又兵衛を倒された長州勢は瓦解し敗走しました。
 実は、この蛤御門での戦いに薩摩藩から応援があったことは『京都守護職始末』にはふれられていません。

 長州藩の久坂玄瑞たちが鷹司邸を固守していました。そこで、会津藩が凝華洞に持っていた15ドエム砲で鷹司邸の塀を打ち崩し、鷹司邸へ攻め込みました。
 ここで、久坂玄瑞、寺島忠三郎は、自刃したが、邸内にいた真木和泉は負傷しながらも残兵を率いて逃れ出ました。






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# by wheatbaku | 2017-05-01 20:40 | 『幕末』 | Trackback
第3回「幕末・維新 これは覚えてね!」模試正解

第3回「幕末・維新 これは覚えてね!」模試正解


 今日は、第3回「幕末・維新 これは覚えてね!」模擬試験の正解をアップします。

 今回10問だと思っていましたら、第5問が重複しているとメールでご指摘をうけました。どれかカットしようとも思いましたが、カットすべき問題もなかったので、11問のままにしておきました。

1、①天狗党 

 天狗党の乱は、水戸藩の尊王攘夷派のうちの劇派(急進派)が起こした事件です。

天狗党という名前は天保の頃から水戸藩改革派の武士が天狗とよばれたことに由来します。

文久4年3月に藤田東湖の子藤田小四郎らが筑波山に挙兵しました。これに農民ら約1000人が加わり、下野、下総、常陸各地で戦闘が行われました。水戸藩や幕府の追討を受けた天狗党は武田耕雲斎をリーダーとして中山道を西上しましたが、ついには、加賀藩に降伏し、翌年、多くの人が斬罪となりました。

参照:『オールカラーでわかりやすい幕末・明治維新』P105、
    『カラー版徹底図解 幕末・維新』P84

 

2、②近藤は斬り込んだが土方は現場にいなかった

尊王攘夷派が京都を焼き討ちするという情報をつかんだ新選組は、不逞浪士の探索を始めようとするものの、浪士たちがどこにいるかはわかりませんでした。

そこで、祇園会所に集まった新撰組は、祇園周辺をしらみつぶしで探していくことにし、近藤勇をリーダーとする組と土方歳三をリーダーとする組に分け、近藤組は鴨川の西側を探索しながら北上し、土方歳三の組は鴨川の東側を探索していきました。

池田屋に尊攘派志士が集合しているのを探知したのは近藤組でした。近藤勇は、土方歳三の組を待つ選択肢もありましたが、集合している志士たちがいなくなるのをおそれ、近藤は土方をまたずに単独で池田屋に斬りこみました。

参照:『オールカラーでわかりやすい幕末・明治維新』P106、
   『カラー版徹底図解 幕末・維新』P86

3、④池田屋に行ったが早すぎたので対馬藩邸に行った。

桂小五郎は、『逃げの小五郎』と呼ばれていました。その代表例として語られるのが、池田屋事件で難を逃れたことです。

 池田屋事件では、桂小五郎は、池田屋に行ったものの早すぎたので近くの対馬藩邸にいったので難を逃れたと言われていますが、これは桂小五郎の回想録『桂小五郎京都変動ノ際動静』に書かれているようです。

 翻刻されているものがないか探しましたが、翻刻されたものはなさそうですので、『カラー版徹底図解 幕末・維新』P86でご確認ください。

 なお、中公新書『幕末史』(佐々木克著)P149に、木戸は屋根伝いに逃げて難を逃れたと書いてありますが、これは当時の長州藩京都留守居役乃美織江の藩への報告書に基づいた説だと思われます。

4、②宮部鼎三(ていぞう)

宮部鼎三は、山鹿流兵法を学んだ肥後藩兵法師範で、江戸で吉田松陰と知り合い松陰の東北周遊にも同行しました。肥後勤王党の中心人物で、京都で活動し、八月十八日の政変で長州へ退去した後、京都に潜入して活動する中で、池田屋事件に遭遇しました。

選択肢①吉田稔麿(としまろ)は松下村塾の塾生で松門四天王の一人です。    

③望月亀弥太は土佐藩脱藩浪士、④北添佶磨(きつま)は土佐出身者、二人とも坂本龍馬の仲間です。

参照:『カラー版徹底図解 幕末・維新』P86

5、④高杉晋作は慎重論で久坂玄瑞が進発論 

 禁門の変の経緯について今週のブログに書き、本件についても触れましたので、ブログを読まれた方は、正解がお分かりだと思います。

久坂玄瑞は、上京すべきだという進発論でしたが、高杉晋作は、一貫して慎重論でした。

参照:中公文庫『開国と攘夷』(小西四郎著)P363、
    中公新書『幕末の長州』(田中彰著)P120


5、③天龍寺

これもブログに書きましたので正解はお分かりだと思います。

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 ブログには書きませんでしたが、天龍寺には多くの塔頭があり、その中の一つ弘源寺には、禁門の変の際に駐在した長州藩士が傷つけた刀傷があちこちの柱に残されているそうです。

3月に訪ねた時には、残念ながら非公開でしたので、山門だけ写真に撮ってきました。(右上写真)
参照:『オールカラーでわかりやすい幕末・明治維新』P112、
  『カラー版徹底図解 幕末・維新』P113



6②鷹司家 

これもブログに書いた通りです。

堺町御門から乱入しようとした久坂玄瑞は、越前兵に阻まれ、右に折れて、鷹司邸の裏門から屋敷に入り、参内しようとする前関白鷹司輔煕に嘆願の儀があるので参内のお供にとお願いしたが叶わず、敵との砲撃が始まる中で、銃撃で左膝を負傷し、鷹司邸で自刃をした様子が『花冠の志士』(古川薫著)にビビットに描かれています。

 参照:『オールカラーでわかりやすい幕末・明治維新』P112

7、④西郷隆盛

 これはもう基礎知識中の基礎知識です。西郷隆盛は、沖永良部島への流罪を許されて鹿児島に戻るとすぐに上京し薩摩藩の京都派遣軍司令官ともいうべき軍賦役を命じられ、禁門の変では、薩摩藩兵を指揮し、長州藩追討に大きな働きをしました。その働きを認められて参謀に任命されたものだと思われます。

参照:『カラー版徹底図解 幕末・維新』P98

8、①英米仏蘭 

四か国連合艦隊の下関砲撃は基礎的な知識でもあり、重要事項でもあります。

 しかし、四か国とはどこかと問われると答えられなく困ることがありませんか。

 そういうこともありはしないかと考えて出題しました。

 答えられなかった方は、これは基礎知識ですので、しっかり覚えておいてください。ロシアが含まれていないということがポイントです。

参照:『カラー版徹底図解 幕末・維新』P96 

9、③魔王のようだ

 直接の典拠とした『カラー版徹底図解 幕末・維新』P96に、問題文と同様に書いてあります。さらに、講談社文庫『高杉晋作』(池波彰一郎著)や人物文庫『高杉晋作』(三好徹著)を見ると『魔王のように傲然としていた』と書いてありますので、選択肢は「魔王のようだ」としました。

 しかし、岩波文庫『一外交官が見た明治維新』では、「使者は艦上に足を踏み入れた時には悪魔のように傲然としていた」と書いてあり、微妙にニュアンスが違っていることを付記しておきます。

10、①功山寺

長州藩は、一貫して討幕派であったような印象を持っている人もいると思いますが、長州藩の藩論が一貫して倒幕論であったわけではありません。

 特に、第一次長州征伐と四か国連合艦隊の攻撃を受けた時には、藩政は俗に「俗論派」と呼ばれる幕府に恭順を示す人たちが主導権を握っていました。

 これに対して、高杉晋作は、俗論派から藩政を奪還するため、約50人の少数で決起しました。これが「功山寺挙兵」と呼ばれます。

当時、功山寺には長州に下っていた五卿が潜居していました。

現在の功山寺境内には馬上姿の晋作の銅像があるそうです。

選択肢②了円寺は、功山寺で決起した高杉晋作たちが、新地会所襲撃後にたてこもった寺です。③桜山神社は、高杉晋作の発議により創建された殉国の志士の神霊を祀る招魂場です。④東行庵には、高杉晋作の墓があります。

参照:『オールカラーでわかりやすい幕末・明治維新』P119、
    『カラー版徹底図解 幕末・維新』P98


以 上








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# by wheatbaku | 2017-04-28 22:40 | 『幕末』 | Trackback
禁門の変②(『幕末』)

 今日は、禁門の変の2回目です。

 

 伏見、山崎、天龍寺に陣を敷いた長州藩兵は、京都を南から西にかけて包囲する態勢をしきました。

 これに対して、反長州の陣営では、会津藩兵が約1500名、一橋慶喜配下の兵が約800名、薩摩藩が約500名で、その他の藩は当初は様子見でした。

京都守護職松平容保は、一貫して、長州討つべしという強硬論でしたが、薩摩藩は、当初、会津藩と長州藩の私闘だとして、禁裏守衛総督の一橋慶喜からの要請を拒否していました。現実的は軍勢を保有していませんでしたので、要請を受けようもなかったという理由もあったかもしれません。しかし、小松帯刀と西郷隆盛は、情勢の展開では朝廷は討伐を命じるかもしれないと考え、急遽、国許へ藩兵を送るよう要請しました。

一橋慶喜は、諸藩の態度がはっきりしないことから、明確な討伐方針を出しかねていました。

7月16日に小松帯刀・西郷隆盛が要請していた薩摩藩兵450名が京都に到着しました。

 また、有力諸藩が会合し、長州征討の方向で、一橋慶喜や朝廷に働きかけました。

これにより、7月17日、朝議は、長州勢の退去と、もしその勧告に従わなければ追討すると決定されます。しかし、長州藩はこの朝議に従おうとしませんでした。

 以上は『幕末政治と薩摩藩』(佐々木克著)を基に書きましたが、禁門の変当日の7月18日の動きについては『京都の歴史』(京都市編)が詳しいので、以下は、それに基づいて書いていきます。

幕府側では、開戦体制を整え、主力部隊は伏見方面に大垣・彦根藩兵を配置し、山崎・八幡方面には、宮津・津藩兵など起用して戦線をつくり、天竜寺方面の配備には薩摩・膳所・福井・小田原の各藩をつかせ、山崎・天竜寺間の間隙部分には小浜藩兵を置いて、扇形陣をしいたのである。

肝心の御所には中立売門に筑前藩、蛤御門に会津藩、台所門前に桑名藩、堺町御門に福井藩、乾門に薩摩藩という強兵を配置しました。

この洛中洛外に配備した諸藩兵の総数は、正確な数は不明のようですが、6万とも7万ともいわれます。

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 これに対して長州側の兵力は2千ともいわれていて、数の上では圧倒的に不利であるため、長州側では、7月17日、急濾軍議を男山で開きました。
 右写真は、男山の石清水八幡宮です。

久坂玄瑞は、世子毛利元徳が3000の兵を率いてくるので、それを待つため一旦大坂までしりぞくことを主張したといわれていますが、真木和泉・来島又兵衛は、断固決戦を主張し、無暴な進撃論を主張した為、軍議はついに強硬論に押し切られ進撃と決まりました。

この間の軍議の様子は、古川薫著『花冠の志士』では、来島と久坂が激論をかわし、最後には来島が「我々だけでも戦う」といって席をけり帰って行く気勢に引きずられて進撃やむなしとなる様子が書かれています。

 7月19日早暁、戦端は福原越後の指揮する長州勢と伏見方面で開かれました。禁門の変の開始です。

伏見を出発した福原越後の軍は、藤森のあたりで大垣藩兵と衝突しました。

福原軍は、待ち構えていた大垣藩兵に猛烈な銃撃をあび、軍勢は総崩れとなって、四散してしまい、福原越後も負傷し、ようやく山崎に逃げました。

福原勢は、一旦は体制をたて直し、竹田街道から入京しようとしたが果たさず退却し、伏見方面の戦いはあっけなく終わりました。

 しかし、天竜寺に駐屯していた国司信濃隊は精兵700人といわれ、巧みに警備陣をすり抜け、間道を通って一条戻橋に達し、そこから中立売・蛤・下立売の諸門に向かって進撃し、午前7時頃、御所に達しました。右下写真が蛤御門です。

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 中立売門に達した一隊は、そこを守備していた筑前兵を襲い、これを四散させました。
 中立売門が破られたため、蛤御門・下立売門を守衛していた会津・桑名の藩兵も支えきれず、しだいに後退していき、長州勢は中立売門内より進入して宜秋門に迫ろうとしていました。 まさに危機一発の時、乾門を守備していた薩摩兵の援軍が到着、猛烈な激戦となりました。更に天竜寺に向かおうとしていた薩摩隊も烏丸通に引っ返して、砲四門の一斉射撃を浴せながら、長州勢に立ち向かいました。

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 それに対して、長州勢も砲撃を行ない、蛤御門付近は修羅場と化しました。蛤御門には当時の激戦を物語る弾痕が無数に残されています。右写真はその一部です。

 この戦闘の中で、来島又兵衛は銃撃により戦死しました。

現在も京都御所の蛤御門を100mほど入ると大きな椋(むく)の木があります。

この付近で来島又兵衛が戦死したと説明板に書かれています。右写真が椋の木です。

来島又兵衛の戦死により、さしもの長州勢も強勢が弱まり、ついに烏丸通より退却していきました。

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 蛤御門の戦いが終わりかけた頃、益田右衛門介・久坂玄瑞の山崎隊が松原通から柳馬場通を通って北上してきて、堺町御門(右写真)を目指しました。
 しかし、ここを守る越前福井藩の兵たちは堅固で突破できませんでした。

 そこで長州兵は堺町御門近くにある鷹司邸に入り込んで立てこもり応戦しはじめました。越前藩側もまた大砲による直接射撃によって砲撃戦をかわし、ついには白兵戦となり、鷹司邸は打ち破られてしまいました。

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 鷹司邸はこのとき火を発し、ことごとく焼亡してしまいました。
 右写真が鷹司邸跡です。大きなシイの木が目印です。

 この戦いで久坂玄瑞・入江九一・寺島忠三郎も戦死しました。

 久坂玄瑞は、高杉晋作とともに松門の龍虎と呼ばれ、入江九一は、松門の四天王の一人に数えられた俊逸でした。

久坂玄瑞は鷹司邸での戦いで銃撃を受け負傷したため、潔く自刃しました。この時、入江九一も一緒に自刃すると言いましたが、久坂玄瑞の逃げろという説得に応じ鷹司邸を脱出をしましたが、屋敷の外で、会津藩兵との闘いで亡くなりしました。この後、寺島忠三郎も鷹司邸で久坂玄瑞と一緒に自刃しました。

 鷹司邸を脱出した真木和泉は、天王山に退いたが、21日、新選組を先頭に会津兵が追撃するなかで、同志16人とともに自刃しました。



 



 


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# by wheatbaku | 2017-04-27 09:40 | 『幕末』 | Trackback
禁門の変①(『幕末』)

 八月十八日の政変で、京都を追われた長州藩は失地回復して京都へ再進出を果たそうとします。その中で起きるのが禁門の変です。
 今日から数回にわたり禁門の変について書いていきます。

 元治元年になると、天皇を再び手中にするため、京都に進出しようという進発論が強くなりました。

 この時、強く京都進出を主張したのは、久坂玄瑞、遊撃軍総督来島又兵衛、久留米水天宮神官真木和泉らです。

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 遊撃軍は、奇兵隊につづいて結成された諸隊九隊の一つで、三田尻で三条実美らの警護にあたっていました。

 進発論の主唱者は、三条実美に従った浪士のリーダーである真木和泉で、真木和泉は「出師三策」を書いて、世子毛利定広が軍勢を率いて上京すべきであると主張しました。

 しかし、京都進出については、桂小五郎(後の木戸孝允)は反対し、周布政之助や高杉晋作は、慎重論で、長州藩内でも意見対立があり、藩論は一致しませんでした。


 

元治元年正月24日、高杉晋作は、頑強な進発論を唱える来島又兵衛の説得を命じられましたが、来島は納得しませんでした。

説得に失敗し高杉晋作は、京都に脱走してしまい、帰国すると3月29日に野山獄入りを命じられます。

5月には、高杉晋作が入獄していた野山獄に泥酔した周布政之助が馬で乗り付け抜刀して叫び声をあげて去っていくという事件もありました。


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 こうした中で、6月5日の池田屋事件で多くの尊攘派の志士が新選組に藩士を殺されたとの情報が伝わりました。

 6月12日、事件の第一報が山口に届きます。この情報を聞いて、進発論者は激高し、即時進発を声高に叫ぶ状況となりました。

慎重派の周布政之助、高杉晋作の影響力が弱まるなか、福原越後、益田右衛門介、国司信濃の三家老らに率いられた長州藩兵が次々と進発していきます。


福原越後(50)は長州藩の支藩徳山藩の藩主毛利広鎮の六男として生まれ、藩命で永代家老福原家の家督を継ぎ、国家老として、藩主毛利敬親の補佐役を務めていました。

益田右衛門介(32)は、永代家老の益田家に生まれ、安政4年に家老となりました。

国司信濃は、上級家臣団の寄組高州元忠の次男でしたが、寄組国司家を継ぎ、文久3年家老となりました。寄組の国司家は、当人の能力次第で一代家老ともなる家格で、若くして実力で家老職に就き、当時23歳の若さでした。

禁門の変後、この三人は、第一次長州征伐が実施される中で、禁門の変の責任を負い切腹することになります。

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 まず、6月15日、来島又兵衛に率いられた遊撃軍が京都に向かいました。
翌16日には、福原越後に率いられた藩兵と久坂玄瑞や真木和泉に率いられた諸隊が三田尻を出発し24日に伏見に入りました。

6月26日には、国司信濃が山口を出発し、7月6日は益田右衛門介が山口を出発しました。

京に入った長州藩は、三方から京都を包囲しました。

伏見の長州藩藩邸には福原越後が6月24日に兵を率いて入り、6月26日には潜伏していた100名以上の志士たちが嵯峨天龍寺に入り、27日には来島又兵衛の部隊が天龍寺に入り、その後7月には国司信濃も天龍寺に入りました。山崎には久坂玄瑞や真木和泉、前田右衛門介が陣を敷きました。

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長州藩が、兵を率いて上京してきている中で、伏見や山崎に陣を敷いて、さらに天龍寺まで兵を進めることがちょっと不思議に思っていましたが、こうした陣を構えられた理由を中公文庫「開国・維新」(松本健一著)が書いてくれていますので、紹介しておきます。

真木和泉が率いた部隊は「清側義軍」と称しました。福原越後は、清側義軍は、三条実美に近い尊攘激派の集団で藩主の冤罪を晴らすため過激な行動にでるかもしれないので、伏見にいて鎮撫にあたると説明しました。また、天龍寺には、八月十八日の政変後も京都に残った尊攘派の志士たちが天龍寺にたてこもっているから、これを鎮撫すると称して、来島又兵衛の遊撃隊を天竜寺に送り込みました。こうして、京都を三方から包囲する態勢が整いました。

右上の写真最上段が伏見の長州藩邸跡、二段目及び三段目写真が天龍寺と有名な曹源池です。天龍寺はユネスコの世界文化遺産に登録されています。四段目の写真が阪急大山崎の駅から見た天王山です。





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# by wheatbaku | 2017-04-25 10:44 | 『幕末』 | Trackback
  

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