京都守護職ゆかりの地(幕末)

 京都守護職の本陣は、金戒光明寺に置かれたことは前回書きました。

 しかし、京都には、金戒光明寺のほかに、京都守護職ゆかりの建物があります。

 まず、現在の京都府庁の敷地内に石柱があります。

 そのほか、二条城近くの京都国際ホテル敷地内や岡崎の平安神宮の駐車場に門が残されています。

 これらは、今回の旅行では訪問しませんでしたが、以前書いたものがありますので、再度掲載しておきます。
 以前、掲載したものですので、現場の様子が変わっているかもしれませんがご容赦ください。

 現在、京都府庁は欅並木の美しい釜座(かまんざ)通りの正面にあります。
c0187004_11583142.jpg 京都府庁庁舎の旧本館は国の重要文化財です。
 明治37年12月20日に竣工し、地上2階建、延床面積約6,100平方メートルあります。工期3年余、総事業費は当時では破格の約36万6千円を要しました。
 建物の外観は、正面の一段高くなった屋根を中心として左右両翼に対称に張り出した形となっています。すごく風格のある立派建築物で驚きました。

 幕末には、ここに京都守護職の屋敷がありました。
 会津藩は、江戸時代、京都に藩邸を持っていませんでした。
c0187004_1159190.jpg そのため、文久2年(1862)12月、藩主の松平容保が京都守護職に任命され上洛した当初は、黒谷の金戒光明寺を本陣としました。  
 しかし、文久3年の末ごろから次第に御用屋敷が仁備されていきました。
 まず、京都所司代屋敷の北側に御用屋敷が造営されました。
 さらに、京都守護職の中心的な屋敷が、下長者町通りを北辺とし、南辺を下立売通り、東辺を新町通り、西辺を西洞院通りとする範囲に築造されました。
 これが、現在の京都府庁になっている場所です。
 京都府庁正門を入ると右手に石柱と『説明板が設置されています。
 休日には正門が閉鎖されていて、東門からのみ入れます。
 
 京都守護職の中心屋敷は、現府庁である釜座(かまんざ)の屋敷ですが、松平容保は、京都守護職屋敷に常駐していたわけではないようです。

 
 京都守護職の屋敷の門が、京都市内に2か所残されています。
c0187004_1202440.jpg 京都守護職屋敷門が、二条城近くの京都国際ホテルの東側駐車場に残されています。
 江戸時代、京都国際ホテルの敷地は江戸時代には越前福井藩の京屋敷でした。
 ここに、京都守護職屋敷の西洞院御門を明治になって移築したというのが京都国際ホテルの説明でした。
 ちなみ、京都国際ホテルの敷地は、明治になってからは、藤田観光などの創業者藤田伝三郎の別邸でした。

 また、もう一つ京都守護職屋敷の門が残されていました。
 c0187004_1204186.jpgそれは、京都会館北側の冷泉通りに面した平安神宮の駐車場に残されています。
 現在は、駐車場の片隅にあるように見えます。
 しかし、この門の北側には、京都武道センターがあります。その中に、明治28年に建てられ、国の重要文化財に指定されている旧武徳殿があります。
 元京都守護職屋敷門は、もともと、この武徳殿の正門として利用されていたものです


 以上書いた門のほかにも、京都守護職ゆかりの地があります。

 京都御所の東側にある清浄華院(しょうじょうけいん)を松平容保が一時期宿舎にしてこともありました。
c0187004_11594796.jpg このことは、清浄華院のお坊さんの説明もありました。
 現在、清浄華院の阿弥陀堂となっている建物は、以前は松林院という塔頭だったそうです。これが、松平容保の宿舎として利用されました。
 これは、文久3年12月13日、翌年正月の将軍家茂の上洛が予定されていたため、それまで仮館としていた施薬院から清浄華院に移ったのです。
 それは、将軍が参内するときには、必ず、施薬院で衣冠を改めていたため、家茂の上洛の際には家茂が使用するようになるからです。  

c0187004_120951.jpg また、御所の南にある凝華洞(ぎょうかどう)を仮館にしたこともあります。
 凝華洞跡についての説明板には次のように書かれていました。
 江戸時代第111代後西天皇退位後の仙洞御所があったところといわれています。
 1864(元治元)年禁門の変の頃、京都守護職に任じられていた会津藩主松平容保は病を患い、朝廷の配慮もありここを仮宿舎にしました。

 このように、幕末期は激動の時期でしたので、京都守護職の松平容保の宿舎は、その時の情況に応じて臨機応変に変わったものと思われます。

 さらに、鴨川の東側の聖護院村にも用地を与えられ、ここを練兵場として活用しました。
 このように、会津藩では京都守護職の任務を果たすため、いくつかの屋敷が整備されました。

 













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# by wheatbaku | 2017-03-12 12:33 | 『幕末』 | Trackback
金戒光明寺

 今日から、京都の幕末史跡を紹介していきます。

 まず手始めは、金戒光明寺です。

c0187004_15021698.jpg 金戒光明寺は、京都の東側の黒谷(くろだに)にあります。

 京都の人には、「金戒光明寺」というより「くろだにさん」と言ったほうがわかりやすいようです。

 さて、黒谷ってとこだろうという人が多いと思いますが、平安神宮の北東部にあたります。

 京都駅から市バスで「岡崎道」で降りると金戒光明寺はまもなくです。
 右上は、山門、右下は御影堂です。

c0187004_14541090.jpg 金戒光明寺は、浄土宗の大本山で、法然上人が比叡山を下りて、初めて草庵を結んだ浄土宗最初の寺院だそうです。

 幕末ファンにとっては、京都守護職会津藩主松平容保が本陣を構えたことで有名です。


 そこで、まず京都守護職という役職について説明します。

 京都の治安は、京都所司代・京都町奉行が守ることになっていました。

 しかし、幕末に尊王攘夷運動が盛んになるに従って、尊攘派による天誅などが横行し、市内の治安が非常に悪化しました。
 そのため、所司代・奉行所のみでは治安維持が難しくなったため、新たに京都守護職という役職が定められました。

 この京都守護職に就任を要請されたのが、会津藩主の松平容保です。

 なぜ、会津藩に白羽の矢があたったかというと、それは徳川慶喜が明治になって「昔夢会筆記」の中で次のように言っているように、その武力に依存したものでした。

 「所司代では兵力が足らない。ところが浪人だの藩士だのが大勢京都に集まり、なかにも長州だとか薩州だとか、所司代の力で押えることはできかねる。そこで諸語職というものができたんだ。(中略)兵力のある者をあすこへ置こうというのが一番最初の起りだ。それで肥後守が守護職となった。」

 しかし、松平容保は、この就任要請を再三にわたって断りました。

 そこで、松平春嶽は、藩祖保科正之が定めた家訓(かきん)の第1条「徳川宗家の言うことに従わない藩主は藩主として認めなくてもよい」(*)を盾に哀願と脅しで迫りました。(「歴史読別冊『会津歴史読本』から」

*家訓第一条の原文は次の通りです。

一、大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。

  若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず 面々決して従うべからず。

 松平春嶽が強硬に就任を要請した背景には、会津藩がこの困難な貧乏くじともいうべき役職をことわれば、次は京都に近い福井藩に白羽の矢が立つのではないかという恐れがあったとも『会津歴史読本』には書かれています。

 こうした強い要請により、松平容保は、守護職を拝命することになりますが、この連絡を受けて、会津にいた家老の西郷頼母・田中土佐は、急遽出府し、容保を諌めて「薪を背負って火を防ぐようなもの」と反対しましたが、容保の意思は変わらず、主従がともに「君臣唯京師の地を以て死所となすべきなり」と肩を合わせて泣き崩れたといわれています。

 京都守護職を拝命した松平容保は家臣1千名を率いて文久2年12月24日、京都三条大橋に到着、京都所司代・京都町奉行所の出迎えを受け、金戒光明寺に入る前に、本禅寺で旅装を麻上下に改め、禁裏北側の時の関白近衛忠熙卿に出向き着任の挨拶をした。このあと馬を連ね本陣と定めた黒谷の金戒光明寺に入りました。(『幕末の会津藩』星亮一著より)

c0187004_14541856.jpg 金戒光明寺が本陣に選ばれた理由として金戒光明寺のホームページには、①城構えであること ②千名の軍隊が駐屯できること ③二条城などに近いことを挙げています。

 ①城構えであることは現在の金戒光明寺を見てもわかります。

 まず表門が高麗門(右上写真)となっています。

 高麗門というは一般的にはお城の城門として利用されるものです。

c0187004_14543204.jpg この様式の門が表門として設置されていることでも、城を意識した建造物であることがわかります。

 また、山門(右写真)は、厳重な石垣の上に建立されたおり荘厳なものです。石垣も城郭を思わせるほど立派なものです。

c0187004_14542431.jpg ②千名の軍隊が駐屯できることですが、金戒光明寺は、約四万坪の大きな寺域があり、その中に大小52の宿坊があり1千名の宿舎が十分確保できる規模でした。実際に駐屯の為に大方丈及び25の宿坊が寄宿のため明け渡したという文書が金戒光明寺には残されているそうです。

 その明け渡された大方丈(右上写真)には、前回ご案内した通り、謁見の間がありました。

c0187004_14565606.jpg「謁見の間」では、近藤勇など新選組の人たちも謁見もおこなわれたそうです。

右写真は金戒光明寺のパンフレットからの転載した「謁見の間」です。これは金戒光明寺さんの許可を得たものです。

 金戒光明寺があげている理由のほかに、私はもう一つ大きな理由があると思います。

c0187004_14543524.jpg それは、金戒光明寺と徳川将軍家の特別の関係です。

 金戒光明寺には、2代将軍秀忠の正室お江、徳川忠長、春日局などのお墓があります。
 右写真はお江のお墓です。

 それだけ、徳川将軍家から篤い崇拝を受けてきた証しだと思います。

 こうした将軍家のとの関係があったことも、京都守護職の本陣が金戒光明寺に置かれた理由だと思います。




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# by wheatbaku | 2017-03-08 13:58 | Trackback
「京の冬の旅 非公開文化財特別公開」

先週一週間、京都に行って、幕末史跡を巡ってきました。

そのため、しばらくブログの更新を行うことができませんでした。

京都に行ったのは、「京の冬の旅非公開文化財特別公開」が行なわれたからです。
江戸検の今年のお題が「幕末・維新」であるということも大いに関係しています。

今年の「京の冬の旅非公開文化財特別公開」のテーマは「大政奉還150年記念」でした。まさに、江戸検のお題とピッタリです。

今日は幕末に関係していて、見ごたえのあった「金戒光明寺」「妙法院」「島原角屋」を紹介をします。

「京の冬の旅非公開文化財特別公開」は3月18日(土)までで残りわずかとなっていますが、余裕のある方は行ってみてください。

金戒光明寺


金戒光明寺は、京都守護職となった会津藩松平容保が本陣を置いた場所です。

c0187004_21155125.jpg今回は御影堂で、運慶作と伝わる文殊菩薩像、それに吉備観音像(重文)も拝観できました。
 しかし、私にとって魅力的であったのは、なんといっても、大方丈で松平容保が使用したと同じ間取りの「謁見の間」が見られたこと、松平容保の直筆の書や和歌、そして、「黒本尊」と呼ばれる仏像画が見られたことが大変よかったです。

「謁見の間」では、松平容保が謁見をした部屋だそうで、近藤勇たちの謁見もここでおこなわれたそうです。

下写真は入場チケットですが、チケットの右側部分に「謁見の間」の写真が載っています。もちろん現物は写真撮影禁止ですので、こちらで、ご容赦ください。

c0187004_21155821.jpg
 

 展示されている松平容保の和歌や書の中で感動したのが、会津戦争で若くして亡くなった白虎隊士たちについて詠んだ次の和歌です。写真撮影が禁止されていましたので、メモに取ってきました。
 現物はもちろん容保の直筆でした。

和歌の前に次のような「詞書(ことばがき)」が書かれていました。


たたかひ今を限りとや思ひけん 十あまり五たりの男の子ども飯盛山にて腹きりて死したりけるをうつし画にせしを見てあはれさのあまりに


(私の勝手な解釈による大意)戦って今限りだと思ったのだろう。15歳になったばかりの子供たちが、飯盛山で腹を切り死んでいった姿を描いた絵をみて、大変憐れに思い、思わず詠んだ歌

        

千代までと そだてし親の こころさへ 推しはかれて ぬるる袖哉

「う~ん、やっぱり容保はやさしかったんだろうなぁ」 と感じました。

c0187004_21155477.jpgまた、黒本尊の画像は、松平容保が京都守護職として着陣するに際して、時の住職第56世定圓上人が慶応元年に會津家祈願の為に江戸の増上寺の黒本尊の真影を法橋秀隆に描かせたもので、金戒光明寺のお坊さんでもなかなかお目にかかれないものだそうです。
 なお、右上写真は、大方丈の庭園です。

妙法院

妙法院は、東山七条のバス停の目の前にあり、京都国立博物館の東側、智積院の北側にあります。

c0187004_21154038.jpgしかし、「妙法院ってなんで有名なの?」という方が多いと思います。

あまり知られていないと思うお寺です。

しかし、このお寺は、幕末の8月18日の変で敗れて、三条実美ら尊攘派の公卿七人が長州に落ちた、いわゆる「七卿落ち」に非常に縁のあるお寺です。

 8月18日の変で、朝廷を追われた三条実美らは、この妙法院の宸殿で、長州藩兵とともに一旦長州に落ちびることを決定したそうです。

 その宸殿には、「七卿落図」が展示されていました。

c0187004_21154490.jpg 宸殿も撮影禁止でしたので、撮影できませんでしたが、国宝の庫裏は撮影できましあので、そちらでご容赦ください。

この庫裏の桃山期のもので、国内最大級だそうです。

なお、あまり宣伝されていませんでしたが、妙法院には後白河天皇。後小松天皇、後水尾天皇など日本史の教科書に出てくる有名な天皇の宸翰が展示されているのにも感動しました。

島原「角屋」

最後は、新選組にも関係のある島原の「角屋」です。

c0187004_21160322.jpg新選組は、清河八郎の献策にもとづき結成された浪士組のうち、京都に残留することを選択した浪士たちで結成されたことは多くの方がご存知だと思います。

その新選組の局長といえば、誰しも近藤勇というと思いますが、新選組の結成当初は、近藤勇のほか芹沢鴨も局長でした。

その芹沢鴨は大変乱暴な男で、会津藩もてこずり、ついに殺害を近藤たちに命じたと言われています。

新選組は、島原角屋で大宴会を開きました。その宴席で大いに酔っぱらった芹沢鴨は、壬生の八木邸に戻り、さらに酒をのみ、寝込んだ隙に、土方歳三たちが芹沢鴨を襲い、殺害したと言われています。

 その宴会が開かれた場所が「松の間」でした。「松の間」は43畳の広さがあり、「角屋」最大のお部屋です。

 この「角屋」は写真撮影が許可されていましたので、しっかり松の間を撮影してきました。下写真は西側から順に「松の間」を撮りました。

c0187004_21160596.jpg
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「角屋」の特別公開は3月14日までですが、その後3月15日からは、角屋もてなしの文化美術館」として通常公開されるそうです。
 「角屋」は、しばらく拝観することができますね。




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# by wheatbaku | 2017-03-06 21:06 | Trackback
第1回「幕末・維新 これは覚えてね!」模試正解

1回「幕末・維新 これは覚えてね!」模試正解

今日は、月曜日に出題した第1回「幕末・維新 これは覚えてね!」模擬試験の正解を発表します。

 解説の最後に、先日紹介した参考図書『オールカラーでわかりやすい! 幕末・明治維新』と『カラー版徹底図解 幕末・維新』の該当ページを付記しましたので、勉強の参考にしてください。

1、②坂下門外  

 老中安藤信正は、井伊大老が桜田門外の変で暗殺された後、幕政運営の中心となり、公武合体策を推進しました。

 そして、孝明天皇の妹和宮の降嫁を実現し、和宮は文久元年10月20日に京都を出発し11月15日に江戸に着きました。

 そして、文久2年2月に婚儀が行なわれる予定となっており、その直前に坂下門外で水戸藩浪士たちにより襲撃されました。

 安藤信正の屋敷は、西の丸下にあり、屋敷の至近距離で襲撃されました。

 桜田門外の変の教訓から、幕閣の警護が厳重になっていたため、殺害されることはなく負傷だけにとどまりましたが、幕府の権威が落ち、3か月後の4月には安藤信正自身も老中を罷免されました。

『オールカラーでわかりやすい! 幕末・明治維新』p78

『カラー版徹底図解 幕末・維新』p66

2、①奄美大島  

 西郷隆盛は、2度島流しとなっています。

 安政の大獄の猛威が荒れ狂っている時に、西郷隆盛は僧月照とともに京から薩摩に逃げてきて、錦江湾で入水自殺を図り、西郷隆盛だけが助かりました。

そして、薩摩藩は、西郷隆盛の名前を菊池源吾と変え、奄美大島に流します。これは幕府の追及から西郷隆盛を救うための処置と言われています。これが1度目です。

 そして、奄美大島で2年ほど過ごした後、許されて鹿児島に帰ってきました。

 しかし、それから間もなく、島津久光の怒りに触れて、再び島流しとなっています。

選択肢②徳之島は文久2年に2度目の流罪となった際に最初に流された島です。③沖永良部島は、西郷隆盛が2度目の流罪の時に最終的に流された島です。

④喜界島は、西郷隆盛を慕い西南戦争まで行動を一緒にした村田新八が流されていた島です。

『オールカラーでわかりやすい! 幕末・明治維新』p64

『カラー版徹底図解 幕末・維新』p49

3、③寺田屋

 島津久光は、薩摩藩主島津斉彬の異母弟です。

 斉彬が急死した後、久光の子供忠義が藩主となりましたが、久光が藩政の実権を握っていました。

 島津久光は、幕政を改革しようという斉彬の遺志を奉じて、兵を率いて上洛しました。

 この久光の上洛を機に、京都にいた急進尊王攘夷派の人々は、挙兵しようとしていました。

しかし、久光にはその考えは全くなく、薩摩藩の藩士を暴発を抑えようとして、藩内の剣客を説得に向かわせました。
 しかし、寺田屋に集合していた有馬新七らは、説得に応じなかったため、彼らを上意討ちにしました。

 これが寺田屋事件です。

 寺田屋事件と呼ばれる事件は二つあります。
 一つが、この事件です。もう一つが、慶応元年に坂本龍馬が伏見奉行所の捕吏に包囲されたもののお龍の機転で危うく難を逃れた事件です。

選択肢は、すべて、幕末に事件がおきた店です。

選択肢①近江屋は坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された醤油屋です。

②池田屋は新選組が尊攘志士たちを襲撃した旅籠です。

④天満屋は、海援隊や陸援隊と紀州藩士三浦久太郎を護衛する新選組が戦った旅籠です。

『オールカラーでわかりやすい! 幕末・明治維新』p84  

『カラー版徹底図解 幕末・維新』p72

4、①大老  

松平春嶽は、越前藩松平家16代藩主でした。越前松平家は御家門と呼ばれ、将軍家の親族でした。

 大老は、幕府の最高位の役職ですが、あくまでも将軍家の家臣が就任する役職です。

そのため、御家門の松平春嶽が就任するにはふさわしくありませんでした。そこで、政治総裁職という役職が新設されました。

『オールカラーでわかりやすい! 幕末・明治維新』p87 

『カラー版徹底図解 幕末・維新』p75

5、 ②会津藩 
松平容保は、高須藩主松平義建の七男として生まれました。

そして、会津藩主松平容敬の養子となりました。養父の松平容敬も高須藩関係者でした。

松平義建の子供たちは皆優秀で、それぞれが藩主となっています。

①尾張藩主となった徳川慶恕(よしくみ、のち慶勝に改名)は次男、③桑名藩主松平定敬は九男。④高須藩主となった松平義比は五男で、後に尾張藩主となり、最終的には一橋家当主となりました。

 この四人が「高須四兄弟」と言われます。

『カラー版徹底図解 幕末・維新』p76

6、④清河八郎
 文久2年には、京都では、尊攘派のテロが頻発していました。
 当時テロは「天誅」と呼ばれ、安政の大獄で幕府の弾圧に協力した人、公武合体運動に協力した人たちが狙われました。

 このように大変乱れていた京都の治安維持を図るために京都守護職が設けられました。

 こうした情勢下で、清河八郎が、江戸の浪士を集めて、京都に送り、京都の浪士を抑えるよう献策をしました。

この献策を幕府が取り上げ、浪士組の結成さえることになりました。これに近藤勇たちが応募しました。

『オールカラーでわかりやすい! 幕末・明治維新』p90  

『カラー版徹底図解 幕末・維新』p79

7、④試衛館

近藤勇は調布の百姓宮川久次郎の三男でしたが、天然理心流の近藤周助に剣術を習い、その養子となり近藤姓を名乗りました。

 そして、近藤周助が道場主であった試衛館を継ぎ道場主となりました。 

 選択肢①玄武館は北辰一刀流の千葉周作が開いた道場で、清河八郎が玄武館で修業しました。 

②練兵館は神道無念流の斎藤弥九郎が開いた道場で桂小五郎が塾頭を勤めたことがあります。 

③士学館は桃井春蔵の道場で武市瑞山が塾頭を勤めていました。 

  

『オールカラーでわかりやすい! 幕末・明治維新』p93110 

『カラー版徹底図解 幕末・維新』p79

8、②東禅寺

開国後、外国の公使館として、江戸市中のお寺が使用されました。その最初となったのが、アメリカ公使館となった麻布善福寺です。そして、イギリスの公使館が高輪東禅寺に置かれました。

 この東禅寺が文久元年と文久2年の二度襲われました。

 文久元年は、水戸藩脱藩浪士、文久2年は松本藩士に襲われました。

 

 ①善福寺はアメリカ公使館が、③済海寺(さいかいじ)はフランス公使館が、 ④西応寺はオランダ公使館が置かれました。

 

『カラー版徹底図解 幕末・維新』p70

9、③長州藩

8問の解説に書いたように、文久元年以降、外国人に対する襲撃事件が頻発しました。警備の人たちがいる公使館でさえ襲撃されたことから、従来公使館として使用されていた寺院では防備が不十分であるとして、各国公使は安全な公使館の建設を要請しました。

 それに応えて、幕府は、公使館を建設することにしました。いくつかの候補地のうちから、最終的に品川の御殿山が建設場所となりました。

 そして、イギリス公使館が、最初に完成の運びとなりました。

 その完成間近の公使館を長州藩士が襲撃し放火しました。

これによりイギリス公使館は焼失し、その他の公使館の建設も中止されました。

 襲撃した長州藩士は、松下村塾で吉田松陰の薫陶を受けた人たちが中心でしたが、その人物名は、それぞれお調べください。有名人ぞろいです。

『カラー版徹底図解 幕末・維新』p70

10、①武市瑞山

 吉田東洋は、山内容堂によって抜擢され、参政として強力に藩政改革を主導しました。一時、失脚していましたが、参政として復活しました。

 これに対して、保守派と勤王党が手を結び、吉田東洋の失脚をめざしました。

 そしてついに文久2年4月に暗殺してしまいました。

これを指示したのは土佐勤王党の武市瑞山と言われています。

瑞山は号で、半平太が通称です。通称の半平太の方が有名かもしません。

なお、武市瑞山は、「市」と書きます。当初の問題文で「智」と書いてあり間違っていました。

もし記述問題として出題されていたら不正解でしたね。失礼しました。

『カラー版徹底図解 幕末・維新』p105



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# by wheatbaku | 2017-02-22 23:59 | Trackback
第1回「幕末・維新 これは覚えてね!」模擬試験

1回「幕末・維新 これは覚えてね!」模擬試験


 江戸検今年のお題「幕末・維新を駆け抜けた人びと」は、幕末・維新が対象ですが、幕末・維新は難しいという声があります。


 そこで、幕末・維新に関する基礎的な知識に関する模擬試験問題を、これから月1回程度、10問ずつ、合計100問をブログにアップしていこうと思います。

 出題する問題のレベルは「これは基礎的知識ですので覚えてください」というレベルです。

 江戸検を受ける方は、こうした知識をベースにさらに深めていってください。

 模擬試験が、「幕末・維新」の勉強にお役に立てば幸いです。


 第1回は、文久2年に起きた出来事に関する模擬試験を出題します。

 お題の出題範囲は新選組結成から戊辰戦争終結までとなっていますので、文久3年から明治2年までということになりますが、文久2年のできごとを理解していないと新選組結成の背景がわからないと私は思っています。

 ですから、できれば文久2年から勉強したほうとよいと考えるからです。



1、文久2年正月に老中安藤信正が尊攘派の水戸浪士たち6名に襲われ負傷した場所はどこでしょう?


①桜田門外  ②坂下門外  ③桔梗門外  ④西の丸大手門外  


2、文久22月、流罪中であった西郷隆盛が赦免されて鹿児島へ帰ってきました。

 西郷隆盛は、それまで、どこに流されていたでしょう?


①奄美大島  ②徳之島  ③沖永良部島  ④喜界島


3、島津久光の上洛にあわせて、尊王攘夷派の志士たちが倒幕のため兵を挙げようと計画しました。これに対して島津久光は、家臣を説得に向かわせましたが、説得に応じない志士たちを殺害しました。

この事件が起きた宿の名前は次のうちどれでしょう?


①近江屋  ②池田屋  ③寺田屋  ④天満屋



4、島津久光は上洛した後、勅使大原重徳とともに江戸に下り、幕府に幕政改革を迫った結果、一橋慶喜が将軍後見職、松平春嶽が政治総裁職となりました。

 それでは、松平春嶽が就任した政治総裁職は新設された役職ですが、それは次の役職のうちどれにあたるものでしょう?


①大老  ②老中  ③京都所司代  ④若年寄 
 


5、京都守護職は京都の治安維持を目的に設置された役職ですが、文久2年閏8月に京都守護職に就任した松平容保はどこの藩主だったでしょう?


①尾張藩  ②会津藩  ③桑名藩  ④高須藩


6、新選組の前身となる浪士組は江戸の浪士たちを集めて京都で乱暴を働く浪士たちを鎮圧するため結成されました。それでは、このことを幕府に献策したのは誰でしょう?


①松平上総介  ②鵜殿鳩翁  ③山岡鉄舟  ④清河八郎  



7、新選組局長として有名な近藤勇は調布の百姓の三男でしたが、天然理心流の近藤周助の養子となり近藤姓を名乗りました。それでは、近藤勇が道場主であった江戸の道場の名前は何というでしょうか? 


①玄武館  ②練兵館  ③士学館  ④試衛館 



8、イギリス公使館が置かれたため、二度にわたって攘夷派の人々に襲撃された高輪の寺院は次のうちどれでしょうか?



①善福寺  ②東禅寺  ③済海寺(さいかいじ) ④西応寺  



9、品川の御殿山に幕府は、イギリス、アメリカ、フランス、オランダの四か国の公使館を建設する計画を立て、イギリス公使館が最初に着工され、文久2年12月にはほぼ完成しました。

 この完成間近のイギリス公使館を襲撃したのは、次のうち、どの藩の藩士でしょう?


①水戸藩  ②薩摩藩  ③長州藩  ④土佐藩  



10、文久2年4月に土佐では藩政を握っていた吉田東洋が暗殺されました。

 暗殺したのは尊攘派の土佐勤皇党だと言われています。
 それでは、土佐勤皇党の中心人物は次のうち誰でしょう?


①武瑞山  ②後藤象二郎  ③板垣退助  ④岩崎弥太郎


正解と解説は、次回アップします。

以 上




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# by wheatbaku | 2017-02-20 10:16 | 『幕末』 | Trackback
「幕末・維新」参考図書 ②

 江戸検お題「幕末・維新を駆け抜けた人びと」の参考図書の続きです。

 前回は、少しやさしくて幕末をあまりとくいとしない人でも取り組みやすい参考図書を紹介しましたが、今日は少しレベルの高い本を紹介します。

 

3、上級編(かなり知っている人用)

 幕末・戊辰戦争について、かなり知っていて、それを深めていきたいというレベルの参考図書です。

c0187004_14462235.jpg『日本の歴史19 開国と攘夷』(小西四郎著 中公文庫)

 「日本の歴史」シリーズは、出版当時、ベストセラーとなり、現在も出版されている名著と言ってよい本だと思います。
 
私が江戸検を受検した10年前にも読んで、基本的な幕末知識のベースとなっているものです。

この本では、開国から王政復古まで書かれていますが、戊辰戦争は次の「明治維新」(井上清著)に書かれていますので、ご注意ください。




c0187004_14462646.jpg『日本の近代1 開国・維新』(松本健一著 中公文庫)

松本健一氏は麗澤大学教授です。

「日本の歴史」シリーズと同じように通史ですが、ペリー来航から現代までを描いた「日本の近代」シリーズの第1巻です。

2012年に出版されたもので、ペリー来航から岩倉使節団出発までが書かれています。






c0187004_14463492.jpg『幕末史』(佐々木克著 ちくま新書)

佐々木克氏は京都大学名誉教授です。

ペリー来航から条約改正交渉まで書いた通史ですが、戊辰戦争については触れられていません。

下記の同じく佐々木克氏の「戊辰戦争」と合わせて読むと、今年のお題の範囲をカバーすることになります。


 以上の参考図書は、幕末全体について書かれたものです。

 戊辰戦争について書いた本を次に紹介します。




c0187004_14463819.jpg『戦争の日本史 戊辰戦争』(保谷徹著 吉川弘文館)

この本は、戊辰戦争についてだけ書いてあります。

「戦争の日本史」シリーズのうちの一冊ですので、軍事史の側面が強い本です。

 そのため、兵器や兵站等についても触れられていますが、個々の戦いは軍事史ですので詳しく書かれています。


4、掘り下げ編(戊辰戦争論について論じている)

 戊辰戦争については、その性格をめぐり戦前から論争があり、現在も論争が続いているそうです。

 以下にあげる本は、その戊辰戦争論の論争の中心となっている本です。

 そのため、論争をしている部分があり、そこが論争になっているのかということがわかります。

c0187004_14464170.jpg 私自身は、そうした点を興味深く読みましたが、江戸検の受検対策としては戊辰戦争論の論争までは必要ないかもしれません。


『戊辰戦争 敗者の明治維新』(佐々木克著 中公新書)

 前述の『幕末史』をかいた佐々木克氏が書いた本です。

 佐々木克氏は秋田県出身ということから、奥羽列藩同盟の立場を重視した姿勢で書かれています。一例として「同盟軍」という言葉が使用されています。まさに副題の「敗者の明治維新」の通りです。

また、戊辰戦争の性格について言及している部分もあります。

 前述の佐々木克氏『幕末史』とあわせて読むとかなりハイレベルの勉強ができると思います。


c0187004_14464527.jpg『戊辰戦争論』(石井孝著 吉川弘文館)

 石井孝氏は東北大学教授などを歴任した研究者です。

この本は、1984年に発刊され、復刊されたものが現在販売されています。

 この本は、原口清氏の『戊辰戦争』(塙書房)と佐々木克氏の『戊辰戦争』への批判として世に問うたとはしがきに書いてあります。

 そのため、ところどころに前述の佐々木克氏への批判が書かれています。

 しかし、そうした部分を除けば戊辰戦争の経緯についてかなり詳しく書いてあるので学べるところも数多くあります。

この際だから戊辰戦争について深く勉強したいという方にはおもしろい本だと思います。

以上2回にわたって江戸検今年のお題「幕末・維新を駆け抜けた人びと」の参考図書を紹介しましたが、一度手に取ってみて、ご自身の知識レベルに合わせた本をお選びください。



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# by wheatbaku | 2017-02-16 14:36 | Trackback
「幕末・維新」参考図書①

日曜日に開講した獏塾公開講座では、開講前に塾生の皆さんから参考図書を紹介して欲しいという依頼がありましたので、いくつかの参考図書を紹介しました。

江戸検の今年のお題は「幕末・維新を駆け抜けた人々」ですので、幕末と戊辰戦争に関する本を紹介しました。

幕末については、激動の時代であったため、「非常におもしろい」という人がいる一方で「幕末は複雑で全くわからない」という人がいて、非常に幅があります。

「おもしろい」という人は男性に多いように思いますし、「難しい」という人は女性に多いように思います。

c0187004_10490114.jpgこのように、江戸検を受検される皆さんでも、幕末・維新に関して現在もっている知識のレベルはそれぞれ様々ですので、誰にでもあてはまる参考図書を紹介するというのはなかなか難しいと思います。

 一応、私なりにレベル分けして紹介しますが、一度、手に取って内容を確認してから入手していただいたほうがよいと思います。

 今日は、初級レベルと中級レベルと思われる本を紹介します。上級レベル以上は次回紹介します。

1、初級レベル(ほとんどわからない人用)

 幕末・維新がわからない人には図解されていて、解説もコンパクトのものが良いと思います。

c0187004_10485751.jpg 次の二つの本は、書店やアマゾンで入手できますし、楽しみながら読めると思います。

『オールカラーでわかりやすい!幕末・明治維新』(西東社)(右上写真)

『カラー版徹底図解 幕末・維新』(新星出版社)(右写真)


どちらが良いかは、読者の皆さんの好みだと思いますが、挿絵は『オールカラーでわかりやすい!幕末・明治維新』の方がソフトで、『カラー版徹底図解 幕末・維新』は劇画調です。


2、中級編(ある程度知っている人用)

 幕末・維新について知識があると思う人は次の本から読んでもよいと思います。


c0187004_10485285.jpg『幕末史』(半藤一利著 新潮文庫) 

 この本は、作家の半藤一利さんが、慶応丸の内シティキャンパスの特別講座で講義した内容をまとめたものです。

 そのため、文章は口語体となっていますし、人名にも「さん」がつけられていたりします。

 ですから、堅苦しい文章は苦手という人には読みやすいと思います。

 ただ、半藤さんはお父様が長岡生まれだそうで、佐幕派的立場で書かれています。



c0187004_10484801.jpg『幕末・維新―シリーズ日本近現代史①』(井上勝生著 岩波新書)

井上勝生氏は北海道大学の教授です。

幕末の通史が150ページという少ないページ数の中にコンパクトに書かれています。

幕末について一定の知識のある方は、一気に読めると思います。

この本では、過去に江戸検1級に出題された幕末問題についても書かれていますので、一度読んでみても良いと思います。

ただし、戊辰戦争については2ページしか触れられていませんのでご注意ください。


c0187004_10484497.jpg『すっきり読める奔流の時代幕末維新』(青山忠正著 新人物文庫)

 青山忠正氏は、この本を書いた当時は佛教大学の教授をされていた研究者ですが、この本は研究書としてだけなく読み物として書いたそうです。

文庫ですので、幕末の知識がある程度ある方であれば、なんなく読めると思います。

上級編いじょうについては次回紹介します。


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# by wheatbaku | 2017-02-15 10:40 | Trackback
獏塾公開講座開講しました

 昨日、獏塾公開講座「たった90分でわかる戊辰戦争」が無事終わりました。

 この講座は、江戸検の今年のお題「幕末・維新を駆け抜けた人びと」の準備対策講座として開講しました。

 昨日は、獏塾塾生と一般参加の人を合せて総計48名の方が一人も欠席せずご参加いただきました。

会場に冷房を入れざるえないぼど熱気あふれる講座となりました。

ご参加いただいた皆様ありがとうございました。

 講座は、主に①幕末 ②戊辰戦争 ③今年の江戸検対策の三点を中心としてお話しました。

c0187004_21363627.jpg 幕末については、ペリー来航から王政復古の大号令までについて、時代の流れを理解しながら勉強することが大切だということを強調してお話しました。

 戊辰戦争については、①渡場伏見の戦い、②上野戦争、③北越戦争、④会津戦争、⑤箱館尊総について、地図等も使用して個別に戦いの推移についてお話しました。

 90分という短時間で幕末・戊辰戦争の基礎を理解していただこうとしましたので、ハイスピードで時代の流れを追っていきました。

 大急ぎでやった割には、初心者にも幕末・戊辰戦争が理解できたというありがたい声をいただきました。

 また、幕末・戊辰戦争の知識のある参加者からも大変わかりやすい内容で参考になったとおほめの言葉をいただきました。

 始まるまでは不安でしたが、それなりに好評だったようで、ほっとしています。

c0187004_21364194.jpg 講義後は、いつも懇親会です。 40名を超える大所帯での懇親会でしたが、今回は初めて参加される方もいて、新鮮さもあって、大いにもりあがりました。

 結局、今回も2次会までいって、帰宅は深夜となってしまいました。

 でも、楽しい一日でした。
 懇親会そして二次会に参加いただい皆様ありがとうございました。






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# by wheatbaku | 2017-02-13 21:34 | Trackback
浜松藩井上家のお墓
 今度の日曜日は獏塾の公開講座で「戊辰戦争」について講義します。
 そのため、今週は講座の準備で大わらわです。
 そのため、ブログの更新もままならない状況ですが、あまり更新しないのもよくないので、更新しました。

 今日は、雑司が谷の本納寺に眠る井上井上正就についてご案内します。
c0187004_09561523.jpg 本納寺は、慶安3年(1650)、威光山法明寺の御住職によって創建されました。

本堂(右写真)裏側の墓域の中に、浜松藩井上家の墓所があり、初代清秀から4代正利までお墓があります。


井上正就は、初代清秀の三男として生まれました。

c0187004_09562023.jpg右写真の左端が初代清秀の墓で、右から2番目が正就の墓です。
 正就は、若い頃から2代将軍秀忠の傍に仕えました。

元和元年には1万石の知行を賜り、小姓組の番頭となり、大坂の陣でも手柄を立てています。

元和8年に加増があり、5万2500石で横須賀城を賜っています。そして、この時に老中となりました。


しかしながら、寛永5年、老中在任中に江戸城西の丸において,目付豊島信満に殺害されました。

江戸城内での刃傷事件としては、浅野内匠頭が吉良上野介に斬りつけた事件が大変有名ですが、これ以外にも江戸城内の刃傷事件は数回おきています。
 豊島信満による井上正就の殺害は、江戸城内でおきた最初の刃傷事件です。

原因は豊島信満が一旦まとめた正就の嫡子・正利の縁組が破談とされたことを恨んだためといわれています。

豊島信満もその場で自害し、豊島家は断絶となりました。

なお、豊島信満の家柄は、前回ご案内した豊島忠次の豊島家とは別流のようです。

 井上家は特にお咎めはなく、正就の嫡男正利に家督が継がれています。







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# by wheatbaku | 2017-02-09 09:44 | Trackback
豊島氏の墓(絵島のお祖父さんの墓)

 今日は、雑司が谷の法明寺に眠る豊島氏について書いていきます。

 法明寺は、日蓮宗のお寺です。

 寺伝によれば、平安時代の弘仁元年(西暦810年)に創建されたお寺で創建以来1200年がたつという古いお寺です。もとは真言宗のお寺で威光寺として創建されました。

c0187004_10381106.jpg 鎌倉時代の正和元年(1312年)、日蓮聖人のお弟子で中老僧の一人、日源上人が日蓮宗に改宗、威光山法明寺と寺号を改めました。

 江戸時代には、徳川3代将軍・家光から御朱印を受けていたそうです。

昭和20年戦災により全山焼失、昭和34年に本堂を再建しました。

(右上写真が本堂です)

前回書いたように雑司が谷鬼子母神は法明寺の境内です。

 この法明寺の墓域に、豊島氏の墓地があります。

 豊島氏は、桓武平氏の一族と言われています。

c0187004_10382195.jpg 桓武天皇の曾孫の高望王が上総介となります。その高望王の曾孫の常将が秩父を本拠として秩父氏を名のります。この常将の子供に武基と武常がいて、武基が秩父氏本家を継ぎ、ここから畠山氏、河越氏、江戸氏など出ました。

 弟の武常から豊島氏がでました。そして、葛西氏もここから出ています。

 武蔵国豊島郡を支配することになったため、豊島氏と名のったと考えられています。

 平安朝の末期から、鎌倉、室町時代にかけて、現在の豊島区、板橋区、練馬区、北区辺りにかけて勢力をもっていた一族でした。

 豊島氏の初期の拠点は豊島郡の平塚でしたが、後に石神井城が本拠となります。

 鎌倉時代には、土佐守護職に任命されるほど栄えましたが、時代が下り、戦国時代末期の、文明10年(1478)太田道灌に、石神井城を攻め落され滅びました。

 インターネットで検索すると、法明寺の豊島氏のお墓は、大田道灌に攻め滅ばされた豊島氏のその生き残りで、徳川氏に仕えて八丈島の代官になった豊島忠次を中心とした一族の墓となっています。

 豊島忠次について寛政重修諸家譜に記載されています。

 寛政重修諸家譜によれば、豊島忠次は次のように書かれています。

 天正19年から徳川家康に仕え、代官となり200石を拝領した。大坂の陣の際に、天竜川の船奉行をつとめ、のち八丈島の代官となる。寛永20年3月13日に死去し雑司が谷法明寺に葬る。

 以上から、法明寺に豊島忠次が埋葬されたのは事実のようです。

c0187004_10381613.jpg しかし、法明寺の豊島氏墓地とされている場所の中央には、没年が異なる墓碑が建てられています。

 墓碑銘は高雲院宗園となっていて、寛文12723日没となっています。

 どうも別人のようです。

 この人物については、墓碑の脇にある墓誌に、白井平兵衛尉勝久(徳川家継生母月光院付大年寄絵島の祖父)と書かれています。

 寛政重修諸家譜に白井勝久も書かれていました。

 白井勝久は、豊島忠次の四男で、寛永9年に小十人に列し、正保2年組頭となり、寛文5年本理院(家光の正室)に仕え200石を賜る。寛文12723日没し、法名日勝、雑司が谷法明寺に葬るとされています。

 墓誌のとおりです。

 そして、さらに寛政重修諸家譜を見ると、白井勝久の孫に次のような記載があります。

女子 大奥に仕え、のち月光院(家継母勝田氏)の老女となり、絵島と称す。

さらに次のように続きます。
正徳四年二月二日重き勤めに在ながら、東叡山及び増上寺に詣でて帰る時に、老女宮路としめし合せ.其余の侍女をも伴ひ、狂言座

に至りて見物し、暮に及びて帰りし始末重科にも処せらるべしと雖も、是を宥められて親族にめし預けらる。三月五日絵島こと漸々昇進して老女にいたり.あまたの侍女の上にも列なりながら、うちうちにては其行ひ正しからず。御使に出るおりおり、或は請ふで

宿に在るのいとま、人の貴賤をも撰ばすよからぬ者どもに相ちかづき、またはゆかりなき家に止宿し.しかのみならす狂言座の者に親しむことその身のみにあらず、同仕の侍女をも勧め遊興に耽るの條、その罪軽からすといへども、死荊を宥められ、信濃国高邁に配

流せられ。内藤駿河守清枚にめしあづけらる。      

 まさに絵島生島事件の大奥年寄絵島です。

 絵島が白井氏の出であることは知っていましたが、白井氏が豊島氏の一族で、また絵島のお祖父さんが雑司が谷の法明寺に眠っているとは、思ってもいませんでしたので、新たな発見でうれしくなるやら驚くやらでした。



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# by wheatbaku | 2017-02-06 10:25 | 大江戸散歩 | Trackback
  

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