第3回「幕末・維新 これは覚えてね!」模擬試験

第3回「幕末・維新 これは覚えてね!」模擬試験

今日は、第3回「幕末・維新 これは覚えてね!」模擬試験を出題します。

 今回は、文久4年(元治元年)に起きた事件についての問題を出題します。

 元治元年は、寺田屋事件、禁門の変、第一次長州征伐など、大事件が次々と起きています。


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 現在、禁門の変までの経緯を書いていますが、今後もあと数回続ける予定です。

これらの記事を読んでいくと、正解がわかる問題もあります。

右写真は、禁門の変の現場、蛤御門です。

正解は、今週末にアップします。

1、文久4年3月、水戸藩の尊皇攘夷派が筑波山で挙兵しました。幕府の追撃をうけると、一橋慶喜に助けを求めるため京都をめざして行軍を開始しました。しかし、慶喜が追討軍を差し向けたことを知ると12月に加賀藩に投降しました。

 この尊攘派グループは何とよばれたでしょう?

①天狗党  ②天誅組  ③精忠組  ④赤報隊

2、池田屋事件は、祇園祭の宵宮の日に、新撰組が、尊王攘夷派の志士が集まっていた池田屋を襲撃し、多数の志士を殺傷した事件です。池田屋襲撃の際の新選組局長近藤勇と副長土方歳三の行動で正しいのはどれでしょう? 

 ①近藤は表から、土方は裏から斬り込んだ。  

②近藤は斬り込んだが土方は現場にいなかった。

 ③近藤・土方が一緒に表から斬り込んだ。  

④土方だけが斬りこみ近藤は現場にいなかった。

3、池田屋事件の際に、桂小五郎は自分自身がどう行動したと書いているでしょう?

ちなみに桂小五郎は、江戸三大道場の一つ練兵館の塾頭を勤めたことがある剣豪です。

 ①長州藩邸にとどまり池田屋にいかなかった。   

②斬りこまれたら屋根を伝って対馬藩の屋敷に逃げた。  

③近藤勇と斬り合ったのち逃げ延びた。

④池田屋に行ったが早すぎたので対馬藩邸に行った。

4、池田屋に集合した尊王攘夷派のリーダー格だった人物は誰でしょう? 肥後藩士で吉田松陰の親友でした。

①吉田稔麿(としまろ)  ②宮部鼎三(ていぞう)  

③望月亀弥太       ④北添佶磨(きつま)

5、禁門の変を前に、長州藩が上京すべきか留まるべきか藩論が割れました。高杉晋作と久坂玄瑞の意見はどうでしたか?

①二人とも上京に積極的な進発論  

②二人とも上京に対して慎重論  

③高杉晋作進発論で久坂玄瑞は慎重論 

④高杉晋作は慎重論で久坂玄瑞が進発論 

5、禁門の変は別名蛤御門の変と呼ばれます。それは蛤御門で長州藩と会津藩の激闘がくりひろげたからです。長州藩は洛西の有名なお寺を拠点として京都市内を通り抜けて蛤御門を攻めかかりました。それでは、蛤御門を攻撃した長州藩が拠点としたお寺はどこでしょう?ユネスコ世界文化遺産に登録されている有名なお寺です。

 ①龍安寺  ②仁和寺  ③天龍寺  ④西芳寺(苔寺)

6、禁門の変で、長州藩の敗北が明らかになり、久坂玄瑞が自刃した屋敷はどこでしょうか? 五摂家の一つです。

 ①近衛家  ②鷹司家  ③九条家  ④一条家

7、禁門の変により、長州藩は朝敵となります。幕府はこれを機会に長州追討する征長軍を組織します。征長軍の総督は尾張藩の徳川慶勝がなりました。それでは参謀にはだれがなったでしょう?

 ①一橋慶喜  ②松平容保  ③勝海舟  ④西郷隆盛

8、攘夷を決行した長州藩への報復として、下関を砲撃した四か国連合艦隊の四か国とはどこでしょうか? 

①英米仏蘭  ②英米仏露  ③米露英蘭  ④米露仏蘭 

9、高杉晋作は、下関戦争の講和交渉の際、白装束に陣羽織、黒い烏帽子といういでたちで交渉に臨みました。

この様子をみて、イギリス側の通訳として交渉に臨んだアーネストサトウはどのような感想を述べているでしょう?

①閻魔のようだ。 ②仁王のようだ。 
③魔王のようだ。 ④鬼のようだ。

10、高杉晋作が決起した事件は、集合場所になった場所の名前から「〇〇〇挙兵」と呼ばれますが、〇〇〇に入る名前は次のどれでしょう?

①功山寺   ②了円寺   ③桜山神社   ④東行庵

以 上



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# by wheatbaku | 2017-04-23 12:58 | 『幕末』 | Trackback
妙法院(七卿落ちの現場)

八月十八日の政変の政変で、堺町御門の警備を解かれた長州藩と朝廷を追われた七卿は妙法院へ移動しました。

その妙法院が、幕末の「七卿落ち」の舞台となりました。

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妙法院は通常非公開なため、拝観できるのは特別公開の時だけですので、2017年冬の非公開文化財特別公開で、公開されましたので、2月末に拝観してきました。少し、時間がたちますが、『七卿落ち』に合せて妙法院を紹介します。



妙法院は、東大路七条にあります。

京都国立博物館から東大路通を挟んで東側にあります。

妙法院の近辺には、国立博物館、三十三間堂、智積院など有名な観光スポットがあります。しかし、妙法院は通常非公開なため、あまり名前が知られていないように思います。

 

妙法院は、延暦寺の別院として比叡山上に建てられ、江戸時代初期に現在地に移されたといわれています。

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代々皇室から住職を迎えた門跡寺院で、梶井門跡,青蓮院門跡と並ぶ天台宗三門跡の一つです。

右写真は、唐門と呼ばれている勅使門です。桜町天皇下賜と伝わっているそうです。

さすが門跡寺院ですね。

近世の妙法院は、方広寺、三十三間堂(蓮華王院)、新日吉社を兼帯する大寺院で、現在も三十三間堂の本坊です。

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右写真は庫裏です。

妙法院の庫裏は国宝に指定されています。

桃山時代に作られた国内最大級の建物です。

豊臣秀吉が方広寺大仏殿の「千僧供養」を行った際に、台所として使用されたと伝えられています。

内部のうち、土間・板間部分は天井板が張られていなくて、梁などの構造材をそのまま見えますが、豪壮な造りになっています。

三条実美たち七卿が、一旦長州へ下り再起をきすことを決めた場所が宸殿です。

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その旧宸殿は、明治5年に撤去され、現在の宸殿は明治31年に再現されたものです。

宸殿に掲示されていた説明板では、8月18日の夕方、長州藩士寺島忠三郎らが使者となって、妙法院の寺侍山田筑後守成就と会見し、七卿たちが妙法院へ来ることが知らされたそうです。

妙法院での大評定は、長州藩士たち2600人に守られて始まりました。そして、長州落ちが決定し、19日早朝雨の中出発したそうです。

なお、当時の門跡は稠宮(さわのみや;のちの有栖川宮威仁親王)だったそうです。
 なお、妙法院の内部は写真撮影禁止です。上の寝殿の写真は、妙法院のお許しを得て、パンフレットから転載したものです。



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# by wheatbaku | 2017-04-21 10:20 | Trackback
「獏塾ゼミ」を開催しました。

昨日、江戸検勉強グループ『獏塾』主催の『獏塾ゼミ』が開催されました。

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『江戸博覧強記』の大切さはわかるが、それを勉強をするのが大変だという声が強いので、今回からは、3回連続で『江戸博覧強記』を勉強することとして、昨日は、その第一回でした。


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 ゼミの講師は、一昨年一級に合格している信州健児さんがやってくれました。

 信州健児さんは、事前に重要語句集を配布してくれていて、それを事前勉強してくるようになっていました。

 講義は、『江戸博覧強記』のなかで、過去に出題された項目を中心に解説がされました。

 ご自分では記憶をするのに苦労したとのことで、その経験をもとに絵や図を利用した説明でわかりやすい説明でした。

  


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 講義のあとは、『江戸博覧強記』からの模擬試験のです

 出題者は浜之無学さんです。

 浜之無学さんは、模擬試験のプロで、数多くの模擬試験を出題してくれていますが、今回もしっかり30問出題してくれました。

 講義で説明のない部分からの出題もありましたので、皆さんにとっては難しい問題もあったのではないでしょうか。

 ちなみ、私は25問正解だったので、ちょっと不満足でした。

 講義の後は、昨年の一級合格者お二人の合格体験談の発表がありました。

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 蝦夷っ子さんは、分析力がすごく、多くの分析資料を作成して江戸検に臨んでいます。

 昨日は、その一端をみせてくれました。

 その資料はすごいものでした。
 それと、受かろうとする真剣さも大事だという話も図書館で勉強している受験生の例をひいて説明してくれました。

 

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 もう一人は浜之無学さんでした。

 浜之無学さんは、前述のごとく、受検生の段階から、模擬試験を出題してくれていましたが、その模擬試験を作成する過程ですごく勉強できたと語ってくれました。

そして模擬試験の作成方法も話してくれました。

また、仲間と勉強していたことが良かったとも話してくれました。

二人のあまりの努力ぶりに、みんな圧倒されていました。

最初は、ハード派の二人でしたの、みんなびっくりしていました。

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ゼミの後は、大事な酒を呑みながらの情報交換会です。

 今回も30人程が参加してくれました。

 今回は、今年の江戸検に臨む抱負も肩ってもらいました。

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 「今年こそは合格しようと思っていて朝4時におきて勉強している」という人がいる一方で「いやいやまだだから」とか「合格体験談を聞いてしょげ返りました」といった話もありました。

しかし、全員の江戸検に対する熱意が感じられ情報交換会も盛り上がりました。

あいかわらず楽しそうなみんなの顔の写真を2枚アップしておきます。

今回からは塾生の手作りのゼミというスタイルの形にしましたが、準備段階から講師の信州健児さんや浜之無学さんも熱心でしたし、当日もみんなが積極的に協力をしてくれたので、そうして面でも一体感がましたように思います。

 講師の信州健児さん、浜之無学さん、合格体験を話してくれた蝦夷っ子さん、浜之無学さん、お疲れ様でした。

 そして、ご参加いただいた皆さん、ありがとうございました。



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# by wheatbaku | 2017-04-17 14:46 | Trackback
八月十八日の政変③(『幕末』)

今日は、八月十八日の政変の3回目ですが、八月十八日の政変の当日の動きを書いていきます。

八月十八日の政変について、いろいろ本で調べましたが、『京都守護職日誌』(菊地明編、新人物往来社刊)が一番詳しそうなので、それを中心に、18日の動きを書いていきます。

8月16日に、中川宮が参内し、孝明天皇に言上しますが、この時、孝明天皇は同意しませんでした。

しかし、その夜、孝明天皇から密使が遣わされ、政変も致し方ないので、会津藩に申付けるようにとの旨が届けられ、中川宮から松平容保に伝えらえます。

翌日17日深夜遅く(11時30分頃)、中川宮が御所に参内します。

そして、二条斉敬(なりゆき)右大臣、近衛忠煕前関白、徳大寺実則(さねつね)内大臣、近衛忠煕左大将、さらに松平容保に参内するよう11時50分頃に通知が発せられます。

 松平容保は兵を率いてすぐに参内します。

 この時、京都所司代(稲葉正邦)も参内したようです。

その直後に、米沢藩上杉弾正大弼、岡山藩松平備前守等へ兵があるものは兵を率いて即時参内するよう命令が出て、諸藩主は続々と参内します。

 会津藩は多数の軍勢を保持していましたので、その兵力と薩摩藩の兵を合せて、御所の各門が閉じられました。

 全ての門が閉じられた後、8月18日の夜明けに合図の砲声が会津藩の準備していた大砲から響きました。

会津藩と薩摩藩により御所の警備が行なわれている中で、参内した諸大名に対して「大和行幸」の延期(実際には中止)が発表されました。

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また、三条実美ら長州系公卿の参内・外出・他人との面会禁止の勅命が発せられました。さらに、国事参政・寄人を廃止し、長州藩の堺町門警備(右写真)も解かれました。


政変に気が付いた長州藩士たちは、堺町門に駆けつけ押し問答となりましたが、警備罷免の勅命が出されていたため、一旦、長州藩邸に集まりました。

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その後、長州藩邸に駆けつけた東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)らとともに、長州藩士は、関白鷹司忠熙の邸に移りました。

関白鷹司忠熙は、お召があって参内し、その後、鷹司邸に、三条実美と沢宣嘉が合流し、長州系公卿7名が揃いました。

鷹司邸に長州藩士と公卿が集まっているとの情報が御所に伝わり、三条実美等に解散の命令が出されました。

これにより、ついに七卿と長州藩は退去することを決め、妙法院へ入りました。妙法院は、2月の文化財特別公開で、拝観してきましたので、次回は、妙法院について紹介します。

この八月十八日の政変の時に、新選組も会津藩の命令を受けて御所に出動しています。夜明けの頃に出動しました。

『島田魁日記』には「8月18日、長州人引揚の節、当組南門を守る。その節、伝奏より新選組の隊名下さる」と書いてありますが、『京都守護職日誌』の解説では、「現実に彼らが新選組と称したのは後日のことであり、その節の功によりと解釈すべきである」と書いてあります。これによると、新選組と名のるのは、八月十八日の政変当日ではなく、その後(日は特定できず)のことのようです。

 


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# by wheatbaku | 2017-04-12 09:20 | 『幕末』 | Trackback
八月十八日の政変②(『幕末』)

八月十八日の政変の2回目です。

八月十八日の政変は、前回書いたように、薩摩藩が会津藩に働きかけて、事がスタートしました。

薩摩藩から働きかけられた会津藩がどう動いたのかがわかる本があります。

 それが『京都守護職始末』ですc0187004_00003832.jpg

 今日は、『京都守護職始末』に基づいて、八月十八日の政変の直前の状況を書いていきます。

 8月13日、薩摩藩士の高崎佐太郎(後の正風)が。会津藩の秋月悌次郎の住居を訪れ

「近来叡旨として発表せられたものの多くは偽勅で、奸臣どもの所為から出たことは、兄らも知るところのごとくである。聖上もこのことを御気づかれ、しばしば中川宮に謀り賜うても、兵力をもった武臣で君側を清める任に当るものがないことを嘆いていられると聞く。わか輩、これをきいて、袖手傍観しているにしのびない。思ふに、この任に当れるのは会津と薩摩の二藩のほかにはない。願わくば、ともに当路の奸臣を除いて、叡慮を安じたいものである」 と語りました。

「その意気昂然たるものがあった」と書いてありますから、高崎佐太郎の語る勢いは非常に盛んだったようです。

秋月悌次郎たちも、その気持はもともと持っていましたが、藩主松平容保の了解もえずに勝手に協力を承諾するわけにいかないので、すぐに会津藩本陣のある黒谷に急いで、そのことを松平容保に報告しました。

 松平容保も同じ考えなので、薩摩藩と提携し尊攘派を排除する計画を準備することを許し、まず秋月悌次郎と高崎佐太郎に中川宮をたずねさせて、事の経緯を説明させました。

すると中川宮は大変喜んで、自分の身をなげうって孝明天皇が安心するようにしようと約束してくれました。

c0187004_23311147.jpg これほどの大事を決行するには、さらに、同じ考えの人の協力をえる必要があるので、天皇の信任が深い近衛前関白親子(近衛忠煕前関白と近衛忠房)と二条斉敬右大臣の賛同が必要なので、薩藩藩が近衛親子を説得することを約束し、二条右大臣の方を会津藩が説得することに手はずをきめました。

 会津藩では、大野重英を二条邸につかわしいろいろ説得した結果、二条右大臣も賛同しました。そして、近衛親子は薩摩藩が説得し賛同を得ました。

 こうした宮中工作の一方で、会津藩は軍勢の準備も怠りなくおこないました。

 会津藩の在京部隊は1千人規模でした。そして、8月はちょうど会津藩の在京部隊の交代時期にあたっていました。

 そこで、京都勤務が終わり帰国途上の部隊を引き留めることにより、在京部隊の数を通常の2倍の2千名にしようとしました。

 そこで、8月13日に大和行幸の警備強化を名目として、帰国途中の会津藩兵を呼び戻したのでした。

ちょうど8月12日に新選組の芹沢鴨が大和屋を焼討していて政情が騒然としていたので、この命令が本当はクーデターのための召喚命令だと気が付く人はいなかったようです。

この召喚により武力が2倍となりクーデターの実施が容易になりました。

 このことについても『京都守護職始末』に書かれています。

わが公の上京以来、旗下の守衛兵(藩ではこれを本隊と言っている)半数のほか、薄制で一陣を在府常備の兵員と決めてあった。一陣の将は、家老がこれに当って、陣将と称んでいるが、一陣は四隊が集まったものである。各隊にはそれぞれ隊長があって、それを番頭とよぶ。毎年八月を交代の時期とし、会津からくる新しい一陣は、八日に京師に着く。国へかえる一陣は、十一日に京師を出発する。

 親征の勅が下ったので、使いを走らせて、帰りはじめたものを途中から呼び返したので、その兵が京師に着くと、わが兵は二陣、すなわち八隊という多数になる。

「天皇の側近の協力も得られた」「軍勢も揃えた」「さぁ、いよいよ、クーデターの実行だ」となります。

8月17日の夜に中川宮が動いてクーデターが始まります。それについては次回書きます。





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# by wheatbaku | 2017-04-10 07:50 | 『幕末』 | Trackback
八月十八日の政変①(『幕末』)

月十八日の政変について今日から2回に亘って書きます。

今日は、「月十八日の政変」の直前の状況について書きます。


姉小路公知が暗殺された翌日、御所の御門九門の警備が強化されました。

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その主なな門の警備担当は次のようでした。
 乾門-薩摩藩(右写真)、堺町門―長州(右下写真)、蛤門―水戸

しかし、姉小路公知暗殺の容疑者として「人斬り・田中新兵衛」が逮捕されたことから、薩摩藩の関与が疑われました。

そのため,日には薩摩藩は乾門の警備の任を解かれてしまい、京都における薩摩藩の信頼も失墜してしまいました。


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 一方、尊王攘夷派は、68日に、尊攘派の長老である真木和泉が久留米から上洛したことから、非常にその動きを活発化させました。

 そして、孝明天皇の大和行幸を計画しました。これは表向きは、神武天皇陵と春日大社を参拝し攘夷祈願をするという名目ですが、実は、これを機に倒幕親征の軍を起そうという目論見もあったようです。

 そして、8月12日に、ついに大和行幸を実施することが決定されました。

 さて、これ以降が八月十八日の政変に直接関係する部分です。

前述したような尊王攘夷派の横暴を黙認できないと考えた薩摩藩が、姉小路公知の暗殺により失った地位の挽回を狙って会津藩に提携を申込みました。そして、会津藩は早速松平容保に報告し、その同意を得て、薩摩藩との提携に合意をしました。

 これにより、尊王攘夷派の追い落としの中心勢力が揃いました。そして、宮中の公武合体派の中心人物中川宮を巻き込んで賛同を得、孝明天皇に建言します。孝明天皇はこの計画に同意し、政変が実行されました。

 これが、いままでの私の認識でした。

つまり、八月十八日の政変は、薩摩藩が計画し会津藩に呼びかけ、それから孝明天皇の同意を得て実行されたというものです。

 しかし、実は、八月十八日の政変は、孝明天皇その人が願っていたもののようです。
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 例えば、岩波新書「幕末・維新」(井上勝生著)P119には次のように書かれています。

平公家を加えた激派が朝廷の実権をにぎり、天皇の権威を踏みにじる勢いになっていた。

天皇は、「下威、盛んに、中途の執り計りのみにて、偽勅の申し立て」があると、薩摩藩の島津久光に訴え、「有名無実の在位」、「悲嘆至極」と激怒していた。朝廷の秩序を乱した激派が天皇の逆鱗にふれたのである。天皇が、激派追放(「姦人掃除」)を要請する「内勅」を、久光に密かに送るのは五月末のことであった。(中略)薩摩藩は上京の要請は受けなかったが、京都藩邸で激派追放の計画を用意した。計画は、政変の五日前、京都守護職に任じていた会津藩に伝えられてから、急速に具体化する。

読んでお分かりになると思いますが、孝明天皇が、三条実美らを排除したいと考え島津久光に働きかけていたということから政変が計画されたということです。

 

 この孝明天皇から島津久光に手紙が届いてから政変にいたる事情について、中公新書『幕末史』(佐々木克著)は詳しく書いていますので、それを要約します。

詳しく知りたい方は『幕末史』P108以降をお読みください。

 5月末日に書かれた、久光に宛てた天皇の手紙には、「朕が望む攘夷はおこなわれず、偽勅さえ出され、悲嘆の極みだ。朕と真実合体して『姦人を掃除』するために、急いで上京してほしい」と記されていました。この手紙のなかの『姦人』とは三条実美などの攘夷強硬論者たちです。

 しかし、島津久光は、朝廷内外に協力者がいなければ、自分一人の力では、何事もできないという考えから上京しませんでした。

また、イギリス艦隊が鹿児島に向かうとの情報も届いて上京する余裕などなかったという切迫した状況にあったという事情もありました。

 久光が上京を控えている中で、あまりにも尊攘強硬論者の横暴がひどいことから、鷹司関白と議奏の三条実美、広幡忠礼、長谷信篤、徳大寺実則に「自分も退位するから、その方も辞職せよ]と天皇の言葉が書面で伝えられました。この天皇の怒ゲの言葉は、すぐに外部にも広がった。薩摩藩邸の村山斉助が薩摩に下り、7月末には久光はじめ薩摩の首脳部に、天皇の激怒したことが伝えられたため、ここでついに薩摩首脳部は、天皇が求める「姦人掃除」に動くことを決断しました。

島津久光と薩摩藩首脳部の指示をうけた村山斉助が、京都に帰着したのが、813日の午前中(あるいは十二日の夜。)たったようです。

13日のうちに、京都の薩摩藩邸の高崎左太郎が会津藩士秋月悌次郎に、久光の指示を丁寧に告げて相談しました。秋月は、ただちに藩主松平容保に高崎の話を伝えたところ、容保は中川宮朝彦親王が同意なら協力しようといったそうです。

 高崎佐太郎が中川宮朝彦親王に話したところ、親王も積極的でした。

16日に、中川宮が参内して孝明天皇に計画の詳細を告げようとしたが、天皇に面会できる時間が十分にはなかったため概略の話だけして退出しました。

その日の夜、天皇から政変の実行を決断した旨の手紙が届きました。

17日は、二条斉敬、徳大寺公純、近衛忠熙も同意しました。

こうして、818日を迎えることになります。18日の動きについては次回書きます。


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# by wheatbaku | 2017-04-07 15:07 | Trackback
姉小路公知暗殺(『幕末』)

姉小路公知暗殺


 今日からは、八月十八日の変から禁門の変までを中心に書いていきます。

 今日は、姉小路公知の暗殺事件から書いていきます。

文久3年5月20日の夜、尊王攘夷を唱える過激派公家として知られた姉小路公知が暗殺されました。


 暗殺された場所から、朔平門外の変とも猿ヶ辻の変とも呼ばれています。
 朔平門は京都御所の北側にある門です。(右下写真)

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 姉小路公知は、三条実美とともに、当時の朝廷を牛耳った公卿で、尊王攘夷派の代表格でした。

二人とも小柄ですが、三条実美は色白で柔弱なタイプであるのに、姉小路公知の方は対照的に色黒で精悍だったため、三条実美は白小豆、姉小路公知が赤小豆と言われていたようです。

 

 平凡社東洋文庫『京都守護職始末』には次のように書かれています。

姉小路少将は少壮で、頭がよく、弁舌か立ち、学習院に出る堂上は数人あったが、彼におよぶものは少なかった。集・てくる浮浪の徒も多く。三条実美卿に次いで、名声曖々としていた

また、『京都守護職始末』には襲撃の様子は次のように書いてあります。

5月20日の夜、御所の宣秋門を出て、御所の北側にある朔平門外にさしかかったところ、突然三人の賊があらわれて、姉小路公知を刺した。

 そして、襲った賊は刀と下駄をのこして去ったが、その刀をしらべると、薩摩の鍛冶がきたえたものであり、刀装も薩摩藩士が多く佩用するもので、柄頭(つかがしら)に藤原の二字と、縁(ふち)に鎮英の一に子が金で嵌め込んであった。下駄もまた、薩摩藩士が好んではくものであった。

 探索した結果、薩摩藩の田中新兵衛が容疑者として逮捕されました。
 田中新兵衛は薩摩藩士。もともとは船頭の子ともいわれています。安政の大獄に協力した島田左近を暗殺したとも言われる俗に「人斬り」と呼ばれる一人です。

 その田中新兵衛は町奉行所で、尋問中に自刃してしまいました。

 その様子は、『京都守護職日誌(第一巻)』では、次のように書かれています。

奉行所では田中新兵衛を尋問するにあたって、定法どおりに刀を預かろうとしたが拒絶され、なおも役人が申し入れると、脇差を抜いて自刃してしまった

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 田中新兵衛はどうして自刃したのかについては二つの説があるようです。

 田中新兵衛が持っていた刀が現場に残されていたことが決定的な証拠となるので、それを突き付けられて覚悟の死を遂げたという解釈もなりたちます。

その一方で、明治になってからなの史談会における田中新兵衛は刀を盗まれたと言っていたという証言もあるので、田中新兵衛は刀を盗まれたことを恥じて自刃したということも考えれらるようです。
 しかし、田中新兵衛が自刃してしまったので、姉小路公知暗殺の真犯人は結果的にわかりませんでした。

ところで、尊攘激派の姉小路公知が暗殺されたことについて、『京都守護職日誌(第一巻)』に、束久世通禧は明治28年に史談会の席でが次のように語った書いてあります。

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 将軍が軍艦で巡見すると云ふことで、姉小路少将は大樹(将軍)に随従して和田岬の方に検分に参ったのであります。其時勝麟太郎、今の勝安芳氏は無謀の攘夷は出来ぬと云ふ事で、姉小路に説いたと見えて、其の時帰って来てから鋭峰が挫けた都合で、轟武兵衛な   り武市半平太などは、姉小路様は幕府に寵絡されたとか云ひましたが、(中略)其れから鋭鋒が鈍った。

これによると、姉小路公知は、勝海舟の説得により、攘夷論の舌鋒が鈍ったので、武市瑞山たちは幕府に籠絡されたと怒っていたということのようです。

こうしたことから、姉小路公知が開国論に転向したと疑われたので襲撃されたのだという説もあると『京都守護職日誌(第一巻)』に書かれています。

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姉小路公知が襲われたところは、猿が辻とも言われています。

猿が辻は、京都御所の東北部分にあります。

京都御所の東北角は鬼門とされ、鬼門除けのため、築地塀の角が欠かれています。(右2段目。3段目の写真参照)
 そして欠いた部分に日吉山王社の神のお使いの猿を祀られています。

この猿が夜な夜なぬけだしては通行人にいたずらするため、金網で封じ込めたと伝えられています。


なかなか写真にとりにくいのですが、猿がいるのがわかりますでしょうか。


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暗殺された姉小路公知のお墓は、京都御所の東にある清浄華院にあります。

 清浄華院は、知恩院や知恩寺、金戒光明寺とならぶ浄土宗京都四カ本山の一つとして、長い歴史と格式を誇っています





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# by wheatbaku | 2017-04-05 22:29 | 『幕末』 | Trackback
第2回「幕末・維新 これは覚えてね!」模試正解

第2回「幕末・維新 これは覚えてね!」模試正解

 土曜日に出題した模擬試験の正解を発表します。

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 今回は、文久3年に起きた出来事についての問題を出題しました。

 文久3年は、新選組の結成・下関砲撃事件・薩英戦争があり、とくに八月十八日の政変により幕末政局が大きく変わった重要な年ですので、しっかり勉強してください。

 なお、幕末について苦手な人は、読みやすい『幕末・明治維新』(西東社刊)と『幕末・維新』(新星出版社刊)を参考にするとよいと思います。


1②新選組は、壬生浪士組時代から局長の近藤勇が統率していた。


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新選組は、浪士組の一部が京都に残留し結成され、会津藩が預かることになり、壬生浪士組と呼ばれました。

当初は、芹沢鴨と近藤勇が局長として隊を統率しました。(新見錦も局長とする説もあります)ので、選択肢②は間違っています。

また、新選組を名のったのは、八月十八日の変の後からです。

そして、隊旗の「誠」が「言」と「成」からなっているということは『江戸時代年表』(山本博文監修)P243に書いてあります。


2②下鴨神社と上加茂神社 

 上洛した将軍家茂が孝明天皇に供奉して下鴨・上加茂神社で攘夷祈願をしたことは 基礎的参考図書の『幕末・明治維新』(西東社刊)と『幕末・維新』(新星出版社刊)には書いてありませんでしたが、重要なことですので、覚えてほしと思い出題しました。

 文久3年3月4日に上洛して二条城に入った家茂は、3月11日、下鴨神社と上加茂神社に攘夷祈願のための行幸へ供奉しました。

「幕末史」(佐々木克)のP96,97、「開国と攘夷」(小西四郎)P298などを参照してください。

 なお、孝明天皇は、攘夷祈願のため石清水八幡にも参拝していますが、この時、家茂は体調不良を理由に供奉しませんでした。(「開国と攘夷」(小西四郎)P298参照)

 

3①往きは東海道、帰りは海路 

  家茂が上洛するルートとしては、当初は幕府軍艦に乗っていく海路が予定されていましたが、生麦事件の賠償問題が緊迫したため、東海道をとることになりました(「開国と攘夷」(小西四郎)P296参照)。そして2月13日に江戸を出発し2月4日二条城に入りました。

短期間で江戸に帰る予定でしたが、尊王攘夷派の妨害もあり江戸帰城が大幅に遅れました。

家茂が京都を離れたのは6月9日であり、大坂に下り軍艦に乗り6月16日江戸に帰ってきました。「開国と攘夷」(小西四郎)P301を参照してください。

4 ④白石正一郎 

 奇兵隊は、基礎的な用語ですので、よく御存じだと思います。高杉晋作の提唱により、結成されますが、資金援助するなど白石正一郎が支援しています。

 白石正一郎は下関の豪商で、尊王攘夷の考えをもち、高杉晋作、平野国臣、真木和泉などとの交流もありました。

 奇兵隊の結成は問題文の通り白石正一郎の屋敷で行なわれ、白石正一郎自身も奇兵隊に入隊しています。(「江戸時代人名控1000」参照)

 また、『幕末・維新』(井上勝生著)P96、『幕末史』(半藤一利著)P170も参照してください。

5③イギリスの軍艦には、最新鋭のアームストロング砲も積んでいたので、被害はほとんどなかった。

 薩英戦争は、生麦事件の賠償と犯人の処罰を要求するイギリスに対して、薩摩側が満足する回答を拒否したため、砲撃が開始されました。ちょうど台風の中で砲撃が始まったこととイギリス側の油断もあって、イギリス艦隊の旗艦ユーリアス号は薩摩藩の砲撃をうけ、艦長ジョスリング大佐と副長ウィルモット中佐が即死するなど死傷者60人余りの被害を受けました。『幕末・明治維新』(西東社刊)P96を参照してください。

 アーネスト・サトウは日本着任早々に遭遇した事件でしたが、「ニール大佐(*)から私に至るまで公使館の全員が軍艦に乗りこむことに決まり、(中略)私はアーガス号に搭乗した」と『一外交官の見た明治維新』(岩波新書)P105に書いています。

(*ニール大佐とはイギリスの代理公使ニールのこと)

6④天誅組

天誅組の変も基礎的用語ですので、覚えておいてください。

天誅組は、孝明天皇の大和行幸を機に倒幕をはかるために結成された尊攘派の組織です。817日に五条の代官所を襲撃しますが、八月十八日の政変が起き、孤立無援となり、諸藩の軍勢に鎮圧されました。中山忠光は中山忠能の七男です。姉の中山慶子(よしこ)は明治天皇の生母です。

(『幕末・明治維新』(西東社刊)P104、『幕末・維新』(新星出版社刊)P84参照)

7②生野の変  

生野の変は、天誅組の変に呼応して但馬で起きた事件で、これも基礎的な用語です。平野国臣は長州に下り、沢宣嘉を説得し主将に迎えました。この時に、長州藩の奇兵隊士たちも同行しました。

生野で農兵を募集した後、生野代官所を襲撃しましたが、諸藩の攻撃をうけ、壊滅しました。

(『幕末・明治維新』(西東社刊)P104や『幕末・維新』(新星出版社刊)P84参照)

8③薩摩藩  

八月十八日の政変は幕末の中で重大事件ですので、この政変がどういうもので、どのように起き、どのような結果となったかは、よく勉強しておいてください。

文久2年前半、朝廷を牛耳っていた長州藩を中心とした尊攘過激派の暴走に危機感を頂いたのは薩摩藩でした。そこで、薩摩藩の高崎佐太郎が会津藩の秋月悌次郎に提携の話を持ちかけました。秋月から報告を受けた松平容保も同意し薩摩藩と会津藩の提携がなりました。さらに両藩は中川宮に働きかけ中川宮の賛成を得て8月18日の政変が成功することになりました。

『幕末・明治維新』(西東社刊)P102、『幕末・維新』(新星出版社刊)P82を読んでください。

なお、八月十八日の政変は、過激な尊王攘夷派を嫌っていた孝明天皇の意思を薩摩藩が報じて行動したとも書いてある本もあります。『幕末・維新』(井上勝生著)P119、「幕末史」(佐々木克)のP108以降を参照してください。

9、 ②妙法院  

これは3月に私のブログに書きましたので、多くの方がわかったと思います。

妙法院は、京都国立博物館の東側にある天台宗三大門跡の一つに数えられる由緒あるお寺です。七卿と長州藩兵は八月十八日の政変後、妙法院に集まり協議した結果、長州にくだることを決定しました。

(『幕末・明治維新』(西東社刊)P103参照)

「幕末史」(佐々木克)のP120、「開国と攘夷」(小西四郎)P337なども参照してください。

10①参予  

 「参予会議」については、基礎的参考図書の『幕末・明治維新』(西東社刊)や『幕末・維新』(新星出版社刊)にも全く触れられていませんし、少し勉強した人も見落としがちなテーマですので、この問題は、少し難しかったかもしれません。

従来、朝廷の会議は公卿だけがメンバーで武家は参加していませんでした。そこで、朝議に武家が参加できるように松平春嶽が交渉し許可されたのが、「参予」です。

1230日に参予に任じられたのが、問題文に載せた5人ですが、翌年113日には島津久光が任じられました。

『幕末・維新』(井上勝生著)P122や「幕末史」(佐々木克著)のP135を参照してください。



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# by wheatbaku | 2017-04-03 09:04 | 『幕末』 | Trackback
第2回「幕末・維新 これは覚えてね!」模擬試験

第2回「幕末・維新 これは覚えてね!」模擬試験

新選組に関する記事は、前回でとりあえず一区切りをつけて、今日は第2回「幕末・維新 これは覚えてね!」模擬試験問題をアップします。

第2回は、文久3年に起きた出来事に関する模擬試験を出題します。

新選組結成は文久3年ですので、いよいよ試験範囲からの出題です。

正解は、来週初めにアップします。

1、新選組は浪士組の一員として上洛した人たちのうち、京に残留すると主張した人たちで発足しました。それでは新選組について書いた文で間違っているものはどれでしょう?

①新選組は、発足当初は壬生浪士組と呼ばれ、新選組を名のったのは8月18日の政変の後からである。  

②新選組は、壬生浪士組時代から局長近藤勇が統率していた。

③新選組を預ったのは会津藩であった。

④隊旗の「誠」は「言」と「成」からなっていて言行一致を意味した。

2、将軍家茂が孝明天皇に供奉して参拝した神社はどこでしょう? 

①下鴨神社  

②下鴨神社と上加茂神社 

③下鴨神社と上加茂神社と石清水八幡宮

④下鴨神社と上加茂神社と石清水八幡宮と春日大社

3、将軍家茂は、3代将軍家光以来229年ぶりに上洛しました。

それでは、家茂の江戸京都間の往復経路で正しいものは次のうちのどれでしょう?

①往きは東海道、帰りは海路  ②往きは東海道、帰りも東海道 

③往きは海路、帰りも海路   ④往きは海路、帰りは東海道

4、長州は、5月10日に下関海峡を通過したアメリカ商船を砲撃したのを皮切りに、フランス軍艦、オランダ軍艦と砲撃しました。これに対してフランスは軍艦を派遣し、砲台を破壊しました。この時の戦いで藩兵はあまり役に立たなかったことから、長州藩では高杉晋作が奇兵隊を創設しました。この奇兵隊に対して多大な支援をした下関の豪商の名前をなんというでしょう?この豪商宅で奇兵隊が創設されました。

①銭屋五兵衛  ②小野善助  ③中居屋重兵衛  ④白石正一郎 

5、薩英戦争について書いた次の文で間違えったことが書かれているのはどれでしょう?

①イギリス艦隊には、通訳のアーネスト・サトウも同乗していた。

②イギリス艦隊からの砲撃により、薩摩藩が誇る集成館も大きな被害をうけた。

③イギリスの軍艦には、最新鋭のアームストロング砲も積んでいたので、被害はほとんどなかった。

④戦争が開始した時の天候は嵐であった。

6、土佐の吉村寅太郎たちが公卿中山忠光を擁して大和に挙兵した尊攘派のグループをなんというでしょう?

この時に盟主に担がれた中山忠光は明治天皇の叔父にあたる人です。

 ①新選組  ②新徴組  ③見廻組  ④天誅組

7、七卿落ちの一人沢宣嘉を擁して平野国臣らの尊攘派が挙兵して代官所を占拠した事件はなんというでしょう?

この事件には9名の長州の奇兵隊士も参加しています。

 ①禁門の変  ②生野の変  ③天狗党の乱  ④功山寺挙兵

8、八月十八日の政変は、急進的な尊攘派公卿と長州藩が権力を失ったクーデターですが、この政変で中心になったのは会津藩ですが、この会津藩にクーデターの実施を提案した藩は次のうちどれしょう?

①長州藩  ②水戸藩  ③薩摩藩  ④尾張藩

9、8月18日の政変によって、三条実美ら長州藩寄りの7人の公卿も朝廷から追放され、雨の中、京都を去って行きました。これがいわゆる「七卿落ち」です。それでは、この時に追放された公卿が長州に下ることを決めた寺院はどこでしょう?

①知恩院  ②妙法院  ③智積院  ④三十三間堂

10、文久3年12月30日に、公武合体派の一橋慶喜・松平容保・松平春嶽・山内豊信・伊達宗城の諸侯が朝廷から任じられた役職は次のうちどれでしょう? 

①参予  ②参議  ③議定  ④国事御用掛


以 上


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# by wheatbaku | 2017-03-31 09:48 | 『幕末』 | Trackback
池田屋事件(「幕末」)

 今日は、有名な「池田屋事件」について書きます。

 池田屋事件は有名なわりには、インターネットには、詳しく書かれたものが少なくて、少し驚きました。そこで、池田屋事件について少し詳しく書いてみます。

池田屋事件は、新選組の名前を一気に高めた事件であるとともに新選組が最も華々しく輝いた事件でもあったと思います。また、この事件に憤激した長州藩兵が上京し禁門の変が起きていることから政治史の上でも非常に重要な事件です。

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 まず、事件の起きた「池田屋」は、三条小橋の西側にあります。 三条小橋は、三条大橋の西側にあり高瀬川に架かる橋です。

その三条小橋から20~30メートル程西に行った所に「池田屋騒動之址」と刻まれた石碑があります。

 これが池田屋の跡です。ちなみに、池田屋事件は池田屋騒動とも呼ばれます。

池田屋は、当時、旅籠をやっていました。長州藩の定宿だったという説もあります。

 『血録 新選組』によれば、高瀬川から西に向かって通りの北側に「亀屋」「中屋」があり、次いで「池田屋」がありました。さらに南側にも旅籠が並んでいて、池田屋の間口は3件半(6.9m)という入口の狭い旅籠でした。

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 現在は、石碑がある場所で居酒屋チェーン「はなの舞」が「池田屋 はなの舞」という名前で商売をしています。右写真をご覧ください。

 2月末から3月にかけての京都旅行で、「はなの舞」に入りランチ「土方歳三」を食べてきました。

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 料理は、「はなの舞」のどの店舗にでもあるごく普通のメニューでした。
 しかし、店内の装飾は、やはり池田屋事件を意識したものでした。(右下写真)

 

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 この池田屋で、元治元年65日に新撰組が尊皇攘夷派の浪士を襲撃した事件が『池田屋事件」です。

 文久3年8月、会津藩と薩摩藩による宮中クーデターである八月十八日の政変により、尊王攘夷派の公卿や長州藩は失脚し、朝廷では公武合体派が主流となっていました。

 尊王攘夷派は勢力挽回の機会をうかがっていました。これを阻止すべく新撰組は市中警戒を強めていていました。

月5日、新撰組は、四条小橋西側で薪炭商を営む枡屋に踏み込み、主人喜右衛門を逮捕します。

 喜右衛門の本名は古高俊太郎(ふるたかしゅんたろう)といいました。

古高俊太郎は、近江国栗太郡古高村で生まれ、枡屋を営む湯浅喜右衛門の養子となり、枡屋(湯浅)喜右衛門を継承しました。 
「池田屋事件の研究』(中村武生著)によると枡屋は福岡藩黒田家の御用達で、古高は7代目にあたるそうです。また、古高が逮捕されたのは、8月18日の政変以降疎遠になりつつあった親長州派の有栖川宮と毛利家を結ぶエージェントの役割をはたしていたことが重要だろうと書いてあります。

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 四条通りの一本北側の小路に、古高俊太郎寓居之跡の碑がありました。これが枡屋のあった場所です。

「しる幸」というお店の玄関脇にありました。(左写真)

 枡屋喜右衛門を壬生の屯所に連行し、厳しく追及しました。しかし、名前が「古高俊太郎」とだけ白状しました。

 しかし、それ以外は口をわりませんでした。そこで、土方歳三が拷問により古高を自白させました。

 土方歳三が行なった厳しい拷問は、古高俊太郎を縛り上げ梁に逆さに吊るし足の裏に五寸釘を打ち込み、火をつけた百目蝋燭から蝋を流すという拷問だったと永倉新八の「新選組始末記」にかかれています。

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 新選組が古高俊太郎を拷問したのは前川邸の土蔵といわれていて、その土蔵は現存しています。(右写真)

 古高俊太郎の自供した内容は、「祇園祭の前の風の強い日を狙って京都御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉し、一橋慶喜・松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ連れ去る」というものでした。

 驚いた近藤勇は、すぐに京都守護職、会津藩、京都所司代に連絡し、協議しました。

 その結果、新撰組と諸藩兵士で協同で探索をすることになり、八坂神社前の祇園会所で落ち合うことにしました。

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 会所というのは町役人の詰め所で、祇園会所は、八坂神社の石段下で現在の東大路と四条通りがT字形に交差している三叉路の南西部にありました。(右写真)

 決められた時刻になっても、会津藩は来ませんでした。

 この時期、新撰組の隊員の減少が続き、全員で40名程度だったといわれています。

 このうち池田屋事件に参加した隊員は34名であり、祇園会所にも34名が動員されたものと思われます。

 この人数では、市中探索を行うには、十分とはいえませんでしたが、事態は一刻を争うと見た局長の近藤勇は単独行動に踏み切りました。

 近藤隊と土方隊の二手に分け、土方隊は24名で鴨川東側を北上しつつ縄手通を探索することにし、近藤勇は、沖田総司、永倉新八・藤堂平助ら9名を率いて10名で鴨川西側の木屋町通りを北上しつつ捜索を開始しました。(『図解雑学新選組』(菊地明編)による)

 近藤隊は、木屋町通りを探索しつつ北上していきました。そして、午後10時半ごろに、池田屋にいたり、池田屋で謀議中の尊攘派志士を発見しました。

 

 池田屋で尊王攘夷派の志士たちが会合しているのに気がついたキッカケについては、いろいろな本にさまざまに書かれています。事前に情報があったとか、池田屋に長州藩の紋がある提灯が下げられていたからとか、夜遅い時間に灯りがもれていたからとか書かれています。

 近藤は、玄関先と裏側に数人づつ配置し、池田屋には、近藤勇は、沖田総司、永倉新八・藤堂平助らと踏み込みました。

池田屋に踏み込んだところ、池田屋の主人が2階に向かう階段付近で、2階にあわてて大声をかけました。

 近藤勇と沖田総司が、2階に駆け上がると、20数名の尊攘派志士がいたそうです。

 近藤たちと志士たちとの間で激しい戦いが始まりました。

 戦いの途中で、沖田総司は、結核のため戦えなくなり、戦線を離脱します。また藤堂平助も負傷しますが、新撰組は戦い続けます。

 戦っている途中、土方隊も到着し、戦いに参加し、新撰組は一気に優位にたちます。

 さらに、出動の遅れた会津藩の軍勢も到着し、周辺をかためました。

 2時間にわたる戦いにより、大勢の尊王攘夷の志士たちが殺されたり逮捕されました。

 正確な数はわかりませんが、近藤勇が養父近藤周斎にあてた手紙では、死者7名、負傷者4名、逮捕者23名と書かれています。

 死者の中には、肥後の宮部鼎蔵(みやべていぞう)、長州の吉田稔麿(よしだとしまろ)、土佐の北添佶麿(きたぞえよしまろ)・望月亀弥太らがいて、この事件により、倒幕が一年遅れたといわれるほどの大きな影響を与えました。

 この戦いに勝った、新撰組は、幕府から多くの恩賞が与えられました。

全員に一律十両が与えられさらに別段金が与えられ、別段金に差がありました。近藤勇には別段金20両、土方歳三は別段金13両でした。

また、新選組は一躍全国にその名を知られようになりました。



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# by wheatbaku | 2017-03-29 11:05 | 『幕末』 | Trackback
  

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