開陽丸沈没後の最強軍艦「甲鉄艦」

開陽丸沈没後の最強軍艦「甲鉄艦」

  昨日の「開陽丸」に続いて、今日は「甲鉄艦」について書きます。

「甲鉄艦」の前名は、「ストーンウォール」と呼ばれました。

このストーンウォールの前半生は数奇な運命をたどりました。

 ストーンウォールは、もともとは、アメリカの南北戦争当時、南軍がフランスに発注したもので、フランスのボルドーで建造された軍艦です。

しかし、フランス政府は、南軍への引き渡しを許しませんでした。

そこで、一旦スェーデンに売り渡され、その後、さらにデンマークに売却されまました。それから、南軍に渡されることになりました。そして、コペンハーゲンで南軍に渡されたた際に、「ストーンウォール」と名付けられました。

これは、南軍の猛将ジャクソン将軍のニックネームがストーンウォールであり、それにちなんでなづけられた名前でした。

その後、キューバを経てアメリカに到着したのは、南北戦争が終了した後でした。
 その頃、幕府は、軍艦を購入するため、小野友五郎を正使とした使節団をアメリカに派遣していました。
 小野友五郎(*小野友五郎については、江戸検お題テキスト『疾走!幕末・維新』でも触れられています)は、ワシントンの海軍工廠で、ストーンウォールを見つけ、これを購入したいとアメリカに要請します。

ストーンウォールをアメリカ海軍にとって不要であると判断したアメリカは、ストーンウォールを徳川幕府に売却することにしました。

 こうして、ストーンウォールが日本にやってくることになりました。

 しかし、ストーンウォールが、慶応4年4月2日に横浜に到着した時には、戊辰戦争が始まっていました。

この時、アメリカは局外中立を宣言し幕府への引き渡しを拒否しました。

一方、海軍力に劣る新政府側も、甲鉄艦の引き渡しを要求しましたが、アメリカはこの要求も拒み、甲鉄艦は横浜にしばらく繋留されたままとなっていました。

 甲鉄艦(ストーンウォール)は、木造の船ですが、重要な部分は5.6インチの厚い鉄板で装甲していました。また、13インチのアームストロング砲も装備していました。

その上、船首の水中に長さ6mの「ラム」と呼ばれる衝角(しょうかく:艦船の船首の水中部分に取り付けられる体当たり用の武装)を持った軍艦でした。

当時は、ほとんどの軍艦も木造船であったため、水面下にある衝角による体当たり攻撃で、相手の船腹に大穴を開けて沈没させることができました。
 また、装甲されているため、船体が重く、喫水線上が舷側が1.5メートルほどしかありませんでした。このため、後述する宮古湾海戦において回天から甲鉄艦に移乗する際に大きな高低差が生じて、回天からの移乗を困難にさせました。

 

ストーンウォールが新政府の手に引き渡されたのは、明治元年12月28日にアメリカが局外中立を解除した後の明治2年2月3日のことでした。

明治新政府に引き渡されたときに、ストーンウォールは「甲鉄艦」と名付けられました。「甲鉄」という名前は、装甲艦を意味した名前です。
 甲鉄艦が日本に引き渡された際には、すでに開陽丸が沈没していたため、当時、国内最強の軍艦でした。

甲鉄艦は、新政府海軍の旗艦となり、箱館に向かいました。

開陽丸を失い海軍力が一気に落ちた榎本武揚率いる旧幕府軍に対して、甲鉄艦を入手した新政府軍は一気に海軍力が高くなりました。

劣勢にたった旧幕府軍は、この形勢を挽回するために、甲鉄艦の奪取を計画しました。こうして起きたのが「宮古湾海戦」です。

旧幕府軍は、回天丸、蟠龍丸、高雄丸の三艦を軍艦を派遣し、アボルダージュ作戦と呼ばれる軍艦乗り移り戦法で、甲鉄艦を奪い取ろうとしました。

しかし、旧幕府海軍は再び悪天候に見舞われ、2艦が離散してしまい、回天のみで突入しましたが、失敗に終わりました。この宮古湾海戦については、お題テキスト『疾走!幕末・維新』に詳しく書かれています。

その後、甲鉄艦は青森に入港した後、箱館戦争に参加し、海上から新政府軍を支援するとともに、箱館総攻撃の際には、箱館湾から五稜郭を砲撃しました。

その威力はすさまじいものだったようです。この砲撃により、旧幕府軍の古屋作左衛門が重傷を負った後亡くなっています。

箱館戦争終了後、甲鉄艦は、明治4年に「東(あずま)」と改名し、明治21年まで、沿岸警備艦として活躍しました。


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# by wheatbaku | 2017-11-01 17:04 | 『幕末』 | Trackback
最新鋭艦「開陽丸」

最新鋭艦「開陽丸」

 昨日まで『幕末・維新』を乗り切った商人について書いてきました。まだ書きたい人がいるのですが、幕末・維新の軍艦「開陽丸」と「甲鉄艦」についても江戸検前に書いておきたいので、今日は「開陽丸」について書きます。

 開陽丸は、当時、最新鋭の軍艦で、幕府海軍の旗艦として、新政府軍に無言の圧力をかけていましたが、蝦夷地江差沖で座礁沈没するという悲劇的な最期を遂げます。下記写真は、函館市立博物館に展示されていた開陽丸の模型です。

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幕府は、海軍力を強化するため、アメリカに2隻の軍艦を注文しました。しかし、アメリカで南北戦争が勃発したため、アメリカでの建造が困難になりました。

そこで、文久2年にオランダに軍艦1隻を注文することにしました。

その際に、造船技術の研究と軍艦建造の監督のため、留学生を一緒に送ることにしました。その留学生に選ばれたのが、榎本武揚、沢太郎左衛門、赤松大三郎などでした。

 この発注により建造された軍艦が開陽丸です。「開陽」とは「夜明け」という意味です。

 幕府からの注文は、最新鋭の軍艦を建造してほしいというものでした。

 完成した開陽丸は、400馬力、砲26門を装備した当時最強の新鋭艦でした。

 オランダで開陽丸の建造を指揮した海軍大臣は、長崎伝習所で榎本武揚たちを指導したことのあるカッテンディーケでした。そのため、慶応元年9月に行われた開陽丸の進水式も、オランダを挙げて盛大に行われました。

 完成した開陽丸には、榎本武揚ら9名の留学生が乗り組み、慶応2年12月にオランダを出発し、大西洋、アフリカ南端を通り、インド洋を経て、慶応3年4月に横浜に回航されてきました。

 この開陽丸が加わったことにより、幕府海軍は、諸藩に抜き出た強力な海軍となりました。

 この時、開陽丸の艦長に、榎本武揚、副長に沢太郎左衛門が任命されました。

 開陽丸は、鳥羽・伏見の戦いが勃発した際に、1月4日に阿波沖で、薩摩藩の「春日」と戦っています。これが日本における初めての洋式軍艦同士の海戦でした。
 そして、1月7日、艦長の榎本武揚が上陸している間に、徳川慶喜が、開陽丸に乗りこんできて、江戸に帰るよう指示されました。

しかし、副長の沢太郎左衛門は、榎本武揚の命令がないと出発できないと抗弁し、1日ほど、大坂湾内を航行して、榎本武揚の帰りを待ちましたが、いらだつ徳川慶喜が、沢を艦長に任命し出発を命じ、正月11日に品川に帰還しました。

 

 その後、4月11日の江戸城開城の際、榎本武揚は、開陽丸をはじめとする幕府海軍の引き渡しを拒み房総沖に脱走したものの、勝海舟の説得もあって、古い軍艦だけを新政府軍に引き渡し、開陽丸をはじめとした新鋭艦を保有し続けました。

 そして、8月19日に、榎本艦隊は、品川を発って北に向かいました。

 しかし、出航直後に暴風雨に襲われ、開陽丸も舵を壊され、8月26日にようやく仙台領に到着しました。

 9月15日仙台藩が降伏したため、榎本武揚は、さらに北上し蝦夷地をめざしました。

 明治元年10月20日に蝦夷地鷲ノ木に投錨し、翌日陸軍を上陸させ、開陽丸は、舵の修理を行った後、箱館港に入港します。

 旧幕府軍は松前城を奪取した後、江差へ進軍を開始し、その援護のために榎本武揚自らが開陽丸に乗船し、箱館を出港して江差沖へ向かい、1114日に江差沖に到着し、江差占領を支援しました。

しかし、翌15日夜、天候が急変し、開陽丸は座礁し、数日後に沈没してしました。

中公新書「大鳥圭介」(星亮一著)には、「開陽丸は本来であれば大事に扱うべきであったが、陸軍の大勝利につられて海軍も出動し、榎本武揚が動くほどのこともなかったにもかかわらず、不用意に自ら開陽丸丸に乗り出航させたことが、悲劇を招いた」と厳しい口調で書かれています。

 開陽丸の生涯は、当時、最新鋭の軍艦でしたが、日本に回航されてきて、わずか1年6か月ほどで沈没するという短いものでした。



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# by wheatbaku | 2017-10-31 18:04 | 『幕末』 | Trackback
古河市兵衛(幕末・維新を乗り切った商人たち⑧)

古河市兵衛(幕末・維新を乗り切った商人たち⑧)

幕末・維新を乗り切った商人たちの第8回は、古河市兵衛です。

皆さんは、駒込の旧古河庭園はご存じだと思います。また、明治の足尾銅山鉱毒事件、そしてその足尾銅山を経営していた古河鉱業、また、古河電気工業、富士電機、富士通などの古河グループの会社をご存じだと思います。

これらは、すべて、古河市兵衛が関係している事柄です。

古河市兵衛は、古河財閥の創業者で明治以降に成り上がった企業家というイメージが強いですが、実は、幕末から小野組の有能な番頭として知られていました。

昨日、書いた小野組が破綻した際にも、その整理に奔走しました。

まさに、幕末・維新を乗り切った商人の一人です。

古河市兵衛は、京都岡崎の金戒光明寺門前で木村長右衛門の次男として生まれ、幼名を木村巳之助といいました。
 木村家は、代々醸酒業を営み、庄屋を務めましたが、父の代には没落して、豆腐屋を営んでいました。

18歳で商人を志し盛岡の伯父のもとに行き、大坂の鴻池の分家の盛岡支店であり、南部藩御用掛を勤める盛岡鴻池屋伊助店に勤めました。

安政5年には、叔父の紹介で小野組糸店手代の古河太郎左衛門の養子となり、市兵衛と名乗りました。

以後、養父の縁で小野組に勤め、奥州一帯の生糸を買い付けては横浜に送り,同店の生糸取引に手腕をふるいました。
 古河市兵衛は、小野組の有能な番頭として活躍したのでした。

こうした働きが認められ、明治2年に、小野本家は、古河市兵衛に「井筒屋」の暖簾を分けて分家に昇格させました。

そして、古河市兵衛は、東京に小野組糸店を出店し、小野組糸店支配人として生糸貿易を指揮しました。

また、東京築地に器械製糸場を開設する一方、産卵紙を買占め、外国に売りさばき大きな利益を得ています。

また、阿仁,院内などの鉱山経営もスタートさせたり、第一国立銀行の設立にも加わり、自身も5万円の出仕をするなど、小野組を支える一人として大活躍しました。

しかし、明治7年に、小野組は、政府が命じる公金に対する担保提供ができず、破綻することになります。

この時、小野組は第一国立銀行から多額の借金をしていましたが、古河市兵衛は、借金に見合う米や生糸を提供し、第一国立銀行は大きな損失を被ることがありませんでした。

この古河市兵衛の態度を、第一国立銀行の頭取渋沢栄一は高く評価をしています。

小野組破綻後、古河市兵衛は、独立創業し,鉱山業に活路を求めました。

資本が乏しいため,渋沢栄一の援助により、相馬家名義で草倉銅山の経営に着手し、明治9年には廃山同様であった足尾銅山を買収し、相馬家と共同経営を開始、その後も院内銀山,阿仁銅山などの払い下げを受けました。

当初の足尾の経営は苦難の連続でしたが、明治17年の大鉱脈発見で好転し、明治20年代には住友の別子銅山を凌駕し,産出高が日本一の銅山となりました。  

その後、足尾銅山は鉱毒問題に直面することになり、古河市兵衛は、社会的な批判もうけ、経営方法が一新されることになりました。





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# by wheatbaku | 2017-10-30 12:29 | Trackback
小野善助(幕末・維新を乗り切った商人たち⑦)

小野善助(幕末・維新を乗り切った商人たち⑦)

幕末・維新を乗り切った商人たちの第7回は、小野善助です。

小野善助は、お題テキスト「疾走!幕末・維新」でも取り上げられていませんので、ピンとくる人は少ないかもしれません。

王政復古により幕府を倒した薩長を中心とした新政府軍が大変困ったことがあります。それは、全国各地特に江戸以北の諸藩を従えるための差し向ける軍事費用です。王政復古が成功して新政府が樹立されても、その後の見通しがはっきりしないため、豪商たちは、新政府を支援するかどうか躊躇していました。

そうした中で、いち早く新政府支援を打ち出したのが、三野村利左衛門が率いる三井組、そして小野組、島田組でした。

この小野組の当主が小野善助です。

初代の小野善助包教は、万治元年(1658)に、近江国高島郡大溝(滋賀県高島町)に生まれたいわゆる近江商人でした。

小野善助は、万治年間ごろ盛岡に出て南部を本拠として奥羽物産と上方物産を取り扱っていた叔父の村井権兵衛をたより、元禄2年に盛岡に開店しました。

宝永年間に、京都に町家を求めて移住し、和糸・生絹・紅花・古手問屋ならびに両替業を開業し、京都小野本家を開いた。のち江戸にも開店し、安永5年に幕府の金銀御用達ともなりました。

初代以降、善助が小野家の京都本家の通り名となり明治期の8代まで続きました。

3代目政房のあと、長男包該が善助を相続し、次男・3男はそれぞれ助次郎家、又次郎家を新たにたてました。以後京都小野本家はこの三家連携で経営されました。

幕末・維新期の当主は8代目善助包賢で、糸・絹・古手・油などの商業活動を行っていました。

鳥羽伏見の戦いが始まる直前に、小野組は、三井組、島田組とともにそれぞれ2千両、戦いの後には1万両を献金しました。

いち早く、新政府側に立ったことになります。

明治新政府が発足すると、小野組は、三井組、島田組とともに、新政府の金穀出納所御用達となり、巨額の御用金を拠出し、為替方として公金を取り扱い、全国的規模で金融活動を繰り広げました。

明治5年には、三井組とともに三井小野組合銀行を創設しました。

これが、翌年第一国立銀行となりました。

生糸貿易に乗り出したほか、東京築地・前橋・福島・諏訪などの製糸場を経営しました。

さらに、釜石・院内・阿仁などの鉱山も経営し、事業を拡大して、三井組とともに繁栄しました。

しかし、経営が放漫であったことや小野組転籍事件により長州閥の恨みをかうことになり、破綻することになってしまいました。

 小野組転籍事件というのは、小野組が東京に本店を移動しようとした際に、京都府庁は、京都がさびれることから、転籍に反対しました。この反対の中心となったのは、長州閥の槇村正直第参事でした。小野組は、京都府を相手どり司法省に提訴し、勝訴しましたが、これにより長州閥の恨みをかうことになりました。

 また、明治政府は、為替方に対して、明治6年に政府から預かっている金額に対する担保の提供を命じることにしました。

 この方針に対して小野組は、担保提供が困難となり、破綻しました。

同じ時期に島田組も破綻しましたが、三井は、早めに対策を講じていて、破綻を免れました。三井は、事前に井上馨から情報を入手していたともいわれています。

井上馨は、長州出身で、「三井の番頭」とも揶揄(やゆ)されていましたので、三井には情報を流して助ける一方で、長州閥に恨みをかっていた小野組を助ける人はいなかったのかもしれません。




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# by wheatbaku | 2017-10-29 20:06 | 『幕末』 | Trackback
大倉喜八郎(幕末・維新を乗り切った商人たち⑥)

大倉喜八郎(幕末・維新を乗り切った商人たち⑥)

 幕末・維新を乗り切った商人たちの第6回は、大倉喜八郎です。

 大倉喜八郎は、お題テキスト「「疾走!幕末・維新」では取り上げられていませんが、戊辰戦争と大きく関わりがあり、戊辰戦争の中で、商売に成功し、後に大倉財閥を作り上げましたので、取り上げておきます。

大倉喜八郎は、天保8年(1837)新潟県新発田の代々の大名主で苗字帯刀を許された家の三男として生まれました。

安政元年(1855)、江戸に出て、麻布の鰹節店に商売見習いとして3年間住み込み修行し、主人から養子になるように望まれましたが、独立して、下谷の摩利支天横町(現在のアメ横)に乾物店を開業しました。

乾物店を経営しながらも、新しい商売を見つけるため、喜八郎は横浜に向かいました。

大倉喜八郎は、横浜で黒船をみて、天下が一変することを予想し、その時に、「必ず戦争が始まり、戦が始まれば武器が必要になる」と考え、乾物屋をたたみ、八丁堀にあった小泉屋鉄砲店で鉄砲のことを修行した後、神田和泉橋通に「大倉銃砲店」を開業しました。慶応32月のことです。

戊辰戦争を目前に控えた時期で、洋式兵器の注文が、幕府や諸藩から大量に舞い込みました。

新政府軍が上野の山に立てこもった彰義隊を攻撃する前夜に大倉喜八郎は突然、彰義隊に連行され、新政府軍に鉄砲を売っていることを詰問されますが、それに対し「官軍は現金払いなので売ったまでです」と説明し、窮地を脱しました。

 また、箱館戦争の際に、弘前藩から、鉄砲の依頼がありました。ただし、代金はお米で払うとう申出でした。この時、大倉喜八郎は、「弘前藩」からの依頼に対して、「運試しにひとつやってみる。もしこれが失敗するようなことなら、自分に運がないのだと諦めるより以外にない」と考えいさぎよく引き受けました。

そして、自分の財産を残らず売り払って金にし、これで小銃2500挺と弾薬を整え、ドイツの帆船を雇って、それに鉄砲弾薬一切を積みこみ、自分もその船に乗り込んで青森にむけて出帆しました。

しかし、青森を目の前にして、風の方角がかわり、箱館に寄港せざるをえなくなりましたが、箱館は、当時、旧幕府軍が占領しており、発見されれば、武器を押収され、大倉喜八郎の命も危なくなるという危機に瀕しました。しかし、運よく、この危難も脱し、やっと青森に入港し、鉄砲を渡し米を受け取ることができました。

維新後は、明治5年に民間人としては初の欧米経済事情の視察に出発し、欧州滞在中に岩倉使節団と交流しています。帰国後の明治6年、大倉組商会を設立して海外貿易事業に乗り出しました。

 また、大倉喜八郎は、新橋駅建設工事の一部を請け負い、明治5年には銀座煉瓦街の建設工事の一部を請け負い、土木建築事業にも進出しています。

 その後、大倉喜八郎は、明治政府の御用達商人となり、台湾出兵、西南戦争、日清戦争、日露戦争の軍需物資調達で巨利を得ました。

この間、大倉組商会は合名会社大倉組に改組され、大正期には大倉商事、大倉鉱業、大倉土木の3社を事業の中核とする大倉財閥の体制を確立していきました。

なお、ホテルオークラは、大倉喜八郎の自宅に喜八郎死後に建てられたもので、隣接する大倉集古館も大倉喜八郎が設立したものです。

大倉喜八郎は、昭和3年に大腸がんのためなくなり、護国寺に眠っています。

下記写真が大倉喜八郎のお墓です。

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# by wheatbaku | 2017-10-28 20:11 | 『幕末』 | Trackback
鴻池善右衛門幸富(幕末・維新を乗り切った商人たち⑤)

鴻池善右衛門幸富(幕末・維新を乗り切った商人たち⑤)

鴻池家の始祖は、戦国大名の尼子氏の忠臣であった山中鹿之助幸盛の長男新六直文であると言われています。

 新六は、慶長年間に摂津国鴻池村(現在の宝塚市)で酒造業を始めました。

鴻池村を本拠としたことから鴻池と名のったと言われています。

新六が改良したとされる酒は「諸白(もろはく)」と言われる清酒ですが、これは、新六の店の手代が叱責された腹いせに灰を投げ込んだことで、はじめてその製法が発見されたものであるとの言い伝えもあります。

やがて、新六は大坂市内の久宝寺町に店舗を設けて醸造・販売を営むようになりました。その後、海運業や両替商にも進出しました。

そして、鴻池村の本家と醸造事業は、新六の七男の新右衛門元英が継ぎました。

また、大坂の醸造・海運事業は、八男の善右衛門正成が引き継ぎ、それ以降代々の当主は善右衛門を名のりました。
 3代目善右衛門宗利の時に、醸造業や海運業から手を引き、両替商に重点を移しています。

幕末・維新期の鴻池の当主は10代目の鴻池善右衛門幸富です。

鴻池善右衛門幸富は、天保12(1841)、鴻池一族の山中又七郎家の長男に生まれ、弘化3(1846)、本家鴻池善右衛門家の養子となりますが、9代善右衛門幸実が早く没したため、嘉永4(1851)11歳で家督相続しました。

当時、鴻池家は、幕末維新の動乱期で、大名への貸付金の回収がままならないうえ、幕府からの御用金の要請が多額となるなど、経営困難に直面していました。

その中で、鴻池善右衛門幸富は、家業の維持に懸命に努力しました。

そうした中で、文久3年に結成された新選組を財政面で支えたのが鴻池であるとも言われています。

「新選組全史」(中村彰彦著)によれば、制服を作る金のなかった新選組は、文久374日 に、芹沢鴨らが鴻池善右衛門幸富を訪ね200両の借用を申し入れ無理やり借りてきました。この際に鴻池善右衛門幸富みずからが応待して200両を用立てたともいいます。
 この話を聞いた会津藩は芹沢鴨を呼びつけ、すぐに借金を返すよう命じたため、この借金は、すぐに鴻池に返済されました。
 (なお、お題テキスト「疾走!幕末・維新」には500両を鴻池から借りたと書いてあります。)
 この件が縁になって、鴻池と新選組は親しくなり、元治元年(1864)
正月、鴻池の屋敷に賊が押し入った際に、近藤勇の指示により土方歳三らが駆けつけ、その謝礼に近藤勇が銘刀・虎徹を鴻池から贈られたという話もあるそうです。(もっとも近藤勇の虎徹については諸説がありますので、これが事実かどうかは不確かのようです。)

 それからも鴻池と新選組の友好関係は続きます。
 箱館戦争で戦死した土方歳三の供養碑が函館市内の称名寺に供養碑を建立されていいますが、この供養碑は、鴻池の箱館支店の手代大和屋友次郎が中心となって建立されたとされています。
 この供養碑は、称名寺が明治になって3回の大火にあっているため、当時のものはありませんが、昭和48年に再建されたものが、箱館山中腹の称名寺現存して、8月に函館に行った際に訪ねてきました。(下写真参照)

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明治になると、大名貸の破綻により、鴻池は一気に経営危機に陥ります。しかし、鴻池善右衛門幸富は、外部から優秀な人物を招へいするなどして、経営危機を脱します。
 そして、第十三国立銀行の設立、日本生命の設立に参加する
など、家業の再生に努めました。

鴻池善右衛門が設立した第十三国立銀行は、鴻池銀行となり、さらに、鴻池銀行・三十四銀行・山口銀行の3行が合併し、三和銀行が創立されました。三和銀行は、UFJ銀行を経て、現在は三菱東京UFJ銀行となっています。



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# by wheatbaku | 2017-10-27 23:49 | 『幕末』 | Trackback
浜口梧陵(幕末・維新を乗り切った商人たち④)

浜口梧陵(幕末・維新を乗り切った商人たち④)

 幕末・維新を乗り切った商人たちの第4回は、浜口梧陵です。

 浜口梧陵といえば、戦前の国定教科書にものった「稲むらの火」の主人公として有名です。

 昨年の江戸検のお題「天下大変、江戸の災害と復興」でも取り上げられたので、昨年江戸検を受検された方は覚えていると思います。

 この浜口梧陵が、今年のお題テキスト「疾走!幕末・維新」でも取り上げられています。


 浜口梧陵は、安政南海地震をきっかけとした災害復興や防災事業が大変有名ですが、そのほか、政治活動や公益事業にも力を注ぎ、近代日本の発展に大きな足跡を残しています。

浜口梧陵は、いまも続く銚子の醤油メーカーヤマサ醤油の7代目浜口儀兵衛のことです。

 浜口梧陵は、文政3年(1820)に紀伊国広村(現在の広川町)で浜口家の分家浜口七右衛門の長男、そして5代目浜口儀兵衛の孫として生まれました。

12歳の時、本家の養子となり、はじめて江戸を経て銚子に行き、家業に就きました。

22歳の時に、銚子で開業した蘭学医三宅艮斎と出会いました。
 この出会いにより、浜口梧陵の目は世界に向けられました。

三宅艮斎は、最初江戸で開業しようとしましたが、当時江戸では開業できなかったので、仕方なく、銚子へ下り開業し、そこで浜口梧陵と出会ったのです。

蘭学医と云えば、しばらく後の万延元年(1860)のことになりますが、佐藤泰然の佐倉順天堂で学び銚子で開業していた関寛斎が長崎に遊学しポンぺに学べるように支援したのも浜口梧陵です。

 31歳 の頃には、佐久間象山の門に出入りし西洋砲術を学んだといいます。この時に勝海舟と出会っています。

嘉永6年(1853)には、家督を相続し、7代浜口儀兵衛を襲名し家業に邁進しました。

この年の6月、日本を揺るがすペリー来航がありましたが、浜口梧陵は積極開国策を主張し、海外視察を願い出たともいいます。

翌安政元年(1854)11月、梧陵が広村に帰郷していた時、安政南海地震が起きました。この時、大津波が来ることを予知した浜口梧陵が、村民を避難させるため、田圃に積んであった収穫された稲束(稲むら)に火を投じて急を知らせ、村民の命を救いました。これが、「稲むらの火」に書かれた話です。

その後も、私財を投じて、故郷の復興のため、尽力しました。

安政5年、伊東玄朴らにより、江戸のお玉が池に種痘館が創立されましたが、半年後に種痘館が火災となり焼失しました。
 この時、浜口梧陵は種痘館再興のために3百両を寄付しています。種痘所の再建支援は、三宅艮斎からの要請によるものです。

翌年の安政6年、日米修好通商条約の批准書交換のための遣米使節の随行し、咸臨丸がアメリカに渡りましたが、この時、浜口梧陵は勝海舟から咸臨丸に乗船しアメリカにとこするよう誘われますが、安政2年から、銀94貫を費やして、築造を始めた堤防が築造途中であるなど広村の復興事業が途上であることを理由に断念しています。

 文久元年には、西洋医学所と改称された種痘館に、図書及び機械類の購入費のため更に400両を寄付しています。

明治になると、和歌山藩の勘定奉行などを経て、大久保利通の命を受けて中央政府にも招かれ、初代駅逓頭(えきていのかみ)にもなっています。駅逓は近代的な郵便制度を担当する部署でした。浜口梧陵は、近代的な郵便制度の確立に尽力し、口梧陵の後任の前島密により近代的郵便制度が創設されました。

明治12年には和歌山県議会初代議長に選任されました。

そして、明治18年、浜口梧陵の長年の願いであった欧米への視察途中、ニューヨークにて永眠しました。

浜口梧陵は、佐久間象山、勝海舟、福沢諭吉など多くの幕末・維新の有名人とも広い交流を持ちました。浜口梧陵の死後に建てられた顕彰碑「梧陵濱口君碑」の篆額と撰文は勝海舟の手によるものです。


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# by wheatbaku | 2017-10-26 19:02 | 『幕末』 | Trackback
三野村利左衛門(幕末・維新を乗り切った商人たち③)

三野村利左衛門(幕末・維新を乗り切った商人たち③)

幕末・維新を乗り切った商人たちの3回目は、三野村利左衛門です。

三野村利左衛門を知っている人は少ないかもしれません。

私は、小栗上野介忠順の遺族を保護した人物として、小栗上野介忠順の事績をたどるなかで知りました。

 三井財閥の基礎を固め、三井中興の祖とも呼ばれる三野村利左衛門は、旧庄内藩士・関口正右衛門の孫で、鶴岡が出生地と伝えられています。

7歳のとき父松三郎が、浪人生活に入り、諸国を流浪した後、天保10年(1939)、19歳で江戸に出て、深川の干鰯(ほしか)問屋丸屋へ住み込み奉公をし、丸屋のつてで駿河台の旗本小栗家の中間として雇われました。

ここで、後に幕府勘定奉行となる小栗忠順と知り合います。

このころ、小栗忠順は10代でしたが、6歳年上の三野村利左衛門とは年が近いこともあって親しい主従となりました。これが三野村利左衛門の人生に大きな好影響を及ぼすことになります。

やがて、三野村利左衛門の仕事ぶりが注目され、神田三河町で油・砂糖などを商っている紀ノ国屋美野川利八に見込まれ、弘化2年(1845)に利八の娘なかの婿養子になり、利八を襲名します。

紀ノ国屋は零細な商家で苦労の連続でしたが、金平糖の行商をしながらお金を蓄え、三野村利左衛門が32歳の安政2年(1855)に小さな両替商を開業しました。

両替商となった利八は、雇い主である勘定奉行小栗上野介忠順の屋敷で、天保小判1両を万延小判3両1歩2朱(3倍強)と換価する旨の布令が出ることを耳にしました。

これは洋銀との交換比率を是正するための措置ですが、天保小判を持っていれば3倍の万延小判に換価できるため、天保小判を大量に買い集め、大きな利益を得ました。

こうした機敏な三野村利左衛門の行動が、付き合いのあった両替店の関係で、三井両替店の主席番頭斎藤専蔵に認められ、三井両替店に出入りするようになりました。

 その頃、三井には、幕府から多額の御用金の要請がありました。

 しかし、三井の内情は厳しく、越後屋の不振とともに両替店は長期不良貸し金の累積などで資金繰りが圧迫されて瀕死の状態にありました。
 そこで、最後の手段は勘定奉行の小栗上野介の力にすがり、御用金の減額を頼むほかないとなり、三野村利左衛門を通じて依頼することになりました。

 この時、三野村利左衛門は、小栗上野介に三井の窮状を力説し、御用金50万両のうち18万両を分納、残額を免除してもらうことに成功しました。しかもその後、三井家には幕府から御用金は一切なかったそうです。

三野村利左衛門は三井の危機を救ったことから、慶応2年、三井に「通勤支配格」(役員待遇)という破格の条件で雇われることになりました。

三井では、幼い時から丁稚奉公をして徐々に出世していく慣習があり、40代の男がいきなり役員待遇で抜擢されるというの異例中の異例でした。 

この時に名前も「三野村利左衛門」と改めた。「三野村」という姓は三井の三と、紀ノ国屋の姓である美野川の野、父の養家の姓である木村の村をとったものといわれています。

 王政復古後、三井が一早く新政府に多額の資金を融通するようになったのは、三野村利左衛門の進言によるものと言われています。

 明治になってからは、三井家の家制と家業の改革に着手し、呉服業(現在の三越)を分離し、三井銀行と三井物産会社の創設するなど三井の「大番頭」として、その本領を発揮し、明治から昭和に至る三井財閥の基礎を作り上げました。

 三野村利左衛門は、いち早く新政府に肩入れする一方で、恩を受けた小栗上野介忠順への恩義も忘れてはいませんでした。

小栗上野介忠順が勘定奉行を罷免され領地の上野国権田村に引きこもろうとした際には、亡命資金の準備をしたうえでアメリカ亡命を勧めたと言われています。ただし、小栗上野介忠順はこの話を断っています。

 また、小栗上野介忠順の遺族である道子と国子を深川の屋敷に引き取り、その保護および養育にも力を注ぎました。

 

 このように恩義にも厚い三野村利左衛門は、明治10年、胃がんのため病死しますが、その功績から「三井中興の祖」と呼ばれています。



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# by wheatbaku | 2017-10-25 16:06 | 『幕末』 | Trackback
北風正造(幕末・維新を乗り切った商人たち②)

 北風正造(幕末・維新を乗り切った商人たち②)

 「幕末・維新を乗り切った商人たち」の2回目は、北風正造です。

北風家は兵庫の豪商であり兵庫津の名主でもあり、「兵庫の北風か、北風の兵庫か」と言われるほどでした。

 北風正造は、山城国の郷士長谷川家に生まれ、九条関白家に仕えた後、嘉永5年(1852),北風家に養子に入り、安政2年(1855)に家督を相続し、荘右衛門貞忠と改名しました。

 北風正造は、家業に専念し、安政5年箱館産物会所の用達兼生産捌方取締にも任命され家業を発展させていきました。

 そうした中で、文久3年に八月十八日の政変の政変が起こり、三条実美たち七卿が長州にくだり再起を期すことになりました。

 この「七卿落ち」の際に、北風正造は七卿を兵庫から船に乗せ長州へ渡る手はずを整えました。

 北風正造は、母親が有栖川宮家の老女であり、自身が九条関白家に仕えていたことから尊王精神を強く持っていたため、七卿落ちを支援したと言われています。

 北風正造は、七卿落ちの際の援助だけでなく、禁門の変の際に上京する長州藩にも資金援助し、西郷隆盛をはじめ多くの勤皇の志士とまじわり資金援助したと言われています。

 一方で、小栗忠順が、兵庫を開港するに際し、外国商人に対抗する現在の株式会社組織の「兵庫商社」の設立を計画した際には、北風正造は、その世話人の一人に選ばれています。

また、鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗れた後、姫路藩主酒井忠惇は朝敵となりました。

そのため、姫路藩は岡山藩などの追討を受けました。その際に北風正造が仲裁に入り、軍需金15万両と引き替えに姫路藩を攻撃するのをやめるという和解案で追討を解決しました。

姫路藩には、15万両もの資金はありませんでしたので、その資金は北風正造が用立てしたともいいます。

慶応4年に、兵庫鎮台に東久世通禧が任命されました。東久世通禧は、七卿落ちの際に北風正造が援助した七卿の一人でした。
 また初代の兵庫県知事は伊藤博文でした。

こうした北風正造と縁の深い人が兵庫に着任したことから、北風正造は、会計官商法司判事、県出納掛,通商為替会社頭取などの公職を歴任します。

ちなみに、明治2年会計官商法司判事となった際に、北風荘右衛門から正造と改名しています。

明治6年公職を辞してからも兵庫新川開削事業や米商会社,七十三国立銀行,商法会議所などの創立に尽力しました。

しかし家業は衰退に向かい、ついに北風家は明治18年に破産し、北風正造は明治28125日になくなり、正造が亡くなるとともに北風家は断絶してしまいました。



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# by wheatbaku | 2017-10-24 19:27 | 『幕末』 | Trackback
 伊藤忠兵衛(幕末・維新を乗り切った商人たち①)

 伊藤忠兵衛(幕末・維新を乗り切った商人たち①)

今年の江戸検のお題『疾走!幕末・維新』は政治史だけでなく社会文化史も対象となっていることから、お題テキストでも、政治史以外の分野についても、かなりのボリュームが割かれています。

 そのため、お題テキストでは、いろいろな分野での知識を吸収することができ、江戸検を受検しない立場でも大変勉強になります。

 それを一つ一つ書いていくわけにはいきませんが、私は特に幕末・維新を乗り切った商人たちに興味をもちました。

 そこで、江戸検本番が近付いていることもありますので、谷中霊園に眠る幕末有名人をちょっと中断して「幕末・維新を乗り切った商人たち」について触れていこうと思います。

 お題テキストに書かれている商人たちを中心に書いていきますが、それ以外の商人についても書いていこうと思います。

 まずは、伊藤忠兵衛について書きます。

 伊藤忠兵衛は、巨大総合商社「伊藤忠商事」と「丸紅」の創業者です。

 伊藤忠兵衛は、天保13年(1842)に近江国豊郷の「紅長」という太物問屋の次男坊として生まれました。

 安政5年、伊藤忠兵衛15歳の時に、近江の麻布(まふ;あさぬの)を持って、「持ち下り」商いを始めました。 伊藤忠商事では、これを伊藤忠商事の創業としています。

ところで、「持ち下り」とは、お題テキストには、「商品をもって定期的に他国を回る商売」と書いてありますが、「行商」または「出張販売」といったほうがわかりやすいと思います。

 最初は、泉州や紀州での出張販売でしたが、だんだんと距離をのばし、九州まで出張販売に出ています。

 こうして25歳になった慶応2年、第2次長州征伐が起こりました。この時、伊藤忠兵衛は、戦いがある時こそ、商品の需要があり、飛ぶように売れるだろうと考え、危険を帰りみず、下関に出かけていきました。長州では、戦いを嫌って商人たちが商売を控えていたため、伊藤忠兵衛の商品は飛ぶように売れ1500両も売り上げました。

 翌年、長州征伐の終わった下関に再び向かいました。長州には多くの商人たちが商売にやってきたため、競争相手が増えました。しかし、長州の人たちは、長州征伐の際に危険をかえりみず長州にやってきた伊藤忠兵衛を高く信用していたため、伊藤忠兵衛の商いは順調に進み、前年を上回る売り上げを確保したそうです。

 近江商人は「三方良し」を心得としています。つまり「売り手良し、買い手良し、世間良し」ですが、伊藤忠兵衛の長州での商売は、「伊藤忠兵衛良し、長州の人々良し、そして長州の評判良し」ということで、まさに「三方良し」ということでした。

 こうして、商売で成功した伊藤忠兵衛は、明治5年、大坂に「紅忠」という太物の店を開きます。

 この「紅忠」から発展して、現在の伊藤忠商事と丸紅につながっています。

 ただし、伊藤忠商事と丸紅に至る歴史は複雑ですので、それは省略させてもらいます。


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# by wheatbaku | 2017-10-23 20:17 | Trackback
  

江戸や江戸検定についてに気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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